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2007年10月12日

『ネオリベラリズムの精神分析-なぜ伝統や文化が求められるのか』樫村愛子(光文社新書)

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「寄る辺のなさ」を埋め合わせるものは何か

 いま、人々は日々を生きる中で、「寄る辺のなさ」の感覚を強めている。この「寄る辺のなさ」(=流動化・不安定化=「プレカリテ」)の根には、生活を成り立たせる物質的基盤(雇用や収入)が揺らいでいるという現状がある。でも、この「寄る辺のなさ」を、そういった物質的な側面から捉えるだけでは不十分だ。人間の存在のあり方そのものにかかわる精神的な面での「寄る辺のなさ」を解読し、分厚く正確に記述する営みがもっと必要だ。

 日本では、ごく最近まで、あるいは現在も、社会の中で特に「寄る辺のない」状態にある人々に対して、「それはあいつらが駄目な奴らだからだ」という語り方がされることが多い。たとえば「ニート」もそうだった。「ニート」は意欲や自信がなく一歩を踏み出せない「駄目な奴ら」として語られてきた。私はそういう「ニート」バッシングに抗うために、『「ニート」って言うな!』(光文社新書、2006年)で、「若者はまともだ、意欲がない若者が増えているわけではない、社会構造が彼らから働く機会を奪っているだけなのだ」と主張した。でも「彼らはやる気のあるまっとうな若者だ」と叫ぶだけでは、「ニート」と呼ばれる若者や、それだけでない多くの若者が感じている「寄る辺のなさ」をきちんと捉え、語れているわけではなかった。そういう限界や欠点は、すでに湯浅誠・仁平典宏「若年ホームレス-『意欲の貧困』が提起する問い」(本田由紀編『若者の労働と生活世界』大月書店、2007年)がただしく指摘し、“溜め”の喪失がもたらす「意欲の貧困」状態について彼らはリアルで説得力ある記述を加えている。
 また、今の日本では、少なくともマスメディア上では若者や「ニート」へのバッシングは一時期よりも低調になり、代わって「ワーキングプア」、「ネットカフェ難民」、「ロストジェネレーション」など、彼らの状況をより客観的かつニュートラルに、時には同情的なニュアンスもこめて、表現する言葉の方が大勢を占めるようになっている。若者などが結成するユニオンの活動についての報道も多い。それは望ましいことだ。
 でもまだ日本では、「寄る辺のなさ」が「左翼的・政治的な狭い領域内部で議論されている」(本書22頁)という指摘があてはまるのではないか。人々が抱えている精神面での孤独や不安、虚無などを、きちんと語り共有する言葉は、日本ではまだ分厚さを欠いているのではないか。そこに向き合うことの必要性を、本書は提唱している。

 もちろん日本でも、精神的な「寄る辺のなさ」を埋め合わせようとする営みが存在しないわけではない。安倍前政権が推進していた、「美しい国」とか「愛国心」とか「道徳」とか「伝統」とか、ナショナリズムや保守主義の高揚はその典型的な例だ。でも、安倍政権の自滅が象徴しているように、そうした原理主義的で硬直的な、かび臭い手近な理念を安直に持ち出すだけでは、現実の社会の変化にすでにそぐわない。自由や柔軟性や新しい創造性を犠牲にすることなく現代の「寄る辺のなさ」を補うためには、もっとしなやかで強靭なものが必要だ。
 それは何か。樫村氏は、それは「文化」だと言う。「今、進行している透明性や形式合理性の幻想のもとで破壊されている、個々人の固有性(スティグレールのいう個体化)や複雑性、それに伴う人々の行為の自由や創造性や豊かさ、それを保証する人々の想像性とそのベースとなる人々の信頼を確保していくことが文化の中身である」(本書298頁)。すなわち、「コミュニケーションの場に張り付いて自らの存在と他者を確かめようとしている人々に、メタレベルの信頼や落ち着きや余裕を与える場や文化的・社会的認識を提供していくこと」、そして「その場にフランクに参加できるようにすること」(同上)が、今求められているのだと。

 評者の(勝手な)理解を述べるなら、こうした意味での「文化」とは、ひとつには明晰で鍛えられた「言葉」である。個々人のそれぞれ特殊に感じられる「寄る辺のなさ」を記述し他者と共有できるような、鍛えられた「言葉」がまず必要だ。
 人は、ただただ苦しい時、そしてそれをひとりで抱え込んでいる時、自他に対して攻撃的になる。その攻撃が他者に向けられた場合には、憎悪やバッシング、クレームメイキングとなり、自己に向けられた場合には、自己否定やうつ病などの精神疾患、ひいては自死の形をとる。教師になることを夢見ていた若い女性が、念願かなって教壇に立ったたった2ヶ月後に「無責任な私をお許しください。すべて私の無能さが原因です。家族のみんなごめんなさい」と書き残して昨年6月に自殺した。連絡帳には、「子どものけんかで授業がつぶれているが心配」「結婚や子育てをしていないので経験が乏しいのでは」などの苦情が記入されていたという(2007年10月9日付朝日新聞朝刊29面)。こうした自他への攻撃は、ただ苦しみの連鎖を生む結果にしかならない。
 でも、自分の苦しみを「言葉」によって表現し、他者に受容されることがかなえば、苦しみの大部分は昇華され、楽になることができ、困難の解決や改善に向けて踏み出す道も開けることも多いだろう。そういう「言葉」のレッスンを、社会も個人も積み重ねていくことが必要なのだ。もう「阿吽の呼吸」を前提とすることができる社会でないからには、「言葉」を鍛えることが不可欠なのだ。
 
 そして、そのような明晰な「言葉」だけでなく、他方では混沌や猥雑さが豊かにうずまく場が必要だ。正体不明のエネルギー、いまだ定義されていない感情、昨日性や効率性ではない無駄な面白さや愉快さ、あるいは静かでだらだらとした一見沈滞に見えるもの、そうしたものが生き続ける余地と、やはり表現によって共有されていく回路が必要だ。

 まあ、明晰な「言葉」であれ、混沌であれ、「寄る辺のなさ」を回復できるための「文化」とは、そうそう容易にこの社会やそこに生きる人々が獲得できるものではないのだが。それでも、少し展望が開けた気にはなる。

 本書は、こうした様々の想念を刺戟してくれる。各章の扉裏には論点が要約されていて大いに助けになることもうれしい。そして、今度樫村さんにお会いすることがあったら、草薙さんについて「そうそう、不思議な人なんですよねー」と話し合って盛り上がりたい、というのは個人的な話。

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