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2008年12月03日

『フランス ジュネスの反乱―主張し行動する若者たち』山本三春(大月書店)

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 2005年秋、ジエドとブーナという2人の若者が工事現場に仲間と入り込んだだけで警官隊に執拗に追跡され、立入禁止の変電施設に逃げ込んで、黒焦げになって感電死した。それをきっかけに、「絶望した少年」たちの暴動がフランス各地で勃発した。
 2006年初春、26歳未満の若者を雇用した企業は2年間は理由説明なしに解雇できるというCPE(初回雇用契約)法案の国民議会審議開始を契機として、若者を中心とする大規模な抗議行動がフランス全土に広がった。

 この2つの出来事の発端や経緯について、あたかもそれらが眼前で繰り広げられているかのように臨場感に富む詳細を教えてくれるのがこの本である。
 読む者の多くは、この本の舞台となった国と、自らが住む国との共通性と差異について思いをめぐらすことになるだろう。

 共通性は、まず何よりも、「グローバル化した世界資本主義の競争に勝ち残って企業が繁栄するために、労働者の権利を守ってきたあらゆる規制を取り払ってしまいたい」という、経営者群およびそれと結託した政府の欲望である。
 そしてまた、社会を構成する一部の層を“有害分子”に仕立てあげ、彼らにマジョリティの憎悪を集中させることによって、結局は社会全体に管理、監視、暴力による制圧を行き渡らせようとする権力の思惑である。

 しかし、こうした共通の背景や趨勢に対する市民の―特に若い市民の―ふるまい方には、彼我の間に巨大な違いがある。あの国の彼らは、はっきりと、そしてしたたかに、行動する。いかなる行動が可能かについて、本書は言わばマニュアルのような役割をも果たしている。『蟹工船』を読むくらいなら、本書を読む方がはるかに実践的に有用だ。たとえば大学生の動員についての「虎の巻」7箇条まで示してくれている(133-134頁)。また、それに対する権力側の策略―マニフに「破壊屋」を忍び込ませて正当な運動を暴力行為に見せかける、運動を長引かせて一般市民や運動当事者の「うんざり感」を募らせる(これは「腐敗化」と呼ばれる)等々―も克明に記され、それらに対していかに対処するかも記してくれている。

 そうした個別具体的な運動の方法論が蓄積され共有されていることそのものが、彼我の巨大な違いのひとつである。しかしそれだけではない。諸々の記述の中でも強く印象に残ったのは、次のことだ。大学生・高校生を中心として学校封鎖やマニフの形で始まった「反乱」に対し、やがて教職員が合流する。若者の保護者や家族が加わる。そして一般の労働者までが広く流れ込む。「国の子どもたちは、国の大人たちが守る。闘いが正当である以上、弾圧などさせないのだ」(171頁)という、やはり広く共有された揺るぎない考え方に基づいて。

 私は読むうち、何度か本を置いて嘆息した。何という違いか、と。そしてそのたび、嘆息している場合ではないと頭を振って読み続けた。

 あの国でも、この2つの反乱によって完璧な勝利などが訪れたわけではない。CPEは撤廃されたが、ドヴィルパン・シラクの醜態を衝いてサルコジはまんまと大統領の席を得た。北京オリンピック開会式の貴賓席で不敵な笑みを浮かべていたサルコジの姿は記憶に残る。あの国でも、闘いは続いている。そしてこの国では、闘いが広がる気配は薄く、ただ突発的な痙攣のような悲惨な事件のみが積み重なる。でも、無力感や徒労感こそが、術中にはまったことを意味しているのであるならば、まだあきらめるわけにはいかない。何度でも、愁いの垂れこめる頭をぶるぶると振って、また背筋を伸ばし額を上げなければならないのだ。


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2008年11月05日

『キャリアラダーとは何か-アメリカにおける地域と企業の戦略転換-』J・フィッツジェラルド著、筒井美紀・阿部真大・居郷至伸訳(勁草書房)

キャリアラダーとは何か-アメリカにおける地域と企業の戦略転換- →bookwebで購入

 独特な本である。何が独特かと言うと、まずもって訳者たちの姿勢がである。翻訳書には珍しく、訳者のひとりによる長い(20頁もある)まえがきがついている。それだけでなく、翻訳部分のあとに、他のふたりの訳者もそれぞれ「論点提起」を書いている。単に訳しただけではなく、とことん咀嚼して、原著の意義と要注意点を見極めようとする訳者の意気込みが表れている。カバーのそで部分には、原著者のフィッツジェラルドを囲んで微笑む3人の訳者の写真が載っている。これも珍しい。訳者たちは著者に会いに行って議論した上でこの本を刊行しているのだ。要するにこれは、元気のいい若い社会学者たちが、原著と本気でがっぷり四つに取り組んだ訳書なのである。

 表題にあるように、これはアメリカにおける「キャリアラダー」戦略についての本である。原著タイトルは”Moving up in the New Economy: Career Ladders for U.S. Workers”(『ニューエコノミーの中での上昇-アメリカの労働者のためのキャリアラダー』)。ラダーとははしごのことだ。一歩一歩、上にのぼっていくためのキャリアのはしご。まえがきにも書かれているように、アメリカといえば自由な市場競争を称揚するネオリベラリズムの本家本元のはずである。そしてニューエコノミーといえば、ライシュが言うように、シンボリックアナリストと単純労働者の間で収入が二極化する過酷な経済のはずである。そんな中でのキャリアのはしご?そんなものが一体可能なのか?という疑念に誰しもとらわれるだろう。そうした疑念を、フィッツジェラルドも訳者たちも、百も承知である。第1章のタイトルは「キャリアラダーの可能性と限界」だし、訳者まえがきでは7点にわたってあらかじめ疑問への回答が述べられている。キャリアラダーを作り出すことは簡単ではないし、どんな仕事にでも可能なわけではない。成功するためにはいくつもの条件をクリアすることが必要だ。それはとことん分かった上で、それでも取り組む価値がある、という主張の本なのだ。

 キャリアラダーとは、教育訓練と仕事経験についての明確に定義された基準をもとに、労働者が「より責任があり、より賃金の良い仕事に進むこと」(2頁)を可能にする政策プログラムである。それは地域における、コミュニティ・カレッジ、労働組合、雇用主、労働力媒介機関の間のパートナーシップによって運営される。このプログラムの肝要な点は、それが雇用主にとっても収益性があるということである。放置しておけばロー・ロード(低スキル・低賃金)の悪循環に巻き込まれてしまう事態を、人為的にハイ・ロード(高スキル・まともな賃金=リビング・ウェイジ)の良循環へと政策によってぐいっと持ってゆくこと、それがキャリアラダー戦略なのである。
 フィッツジェラルドは、キャリアラダー戦略がうまくいきやすい分野として、医療、保育、製造、教育、バイオテクノロジーに着目しており、訳書の第2章から第4章までが各分野の事例の解説に当てられている(教育とバイオテクノロジーの章は訳書では割愛されている)。そして第5章では、キャリアラダーを成功させる条件―労働市場がタイトで離職率が高くないこと、雇用主が一定の規模をもつ組織であること、公的な職業名称や資格が存在する分野であることなど―と、キャリアラダーが労働市場全体に対して及ぼしうる効果について議論がなされる。フィッツジェラルドは述べる。「キャリアラダーは、リビング・ウェイジ戦略全体の中の、非常に有益な一部分なのであって、銀の弾丸ではない。」(193頁)

 こうした議論を読むにつけ、アメリカという社会の懐の深さを実感する。金融に踊り巨万の富を稼いで世界を危機と不安に陥れて逃げ去る人々がいる一方で、鍛えられた「ソーシャルワーク・エシック」をもつ人々のぶ厚い層もまた存在する社会なのだ。
 では日本はどうなのか? 日本でキャリアラダー戦略は可能なのか? 本書末尾の「論点提起」の1と2はそれぞれ、介護と保育の分野について日米を比較し、さらなる留保点を付け加えている。それらを読めば、そして「ソーシャルワーク・エシック」やコミュニティ・カレッジの基盤が日本で殊更に薄いことを思えば、悲観的な気持ちになりもする。しかしさらに翻れば、労働政策研究・研修機構の雑誌『Business Labor Trend』の2008年11月号で紹介されているように、ものづくりの産業集積を活かした地域ベースの雇用開発や人材育成が胎動している現実もある。つまりは、状況と条件を見据え、多くの主体や組織・機関を巻き込み、目標に向かって行動と実践に移してゆく決断を採るか否かなのだ。遂行は地道で成果は地味だ。「銀の弾丸」などではない。でも地道で地味な営みにこそ、ほんとうの光が宿っているのだと思いたい。


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2008年02月06日

『連帯と承認-グローバル化と個人化のなかの福祉国家』武川正吾(東京大学出版会)

連帯と承認-グローバル化と個人化のなかの福祉国家 →bookwebで購入

「この国において「連帯と承認」はいかにして可能か?」

 いかなる論理の飛躍も修辞によるごまかしもない、平明で硬質な文章を読むことは、まさにひとつの快楽である。
 私はここのところいっそう、日本という社会の成り立ちの様々な面での異様さと、その由って来たる所を明らかにする必要性を痛感することが多かったのだが、本書を読みながら、目の前の靄が晴れていくような思いがしていた。


 本書は、福祉国家の多様性に関する比較社会学の書である。
 筆者の分析枠組みを示した序章では、国家目標、給付国家、規制構造という福祉国家の3側面と、それぞれに対応した形で福祉政治(イデオロギーや権力)、再分配の規模や効果、規制の形態や効果という3つの研究領域が提示される。ここでのポイントは、従来の福祉国家研究においては給付=再分配という側面に関心が偏っていたが、社会規制という側面もそれに劣らず重要であるということである。たとえば、本書の中で数カ所にわたって述べられているように、アメリカは規制国家という側面ではむしろラディカルな福祉国家としての性格をもっている。
 また、上記は福祉国家の内側に向かう問いとそれへの答であるが、福祉国家の外部環境として重要なのは資本制と家父長制であると筆者は述べる。これは言い換えれば、経済システムと家族システムを指している。福祉国家のパフォーマンスは、資本制=経済システムとの関係においては労働力の脱商品化の度合いとして、家父長制=家族システムとの関係においては脱ジェンダー化の度合いとして表れる。

 続く第Ⅰ部では、グローバル化と個人化という2つの大きな趨勢の中で福祉国家がいかなる変動にさらされているかが論じられる。1章では、70年代後半から80年代にかけての「日本型福祉社会論」のトラウマを超えて、福祉へのコンシャスネスと、ボランタリズムや市場に重点を置いた形での「社会による福祉」を構想する新しい福祉社会と、福祉国家との協働が必要であることが提唱される。そして、序章で述べられた枠組みの中で、給付=再分配という側面は社会の中での連帯という価値と、また規制という側面は承認という価値と、それぞれ密接に関係しているという展開がなされた上で、グローバル・ナショナル・ローカルという3つのレベルで福祉国家と福祉社会がそれぞれいかなる課題に直面しているかが整理されている。
 2章では、1980年代以降における福祉レジーム間のヘゲモニーの変遷が論じられる。単純化して述べるならば、80年代にはフランスを典型とする保守主義レジーム(新ケインズ主義戦略)が敗退し、90年代にはスウェーデンを典型とする社会民主主義レジーム(ネオ・コーポラティズム戦略)が敗退し、英米における自由主義レジーム(新保守主義戦略)のひとり勝ちの様相を呈するにいたったが、それと並行して保守主義レジームを母体として「社会的ヨーロッパ」を掲げる欧州モデルが台頭してきている。この拮抗関係の行方を考える上で、競争条件均等化の法則およびグレシャムの法則という2つが重要な補助線となる。前者は欧州モデルにとって、後者は英米モデルにとって有利に働く。しかし、仮に英米モデルが生き残ったとしても、それは社会統合の面で大きなリスクを抱えている。
 これらのヘゲモニー競争は、いずれもグローバル化の影響から生じていた。3章では改めてグローバル化が福祉国家に及ぼす影響が論じられる。すなわち、福祉国家は、労働移動と資本移動の増大およびその両者間の不均衡により、キャピタル・フライトの恐怖にさらされている。それがもたらす税負担の削減要求は給付国家という側面を、また規制撤廃圧力は規制国家という側面を脅かし、福祉国家は自国内の社会政策をコントロールすることが難しくなる。こうしてグローバル化した諸リスクは、グローバルな=トランスナショナルな=コスモポリタニズムの社会政策によってしか解決されえない。それは「福祉世界」への構想力を必要とするのである。
 続く4章で取り上げられるのは、もうひとつの巨大な趨勢である個人化と福祉国家との関係である。家族・職域・地域・消費など様々な場面で生じている個人化は、一方では個人の自立と自由を、他方では集団からの排除の危険をもたらす。福祉国家は、家族の個人化への対応としては社会政策の脱ジェンダー化を、職域の個人化への対応としては労働の柔軟化と脱商品化の両立を求められる。地域の個人化はローカルな市民社会をもたらし、消費の個人化は多様な消費ニーズを生み出し、いずれも従来の福祉国家が行動様式を組み替えるよう迫っている。新しい福祉国家モデルをめぐる合意が、ベーシックインカムとワークフェアという両極の間のどこかに模索される必要がある。

 第Ⅱ部においては、日本やアジアにより重点を置きつつ、比較研究がさらに展開される。
 日本の福祉国家レジームを論じた5章での議論を要約するならば、日本は第一に福祉政治という面では社会民主主義の弱さと国家官僚制の強さを、第二に給付構造という面では社会支出の薄さと公共事業支出の厚さを、規制面では経済規制の強さと社会規制の弱さを、それぞれ特徴としている。第一の特徴は福祉政治の潜在化=脱政治化を、第二の特徴は「特別な必要」に応じた給付や階層間の再分配の低調さを、第三の特徴は社会的差別の温存を、それぞれもたらしている。しかしこのような日本のレジームは、グローバル資本主義や脱ジェンダー化、二大政党化の兆しなどの圧力によって岐路に立たされている。
 6章から8章までにおいては、韓国と日本をひっくるめて東アジア・レジームとして取り扱う福祉オリエンタリズムへの批判が繰り広げられる。圧巻は、8章における、従来の福祉国家形成理論の主流であった収斂説と経路依存説に対して、福祉国家への離陸時の国際環境の重要性という新しい観点を追加した上での、英・日・韓比較である。冷戦下で福祉国家への離陸を遂げ、その後の高成長期に十全な発展を遂げたイギリスに対し、70年代に離陸を迎えた日本ではその当初から福祉国家の形成と危機が同時進行しており、十全な発展を見ないまま現在にいたっている。世紀末に離陸を開始した韓国では、「生産的福祉」のスローガンのもとにウェルフェアとワークフェアが同時にかつ急速に出現しつつある。
 最後の終章では、市民権(シティズンシップ)概念の内包と外延、広さと深さ、権利面と義務面が議論され、やはりグローバル化のもとで従来の市民権概念が限界を迎えつつあることが指摘される。


 以上、自分にとってのメモを兼ねて長々と要約してきた。とにかく、本書からきわめて大きな知的興奮を受けたのは、福祉国家論について私が浅学であるという理由だけではないことは確かだろう。
ただ、もう少し詳細に論じてほしかったのは、日本はその離陸期の条件によって帯びてしまった負の特徴という経路依存性を、いかにして脱することができるのか、この国ではやせ細っていると感じられる「連帯と承認」を、いかにして育ててゆくことができるのか、ということについての、現実的・実践的な示唆である。まあそれは、社会学は価値自由な学であるという、20数年前に受けた教えをどこかに忘れてきてしまった私の、厚かましい願いなのかもしれない。


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2007年12月26日

『キャリアの社会学』辻勝次編著(ミネルヴァ書房)

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主に聞き取り調査に基づく、4社の大企業で働く人々の職業経歴と職業能力についての重厚な報告である。

 第1章と第2章は、それぞれコマツと島津製作所において「一品生産」に従事する、職人的性格の強い労働者を取り上げている。個々の労働者は「核となる職務」をもち、自らの仕事の進め方やスキル形成に関してかなりの裁量性・自律性・主体性が与えられている。しかし、彼らは頑なに領分を守り続ける旧来の「職人」ではなく、不断にスキルの拡張や伸展を求められている。職場には各労働者の「技能マップ」が張り出され、これまでに獲得したスキル、今後伸ばしてゆくべきスキルが明確に把握できるようになっている。多様な手動の汎用機械を操作するスキルをベースとして、メカトロ機械のプログラミングにまで及ぶスキル形成要請の背後にあるのは、労働者の「マルチ化」を進めようとする企業の方針(「組織の論理」)である。そうしたマルチなスキルをもつ労働者間の協業により、職場においては「蜘蛛の巣状のネットワーク」、ないし個々の班や労働者の間に「波紋が干渉しあうモデル」と表現される、高度に柔軟な複雑性と効率性が成立している。


 第3章と第4章は、いずれもトヨタ自動車の量産職場を舞台とし、前者は90年代の人事制度改革の帰結を、後者はやはり90年代に最活発化した非典型雇用の活用を取り上げている。まず第3章についてみると、トヨタでは従来、「組」の下に「班」があり個々の班は班長が統括していたが、一連の人事制度改革の過程で班は廃止され、「組」にあたる「グループ」が最末端組織となった。従来の班長はEX(エキスパート)と呼ばれるようになり、管理・監督職というよりも専門技能職としての職務を求められるようになる。班の廃止によりGL(グループリーダー)が統括する労働者数は増大し、業務負担は重くなった。それとともに上級の専門技能職としてのSX(シニア・エキスパート)が「職場体質の強化につながる改善」を担うことによりGLを補佐するようになる。さてここで、長くなるが2007年12月1日付東京新聞朝刊の記事を以下に引用しておこう。


「トヨタ自動車の堤工場(愛知県豊田市)に勤務していた内野健一さん=当時(30)=が二〇〇二年に急死したのは、過酷な勤務が原因として、妻博子さん(37)が国に遺族年金の支給など労災の適用を求めた訴訟の判決が三十日、名古屋地裁であった。多見谷寿郎裁判長は『死亡直前の一カ月間の時間外労働は百時間を超えた。職務上の精神的なストレスも大きく、業務と死亡との関連性は強い』として、労災適用を認めた。
 訴訟では、品質管理について話し合う『QCサークル活動』や、業務上の改善点などを書面にまとめる『創意くふう提案』などの自主的な活動を時間外労働と認めるかどうかが争点となった。
 多見谷裁判長は『これらの活動は事業活動に直接役立つ性質のもので、業務と判断するのが相当。健一さんは会社にいる間、上司の指揮命令下で労務に従事していた』と判断。死亡前一カ月の時間外労働を約百六時間と認定し、『サークル活動は業務ではない。会社にいたのは雑談のためで、実際の残業時間は四十五時間程度』とした国側の主張を退けた。
 博子さん側が『社員を徹底管理して無駄を排除するトヨタ特有のシステムで極度の緊張を強いられた』と訴えた点については、『トヨタ方式について判断するまでもなく、健一さんが従事した業務は過重だった』と述べた。
 健一さんは一九八九年に入社。堤工場車体部に配属され、二〇〇一年からEXと呼ばれる中間管理職として品質管理を担当した。〇二年二月九日早朝、残業中に致死性不整脈を発症して倒れ、搬送先の病院で死亡した。」


 亡くなった内野健一さんはEXであった。「社員を徹底管理して無駄を排除するトヨタ特有のシステム」が90年代の改革以前から存在するものか、改革によっていっそう強化されたのかについて、正確に判断するためのデータは手許にないが、後者である蓋然性は高い。
 また第4章では、90年代に入ってトヨタが社外労働力としての期間工の活用をきわめて精力的に推進し、2004年時点では技術部門の労働力の43.9%にあたる1万1千人以上にまで拡大していることが述べられる。その背後にある要因のひとつは、海外工場への国内からの出向者数の著しい増大による人員の不足である。期間工の活用の一環として、2年以上続けて勤務する期間工は「シニア期間工」として正社員への登用の道を開く制度が導入された。しかし、シニア期間工は正社員と同様の能力を求めれらながらも賃金水準は正社員の半額以下であり、しかも不定期に実施される登用試験での合格者比率は1~2割にすぎない。


 続く第5章では、ワコールとトヨタを対象として、事務系・技術系ホワイトカラーのキャリアと職業能力形成が論じられる。従来からあるジェネラリスト/スペシャリストという概念を用いつつ、それぞれの内部における下位類型が個別事例に即してさらに細かく分類される。結論として述べられるのは、「流転型ジェネラリスト」や「担当者型スペシャリスト」は将来的に社外人材化されてゆくと推測されるため、「軸足型ジェネラリスト」として専門的職務能力を形成することが重要であるということである。


 これら各章の知見を集約し、さらに補足的な議論をも付け加えた終章には、重い指摘がいくつも見いだされる。そのすべてを引用することはもちろんできないが、一部をあげておこう。
「…トヨタの高収益の一因は非正規労働力の大量利用であり、そこから引き出された人件費の圧縮にある。これは内部化すべき費用の外部社会への転嫁であり、企業の社会的責任の放棄である。…」(243頁)
「…新入社員の最初の配属先では本人の希望はほとんど無視され、会社都合によって決定されていた。また新入社員が『最初に配属された部署』はその後のキャリア展開に重要であることも確認できた。(中略)採用時における職種区分とその提示方法に工夫が望まれる。当面は本人としては最初の配属で自分の希望を強く主張し、会社としてもそれを尊重するという対応が実効性もあるであろう。…」(247頁)
「…技能の高度化は『他社でも通用する能力』という普遍的、企業横断的な形でなされるのではなく、社内の特殊化された部門、部署の目前の仕事をより高度に処理する能力という形で発展している。(中略)労働者は能力をより高度化すればするほど個別企業への依存を高めることになり、正社員と正規雇用者に関する限り企業社会体制はなお一層強化されているといえる。…」(249-251頁)

 企業による労働者の最大限の「活用」は熾烈化している。その中で個々の労働者は翻弄されたり、自らを守って強かに生きようとすればするほどいつの間にかうまくエネルギーを吸い取られていたりする。仕事の世界で、企業という砦の中で、何が起こっているのか。それを明らかにする作業はまだ途方もなく膨大に残されている。


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2007年10月12日

『ネオリベラリズムの精神分析-なぜ伝統や文化が求められるのか』樫村愛子(光文社新書)

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「寄る辺のなさ」を埋め合わせるものは何か

 いま、人々は日々を生きる中で、「寄る辺のなさ」の感覚を強めている。この「寄る辺のなさ」(=流動化・不安定化=「プレカリテ」)の根には、生活を成り立たせる物質的基盤(雇用や収入)が揺らいでいるという現状がある。でも、この「寄る辺のなさ」を、そういった物質的な側面から捉えるだけでは不十分だ。人間の存在のあり方そのものにかかわる精神的な面での「寄る辺のなさ」を解読し、分厚く正確に記述する営みがもっと必要だ。

 日本では、ごく最近まで、あるいは現在も、社会の中で特に「寄る辺のない」状態にある人々に対して、「それはあいつらが駄目な奴らだからだ」という語り方がされることが多い。たとえば「ニート」もそうだった。「ニート」は意欲や自信がなく一歩を踏み出せない「駄目な奴ら」として語られてきた。私はそういう「ニート」バッシングに抗うために、『「ニート」って言うな!』(光文社新書、2006年)で、「若者はまともだ、意欲がない若者が増えているわけではない、社会構造が彼らから働く機会を奪っているだけなのだ」と主張した。でも「彼らはやる気のあるまっとうな若者だ」と叫ぶだけでは、「ニート」と呼ばれる若者や、それだけでない多くの若者が感じている「寄る辺のなさ」をきちんと捉え、語れているわけではなかった。そういう限界や欠点は、すでに湯浅誠・仁平典宏「若年ホームレス-『意欲の貧困』が提起する問い」(本田由紀編『若者の労働と生活世界』大月書店、2007年)がただしく指摘し、“溜め”の喪失がもたらす「意欲の貧困」状態について彼らはリアルで説得力ある記述を加えている。
 また、今の日本では、少なくともマスメディア上では若者や「ニート」へのバッシングは一時期よりも低調になり、代わって「ワーキングプア」、「ネットカフェ難民」、「ロストジェネレーション」など、彼らの状況をより客観的かつニュートラルに、時には同情的なニュアンスもこめて、表現する言葉の方が大勢を占めるようになっている。若者などが結成するユニオンの活動についての報道も多い。それは望ましいことだ。
 でもまだ日本では、「寄る辺のなさ」が「左翼的・政治的な狭い領域内部で議論されている」(本書22頁)という指摘があてはまるのではないか。人々が抱えている精神面での孤独や不安、虚無などを、きちんと語り共有する言葉は、日本ではまだ分厚さを欠いているのではないか。そこに向き合うことの必要性を、本書は提唱している。

 もちろん日本でも、精神的な「寄る辺のなさ」を埋め合わせようとする営みが存在しないわけではない。安倍前政権が推進していた、「美しい国」とか「愛国心」とか「道徳」とか「伝統」とか、ナショナリズムや保守主義の高揚はその典型的な例だ。でも、安倍政権の自滅が象徴しているように、そうした原理主義的で硬直的な、かび臭い手近な理念を安直に持ち出すだけでは、現実の社会の変化にすでにそぐわない。自由や柔軟性や新しい創造性を犠牲にすることなく現代の「寄る辺のなさ」を補うためには、もっとしなやかで強靭なものが必要だ。
 それは何か。樫村氏は、それは「文化」だと言う。「今、進行している透明性や形式合理性の幻想のもとで破壊されている、個々人の固有性(スティグレールのいう個体化)や複雑性、それに伴う人々の行為の自由や創造性や豊かさ、それを保証する人々の想像性とそのベースとなる人々の信頼を確保していくことが文化の中身である」(本書298頁)。すなわち、「コミュニケーションの場に張り付いて自らの存在と他者を確かめようとしている人々に、メタレベルの信頼や落ち着きや余裕を与える場や文化的・社会的認識を提供していくこと」、そして「その場にフランクに参加できるようにすること」(同上)が、今求められているのだと。

 評者の(勝手な)理解を述べるなら、こうした意味での「文化」とは、ひとつには明晰で鍛えられた「言葉」である。個々人のそれぞれ特殊に感じられる「寄る辺のなさ」を記述し他者と共有できるような、鍛えられた「言葉」がまず必要だ。
 人は、ただただ苦しい時、そしてそれをひとりで抱え込んでいる時、自他に対して攻撃的になる。その攻撃が他者に向けられた場合には、憎悪やバッシング、クレームメイキングとなり、自己に向けられた場合には、自己否定やうつ病などの精神疾患、ひいては自死の形をとる。教師になることを夢見ていた若い女性が、念願かなって教壇に立ったたった2ヶ月後に「無責任な私をお許しください。すべて私の無能さが原因です。家族のみんなごめんなさい」と書き残して昨年6月に自殺した。連絡帳には、「子どものけんかで授業がつぶれているが心配」「結婚や子育てをしていないので経験が乏しいのでは」などの苦情が記入されていたという(2007年10月9日付朝日新聞朝刊29面)。こうした自他への攻撃は、ただ苦しみの連鎖を生む結果にしかならない。
 でも、自分の苦しみを「言葉」によって表現し、他者に受容されることがかなえば、苦しみの大部分は昇華され、楽になることができ、困難の解決や改善に向けて踏み出す道も開けることも多いだろう。そういう「言葉」のレッスンを、社会も個人も積み重ねていくことが必要なのだ。もう「阿吽の呼吸」を前提とすることができる社会でないからには、「言葉」を鍛えることが不可欠なのだ。
 
 そして、そのような明晰な「言葉」だけでなく、他方では混沌や猥雑さが豊かにうずまく場が必要だ。正体不明のエネルギー、いまだ定義されていない感情、昨日性や効率性ではない無駄な面白さや愉快さ、あるいは静かでだらだらとした一見沈滞に見えるもの、そうしたものが生き続ける余地と、やはり表現によって共有されていく回路が必要だ。

 まあ、明晰な「言葉」であれ、混沌であれ、「寄る辺のなさ」を回復できるための「文化」とは、そうそう容易にこの社会やそこに生きる人々が獲得できるものではないのだが。それでも、少し展望が開けた気にはなる。

 本書は、こうした様々の想念を刺戟してくれる。各章の扉裏には論点が要約されていて大いに助けになることもうれしい。そして、今度樫村さんにお会いすることがあったら、草薙さんについて「そうそう、不思議な人なんですよねー」と話し合って盛り上がりたい、というのは個人的な話。

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