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2008年11月05日

『キャリアラダーとは何か-アメリカにおける地域と企業の戦略転換-』J・フィッツジェラルド著、筒井美紀・阿部真大・居郷至伸訳(勁草書房)

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 独特な本である。何が独特かと言うと、まずもって訳者たちの姿勢がである。翻訳書には珍しく、訳者のひとりによる長い(20頁もある)まえがきがついている。それだけでなく、翻訳部分のあとに、他のふたりの訳者もそれぞれ「論点提起」を書いている。単に訳しただけではなく、とことん咀嚼して、原著の意義と要注意点を見極めようとする訳者の意気込みが表れている。カバーのそで部分には、原著者のフィッツジェラルドを囲んで微笑む3人の訳者の写真が載っている。これも珍しい。訳者たちは著者に会いに行って議論した上でこの本を刊行しているのだ。要するにこれは、元気のいい若い社会学者たちが、原著と本気でがっぷり四つに取り組んだ訳書なのである。

 表題にあるように、これはアメリカにおける「キャリアラダー」戦略についての本である。原著タイトルは”Moving up in the New Economy: Career Ladders for U.S. Workers”(『ニューエコノミーの中での上昇-アメリカの労働者のためのキャリアラダー』)。ラダーとははしごのことだ。一歩一歩、上にのぼっていくためのキャリアのはしご。まえがきにも書かれているように、アメリカといえば自由な市場競争を称揚するネオリベラリズムの本家本元のはずである。そしてニューエコノミーといえば、ライシュが言うように、シンボリックアナリストと単純労働者の間で収入が二極化する過酷な経済のはずである。そんな中でのキャリアのはしご?そんなものが一体可能なのか?という疑念に誰しもとらわれるだろう。そうした疑念を、フィッツジェラルドも訳者たちも、百も承知である。第1章のタイトルは「キャリアラダーの可能性と限界」だし、訳者まえがきでは7点にわたってあらかじめ疑問への回答が述べられている。キャリアラダーを作り出すことは簡単ではないし、どんな仕事にでも可能なわけではない。成功するためにはいくつもの条件をクリアすることが必要だ。それはとことん分かった上で、それでも取り組む価値がある、という主張の本なのだ。

 キャリアラダーとは、教育訓練と仕事経験についての明確に定義された基準をもとに、労働者が「より責任があり、より賃金の良い仕事に進むこと」(2頁)を可能にする政策プログラムである。それは地域における、コミュニティ・カレッジ、労働組合、雇用主、労働力媒介機関の間のパートナーシップによって運営される。このプログラムの肝要な点は、それが雇用主にとっても収益性があるということである。放置しておけばロー・ロード(低スキル・低賃金)の悪循環に巻き込まれてしまう事態を、人為的にハイ・ロード(高スキル・まともな賃金=リビング・ウェイジ)の良循環へと政策によってぐいっと持ってゆくこと、それがキャリアラダー戦略なのである。
 フィッツジェラルドは、キャリアラダー戦略がうまくいきやすい分野として、医療、保育、製造、教育、バイオテクノロジーに着目しており、訳書の第2章から第4章までが各分野の事例の解説に当てられている(教育とバイオテクノロジーの章は訳書では割愛されている)。そして第5章では、キャリアラダーを成功させる条件―労働市場がタイトで離職率が高くないこと、雇用主が一定の規模をもつ組織であること、公的な職業名称や資格が存在する分野であることなど―と、キャリアラダーが労働市場全体に対して及ぼしうる効果について議論がなされる。フィッツジェラルドは述べる。「キャリアラダーは、リビング・ウェイジ戦略全体の中の、非常に有益な一部分なのであって、銀の弾丸ではない。」(193頁)

 こうした議論を読むにつけ、アメリカという社会の懐の深さを実感する。金融に踊り巨万の富を稼いで世界を危機と不安に陥れて逃げ去る人々がいる一方で、鍛えられた「ソーシャルワーク・エシック」をもつ人々のぶ厚い層もまた存在する社会なのだ。
 では日本はどうなのか? 日本でキャリアラダー戦略は可能なのか? 本書末尾の「論点提起」の1と2はそれぞれ、介護と保育の分野について日米を比較し、さらなる留保点を付け加えている。それらを読めば、そして「ソーシャルワーク・エシック」やコミュニティ・カレッジの基盤が日本で殊更に薄いことを思えば、悲観的な気持ちになりもする。しかしさらに翻れば、労働政策研究・研修機構の雑誌『Business Labor Trend』の2008年11月号で紹介されているように、ものづくりの産業集積を活かした地域ベースの雇用開発や人材育成が胎動している現実もある。つまりは、状況と条件を見据え、多くの主体や組織・機関を巻き込み、目標に向かって行動と実践に移してゆく決断を採るか否かなのだ。遂行は地道で成果は地味だ。「銀の弾丸」などではない。でも地道で地味な営みにこそ、ほんとうの光が宿っているのだと思いたい。


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