« 文芸評論 | メイン | 歴史 »

2009年07月21日

『からゆきさん物語』宮崎康平(不知火書房)

からゆきさん物語 →bookwebで購入

 1960年前後に書かれた本書を、わたしたちはどのように読めばいいのだろうか。

 本書は、「からゆきさん」の実録を基に書き起こした小説である。「からゆきさん」といえば、1972年に発行された山崎朋子『サンダカン八番娼館』(74年に映画化)や76年に発行された森崎和江『からゆきさん』が話題になり、87年には『村岡伊平治自伝』が「女衒」というタイトルで映画化された。「からゆきさん」とよばれる海外の娼館で働いていた日本人女性は、明治から大正にかけて中国東北地方や東南アジアを中心に世界各地に広まった。1910年代後半からの廃娼運動や30年代前半のシンガポールや香港の公娼制度の廃止によって「からゆきさん」は激減したが、戦後も東南アジアなどに残っていた者がいた。日本に帰国して細々と暮らしていた老齢期を迎えた元「からゆきさん」ともども、1970~80年代にノンフィクションやドキュメンタリーの題材となった。折しも1960年代から世界中でウーマン・リブ運動が広まり、日本でも女性の地位向上を求めた。『サンダカン八番娼館』の副題は、「底辺女性史序章」だった。

 本書は、ウーマン・リブ運動が盛んになる前に書かれた。本書に登場する「からゆきさん」は、底辺に位置づけられ、虐げられた「かわいそう」な存在ではない。自分に与えられた境遇のなかで、たくましく懸命に生き抜いた人びととして描かれている。その点で、本書は森崎和江『からゆきさん』に近い。著者の宮崎康平は、本書を完成することなく、邪馬台国のほうに関心が移り、1967年に出版した『まぼろしの邪馬台国』がベストセラーになると、「からゆきさん」の出版を棚上げにし、そのまま80年に突然、脳卒中で死亡した。本書がお蔵入りした理由のひとつは、ウーマン・リブ運動にあったのかもしれない。それは、著者にとって、「からゆきさん」は特別な存在ではなく、著者の人生の日常生活のなかに自然に存在した人びとであったからである。それを「底辺女性」と位置づけられたことに戸惑いがあったのかもしれない。

 1917年生まれで、30代前半で失明した著者の口述を筆記した妻・和子さんの「「からゆきさん物語」の出版にあたって」には、著者が「「からゆきさん」に関しては絶対の自信を持っていた」背景として、「生い立ちが深く影響していた」と述べられている。著者が生まれる前後に、一家は父徳一がスマトラ横断鉄道敷設にあたっていたためにパダンに住んでいた。帰国後について、つぎのように書かれている。「スマトラでの鉄道事業は挫折し、止むなく一家は故郷島原に帰国したのだが、折にふれて母から聞かされた南洋の暮らし、現地のからゆきさんにまつわるエピソードなどが、追体験として強烈に康平の意識の中に育っていたのであろう。加えて、島原中学の同窓生にはからゆきさんを母に持つ混血の少年が居たり、英語教師はからゆきさんの夫として共に来日した英国人であったりといった、からゆきさんをめぐる濃密な環境も、どうしても「からゆきさん」の真の姿を畢生の作品として残したいという思いに駆り立てたのだと思う」。そして、「絶好のモデルを得た康平は、第一部「波濤」、第二部「花筵(はなむしろ)」、第三部「落日」、第四部「別離」と約八百枚に及ぶ大作を、島原鉄道の常務として多忙な中で一気に書き進んだ。深夜口述で走り書きしたものを、昼間、康平が会社へ出かけた後、私がざっと読めるように書き起こし」た。しかし、第二部の清書を仕上げた後、突然、棚上げにして、その後、完成を見ることはなかった。

 残された妻・和子さんが「出版に踏み切れなかった最大の理由は、未完ということにこだわったわけではなく、『まぼろしの邪馬台国』のヒット以来、あれほど熱中した「からゆきさん」に十余年も手を付けず放っていた康平の心情が何とも推し量れなかったからである」という。

 わたしは、本書の出版を歓迎したい。1970年代に出版できなかったものが、いま新たな読み方によって、現代の人びとに訴えかけるものをもっているからである。モデルとなった女性について、つぎのように略歴が述べられている。「かつて「からゆき」としてシンガポールに渡り、現地で大成功を収めて財をなした、からゆきさんとしては数少ない成功者の一人だった」。「第二次世界大戦が敗戦に終わり、収容所を転々とした彼女はやっとインドのカルカッタから引揚げ船に乗ったが、そのとき全財産を宝石に替えて隠し持って帰国した。たいした根性である。ところがその後、彼女はその莫大な宝石を二束三文に殆どだまし取られて、今は近所の子守りなどをしながら糊口をしのぐ日々となったのであった」。「だが、したたかな彼女は毎日のように市役所に押しかけて、この不当な境遇を何とかしてくれと訴えるので、役所ではほとほと持てあまし、記者室でも「ダイヤモンドなつを」と話題になっていた」。

 自殺や鬱病で悩む人が多い現代、「からゆきさん」から生きるとはどういうことかを学ぶことができる。そして、本書が未完で終わったことで、むしろその後の生き方がいろいろ想像でき、いつの時代でも、どのような社会でも受け入れられる作品になったということができるかもしれない。

→bookwebで購入

2009年03月17日

『豚と真珠湾 幻の八重山共和国』斎藤憐(而立書房)

豚と真珠湾 幻の八重山共和国 →bookwebで購入

 舞台は、1945年11月の沖縄の石垣港近くの料亭で始まる。登場人物は、「サカナヤー(料理屋)「オモト」の主人」「武部隊。海南新報記者」「小学校教師」「中学校の歴史の教師」「密貿易業者」「台湾人の元暁部隊隊員」「日系二世の兵士・通訳」「戦災孤児」「海人」「予科練あがりの特攻隊員」「警察官」「戦災孤老」などで、これらの人びとの口を通して、沖縄の歴史、沖縄と本土の関係、沖縄本島と八重山諸島の関係、八重山諸島の歴史と文化が語られる。多少八重山諸島のことを知っている者なら、よくぞここまで凝縮して語ることができるものだと感心してしまう。しかし、知らない者には、ちんぷんかんぷんの別世界のお話だろう。

 主題の「豚と真珠湾」は、ハワイに移住した沖縄人が、豚を飼う野蛮人だといわれてバカにされたところからきている。副題の「八重山共和国」は、終戦後マラリアが蔓延するなか無政府状態に陥った八重山諸島で発足した自治会(1945年12月15日~46年1月24日)の俗称である。

 台詞の端々から、八重山諸島の人びとが、その歴史と文化を背景に、終戦直後をいかに「助け合いながら、自分たちの生きる方向を模索」したかが伝わってくる。その一部を、つぎに抜き出す。
 「この島だけで年寄りが百人も残された。」「戦災孤児じゃなく、戦災孤老か。」
 「台湾に疎開した六千人が基隆埠頭で、引き揚げ船を待っとるさあ。」
 「若い人たちが自治会作ってね。部落から芋を集めて、身寄りのない家に配ってるさ。」
 「俺に人殺しをさせたヤマトの兵隊が、学生に化けてんのか!」
 「もし日本が特攻基地を作らなかったら、石垣島は爆撃されていなかったでしょう。」
 「我々は日本国国民として生きることを望んでいない! 平和に生きてきた琉球民族の国家を再建し、海洋の民として生きることを望む!」
 「沖縄にはたくさんの島があり、別々の方言を喋っています。黒島の小学校を出て石垣の中学に進んだ子どもは、初めて電灯というものを見ますが、石垣の言葉がわからず馬鹿にされました。沖縄本島の県立高校に進むと首里言葉がちんぷんかんぷん。大学のある東京では、地下鉄が走っとった。……町には「朝鮮人と琉球人お断り」って張り紙。方言は文化ですが、共通語は文明です。私はウチナーグチの教科書を作ることには反対です。」

 最後の舞台は、1950年9月になっている。著者は、「あとがき」で、「千三百頁を超える講談社の『昭和史全記録』の「沖縄」「琉球」の項には五年の空白がある。敗戦直後に日本の新聞が取り上げたのは、一九四六年六月一日「GHQが、琉球列島の日本の行政権を停止した」という小さな記事だけだ」と書いている。著者は、歴史から消されたその空白を語りたかったのだろう。

 その著者、斎藤憐の略歴は本書に記されていない。劇作家として、あまりにも有名だからだろう。本書では、略歴のかわりに巻末に20冊あまりの著書の広告が載っている。1940年に朝鮮の平壌で生まれた著者は、1980年に「上海バンスキング」で岸田國士戯曲賞を受賞し、その後菊田一夫演劇賞、紀伊国屋演劇賞、鶴屋南北戯曲賞を受賞している。平壌生まれの影響か、港と港から繋がる外の世界を描いたものが目につく。

 それにしても、「あとがき」の最後の4行は、さらりと読みすごすには、あまりに重い現実を言い表している。「ロケーションを沖縄本島に採らなかったのは、本島はあまりに悲惨すぎ、僕のようなヤマトの人間には贖罪の気持ちが先行し、人々の生活をありのままに描けなくなるからだ。」「それに、サバニ(小船)を操って、この列島に米も豚も芋も運んできた海洋民の楽天性とアナーキズムをぜひ描きたかった。」気持ちよく聞いている沖縄の歌の意味に気づいて、ドキッとすることがある。「楽天性とアナーキズム」に潜む現実を著者は知っているから、この戯曲は書けた。

→bookwebで購入

2009年02月10日

『シーボルトの眼 出島絵師川原慶賀』ねじめ正一(集英社文庫)

シーボルトの眼 出島絵師川原慶賀 →bookwebで購入

 「いま、手元に『紅毛交接図』なる妖しげな絵図をひろげて、異装の男女が荒々しい房事にふける情景を鑑賞している。本書の冒頭にあるシーンをそのまま描いた図を、運よく書棚から拾い上げられたおかげで、本書を読むことが一段と楽しくなった。それにしても、長崎絵師をあつかったこの物語の各章を、縁のある実在の絵によって括ろうという発想は、じつに洒落ているではないか。この小説の楽しみ方は、章題に示された絵図をどこぞから探し出してきて、傍に置きながら読むことだぞ、とヒントを与えられているようなものだ」。荒俣宏は文庫版の「解説-本書と作者に関する余計なお話」の冒頭で、このように述べている。

 実証を基本とする研究者としては、川原慶賀が描いた絵図を1枚もあげることなく話を進めるこの小説の事実関係に、疑いをもってしまう。しかし、「だから、研究者のやる仕事は、事実から遠のくのだ!」という著者、ねじめ正一の声が聞こえてきそうだ。研究者にはわからない「事実」を、臨場感をもって描くのが小説家の仕事だ。その意味で、川原慶賀はいい題材だった。数多くの絵図を残し、シーボルトと密接な関係があったにもかかわらず、低い身分の町絵師だったせいか、生没年さえはっきりしない「謎」の人物だからだ。

 ここに2005年11月3日に開館した長崎歴史文化博物館の特別展にさいして発行された長崎歴史文化博物館・ライデン国立民族学博物館共同企画『長崎大万華鏡-近世日蘭交流の華 長崎-』がある。この図録には、川原慶賀の絵図も多数収められている。枕絵はないが、たしかに本書を読んだ後に見ると、本書をもういちど楽しめる。川原慶賀については、つぎのような説明がある。「江戸時代後期の長崎派の絵師。オランダ人医師・シーボルトに重用され、彼の科学的態度に基づいた日本研究のために、膨大な記録画的作品を残した。唐絵目利である石崎融思と関係があり、フランス人デ・フィレニューフェにも洋風表現を学んだ」。この小説には登場しないデ・フィレニューフェという洋風画の「師匠」がいたことがわかる。

 本図録所収の「日本人の一生」では、「出産」から「墓参り」まで23枚の川原慶賀の作品を楽しむことができる。川原慶賀の作品の大半は、「長崎の歳時記や職人、生活風俗、図譜など、日本研究のための記録画」であった。その「まじめな記録画」をよく見ると、吹き出してしまう「いたずら」に気づく。「葬迎(1)」のお寺の門の前に6人の僧侶がおり、その横に「不許輩酒肉入山門」の文字が見える。「墓参り」では、墓石に「酔酒玄吐行」「淫好助兵衛腎張」と書いてある。こんなところから、ねじめ正一は川原慶賀像を得て、小説の主人公にしようと思ったのかもしれない。

 本小説ほど「事実」は伝わってこないかもしれないが、すこし確実な川原慶賀の人物像は、図録所収の論文のひとつである岡泰正「川原慶賀とデ・フィレニューフェ-石橋助左衛門の肖像図をめぐって-」からわかる。

→bookwebで購入