2009年02月09日

『金融危機の資本論 グローバリゼーション以降、世界はどうなるのか?』本山美彦 萱野稔人(青土社)

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【新自由主義は終わるのか?】

「貧乏、恐慌、危機。そんなタイトルのついた本しか売れない」。
出版に携わるすべての友人たちが、そう嘆く。その通りだろう。事実、出版産業の最末端で日銭を稼ぐ私の仕事も壊滅状態である。1月から驚くほど激減した。バブル崩壊直後をはるかに凌いでいる。恐ろしいのはいつまで続くか見当もつかないことだ。生活資金は日一日と危険水域に近づいている。今や出版は広告の下僕である。すべては紙からネットへ、モバイルへと流れているが、実はそこも危ない。広告費全体が急激に縮小しているからだ。そのうえ人はもうネットに飽きはじめた。業界人たちは当然知っている。だから言わない。尻についた火が熱い。

 広告は「空気」を作って売る。その意味で金融に極めて近い。いや、逆だろう。金融は「純粋広告」なのである。広告は物に取り憑いた「亡霊」である。商品を飾り、商品の幻影を作り出す。ところが金融には物など要らない。金そのものに取り憑いた「怨霊」なのである。どこにでも飛んでいく。何にでも憑く。際限なく大きくも小さくもなる。場合によっては金主を呪い殺す。複雑怪奇な金融工学は魑魅魍魎のアリバイ工作である。新自由主義はそういう怨霊のような金融資本の原理主義なのである。しかし、肚を探ればどんな人間でもいくらか秘めた博打打ちの思想だからこそ、「新自由主義」は強力である。

 かつてデイ・トレーダーを煽る竹中平蔵を、日雇い労働者を描いた映画『山谷 やられたらやりかえせ』に映った路地裏でサイコロ賭博を仕切る筋者に譬えたことがあった(「現代思想」2006年2月「フランス暴動」特集)。この直感は正しかったと思う。彼は「転向」した中谷巌とは違う。そんな荒い衝動があるのだろう。廃れゆく和歌山の小さな靴屋に育った息子が単純明快な新自由主義にしがみつく悲しいほどの頑強さを、衰えゆく新宿赤線地帯の洗濯屋に育った一つ年下の私は理解できる。

 こういう人物を、彼を生んだ根拠もろとも批判すべき時なのである。その屁理屈を支える深みを抉らないから、金子勝はじめ社民化した旧マルクス主義者たちの発言にはまったく迫力がない。この二人の慶應大学教授も含め、現下大量に売りに出されている「経済理論」の類いは貧者には何の役にも立たない。景気も株価も上下するだろう。福祉と市場化はハイブリッドされて繰り返される。それでも貧乏人はますます増える。社会の底に降り積もっていく。大いなる善意にせよ周到なる悪意にせよ、経済学者たちの言うことが、地獄の旅の一里塚に立つ怨霊たちの揉み手に見える。

 若き日の竹中がそこから立ち去っていったような、社会の底から新自由主義を否定すべきである。この点で、経済学者・本山美彦と哲学者・萱野稔人による対論『金融危機の資本論』は分かりやすく、かつ考えさせるものを含んでいる。

 サブプライム・ローンという金融商品は、貧乏人には「家を持てる」という幻を売り、企業や金持ちには「安心して巨利を」という幻を売る。幻と幻がぶつかり合ってどんどん膨らんでいく「幻魔大戦」のようなものだ。「価格を決定する最も重要なファクターとは何でしょう?」と問う萱野に、本山は「イリュージョンです(笑)」と答えている。ここには、少なくとも慶應の二人とは違って幻に振り回される下っ端の人間たちの笑い声が聞こえるだろう。

 そして1929年の「大恐慌」時代と比較しながら、現代のアメリカによる「金融覇権」体制の展開を丁寧にトレースして、地場に高付加価値な産業を育成していくようなアジアの社会民主主義を提唱していく。こうダイジェストすると寺島実郎とたいして変わらないように聞こえるだろう。若い世代の思想誌「VOL」の編集委員を務める萱野の方はフリーターの運動にも関わり、いわば「プレカリアート的」と目される場所から発言してきたと思う。その彼も、「アメリカから自立してアジアの製造業にきちんとファイナンスできるようなシステムを構築できれば、今後のアジアの世紀において、日本は持続的にアジアの発展を支える役割を担うことができるでしょう」と締め括るのである。

 とはいえ、そうリテラルに、素朴に読んでしまっては面白くない。2000年に長期信用銀行が米国ファンドに買い取られたのをきっかけに、ある種の「経済的ナショナリスト」になったという本山に、「それ以前は?」と萱野が聞くと「むしろ反日でした(笑)」と応えるのである。ナショナリズムに批判的だった二人が「経済的ナショナリズム」を提言する。苦笑しながら語るこの「捩れ」にこそ、本書の魅力がある。

 新自由主義は本当に終わるのか?

 ここでは「短期」と「長期」、二重の視野が必要である。たしかに短期的にはそうした方向がベターに違いない。そうしなければ貧者は生きられないからだ。その先に「ベーシックインカム」のような構想を寄り添わせることができれば、資本主義から「逃走」できる基盤が生まれるかも知れない。しかし、二人の話はいつの間にか「日本」が主語になっていく。その主語が開く場所で、本山が語る高度成長を支えた「長銀へのノスタルジー」は、和歌山の靴屋の倅が肚に秘めたルサンチマンに対抗できるのか?

 政策はケインズとハイエクの間で蛇行し続けるだろう。蛇行しながら、毎日毎日人間を叩き落とす。巨富に溺れる人間が力を握っているかぎり、新自由主義は簡単には終わらない。その力を覆すような、社会の底からの「主語」が語る長期の視野が必要だ。

 街はまだ不気味なほど静かである。しかし、終電間近い新宿駅の地下に行けば、ついこの間そこに寝ることを覚えたばかりの人びとに出会うことができるだろう。まだ汚れていないジャンパー、路面に1枚だけの慣れない段ボール生活。ハウスを作ることも知らない20代、30代の顔だ。そういう人たちがひたひたと増えている。もう駅も警察もすぐには排除できない。

 貧者たちは音もなく積み重なり続けている。


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