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2010年04月30日

『不純なる教養』白石嘉治(青土社)

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 『不純なる教養』は、フランス文学者の白石嘉治によって書かれた大学と思想をめぐるテクストをまとめた書物である。大学あるいは大学という運動、そしてその無償化を中心に、フランスの大学ストライキ、札幌・トリノの大学サミット、洞爺湖G8サミット、日本学生支援機構とブラックリストの会、そして、ネグリ、デカルト、スティグレール、笙野頼子が論じられていく。

  まずなによりも、高等教育が無償であるという考え方そのものは、いわば常識の範疇に属すことを確認しておきたい。じっさいヨーロッパ諸国では、大学の学費は無償か比較的低額に抑えられており、また米国における奨学金の充実は良く知られているだろう。普通(ユニバーサル)選挙権と同様に、大学(ユニバーシティ)で成人として教育を受ける権利は経済的な制限があってはならないものである。(「不純なる教養」)

  昨今、大学や知をめぐる議論は様々な分野で盛んであるが、普通選挙が所与であるように、学費無償化を前提とし、中世の起源にまで遡り、ネオリベラリズムに抗し、大学なるものを称揚する本書の理論的アプローチは、安易な教養主義、権威主義とは異なり、刺激的かつ根源的である。さらにそれらを契機に、ベーシックインカム(普遍所得)の導入が提唱されていく。ベーシックインカムについても、ポスト金融資本主義の文脈のなかで議論が盛んになっているが、本書で目指されているのは、社会福祉論的なセーフティーネットとしてではなく、賃労働からの解放であり、労働価値説からの脱却であり、私たちの精神、そして感情をも捕獲しようとする認知資本主義への闘いとしての、蜂起の掛金としてのベーシックインカムである。

  大学の「敗北」が執拗に喧伝されている。あたかも溺れる者と救われる者がわかたれているかのように。しかしながら、大学という運動にやどる感覚の確信が消滅することはない。観想的生を求める中世の大学は教会によって断罪されたが、その人文学士やゴリアールたちの系譜のなかに、たとえばデカルトの「夢」があり、ブランキの「永劫回帰」もある。炉部屋であれ牢獄であれ、彼らはともに特異なフィクションの創出をつうじて、外在的な尺度の介入によらない価値生成の起点をつむぎだした。すべてが夢であったとしてもコギトははたらいているのであり、この生が無限に反復されても蜂起への信憑はゆるぎない。想起すべきは、ダンテの描く地にまみれている現実のなかでも、蛍の群れはわずかな光をみずから発していたことだろう。(「プロパガンダ・ポエティカ」)

 よって、本書がタルナック事件、そして『来たるべき蜂起』(彩流社、近刊)の分析で締め括られているのは必然である。不可視委員会による『来たるべき蜂起』は、端的に言えば、ポストシチュアシオニズムの文脈に位置づけられるが、その「取り返しのつかない正しさ」(ジュリアン・クーバー)が、ギリシャ蜂起、知識人論、アフィニティー・グループ、そしてエナルゲア(迫真法)の分析から論じられていく。

 私たちは、認知資本主義下の現在を所与として生き、そして未来を生き続けていくのではない。本書で奏でられている「反資本主義の詩学」が強く示しているのは、新しい現実、来たるべき現実である。 


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2010年01月08日

『プレカリアートの詩---記号資本主義の精神病理学』フランコ・ベラルディ(ビフォ)、櫻田和也訳(河出書房新社)

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 ここ数年、ポスト・ネグリともいうべきイタリアの思想家たちの紹介が開始されている。パオロ・ヴィルノ、マウリツィオ・ラッツァラート、そして今回紹介するビフォは、ともにアウトノミア運動でネグリと戦列をともにし、いまもそれぞれのかたちで現場での実践と理論を切断させることなく活動してきた。しかし、その思考はまったくネグリ的とは言えないばかりか、ネグリに対して容赦のない批判が行われている。日本国内では、学術的にも運動的にもねじれた形で受容されているため、より状況は複雑なのだが、ネグリの「偉大さ」もかれらの営為との対照の中でこそ語られなければならないだろう。ビフォことフランコ・ベラルディはイタリアで活動後、フランスにわたりガタリとともに行動した。その軌跡はおりしも本書のすこし前に刊行されたフランソワ・ドスの『ドゥルーズとガタリ 交錯的評伝』からうかがうことができる。日本での最も初期のアウトノミア運動とその弾圧の紹介である粉川哲夫の「イタリアの熱い日々」(1979)にもその名前があるが、それから30年がたってようやく初の日本語の訳書が刊行されたという形になっている。訳者の櫻田は、社会学者であると共にメディア・アクティビストとして知られており、まさにビフォの導入にふさわしい。本書はビフォがアウトノミア運動を総括しつつ、そこから現代資本主義がもたらす病理をガタリ的に分裂分析したものと言えよう。論旨は多岐にわたるが、その要旨は次のようなものだ。アウトノミア運動は資本主義を先取りすることによってユートピア的な叛乱となったが、資本主義はユートピアを反転させたディストピアとして、その末期をあらわにしている。抑鬱はその結果であり、したがって鬱、ひきこもりなどで苦しむ人々はいわば「前衛」たちなのである。実際、存在論の究極がある無意味性だとして、それはまさにかれらによってこそ生きられているではないか。現在のすぐれたアートがすべてディストピアを表現するのはこれと同期しているのであり、コミュニズムもまたこの先にこそ展望されるだろう。
 したがってビフォの基調はいたるところにコミュニズムを見いだすネグリ(ハート)のような明るさとは無縁であるが、だからこそ私たちはこれを信頼し得ると言えよう。この信こそドゥルーズのいう断片でしかなくなった「世界への信」であるのだ。こうしてビフォの思考と実践は、現代と格闘するアーティスト、他方で鬱、ひきこもりたちにも開かれたものとなる。そして、なにより新たなアナキズムを模索するアクティビストたちに限りない示唆を与えることとなるだろう。

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