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2010年03月31日

『原子力都市』矢部史郎(以文社)

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 『原子力都市』は、運動=理論家である矢部史郎が、日本中の都市をめぐる過程で生み出された特異な人文地理学的都市論をまとめた書である。分析の対象となっているのは、柏崎、(旧)上九一色村、呉、京都、むつ、川口、硫黄島、広島、両国、つくば、藤里町、厚木、そして砂丘、日本ピラミッド、恐山である。一見するとまるで統一性のない都市や地域が並んでいるのだが、矢部は「原子力都市」という概念によって、それらを論じ、理論化しようという試みがなされている。

『「原子力都市」は、「鉄の時代」の次にあらわれる「原子の時代」の都市である。「原子力都市」は輪郭を持たない。「原子力都市」にここやあそこはなく、どこもかしこもすべて「原子力都市」である。それは、土地がもつ空間的制約を超えて海のようにとりとめなく広がる都市である。』(「序」)
 
 フォーディズムからポスト・フォーディズムへの移行において、都市と郊外、都会と田舎という対立軸を失った都市空間を、そしてそこにおける労働概念の変容を、矢部はこのように表現している。その背景にあるのは、ルフェーブル、ドゥボールの都市蜂起論であり、ドゥルーズーガタリの空間論であり、ハキム・ベイの海賊論であり、松田政男の「風景論」である。特に、日本において、いち早くこうした問題系を理論化した「風景論」の現在的可能性を模索するという意図は極めて大きいだろう。

「原子力都市とはなにか。それはまず第一に、技術と投機的な巨大計画による専制である。専制的な計画と経済を前にして労働と労働者はかつての地位を失う。(中略)かつて生産を駆動させていた労働は、不安定で信用のおけない災いの種になったのだ。原子力産業は(そしてサイバネティクスによる管理は)、ミスの許されない切迫した緊張を人工的に作り出すことで、労働者を人材へと書き換える。かつて生産を支えていた信頼と協同は、不信と監視に書き換えられたのである。」(「原子力都市と海賊」)
 
  現在、労働や貧困などの問題について関心が集まっているが、資本主義下における日本を、世界を考えるには、まずそれらにおける都市空間の分析を行うことが、何より求められている。「原子力都市」とは、そうした状況に対する一つの応答であり、逆説的には根源的な問いを立てることなしに、資本主義によって生み出されている政治的、社会的、あらゆる諸問題を解決することは難しいであろう。
 
 こうした理論的試みは、タルナック事件で広く知られたフランスの実践的理論グループ、不可視委員会『来るべき蜂起』(彩流社、近刊)によって理論化され、シアトル、ジェノバ以降に生まれた蜂起的な潮流に影響を与えている「社会戦争 Social War」「ヒューマンストライキ」といった、新しい運動的諸概念とも触れ合っている。そうした意味では、まだまだ荒削りながらも、昨今、盛んに学術的な議論が行われているそれとは一線を画した、極めてアクチュアルで、予示的な新しい都市論であると言えよう。   

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『ジャ・ジャンクー 「映画」「時代」「中国」を語る』ジャ・ジャンクー著、丸川哲史、佐藤賢訳 (以文社)

ジャ・ジャンクー 「映画」「時代」「中国」を語る →bookwebで購入

 『ジャ・ジャンクー 「映画」「時代」「中国」を語る』は、2009年に中国で刊行された同タイトルの全訳である。1996年に『小山の帰郷』でデビューしたジャ・ジャンクーは、『一瞬の夢』(98)で世界、そして日本でも広く知られていることとなった映画監督であるが、デビューから最新作までの演出ノート、テクスト、インタビュー、対談などが収められている。現在は、もっとも注目される中国の、世界の作家の一人として、すべての作品が広く知られているが、ホウ・シャオシェンやツァイ・ミンリャンとの対談を含め、その発言を日本語でまとめて読むことが可能になったことを率直に喜びたい。

 80年代半ばからチェン・カイコー、チャン・イーモウら中国第五世代が注目され、それに次ぐ第六世代の作家への関心も高いものであったが、そのなかでもジャ・ジャンクーの果たした役割は極めて大きなものであった。中国は、1989年の天安事件を経て、1993年から始まる社会主義市場経済によって、さまざまな矛盾を生み出していた。ジャ・ジャンクーは、『一瞬の夢』、『プラットフォーム』(00)、『イン・パブリック』(01)、『青の稲妻』(02)の重層的な風景によって、それらを見事にフィルム、あるいはビデオへと定着させ、資本主義下のネオリベラル政策とパラレルに進めれていく中国の「改革」の実体を広く知らしめることとなった。そして、フランスのヌーヴェルヴァーグやブニュエル、ファスビンダーを引き合いに、体制化した第五世代を批判しながら、自らの作品を「アマチュア映画」と規定していった。

「だからわたしは言うのだ。アマチュア映画の時代が再びやって来る、と。これは真に映画を熱愛する者が持っている抑えきれない映画への欲望だ。かれらはより深遠な映画のかたちに眼を開き、業界に既存の評価方法を自然に超えていく。(中略)またかれらは古い尺度の外に身を置くことにより何の束縛も受けない。かれらは知識人としての良心を堅持することによって慎み深くいられるのだ。」(「アマチュア映画の時代が再びやって来る」)

 そして、『世界』(04)、『長江哀歌』(06)、『東』(06)、『四川のうた』(08)といった傑作、問題作を続けていくのだが、本書を読み進めるなかで、国際的な作家となった自らを取り巻く環境や中国国内の劇的な変化のなかで、ジャ・ジャンクーが映画を通じて何を思考し、何を提起しようとしたか、詳細に理解することができよう。同時に、映画の書として、映画理論、映画史的考察のみならず、ここから中国の政治、社会状況、あるいは思想の現在についても伺い知ることができるだろう。      

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