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2009年10月28日

『フードジョッキー その理論と実践』行友太郎・東琢磨(ひろしま女性学研究所)

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「フードジョッキーとは、食物を騎手が馬を乗りこなすように使用する人のこと。一般的に、フードジョッキーは食物の選択を行い、料理方法を決定し、料理を実行することで、表現活動や空間演出を行う。Food JockeyがDisc Jockeyと対比して考えられるとき、DJにおけるターンテーブルがフードジョッキーにおいてはカセットコンロ、DJによるカートリッジ(レコード針)がフードジョッキーにおいてはカセットボンベに置き換えられている。」

 上記は、本書の冒頭に掲げられた「フードジョッキー宣言」からの一部抜粋である。フードジョッキーとは、著者の一人である行友太郎がDJを転用して発明した理論的実践なのだが、これらの宣言からフードジョッキーなるものを明確にイメージすることが可能だろう。つまり、DJが複数の曲をミックスするように、フードジョッキーは様々な料理を調理/ミックスし、人々が集い、語らう空間を演出するのである。フードジョッキーには、現代の資本主義を突破するための重要な試みが数多く内包されているのだが、最も重要なのは、食べ物を提供するものと食べるものがお互いの境界を越え、フードジョッキーという行為それ自体が一つの運動として立ち表れることであろう。
 
「FJのパーティはDJのパーティと違い、DJとクラウドの境界はない。食べる人と作る人と仕込む人と片付ける人とその場に偶然居合わせた人、その全てがFJ化することもよくある。FJのパーティは料理を作り食べる一連の過程の全てがパーティだからである。この一連の流れの中で、参加者たちが労働と感じることがあったとしたら、そのFJパーティは失敗に終わり、ただの祝祭になってしまう。労働という概念そのものを全く変化させてしまうこと、この否定の否定を成功させることがFJの使命なのである。」
 
 相互扶助によって、既存の労働概念を転覆させ、資本主義下におけるスペクタクルを拒否し、食=運動の自律的かつ反権威主義的な地平を広げること、「牡蠣チゲの夜、広島デルタブルース」から始まる11のレシピならざるレシピとその実践について繰り広げられる行友と共著者・東琢磨の対話を通じて、それらが呼びかけられているのである。私たちは、それに呼応すべく、本書を片手にもしくは本書を契機に、フードジョッキーを実践し、それぞれがフードジョッキーへと変化していくべきであろう。
 
 また、レシピについての説明などを交えた「フードジョッキー実践のための断章」、ときに広島のみで独自に需要される情報を含めた用語解説「フードジョッキーグロサッリー」なども有用である。
 
 そして最後に、本書が、広島の戦前/戦後の歴史を踏まえながら、広島の二人から生み出されていることは何よりも大きな意味を持っている。共著者の東琢磨は、既にポレミックな広島論(「ヒロシマ独立論」青土社)を送り出しているが、食について語ることを通じて、その問題系を見事に引き継いでいると言えよう。私たちは、そこに平和都市・広島という大きな物語とはまったく異なった「広島」のしたたかな民衆的記憶を見ることができるのだ。


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