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2013年09月13日

『歌うネアンデルタール』スティーヴン・ミズン、熊谷淳子訳(早川書房) & 『言葉と脳と心』山鳥 重(講談社現代新書)


歌うネアンデルタール
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言葉と脳と心
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最近、気になっていることがある。言語と音楽の共通点だ。双方とも人類ならではのコミュニケーション手段だが、そこにはルールが存在する。言語には「単語」という部品があり、それらを組み合わせるための「文法」が存在する。西洋音楽にも普遍的な共通認識があり(たとえば長調の響きは明るく、短調は暗い、など)、それらを手立てに感情の起伏を表現することができる。これらは「似て非なるもの」なのだろうか。私としてはふたつの根っこは同じであり、それらの底辺にもっと原始的な共通項となる「動物的な感覚」があるような気がしてならないのだ。

そして見つけたのがこの2冊だ。『歌うネアンデルタール』は以前から気になっていた本だが、『言葉と脳と心』はこうした私の疑問を知った臨床医から紹介されたものである。

言語と音楽の共通点として私が注目しているのは「抑揚」だ。「アクセント」「強弱」と言い換えても良い。抑揚があってこそ「感情の移入」が可能になるのではないだろうか。ほんの数年前、パソコンにようやく文字データを読ませることができるようになった頃の無機質なしゃべりを思い出して欲しい。そこにはいかなる感情も反映されていなかった。それに対して最近のスマートフォンに搭載されているアプリの性能には目をみはる。非常に高度なコミュニケーション能力を有しており、その言葉には抑揚があり、機械相手に話しているとは思えない。

きっかけは「日本人の演奏はどうして無表情になりやすいのだろう」という、私が日常携わっている音楽教育現場での疑問だ。「日本人は奥ゆかしい民族だから」と言ってしまえばそれまでだが、それだけではなさそうだ。もちろん表情豊かな演奏を披露する日本人演奏家も多く輩出されるようになったが、それでも一般的には──たとえばイタリア人がしゃべるイタリア語と比較してみると──日本人の日本語による表現は控えめで、日本語を理解できない人にとってはかなり無愛想に響いているのではないだろうか。しゃべり言葉としての日本語は、そのように本来「抑揚が少ない=感情をこめにくい」言語のようなのだ。

その傾向はIDS(Infant-Directed Speech:乳幼児への発話)という、いわゆる「幼児語」にもあるらしい。著者ミズンの記述を要約すると、生後間もない乳児から3歳程度の幼児に対して大人たちが用いる独特な話しかけには言語の垣根を越えた共通性があるという。全般に高い声で発音され、音程の幅も広く、母音が強く、長く、そして休止も強調されるとともに、センテンスが短くて繰り返しが多い。この知見をもとにある研究者がフランス語、イタリア語、ドイツ語、日本語、英国英語、米国英語での傾向を調査したところ、日本語の話者のみで感情表出の度合いが低かったらしい。

私たちの母国語である日本語が、私たちの感情表現力に影響を与えているのだろうか? 「英語が下手で、通じない」という多くの日本人が悩む傾向の背後にも、同じ原因が潜んでいるのかも知れない。

脳梗塞などによって「失語症」となった患者の比較観察からは、人間が言葉を言葉として組み立てる際に行われる、非常に複雑で多岐にわたる脳の活動が見えてくる。それらの回路と音楽を楽しむ回路は同じなのだろうか。まだ単語や文法が成立していなかった頃、人類の祖先は歌うような声の抑揚によって何かを伝えようとしていたのだろうか。その答えはまだ見つかっていないが、「感情を表現する」ことに関し、いろいろと考えさせられる内容の本であった。

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