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<title>早瀬晋三の書評ブログ</title>
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<description>早瀬晋三（歴史学）</description>
<language>ja</language>
<copyright>Copyright 2012</copyright>
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<title>『ビルマ独立への道－バモオ博士とアウンサン将軍』根本敬(彩流社)</title>
<description><![CDATA[<p>
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　著者の本書への思いは、「エピローグ－この本を読んだあとに」の冒頭のつぎの文章によくあらわれている。「本書を読み終えたいま、皆さんはどのような印象を持ったでしょうか。バモオ博士とアウンサン将軍の人生をたどり、関連してアウンサンを暗殺したウー・ソオの事情を知り、さらに戦後のビルマと日本との関係を知ることによって、両国がここまで深い関係を持っていたことに驚いたり、新鮮に感じたりしたのではないでしょうか。少しだけ触れたアウンサンスーチーの思想に感銘を受けた人も多いでしょう」。「そうした驚きや新鮮な感情、感銘を大切にして、これからもビルマのことに関心を持ち続けてください。そして、この本を通じて得た知識を基に、自分なりの「問いかけ」を持ってもらえればと思います。ビルマと日本とのより良い未来の関係を築くために、どのようなことをすれば良いのか、どのようなことができるのか、ぜひ考えてみてください」。<br>
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　といわれても、本書の主人公であるふたりが何者であるかがわからない人には、ピンとこないだろう。ふたりの略歴は、それぞれ表紙の返しにつぎのように説明されている。「バモオ　ビルマ独立運動と深く関わった知識人政治家（1893～1977年）。英領植民地期に英国とフランスに留学、ビルマ人初の哲学博士となる。1937年英領ビルマ初代首相に就任、42年6月、日本軍によるビルマ占領がはじまると中央行政府長官を経て翌年「独立ビルマ」の国家元首となる。日本軍敗退後、亡命して新潟県石打の寺院にかくまわれるが、46年1月GHQに自首。同年8月、英国政府の恩赦でビルマに戻る。独立後は政界復帰することなく、1960年後半には政治囚として刑務所に収監されるなど、死ぬまで不遇の日々を送る」。<br>
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　「アウンサン　ビルマ独立運動の指導者（1915～1947年）。アウンサンスーチーの父。1936年ラングーン大学学生ストライキを指導、38年反英民族団体タキン党に入党、40年鈴木敬司陸軍大佐の画策で対ビルマ工作をおこなう南機関に参加、仲間と共に日本軍の軍事訓練を受ける。41年12月に日本が米英と開戦するとビルマ独立義勇軍を率いて祖国に進軍。日本軍占領下では対日協力に立つバモオ政府に加わり国防大臣を務める。44年8月ひそかに地下抗日組織を結成、翌年3月、バモオ政府と袂を分かち抗日蜂起に転じる。戦後は英国と地道に交渉を重ね独立への道筋を確定させるが、47年7月政敵によって暗殺されてしまう」。<br>
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　本書は、同著者の『抵抗と協力のはざま－近代ビルマ史のなかのイギリスと日本』（岩波書店、2010年）を基に、「15歳からの「伝記で知るアジアの近現代史」シリーズ」の1冊として書かれた。「しかし、構成を含め、大幅に内容を書き換え、一部重複するとはいえ、別個の中身を持つ本」になったという。<br>
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　本シリーズは、「抗日派だけではなく、「親日」とみなされてきた人々も積極的に取り上げる」としているが、著者は「抗日」「親日」という二項対立的にとらえるのではなく、ひとりの人物が状況により「抗日」にもなれば「反日」にもなったことを、これらふたりのビルマ人を通じて明らかにしている。とくに、独立後のビルマで、高く評価されたアウンサン将軍にたいして、低い評価しか与えられなかったバモオ博士の再評価をしている。<br>
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　32歳の若さで暗殺されたアウンサン将軍にたいして、バモオ博士は1937年に44歳でイギリス領ビルマの初代首相に就任し、43年には日本軍によるビルマ占領下の「独立ビルマ」の国家元首になった。ともに主権を制約されたなかで、「協力姿勢を基盤にして相手の信頼を獲得し、そのうえで可能な範囲で自己主張や抵抗を行う」という難しい対応を迫られた。しかも、多数派の政治勢力に属しておらず、ビルマ人の政敵からも激しい批判を浴びながらの政治的判断をしなければならなかった。<br>
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　このふたりの関係は、フィリピンの第一の国民的英雄ホセ・リサール（1861-96）とフィリピン共和国初代大統領（1899-1901）アギナルド（1869-1964）との関係に似ている。実際に政務を執ることなく若くして死んだ者と、長く生きて失政もおかした者の、後世の対照的な評価という点においてである。坂本龍馬（1836-97）も、理念だけがもてはやされ、実行力が問われる前に暗殺された。本書のバモオ博士のように、しっかりとした学問的成果を基に再評価すべき人物は、どこの国にもいるだろう。<br>
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　また、日本占領下の「抵抗と協力のはざま」は、フィリピンでも同じことが起こっており、バモオ博士が1943年11月に東京で開催された大東亜会議に出席したときに同席したフィリピン共和国大統領ラウレルも、同じ姿勢で日本占領下で耐える日々を送っていた。フィリピンは、ビルマより2ヶ月半ほど遅れた43年10月14日に日本軍から「独立」を与えられた。<br>
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　日本軍の将兵にたいするビルマ人の怒りの原因についてのつぎの説明も、フィリピン人と共通のものであった。「日本軍の将兵らが基地の外でビルマ民衆に平手打ち（ビンタ）を行うことがあったため、ビルマ人の怒りを買いました。ビルマの文化では、人前で平手打ちをされることは、その理由を問わず許されない屈辱として受け止められています。言葉による意思疎通ができないとすぐに怒って平手打ちをする一部の日本軍将兵は、憎しみと軽蔑の対象となりました。さらに、人前で裸を見せることを極端に嫌うビルマ人の文化を無視して、兵士らが平気で彼らの前で全裸になって水浴びをしたことも、日本軍への反感を生じさせました。ビルマの人々は水浴びの時もふつう全裸にはなりません」。<br>
<br>
　このように、ビルマなどそれぞれの国・地域を東南アジア史のなかで相対化することによって、それぞれの国・地域の独自性と、日本軍政の共通性、さらに世界性・時代性といったものがみえてくる。そして、東南アジアのそれぞれの国・地域と日本との深い関係がみえてきて、その関係を大切にしなければならないことがわかってくる。<br>
<br>
　そして、この書評で引用した冒頭の文章につづけて、著者は「エピローグ」で「少数民族の立場」「経済発展と人権」「歴史を知ることの大切さ」の3つの項目を設けて、ビルマへの理解を深めてもらおうとしている。これも、東南アジアのほかの国ぐにに共通することだろう。本書をきっかけに、ビルマからさらにほかの東南アジアの国ぐにへの関心が高まることを期待したい。そうすることによって、ビルマをもっと深く理解できるようになるだろう。<br></p>
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<category>地域研究</category>
<pubDate>Tue, 15 May 2012 10:00:00 +0900</pubDate>
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<title>『日本をめざしたベトナムの英雄と皇子－ファン・ボイ・チャウとクオン・デ』白石昌也(彩流社)</title>
<description><![CDATA[<p>
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　「15歳からの「伝記で知るアジアの近現代史」シリーズ」第1巻として取り上げられたのが、ベトナムのファン・ボイ・チャウとクオン・デである。表紙には、「独立の闘士たちが見た日露戦争後の日本とは？　壮絶な人生ストーリー」とあり、ホー・チ・ミンなら知っているという人のために、裏表紙にはつぎのように書かれている。「逃亡、追跡、仲間たちの非業の死……　何度も挫折し、命がけで闘った数々の若き人々。ホー・チ・ミン出現前夜、もうひとつのベトナム独立運動史」。<br>
<br>
　国際空港に行くリムジンバスのなかで、若い女性が「ホー・チ・ミンって、人の名前なの？」と言ったのを聞いたことがある。そんな人も、本シリーズを読むことができるよう、執筆者・編集者は配慮している。シリーズの目的は、つぎのように説明されている。「欧米中心の偉人伝とは一線を画す、アジアの伝記シリーズ。本シリーズは、その国の歴史でヒーローとして扱われる抗日派だけではなく、「親日」とみなされてきた人々も積極的に取り上げる。日本にあこがれ、日本を目指したがために、「現実の日本」と直接向き合い、格闘せざるを得なかった彼らの目線をとおして、大人も知らなかった日本の近現代を逆照射する。日本とアジア、そして世界の歴史が変化していく中で、彼らはどのように翻弄され、どのような迷いや悩みを抱いたのか－　目的をとげ成功をおさめた偉人ばかりでなく、挫折し、失意のうちに生涯を終えた人びとの生き様を中高生に伝える」。<br>
<br>
　静岡県袋井市（旧浅羽町）常林寺境内に「浅羽佐喜太郎公紀念碑」がある。建てたのは、本書の主人公のひとり、ファン・ボイ・チャウである。漢文で書かれた碑文の訳（前半）と書き下し（後半）を、袋井市観光協会浅羽支部のホームページからみつけることができる。「われらは国難（ベトナム独立運動）のため扶桑（日本）に亡命した。公は我らの志を憐れんで無償で援助して下さった。思うに古今にたぐいなき義侠のお方である。ああ今や公はいない。蒼茫たる天を仰ぎ海をみつめて、われらの気持ちを、どのように、誰に、訴えたらいいのか。ここにその情を石に刻む」。「蒙空タリ古今、義ハ中外ヲ蓋ウ。公ハ施スコト天ノ如ク、我ハ受クルコト海ノ如シ。我ハ志イマダ成ラズ、公ハ我ヲ待タズ。悠々タル哉公ノ心ハ、ソレ、億万年」。この後、「戊牛春」「越南光復会同人謹誌」「大杉旭嶺鐫」とあり、紀念碑裏面には、「大正七年三月。賛成員　岡本三治郎、岡本節太郎、浅羽義雄」とある。<br>
<br>
　浅羽佐喜太郎は、1907年にベトナム人留学生のひとりが道端で疲労で倒れているのを介抱したのが縁で、かれの学費を援助し、さらに日本政府の弾圧で苦境に陥ったベトナム人留学生にたいして1700円の大金を提供した恩人として、本書で説明されている。「光復会」は、立憲君主制を目指した「ベトナム維新会」を引き継いで1912年に設立された組織で、共和制を目指した。<br>
<br>
　本書で注目されるのは、ふたりの活動の舞台の広がりと、国内での地域性である。ファン・ボイ・チャウは北部のハノイと中部のフエのちょうど中間にある教育熱心で華僑合格者を多数輩出した貧しい農村地帯で生まれた。いっぽう、クオン・デは、阮朝初代皇帝の長男の直系でありながら、初代皇帝より先に長男が死んだために傍流に追いやられた家系に属していた。とくに初代皇帝の出身地で、フランスの直轄領になった南部にゆかりがある。しかし、国境近くの山岳地帯には、阮朝もフランス植民地政府も手を出せなかった「大親分」がおり、各地に「海賊や山賊の親分みたいな人物」がいたことが記されている。<br>
<br>
　いっぽう、独立運動の舞台は、中国を中心に日本やタイにも及んでいたことが、本書からわかる。ベトナム人留学生が日本に来たのも、日本が中国人の革命運動の拠点のひとつとなり、ベトナム人も日本滞在中の梁啓超や孫文などと交流があったからである。また、日本はインド人やフィリピン人などの民族運動の活動拠点のひとつでもあった。アジア人活動家の集う場所であり、それにたいして日本人アジア主義者や軍部がかかわった。<br>
<br>
　ベトナム国内で弾圧を受けた者は、中国やタイ、日本に逃れた。中国では、中国国民党や軍閥の保護を受けた。タイとの歴史的かかわりは、つぎのように説明されている。「タイの東北部や東南部にはベトナム人が古くから定住して、あちこちに固まって住んでいました。グエン・フク・アィン（後のザー・ロン皇帝）が阮王朝を創始する以前タイに一時亡命した際に付き従った部下や兵士たち、1880年代の反仏蜂起に参加して敗れた後に逃れてきた難民、そしてフランス人宣教師とともに移住してきたカトリック教徒や、その子孫たち」、クオン・デが「とりわけ当てにしたのは、ザー・ロン皇帝ゆかりの移住者たちの子孫」だった。<br>
<br>
　2010年11月3日、フエンのファン・ボイ・チャウ旧居敷地内に、ファン・ボイ・チャウ没後70年、浅羽佐喜太郎没後100年を記念して、「東遊運動が生んだ日越友好之碑」が、日本人有志によって建立された。袋井市では、シンポジウムが開催され、ベトナムとの交流が続いている。<br>
<br>
　「15歳から」というシリーズの意図はよくわかるが、このことは大人であっても、なにも知らないことを前提に本を企画し、執筆しなければならない嘆かわしい状況にあるということをもあらわしている。ベトナムに観光旅行に行く若い女性が、ホー・チ・ミンの名前を知らないことに、驚きもしない現実がある。<br></p>
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<category>歴史</category>
<pubDate>Tue, 08 May 2012 10:00:00 +0900</pubDate>
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<title>『戦友会研究ノート』戦友会研究会(青弓社)</title>
<description><![CDATA[<p>
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　本書は、1978年、80年に続く2005年の全国規模の戦友会調査を踏まえて書かれている。1978年、80年の調査が戦友会の最盛期であったのにたいして、2005年の調査は「戦友会の終焉を意識したものであった」。<br>
<br>
　本書の目的は、表紙につぎのように書かれている。「軍隊での戦闘体験を共有した仲間が作った戦友会は、数と規模、そして会員の情念と行動力の強さから日本独特の社会現象である。会員への聞き書きも含めて、軍隊や戦争への感情、死んだ戦友への心情などを60項目で浮き彫りにし、戦争体験の継承をめざす」。そして、「新しい研究者への誘い水になることを期待して、戦友会についての基礎知識を提供しようとするものである」。<br>
<br>
　本書では、「戦友会そのものについての情報と、関連情報とを、まとめて体系的に語ることは難しいと考え」、「戦友会に関連した情報をあえてバラバラに提示」し、「本文となるべきもの、註となるべきものを、それぞれ小項目として提示」している。読む事典として便利であるが、執筆者が期待した「読者の頭の中で組み合わせてもらう」ことは、それほどやさしいことではない。<br>
<br>
　まず最初の項目「戦友会と伊藤桂一」で、「戦友会を成りたたせているのは、慰霊、親睦、体験の語り合いの三つです」と伊藤から教わったことなど、戦友会の基本を理解させ、続く「日本軍の組織・編制」などで基本的知識を与えている。たとえば、「戦後世代にとって、旧日本軍についての記述のなかで、最もわかりにくいのが部隊の呼称である」が、「通称号」の項目で、つぎのように説明している。「日中戦争がはじまった一九三七（昭和一二）年、戦地にある部隊を秘匿するために、指揮官の姓と部隊の種別を組み合わせる表記が用いられるようになった」。しかし、「この方式は、指揮官が変わると部隊名・隊名が変わることになり、混乱すると考えられたためか、一九四〇（昭和一五）年改訂が加えられ、「通称号」が導入された」。「「通称号」とは、「兵団文字符」と「通称番号」からなるものである。「兵団文字符」とは、軍・師団・旅団といった大きな兵団に、漢字一文字か二文字を与えたもので、例えば、ビルマ方面軍には「森」、第十四方面軍には「尚武」、第十一師団には「錦」が与えられた」。「「通称番号」は数ケタの数字であるが、必ずしも連番ではない。「通称号」によって、大きな部隊から小さな隊まですべて固有名をもつことになった。なお、中隊や小隊は、従来どおり隊長名をつけた」。<br>
<br>
　靖国神社との関係も、「靖国神社と戦友会」で、つぎのように説明している。「護国神社では、戦友が祭神として祀られていない場合もあり、神籬を置いて降神の儀をおこなわなければならないが、靖国神社はいつも全員が祀られているのでなんの問題もないと考えられているようである。靖国神社でしか慰霊祭をやらない戦友会もあるが、その大きな理由もそこにある」。<br>
<br>
　そして、目下の研究目標として、つぎのことを考えているという。「解散した戦友会を含めて、戦後存在した戦友会をすべて記録にとどめ、関係資料の所在を明らかになるようなデータベースを構築することを目下の研究目標としている。それはわたくしたちの研究の総まとめの意味もあるが、新しい研究者のために役立たせることができればと思ったためでもある」。このデータベースでは、国立歴史民俗博物館が2003年に調査結果を発表した戦争記念碑の不充分さも補えるいう。30余年にわたる共同研究の総まとめを期待したい。<br></p>
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<category>歴史</category>
<pubDate>Tue, 01 May 2012 10:00:00 +0900</pubDate>
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<title>『世界システムと地域社会－西ジャワが得たもの失ったもの 1700-1830』大橋厚子(京都大学学術出版会)</title>
<description><![CDATA[<p>
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　こういう本は、勉強になるからといって、すぐ読むことができるものではない。心の準備ができるだけの知識と目的意識が必要だからだ。<br>
<br>
　本書は、序論、5編17章、結論からなる。序論で本書の研究姿勢を明らかにし、第1編3章で研究方法を論じ、以下各編の終わりで編全体のまとめをして、結論へと読者を誘っている。これだけ周到に論を進めていても、本書を読み理解するのは、それほど簡単ではない。それは、本書の第一の特徴である「普通の人々」を、グローバルヒストリーのなかで理解しようとしたからであろう。<br>
<br>
　著者、大橋厚子は、「序論」で、本書が目指した研究史上の2つの貢献を、つぎのように述べている。「第1は、近年盛んになりつつある東南アジア型発展径路の研究に、産業資本導入の初期条件を分析した事例を提供することである。その中で、輸出用作物栽培が、貨幣経済と分業とが発達した社会に導入された場合と、貨幣は使用しても貨幣経済や分業が発達しているとは言えない社会に導入された場合とでは、中央政府の果たす役割、および栽培が住民に与える影響が異なっていること、そして後者の場合、開始期における政府の便宜供与は必須であること、を示したい」。<br>
<br>
　「第2は、同じく近年盛んになりつつあるグローバルヒストリー研究の中で、普通の人々の役に立つ、あるいは彼らの立場に立った研究の可能性を探ることにある。この試みは、植民地政庁の政策とこれに対する人々の日々の対処が社会変化を生み出すという認識枠組のもとに行なわれる」。<br>
<br>
　著者は、本書が対象とする17世紀末から1830年までのジャワ島西部プリアンガン地方が、これらの考察の課題にたいして、きわめて適合的な条件を備えている、という。そして、著者は、さらに、「コーヒー栽培の拡大とともに焼畑移動耕作から水田耕作へと食糧生産の重心が移りながら開拓が進む土地での社会変化は、総体としてどのようなものであり、住民に如何なる影響を与えたであろうか」と問い、つぎのように考察を進めたいとという。「プリアンガン地方でこの事態が進行した時代は、I.　ウォーラーステインによって「広大な新地域の『世界経済』への組み込み」が議論された時代と同時代である。さらに社会変化の内容も、輸出用作物栽培における「大規模意思決定体の出現」など「組み込み」論で示されたクライテリアが使用可能な部分がある。そこで本書では、ウォーラーステインの「組み込み」論を批判的に応用して社会変化の分析に利用する。すなわち、グローバルな動向を世界各地の普通の人々に伝える媒介項として、地域社会の形成・変質を考察の中心に据える。組み込む側と組み込まれる側の相互作用を前提とし、さらに東南アジア島嶼部に特有の生態・社会組織および貿易環境が政庁や在地の人々の活動に与えた影響に注目する。加えて植民地政庁による中央集権の進行および地域性の変質を鮮明に示すために、植民地政庁に始まり、政庁に直属する現地人首長、下級首長、集落の長、男性住民、そして一般の主婦に至る社会関係の連鎖に焦点を当てたい」。<br>
<br>
　本書を通じて、これまでの問題提起や仮説を支持する結果になったものもあれば、逆に否定する結果になったものもあった。ジャワ島内だけでも地域差があり、ましてやオランダ領東インド全体をひと言で括ることには無理がある。だからこそ、著者は「本書で行なう分析のひとつひとつは実証が充分とは言えない」という。それは、できうるかぎり実証的に考察をおこなった、あるいはおこなおうとしたから言えることだろう。<br>
<br>
　そして、その結果、「近代世界システムによる「組み込み」がプリアンガン地方の末端で現地首長層および住民に見せた顔は次のようであったと言える」としている。「第1は独占の追求である。ヨーロッパ諸国同士および現地の大国との外交交渉によって貿易そのほかの独占権を確保し、主要港湾都市を管理する。さらに内陸輸送については交通インフラを独占的に建設し、金融サービスおよび生活必需品の供給を独占する。第2は、初期段階における具体的な恩恵の独占的提供である。首長層には経済社会的上昇階段を提供し、首長層および住民には、食糧・資金・物品という可視的かつ生活や生産に無くてはならない利益を提供する。利益の中には、輸送の肩代わりなど住民に安楽を与えるサービスの提供も含まれた。そして第3に、恩恵を与えるに際し、条件を提示して首長層や住民を選別した。その条件は、植民地政庁に無断で移動せず、政庁の決めた作業場・仕事内容・スケジュールで労働することであった。こうして世界システムが、まず最初に利益供与を行なうことによって対価として住民から巧妙に奪ったものは、生産と生活上の選択肢や決定権であった」。<br>
<br>
　さらに、「普通の人々のグローバルヒストリーにおける事例研究のひとつとして、本書の考察が現代の人々に対し何らかのより良い対処法を示唆することができるであろうか」と問い、つぎのように答えている。「一般的には、目先の便宜供与・経済の活性化と引替えに、知らず知らずのうちに、生業を営み生活を組織する決定権を手放さないこと、同様に、生存戦略の選択肢を不用意に減らさないことを提案できよう。経済の向上や活性化の影で起こるこのような事態は、政策を実施する側も意図していない場合が多いが、そのような誘惑がどのようになされるかについてもヒントを提供し得たと思う」。<br>
<br>
　そして、「最後に、インドネシアの現在についてここで述べたことの一部は、日本についても言えることを指摘して本書を終わりたい」と、「結論　「地方」は、なにゆえに地方になったか？－あるいは「普通の人々」のグローバルヒストリーのために－」を結んでいる。<br>
<br>
　概説で述べられていることを、実証することは容易いことではない。本書で著者がこだわり続けているのは、植民地政庁や現地エリート層によって語られてきた制度史では理解できない「普通の人々」のグローバルヒストリーへの「組み込み」である。そのために、限られたデータをフルに使って「得たものと失ったもの」を明らかにしようとした。その姿勢から学ぶことがひじょうに多いが、その困難さも本書から伝わってきた。<br></p>
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<category>歴史</category>
<pubDate>Tue, 24 Apr 2012 10:00:00 +0900</pubDate>
</item>
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<title>『3・11複合被災』外岡秀俊(岩波新書)</title>
<description><![CDATA[<p>
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　1995年の阪神・淡路大震災のときは、すぐに2階から震源地の見える実家に行き、その後の復旧状況も具に見たが、しばらくすると報道を見聞きすることができなくなった。今回の東日本大震災・福島第一原子力発電所事故の報道も、しばらくすると見ることができなくなった。被災地に行くかわりに行ったのが、玄海島だった。島は、2005年3月20日に震度7と推定される地震（福岡県西方沖地震）に見舞われ、全225戸中173戸が全半壊し、ちょうど1ヶ月後の4月20日に最大余震5強で半壊住宅がすべて全壊した。人口700人ほどのすべてが、代表者10人ほどを残して島外に避難した。<br>
<br>
　博多埠頭から福岡市営渡船が日に7便運航し、約35分で玄海島に到着する。周囲4.4キロの島は、6年たってようやく周回道路で1周できるようになっていた。港付近の平地には数階建ての集合住宅が建ち、そのひとつのエレベーターで屋上まで行くと、高台の一戸建て住宅街にいたる道があった。そして、そのさらに上に玄海小学校・中学校があった。玄海灘の南に面した住宅街は、東日本大震災のような津波に襲われることはないかもしれないが、ひとつの復興モデルが示されていると感じた。その体験は貴重で、震災後宮城県名取市などと交流している。<br>
<br>
　本書は、震災後現地を歩き、1年たって回顧しながら、全体像を描こうとしたものである。著者、外岡秀俊は、その3月に新聞社を退職し、退職後フリーの立場で取材を続けた。そして、本書の目的・目標をつぎのように語っている。「東日本大震災について、何が起きたのかを、できるだけわかりやすく、コンパクトに伝えることを目的に書かれています」。「たとえば震災から一〇年後の二〇二一年に中学・高校生になるあなたが、「さて、3・11とは何だったのか」と振り返り、事実を調べようとするときに、まず手にとっていただく本のひとつとすること。それが目標です」。<br>
<br>
　たしかに本書では「何が起きたのか」を書いているが、気になったのは「何かが起きたかもしれない」福島第二原発、東海第二原発のことも書いてあることだった。福島第一原発については、当然、今後詳細な検証がされるだろうが、同様のことが福島第二原発や東海第二原発でも起こった可能性があるなら、それは原発そのものの危険性を示すことになり、検証の仕方も意味も変わってくるだろう。北海道開拓記念館の常設展示では、数百年に一度襲う大津波が地層にあらわれている展示がある。「想定外」という言い逃れがさかんに使われたが、「想定」はどの程度の対策をとるのかという結論があって、逆算して導き出されたものだろう。すこし調べればすぐにわかることだし、このブログで震災前にとりあげた岩波ジュニア新書（西尾漠『新版　原発を考える50話』）を読んでいれば、事前に「想定」できたはずである。できなかったのは、はじめから変更不能のシナリオができていたからであろう。それが「安全神話」になってしまった。<br>
<br>
　この「神話」について、著者は、10年後の読者に、つぎのように語りかけている。「それまで、原発について政府や電力会社は、事故を起こさないため何重もの防護装置を施してあるので、絶対に安全だといってきました。事故が起きて重点的に避難する地域も、原発から一〇キロ圏内にとどめ、事故が起きた場合に司令塔となる防災施設も、原発のすぐ近くに置いていました。そのため、実際に「想定外」の事故が起きたときに、政府の対応は遅れ、被害は拡大してしまいました。どんな場合でも、「絶対に安全」ということはできません。それをなぜ、どのように「神話」にしてしまったのか。「3・11後」を生きるあなたに、考えていってほしいと思うのです」。「絶対に安全」でないものはすべて拒否するのか、災害や事故を完全に防ぐことはできないことを前提に容認するのか、難しい問題を次世代は考えなければならなくなった。<br>
<br>
　そのためには、この複合災害の事実、とくに科学で解決できないことを、人びとの心を考える人文力で補ったことを忘れてはならないだろう。科学力だけを根拠とせず、人文力の助けを借りながら、どう科学と向き合うのか。そのことを、著者は「はじめに」で、つぎのように語っている。「大災害であっても、「今」を生きることに懸命な日々がかさなると、つい意識から遠ざかり、「なかったこと」にしてしまうようになりがちです。失われた命、失われた故郷を思う人々と共に生きるには、忘れないこと、いつまでも記憶し続けることが何よりも大切だと思うのです。そしてそのことが、次の大災害で、あなたや身近にいる人の命を、ひとりでも多く、救うことにもつながるのだと思います」。<br></p>
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<category>社会</category>
<pubDate>Tue, 17 Apr 2012 10:00:00 +0900</pubDate>
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<item>
<title>『国家と歴史－戦後日本と歴史問題』波多野澄雄(中公新書)</title>
<description><![CDATA[<p>
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　2001年から06年の首相在職中、毎年靖国神社に参拝し、内外で物議を醸した小泉純一郎も、ちょうど小学校時代と重なる大学新入生にとっては「過去」の人で、説明をしなければならなくなった。なぜ日本は「戦後」という過去を、現代の問題として引きずりつづけなければならないのか、本書は学生に説明するいい教材になる。日本の学生などの若者にとって、すでに「終わった」はずの過去にこだわる人びと、とくに日中戦争とは無縁のはずの自分たちと同世代の中国人の「反日」が理解できない。本書を読めば、その理由もわかるだろう。<br>
<br>
　その理由のひとつは、国家間で解決済みの問題も個人の問題としては残っているからである。本書の帯の裏には、「国家間の問題から個人補償へ」の見出しのもとに、つぎのようにまとめられた文章が載っている。「アジア・太平洋戦争の「清算」は、一九五一年締結のサンフランシスコ講和を始めとする一連の条約で終えたはずだった。だが、八〇年代以降、教科書、慰安婦、靖国神社、そして個人補償請求と問題が噴出。日本政府は司法の支持を頼りに、一連の条約を「盾」とし跳ね返してきたが、世界の民主化、人道主義の浸透の前に政策転換を余儀なくされつつある。戦後日本の歴史問題の軌跡を追い、現代国家はいかに歴史と向き合うべきかを問う」。<br>
<br>
　著者、波多野澄雄は、「一九七九年の防衛庁防衛研修所戦史部（現・防衛省防衛研究所）への入所以来」三〇年間、「国の歴史事業に絶え間なく取り組んだ」歴史研究者である。その戦後処理事業を大別すれば、つぎの3つになるという。「一つは、戦争の検証と伝承という事業であり、二つめは、一九九〇年代以降のいくつかの「歴史和解事業」である。そして三つめは、外交文書の検証や編纂、公開という事業である」。著者は、戦没者追悼平和祈念館（現・昭和館）の設立準備・運営、「女性のためのアジア平和国民基金」（アジア女性基金）のための資料調査、「アジア歴史資料センター」設立準備・運営、日英交流史事業、高校歴史教科書の検定、日中歴史共同研究などにかかわったことから、より全体像がみえているなかで慎重にことばを選びながら、本書を執筆している。そして、なぜ、今日まで引きずるのかを、歴史的に検証している。<br>
<br>
　3部からなる本書の構成と目的は、「序章　戦争検証の挫折」の最後で、つぎのようにまとめられている。「第Ⅰ部では、厳しい冷戦の下で形成され、日韓・日中間の国交正常化を経て一九七〇年代に定着した講和体制は、戦争や植民地支配に起因する賠償や補償、さらに戦争責任という問題にどのような回答を与えてきたのか、置き去りにしてきた問題は何か、「戦後補償問題」の噴出とどのような関係にあるのか、こうした問題を検証する」。<br>
<br>
　「第Ⅱ部は、一九八〇年代の歴史問題を取り上げる。一九七〇年代までに定着した講和体制は、国家間の問題としては歴史問題を封じ込めたはずであった。しかし、一九八〇年代には講和体制が想定していなかった歴史教科書問題や首相の靖国神社参拝といった、いわば「内なる歴史問題」が「国際化」したことで、政府を悩ませる」。<br>
<br>
　「第Ⅲ部は、世紀転換期、すなわち一九九〇年代から二一世紀初頭にかけての歴史問題の展開を取り上げる。一九九〇年代のさまざまな「戦後補償問題」の噴出は、必ずしも新しい問題ばかりではなかった。しかし、冷戦と自民党支配という講和体制を支えた内外要因が大きく揺らぐなかで、歴史問題は政府を翻弄する」。<br>
<br>
　「歴史問題について、あるいはその基盤となる「過去の戦争」の責任や原因といった問題について、国による検証が十分ではなく、国民が共有できる「パブリック・メモリー」が形成されない原因は、いったいどこにあるのか。歴史観の多様な共存を保障する国として、政府は歴史問題をいかに「管理」すべきなのか、あるいは「関与」すべきなのか」。<br>
<br>
　「そして、すでに六〇年以上も前の「過去の戦争」にどう向き合い、どのように後世に伝えていくべきなのか。本書がこういった問題を考えるよすがとなれば幸いである」。<br>
<br>
　歴史問題の原因が終戦直後からあったことは、よく言われる。「一億総懺悔」と言われるいっぽうで、戦争責任を政・軍指導者に押しつけ、天皇と国民は免れ、被害者意識をもつようになった。やがて五〇年代六〇年代に、それら政・軍指導者が復活し、戦争責任の所在が不明確になった。それが、中国など被害国民衆の怒りとなり、たとえ政府間で「解決済み」と言われても、個々人が納得しなくなった。<br>
<br>
　また、歴史問題は、ドイツをめぐってもあったはずだが、西ヨーロッパでは近隣諸国との関係が改善したのにたいして、東・東南アジアではそういかなかったことが問われる。それにたいして、著者は「アメリカの戦略変化」が大きくかかわったことを、つぎのように説明している。「戦争賠償の主題から「戦争責任」という問題が遠ざかっていった国際的背景は、被害を受けたアジア諸国への配慮よりも、日本の復興と政治的安定を優先するというアメリカのアジア戦略の変化であった」。<br>
<br>
　「占領初期にこそ、アメリカ側で、戦争責任を正面から問う講和案が検討され、また、日本による戦争賠償を媒介にして、脱植民地化と国家形成の途上にあったアジア諸地域と日本の復興とを一体として達成するという講和プログラムが存在した。しかし、まもなく日本の復興と政治的安定のみが関心事となり、賠償軽減を一方的に進め、賠償交渉においてもアジア諸国への配慮は相対的に小さなものとなっていった」。<br>
<br>
　「それとは対照的に、ヨーロッパでは、アメリカは西ドイツを主権国家として再出発させるにあたって近隣諸国との関係改善を促すという政策をとった。西ドイツもまた、西ヨーロッパという政治的、経済的にまとまった一つのユニットとしての国際社会のなかに自らを明確に位置付け、国家として再生する道を開いた。国家主義や国民の帰属意識という狭い定義にとらわれず、西ヨーロッパ社会の一員であるドイツ国民という意味でのナショナル・アイデンティティの再構築が試みられた。ドイツの侵略戦争の犠牲となったポーランド、オランダ、ベルギーといった周辺国も後押しした」。<br>
<br>
　「こうしたアメリカの日独に対する対応の相違は、過去の戦争に対する認識を、近隣諸国の認識や理解のなかで検証するという機会を持ち得たドイツと、そうではなかった日本という差異をもたらした。講和体制は、日本が過去の戦争の解釈や認識を形成する上で、被害を受けた近隣諸国との間で共有できる解釈や認識は何かについて、深く検証する妨げとなったのである」。<br>
<br>
　歴史問題だけでなく、ＥＵと東アジア共同体という地域共同体の比較もできないことがわかる。西ヨーロッパはまとまりのあるユニットが歴史的文化的にも形成されていたから、その積み重ねとしてＥＵが成立したのであり、東アジアは積み重ねができない状況にある。だからこそ、ひとつずつ努力を積み重ねて近隣諸国との関係を改善していかなければならない。<br>
<br>
　その基本となるものに、歴史資料がある。日本は2001年にアジア歴史資料センターを開設したが、公文書の公開はひじょうに遅れ、歴史研究の大きな妨げになっている。たとえ研究成果で確固たる事実が解明できても、政府がそれを認めるとは限らない。また、歴史教育の問題について、著者はつぎのように述べている。「学術レベルの成果が、国民レベルの議論や歴史教育にも反映され、共有されるとは限らない。日中双方とも、それぞれ異なる意味で「国内問題」としての歴史問題を抱えている。中国の場合は、「抗日戦争」の勝利が現政権の基盤となっているとすれば、それに抗するような歴史教育はあり得ない。他方、日本は多様な歴史観の共存を保障し、教科書検定制度もそれを前提としているため、公的支援による歴史研究の成果も権威を持ち得ない」。<br>
<br>
　帯の表に「民主国家日本を縛り続ける帝国日本という過去」とあり、そこから解放されることは並大抵でないことが、本書からわかった。著者は、この困難な問題にたいして、「終章「平和国家」と歴史問題－未来への説明責任」で、沖縄の問題を大きく取り上げ、沖縄の理解なしに「平和国家論」は成り立たないことを示唆している。そして、歴史研究者として、「歴史編纂とパブリック・メモリー」の必要性をつぎのように主張している。「「歴史問題」が東アジアにおける国際協調の課題となり、一国の歴史は他国の歴史との関連においてこそ初めて意味を持つ、そのような時代にわれわれはさいしかかっている。国の営みのなかで何を記録として後世代に残していくか、という問題を考えるとき、歴史の語られ方は異なっても、東アジアのすぐれた経験は活かし得るはずである」。<br>
<br>
　さらに、最後の見出し「未来への説明責任」を、つぎのことばで結んでいる。「平和国家論をいわば「国是」として守り抜こうとすれば、そこに沖縄からの批判にも耐え、村山談話［戦争への反省］を力強く支えるような内実を与える必要がある。その内実とは、近代日本の絶え間ない戦争と帝国圏の膨張の遺産について、広く歴史的検証可能な知的基盤の形成にあろう。それは、国や地方を問わず日本の行政機関に著しく欠けている「未来への説明責任」を果たすためでもある」。<br></p>
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<category>歴史</category>
<pubDate>Tue, 10 Apr 2012 10:00:00 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>『「国民国家」日本と移民の軌跡－沖縄・フィリピン移民教育史』小林茂子(学文社)</title>
<description><![CDATA[<p>
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　昨今の博士論文のなかには、とても出版にたえないものがある。脈略のない論文が数本並んでいるだけで、全体を通してなにが言いたいのか、とくに専門外の者にはさっぱりわからないものがある。その点、本書は安心して読むことができた。序章、2部8章、終章からなり、序章と終章で全体像がはっきり示されている。各章にも「はじめに」と「おわりに」があり、わかりやすい。<br>
<br>
　本書の特徴は、つぎの3つの研究領域を交錯させて論じていることである。すなわち、「近代沖縄教育史研究、植民地教育史研究、そして沖縄移民（史）研究である」。著者、小林茂子にとって幸いだったのは、それぞれの領域には膨大な研究蓄積があったことである。それを素直に学びとり、つぎの2つの課題を設定した。「第1は、戦前期沖縄において展開された移民教育を、国・県の移民政策との関連性をふまえつつ学校教育、社会教育双方から把握し、その実践を歴史的総体的にとらえるということである。そのために後節で詳述するごとく、戦前期沖縄の移民教育に関する時期区分を試み、それぞれの時期の特質を明らかにしていく。これが第1の課題である」。<br>
<br>
　「第2は、フィリピン・ダバオの沖縄移民の意識構造を、移民個人の生活世界から描き出すとともに、フィリピン・ダバオがおかれた政治的経済的な外部状況とを関連させて明らかにするということである。とくに、移民二世の意識形成を考える場合、日本人学校での「臣民教育」の影響は大きいといえるが、同時に家庭における沖縄文化の伝承という側面にも着目しつつ、それと外部世界との関係を考えたい。これが第2の課題である」。<br>
<br>
　「つまり、沖縄における移民教育の実践の歴史的事実の把握（第1の課題）という作業から、移民に対し沖縄での教育がいかなる役割を担ったのかを問い、また、渡航地フィリピン・ダバオでの移民の自己意識の形成（第2の課題）という内面の問題について、それが移民にとってどのような意味があったのか、これらの諸点を移民送出地域と渡航先双方を視野にいれて、沖縄の移民教育を総体的に解明することにある」。<br>
<br>
　本書の目的は、「終章」の冒頭で、つぎのようにまとめられている。「本研究の目的は、「風俗改良」の取り組みから「国策」移民のための教育へと変わっていく、沖縄における移民教育の実践状況と、フィリピン・ダバオにおける沖縄移民の自己意識の形成という2つの局面から、差別に対する沖縄移民の、生き抜くための適応と内面変化の過程を解明することにあった」。<br>
<br>
　そして、「この2つの局面をとらえる視点として、次のような分析枠組みを設定した。すなわち、1つは戦前期沖縄における移民教育の特質を時期区分にそって明らかにしつつ、そこから「必要的同化」と「文化的異化」の側面を析出した。また、もう1つはフィリピン・ダバオにおける沖縄移民の自己意識を「日本人意識」と「沖縄人としてのアイデンティティ」という二層の意識構造としてとらえ、その関係性を追求した」。<br>
<br>
　続けて各章ごとに論点を整理し、最後に「移民研究の教育学における意義と今後の課題」を探り、つぎの4点にまとめている。「第1は、戦前と戦後における沖縄県の移民教育についての連続面、断続面を明らかにする必要がある。戦後も沖縄からは多数の移民が送出されており、そうした状況のなかで移民教育はどのように実施されたのか、それは移民自身の自己意識にどのような影響を与えたのか。アメリカ占領期の教育改革とのかかわりから本土復帰後の学校教育、社会教育両面において、解明する必要があるだろう」。<br>
<br>
　「第2は、沖縄県のほかにも「移民県」と称されていた広島県、長野県、和歌山県など、移民を多く送出した地域で実践された移民教育史を掘り下げ、それらと沖縄県との比較・検討が重要な課題となる。とくに移民の送り出しには地域史とのかかわりが大きいが、移民＝棄民の考えがあり、これまで地域史あるいは地域の教育史のなかに移民はほとんど登場しなかった」。<br>
<br>
　「第3に、フィリピンへの沖縄移民をさらに太平洋諸島に渡った移民と比較検討する視点も重要であると考える。太平洋諸島への移民は、日本やアメリカ、イギリス、フランスなど欧米諸国とのかかわりが大きい。フィリピンも含めこれらの地域への移民の実態を広く世界史的視野からとらえる必要がある。それは移民に関する教育についても同様であり、フィリピンや太平洋諸島の移民教育史を植民地教育史との連関も視野にいれて、よりグローバルな視点から把握する取り組みが重要になってくると考える」。<br>
<br>
　「最後に、フィリピンへの沖縄移民も含めたアジア諸国への日本人移民についての教材化を進めることも、必要な課題となろう。それは上述のごとく移民研究と移民を取り上げた教育実践との連携をより進めるという点でも重要であるが、今後経済協力協定（EPA)に基づいて、日本へインドネシアやフィリピンなどアジアの労働者が増加する可能性があるという、国際的な状況もある。そうした人たちをどう受け入れ、相互理解を図り共生していくのかという、現実的な教育実践課題としても深めるべき必要性があると考えている」。<br>
<br>
　長年、教育の現場にいただけに、著者は研究をどう実践にいかすのかを問うている。本文のなかでも、生徒、教師、保護者の顔がちらついてきそうな場面がいく度かあった。研究面だけでなく、研究対象とどう向き合うべきか、学ぶことが多々あった。
<br></p>
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<category>歴史</category>
<pubDate>Tue, 03 Apr 2012 10:00:00 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>『経済大国インドネシア－21世紀の成長条件』佐藤百合(中公新書)</title>
<description><![CDATA[<p>
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　タイトルから当然インドネシアのことが書いてあると思っていても、帯にある「アジアの臥龍が　いま、目覚める」とは、いったいどこのことだろう、と思った人がいるかもしれない。背には「中国、インドのあとを追え」とあり、帯の裏には「豊富な人口と資源を武器にアジア第三の大国へ」とあるが、インドネシアを「大国」といわれてもピンとこないかもしれない。このあいだまで、インドネシアといえば、「暴動、紛争、自爆テロ、地震・津波、鳥インフルエンザ」と、「混乱と停滞」のイメージがあった。<br>
<br>
　そんな人も、帯の裏の的確なつぎの要約を読めば、本書で語ろうとしていることに、興味がわくことだろう。「リーマンショック後の二〇〇九年秋、欧米の格付け会社が、インドネシアの持続的成長能力と財政的安定を評価し、国債の格付けを引き上げた。以来、インドネシアの有望性は世界が注目するところとなる。二億四〇〇〇万近い人口と豊富な資源を背景とした潜在的な国力は、二〇〇四年、ユドヨノ政権になって以降の政治的安定によって、さらに強固な成長要因となっている。中国、インドに続く、〝アジアの大国〟のこれからを展望する」。<br>
<br>
　中国、インドに続く大国ということは、東南アジア一の大国ということになる。東南アジアなら経済的にはタイのほうが上であろう、将来性ならベトナムのほうが上であろう、と思う人がいるかもしれない。インドネシアの2009年の名目GDPは、49兆円である。それにたいして、タイは24兆円、ベトナムは9兆円しかない。今後5年間の増加額の予想は、インドネシア50兆円にたいして、タイは14兆円、ベトナムは8兆円である。これらの数字から、著者佐藤百合は、「「タイ、ベトナムと、インドネシアとは何が違うのか」という問いに対する一つの答えは、「規模が違う」ということになる」と答えている。<br>
<br>
　さらに、インドネシアは「人口ボーナス」という点で、タイやベトナムより将来性があるという。「人口ボーナス」とは、「生産年齢人口が総人口に占める割合（生産年齢人口比率）が上昇していく局面」のことで、インドネシアはタイやベトナムより長く続くことが予想されている。日本はもちろん、中国なども少子高齢化で、生産人口の割合は減っていく。つまり、インドネシアは生産力が向上し、経済成長が長く続くということである。<br>
<br>
　そして、1998年のスハルト政権崩壊後、インドネシアは民主化が進み、大きく変わってきている。ひとつは、汚職が「文化」から「犯罪」になったことである。たしかに「汚職との闘いは、今後も多難が予想される」。「だが重要なことは、「汚職は犯罪」というパラダイムはもはや変わらない、ということである。汚職にペナルティを科する法制度も、メディアやNGOや国民による監視の目も、もう後戻りすることはない。その意味でインドネシアは、間違いなく新しい時代に入った」。<br>
<br>
　中央と地方の関係も新しい時代に入ったことは、つぎのように説明されている。「スハルト政権崩壊後、地方分権化へと時代は変わった。鉱業、林業、水産業などの資源収入はその八〇％を地元に還元するという方針が、一九九九年中央・地方財政均等法で定められ、二〇〇一年一月から施行された。中央政府にとって重要な財源である原油と天然ガスについては地元への還元比率がそれぞれ一五％と三〇％に抑えられたが、それでも地方の政府と社会にとってインパクトは絶大である」。
　華人の政界進出も、新たな現象である。「国会議員五六〇人のうち、華人議員は一四人になった。華人系住民の多い西カリマンタンとブリトゥン島では、直接選挙によって華人の市長と県知事が誕生した。政治はプリブミ［先住マレー系住民］、経済は華人という分断の構図は、華人の側からも少しずつ変わり始めている」。<br>
<br>
　このように変わりはじめているインドネシアを見る目を、日本も認識しなければならない、と著者は説く。「インドネシアが変わり始めている証左の一つに、すでにみた援助依存からの訣別がある。日本からの援助残高はまだ例外的に大きいが、毎年の支出純額でみれば二〇〇六年から連続してマイナスを記録している。つまり、援助供与額より返済額の方が上回っている」。「日本のソフトパワーをインドネシア人に理解してもらうのと同じように、日本人もインドネシアのソフトパワーを理解しようとすることが大切である」。<br>
<br>
　そのためにも、インドネシア人の日本観を知ることが必要であり、インドネシア人研究者がその変遷をつぎの六段階に分けて考察したことを紹介している。「①占領者としての日本、②従軍慰安婦を強いた日本、③開発資金提供者としての日本、④先進国としての日本、⑤ハイテク国の日本、⑥ポップ文化の日本、である」。「①と②が区別されているのは、従軍慰安婦問題の責任と補償が今なお未解決の問題として認識されているからである。①②における「野蛮で残虐」な日本観は、③を資源獲得のための経済的侵略とみる見方に姿を変えて一九七〇年代半ばまで色濃く残っていたという。その後④⑤⑥を経て、憧れの日本観が前面に出てきた現在においても、インドネシアのすべての生徒たちは①②の歴史を小学六年と中学二年で必ず学ぶのである」。<br>
<br>
　本書で伝えたかったことを、著者は「終章　21世紀の経済大国を目指して」の冒頭で、つぎのようにまとめている。「二〇〇四年に民主主義を確立したインドネシアは、政治体制の安定を確保した。これから二〇三〇年にかけて、インドネシアは人口ボーナスの効果が最も大きくなる時期に差しかかる。この二つの条件を得た今、人口、資源、国土からみたインドネシアの潜在的大国性が活かされる局面に入った。インドネシアはこれから、まととない持続的成長のチャンスを迎える。これこそが、この本で私が伝えたかったインドネシア像である」。<br>
<br>
　ＡＫＢ４８に「はまる」プチンタ・ジュパンとよばれる「日本愛好者」があらわれ、姉妹グループのＪＫＴ４８が海外で初めて結成されたことと同時に、プチンタもメンバーも日本の負のイメージがつきまとう①②を学校教育で学んでいることを覚えておく必要があるだろう。日本人のメンバーもファンも、①②のことを知っていなければ、どこかで取り返しのつかない歪みが生じるかもしれない。このことは、若い世代の日本人だけに言えることではない。かつての「援助大国」日本のイメージでインドネシアと接していると、とんでもないしっぺ返しを「経済大国」インドネシアから食らうかもしれない。このことは対等な関係でつきあえるということを意味し、歓迎すべきことである。著者が、「日本こそが変わる時」と強調するのも、日本人が時代や世界から取り残されていっていることを肌で感じているからだろう。本書は、たんにインドネシアとの関係だけを問うているのではない。世界からこれからの日本・日本人が問われていることを伝えている。<br></p>
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<category>地域研究</category>
<pubDate>Tue, 27 Mar 2012 10:00:00 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>『日本地図史』金田章裕・上杉和央(吉川弘文館)</title>
<description><![CDATA[<p>
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　東南アジアでフィールドワークをしているとき、現地の人びとが地図が読めないために、難儀をしたことが何度かあった。地図が読めるようになる日本の地理教育は、すごいとも思った。だが、あるとき、現地の人が地図を指してなにやらつぶやいているのを聞いて、ハッとした。「ここは陽が当たらない」と言っているのだ。日本の近代地理教育で、「陽が当たらない」という発想はない。しかし、そこの住民にとって、農作物を植えたりする生活上、「陽が当たらない」ことはひじょうに重要なことだ。自分の調査のことしか考えず、地図がだれのためなんのためにあるのかを考えていなかった自分が恥ずかしくなった。本書でも、まずそれぞれの時代や社会が、地図になにを求めようとしたのかを基本に読んでいこうと思った。<br>
<br>
　本書の目的は、「はしがき」でつぎのように述べられている。「日本は、この地図史をたどる資料にめぐまれていると言ってよい。八世紀の地図の実物が二〇点以上も伝存する国はほかに存在しないのではないかと思う。国家の土地政策を反映した、特徴的な古代の地図に加え、絵画的要素の多い中世の地図、手描き図に加えて印刷図が一般化した近世の地図など、多彩な地図の内容とその変容を紹介しようとするのが本書の目的である。近代地図の成立過程における多様な状況についても言及したい」。<br>
<br>
　Ⅰの表１「日本における古地図の機能と表現対象」は、8～18世紀の地図を分類し、時代ごとに機能を整理してくれているので、ひじょうにわかりやすく、これが頭に入っていると本書が読みやすくなる。世界・国・小地域の3つのレベルのスケールに分け、それぞれをつぎのように説明している。「世界レベルの地図は、世界観・世界認識を表現したものであり、近代ヨーロッパの世界図を受容し、［天文学者］高橋景保のようにその精度を高める段階に入ってはじめて、国土把握と同水準の世界把握へと転換する」。「国レベルのスケールの地図は、八世紀にすでに国土把握のために作製されたことが明らかであり、古代・近世の国・郡図はその精細図である。ただし、中・近世の日本図では、周辺に雁道(かりみち（がんどう）)や羅刹(らせつ)国など想像上の土地が描かれているものも多く、この点では世界観をも表現していることになる」。「小地域レベルのスケールの地図はきわめて多様であるが、大別すれば三つのグループとなる。①土地の面積や場所、あるいはその広がりの状況を表現する地図、②道・用水・建物など多様な建造物・構築物あるいはその集合体ならびに集落などの実態や利用状況を把握・表現する地図で、土地そのものを直接的に表現することが主目的ではない地図、③各種の推定・考証・復原などのための地図で、世界観・歴史観などを反映してはいるが小地域を対象としたもの、である」。<br>
<br>
　地図が重要な歴史資料であることは、だれもが認めることだろう。しかし、だれもが簡単に読めるわけではない。著者は、その困難さをつぎのように述べている。「言語は、一語ずつ順に話され、書かれ、読まれる。地図という言語はしかしそうではない。地図を読む順番は定まっていないのである。地図を描いた順に読む、という必要はなく、また地図をどういった順に描いたのかはむしろ不明であることの方が多い。にもかかわらず、空間表現のためには地図は不可欠であり、地図というもう一つの言語でなければ、表現し伝達することが困難なことがらがある」。それが、1970年代以降、「地理学および歴史学の研究者による研究成果が次々と提出され」るようになった。「そこには、国絵図が単に地図史にとどまるのではなく、政治史にも密接にかかわる史料であることが専門家以外にも周知され、国絵図への関心が高まっていったこと、文字資料以外の絵画資料を用いた歴史研究が進展し、「史料」としての位置づけが適切に与えられるようになってきた」ことが関係していた。<br>
<br>
　歴史研究にとって地図がいかに有用であるかは、本書で取りあげられている江戸時代に蝦夷地が描かれていても、琉球が描かれていない例などからわかる。伊能図では「日本」が描かれていたが、その「日本」に琉球が含まれていないことを、著者はつぎのように説明している。「それは伊能忠敬の測量隊が琉球まで及んでおらず正確さを期すことができなかったからであることは容易に想像され、この点では享保日本図と同じ姿勢であることになる。ただ、北方の蝦夷地のうち、西蝦夷については忠敬の測量隊は赴いていないにもかかわらず、間宮林蔵(まみやりんぞう)によると思われる測量成果によって補足されるのである。未測量であった問題、距離の問題といった点があるにせよ、伊能忠敬ないし伊能図を最終的に取りまとめた高橋景保らにとって、北方と比較して南方への意識は乏しかったといわざるをえないだろう」。<br>
<br>
　豊田市近代の産業とくらし発見館企画展「白瀬矗(のぶ)　～夢の南極大陸へ～」（1月18日～3月25日）をみた。その趣旨は、つぎのように説明されている。「明治45年（1912）1月28日 午後0時20分、白瀬矗(しらせのぶ)陸軍中尉率いる日本南極探検隊は、南緯80度5分、西経156度37分の地点に到達し、ここに日章旗を立て、見渡す限り一帯を「大和雪原(やまとゆきはら)」と命名しました。当時、南極点を目指した他国のライバル探検隊に比べ、日本南極探検隊の装備は極めて乏しいものでしたが、一人の死傷者を出すことなく帰還したのは驚くべき快挙であり、また、学術調査の上でも大きな成果を挙げました。今回の企画展は、白瀬日本南極探検隊100周年記念プロジェクトの一環である全国巡回展示を迎え、白瀬中尉の生涯と彼が率いた日本南極探検隊の偉業を展示タペストリーで紹介します。さらに、長年の夢であった南極探検を成し遂げた“刻の英雄”白瀬中尉が、その後どのような生活を送り、終焉地「挙母［ころも］」（現在の豊田市）へと辿り着いたのか、その後半生を多くの方に知っていただければ幸いです」。<br>
<br>
　白瀬は、南極探検を志す前に千島列島で苦難の日々を過ごしている。探検家の関心は苦難をともなう寒冷地にあって、「楽園」である南方ではなかったのだろう。また、ロシアの東漸ともかかわりがあったのだろう。そして、白瀬は晩年まで「大和雪原」を日本の領土であると主張していた。19世紀の日本の地図は、北方への関心、領土獲得のための探検を、どんな文献よりも雄弁に語っている。地図はいろんなことを語ってくれる。それを聞くことができる「耳」をもちたいと思った。<br></p>
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<category>歴史</category>
<pubDate>Tue, 20 Mar 2012 10:00:00 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>『バターン　死の行進』マイケル・ノーマン／エリザベス・M・ノーマン著、浅岡政子／中島由華訳(河出書房新社)</title>
<description><![CDATA[<p>
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　タイトルの「バターン」と帯の「日米両軍を公正な視点で徹底的に検証した衝撃の書！」、そして訳者名を見て、本書に期待するものはあまりなく、しばらく書棚に放っておいた。読んでみて、思った通りの内容だった。<br>
<br>
　期待しなかったのは、フィリピン側の視点がなさそうだったからである。開戦当時1600万人が暮らすフィリピンで、日本人とアメリカ人が戦った。フィリピン人にとって、迷惑な話どころではない。アメリカ人が日本人の視点で語ろうが、戦争の真実を語ろうが、そこに暮らす人びとのことが語られなければ、なんの意味もない。日本人が1000人ほど住んでいた硫黄島の戦いを、日米双方の視点で語るのとは根本的に違う。フィリピン語をちょっとでも知っていれば、「バターン」ではなく「バタアン」と表記したであろうし、本文でもフィリピンのことを知っていないために苦笑することがあった。英語がよくできるだけではわからないことがあるため、フィリピンの専門家を監修者に加える必要があった。<br>
<br>
　著者は、フィリピンのことをまったく念頭に置いていなかったわけではない。「日本の読者の皆様へ」で、つぎのように書いている。「本の執筆にあたっては、戦争の痛ましい真実を知らしめると同時に、戦争を主題とする書物にしばしば見られる脚色を排除するため、三つの視点を用いる必要があった。アメリカ人、フィリピン人、そして何よりも日本人の視点である」。たしかに、フィリピン人にかんする記述がまったくないわけではない。また、フィリピン人研究者で第一人者のリカルド・ホセの助言を得て、写真を借用して掲載している。しかし、かれの気持ちは理解できなかったようだ。このことは、戦争中にアメリカ人がフィリピン人を軽視したことと同じだろう。<br>
<br>
　著者のフィリピン観は、冒頭のつぎの1節によくあらわれている。「一八九八年以来アメリカに占領されていたフィリピンは、周辺の地域よりやや発展が遅れていた。シンガポールの活気とも香港の繁栄とも無縁のこの地を、当時のガイドブックは「楽園」と呼んだ。実際、マニラは美しかった。ヤシの木々が入り江の防波堤をそっと見下ろすように並び、夜になると常緑高木カミアスの甘い香りがあたりを立ちこめた」。そこに、植民地支配下で暮らす人びとの息吹は、まったく感じられない。<br>
<br>
　本書の目的は、「日本の読者の皆様へ」の冒頭で、つぎのように述べられている。「私たちが本書を執筆した目的は、戦争の真実を伝えることだ。戦いの火蓋が切られるやいなや、敵味方を問わずあらゆる人びとが損失をこうむる、議論の余地のない真実を」。そして、その「真実」は、敵であった元日本兵から話を聞くことで、著者はつぎのように考えた。「アメリカと日本とでは文化がはなはだしく異なったうえ、両国それぞれがプロパガンダ作戦をくりひろげていたが、バターン半島に送りこまれた日本兵は、根本的には、その敵だったフィリピン兵やアメリカ兵とそれほど変わらなかったに違いない、と」。「だからこそ、バターンの戦いの最中からその後にかけて行なわれた、残虐で非道な仕打ち－弁解も否定もできない虐殺行為－にはとまどいを禁じえなかった。私たちは首をひねった。農業や工場労働に従事していた日本の分別ある若者たちが、人として守るべき法規をないがしろにし、武器をもたない無抵抗の者、すなわち民間人と戦争捕虜とに不寛容だったのは、いったいどうしてだろう？　無慈悲で恥知らずな振る舞いにおよんだ日本兵が少なくなかったのは、どういうわけだろう？」。<br>
<br>
　本書の原題である「暗涙Tears in the Darkness」は、バタアン戦の司令官であった本間雅晴中将がバタアン戦の最中に戦死者名簿を前にして涙を流したという逸話にちなんでいる。著者は、「戦争とは敵味方のいずれにも残酷なものであり、いずれにも無意味な損失を強いるのだという私たちのテーマが、この表題によくあらわれていると思う」という。では、敵でも味方でもないのに日米戦に巻き込まれたフィリピン人の涙は、どのように理解したらいいのだろうか。日米戦を越えた戦争の悲惨さを語りたいのであれば、フィリピン人の視点が是非とも必要だった。<br>
<br>
　本書から学んだことはたくさんあったが、ナショナルヒストリーは越えても帝国史観から抜け出せなかったことで、書く段になってわたしの頭からすべて消えてしまった。<br></p>
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<category>歴史</category>
<pubDate>Tue, 13 Mar 2012 10:00:00 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>『戦争の記憶を歩く　東南アジアのいま（3刷）』早瀬晋三(岩波書店)</title>
<description><![CDATA[<p>
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　ちょこっと4頁ほど、増補した。だが、この差は大きい。<br>
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　本書の英訳A Walk Through War Memories in Southeast Asia (Quezon City: New Day Publishers)を2010年に出版し、それを読んだアテネオ・デ・マニラ大学の学生（20歳前後）51人から感想文が届いた。それらをまとめて、「戦争認識のすれ違い－日本人学生とフィリピン人学生－」（『大学教育』大阪市立大学、第9巻第1号、2011年9月、25-32頁）を書いた。増補した4頁は、そのダイジェストである。<br>
<br>
　日本と中国、日本と韓国の歴史認識の相違については、内外でたびたび取りあげられ、共通教科書作成の試みもされている。中国人や韓国人で日本語文献を読むことができる者も多く、また日本語から中国語、韓国語に翻訳されたものもある。しかし、日本が戦場とした東南アジアの国ぐにの研究者で日本語の文献を読むことができる者はほとんどいない。したがって、歴史認識の違いについて取りあげられたとしても、共通の文献を読んだうえでの話ではない。増補した部分は、本書の英訳を母国語同様に読むことができるフィリピン人エリートに限られているとはいえ、日本人学生と同じ本を読んだうえでの歴史認識の違いを明らかにしたものだ。<br>
<br>
　ついでに、書評などで指摘された間違いや誤解を招く表現を書き改めた。研究者でない者にとっては、出版されたものに間違いがあるなど、とんでもないことのように思えるかもしれない。しかも、岩波書店のように内容チェックが厳しいところでは、そのようなことはありえないと思われるかもしれない。しかし、現実は高校歴史教科書にも間違いがあることを、拙著『未来と対話する歴史』（法政大学出版局、2008年）などで指摘し、その原因も示した。<br>
<br>
　専門の殻に閉じこもり、原史料からわかることだけを書いていれば、恥をかかないですむ確率は高くなる。しかし、自分の専門を相対化するために、視野を広げることは、グローバル化時代の歴史学にとって必要不可欠なことだ。日本史と中国史、朝鮮史を寄せ集めても東アジア史を語ることができないように、日本がつくった戦争空間としての「大東亜共栄圏」を語るには、それぞれの国の専門家が書いたものを寄せ集めるだけでなく、ひとりで執筆することも重要である。自分の専門領域なら、概説書を書くときも原史料や専門書が頭に浮かぶ。だが、原史料を読んだことがなく、専門書も限られたものしか読んだことがない領域は、単純な間違いをしても気づかない。その危険を冒しても、書く必要があるのは、マイナス面よりプラス面のほうがはるかに大きいからである。「専門外のことは書くな」と言えば学問の発展はないし、人びとはひじょうに視野の狭いものしか読むことができず、偏狭なナショナリズムのもとでは国際紛争・戦争にまで発展してしまう。専門家が100度行っても書けないことが、専門外の者が別の視点から見て1度行っただけで書けることもある。<br>
<br>
　研究者を長年やっていれば、他人のあら探しはそれほど難しいことではない。ましてや専門外の者が、視野を広げて書いたものはケチをつけやすい。批判するときは、自分が書くことを想定して、いかに建設的なことがいえるかが重要になる。言い換えれば、自分自身の執筆のために、いかに生かすかを考えると、まず執筆者から学ぶという姿勢が重要であることに気づく。学ぶという観点で批判するなら、まず自分自身が執筆者の視点に立って正確に読むことができたかが気になるはずだ。読めていないのに、批判はできないのだから。研究者が多く成熟した分野ならいざ知らず、東南アジア史のような研究者が極端に少ない分野では、互いの長所・短所を認めあってともに発展していきたい。<br>
<br>
　ともあれ、どのように正当化しようが、間違いや誤解を招くことを書いたことは恥ずべきだ。指摘されたことに、素直に感謝したい。そのお蔭で今回訂正することができ、読者により正確に伝えることができたのだから。<br>
<br>
　本書タイトルの一半は、「東南アジアのいま」である。本書を読んで、東南アジアの戦跡巡りをした人には、たいへん申し訳ないことをした。本書日本語版が出版された2007年には、本書に書かれた内容とは違う状況になっていた。すでに「いま」ではなかったのだ。とくにシンガポールがそうで、今回つぎのような追記を入れた。「二〇一一年一一月にシンガポールを再訪したところ、博物館の展示内容が大きく変わっていました。「シンガポールのイメージ」館から「降伏の間」がなくなり、日本占領期のものは一コーナーしかありませんでした。「降伏の間」の展示は、シロソ砦に分散展示されています。また、晩晴園は孫文に集中した展示の孫中山南洋紀念館となり、日本占領期にかんするものはなくなりました。ディスカバリー・センターの日本占領期関連のものもなくなりました。代わって、新たに日本占領期にかんする博物館Memories at Old Ford Factoryが、二〇〇六年にオープンしました。山下中将がパーシバル中将に降伏を迫り、イギリス軍が降伏した場所です。国立博物館も二〇〇六年に再オープンし、記録と証言を中心に歴史と文化を紹介する「歴史ギャラリー」で充実した展示をしています」。また、マレーシアの国立歴史博物館は2007年に閉館し、展示は国立博物館に移っています。<br>
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　本書では、そのことを見越して、2007年に出版したとき「序章」でつぎのように書いていた。「記念碑は壊されることがあり、博物館の説明文は時代によって変わります。後世の歴史研究のために「史料」として記録し、残すという役割も果たします」。本書も、現地調査してから10年近くになり、けっして「いま」ではなくなった。しかし、フィリピン人学生が本書を読んでどう思ったのかの「いま」を加えることができた。新たな視点で、読んでいただけることを期待している。<br></p>
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<category>歴史</category>
<pubDate>Wed, 07 Mar 2012 10:00:00 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>『新しいＡＳＥＡＮ－地域共同体とアジアの中心性を目指して』山影進編(アジア経済研究所)</title>
<description><![CDATA[<p>
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　半信半疑でミャンマーの「民主化」報道を見聞きしている者に、本書はそれを確信させるひとつの材料を提供してくれる。ミャンマーの「民主化」に、ＡＳＥＡＮが大いにかかわっているのである。本書は、そのＡＳＥＡＮが「一九六七年の設立から現在までの歴史を辿るとともに、どこへ向かおうとしているのかを多面的に展望する」概説書である。<br>
<br>
　　「民主化」の兆しが見えだしたミャンマーに、日本を含め各国が急速に接近している。豊富な天然資源に加えて、人口5000万の格安の人件費が魅力だ。どれだけ安いか比較してみよう。日本貿易振興機構の調べによる2011年8月時点の月給は、ミャンマー68ドル、ほかの東南アジアでは安い順からカンボジア82、ベトナム123、インドネシア205、フィリピン248、タイ286、マレーシア344、シンガポール1285である。隣国の中国306、インド280、そしてユニクロなどが進出しているバングラディシュが78である。<br>
<br>
　いっぽうで、これだけ人件費に違いがあるＡＳＥＡＮ各国が、なぜ近年結束を強めているのか、疑問にもつ人がいるだろう。本書「まえがき」では、つぎのように説明している。「ＡＳＥＡＮに見られるアンバランスは、多種多様な東南アジアの国々をＡＳＥＡＮという言葉で一括りにしてしまうことから生じている。実際、国土や人口や経済の規模はもちろんのこと、政治体制や産業構造、近年の歴史経験、さらには近隣諸国との関係でもＡＳＥＡＮ内部のばらつきは甚だしく大きい。むしろ、これほどばらばらな国々がＡＳＥＡＮとしてひとつにまとまっていることの方が、アンバランスの存在よりもはるかに驚くべきことなのである。そこには、まとめようとする力が働いており、将来に向けての共通の目標を作ろうとする力が働いている」。つまり、ＡＳＥＡＮは未来志向で、まとまっているのである。<br>
<br>
　本書の内容、目的については、同じく「まえがき」でつぎのように述べている。「本書は、いままであまり注目されてこなかった制度としてのＡＳＥＡＮに焦点を当てて、東南アジアの秩序の形成や東アジアの政治経済の枠組み作りで重要な役割を果たしている現実を紹介するものである。言い換えれば、いわゆるＡＳＥＡＮ経済の可能性を強調するのでもなく、ＡＳＥＡＮ諸国の国際関係や国内政治を批判するのでもなく、「ＡＳＥＡＮそのもの」を総合的に描くことが本書の目的である。この意味で、一部の研究者が議論してきた「ＡＳＥＡＮそのもの」について、東南アジアはもちろんのこと、東アジアの政治経済に関心を持つ人々やグローバル化する世界のなかの地域化・地域主義に関心を持つ人々が思いを馳せる機会を本書が提供できれば望外の喜びである」。<br>
<br>
　そして、各章の内容を、つぎのようにまとめている。「まず、第一章では、発足からはや半世紀にならんとするＡＳＥＡＮの大きな流れを紹介する。続けて、いま、変わりつつあるＡＳＥＡＮの全体像を描く。具体的には二〇一五年に向けてのＡＳＥＡＮ共同体創設の動き、それと連動する広域制度構築、そして二〇〇八年に発効したＡＳＥＡＮ憲章をふまえたＡＳＥＡＮの変革について論じる。ＡＳＥＡＮ共同体は三本柱から成る。第二章から第四章までは、それぞれについての概説と課題を論じる。すなわち、第二章は政治安全保障共同体を、第三章は経済共同体を、第四章は社会文化共同体を扱う。第五章は、広域秩序の中心としてのＡＳＥＡＮが果たしている役割を議論する。第六章と第七章は、ＡＳＥＡＮ憲章を題材にして、変わりつつある姿を論じる。第六章は組織改革を、第七章は規範変容を扱う」。<br>
<br>
　「貿易自由化でも地域共同体形成でも常に東アジアの動きを一歩リードしてきた」ＡＳＥＡＮが、いま大きく変わろうとしていることを、第一章では、つぎのように説明している。「二〇一一年、議長国インドネシアのイニシアティブで、ＡＳＥＡＮは「グローバルな国際共同体のなかのＡＳＥＡＮ共同体」をメインメッセージとして掲げることを決めた。これは、二〇一五年にＡＳＥＡＮ共同体ができるのを見越して、さらにその先の目標を打ち出そうとしたものである。すなわち、二〇二二年（ＡＳＥＡＮ創設五五周年）までに、ＡＳＥＡＮ共同体をさらに強化し、地球規模の問題にＡＳＥＡＮが関与するような制度構築を目指そうとする決定である。具体化（宣言の起草）は、外相会議に委ねられたが、東アジアあるいはアジア太平洋におけるＡＳＥＡＮではなく、グローバルな世界のなかにＡＳＥＡＮを位置づけようとする新たな試みが始まったようである」。<br>
<br>
　ＡＳＥＡＮ共同体の特徴は、政治、経済と並んで三本目の柱になっている「社会文化共同体」を目指していることだろう。二〇〇九年の首脳会議で採択された青写真で示された社会文化共同体の主要な目標は、「民衆志向で共通のアイデンティティと持続的な連帯感を持ち、「思いやりと分かち合いのある社会（a caring and sharing society）」を構築すること」だとされ、その目標に向けた課題として、「人間開発、社会的厚生、社会正義と権利保障、環境の持続性、ＡＳＥＡＮアイデンティティの構築、およびＡＳＥＡＮ原加盟国と新規加盟国との格差是正」の6つがあげられた。中央集権的に考えられる政治や経済と違い、社会文化は東南アジアの多様性、とくに中央と地方を意識して考慮したものだろう。<br>
<br>
　ＡＳＥＡＮがこれまで結束できたのは、「自分たちの国が抱えている脆弱性に対する強い危機感」があり、「利害対立や意見の相違を抱えながら、「小異を残して大同につく」ことを実践してきた」からである。いい意味のアバウトさをもっていることで、これまでも数々の分裂の危機を回避することができたのである。国際的に非難されたミャンマーの人権と民主化の問題も、「一九九九年以降ＡＳＥＡＮは国際社会において基本的にミャンマーを擁護する姿勢を継続させ」、「厳しく非難したり孤立させたりせずにあくまで穏健な路線を保ち続けること」で、「建設的関与」の有用さを示めそうとした。その結果が、今日の民主化への動きにつながった。これまで何度も期待を裏切られてきたため、ミャンマーの民主化が本物であるのかどうか、まだ半信半疑である。しかし、本書を読むと、いままでと違いＡＳＥＡＮの力が働いていることがわかる。本物になることを切に願いたい。<br>
<br>
　本書では、ＡＳＥＡＮの結束を未来を見据えているからだとしているが、歴史的文化的にも共有するものがあるからだろう。近代国民国家の成立とともに首都を中心とした領域ができたが、中央集権化された国家機構とは無縁な自立した社会が山間部や離島だけでなく、首都のすぐ近くや都市のなかの新たなコミュニティにも存在している。国境を無視したヒトやモノの往き来も、厳しく取り締まられていないところがある。ＡＳＥＡＮはそういった厳密さを欠く社会秩序を受け継いでいるからこそ、「結束」できているのではないだろうか。ほかの先進国主導の地域共同体とは違うあり方が、ＡＳＥＡＮにはある。東南アジアが、近代に成立・発展したディシプリンでは充分に研究できず、地域研究という新たな手法が必要であったのも、その基層社会の理解が必要であったからだろう。<br>
<br>
　最後に蛇足であるが、本書のような優れた概説書の製本としては、ひどすぎる。奥付きの「印刷」を見て納得したが、何度も議論を重ねた共同研究の成果にたいしてふさわしくない。<br></p>
<p><a Href="http://ck.jp.ap.valuecommerce.com/servlet/referral?sid=2234571&pid=873402948&vcptn=000004&vc_url=http%3a%2f%2fbookweb%2ekinokuniya%2eco%2ejp%2fguest%2fcgi-bin%2fwshosea%2ecgi%3fW-ISBN%3d9784258051144" target="_blank" ><img Src="http://ad.jp.ap.valuecommerce.com/servlet/gifbanner?sid=2234571&pid=873402948" height="1" width="1" Border="0">→bookwebで購入</a></p>]]></description>
<link>http://booklog.kinokuniya.co.jp/hayase/archives/2012/02/post_247.html</link>
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<category>地域研究</category>
<pubDate>Tue, 28 Feb 2012 10:00:00 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>『両インド史　東インド篇』ギヨーム＝トマ・レーナル著、大津真作訳(法政大学出版局)</title>
<description><![CDATA[<table><tr>
<td><br><a Href="http://ck.jp.ap.valuecommerce.com/servlet/referral?sid=2234571&pid=873402948&vcptn=000004&vc_url=http%3a%2f%2fbookweb%2ekinokuniya%2eco%2ejp%2fguest%2fcgi-bin%2fwshosea%2ecgi%3fW-ISBN%3d9784588150562" target="_blank" ><img Src="http://ad.jp.ap.valuecommerce.com/servlet/gifbanner?sid=2234571&pid=873402948" height="1" width="1" Border="0"><img alt="両インド史　東インド篇〈上巻〉" title="両インド史　東インド篇〈上巻〉" src="http://bookweb.kinokuniya.co.jp/imgdata/4588150561.jpg" border="0" /></a><br>
 <a Href="http://ck.jp.ap.valuecommerce.com/servlet/referral?sid=2234571&pid=873402948&vcptn=000004&vc_url=http%3a%2f%2fbookweb%2ekinokuniya%2eco%2ejp%2fguest%2fcgi-bin%2fwshosea%2ecgi%3fW-ISBN%3d9784588150562" target="_blank" ><img Src="http://ad.jp.ap.valuecommerce.com/servlet/gifbanner?sid=2234571&pid=873402948" height="1" width="1" Border="0">→bookwebで購入</a></p>
<td><br><a Href="http://ck.jp.ap.valuecommerce.com/servlet/referral?sid=2234571&pid=873402948&vcptn=000004&vc_url=http%3a%2f%2fbookweb%2ekinokuniya%2eco%2ejp%2fguest%2fcgi-bin%2fwshosea%2ecgi%3fW-ISBN%3d9784588150579" target="_blank" ><img Src="http://ad.jp.ap.valuecommerce.com/servlet/gifbanner?sid=2234571&pid=873402948" height="1" width="1" Border="0"><img alt="両インド史　東インド篇〈下巻〉" title="両インド史　東インド篇〈下巻〉" src="http://bookweb.kinokuniya.co.jp/imgdata/458815057X.jpg" border="0" /></a><br>
 <a Href="http://ck.jp.ap.valuecommerce.com/servlet/referral?sid=2234571&pid=873402948&vcptn=000004&vc_url=http%3a%2f%2fbookweb%2ekinokuniya%2eco%2ejp%2fguest%2fcgi-bin%2fwshosea%2ecgi%3fW-ISBN%3d9784588150579" target="_blank" ><img Src="http://ad.jp.ap.valuecommerce.com/servlet/gifbanner?sid=2234571&pid=873402948" height="1" width="1" Border="0">→bookwebで購入</a></p>
</tr></table>
　本書を、わたしはどのように読んだらいいのだろうか。本書の出版されたフランス革命前夜の研究なら、それなりの読み方があるだろうが、17世紀の東南アジア史研究のために本書を読むとなると、どのように読んでいいのかわからない。18世紀後半の著者の目を通したものであるから、原史料ではない。近現代の研究者のような客観性もない。1字たりとも引用することはできない。しかし、18世紀後半のヨーロッパ人知識人が、どのような「東インド」観をもっていたのかはわかる。それも、16世紀からの連続性のなかで、理解することができる。本書を自分の研究に活用できないのは、明らかにわたしの未熟さによる。<br>
<br>
　本書は、レーナル編纂の『両インドにおけるヨーロッパ人の植民と貿易の哲学的・政治的歴史』全19篇のうち最初の5篇を訳したものである。初版は1770年に出版され、何度も版を重ねている当時のベストセラーである。その理由とその後の顛末を、上巻の「訳者解説」では、つぎのように説明している。「初版本がフランスか、オランダかで印刷され、流布され始めたときは、ちょうどルイ一五世（一七七四年没）統治の晩年で、フランス社会の軋轢が表面化してきた時期にあたっていた。本書は、宗教的狂信と専制主義に反対する意見をふんだんにちりばめていたので、新時代を予感して、哲学と政治に熱をあげていたフランスの世論に大いに受けた。そのため、政府が当初許可した二五部は、たちまち売り切れとなってしまった。本書がパリに流布し始めた七二年春には、検閲当局は、その大胆なキリスト教批判や専制君主批判に注目し、発禁処分の時期を見計らっていたが、同年末、国務顧問会議で「執念深いモープーの提案で」、公序良俗に反するというきまり文句のもとに、廃棄処分が決定され、翌年には、ソルボンヌも検閲のための特任官を任命した。しかし、『両インド史』の方は、廃棄処分の決定にもかかわらず、目の玉が飛び出るほどの高値で取引された。フランス国内での需要に応じて、『両インド史』初版は、次々と増刷され、政府の黙認のもとに、世間に公然と出回ることになった。流布の状況は、一七七二年に「少なくとも四度が、再版が出」て、「翌年にはそれが一一度となり、一七七三年には六度」となるほどすさまじかったのである」。<br>
<br>
　これだけヨーロッパ世界に受け入れられた背景には、オランダ、イギリス、フランスなどの東インド会社の帝国的進出があった。たんなる貿易会社から近代植民地形成への動きがみられるようになり、フランスはインドでイギリスに敗れ、一七六九年に東インド会社の解散に追い込まれた。その「世界史」的関心について、「訳者解説」は、つぎのように説明している。「『両インド史』は、初版から「モンテスキュー以来の記念碑的労作」（グリム）と評価してもかまわないほどの規模を持っていた。それは、これまで、まったく本格的な研究対象とはならなかった地域をとりあげ、その地理的・歴史的・文化的風土を論じ、貿易をキーワードに過去と現在の経済的・政治的歴史を調査し、描き出していた。本書は、初めての世界史的記述と言える『法の精神』（一七四八年）と比べても、また、同じく世界史を扱って、少し遅れて出版されたヴォルテールの『習俗論』（一七五三年）と比べても、質・量ともに、これらをはるかに超える壮大さを持っていた。しかも、内容の実証性と資料の厳密さおよびその広がりにおいては、先にも述べたように、「幾何学的正確さ」を理想とする本書は、類書を寄せつけぬ水準に達していたと言わなければならない」。<br>
<br>
　レーナルは、正確さを期すために「原資料」に頼るよう心がけたことを、冒頭の「おしらせ」でつぎのように述べている。「私は、新たな調査を行ない、あらゆる方面から援助を受け取ったので、幸いなことに、持ちうるかぎりでの広がりと正確さをあますところなく作品に与えることができた。本書に含まれている細目の大半は、原資料から取り出されてきたものである。原資料に匹敵するほどの確固たる根拠を持たない細目については、どこの国の人間であるかを問わず、情報に最高に明るい人間による証言がそれらを支えてくれている」。<br>
<br>
　具体的な「原資料」として、英国議会報告書に含まれている東インド会社の経営内容や株式の変動などの詳細な数値データが使われている。これらの報告書や数値データのほか、レーナルは「実際に航海と貿易にたずさわった人間が著わした航海記や見聞録、征服事業に参加した人間が著わした記録、諸王国の支配者の事蹟を記録した史書、それにロシアを含むヨーロッパ全域の歴史については、政治家の回想録をはじめとするさまざまな文書、さらには、東西インドからシナにかけて派遣された宣教師の報告集などを渉猟したことはもちろんである」。しかし、引用した文献資料にかんする注記はない。いまわたしたちが、「1字たりとも引用することができない」理由のひとつは、近代文献史学の必須条件である根拠が示されていないからである。もっとも当時は、情報源を明らかにしないことが、商業上の当然の権利であった側面もあるため、レーナルを責めることはできない。それを理解したうえで、どう「読む」かである。<br>
<br>
　本書の篇名である「東インド」について、地理的な確認をする必要がある。レーナルは、「東インドという総称をめぐっては、アラビア海とペルシア王国を越えたところにある広大な地域と普通に理解する」と述べているが、訳者は「実際に著者が取り扱う地域は、この区分を東西方向と北方向にはるかに越えた広大な地域となっている」と述べ、具体的につぎのように説明している。「東インド篇が取り扱う東インド概念で包括される地域を具体的に列挙するとすれば、まず、ヨーロッパ人が東インドと呼んだ「本来の」インド、インドシナ、インドネシア、東インド諸島をあげなければならない。次に、異教が支配する中近東地域、ポルトガルがインド航路開拓で交易を持つにいたった東西のアフリカ沿岸部、ヨーロッパとは陸続きの黒海周辺地域、カフカス地方、中央アジア、シベリア、モンゴル、シナなど、本来の地理的概念には含まれてこなかった地域をあげなけれならない。さらに、この範疇に属する地域として、太平洋では、台湾島はもとより、マゼランの世界周航でスペインと関係を持つにいたったフィリピン諸島、ヨーロッパの列強が熾烈な争いを繰り広げた香料諸島周辺、また、あまりにも地理的にヨーロッパからは僻遠にあったために、ヨーロッパにとっては、未知のベールに包まれていた朝鮮半島から日本を含む極東諸国をあげておかなければならない」。<br>
<br>
　第一篇でポルトガル人、第二篇でオランダ人、第三篇でイギリス人を扱った後、フランス人でイエズス会に入会し、ジャーナリストとなったレーナルは、第四篇「東インドにおけるフランス人の旅行、植民地、戦争、貿易」を、つぎのように書きはじめている。「本書をはじめるにあたり、私は真実を書く誓いをした。そしてこれまで私は、この誓いを忘れたことはなかったと自分では思う。凡俗のものでしかない依(え)怙(こ)贔(ひ)屓(いき)によって、私が私自身と他人に私の国の過ちに関して持論を押しつけるようなことがあれば、私の手などひからびてしまえ。私は、私の先祖がしてきた善行であれ、悪行であれ、それをぼかして言うつもりはない。ポルトガル人もオランダ人も、そして、それがイギリス人であってさえも、私の公平性を期待してよい。これらの人びとはこの本を読み、私をどうか裁いてほしい。私が彼らを扱ったときには厳しくしたのに、その厳しさをフランス人に対しては、緩めてしまっていることを、もし彼らが発見したなら、私を、二〇〇〇年前から諸国民と君主たちの精神を毒してきた、おべっかつかいの仲間にいれてくださってもいいし、同じ部類の書物のなかで多数派を占める低俗さの記念物に私の書物を加えてくださってもいいし、私が私の魂の入り口を恐怖感、あるいは期待感のために開いてしまったとお疑いになってもいい。私は甘んじて彼らのいっさいの侮蔑を受けよう」。<br>
<br>
　第五篇で「デンマーク、オーステンデ、スウェーデン、プロイセン、スペイン、ロシア」を扱った後、「ヨーロッパと大インドとの結びつきに関する重要ないくつかの問題」を第二四章から第三五章まで12章にわたって論じている。そのうち9章は「シナ」にかんするもので、つぎにあげる残り3章のタイトルから、なぜ本書が読まれたのかの理由の一端が伝わってくる。「第三三章　ヨーロッパは大インドと貿易をつづけるべきであろうか？」「第三四章　大インドで貿易を行なうために、大規模な植民地をヨーロッパは必要としているか？」「第三五章　ヨーロッパは大インド貿易を自由化すべきか、それとも独占会社を通じてそれを開発すべきか」。<br>
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　どう読んでいいかわからないわたしにたいして、1970年代末に本書の翻訳を志した訳者は、「本書の翻訳が急がれる理由」をつぎのように説明している。「ヨーロッパ諸国の植民地獲得と植民地経営の歴史を描いた本書は、一八世紀後半に書かれたものであるにもかかわらず、わが国においては、今日性をいささかも失っていないからである。脱亜入欧を唱えた明治以来、今日にいたるまで、われわれは、植民地主義ないし植民地主義的発想に起因する諸問題を反省なく抱えこんだままである。それは、現代日本に再び「アジア的身体の問題性」を浮かび上がらせている、と指摘する作家もいる。また、第三世界では、形を変えた植民地主義である経済侵略と資源略奪による貧困と飢餓がいささかも衰えを見せていない。かつては、植民地主義の発端は、黄金と奴隷と香辛料の獲得であったが、今日では、それは、もっと直截に、食糧の確保である。その一方で、地球環境の先進諸国による破壊も、経済のグローバリズムの名の下に、人類の未来を脅かすまでにいたっている」。「たしかに、本書に示されたようなヨーロッパ思想とその進化形態である啓蒙主義の基本的前提である進歩の普遍主義を、見境のない現代のグローバリズムから区別することは難しいかもしれない。しかし、それはそれとして、たとえば、本書に克明に描かれているインドの植民地化と今後描き出されるであろう新世界征服の地獄絵図に見られるような過去の狂気と失敗と惨禍の教訓にわれわれは学ぶべきであろう」。<br>
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　未来を見据え、本書をどう読むか、まだわたしにはよくわかっていないが、日本語でこのような文献が読めることは、ほんとうにありがたい。訳者と出版社に感謝いたします。<br></p>
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<category>歴史</category>
<pubDate>Tue, 21 Feb 2012 10:00:00 +0900</pubDate>
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<title>『世界史の中のアラビアンナイト』西尾哲夫(NHKブックス)</title>
<description><![CDATA[<p>
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　2011年11月、フィギュアスケートNHK杯ショートプログラムで、浅田真央は青いハーレムパンツ衣装で登場した。曲は「シェヘラザード」。1888年夏に完成されたニコライ・アンドレイェヴィチ・リムスキー＝コルサコフ作曲の交響組曲である。千夜一夜物語の語り手、シェヘラザードの物語をテーマとしている。<br>
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　本書の終章は、「シェヘラザードをめぐって－世界文学への道」である。そこで著者、西尾哲夫は、シェヘラザードをつぎのように紹介している。「アラビアンナイトのヒロインであるシェヘラザードは、アラブ文学を代表する女性像として、文学者や文学史家の注目を集めてきた」。「シェヘラザードは女性の美点を弁護して女性の地位向上を果たすためのキャラクターであるという見方もある」。「性愛文学の系列に属するアラビアンナイトでは、シェヘラザードの官能性が強調される。一方で、子ども向けファンタジーの中では、純真な乙女あるいは賢い母親としてシェヘラザードが描かれる。つまり、これといった性格特性のないシェヘラザードは、アラビアンナイトの位置づけによって、いかようにも変化するキャラクターなのだ」。<br>
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　本書では、なぜ「いかようにも変化する」ようになったのかを、学問的に立証している。著者は、つぎのように「序章　エブリマンズ・アラビアンナイト」で問いかけ、本質へと迫ろうとしているのかを説明している。「本書ではヨーロッパの東方観とアラビアンナイトの相互関係を検証しながら、国際協同による調査研究をとおして明らかになった新事実を織り交ぜ、アラビアンナイトの軌跡を俯瞰(ふかん)してみよう。アラビアンナイトの成立過程を追っていくことで、ヨーロッパ、中東、そして日本の近代史を、今までとは少し違った窓からのぞくことができるのではないだろうか」。「具体的には、《アラジン》《アリババ》《シンドバード》の内容から始まり、アラビアンナイトの成立史を簡単に確認した後、海外に膨張するヨーロッパが植民地経営の需要にみあったアラビアンナイト編集版を作成した経緯を追ってみよう。その過程で、近世エジプトで千一夜を含む物語集としてまとめられた「もうひとつのアラビアンナイト」が、どのように近代ヨーロッパとかかわり、世界文学へと変貌していったかが見えてくるだろう。そして最終的には、アラビアンナイトのキャラクター中、誰よりも個性の乏しい人物、つまり、語り手シェヘラザードの本質がつかめてくるはずだ」。<br>
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　そして、終章で、著者はつぎのように結論づけた。「シェヘラザードはアラビアンナイト解釈の文化的背景によって、いかようにも変化する人物として描かれていた。見方を変えれば、シェヘラザードは肉体性を喪失することによって女性の肉体機能が本源的に備えていると考えられていたカイド［策略、悪だくみ］の拘束から解き放たれたとも言える。千年以上も昔に「原アラビアンナイト」が誕生して以来、この物語集はさまざまに加工されてきた。多様な文化と時代、そして価値観を越えてアラビアンナイトが世界文学となりえたそもそもの原因は、肉体性を喪失した物語再生装置としてのシェヘラザードという初期設定にあったのではないだろうか」。「アラビアンナイトの登場人物中、誰よりも明確な個性を持っていたのは、無個性なシェヘラザードだったのではなかったか。そして枠物語としてのアラビアンナイトが、文明を越境しながら次々と新しい物語をとりこみ、うみだしてきたのは（そして今日もまた、新しいアラビアンナイトがうみだされている）、文化コードとしてのカイドを捨てることによって新しい力を得たシェヘラザードのおかげだったのではないだろうか」。浅田真央も、その「新しい力」に期待したのだろうか。<br>
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　そして、つぎのように結んでいる。「ガラン版『千一夜』に始まり、カルカッタ第一版、カルカッタ第二版、レイン版、バートン版、マルドリュス版などを包含する巨大な文学空間は、オリエンタリズムによってとりこまれた他者像を整形あるいは解体し、さらには融合させていった」。「近代ヨーロッパとアラビアンナイトのであいは、不幸な偏見を生み出すことにもなった。だが、本書でその成立の過程をたどってきたように、オリエンタリズム的文学空間は、特定の地域で伝承されてきた文学を新しい形へと変化させるモメンタムが生気する場として作用したと言えるだろう」。<br>
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　ところで、わたしたち日本人が親しんでいるアラビアンナイトは、どのように変化したものなのだろうか。「あとがきに代えて－日本のアラビアンナイト」で、つぎのように説明している。「日本でのアラビアンナイト紹介は、オリエンタリズム的文学空間で形成されたアラビアンナイトの移入に終始したことになる。だが、本書をとおして確認してきたように、現在のアラビアンナイト誕生のきっかけとなったオリエンタリズム的文学空間は、中東世界と近代ヨーロッパとの相互作用によって生じたものだった。つまり日本では、アラビアンナイトを産んだ中東文化への視点さえないような状態で、近代ヨーロッパで形成されたアラビアンナイトを受けいれてしまったことになる」。<br>
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　現在、ガラン版『千一夜』の全訳に着手しているという。このような研究が、現代社会の役に立つのだろうかと、訝しがる人がいるかもしれない。その疑問にたいして著者は、2010年から11年にかけて始まった「アラブの春」を演出したフェイスブックによるコミュニケーションについて、つぎのように解説をしている。「複雑かつ美麗な」「「書きことば」による情報交換が成立している世界と、「話しことば」による日常的な会話の世界が分かれて」いる「アラビア語圏では、民衆が言語コミュニケーションをつうじて広範なネットワークを作り出すことが難しかった」。「だがITの出現によって、大きな変化が生じてきた」。「若者たちは、ローマ字による日常会話をメールで送るようになった。ローマ字ではアラビア語のすべての音を表記できないのだが、友人同士の意思疎通にはそれほど問題はない。「話しことば」は、地域だけではなく職種や部族によっても異なるが、若者たちがローマ字メールに使用したのは、いわゆる中間アラビア語とよばれる新生アラビア語の一種だった。やがてアラビア文字を用いた通信環境が整いはじめると、二〇一一年の反政府運動で彼らが連絡用に用いたのは、アラビア語表記による中間アラビア語だった」。<br>
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　このような言語事情は、アラビアンナイトの普及や変化と大いに関係がある。どこのだれが、どのようにして読み、書き換えていったのかを理解することは、今日の社会情勢を把握する大きな力になる。基礎研究は、いつどのようなかたちで役に立つかわからないところがあるが、本研究は「アラブの春」の理解に役立つ。<br></p>
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<category>歴史</category>
<pubDate>Tue, 07 Feb 2012 10:00:00 +0900</pubDate>
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<title>『超高齢者医療の現場から－「終(つい)の住処(すみか)」診療記』後藤文夫(中公新書)</title>
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　著者、後藤文夫は70歳を過ぎた医師である。本書を出版しようと思い立ったのは、本書に登場する85歳以上の超高齢者の「終焉がわたくしの心に強く響いた」からである。「その「心に響いた」病歴には、「こうありたい」と思う終焉がある一方で、「どうしたらこのような最期を避けることができるか」と自問自答するもの」も少なくなかったという。その理由を、つぎのように「おわりに－おだやかな超高齢期とリビング・ウィルの普及を期待して」で書いている。<br>
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　「男性は女性よりも「社交性」に劣り、「おだやか」な生活に慣れていない点が問題と指摘されています。わたくし自身その通りで、社交性に劣ることを強く認識しています。さいわい、医師という資格を持ち現職時代の経験を生かして大学を定年退職したのちも医療職を継続しているため、社会とのつながりが維持できています。しかし、きわめて近い将来、体力が低下して医師の業務を続けられなくなることは間違いないことで、その際には本書に引用させていただいた方々を思い浮かべ、リビング・ウィルを明確にしておこうと思っているところです」。<br>
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　著者が院長を務める「高齢者施設に囲まれた高原の小さな病院」で、いまなにが起こっているのかは、本書の11の章と終章のタイトルを見るとだいたい想像がつく。「第一章　実の娘の介護放棄」「第二章　おだやかな死と「死の質」」「第三章　認知症の合併症による家族とのトラブル」「第四章　認知症患者の悪口雑言とクレームに疲弊する介護職員」「第五章　在宅介護と介護ストレス」「第六章　入院三ヵ月・これからどこへ？－高齢者介護施設が足りない」「第七章　要支援・要介護者数の急増に対応できない介護政策」「第八章　姉が妹の障害年金を流用」「第九章　超高齢者に多い病気」「第十章　認知症の種類と症状」「第十一章　安楽死・尊厳死を考える」「終章　超高齢期を前向きに生きて呆けの進行を遅らせよう」。<br>
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　著者は、「死の質」を問うている。残念ながら、日本は「死の質」世界ランキング、40ヶ国中23位で、発展途上国レベルといわれている。第1位から3位は、英国、オーストラリア、ニュージーランドで、「豊かな死」を迎えられると評価されている。いっぽう、日本は、「医療費の高さや医療と介護に従事する人員の不足などのせいで」低い評価だという。原因も対策もわかっているのにできないのは、ひとびとの考え方によることのようだ。<br>
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　その考え方のひとつに、「看取り」をどう考えるかがある。「看取り」は、「家族が高齢者に寄り添って静かに命の終焉を見守る」ことが基本で、「施設で看取る方針であれば、入院の是非を問う前に介護の方針を家族で話し合い、施設とも確認する必要」がある。しかし、その方針が決められないために、「看取り介護」ができないことがある。その理由は、超高齢者や施設の状況をいちばんよく理解している家族の考えを尊重しない、ほかの家族に原因があるようだ。介護にあたって、どうすればいちばんいいかという答えは、そう簡単ではない。それぞれの状況、それも日々刻々と変わる場合のある状況と、超高齢者本人や実際に介護にあたる家族の考えを考慮して、総合的に臨機応変に判断しなければならないからである。施設の職員は助言できても、最終的には本人と家族で決めなければならない。実際に介護の中心になっている家族の責任が重いわりに、ほかの家族がそれを充分に理解していないで、個々勝手に「正しい」発言をすると、収拾がつかなくなってしまう。<br>
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　本書でも紹介されているように、どうしようもない家族がいることは事実だが、多くの家族は親身になって考えようとしている。にもかかわらず、みなが「やさしく」なれない理由のひとつは、介護の中心になっている家族ひとりに負担が集中し、ほかの家族が事実上頼り切っていることにある。しかし、頼り切っていることに気づいていない家族も多いし、気づいていてもその具体的状況を理解していない家族も多い。ひとりで超高齢者との1対1の関係が長く続くと、介護するほうもされるほうも疲れて、心のゆとりをなくしてしまう。いつでもかわりに介護してくれる家族がいると、気持ちがうんと楽になり、その苦労が具体的にわかり相談にも乗ってもらえる。家族会議のときにも説明しやすく、意見をまとめやすくなる。だが実際には、最初に介護を引き受けた家族が「貧乏くじ」を引くことになる場合が多い。<br>
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　本書は「超高齢者医療の現場から」の実例を基に、著者自身が自分自身のことも考えながら書いているだけに、説得力がある。しかし、実際に死と向き合うと、理屈ではいかないことが多々ある。「看取り」をした家族、職員がいかに「心に響く」終焉を迎えるかを期待するより、「どうしたらこのような最期を避けることができるか」を考えることのほうが現実のようだ。<br></p>
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<link>http://booklog.kinokuniya.co.jp/hayase/archives/2012/01/post_245.html</link>
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<category>社会</category>
<pubDate>Tue, 24 Jan 2012 10:00:00 +0900</pubDate>
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