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2008年09月02日

『疑似科学入門』池内了(岩波書店)

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 わたしたちは、科学とどうつきあっていけばいいのか。本書を読んで、あらためて自問した。その答えは、わからなかった。

 科学的説明を聞いて合理的に理解できて安心する反面、わたしたちは非合理的なことで生活の潤いを得ている。たとえば、サプリメントを飲んで安心しながら、実際の生活では栄養や健康に無頓着に「おいしい」食事をして楽しむことがある。「健康にいい」といわれる食品に飛びつくのも悪くない。流行というものは、合理的に考えるとつまらないものになってしまう。理屈抜きに流行を楽しむのも、いいじゃないか。しかし、問題は、それを悪用する人たちがいることだ。また、問題が複雑になって、単純に容認することができない事態が生じている。答えは簡単である。前者については、だまされないようにすればいい。後者については、充分な知識をもって対処すればいい。だが、現実には、そう簡単にはいかない。

 まずは、いまどのようなことが起こっているのかを知る必要がある。著者池内了は、つぎのように説明している。「占い、超能力、怪しい健康食品など、社会にまかり通る疑似科学。そのワナにはまらないためにどうしたらよいか。また地球環境問題など、科学の不得手とする問題に正しく対処するにはどうしたらよいのか。さまざまな疑似科学の手口とそれがはびこる社会的背景を論じ、一人ひとりが自ら考えることの大切さを説く」。

 著者は、疑似科学がはびこる背景として、「自分の責任を棚にあげて他に転化することが当たり前になって、当事者意識が希薄に」なり、「要求だけして自分は何もしない」事態になっていることを指摘している。「「お任せ」していると、知らぬうちに疑似科学に蚕食されていく」と警告している。

 わたしたちが、「お任せ」する背景も考えねばならないだろう。著者は、テレビなどのメディアに多くの科学者、評論家や専門家が登場し、「検証抜きで、簡単に断定してしまう場合」があるという。なかには、「目立ちがりやの科学者もいるし、自分こそは権威であると自認している科学者もいる。自分の知識をひけらかし、何にでも口を出したがる科学者である」。「一般に、科学者は疑り深いから直ちに結論を出すこと[を]避ける。明らかな証拠がないと、さまざまな可能性を考えてしまい、歯切れが悪くなるのだ。真実に忠実な科学者であるほどその傾向が強い。だから、そのような科学者にはテレビ局から声がかからず、人々に知られることが少ない」。「科学とは、知れば知るほどわからないことが増えてくるものである。自分は何も知らなかったと思い知らされるのが科学者の日常と言える。つまり、科学者は研究を極めれば極めるほど謙虚になる。自分の無知さを知って謙虚にならざるを得ないのだ。その観点から言えば、知ったかぶりをする科学者はもはや研究をストップしており、それまでに得た知識を誇っているに過ぎないと言うことができる。もはや過去の人であり、その知識は時代遅れになっている可能性が高いのだ」。

 日々実験に勤しんでいる現役の科学者は、マスコミに応える暇などなく、つねに疑問と闘っているので、はっきり話せることがないのだ。わたしも現役の歴史研究者なので、マスコミからの問いあわせには、「書いたものを読んでください」としか言えない(たいていは読む気などまったくなく、「かいつまんで教えてください」と言われる。かいつまめるわけがない!)。とすると、正しい科学知識を、だれが一般の人びとに伝えることができるのか。著者は、現役を退いた者が「研究の新しい展開を勉強」することを期待しているが、それだけでは、追いつかないだろう。それぞれの学会が、スポークスマンをたて、学会の公式の見解を述べる必要がある。人びとに害を及ぼす疑似科学について、つねに目を光らせ、警告を発することも必要だろう。いっぽう、無責任な情報を流すメディアを罰するだけでなく、有益な情報を提供することが、いかにメディアにとってプラスになるかを思い知らせることも重要である。複雑系の問題が多くなっているだけに、総合的に考える体制をとることが求められる。個人ではどうしようもなくなっているとも言えるが、著者の言うように「一人ひとりが自ら考えること」が大切だと言うことはわかる。科学とどうつきあっていいのかわからないが、考えることは続けよう。

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2006年05月02日

『世界森林報告』山田勇(岩波新書)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 フィールドワークをしていると、世界各地で観光開発を目の当たりにし、現代においていかに観光産業が大きな存在であるかを、否応なしに思い知らされる。なかでも、最近の流行が「エコツアー」だ。かつては冒険・探検家やその道の研究者しか入らなかったような場所にも、普通の観光客がいることがある。しかし、観光客の存在そのものが、「環境破壊」に繋がることだってある。生半可な「研究者」の調査も、同じく悪影響を与えることがある。いっぽう、本書のようなテーマでは、地球規模でできるだけ多くの土地を見てまわることがいかに重要であるかが、本書を読むとよくわかってくる。

 著者の山田勇は、40年間にわたって「地球を縦横に歩いてきた生態学者」である。著者は、本書で、「ごく最近、ごく身近に起こった森の変化を中心に、世界の森の現状がわかるように書いてみたい」という。その背景には、「今、世界中の生態系が劣化しているが、その中でも森の状況は際だって悪い。そして森が攪乱を受けると、その姿はもろに人目にさらされる。重金属汚染のように深く静かに潜行するのではなく、誰の目にも明らかな惨状が世界のあちこちで見られる」という状況がある。森の役割も変わってきている。「かつて森は木材という生産物を得る場であった。しかし最近は、森の価値が大きく変わり、人々にとって生産よりも憩いの場としての意味合いが強くなった。そしてエコツーリズムという新しい観光の形態が、世界中の森で見られるようになった」。著者は、読者が「世界の森が今どういう状況にあるかを知り、今後どのような方向を目指すべきかを考えるきっかけとなる」ことを期待している。

 森の現状を理解する旅は、著者の専門である東南アジアに始まり、北アフリカ、ラテンアメリカ、中国、さらにヨーロッパとアフリカを駆け足でめぐって終わる。本書の帯にあるとおり、「地球一周 エコツアー」ができる。それぞれの国や地域の実情、人びとの考え方によって、守られている森もあれば、無惨な姿を晒している森もある。破壊の激しい東南アジアでは、「熱帯林が伐採の対象となったのは、第二次世界大戦後、熱帯圏の多くの国々が旧宗主国から独立し、自前で国家を運営していく必要が出てきて」、「もっともてっとり早く稼ぐ方法は、自分たちの国に普通に生えている木を伐って売ること」だったという。そして、「莫大な量の木材が主に日本へ送られた」。著者は、「いま、東南アジアの大都市にある多くのこうしたビル群は、熱帯雨林の伐採と引き替えによって築かれたものだと言っても過言ではない」と言い切る。そのことに、日本や東南アジアの都市に住む人のうち、どれだけの人が気づいているだろうか。

 「この半世紀の間にズタズタになってしまった」東南アジアの熱帯雨林にたいして、石油を産する豊かな国であるベネズエラでは、「アマゾン地域に何重にも法のアミをかけてここを閉鎖した。国立公園や自然保護区、先住民地区など、さまざまな保護地域をつくって厳重に保護することにしたのである」というホッとすることも紹介されている。しかし、局地的な保護では、どうしようもない状況になってきていることが、本書からわかった。「二〇世紀の後半ほど森に住む人々の人権問題が世界の話題になった時代はな」く、著者が調査に行った先々で、「自分たちの生活を守ってくれと訴える人々がいた」。「そして今、二一世紀に入って問題は解決したかのように見えるが、どうしてどうして、何ひとつ解決はせず、ますます混迷を深めている」というのが著者の現状認識だ。

 ボルネオ島のクチンから同島のインドネシア領のポンティアナクに向かう途中、豊かな熱帯雨林の向こうに雲の合間から山々が見えた。森の神様が住んでいるとしか思えない風景だった。タイ北部チエンマイからミャンマーとの国境に近いメーホーンソーンに飛んだとき、途中まったく森しか見えず、人が住んでいる形跡がまるでない景色がしばらく続いた。森と共生できる人以外は、立ち入ってはいけない世界があると感じた。著者のようにだれでもが、世界各地の森を見ることができるわけではない。また、森の存在意味がわかるわけでもない。本書によって、地球規模での問題が見えてくると、安易な「エコツアー」に参加できなくなる。「エコツアー」や生半可な「調査」を、どう自分自身の生活や調査に役立てるか、森の存在を日常的に感じることからはじまるだろう。

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2006年01月03日

『複雑適応系における熱帯林の再生-違法伐採から持続可能な林業へ』関良基(御茶の水書房)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 1978年以来、もう何回ルソン島を上空から見たことだろうか。見るたびに、森が消え、禿げ山化するのがよくわかった。消えていった森の木の多くが、日本に輸出されたことはフィリピン人も知っていた。かつて、日本をはじめて訪れたフィリピン人が、日本に豊かな森があることに驚いて、言ったことばが忘れられない。「日本には木がなくなったから、フィリピンから輸入したのだと思った」。その日本の木材は、阪神・淡路大震災後でさえ売れなかった。片や国土の大半の森を失い、洪水などの自然災害が発生しているフィリピン、片や森の手入れが行き届かず荒廃し、自然災害の原因になっている日本、なにか変だと感じるのが当たり前だろう。

 著者、関良基は、森林資源が枯渇し、違法伐採から持続可能な森林管理へとシステムが変化するルソン島でフィールドワークをおこない、その「事例研究を通して、違法伐採問題を解決するための普遍性のある解決策を提起する」ために藻掻いている。そう、「藻掻いている」という表現が、本書にもっともふさわしいことばかもしれない。「まえがき」から「「私的管理か共同管理か」という二者択一を迫るような議論を乗り越え、「私」と「共」をアウフヘーベンすることを目指す」という、なにやらわけのわからない「アウフヘーベン」なることばが説明抜きで登場する。それを「止揚」といわれてもわからないし、ヘーゲルを思い浮かべて頷く人も少ないだろう。また、本文を読んでいくと、「ミーム」ということばがキーワードとして多用されている。これも、「自己複製子」といわれてもわからない。わからないながらも、著者が一所懸命理論武装して、政策提言までもっていこうとしていることはよくわかる。そして、そのためには、総合的アプローチと複雑適応系としての把握が重要であることもわかった。そして、その結論が、終章の「まとめと政策提言」である。

 わたしは、林業のことはよくわからない。著者の提言が、「熱帯林の再生」のために有効であるのかどうか、判断するだけの知識はない。しかし、著者の「藻掻き」の意味は、すこしわかる。それは、著者自身が述べているつぎのことばからよくわかる。「私が商業伐採跡地の開拓コミュニティと向き合ってきた調査経験を通して帰納的にいえることは、地域住民は、地域社会を取り巻く多種多様な諸条件に対し、必至になって適応しようとしている。その中で、うまく適応できず「破壊的」と捉えられるような資源利用・土地利用を行うこともあるし、うまく適応できた場合には、十分に持続可能な利用を行うこともある。普遍法則は存在しないし、発展経路も、そのときどきの諸条件の作用の仕方に依存して大きく異なってくる。二次林と人間社会を含む系の挙動は、偶然性にも左右されつつ、流動的で複雑な軌跡を描くのである」。つまり、いくら理論武装しても、実際に現場で生活している人びとには、かなわないということだ。そのことを、フィールドワークを通して理解しているだけに、著者の提言には真実味があり、耳を傾けたくなる。しかし、住民は著者の想像をはるかに超えるたくましさで、現実に向き合っている。それが、著者が願っている「持続可能な林業」へとつながるといいのだが・・・。そのためには、本書のような地道な研究と、その研究成果を充分いかせるだけの「もっと大きな力」が必要だろう。

 ところで、バージンパルプ100%のトイレットペーパーが市場にあふれ、再生紙使用のものが片隅に追いやられていることは、この「持続可能な林業」と関係ないのだろうか。バージンパルプは、どこからきているのだろうか。再生紙の原料は、ほんとうに不足しているのだろうか。両者の価格差があまりないのは、どうにかならないのだろうか。市場原理を超えた「もっと大きな力」が必要なのではないだろうか。消費者が身近にできることはなにか、「もっと大きな力」をつくりだせる源はなにか、これからの持続可能な社会に生きる人、みんなが考えていかなければならないことだろう。

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