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2014年03月25日

『「幸せ」の経済学』橘木俊詔(岩波現代全書)

「幸せ」の経済学 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 「幸せ」ってなんだろう。だれもが考えることに、本書は経済学の立場から答えてくれる。ただし、こうすれば「幸せになれる」という指南書ではないことは、言うまでもない。著者、橘木俊詔は、「著者からのメッセージ」でつぎのように述べている。「これからの日本の課題を考えるときに、学術的な背景を無視することなく、かつ軽薄な論議に流れることなく、読者が真剣に考えることができる内容を目指しました」。

 本書表紙の見返しに、本書を読むポイントが的確に、つぎのように示されている。「〝成長〟で日本は幸せになれるのか? 二〇世紀後半以降のような〝成長〟を望むことはもはやできない「定常経済時代」という現実は、「幸せになるには、まず成長」の固定観念から脱却する絶好の機会である。この本では古今東西の「幸せ」についての考え方を検討し、一万人を超えるアンケート調査の結果をはじめ多くの内外の統計データを基にして、人びとにとって「幸せ」とは何かを経済学の立場から縦横に論じる」。

 本書は、「人びとの「幸せ」は必ずしも消費の最大化、あるいは所得の最大化だけで得られるものではない、ということを主張するものです」。そのために、「世界各国における人びとの幸福度、とりわけ私たち日本の国民がどのように「幸せ」を感じているかを丹念に分析するものです。さらに、デンマークとブータンという幸福度に関してもっとも重要で興味深い国を詳しく検討して、日本がこれらの国から学ぶことがあるかどうかを議論するものです」。

 続けて著者は、本書の特色を4つあげている。「第一に、人が自己の「幸せ」を意思表示するときに、その人の性格が大きく左右しているのではないかと類推して、人の心理的な要因と幸福度の関係に注意して分析を行います」。「第二に、本書は経済学の書物であることから、経済学が「幸せ」をどのように理解して分析してきたかを経済学史として評価します。特に定常経済の思想が「幸せ」を分析するのに有用なので、この思想を詳しく議論することにします」。「第三に、日本をはじめ世界の多くの国で所得格差が大きくなっていることに鑑み、格差の大きいことや強者と弱者の存在が人びとの幸福度にどのような影響を与えているかを分析します。日本において格差社会の論争の口火を切った著者として、格差と幸福度の関係を論じることには思い入れがあります」。「第四に、もし経済だけで「幸せ」が得られないのであれば、どういう政策が人の幸福度を高めることに寄与するのか、ということを論じることにします。ついでながらこれに関して、人の心理的な側面から幸福度を高めるといったことに接近できないかということと、日本を含めた先進諸国の政府の役割も比較検討します」。

 そして、本書を通じて、「日本国民の「幸せ」度は、世界各国の人びとと比較すれば中間の位置にいることがわかりました」。また、「日本人の「幸福度」は必ずしも経済的な豊かさだけで決定されるものではない、ということもはっきりしました」。このような事実を踏まえて、著者は自身の考え方を、つぎのように披露している。「定常状態を保持するので充分ではないか、ということになります。環境問題が深刻である中、高い成長率を求めない定常経済は環境にやさしいし、経済学史上での価値にも高いものがあります。人口減少下の日本では経済成長率はマイナスになるのが自然の帰結ですが、マイナスになって人びとの元気さと生活水準が低下しては困るので、-それをゼロ成長に高めるという政策だけでも大変ですが-少なくともゼロ成長だけは達成したいと希望します」。

 この原稿を、ハノイとルアンパバーンで書いた。ハノイでは、「経済〝成長〟で幸せになれる」と考える人びとが、いきいきしている。ラオスの世界遺産の町ルアンパバーンでは、急激な観光化のなかでも、後発発展途上国(最貧国とも呼ばれる)であるにもかかわらず、「貧しい国の豊かさ」がまだ感じられる。「幸せ」の感じ方は、時代や社会、個々人によって大きく異なってくる。だから、著者は「人の性格、あるいは心理の状態がどうであるかの役割が大きいことを示した」。他人の幸せを見ることも「幸せ」を感じる大きな要素ならば、自分だけや一部の人だけの幸せは、他人の不幸が自然と見えてしまうグローバル化時代にふさわしいものではない。そう考えると、著者のいう「格差の是正」の重要性の意味もわかってくる。

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2014年03月11日

『アース ミュージック&エコロジーの経営学』石川康晴(日経BP社)

アース ミュージック&エコロジーの経営学 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 ショッピングモールの店頭に宮崎あおいの写真がある。店内にも、いくつか写真のパネルがある。自然と「ヒマラヤほどの消しゴムひとつ・・・」というCMが浮かんでくる。宮崎あおいが、歩きながら、鉄棒にぶら下がりながら、草野球の外野の守備につきながら、自転車に乗りながら、気持ちよさそうに歌っている。なんのCMかわからないし、けっしてステージで聞きたいとは思わない。最後に「あした、なに着て 生きていく?」という字幕が入り、宮崎あおいが「アース ミュージック&エコロジー」と言って終わる。

 「売上高10年で22倍 100%正社員、女性9割」と、表紙タイトルの下にある。著者、石川康晴は、「1970年岡山市生まれ。94年にわずか4坪のセレクトショップを開業。95年にクロスカンパニーを設立。99年にSPA(製造小売業)へと組織転換し、業績をさらに伸ばす。宮崎あおいさんがブランドキャラクターのアース ミュージック&エコロジーをはじめ、8つのブランドを展開する」社長である。

 本書は、プロローグ「宮崎あおいはなぜうたったか」、4章(「たとえ回り道でもまず社員力を高める」「お説教は無意味!売る仕組みを磨く」「テレビCMと全体戦力をつなげる」「経済成長と社会貢献のバランス」)、「対談 ストーリーとしてのクロスカンパニー戦略」、そして節の終わりの12の「石川康晴の視点」と章の終わりの4つの「COLUMN」からなる。

 本書を読んで、成功の秘訣は2つあると思った。ひとつは、楽しんでいることである。社長が楽しんでいるだけでなく、社員にも楽しみながら仕事をする環境を創っている。もうひとつは、学ぶ姿勢である。石川社長自身「経営者を務めながら岡山大学経済学部に社会人入試を経て入学。忙しい業務の合間をぬって授業に出席し2013年に卒業」している。学ぶのに、「忙しい」「時間がない」という言い訳が通用しないことを、自ら証明している。

 そのほか、気づいたことが2つ。ひとつは、松下幸之助の「売れなければ掃除しろ」ということばを、社員とともに実践していることである。「第3土曜日に半日かけて、社内の「断捨離」に取り組む。不用品をまとめて処分すると同時に、普段できない細かな部分の掃除を行う。社員は自分のデスク周りと共有スペースの担当するエリアを磨き上げていく」。わたしも、原稿が書けなくなったときに掃除する。すると、毎日見ているはずなのに、忘れていたことを思い出す。新しいアイデアが浮かんでくることもある。

 もうひとつは、出身地の岡山にこだわっていることである。最後に助けてくれる人は、自分を日ごろから見守ってくれている人だということを、社長は知っている。それは偏狭な郷土意識からではなく、地域社会や家族の大切さを知っているからだろう。その岡山県の北西端の新庄村を支援している。B級グルメで注目を集める近隣市町と違い、この過疎地で「本物のA級グルメ」のイベントをおこなったりしている。数年前に、遠縁の幼なじみが、新庄村の村長夫人になっていることを知った。「平成の大合併」でもどこにも編入せず、人口999人だと言っていた。そんな中山間地域の活性化がもたらす意味も考えている。

 経営が順調に進んでいるいまだからこそ、「無駄」とも思えることが積極的におこなえているように思える。「グループ連結で売上高1000億円」、「クロスカンパニー単体では全国に約600店があり、約2600人の社員」が、「20年後1兆5000億円「ユニクロを超える!」」のか?「これまで会社づくりで考えてきたことやそのためにつくってきた仕組み」が、今後どのように変わっていくのか、見守っていきたい。

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2011年03月17日

『カップヌードルをぶっつぶせ!-創業者を激怒させた二代目社長のマーケティング流儀』安藤宏基(中央公論新社)

カップヌードルをぶっつぶせ!-創業者を激怒させた二代目社長のマーケティング流儀 →bookwebで購入

 創業者の話は、おもしろい。成功した自慢話ではなく、いくつも失敗した話が聞けるからである。成功した実績のある創業者にたいして、それを創業者の目の黒いうちに受け継いだ2代目やサラリーマン社長の話は、おもしろくないのが普通だ。失敗を恐れるからだ。しかし、本書はおもしろかった。失敗の話がいっぱいあり、失敗を成功のもとにするにはどうすればいいのかのヒントが得られるからである。「失敗は成功のもと」とのんきに言っていても、失敗を繰り返すだけで成功には結びつかない。

 著者は日清食品ホールディングスCEOで、創業者安藤百福の次男である。著者自身、「創業者の事業を引き継いだ後継者は、私も含めて、だいたいが普通の人である。したがって、創業者と二代目の確執とは、異能と凡能とのせめぎあいといってもよい」と述べ、とても創業者にはかなわないことを認めている。そのうえで、「毎日がけんかだった」日々を語ったのが本書だ。

 本書は、2007年に96歳で亡くなった創業者が、「いったい私にとって何だったのか」を問う意味で書かれた第一章と第二章、「試行錯誤と経営記録」として書かれた第三~六章からなる。前者は亡き創業者、後者は「二代目、三代目の経営者だけでなく、カリスマ創業者のあとを引き継いだ経営者や、あるいは強烈なワンマン社長の下で働いている若い社員」を読者対象としている。加えて、就活する前の若者にも読んでほしいと思った。会社で働くことはおもしろい、社会に貢献することは人生を豊かにする、という希望が見えてくるからである。また、「金のないときに四畳半のアパートでこそこそ食べたというわびしいイメージ」を払拭するために、おもしろいCMにかけた著者の思いが伝わってくるからでもある。「面白くなければCMじゃない」「食べる喜びを伝えることが、インスタントラーメンのCMの役割」は、いまや生活の基本になっている。

 近年の麺には、驚かされる。その技術力が、どのようにして生まれたかが本書からわかる。そして、それは販売とも絡みあっていた。著者が、創業者が開発した「チキンラーメン」「カップヌードル」に果敢に挑み、「焼きそばUFO」「どん兵衛」「ラ王」などを開発した背景には、創業者との「闘い」だけでなく、社員や消費者との闘いがあった。その成功のひとつは、創業者が常々語っていた「日清食品は偉大なる中小企業でありたい」ということだろう。日清食品単体の社員数が1500人ほどで、著者は300人近い管理職全員の名前と顔を覚えるようにしている。

 著者はさかんに「二代目」を強調するが、正確には「三代目」であることを本書で書いている。2年間余だけであったが、創業者の長男で著者の兄が社長をしており、創業者の後を追うように同年に亡くなっている。年も著者より17歳も上で、この兄の散在なくして「二代目」の成功は語れないのではないか。「味、におい、色艶、舌触りなどのおいしさの情報が、いったい脳のどこで、どんな風に記憶され、再生されるのか」「消費者がある特定ブランドに愛着を持ち、繰り返し購入する「ブランド・ロイヤリティー」というこだわりの感情は、脳の中でどのように形成されていくのか」を解明するために、社内につくられた「脳研究会」は、「二代目」か「三代目」か、どう判定するだろうか。

 本書を読んで、今後のインスタントラーメン業界の動向に目が離せなくなった。工場見学もしたくなったが、近隣の学校教育以外はだめなようだ。「インスタントラーメン発明記念館」に、行くことにしよう(http://www.nissin-noodles.com/ 〒563-0041大阪府池田市満寿美(ますみ)町 8-25、開館時間:9時30分~16時、休館日:火曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始)。

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 文庫化前の最終章は、つぎのことばで終わっていた。「「食品会社は平和産業である」。これが私の頭に叩き込まれた、創業者安藤百福の遺言のような言葉である。楽しむための食から、生命を維持するための食まで、あらゆる人々の欲求に応えていき、五十年後に、地球百億人類の食を満たすことが日清食品の使命なのである」。日清食品は、東北地方太平洋沖地震発生翌々日の13日、被災地へ「カップヌードル」ほか100万食を緊急無償提供および給湯機能付キッチンカー7台の派遣を決めた。いま、「命を維持するための食」を待っている人たちがいる。現場は、みながんばっている。現場の人たちが動きやすいよう、被災地以外の人びとは、食料や燃料を買いだめしたり、個人的に宅配便で送ったりすることを控えたい。日常生活を維持することが、場合によっては「支援」になる。



 なお、原発について、昨年12月14日にこの書評ブログで取り上げたhttp://booklog.kinokuniya.co.jp/hayase/archives/2010/12/。起こってしまったことをいま非難するより、被爆覚悟で努力している人たちを応援したい。非難は落ち着いてからすることで、失敗は成功のもとになるが、成功の望みのないものは、きっぱり断念する勇気と決断力も必要だ。そのことは、本書からも学ぶことができる。


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2010年10月19日

『低炭素経済への道』諸富徹・浅岡美恵(岩波新書)

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 帯に「選択の余地はない」「CO2大幅削減がもたらす新たな経済成長戦略とは」とあり、その答えは表紙見返りにつぎのようにあった。「刻一刻と進行する地球温暖化。この未曾有の環境変動を前に、従来型の経済発展はもはや許されない。いま必要なのは、CO2の排出を大幅に削減し、なおかつ経済を向上させる、新たな成長戦略だ。困難な課題を克服する鍵は、産業構造の転換にある。低炭素化による経済の大いなる可能性と将来ビジョンを示す」。

 そして、本書はつぎのように結論して、終わっている。「以上、低炭素経済への移行期の問題について論じてきた。重要なのは、「技術的に困難だから」、あるいは「費用が莫大だから」という理由で低炭素経済への移行を止めよう、あるいはできるかぎり後回しにしようという発想から決別することである。本書を通じて、低炭素経済への移行が不可避ならば、早期に移行することにメリットが多いことを強調してきた。技術はいずれ進歩し、費用は低下するのである。後回しにすることで得になることは何一つない。われわれが停滞すれば、アジア諸国が追いつき、抜き去っていくだけである。したがって、まずは低炭素経済への本格的な移行に大胆に舵を切ることを決定し、次に、どのような困難が横たわっているのか、そして克服すべき課題は何かを確定したうえで、それらを解決する方途を見出すという発想に立つべきであろう。その最大の問題の一つは、低炭素経済への移行が人々の生活に大きな影響を与える点にある。われわれは、移行過程の痛みをできるかぎり和らげ、そのプロセスを平和で、公平で、円滑なものにする必要がある。いずれ、各国の政府はどこも、低炭素経済への移行に本格的に踏み込んでいくことになる。政府の手腕をめぐって真に明暗が分かれるのは、この仕事をうまくやり遂げることができるかどうかにかかっているといえよう」。

 本書を読むと、それなりに納得できる。しかし、本書の提言を実行するにあたって、基本的で決定的な不安が2つある。まず、技術的な問題である。本書で例示されているような、かつての技術的優位が日本のあるのだろうか。企業の技術力、とくに中小企業の技術力は、かつてほどないのではないだろうか。日本が誇った技術力は、特別優れた少数の人によって担われていたのではなく、共同作業による集団の力が大きかったのではないだろうか。つまり、裾野の広い技術力に支えられていたのではないだろうか、ということである。それが、現在は理系に進む者がすくなく、学力が低いために大学で高校までに学習の補講をしなければ、大学の授業ができなくなっている。単位さえ取れればいいので、必要以上の点数を取ろうとしない。知識や技術でなにをしたいかが、思い浮かばない学生が少なくない。

 もうひとつは、国家が低炭素経済への移行を明確に国民に示し、技術力向上のために中長期的な財政支援をすることができるだろうか、ということだ。目先の人気取りのばらまきばかりで、中長期的な財政計画が立てられない政府に、本書のような話が通じるのだろうか。

 学生にせよ、国家指導者にせよ、未来を展望する力が、いまの日本に欠けているのではないだろうか。この「選択の余地のない」状況で、ひとりひとりの現実への認識が大きな力となるのだが、その切迫感をいだいている者は多くない。自分自身のために、社会のために希望を見いだせるようにするにはどうしたらいいのか、わからない!

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2010年10月05日

『開発援助がつくる社会生活-現場からのプロジェクト診断』青山和佳・受田宏之・小林誉明編著(大学教育出版)

開発援助がつくる社会生活-現場からのプロジェクト診断 →bookwebで購入

 本書の各章のタイトルを見て、時代は変わったと思った。開発援助といえば、先進国の発展モデルがあって、援助する側はそれに沿って着実に実行すればよく、失敗すればそれは援助される側に原因があると、一方的に解釈されてきた。そんな考えは、本書では全面的に否定されている。まず、各章のタイトルを見てみよう。

 序章 社会生活に埋め込まれる開発援助-複眼的視点からのプロジェクトを診断する試み
 第1章 きこえるのは誰の声-ラタナキリ州の先住民と土地問題を支援する人たち
 第2章 「見える」ものだけが援助の成果か-変化の媒体としての石川プロジェクト
 第3章 誰が受益者だったか-インドネシアのNGOによる小規模援助プロジェクト
 第4章 フィールドワークを生きる-フィリピン・ダバオ市の「バジャウ」とわたしたちの10年
 第5章 都市の先住民であることと援助-メキシコ市のオトミー移住者と開発NGOの10年
 第6章 「失敗」したプロジェクトのその後-ボリビア農村部の貯水池建設
 終章 開発援助ではつくれない社会生活-なぜ複眼的視点が求められるのか

 本書は、日本学術振興会・人文社会科学振興プロジェクト研究事業「資源配分メカニズムと公正」の下にコア研究のひとつとして組織された「貧困・格差グループ」の研究成果であるが、「政策提言という形で成果を社会に還元することは難しい」という結論で終わった。しかし、それは従来のような政策提言をしていては、社会の役に立たないという結論でもあった。

 では、著者たちが本書でめざしたものは、なんだったのだろうか。「はじめに」で、つぎのように述べている。「本書ができるささやかな貢献があるとすれば、そもそもの研究課題であった「開発援助プロジェクトの過程」に加え、「共同研究プロジェクトの過程」という苦しみそのものを生かした作品を作ることであろう。わたしたちにとって学際・学融的研究がどのように難しかったのかという問題は、そのまま開発援助をめぐる各学問分野の思想の違いを反映している。この難しさや矛盾を小手先で昇華させず、丁寧に整理して見せることで開発援助を題材に社会科学というものを再考することができるのではないかと願う」。

 著者たちのそれぞれの苦悩は各章で書かれているが、「一人ひとりが書きたい内容を全体として特定の学問分野で括ることは難しい、特定の論点で括ることも難しい、特定の地域で括ることも難しい」という本書の「致命的な問題点」は、「序章」でかなり補われている。それは、「互いのディシプリンから文献を持ち寄り比較するなど努力を重ねた」成果であり、「現場」を知っているからこそ書けたのだろう。とくに、「Ⅱ.「捉えどころがない」援助の効果をいかに捉えるか」の「1.重層的な「眼」から援助を見る-視点の設定-」「2.援助の当事者の「立ち位置」を特定する-座標軸の設定-」「3.社会をまたがる「つなひき」として援助を「捉える」」で、よく整理された議論が展開されている。

 著者たちが試みたのは、近代的な発想で単純化してわかりやすくするのではなく、つぎのような複眼的な視点で診ることだった。「本書は、フィールドにおける援助される側の当事者である「かれら」の視点、ホームグランドにおける援助する側の当事者としての「わたし」の視点、さらに“客観的”な「神」の視点という複数か所の視点を移動させることによって、「捉えどころのない」援助の効果を捉えようという実験的試みである。援助という事象そのものに内在する当事者間の視点のズレ、そしてそのズレを客観的に観察しようとする研究者の視点とのズレをそのまま取り込む形で、援助という複雑な事象を複雑なままに捉えてみたい」。

 著者たちが「複雑な事象を複雑なままに捉えてみたい」と思うようになったのは、第2章でとりあげた「石川プロジェクト」の過程を見ればよくわかる。1995~2001年にJICAによってベトナムにおいて実施された知的支援である「石川プロジェクト」は、試行錯誤の連続だった。「当初、ベトナム自らが理想とする開発モデル(Rモデル)と、日本から見てベトナムに適切と思える開発モデル(Dモデル)との間には大きな溝が広がっていた」。その溝を埋めるために、なにをしたのかが、「Ⅳ.対話を通じた相互作用-開発モデルをすり合わせる努力-」「1.双方向から歩み寄るための仕掛け」「2.互いに足りないものを補い合う姿勢」「押し付けにならない援助のあり方」で説明され、その成果は、「Ⅴ.石川プロジェクトが生み出したもの-社会の相克を超えて-」「1.つぎにつながる効果」「2.社会に浸透する効果」で語られている。

 本書の著者たちは、1968~78年の生まれで、ちょうど「石川プロジェクト」の時期に大学・大学院教育を受けた人たちである。すでに先進国主導の開発モデルの問題点が指摘されていた時期で、その後それぞれのディシプリンにもとづいて「現場」を見てきた成果が、本書に現れている。とりあげられた6つの事例は、つぎのように総括されて、終章へとつながっている。「このようにどの事例を見ても、援助のプロセスは、意図せざる結果の連続であり、援助する側の意図によってコントロールできるものではないことは明白である。援助とは、いかに計画しようと、現実には制御しえないような複雑な社会過程となることがわかった。そして、そのようなダイナミズムが生まれたとしたら、それ自体が援助の成果といえよう。最終章において、「援助を設計すること」の不可能性について論じよう」。

 その終章では、「開発援助業界で主流をなすアプローチの功罪と、それとは異なるアプローチの意義とを検討」している。前者は経済学、後者は人類学である。そして、つぎのように本書を結んでいる。「経済学的アプローチと人類学的アプローチの違いは、価値前提や世界観という深い次元にある。このため、すり合わせを試みたり、同化や一致を望んだりすることは建設的ではない。むしろ大切なことは、違いを認めながらも、互いの考え方に耳を傾け、「複眼的な思考」の存在を許し合おうとすることだろう。1人の人間の中に、援助目標を定め、そのための優れた手段を設計しようとする人間と、そうした枠組みの限界に敏感であり、さまざまな現場を行き来しながら先入観からできるだけ自由であろうとする人間とが、共存することも不可能ではない。組織としてあるいは個々人のレベルで、矛盾や曖昧さを排除するのではなく許容することにより、わたしたちは大きな過ちを犯すことを防げるほか、自分とは異なる人びととの何気ないやり取りの中に喜びを見いだすことができる」。

 いまわたしたちにとって大切なことは、この地球上に生きている人間を含むすべての動植物が、互いに共生しているという認識である。個々の問題は、すぐさまほかのすべてへと影響する。援助される側の問題解決は、援助する側の社会の安定と繁栄をもたらす。そう考えると、まず援助される側の「現場」を知ることが大切になってくる。問題は、「現場」の人びとがもっとも状況をわかっているわけではないこともあるということである。ましてや、「現場」の代弁者に任せるととんでもないことになることがある。本書で「複眼的視点」が強調されるのも、善悪はともかく、いろいろな視点からの総合的、長期的視点が必要だからである。

 本書を読んで、改めて、わたしにはとてもできないことを、未来を見据えて研究している人たちがいることを知った。わたしにできることは、これらの人たちが「現場」で臨機応変に対処できるための基礎的知識となりうる、たしかな歴史的事実と歴史観を提供することだろう。問題が複雑になればなるほど、基礎研究の成果がものをいう。その基礎研究のためにも、本書ような「現場」の知はなくてはならない。

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2010年06月22日

『イスラーム銀行 金融と国際経済』小杉泰・長岡慎介(山川出版社)

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 現在イスラーム教徒が居住する地域は、もともと遊牧民、海洋民などが多く、イスラーム化以前からグローバルな経済活動をおこなっていた。それらの人びとが、このグローバル化の時代に手をこまねいているわけがない。イスラーム銀行の試みが、1970年代にはじまったのは偶然ではないだろう。著者たちは、それをつぎのように述べて、本書の目的としている。「総じていえば、イスラーム銀行の誕生と発展は、世界的な現象としての「イスラーム復興」と大きな関係をもっている。また、一九七〇年代以降に世界経済が大きく金融自由化に向けて舵を切ったこととも、深い関わりがある。これから、イスラーム復興と国際経済という二つの側面と関係づけながら、その実態に迫っていく」。

 当初「無利子金融」は「時代遅れの宗教的なドグマ」にすぎないと考えられ、「まもなくむなしい結末をむかえると思われていた」。しかし、その予測に反し、イスラーム銀行は、「各地で増殖し、多くの顧客のニーズを開拓することになった。その理由の一つは、「聖典で禁じられた利子を扱う銀行には行かない」という人びとが、イスラーム諸国に想像以上にたくさんいたことであった。利子を扱う銀行しかないときには、彼らは顧客ではなく、見えない存在であった。ところが、「無利子」を謳う銀行が生まれると、彼らがもっていた「タンス預金」とでもいうべき資金が大量にイスラーム銀行に流れ込むことになった」。

 イスラーム銀行がうまくいったことにたいして、つぎのような疑問が当初から投げかけられた。「「本当に利子を取っていないのだろうか」「たんに利子を手数料などの他の名前に言い換えただけではないのか」、あるいは「利子を取らないとしたら、どうやって経営が成り立つのか」「利子がなければ、預金者も損をするのではないか」」。

 これらの疑問にたいして、本書では6章にわたって答えている:「第1章 イスラーム銀行の誕生」「第2章 なぜ、利子はいけないのか」「第3章 イスラームの経済思想」「第4章 世界に飛躍するイスラーム金融」「第5章 イスラーム金融のつくり方」「第6章 イスラーム金融から世界経済が見える」。

 イスラーム経済の特徴をひと言でいえば、「公正、公平に非常に高い関心を示す」ことにあるといえよう。土地など公共性のあるものを、使用しないまま所有することは許されない。不労所得は、いうまでもない。そして、架空経済は許されず、サブプライム・ローン問題のようなことは起こりようがない。セイフティネットがしっかりしている。したがって、「イスラーム金融は、さまざまな問題を露呈させている現在の国際金融システムに対して、代替案や改善案を提示している」と注目されている。

 サブプライム・ローンは、従来のローンでは買えるはずのない人びとに、高級住宅の購入を可能にした。同種のローンで、高級自動車などを購入した人びともいた。人びとの生活を豊かにしたことは間違いなかったが、購入資金の裏付けが充分でなかった。イスラーム銀行が成功したのは、「タンス預金」で市場に出てこなかった新たな資金を利用することができたからだ。裏付けが確実でない架空の資金は危険性をともなうが、「タンス預金」を市場に出すことは、経済の活性化につながる。

 土地を使用しないで土地ころがしをすることは、イスラームでは許されない。資金を死蔵して社会の役に立てないことも、よくない話である。いま、日本で眠っている資金は、だれがもっているのだろうか。日本の将来に不安を抱え、自分たちの老後のために貯金をしている老人たちではないだろうか。老人たちが、老後に不安を感じなくなったとき、老人たちは手持ちの資金を社会にはき出すだろう。そうできる政策をすることが、いまの日本の政治に求められているのではないだろうか。

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2010年01月05日

『ヒューマニティーズ 経済学』諸富徹(岩波書店)

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 「経済システムの究極の目的は、単なる効率性の向上ではなく、人々の福祉水準を高めること、つまり、人々を幸せにすることにある」と、著者、諸富徹は「四、経済学を学ぶ意味とは何か-読者への期待を込めて」を結んでいる。本書には、経済学だけでなく、現代のあらゆる学問を学ぼうとしている学生に伝えたい基本的なことが書かれている。

 本書は、「現代経済学の最先端を踏まえて、その内在的な視点から経済学のあり方を再検討するという方法を取らず、歴史と思想からアプローチするという迂回的な方法」をとっている。具体的には、経済学の歴史を振り返るために、7人の経済学者、ケネー、スミス、リカード、マルクス、ピグー、ケインズ、シュンペーターをとりあげている。著者は、これらの偉大な経済学者の学説を、たんに振り返るのではなく、「社会科学としての経済学が、問うべき根源的な問題に対して、彼らがどのような解答を与えようと試みてきたのかを検討」している。その根源的問題とは、時代を通じても変わらない、つぎの5つ、「第一に市場と国家の関係、第二に自然と人為の体系、第三に金融経済と実物経済の関係、第四に経済主体の問題、そして第五に動態的視点」である。

 このように、本書では社会科学としての経済学の基本が述べられながら、ヒューマニティーズ(人文学)とのかかわりをも重視している。それは、「経済学は当然のことながら、「人間」とそれが構成する「社会」について、現状の説明に満足せず不断の問い直しを行っていくべき」であり、「経済学が人間を取り扱っていることが、経済学が完全に自然科学にはなりきれず、それが広く人文学とつながりながらその全体性を回復せざるを得ない根源的な理由となる」と著者が考えているからである。

 そして、その人文学とのかかわりは、「四、経済学を学ぶ意味とは何か」で、著者が「期待を込めて」読者に伝えたかった、つぎの3つ、とくに3番目によくあらわれている。「まず第一に、経済学を学ぶことの最大の意味は、経済社会を定性的・定量的に分析できる鋭利な道具を身につけることができる点にある」。「経済学を学ぶことは、我々の経済システムを徹底的に解剖してその設計図を手にすることを可能にし、問題が出ている場合にはそこをどう直せばいいのか、また、どういう政策手段を導入すれば、どれほどの治療効果を上げられるのか、といった問いに対して解答を与えることができるようになることを意味する」。

 「第二に、本書の読者には、経済学が持っている限界にも敏感であってほしい」。「読者には社会経済問題に対する熱い関心と、社会的な公平性や倫理への鋭い感覚(「温かい心(warm heart))」を持ち、他方でそれを分析し、問題を解決するための手法として経済学を使いこなす「冷静な頭脳(cool head)」を併せ持つことを目指してほしい」。

 「第三は、まさに本書全体を通じて読者に伝えたかった点、つまり、この社会をよりよく認識するための「概念装置」として経済学を学ぶことの重要性である」。「経済学を狭義の理論だけでなく、それを創り出してきた経済学者の思想、そして彼らが格闘したその時代の経済問題に関する歴史的知識を学んでおくことは、我々の経済分析をより実り豊かにすることにつながることは間違いない」。

 さらに、著者は、もうひとつの付加的なメッセージとして、「経済学にいま求められているのは、理論から理論を紡ぎ出すことではなく、現実との格闘の中から新しい理論を発展させていくことだ、という点である」と主張している。「過去の偉大な経済学者たちはいずれも、その時代の主要な経済問題と格闘することで、分析に有用で、政策的な指針を引き出すことが可能な普遍理論を開発してきた」。だから、著者は「歴史と思想からアプローチするという迂回的な方法を取った」。

 そして、「最後に、経済学を学ぶ者が必ず取り組むべきだと筆者が考えている」3つの現実の問題を挙げている。「その第一は、「資本主義のグリーン化」をいかに推し進めるかという問題である。第二は、経済のグローバル化と国家の相対的弱体化、そして国家を超えるガバナンス様式の構築に関わる問題である。そして第三は、金融経済と実物経済の望ましい関係についてである」とし、「経済学に今後求められているのは」、「世界経済の持続可能な発展を可能にするような新しい経済社会のビジョンを打ち出すことである」と結論している。

 本書を読むと、経済学だけでなく、ほかの社会科学も自然科学も、専門的な知識や技術だけでなく、倫理・道徳、歴史といった人文学の教養がいかに重要であるかがわかってくる。その意味において、ヒューマニティーズ(人文学)の重要性が、高まってきているといっていいだろう。問題は、人文学の研究者が、このような状況を理解し、それらに応えるべく研究・教育しているかどうかである。

 この書評は、ロンドン大学(Department of Politics, Goldsmiths College)で開催されたコロキアム「歴史、記憶、トラウマ」のあいまに書いた。この「政治学部」のなかには歴史学を専門とする教員が何人もいる。歴史学のような基礎人文学は、社会科学や自然科学の研究者たちとともに身を置き、対話することで、その重要性を具体的に理解することができるのかもしれない。

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2009年06月02日

『政府系ファンド 巨大マネーの真実-なぜ新興国家が世界を席巻するのか』小原篤次(日本経済新聞出版社)

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 本書が出版されたこと自体が、経済の危機である。一般の人が「政府系ファンド」と聞けば、安定し、安心できるというイメージをもつ。ところが、「政府系ファンド」の定義もできなければ、実態もわからないという。だから、それをわかりやすく解説した本書が企画された。本来は、このような本が出版されないような、わかりやすく安心できる経済的環境であるべきだ。とくに影響力が大きく、公共性のある「政府系ファンド」は。

 著者、小原篤次は、そのわかりにくい政府系ファンドを、つぎのように定義している。「筆者なりに政府系ファンド(ソブリン・ウェルス・ファンド、SWF)を短く定義すれば、「政府が運用原資を掌握し、運用対象に外国株式などのリスク資産を含む公的投資機関(年金基金など伝統的機関投資家、通貨当局の外貨準備運用を除く)」となる」。また、著者は、「図1-1 政府系ファンド定義・批判の論理構成」で「批判される」ものと「批判されない」ものなどに分けて、わかりやすく考えようとしている。しかし、その原資、機関は国・地域によってさまざまで、この図ではとてもあらわすことができない。そんな恐ろしいものが、いま「世界を席巻」している。

 その恐ろしさは、本書の目次を見て、再確認できる。
 第1章 四兆ドルの「実力」-ヘッジファンドを超えた政府系ファンド
 第2章 国家・政府に奉仕するファンドマネジャー
 第3章 政府系ファンドの持つ意味
 第4章 金融グローバル化-無国籍化するマネー

 著者は、「サブプライムローン問題が二〇〇七年初めに顕在化した後、世界的な悲観ムードを変えた瞬間があった。それが、政府系ファンドなど新興国マネーの台頭だった」という。しかし、このような「不透明な」マネーが、問題の根本的な解決にならないことは、だれにでもすぐわかるだろう。そして、「世界金融危機は、経済学が単なるイデオロギーや研究者の知的冒険ではなく、政策のツールであることを教え」、「経済学の意義を高めている」。その経済学は、理論から遠く離れた動向分析と「予想」でしかなく、それも後手後手にまわり、現実に対応できていない。

 著者が、新興国と金融の関係を考える背景として、フィリピン大学の大学院生時代に「アジア、アフリカからの留学生と寝食をともにし、時間を気にせずに本音で議論する機会に恵まれた」ことがあるだろう。フィリピンのマルコス大統領やインドネシアのスハルト大統領の不正蓄財やタイのタクシン首相の退陣につながる問題など、東南アジアに目配りがきくのも、その影響だろう。

 本書は、著者が心がけたために読みやすいものになっている。しかし、けっしてわかりやすいわけではない。そのことは、「ゴシップ」をとりあげていることからもわかる。「不透明」でわかりにくい部分を、「ゴシップ」で補っている。今日の金融危機を克服するために、そして今後新たな危機を生まないために、金融制度を透明でわかりやすいものにすることが不可欠のように思える。なぜなら、オイルショックやアジア通貨危機などを乗り越えるたびに、金融制度が複雑、不透明になり、だんだん危機の深刻さが増してきているからである。

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2008年07月01日

『金融権力-グローバル経済とリスク・ビジネス』本山美彦(岩波書店)

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 石油や穀物の暴騰が、実態経済とあっていないことは明らかである。にもかかわらず、歯止めがかからないのは、「金融権力」がそれを容認しているからにほかならない。その「金融権力」とは何なのかを知りたくて、本書を開いた。

 「本書は、一九七〇年代に始まり、九〇年代に加速化した「金融革命」を解剖し、二〇〇七年、サブプライム問題で露呈したリスク・ビジネスの行き詰まりを明らかにすることを課題としている」。そして、著者、本山美彦は、「金融に秩序を取り戻すために何をすべきかを真摯に問う」ている。

 著者によると、グローバル化の過程で「権力」を握ったのは、アメリカ証券取引委員会(SEC)が1975年に「お墨付き」を与えたNRSROだという。NRSROとは、「全国的に(Nationality)、認められた(Recognized)、統計処理をする(Statistical)、格付け(Rating)、組織(Organization)の頭文字をとったものである。この「NRSROとして認定されている格付け会社というのがくせものである」。SECがNRSRO認定の明確な基準を公表していないにもかかわらず、「シェアの高いNRSROの格付け会社ににらまれてしまったら最後、企業の運命は風前の灯火になってしまう」。

 そして、NRSROににらまれたのが、日本の金融機関であった。「日本への進出をはたしたS&Pとムーディーズが、一九九七年に入って、日本の金融機関の格付けを執拗なまでに下げ、その年の一一月、戦後日本における最大の倒産である山一證券の破綻が起きた。そして、以後、多くの銀行が整理淘汰された。日本の銀行は、格付け会社の力のみによって破綻したのではもちろんない。しかし、九七年以降の、日本の金融当局とアメリカの格付け会社との意見の食い違いは、日本の金融文化とアメリカの金融文化との衝突であった。そして、アメリカの金融文化の体現するアメリカの格付け会社によって、日本の間接金融システムは完膚なきまで叩きのめされたのである」。「モノ作り」を軽視し、「「自由」の美名の下で金融ゲームに走る金融権力」に翻弄された結果であった。

 この金融権力に抗するために、著者は最後の第6章で、いくつかの例をあげて提言をおこなっている。「地域マネー、NPO(非営利組織)銀行、グラミン銀行、バンコデルスル(南の銀行)等々、グローバル経済の犠牲になった地域とその住民の活力を取り戻すべく、地域的な金融組織を作り出そうとする運動」などである。前3者が地域社会と向きあうのにたいして、「バンコデルスル」はラテンアメリカ7ヵ国のあいだで2007年末に設立された新しい原理に基づく開発銀行である。アメリカ主導の金融システムの「従属」から抜け出し、「加盟国が出資額にかかわらず、同等の権利をもつ」「UNCTAD(国連貿易開発会議)の国際金融版である」。

 また、アメリカの金融システムに対抗するという意味で注目されているのが、イスラーム金融である。「イスラム金融の基本は、資金は絶対に寝かせないというものである。資金はつねに生産的に使わねばならない。退蔵は禁止される。生産的投資の機会が奪われるからである。有効に資金が使用されず、遊休化させてしまうと二・五%程度の「ザカート」という罰金が科せられる。それが喜捨である。つまり、貨幣はつねに生産的に動いていなければならないのである。こうして投資が強制的に喚起される。まさにケインズ的世界である。イスラム金融は、間接金融を基本形にしている。非常に多くの取引に銀行が関与している。商品の売買においても、多くの場合、銀行が商品の売り手と買い手との間に入り込む。銀行は売り手から商品を買い、それを買い手に売るのである。売り手には現金が渡され、買い手には支払い能力に応じて、分割払いなどの便宜が銀行によって供与される。買い手が資金不足であっても必需品を入手できるような配慮がイスラムの取引にはなされている。これは、「ムラーバハ」と名付けられる商品売買契約である」。

 人びとが普通の生活をしているかぎり、実態経済はそれほど大きく変動しないはずだ。それが、大きく変動するのは、架空経済の影響が大きくなっているからだろう。問題となっているサブプライムローンも、日本では起こらない。アメリカでは、住宅をもっているものが、ローン返済中のものでも、その住宅を担保に金を借りて生活している。当然住宅の価格が下がれば、住宅ローンも担保で借りた金も返せなくなる。サブプライムローンは、住宅価格の上昇を前提にして組まれたものである。もともとアメリカ経済は、実態以上に金を流通させるシステムで成り立っていた。だから、2002年の会計操作によるエンロン事件の教訓がいかされないで、はるかに大規模な問題になった。著者の言うとおり、このリスク売買を主体とする金融ゲームに走る金融権力を制御するシステムを作らないかぎり、グローバル化が進めば進むほど、問題は大きくなって再発し、「人間の生活を根底的に破壊する」ことになる。

 日本人は、住宅価格が下がっても、資産価値が下がったと嘆くだけで、それほど大きな問題にならないと思っているかもしれない。しかし、問題は、その日本人の資産や貯蓄を日本の金融機関が運用し、それを担保に日本政府は国債を発行し続けていることだ。つまり、わたしたちも知らず知らずのうちに「金融権力」に加担しているのだ。日本人の個人資産が、消えることも非現実的なことでなくなってきている。では、われわれは、どうしたらいいのだろうか。国や金融機関に任せず、生産活動に直接結びつく目に見える投資を考えることだろう。国や金融機関は「リスク・ビジネス」に加担することなく、目的がはっきりした金融商品を提供する必要がある。さもなければ、個人の資産がタンス預金や貴金属になり、死蔵されることによって経済は沈滞化していく。人びとの生活を安定し、豊かにする金融政策をとらないと、経済格差はますます拡大し、社会が破綻してしまう。

 本書で、もうひとつ気になったのは、格付け会社の存在である。いま日本の大学では、評価機構による格付けがおこなわれようとしている。その評価基準が、金融格付け会社のように明確でなく、大局的長期的な視野に立っていないとしたら、大学も破綻した金融機関と同じ道を歩む危険性がある。

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2008年01月15日

『CSR 働く意味を問う』日経CSRプロジェクト編(日本経済新聞出版社)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 CSR(企業の社会的責任)レポートを、数十集めた。ここ数年、企業は積極的に営利とは直接結びつかない活動をし、それを社会にアピールするためにレポートを出版している。その目的は、第1にコンプライアンス、法令遵守である。つぎに環境問題、地域貢献などで、セクハラ防止対策もある。しかし、企業の不祥事が続き、第1の目的さえ充分に認識されていないことがわかる。各企業のレポートをよく読むと、いまや社会から信頼を得るための義務であると理解し、専門知識をもった社員を配している企業もあれば、一流企業といわれるためにマニュアル通りに出しただけで、専任者をおかず下請けに出していると思われるところもある。どの企業がどこまで本気か、CSRレポートを読み解く力が必要になる。

 本書は、日経CSRプロジェクトから出版された3作目である。「はじめに」につぎのように、その目的を記している。「一作目は、『CSR 企業価値をどう高めるか』と題し、企業を取り巻くステークホルダーごとに各分野の専門家が集い、CSRを多面的に論じた。二作目は、『CSR 「働きがい」を束ねる経営』と題し、現場で働く企業人のルポルタージュと識者の寄稿によって、企業経営と社員の働きがいとの関係を提言した。本書はさらに踏み込み、社員それぞれの「働く意味」について考える、という観点から構成している」。

 続いて、つぎの各章の内容が紹介されている。シンポジウムの講演や日経CSRプロジェクト参加企業の社員が大学・高校で行った派遣授業のルポルタージュなどである。
  序章 働く意味とCSR
  第1章 大人のためのモチベーション論
  第2章 なぜ私たちは働くのか
  第3章 CSRを担う人々
  第4章 人と人とのつながりが生む力
  第5章 社会から信頼される社員・企業とは
  第6章 受け継ぐCSR~いまこそ話そう、働くことのリアル~

 本書を読んで感じたことは、いま個人でも企業でも、スペシャリストでありジェネラリストであることが求められているということだ。本書に登場する成功例は、専門的な知識と豊かな人間性に支えられている。しかし、この両者を同時に実行することは難しい。専門性を身につけるためには、ある一定の期間、ひとつのことに没頭することが必要だ。他方、豊かな人間性を身につけるためには、視野を広げるためにいろいろなことに興味をもつ時間的ゆとりが必要だ。そして、ともに社会人として成長する時期に行うことが肝要だ。個人個人で、このことを充分意識して、目先のことだけに踊らされない中長期的な計画が必要となる。

 「おわりに」では、つぎのように記されている。利害関係者である「ステークホルダーとの対話とは、CSRレポートを出すことではない。社員が日々の業務のなかでかかわりのあるすべての人々と向き合うことだ。営業部員が顧客や代理店と、調達部員が納入先と、製品開発部員が大学・研究機関と真摯に語る。経営層が一般社員と、先輩社員が後輩社員と話し合う。企業を離れても、全社員が、一市民として隣近所などの地域社会と交流すべきだろう」。

 問題は、個人・企業が、このように意識しても、それを実行するだけの時間的・心的余裕があるかどうか、ということだ。ましてや、派遣社員やフリーターに、それを求めることができるだろうか。この格差社会のなかでは、本書で語られていることは、「きれい事」に思えてしまう。どういう社会をつくっていくのかというビジョンがなければ、絵空事に終わってしまう。国家だけでなく、地域、地球レベルで考えていかなければならないことである。

 もうひとつの問題は、たしかに学生のCSRへの関心は高まったが、その学生を社会に送り出す大学がどれだけCSRについて知っているかということだ。日々の授業のなかで、学生が卒業後、企業で働くことを意識している教員がどれだけいるだろうか。私立大学などでは、学生の就職支援のために企業まわりをしている教員もいる。教員本来の仕事ではない、と無関心の者もいるが、教育者であるならば、学生の卒業後の環境についても知っておくべきだろう。とくにもはや研究者養成だけではなくなった大学院教育において、社会(企業)とのかかわりが重要になっているはずだが。

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2007年09月11日

『東アジアのグローバル化と地域統合 新・東アジア経済論〈3〉』平川均・石川幸一・小原篤次・小林尚朗編著(ミネルヴァ書房)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 本書は、2001年に初版が出版されたテキストを、全面的に書き改めた第3版である。執筆者総勢26人の内、半数近くが日本人ではない。また、「大学に職を持つ者に限らず、東アジアの経済に関係を持つ実務家などが多く執筆している」。この2点は、極めて重要なことである。東アジア経済は、すでに机上の経済論では把握しきれないところにきている。従来の政治的なかかわりだけでなく、文化的なかかわりなど、複合的に連鎖しあって動いているからである。東アジアのそれぞれの国・地域出身の研究者との共同研究は不可欠で、実態のわからない「学者」に、めまぐるしく変化する経済を、大学で講義することなどできなくなっている。本書の編者たちは、東アジア経済の現状と大学教育の現状を、よく理解しているからこそ、優れたテキストを作成することができたのだろう。こういう体制がとれている分野は、教育においても研究においても発展することは間違いない。

 本書は、「とりわけアジア通貨・経済危機とその後の変化に注目しながら、1960年代以降の東アジア経済がどのような経路を辿って現在に至り、どこに向かおうとしているか、また向かうべきかを確認すること」を目的とし、「東アジアの経済発展と企業活動」「グローバリゼーションと東アジア」「21世紀 東アジアの課題」の3部、15章からなっている。要領よくまとめた導入部の「序章」と今後を展望した「終章」は、本書の全体像を理解する手助けになっている。また、「コラム」は、補足になるだけでなく、読んでいて楽しいものもある。

 本書のような共同研究の成果を批判することは、難しいことではない。執筆者が多いために全体の統一が、基本的なことでさえとれていないものがある。執筆者にさまざまな人を加えたために、力量も関心も違い、玉石混淆になっている。しかし、それは、研究状況が違い、書きやすいものもあれば書きにくいこともあるためであり、国や地域、テーマによっては研究資料を集めることさえ、困難な場合がある。本書は、自習用のテキストではなく、教員とともに「考える」ためのテキストである。そのことは、「あとがき」で明確につぎのように説明されている。「本書では、「アジア」を単なる地理的概念と捉えるのではなく、理念的には新しく創造する共生の地域社会として捉え、そうした理念の下に、実践的にも日本人に限らずアジアの国籍を有する研究者や、実務家が共同研究に参加して、テキストを作成している。また、知識を教えるのみでなく、学生と共に考えるという姿勢を明確にしようと努力した。」本書から、これからの時代の共同研究のあり方や授業のあり方がみえてくる。

 気になったのは、「東アジア」という地域の統合について、経済面以外ではどうだろうか、ということである。政治的な面では、かなり議論が進んでいる。文化的な面では、ドラマ、映画、音楽、漫画など、新たに創造された大衆文化で「統合」が進んでいる。それらにたいして、基層文化や歴史についての相互理解は進んでいるのだろうか。順調に進んでいたEUの拡大が、トルコの加盟に際して大きな壁にぶちあたった。「ヨーロッパ性」が問われたからである。東アジアの自生的統合の原理はどこにあるのか。政治、経済、現代の大衆文化だけでなく、総合的な「地域性」というものが問われるだろう。しかし、そのための研究は、あまり進んでいないように思える。それがわかると、本書ももっと理解しやすくなる。

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2007年04月10日

『日本の貧困研究』橘木俊詔・浦川邦夫(東京大学出版会)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 新聞広告で、投資信託や個人向け国債が、やたら目につくようになった。かつては、年金に多少の蓄えを年率5%の定期預金に預けておけば、一般個人が資産運用する必要はなかった。ところが、いまは個人が資産運用を考えないといけないという。このことは、政府が、老後の生活にたいして「無策」である、ということを示していることにほかならない。一部の資産家と運用能力のある者以外は、安心して老後を送ることができないのである。この「安心」のなさが、個人にとって大きく影響するだけでなく、社会にとっても深刻な事態を招きかねないことを、政府は理解しているのだろうか。わたしのこの感覚的な問いにたいして、本書は近代経済学の手法を用いて、見事に分析し、答えてくれている。

 著者たち(橘木俊詔・浦川邦夫)も、同じ不安を抱きながら本書を書いていることは、「あとがき」の冒頭で、「小泉純一郎内閣の実質的な経済運営の責任者であった、竹中平蔵総務大臣(元経済財政政策担当大臣)から発せられた」「大問題としての貧困はこの国にはない」という発言への回答として、本書が出版されることとなった、と述べていることからわかる。そして、著者たちは「日本には飢餓に至るような貧困はない」が、「今の時代においても貧困は存在しているし、それは不幸なことに深刻化している、というのが本書のメッセージである」、と結論している。

 日本の貧困の問題は、日本人の専門家が指摘しているだけではない。「はしがき」に書かれているように、OECD(経済開発協力機構)のような国際機関から警鐘を鳴らされる事態になっている。OECDは、「対日経済審査報告書2006年版」のなかで、先進国の中で、日本の貧困率が、「アメリカの13.7%に次いで第2位の13.5%の高さである」ことを指摘している。著者たちは、まず第1章で「日本の貧困の歴史」を人類有史以来から問い、つぎに第2章で「先進国の貧困」の比較を試みる。そして、続く3~9章で1990年代以降の貧困と格差の拡大を具体的に明らかにし、政策提言をおこなっている。

 本書の内容は、最後の章である「第10章 岐路に立つ日本社会-変容の中で貧困問題にどう取り組むか」で、よくまとめられている。そこでは、まず「貧困者が自暴自棄となって犯罪に走るかもしれない」「あまりの低賃金は働く意欲にとってマイナス」といった、たんなる「生きていけないことを意味する」だけではない社会的な問題を指摘している。そして、「日本の貧困は深刻化している」理由は、ここ十数年の経済不況だけでなく、「家族の変容、働き方や労使関係の変化、社会保障制度の役割、等々の構造的・制度的な要因も大きい」としている。「日本がアメリカのような自立、自助努力重視の道を選択するのか、それともヨーロッパのような政府を中心とした社会保障の充実策を支持するのか」、著者たちの立場は「ヨーロッパの福祉国家に近づくような政策を好むが、最終決定は国民の総意による」と結んでいる。帯にあるように、「私たちの選択が、問われている」のである。

 本書を読んでいて気になったのは、「日本における税制や社会保障制度による再分配効果は、スウェーデン、オランダ、ドイツ、フィンランドなどの北欧諸国と比較した場合、およそ半分程度しかないこと」、セーフティ・ネットが弱く、しかも「削減の方向にある」ということだ。政府は、アメリカ型の自立を期待して、「無策」になっている。個人に国家に頼らない自立を促し、企業には国際競争力を付けるためのリストラを強いながら、国家は自立できず見返りが期待できない個人向け国債を発行するという、矛盾をおかしている。日本の国債の国際的評価が低いのもうなずける。納税者が税金を高いと思うのは、再分配が不平等で、効果が低いと感じているからだ。困った人の役に立っているとわかれば、積極的に納税するだろう。なぜなら、自分が困ったときに助けてくれることが期待できるからだ。投資信託や個人向け国債の広告に踊らされる前に、本気で日本の政策に目を向けなければならない状況になっている。まさに、日本社会は、岐路に立たされている。しかし、同じような問題に直面しているフランス人は大統領選挙で国家指導者を選択できるが、日本人はどのようなかたちで個人の選択を意思表示できるのだろうか。選挙で、それができるのだろうか。「政治不信と諦め」で終わるようなことにならなければいいが。

 最後に、近代経済学の数学や統計手法を敬遠して、本書を「読めない」と思っている人は、読書の幅が広がらない人です。研究者は、どうしても実証的な説明がしたくて、専門外の人にはわからない「過程」を書くが、専門外の人は無視すればいい。歴史学を専門とするわたしは、原史料から長々と引用することがあるが、専門外の人には引用文を読まないでもわかるように心がけて書いている。引用文を読まないとわからないようなことを書いている人は、書いている本人も引用文が読めていないのかもしれない。本書は、著者たちが「はしがき」で書いているように、「数量分析が不得意な人は、該当部分を飛ばして読んでいただいても、結論だけはわかる」。わたしも、そうした。近代経済学の本が、読めたぞ!? それでも、抵抗があって本書が読めないという人は、著者のひとりが書いている 橘木俊詔 『格差社会:何が問題なのか』 (岩波新書、2006年)を読めばいいだろう。

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2007年01月30日

『ファミリービジネス論−後発工業化の担い手』末廣昭(名古屋大学出版会)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 「専門が違うので読まない」、という人がいる。そういう人の書いたものの書評や査読を頼まれることがある。「専門が違う」ので、お断りをする。そういう人の書いた「専門」はどんどん視野が狭くなったもので、その分野の「オタク」ならいざ知らず、読んでいてもつまらないし、第一勉強にならない。そんな本や論文につきあう暇はない。しかし、専門外の人が読んでも、おもしろく、ためなる本は、それほど多くない。

 本書は、その「それほど多くない」本のなかの1冊である。経済学やタイのことを知らなくても、本書は充分に読みごたえがある。それは、著者、末廣昭が、タイ社会の基層や現代という時代をにらんで書いているからである。

 本書の目的は、つぎの帯の文章を見ればよくわかる:「遅れた企業形態なのか?アジアやラテンアメリカの経験をふまえ、タイにおける豊富な事例に基づきながら、「進化するファミリービジネス」の論理を明らかにし、グローバル化時代における淘汰・生き残りの分岐点と、今後の行方を示した画期的論考」。グローバル化時代になって、近代の経済理論が通用しない現象が続出してきた。その一端を解き明かそうというのである。理論だけでなく、現地社会の理解を抜きにしては語れないことを、著者は充分に知っている。近代では近代の制度的理論が有効であったが、グローバル化時代には逆説的にグローバル化に対応するミクロな社会現象の把握が不可欠である。ただし、それは理論的な基礎のうえに立った話だ。

 本書は、学生に読ませたい本の典型的なスタイルをとっている。それは、著者自身が明確な目的をもち、論理的に導き出した結論があるからである。各章では、それぞれ「はじめに」と「おわりに」とで、それぞれの章で議論されることと、その結果明らかにされたことが要領よくまとめられている。本書全体では「序章」で「課題と論点」を整理し、「終章」で「ポスト・ファミリービジネス論」を展望して締め括っている。そして、各章で議論したことを具体例に、「序章」や「終章」では、各章とは次元の違うスケールの大きな議論を展開している。

 2部構成も効果的だ。第Ⅰ部「所有構造と経営体制」では、ファミリービジネスの内部に潜入して考察しているのにたいして、第Ⅱ部「歴史的展開と通貨危機後の再編」では、時系列に把握して変化の軌跡を追っている。あるときはファミリービジネス界に肉迫して主観的に見、あるときは距離をおいて客観的に見ている。その両方の視点で理解しているからこそ、自信のある「はじめに」「おわりに」と「序章」「終章」がある。

 その自信ある論理展開をさらに裏付けているのが、「付録 タイのファミリービジネス所有主家族の資料」などの詳細な統計データと共同研究であろう。著者は、1981年以来、足で集めた企業データを入力し続けてきた。事例調査ではなく、悉皆調査によるデータからは、たんなるデータではなく、その背後にあるタイのビジネス界の奥深さを感じさせるものがある。近代の理論経済学では、けっしてわからなかった経済界が見えてきた。その見えてきた経済界は、経済学者やタイ研究者のような特定の学問分野や地域の研究者だけが、興味を感じるものではない。そして、著者は、共同研究を通じて、自分がえた成果を相対化しているため、専門外の人が読んでも、充分楽しめ、勉強できるものになっている。

 本書は、グローバル化時代の研究とは、自前の悉皆データをもち、いかに自分の研究を相対化できるかがポイントであることを教えてくれる。

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2006年01月10日

『グローカルネットワーク-資源開発のディレンマと開発暴力からの脱却を目指して-』栗田英幸(晃洋書房)

グローカルネットワーク-資源開発のディレンマと開発暴力からの脱却を目指して- →bookwebで購入



   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 「グローカル」という言葉を聞いて、10年以上になる。大学の授業でも、はじめは詳しく説明したものだ。それが、だんだん身近になってきて、学生にも説明しやすくなった。その理由は、グローカルネットワークが、「ローカル、ナショナル、グローバル、それぞれのレベルで相互に補完・強化し合いながら、急速に影響力を強めてき」た結果であることが、本書からよくわかった。

 本書の目的は、「鉱業を事例として、開発主義が「持続可能な開発」制度の奥深くまで食い込み、制度を変質させていることを明らかにした上で、開発主義を克服するための具体的な変化としての新しいグローカルネットワークの可能性と課題について提示しようとするものである」という。しかし、林業資源などのように、鉱物資源が再生できるのだろうか。どのようにして「持続可能な開発」ができるのか、まず疑問に思ってしまった。

 本書の構成は、著者、栗田英幸が「はじめに」で要約してくれているので、わかりやすい。4部からなり、Ⅰ部「分析のフレームワーク」では、「「持続可能な鉱業開発」に関する先行研究を、促進派、否定派の2つの立場からそれぞれ整理した上で、それぞれの分析ツールの問題点を明らかにし、本書で用いる分析ツールについて提示し」ている。Ⅱ部「グローバルネットワークと鉱業制度の変遷」では、「「南」鉱業国の時間差を含んだ同質の鉱業制度の展開過程に注目し、鉱業制度に対する多国籍企業、「南」政府、地域住民3主体間の影響力バランスのグローバルな変遷過程を描き出し」ている。Ⅲ部「フィリピン地域住民を取り巻くグローカルネットワーク」では、「Ⅱ部で描き出したグローバルな影響力バランスの変遷と、ナショナル、ローカルでの制度との連関について論じ」ている。そして、終章のみからなるⅣ部「グローカルネットワークの機能と開発主義克服への課題」では、「これまでの分析から、グローカルネットワークと鉱業制度との関係を描き出し、グローカルな史的変遷の中に現在の状況を位置づける。この作業を通して、「持続可能な開発」制度の問題点および問題を克服する上で必要とされるグローカルネットワークのあり方を提示」している。

 「自然科学(工学)から社会科学」へ転換したという著者は、自然科学者らしい技術面にかんする考察がみられ、人文・社会科学を専門とする研究者にはみられない特徴がある。学際・学融合的研究には、いかに自然科学の基礎知識が必要であるかを具体的に示した好著といえよう。さらに、4つのグローカルネットワーク(メジャー独占、ナショナリズム、多国籍企業、NGO)と3つの制度(英米法、資源ナショナリズム、「持続可能な鉱業開発」)をバランスよく論じることによって、「開発主義を越えるグローカルネットワークの可能性」を探っている点は、説得力がある。そして、最後に「貧困故の妥協の克服」「社会不安定化の克服」「利害関係からの超越」をあげることによって、今後の課題としている。

 本書の問題としては、人文・社会科学的な基本事項の確認の甘さをあげることができる。『諸蕃志』の「麻逸」はミンダナオ島ではなく一般にミンドロ島に比定されており(書名も間違っている)、フィリピン第一の国民英雄リサールのスペルも間違っている。日比友好通商航海条約の調印は1960年、批准は73年で、条約の名前も年も間違っている。このほか、著者の専門ではないフィリピンの基本的事柄についての間違いが散見される。地名・民族名なども、一般的なカタカナ表記とは違っているものがある。これらは、すべて『フィリピンの事典』(鈴木静夫・早瀬晋三編、同朋舎、1992年)で確認すれば、わかることである。このような明らかで単純な間違いは、本題ではないにもかかわらず、本書全体の不信感に繋がる。フィリピンを専門とする地域研究者からは、評価されないことにもなりかねない。残念だった。また、本書では、表が多用されているが、地図は1枚もない。学際・学融合的研究成果の発表の仕方も、そう簡単ではない。

 ところで、本書で実例としてとりあげられているWMC社のタムパカン・プロジェクトにかんして、わたしは1996年に西オーストラリア州都パースのWMC社で、当地の人類学者らとともに説明を受けている。映像など視聴覚資料での説明は、まだパワーポイントなど知らないときで、プレゼンテーションとはこういう風にするのかと感心したので、よく覚えている。鉱山開発によって、地元住民のバラ色の将来が約束されているような、素晴らしい説明だった。このように、地元住民にも説明しているのだろうと思った。同時に、WMC社には協力する人類学者もいたが、フィリピンのミンダナオ島の実情を知っているのだろうかと疑問に思った。案の定、この計画は、2002年1月にWMC社が撤退を表明したことで終わった。そして、いまWMC社は、買収される話で鉱業界に話題を振りまいている。

 この計画の失敗の第一の原因は、ミンダナオに公平な社会正義がないことだ。本書で示されている通り、ミンダナオでは3G(銃、私兵、金)がまかり通る社会で、富の分配が不公平である。そこにWMC社が目をつけて、3Gでなんとかなるだろうと思ったのだろう。しかし、グローカルネットワークによって、3Gが従来ほど機能しなくなっている。新たな時代に入ったことは、確かなようだ。それはわかったが、それが「持続可能な鉱業開発」とどう具体的につながり、地域の住民が公平な富の分配に預かれるようになるのか、いまひとつわからなかった。

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2005年06月28日

『南洋日系栽培会社の時代』(日本経済評論社)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 著者柴田善雅の膨大なデータを駆使した実証的研究には、ほんとうに頭が下がる。本書は、『占領地通貨金融政策の展開』(日本経済評論社、1999年)、『戦時日本の特別会計』(日本経済評論社、2002年)につづく同著者の大部の単行本で、戦前・戦中のデータを整理しながら、日系ゴム栽培業、日系マニラ麻栽培業を、それぞれ時系列に考察している。本書は企業史アプローチを採用し、「企業の進出環境、企業家の進出の意思決定、導入技術水準、進出後の操業環境と企業成長への対応、その後の事業環境の変動に伴う退出・吸収合併等を重視」している。そして、本書であつかった日本の南洋投資は、日本の直轄植民地や中国の割譲地・租借地・疎開への投資と違い、日本政府の国策的な大規模な支援は望めず、当該植民地政庁との関係のなかで進めなければならなく、従来の海外投資の研究とは違う意義があるという。

 本書によって、朝鮮、台湾、満洲に進出した日系企業の研究だけではわからなかった、戦前・戦中の日系企業の動向がつぶさにわかり、研究書としてだけではなく、資料集としても、また事典的にも利用できる。ほんとうに便利な本が出た、と利用する者として感謝したい。また、これだけのデータの校正も超一流の研究者にしかできないことで、誤植は驚くほど少ない。著者の細心の注意がうかがわれ、この点だけをとっても信頼できる研究書であるということが言える。

 これだけ優れた研究書であるだけに、わたしには大きな危惧がある。一言で言うと、「知の帝国主義」になりはしないかということである。本書のきっかけとなった共同研究の成果である『「南方共栄圏」−戦時日本の東南アジア経済支配』(疋田康行編著、多賀出版、1995年)では、「東南アジア史の一環として位置づけることも可能であるが」、「東南アジア地域研究として先行業績を踏まえて位置づける力量に欠くため、かかる視点は特に考慮されていない」とし、本書でも「エリア・スタディの研究成果を取り入れて利用する」が、「当該地域産業史を主たる分析と対象とするものでは」ない、と念を押している。学問的議論を限定することに問題はないが、東南アジア側の視点を欠くことにどういう意味があるのかを考える必要があるだろう。とくに、関係史の場合、双方の研究状況・研究環境が対等であることが大前提であり、その大前提のないなかでの研究は一方的な見方になり、双方の今後の政治的・社会的関係にも影響しかねないことになる。

 日本の東南アジア史研究者の数はひじょうに少なく、国別の専門でいえば数人程度しかない国が多い。そのなかで、日本との関係史を専門にしている者はそれほど多くない。また、東南アジアの研究者で、日本語資料を読みこなして研究している者はほとんどいないのが現状である。このような研究状況のなかで、圧倒的に資料的に有利である日本側の資料を主として使い、東南アジアにかんする知識があまりない日本人を中心として研究をおこなうことに、どのような波及的影響が出るのだろうか。たとえば、ロンドンのブリティッシュ図書館(大英図書館)インド政庁文書室や公文書館には、インド人など旧植民地の研究者の姿がよく見られる。イギリス人だけによる研究は、インド人などの研究によって、より相対化され、深みを増し、豊かになっているのだろうと想像される。しかし、インドネシアのように歴史研究をするだけの余裕・関心のあまりない国は、宗主国だったオランダ人による研究に頼りがちになったりする。歴史叙述を公平におこなう環境がないことを、まず研究者は意識する必要があるだろう。

 近年、日本と中国、日本と韓国・北朝鮮などのあいだでは、歴史認識の問題が政治的に取りざたされている。その解消のために、アジア歴史資料センターの設立や共同研究・共通教科書の試みなどがおこなわれてきた。東南アジアと日本との関係史においても、われわれは『近現代史のなかの日本と東南アジア』(吉川利治編、東京書籍、1992年)で、東南アジアで使われている歴史教科書で、日本との関係がどのように書かれているのかを検討した。いま、わたしたちが歴史認識問題の解消のために必要なことは、日本語の資料を読むことのできる東南アジアの研究者を育てることであろう。そのためには、日本語修得後にアジア歴史資料センターなどの文書館で日本人研究者とともに研究することができる場をつくることだろう。中国や韓国、さらにドイツなどの欧米の研究者も加わると、日本の対外関係史や二国間関係史を超えた学問としての歴史学、世界史として、歴史認識問題を考えることができるだろう。

 そのとき、本書が優れた先行研究として役立つことは間違いない。この研究成果を、存分にいかすためにも、歴史認識を共有できる研究の場が必要である。

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