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2012年04月20日

『ピアニストの脳を科学する』古屋晋一(春秋社)

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「脳科学・身体運動学からひもとく、音楽する脳と身体の神秘」

ピアノストの指の動きと、それをコントロールする脳の活動の関連が、とてもわかりやすく書かれている。「練習して弾けなかったことが弾けるようになると、脳や身体はどう変わるのか」という視点からのアプローチが新鮮な、今までお目にかかれなかった内容の本である。

長年の訓練によって育成されたピアニスト特有の手指の運動は見ているだけでも華麗だが、「どのようにするとこんな神業のような動きが可能になるのだろう」という点は、多くの人にとって謎である。訓練なしに会得できない技能であることは、誰の目にも明らかだ。これに関連する研究は欧米でも行われていた。しかしその成果はごく一部の学術関係者の間で共有されているだけで一般の人に容易に理解できるようなものではなく、ましてやピアニストたちにフィードバックして役立てられるようなものでもなかった。それら先行研究の内容をふまえた上で自分自身の研究成果をまとめ、それを誰にでもわかり、楽しめ、利用できる本として集約した古屋の功績は大きい。

古屋自身も3才の頃からピアノの練習に励み、かなりのレベルまで到達した。趣味とはいえ音楽コンクールに入賞したりリサイタルを披露するなど、いわばプロ並みのピアニストだったのだ。しかしその古屋も大学時代に手を痛めてしまった。それをきっかけに「ピアノと身体の動き」に興味を持ち、自分の研究フィールドとすることになったという。いわば「医学、工学と芸術を融合させた研究(あとがきより)」というわけだが、本書にまとめられた内容は誰もが、そしてピアニスト自身もが「どうなっているのだろう」と疑問に感じていたポイントばかりである。

たとえば「楽譜を読む能力」に関して。これは暗譜のメカニズムや初見演奏の能力と深い関連がある。またピアニストの脳内には、演奏中にミスタッチを予感し、それを無意識に修正しようとする運動回路が作られているという。それ以前に「ピアニストの指はなぜあれほど速く動くのか」という素朴な疑問、日々の練習によって脳はどのように変化していくのか、また何時間でも弾き続けられるピアニストの持久力の背景には何が隠されているのか、などなど。また、ピアノの音色は変わるのか、変えるためにピアニストは身体をどう使っているのか──ひいては「演奏に感情を込めるとはどういうことなのか」ということも、脳波や筋電図(筋肉の収縮を電気的データとして読み取ったもの)が駆使された科学的なデータによって解説されていく。またそれらは決して無味乾燥な科学データの解説に終わるのではなく、古屋自身が音楽とピアノをこよなく愛する気持ちが行間からあふれ出ているのだ。

「日々の練習によって変化する脳」の究極が、最近耳にすることが多くなった「フォーカル・ジストニア」という病気の発症だ。直接生命を脅かす病ではないが、ピアニストとしての生命は断たれる危険性が極めて大きい難病である。本書にまとめられている「発症の危険因子」「治療法」「リハビリの方法」「予防」は、「脳内で何が起きているのか」がわかる、他で触れることのできないとても貴重な情報だろう。

最後になってしまったが、本の帯にも掲載されている、著者自身による前書きからの言葉を紹介しておこう。

ピアニストは、感性豊かな芸術家であるとともに、高度な身体能力を持ったアスリートであり、優れた記憶力、ハイスピードで膨大な情報を緻密に処理できる、高度な知性の持ち主です。考えてみると実に不思議な能力を持った、世にもまれな存在なのです。…本書によって、ピアニストの脳と身体のワンダーランドを、著者とともに驚きを持って旅していただければ嬉しいと思います。そして、音楽を愛する人たちが、心身に無理を強いることなく、願うとおりの音楽を真に実現できる一助となれば幸いです。

古屋のピアノへの愛が結晶となった本である。続編が待ち遠しい。

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2012年04月02日

『TPP知財戦争の始まり』渡辺惣樹(草思社)

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最近の日本の政治は、どうなってしまったのだろう。「昔は良かった」とはつゆとも思わないが、何も決まらない、前に進まない。「末期的」という言葉が脳裏に浮かぶ。「政権交代によって世の中が変わるかもしれない」という期待は、もはや海の藻屑と消えた。「民主党が期待はずれだった」と言うのは簡単だが、「自民党はもとより他政党が同じ立場だったとしても結局は同じだろう」というところに、歯がゆさがある。一国民として何とも為す術がないところがもどかしいが、昨年3月の東北大震災の被災者の方々の思いは想像して余りある。

その政治の右往左往だが、一時さかんに報道されていたTPP(環太平洋パートナーシップ協定)に関しては、その後の進捗状況がほとんど伝わってこない。この協定が締結されてしまうと日本の農業、とりわけ米の生産農家はほぼ壊滅状態に陥り、医薬品業界も大打撃を受ける、という警鐘が鳴らされていたことはまだ記憶に新しいだろう。そういった反対意見を押し切る形で、協定締結に向けた国際協議への参加に政府よりゴーサインが出された。「まず協議をしてみないことには、それが日本にとってどういう影響をもたらすかがわからない」といった説明もあったが、一般庶民には「ことTPPに関しては何がどうなっているのか皆目わからない」というのが一般的な状況だろう。

このコーナーで渡辺惣樹による日本とアメリカとの国交の歴史に関した書籍を何冊か紹介してきたが、その延長上に位置するものとして、PTTに関する解説書が上梓された。経済や貿易にうとい門外漢にもわかりやすい内容となっている。渡辺によると「アメリカがPTTの最終的な標的にしているのは中国だ」という。さもありなん、突然のように国力を増大させ、その人口の多さから世界のマーケットに多大な影響力を持つ中国と付き合っていくには、今の状況は手詰まりである。知的財産権の尊重や商標登録の問題を考えても、中国の態度は身勝手きわまりない、というのが大方の認識だろう。改善に関する発表があっても、口先だけのようにしか見えない。その中国を国際ルールに従わせるための方策がPTTだというのだ。壮大な包囲網を準備し、細部のひとつひとつを詰めていく作業が必要となる。PTTは、日本を標的として、日本をはじめとしたアジア諸国をアメリカにとって都合の良いように「開国」させることが第一の目的ではない。真の目的は中国を国際ルールに従わせることにあり、そのためにはまず中国以外のアジア諸国のルールを整えなければならない、という順序なのだ。「中国にルールを守らせるためには、まずみずからがそのルールを守らなければいけない」というのは、言われてみれば当たり前の事ではある。

この困難きわまりないと思われるプロジェクトの推進に当たってオバマ大統領の厚い信任とともに議会から指名されたのが、ヴィクトリア・エスピネルという女性である。日本ではほとんど知られていない。なぜ彼女なのか、エスピネル女史はどのような任務を負っているのか、などに関しては、ぜひ本書に当たられたい。

いずれにせよ、日本ではPTTに関する説明が絶対的に不足している。それを少しでも補うためにも、本書は貴重である。この200ページにも満たない本を読むことによってすべてが解明されるわけではもちろんないが、日本の政治家や官僚たちが口にすること、そしてマスコミが報道している内容を鵜呑みにしてはならず、真実とはかなりの食い違いがあるようだ、という現実に気づくべきだろう。

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