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2012年09月11日

『ヒューマニティーズ 文学』小野正嗣(岩波書店)

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 このシリーズ、全冊を読む人のことを考えているのだろうか。5章の章立ては守られているが、その内容は各執筆者に任されているようだ。頁数も、もっとも多い200頁ほどのものともっとも少ない100頁ほどのものとで倍ほど違う(定価は同じ)。本書は、もっとも頁数が多く、各章の内容、とくに「五、何を読むべきか」では1冊(リルケ『マルチの手記』)の参考文献しかあげられていないという異質なものになっている。

 まず、著者、小野正嗣は「一、文学はどのようにして生まれたのか」という問いにたいして、「そんなことを訊かれて、いまわれわれはとても困惑している。そもそも文学とはなんなのか、よくわかっていないのに」と吐露し、カフカの『変身』などを題材に具体例を示しながら考えていく。そして、つぎのようなことを発見する。「文学において何よりも重要なのは、語りの力だということである。語られる内容がかりに荒唐無稽なものであっても、語り方ひとつで、どのように語るかによって、それを読者にとってリアルなものに、それどころか現実以上に現実的なものにすることができるのだ」。「カフカのこの短いテクスト[「巣作り」]には、われわれが文学と呼びたいものがすべてある。まず、語っているのが誰なのかもよくわからない。声の主である「私」は地中の巣穴で暮らしており、この巣穴を自分の爪で土を掘ることによって建設したというのだから、どうも人間ではないようだ。しかしその姿を思い浮かべるのはきわめて困難だ。そういう意味では、「私」の存在は声そのものである」。「巣を作ることは、おそらく文学に取り憑いて離れぬ欲望のひとつだ。それは、言うことの可能性をたえず新たにし、言葉をつねに甦らせるという文学の本質と特権的な関係を取り結んでいると言ってもよい」。

 そして、本章はつぎの文章で終わっている。「書くということは、ふだんの「いま」と「ここ」と「わたし」を忘れて、この「どこにもないところ」に連れて行かれることにほかならない。「どこにもないところ」、そこは文学の巣穴であり、ふるさとである。ということは、われわれすべてのふるさとでもある。耳を澄ませてほしい。この文学の巣穴が張り巡らされた「どこにもないところ」を通過した者たちによって、いたるところで新しい巣穴が掘られている音が聞こえてくる」。

 「二、文学を学ぶことに意味はあるのか」では、「他者をより深く知ろうとするとき、自分が見えてくる」といい、「文学を学ぶことには何も意味がないと断言するのは、人間として生きることには何の意味もないと認めることに等しい」と、この章を結んでいる。具体的には、つぎのような説明がされている。「文学がやっていることも、子供にとっての遊びと基本的にはなんら変わるところはない。想像力の動きがより大きく、より精緻に、より複雑に、より構造的になっているだけの話だ。遊びが子供にとって不可欠なように、文学に代表される創造的活動、芸術は、人間が人間であるために不可欠な本質的活動である」。「宗教、ジェンダー、人種、階級、国民性などの差異を持つ人々を理解するために、文学が最良の手段を提供してくれると言う。なぜなら文学は他者の立場に身を置くことを可能にするからだ」。

 第二章を引き継ぐように、「三、文学は社会の役に立つのか」では、社会を「市場」と理解している人には無駄で無用に思えるかもしれないが、この問いをつぎのように読み替えれば、答えは「イエス」しかないと明瞭にこたえている。「「文学はわたしたちの心を豊かにしてくれるのか」あるいは「文学はわたしたちのものの感じ方・考え方を広げてくれるのか」「文学はわたしたちがこの世界でともに生きる他者をよりよく理解することを助けてくれるだろうか」。

 「四、文学の未来はどうなるのか」では、人間社会が存在するかぎり、文学も存在することを、つぎのように帯の裏でも述べている。「絶滅収容所のような極限的な場所において文学は無力である。・・・にもかかわらず・・・地獄の底に沈みつつあった一人の苦しむ人間を支えることができる。その人を、悲痛や絶望を通して、彼と同様に苦悩する無数の人びとと結びつける。文学とは何よりも「わたし」と「他者」とをつなぐものである。そして社会とは人と人とのつながりの場である以上、社会が社会であるために、文学は何よりも必要とされる。逆の言い方をすれば、文学のないところに社会はない。文学の死はすなわち、人間社会の死である」。

 最後の「五、何を読むべきか」では、まず本章の主題は「何を読むべきか」ではなく、「どのように読むべきか」であるとし、つぎのように説明している。「「何を読むべきか」というのは、あまり意味のない問いである。大切なのは、出会った人とどのようにつきあっていくかを学ぶように、出会った本とどのようにつきあっていくか、つまりどのように読むかを学ぶかではないか」。「しかし作品を読むということは、実はそれほど簡単なことではない」として、説明を続けている。

 小説家でもある著者は、科学的な説明を避けたためであろう、繰り返しが多い。しかし、具体例をあげながらで、よりわかりやすくなっている。そして、著者は作品を理解するために、視野を広げ、いろいろな角度から観ようとしている。たとえば、歴史学や地域研究について、他人の説を引いたつぎのような言及がある。「歴史学の言説と歴史小説の言説を区別するのは、内面の透明性だと指摘している(歴史学の言説では、「ナポレオンは・・・と考えたにちがいない」とは書けても、「ナポレオンは・・・と思った」とは書けない。そう書いてしまえば、それは歴史学ではなくて歴史小説だ)」。「非西洋地域の作品を読むときに、気をつけたいことがある。作品をもっぱらそれが書かれた国の社会や文化のネイティブ・インフォーマントとして読んでしまうようなアプローチをできるだけ避けながら、まず自分たちの社会や文化との差異を理解すること。そしてそうした差異を超えて普遍的な人間の経験を共有すること。この二つが同時になされなくてはならない」。加えていえば、歴史学にしろ地域研究にしろ、学問であるならば説得ある根拠をあげる必要がある。

 本書を読んで、文学の必要性がよくわかった。よくわかっただけに、文学の未来について心配になった。まず、本を読まなくなったことである。しかも、1冊丸ごと理解することや、作家1人丸ごと理解しようとする読者が少なくなったことだ。インターネットで調べれば、簡単にわかったつもりになるので、ゆっくり「他者」と向かうことがない。自分と同じ考えの人を見つけて安心し、自分とは違う意見に耳を傾けようとしない人が増えてきているのではないだろうか。文学作品よりもっと手軽なものにテレビドラマがあるが、そのドラマも観なくなっている。韓流ドラマを観ても、違いがわかるはずだ。
 「わたし」と「他者」をつなぐものが希薄になっているからだろう。学生が就活でさかんにいうのが、コミュニケーション能力である。大学入学直後から就活テクニックを気にするより、じっくり本を読むことが重要なことが本書からわかる。文学も実学であることがわかる人が増えると、この社会ももっとおもしろくなる。


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2006年12月19日

『翻訳教室』柴田元幸(新書館)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 数年前に、もう英語の論文は書かないと決めた。時間がかかるわりにうまく書けないからで、時間を有効に使うには日本語の単著・単行本を書くことに専念したほうがいいと思った。本書を読んで、その決断は正しかったと思った。

 「バイリンガル」というとかっこいいが、そんなことできるのは、ほんとうに限られた能力のある者か、そういう環境にあった者だけだろう。本「翻訳教室」に特別ゲストとして登場した村上春樹が、自分の本を「自分で英語に翻訳してみたい」かと訊かれて、「翻訳というのはネイティブ・タングの人が母国語に訳すのじゃないと、ほとんど不可能だと思う」と答えているのも、いかに「バイリンガル」が非現実的なものであるかを知っているからである。そして、英訳された自身の本を読んで、原著を「筋だけしか覚えてないんで」、翻訳内容が「違っててもわからない」と語っているのも、翻訳された時点で、もはや原著とは違う翻訳文学という別のジャンルの作品になることを知っているからである。だから、翻訳家のなかには、「原著よりいいものができた」とほくそ笑んでいる者がいるはずだ。

 大学で英文講読の授業をしていて、はじめわからないことがあった。学部や大学院の英語の入試で同じような成績で入ってきているのに、英文が読める学生と読めない学生がいた。その割合は、非常勤講師で行くことのある英語を得意としている外国語大学の学生も同じだった。しばらくしてわかった。読めない学生は、訳すときにしきりに頭を左右させている。入試のような短い文章ならともかく、論文や本1冊全部を読もうと思ったら、こういう読み方は続かない。東洋史の学生には、「返り点をうって読むな」と言っている。本書でも、「語順についての大原則は、なるべく原文の語順どおり訳すということです」と強調している。漢文の返り点は日本語に置き換えるための作業であって、中国や韓国では上から順に読んで、返り点などうったりはしない。その時代の文語を、書いた順に理解しているのである。英文も書いた順に理解し、まず英文として理解することが基本である。本書での翻訳作業も、まず英文として理解し、つぎにそれに近い日本語の表現を探すということをしている。村上氏は、英文は理解できても、英文で表現することはネイティブ・タングの人にしかできない、と語ったのである。

 本書は、翻訳の技法だけでなく、仕事ができる人とはどういう人であるかも、教えてくれる。村上氏は、「朝の四時に起きて十時まで仕事をすることに決めている」「朝の四時に起きるためには夜の九時半ぐらいには寝なくちゃいけないんです」と語っている。夜の授業があるわたしは、そこまではいかないが、仕事をするには朝に限ると思っている。図書館でもどこでも、たいてい朝のほうが人が少なく、効率よく仕事ができる。村上氏が、長編小説を書くとき前もって日付を設定し、それまでに「ほかの細々した仕事を全部終わらせ」て、設定した日に書き始めるというのも、わたしと同じだ。朝型だろうが夜型だろうが、仕事のできる人は外部の雑音に惑わされることなく、仕事をする時間と睡眠をする時間を「確保」している。こういう人間で問題なのは、人づきあいが悪いことだ。でも、原稿の締め切りは守るので、出版社の人のうけはよくなる。だから、また仕事が来る。比較的短期間に書きあげることのできる論文なら書けるが、単著・単行本が書けないという人は、長期的な計画がなく、目先の雑事に追われて時間の「確保」が下手なことも一因だろう。「器用貧乏」といわれることもあるが、大局的に自分の仕事を理解していないからということもいえるかもしれない。

 本書の著者も、仕事のできる人だ。本「教室」でも、自分の感覚でわからない若い人の考えや女性の考えなどを、学生から学ぼうとしていることがわかる。仕事のできる人は、他人の話をよく聞く。それは、自分の欠点を取り繕うために、わかっているふりをするためではない。わからないことはいくら勉強してもわからないことがあり、それを素直に認めて、わかっている人の話を聞き、わかっている人はこういうふうに考え、理解しているということを学ぶためである。いっぽう、本書を読んでいると、東大生らしい(?)先生より自分のほうが優れていると示したがる学生が登場する。こういう学生は自分自身が成長できないだけでなく、その存在のために授業がやりにくくなる。演習・講読といった双方向型のゼミ形式の授業は、教師も学生もともに学ぶという姿勢が大切だ。著者のいう通り、「授業を活かすも殺すもまずは学生次第なのだ」。本「教室」では、村上春樹が登場するが、この「教室」の学生は実際に村上氏の本をかなり(量も深さも)読んでいて、具体的な質問をしている。名前だけしか知らないで、村上氏の本を読んでいない学生ばかりだと、村上氏の登場はさほど意味をもたなかっただろう。

 さて、本書を読んで、翻訳するなんて自分には無理だと思った人と、挑戦しようと思った人と、両極端に分かれたのではないだろうか。わたしは、無理だと思った。しかし、若い人や時間的に余裕のある人は、ぜひバイリンガル、トリリンガル、・・・に挑戦してもらいたい。

 今年は、これでおしまい。たくさんの人が読んでくださっているようです。今年1年、ありがとうございました。みなさん、よいお年をお迎えください。 早瀬晋三   


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