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2013年06月19日

『ジュリアードで実践している演奏者の必勝メンタルトレーニング』ドン・グリーン(那波桂子訳、辻秀一監訳、ヤマハミュージックメディア)

ジュリアードで実践している演奏者の必勝メンタルトレーニング →紀伊國屋ウェブストアで購入

演奏家をめざしつつも、メンタルの問題に悩んでいる人への福音となる本かも知れない。とは言うものの、この本に書かれていることを忠実に守りさえすれば、今抱えている問題への解決が提供されるノウハウ本ではないことは、あらかじめ知っておく必要があろう。

著者のドン・グリーンは「オーディションのための米国有数のコーチ」と紹介されている。もともとは軍出身のキャリアを持つエキスパートのようだが、メトロポリタンオペラ、ニューヨークフィル、シカゴリリックオペラ、セントルイス響といったトップレベルの音楽団体のみならず、ニューヨークにある音楽の名門校、ジュリアード音楽院での指導を担当しているとなると、音楽に関しても信頼できる知識と経験をもったコーチであるに違いない。しかし著者自身に演奏経験があるかどうかまでは、本書からはわからなかった。しかし──コーチとしては当然のことながら──演奏家が直面する状況やストレスの原因となる事象、また演奏中に陥りやすい心理状態に関しては演奏家以上に熟知しているように見受けられた。

原著を日本に紹介した監訳者の辻秀一は数年前に出版された『スラムダンク勝利学』(集英社)で一世を風靡したスポーツドクターだが、実は私のメンタルヘルスの師でもある。本書に紹介されているような個人指導は受けていないが、折に触れて講座を受講し、そのメソードと指導には信頼をおいている。開放的な話術で多くの人を魅了し、とりわけこの4月に上梓されたばかりの『自分を「ごきげん」にする方法』(サンマーク出版)は大きな反響を呼び、多くの書店で平積み販売されている大ヒット書籍である。

本書で紹介されているのは、アメリカで活動しているオペラ歌手のヴェロニカと、オーケストラのホルン奏者であるブライアンのケースだ。二人ともまだ若手のミュージシャンで、さらに上のランクの職場におけるポジションや役を得るためのオーディションを目指している。このあたりの状況は日本と少々異なるが、アメリカでは常に次の仕事やポジションを自力で獲得していかないと、早晩生活に行き詰まる。日本で盛んな「自分の成長に役立てるためのコンペティション参加」とは違って、こうしたオーディションにチャレンジし、合格することは演奏家としての死活問題なのだ。いきおいハードルも高く、プレッシャーも大きい。二人ともメンタル的には違ったマイナス要因を抱えており、ストレスがかかった際の反応も異なる。これらのケースに個別にアプローチし、各自が必要としていることを会話の中から見つけだし、問題点に対するアプローチ方法を相手にとって最適な表現で提案し、自発的な実践に導き、それによって生じた変化と結果を評価し、さらに次のステップへつなげていく──というメンタルトレーナーの手順と手腕がドキュメンタリー風に紹介されているのだ。

すでにお気づきのように、ここで紹介されている解決法は、ヴェロニカあるいはブライアンにとって有効な方法であって、読者がそうしたからといって同じ結果となるわけではない。この本を読むことによって得られる最大のメリットは「メンタルトレーニングとは、このように進展していくのだ」ということを知り、自分がそれを求めた時に、より大きな安心と信頼をもってコーチに対面できる、という点だろうか。

ヴェロニカとブライアンのドキュメンタリーは時系列に沿って紹介され、最後はハッピーエンドとなる。少々気になったのは文中に出てくる専門用語の扱いだ。「センタリング」「フォーカス・ポイント」「キュー・ワード」「プロセス・キュー」などなど、文体としてはスマートでお洒落に見えるものの、はじめてメンタルトレーニングの世界に触れる人はどのように感じるだろうか。すでにメンタルトレーニングの予備知識を持っている者にはその方がわかりやすいかも知れないが、私自身も少々とまどってしまうことがあった。もちろん本書を読み込んでいけば理解できるし、ぴったりな日本語が存在しないこともわかるが、安易に原語をそのまま流用せずにもうひとひねりする工夫があれば、さらに親しみやすい本に仕上がったかも知れない。前述の『自分を「ごきげん」にする方法』が爆発的にヒットしたのも、メンタルトレーニング用語である「フロー」を「ご機嫌」、「ノンフロー」を「不機嫌」と表現したところに多くの人々の支持と共感が集まったものとも考えられる。

いずれにせよ、メンタルトレーニングの個人指導が本場アメリカでどのように行われているかを詳細に追体験できる、貴重な本である。こうした、それなりの費用もかかるトレーニングを自分に受け入れる準備があるか、そしてトレーニングによって果たして自分が変われるかどうかに思いを馳せるに当たって、恰好で貴重な題材であることは間違いない。

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