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2009年06月30日

消え行く少女 前編・後編 白土三平(小学館クリエイティブ)

消え行く少女 前編 消え行く少女 後編
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 白土三平が、1959年に発表した『消え行く少女』の貸本単行本完全復刻版である。1999年に『白土三平初期異色作選』(青林工芸舎)に収録され、それが最初の復刻であったが、限定品ということもあり、広く読まれることは難しかったので、この二度目の復刻版の刊行は何よりの出来事である。

 物語は、1944年8月6日に広島で原爆被害にあった少女が、十年後に母を原爆症で亡くしてしまう。その後、近所の親切な家族に引き取られるが、自らも発症していることに気づき、医療費の心配をかけまいと戦争で生き別れた父親を探す旅に出かける。行く先々で様々な困難を乗り越え、戦時中に強制労働から逃れ、山に潜伏していた朝鮮人の男と出会い、これからの日々を暮らして行こうとするのだが、警察によって不幸にも引き離され、最後には一人で息絶えていく。そして、ビキニ島での水爆実験を伝える新聞記事に続き、街頭での原水爆反対運動を訴える学生の姿で幕が閉じられる。

 原爆という問題を字義通り正面から扱うと同時に、戦前、戦中の朝鮮人の強制連行とその彼らを更に強制的に帰国させるという事態も描かれている。漫画でこうした内容が可能となったのは、解説で中野晴行が指摘しているように、『難病少女もの』というジャンルが、当時、形成されていたことに由来するようである。白土は、そのジャンルを転用し、原爆による日本の被害だけではなく、強制連行による日本の加害の問題をも同時に描いたのである。1950年代半ばから、原爆を描いた映画や小説が数多く登場しているが、ヒューマニズムによって原爆の悲惨さを強調し、戦争を批判するだけでなく、日本の側の戦争責任、東アジア侵略の問題も同時に描き得た『消え行く少女』のラディカルな試みは、白土作品、日本漫画史のなかでも特筆していると言えるだろう。
 
 広島、長崎への原爆投下という人類史上の問題を漫画や映画といったメディアは、どう向き合い、いかに描き得るのか? 60年以上が経過した現在では、日本のみならず、世界的に研究が進められ、様々な議論もなされているのが現状である。そうした歴史的な積み重ねの一方で、その歴史を忘却する国家主義的な修整主義が国内で跋扈し始めている状況もあり、更に言うまでもないが、原爆という問題自体も決してなくなったわけではない。それどころかあらゆる国家にとって、未だ最大の関心事であり続けている。そうした意味では、その表象の可能性と不可能性をめぐって、50年前になされた白土の試みは、今なお積み残されているこの課題に対し、大きな問いを投げかけることになるだろう。
 
 ちなみに、本書は小学館クリエイティブの「復刻名作漫画シリーズ」の1冊で、白土作品としては一昨年の画業50周年記念のデビュー作『こがらし剣士』から始まり、10作品目にあたる。評論家や文化人などが執筆する解説を別刷りの小冊子として収めているほか、裏表紙が当時のオリジナル版になっているという演出も心憎い。その他には、手塚治虫、水木しげる、つげ義春などの復刻版も刊行されており、長く続けて欲しいシリーズの一つである。

テレビの青春 今野勉(NTT出版)

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 演出家、脚本家の今野勉が、1959年のラジオ東京(現TBS)入社から1970年にテレビマンユニオンを設立するまでに到った詳細が綴られている。TBS発行の『新・情報調査』に1999年から2007年まで、9年に渡って連載されたテクストがまとめられ、500頁を越す内容である。

 いまや人々の日常生活に欠かすことができないだろうテレビメディアが、一般に注目されたのは、1959年4月10日の皇太子(現天皇)の結婚式の生中継からである。そのブームによって、テレビは200万台を突破し、62年には1000万台を越え、普及率は50%近くになった。そうしたテレビの黎明期において、テレビのヌーヴェールヴァーグと呼称された今野を含む、演出部の若き6人(村木良彦、実相寺昭雄、並木章、高橋一郎、中村寿雄)の作家を中心に、当時のテレビ人が苦闘が様々な角度から細かに論じられている。また、大島渚、石堂淑朗、佐々木守ら創造社グループ、松本俊夫、寺山修司、唐十郎、谷川俊太郎、内田栄一らがテレビとどう関わって来たかなどを、テレビ史の側から体系的に論じられるのは秀逸である。今野個人の活動として、国映でのピンク映画『裸虫』の監督、発見の会への戯曲、演出参加などのエピソードや、また多くの作家たちがあまり語りたがらない大阪万博について、会社側とのやりとりや謝礼も含めての詳細な記述も貴重である。 
  
 今野らを語るとき、どうしても1968年のTBS闘争が注目されるのだが、本書は、むしろ68年に至るまでが中心となっている。テレビ論として、いまなお最も重要な一冊だと言える萩元晴彦、村木良彦、今野による『お前はただの現在にすぎないーテレビに何が可能か』(田畑書店、朝日出版社より再販)が、TBS闘争のドキュメントであることの影響が圧倒的に大きいのだが、彼らのテレビ表現論的には、TBS闘争は始まりではなく終わりであり、逆説的に新しい一つの始まりであったことを、再度、捉え返す必要があるだろう。もちろんTBS闘争については一章が割かれ、新しい事実も明らかにされているのだが、60年安保闘争を経験せざるを得なかった日本においては、歴史論的にも言えることだが、テレビにとっての「68年」は、60年に、60年代前半にあったと考えることができるのではないだろうか。彼らに先行する演出家たちへのインタビューも交え、あまり一般的に手にすることが難しいテレビ関係の資料にも言及している本書は、まさにこれからのテレビ研究の中核をなすだろう。

 そして、ひるがえって現在のテレビは、『テレビの青春』が投げかけた問いにどのように応えることができるのだろうか? 1970年代以降に肥大化し、徹底的に資本主義化したテレビにどのような可能性、潜在性を見ることができるのだろうか? しかし、それはテレビだけに止まらず、他のメディアや様々な表現に当てはまることでもあるだろう。