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2009年05月31日

『資本主義後の世界のために』デヴィッド・グレーバー、高祖岩三郎(以文社)

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昨年の金融危機と呼ばれる未曾有の事態を受け、誰もが饒舌にそれを語り、「活発」な議論がなされている。数年前まで礼賛されていたはずの新自由主義経済への批判は所与のものとなり、経済、政治をはじめとする様々な学者、ジャーナリスト、政治家までもがオルタナティブを提起している。しかしながら、そのほとんどは問題の本質を回避している。それらは今回の危機を引き起こした当の資本主義そのものを批判し、資本主義というシステム自体に手をつけようとはしないからだ。行き過ぎた新自由主義を戒め、社会民主主義的な修整をほどこし、それを延命させようとしているに過ぎないのだ。

翻ってそもそも、私たちは当の危機に責任のある人間の話を延々と聞かされなければならないのだろう。なぜ失敗した彼らの言い訳や「建設」的な次の意見に根気良く耳を傾け続けなければならないのか。そして、更に根本的な問いとして、金融危機と呼ばれる事態を収拾するのに、なぜ経済、経済学だけに頼らなければならないのか再考する必要があるだろう。そもそも危機なのは、いまある経済であり、経済学であり、資本主義自体であるからだ。一方、冷戦崩壊以降、影を潜めていたマルクス経済学者も、表現はどうあれ、資本主義において危機は必然だと指摘しているに過ぎない。よって、今、私たちに必要なのは、彼らすべてに退場を宣告し、私たちだけで資本主義のその後のオルタナティブを議論し、実践していくことなのではないだろうか。

ロンドン大学ゴールドスミス校のアナキスト文化人類学者のデヴィッド・グレーバーとNYの活動家/批評家の高祖岩三郎による対話が所収された本書は、こうした問いに最も的確に応答している数少ない書物の一つである。地球の歴史のなかで、たがだか数百年にも満たない資本主義に、人間ー世界ー地球の未来を託すわけにはいかないという単純な事実が、文化人類学的な射程の広い様々な観点から指摘されていく。マルセル・モースの「贈与論」から引かれるグレーバー的価値論は特筆すべきであり、そこから負債論として展開された論文も収録されている。こうした理論は、グローバル資本主義下における新たなる運動的戦略として世界的に注目されているのだが、近く翻訳刊行されるグレーバーの「Toward an Anthropological Theory of Value」とともに、日本でも多くの議論が巻き起こることを期待したい。

しかし、同様に理論的に秀逸な分析は他にも指摘できようが、本書で何よりも感動的なのは、シチュアシオニストのヴァネーゲムについての章の以下の箇所だろう。「コネチカット州ハートフォードやカンザス州ローレンスの十代のパンク少年が、ヴァネーゲムの『若者用処世術概論』を大切に読んでいるのを見ると、胸が打たれます。この本はほとんど半世紀前にフランスで書かれたものです。それがいまだに疎外されたアメリカ郊外の若者に訴えかけるのです。」 つづけてポスト構造主義者の疎外論批判を引き、それに理論的に反駁することは難しいとしながら、「しかし繰り返すと、人生はわれわれの言説から生まれるのではありません。それらの議論がいくら正しとくも、人びとはやはり疎外を感じているのです。少なくとも多くの人びとは感じているでしょう。ですからヴァネーゲムがアメリカ中部の少年たちにいま読まれているのです。」と結んでいる。

資本主義が唯一絶対として「信仰」され、シニカルな疎外論批判や運動批判が、いまだにまかり通ってしまう日本において、これほど勇気づけられる発言はないに違いない。私たちは、資本主義側の諸学者たちが何をどう発言しようと、運動の可能性を模索し、資本主義後の世界を想像/創造、実践していかなければならないのだ。

よって本書が提示/予示しているのは、非現実的なユートピアではなく、来たるべき世界に違いないと言えるだろう。


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