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2012年01月10日

『就職とは何か-<まともな働き方>の条件』森岡孝二(岩波新書)

就職とは何か-<まともな働き方>の条件 →bookwebで購入

 わたしが常々学生に言っていることのひとつに、「目先のことにとらわれず、ひとつ、ふたつ大きな視野でみて、目標をたてること」がある。すこしでも大きな目標設定をすれば、目先のことはたんなる通過点で、とるに足らないものにみえてしまう。仮に目先のことがうまくいかなくても、軌道修正して目標に向かえばいいので、切り返しも早くなる。

 本書によって、目先の「就活」が相対的に理解でき、うまくいっても失敗しても、その先のことを考えることができる。学生の就職をめぐる出版物の多くが「就活術に関するハウツー物か、働くことについて心構えを説いたもの」であるのとは違い、本書は「なぜこれほど就職環境が厳しくなったのか、また就職後にどんな働き方が待ち受けているのかを説いている」。

 就活にこれだけ大騒ぎをしながら、3年以内に離職する大学新卒者は3人に1人にのぼる。中卒は7割、高卒は5割だという。離職しないまでも、仕事にやる気をなくす者は、就活に熱心で、働くことに意欲をもって楽しみにしていた者ほど、多いかもしれない。そんなミスマッチも、本書を読めば、すこしは減るだろう。

 「本書の課題」は、「はじめに」でつぎのように書かれている。「学生の就職活動はいまどうなっているかという問いに、雇用の現場はどうなっているかという問いを重ねて、就職とは何かを考え、<まともな働き方>の条件を述べることにある」。続けて、各章ごとの要約をしてくれているので、本書の全体像がよくわかる。

 さらに、「あとがき」で本書の特色をつぎのようにまとめてくれているので、読後感がすっきりしてありがたい。「(1)ハウツー物にある就職活動のスケジュールや採用までの流れを説明しながら、近年の内定率の悪化と長期的な採用減の実態を示し、大学のキャリア支援や就活ビジネスの動向を含む最近の就職事情をひととおり観察している」。「(2)学業もそっちのけで「就活」に振り回される学生たちの姿を追うとともに、採用・就職活動の早期化と長期化が学生、大学、企業にもたらす弊害とその是正の動きを、かつての就職協定の変遷を交えて検討している」。「(3)定期採用(新卒一括採用)や初任給などの就職のイロハをわかりやすく説明し、学部三、四年の専門科目の成績を問わない定期採用や、残業手当を組み込んだ初任給などの問題点を明らかにしている」。「(4)就職とは、雇用とは、派遣とは何かを検討し、雇われて働くことと、時間に縛られて働くことの意味を考え、「正社員」という雇用身分はどのように生まれたのか、若者は労働組合にどんな関心をもっているのかにも目を向けている」。「(5)企業が採用選考において学生に求める力と対比しながら、就職後に若者自身が賢くいきいき働くために必要な四つの力-社会常識、基礎知識、専門知識、労働知識-を示し、とくに社会常識と労働知識について説明している」。「(6)<まともな働き方>を「まともな労働時間」「まともな賃金」「まともな雇用」「まともな社会保障」に分け、なぜ<まともな働き方>ができないのか、どうすれば<まともな働き方>が実現できるのかを述べている」。「(7)新書にしては図表を多用し、議論を統計データで裏づけるとともに、読み取りにくい数字をビジュアルに示している」。

 著者、森岡孝二が6年前に出版した『働きすぎの時代』にたいして、「働きすぎの要因の考察については「よくわかる」が、働きすぎ防止の指針については「実効性に欠ける」という」批判があったという。本書にたいしても、同じような批判があるかもしれない。しかし、それを大学の研究者に言うのは酷である。「実効性に欠ける」のは、そもそも就職協定を守らない、企業のコンプライアンスの根本が問われるようなことを考慮に入れなければならない現状があるからだ。多少なりとも「守ってくれる」なら、研究者としてももっと違った対応の仕方がある。

 いっぽう、大学の教職員の側にも問題がある。「就職させればいい」ということがあって、就職後のことをあまり考えていない。学生は単位の取りやすい科目、卒業しやすく就職しやすい学部・学科などを選び、その先のことを考えていない。単位も必要最小限しかとらない者が多い。「今日のようなグローバル化時代には、若者を含む日本の労働者は、日本企業が進出している世界の新興国や途上国の労働者とも競争させられている」。それなのに、少子化で学生獲得のために、入試から「楽なこと」を売り物にしている大学がある。入学してからも、レベルを落として学生を獲得しようとする学科、コース、教員がいる。指導する学生・大学院生が少ないと、リストラの対象になるからだ。「学生の学力低下」はいろいろなところで指摘されていながら、現実には向上どころか逆行して、この国際化の時代に外書講読をあきらめた教員もいる。「きびしい」という評判が立てば、その教員のところに学生はこなくなる。

 「勤務開始の一〇分前までの出社を心がけましょう」と言われても、学生にはピンとこないだろう。遅刻や欠席を指摘したり、期日を過ぎたレポートを受けとらないと、やはり「きびしい」と言われて学生に敬遠されるので、教師はなにも言わなくなっている。

 「就活」にかんしても、「目先のことにとらわれず、ひとつ、ふたつ大きな視野でみて、目標をたてること」が必要であるが、それは日本社会全体、全国の大学全体で考えなければならないことである。そして、いまの社会を維持・発展するために、これからを見据えて、どのような能力をもつ人材が必要なのかを展望する必要がある。就職できればいい、という話でもないのだが...。

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2011年12月27日

『大学キャリアセンターのぶっちゃけ話-知的現場主義の就職活動』沢田健太(ソフトバンク新書)

大学キャリアセンターのぶっちゃけ話-知的現場主義の就職活動 →bookwebで購入

 正直言って、なんで就職活動に、これだけの時間とエネルギーを費やさなければならないのかわからない。しかし、そうせざるをえない現実は、すこしわかる。家庭教育と学校教育が、社会に出て行くために充分でないからだ。ある外食産業の社長が言っていたのは、「挨拶と手が洗えればいいのだが、それができないので、社員教育に金と時間をかける」ということだった。その外食産業は、有名な「ブラック企業」のひとつだった。

 家庭はともかく、大学では本書でいっている基本的なことはできる。講義科目では、授業の最後で「今日学んだことと感想」を書かせればいい。講読科目では、前もって訳文の添付ファイルをメールで送らせばいいし、授業では音読させて日本語になっていないことを確認させればいい。演習科目では、配付資料のつくり方、コピーのとり方、プレゼンテーションの仕方を教えればいい。学生のメールアドレスを見ると、笑っちゃうものがある。友達同士のやり取りだけで、「大人」とのやり取りを想定していないからだ。大学の先生とのメールのやり取りは、最初の「大人」とのやり取りになる。著者のいう「就活不要論に私は反対する」で書かれていることは、要するに家庭や学校でできていないことを就活でするということのようだ。そして、それを「支援」するのがキャリアセンターということだが、そこに問題があるので本書のようなものが書かれることになる。

 著者の「正体をすっかり明かすと各方面に迷惑がかかる」ために、「ぎりぎりまで迷ってペンネームとした」「内部批判と改革の視点」は、最終章でつぎのように整理されている。

・キャリアセンターのキャリア(経歴)は、それこそ少子化なのに大学生数増というむりやりな大学の生き残り策のために、突貫工事で作られてきた。だから企業社会の要請に対する「行き過ぎた適応主義」をためらいなく受け入れてしまったところがあるし、専門人材の養成システムもないままだ。
・しかも、就職課時代に唯一と言っていい武器だった企業からの求人票を、安易にウェブ化して使いづらくしてしまった。学生の個別相談でも、真に身のあるアドバイスはできなくて、無難に事が済むほうばかりを見ている嫌いがある。データ量ばかりを増やし、サービスの質を落としてしまった。
・就職率、就職実績の操作はもっての外(ほか)だ。リアルな厳しさを公開し始めた早稲田大学に続く他大学が待たれる。
・一方で、就職ナビサイトがもたらした採用試験応募者の爆発的増加に、企業の人事部も振りまわされている。とはいえ、当分、不況続きの買い手市場と見こんでか、採用活動の効率化優先で、ポテンシャルのある学生をじっくりみるという態度が消えてきている。
・ショーイベント化する企業説明会に、人事マンが口にするその場しのぎのスマートなきれい事。騙される大学生も堕ちたものだが、正面からツッコミを入れられないキャリアセンター職員も情けない。「学歴」や「個性」といったマジックワードをあらためて捉え直し、現実を踏まえた上で教育関係者としての言葉を取り戻さねばならない。
・大学生の学力低下と幼稚化に目を背けてはいけない。学部教育の改革に期待したいが、キャリア教育においても働く上で基礎となるスキルと知力の育成プログラムを開発すべきである。同時に、現在行われている就職活動も、考え方と工夫次第で、学生を大人に成長させる格好の機会になり得ると心得たい。
・一方で、学生の中にわずかながらアンチ大企業や中小企業志向といった、新しい仕事観の芽も出てきている。それらの落とし穴を教えつつ、学生が望む方向性には伴走していくべきだろう。
・保護者とどう向き合い、なにを提供すべきかは、キャリアセンターの目の前にある喫緊の課題だ。親御さんたちの不安を解消し、就職活動生にとっての戦力となってもらうべく、大胆かつ誠実な言葉を紡いでいく時期にある。

 そして、最後に著者はつぎのように述べている。「就職問題にスパッとした解決策はない。が、まだまだやり方はある」。「焦らず手を抜かず、やれることをやっていけ」。「自分にも学生にも言い聞かせている処世術だ」。

 日々学生と接している者として、すこしは就職活動の現実を知って、学生の卒業後の姿を想像しながら授業に臨みたいと思う。それにしても、就職活動のため授業に出ることができない、という学生にどう対処していいかわからない!

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2010年02月02日

『ヒューマニティーズ 教育学』広田照幸(岩波書店)

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 出だしをどうするか、迷った。帯の表も裏も使える。表紙の見返しも使える。「はじめに」にも使えるものがある。それだけ、今日の教育学は問題が多く、切り口も多いということだろうか。まず、これら4つを引用して、本書の概略をつかんでみよう。

 まず、帯の表には、つぎのように書かれている。「普遍的な基礎づけを失ったいま、われわれは、希望を持って教育学を語れるのか。実感主義/体験主義を超え、教育学的思考の未来を切り拓く」。

 裏は、もっと具体的である。「ポストモダン的な価値の相対化の地点から、「教育の目的」をたなあげにしてしまうのは、「教育学のシニシズム」を生んでしまう。……誰をも屈服させるような強力な「教育の目的」を、ある社会がもってしまうことも危ない。二つの極の間で、「教育の目的」をどう論じることができるのか。これからの教育学に求められているのは、これである。社会が多元的であるにもかかわらず、教育はある体系性や統一性をもって組織される必要がある-この難題に教育学者がどう取り組むのか、ということである」。

 表紙の見返しでは、大きな視野のなかでの教育について語られている。「教育は社会のあり方やその変化と無縁ではありえない。その思想や制度は、近代の大きな変動のなかで変容を遂げ、経済のグローバル化や地球規模の課題が、現代の教育にさらなる変容を迫っている。未来の人間や社会のあり方を考え、そこに働きかけていく営みに向けた知として、いま教育学の何が組み換えられていくべきなのかを考える」。

 「はじめに」では、本書をどのように読んでほしいのかが述べられている。「教育学をこれから学びたいと思っている人も、教育学を見直してみたいと思っている人も、一つひとつの細分化された専門領域の問題に閉じこもるのではなく、「教育を全体としてどう考えたらよいのか、教育学を全体としてどういう知として考えたらよいのか」といったことに注意を向けてほしい」。教育学は、「単なる教師養成の技術知としてではなく、人間や社会のあり方を深い次元で見つめ直し、社会の組み立て方や人間の生き方に示唆を与える学問としても発展してきた。その意味で、教育学は、総合人間科学でもあり、総合社会科学でもある」。

 本シリーズ「ヒューマニティーズ」では、それぞれの学問の過去、現在、未来を語るということで、それぞれの章の副題を「どのように生まれたのか?」「学ぶ意味は何か?」「社会の役に立つのか?」「未来はどうなるのか?」「何を読むべきか」で統一している。

 「一、教育論から教育学へ」では、「哲学を基盤に据えた一九世紀の教育学」から「実証科学をモデルとした二〇世紀の「教育の科学」」への変遷を、「議論の根拠はあやしいもの」から「危うさがつきまとっていた」ものの変遷ととらえて論じている。

 「二、実践的教育学と教育科学」では、「よりよく教育を組織・実施するための知と、教育に関連した諸事象を科学的なルールに従って考察し、記述しようとする知」の「教育学内部の二つの知について」考察している。また、ここでは「教師になる人にとっての必要な教育学の知」と「一般市民(になる人)にとって、教育学を学ぶ意味」についても考察している。

 「三、教育の成功と失敗」では、「一九世紀の末に登場してきた二〇世紀の教育学の本流を作る、進歩主義教育運動」が論じられている。この運動の根本には、「「子ども一人ひとりがちがっているから、それに応じた教育をする」という、革命的な考え方」があった。そして、それに対して登場したのが、「すべての子どもにバラバラなことをさせつつ、同時に、どの子も学習が進むような教授技術であった」。このような技術が必要になったのも、「すべての子どもが就学する公教育の制度が発達」したためである。以前は、「学校は困った子どもを追い出し(放逐)、子どもは学校がつまらなければ簡単にやめた(退出)」。公教育が、近代教育学にとって大きな問題となったのである。

 つぎに大きな転機になったのは、「一九八〇年代から九〇年代にかけて広がったポストモダン論」で、「もともと脆弱だった教育学の認識論的足場を、根底から破壊することになった」。「四、この世界に対して教育がなしうること」では、困惑し迷走する教育学の現状から「未来」を考えている。そのポイントは、帯の裏に述べられているとおりであり、その解決のためには、表紙見返しにあるようなことを考えねばならなくなった。

 考えるためには、当然、本をじっくり読むことが必要であり、「五、教育学を考えるために」では「何を読むべきか」、どう読むべきかが紹介されている。まず、「本をじっくり読むためには、線を引いたり、書き込みをしたり、付箋を貼ったりして、読みながら考えたことや感じたことを形に残しておくことが、とても重要である」と説く。つぎに「本を読み進めるうえで決定的に重要なのは、読む側が問題意識や関心を持っているかどうかである」。「また、本を面白く読むためには、ある程度の予備知識が必要なことも多い」という。

 しかし、本を買って、「線を引いたり、書き込みをしたり、付箋を貼ったりして」じっくり読んだことのない者は、本を読むための予備知識もなければ、問題意識もない。大学4年生になって「「私は教育学の本は読んだことありません。大学に入ってからの自主的な読書は、ほとんど小説だけです」などと言い放つ者」は珍しくともなんともない。そう思っている大学教員は、超一流といわれる大学の教員を含めて当たり前で、小説を読んでいるだけ、ましだと思っているだろう。

 まずもって、多くの学生は、教科書に書かれていないこと、学校で教えてくれなかったことを知らないのは当たり前で、恥ずかしいことではないと思っている。それだけで、日本の学校教育、家庭教育が失敗であったと言わざるをえない。学校教育は、自主的に学ぶための基本ときっかけを与える場にすぎないはずだ。それが目的化したために、学んだことが実生活、実社会でいかされない状況になっている。教育が生きる力になっていない。

 本を読むことも、本書で書かれている卒業論文という課題に直面してはじめて読むことを知った学生は、まだ「幸運」である。卒業論文を課していない大学も多いので、本を読むことを知らない「学士」様は珍しくない。ほんとうは、高校で新書くらい読む習慣をつける教育をしてほしいのだが(もっとも最近の新書のなかには、これはちょっと…、というものもあるが)、そうも言っておれないので、大学で本を読むための予備知識や問題意識をもつための教育からはじめなければならない。本シリーズ「ヒューマニティーズ」も、本を読めない者(学ぶ姿勢ができていない者)には無用の長物となる。著者の言うように、「本当に奥が深い知や情報は、大学図書館の書庫や巨大な書店の片隅に眠っている。誰かに決めてもらったテキストや、誰かの講義から学ぶのではなく、自分で読むべき本を探して、本と自分とで対話をしていくことが必要である」。

 著者は、「「教育学しか知らないバカ」にならないように、広い読書を心がけてほしい」と言い、「たくさんの講義や演習で教育学に関する勉強をしてきたとしても、授業で教わったものが「教育学」なのではない。講義や演習だけで身についた知識は、断片的で限界がある。その知識を活用しながら、自分自身で教育学の本を読むことによって、初めて教育学を深めることができるのだ」と説く。そして、「おわりに」で、「教育学内部でのタコツボ化が進む中で、無責任な御用学者や視野の狭い個別トピックの専門家ばかりが増殖している」現状を、「大問題である」と警告する。

 本書は、おもに「教育学をこれから学びたいと思っている人」、「教育学を見直してみたいと思っている人」を対象に書かれている。本書が「ヒューマニティーズ」の1冊であるなら、わたしのようなヒューマニティーズの1つの歴史学を専門としている者が、議論に参加できるようなかたちでの問題提起もほしかった。これは、本書だけでなく、本シリーズの各巻に言えることで、「思考のフロンティア」シリーズのように、総括する別巻があると、「ヒューマニティーズ」としての各巻の立ち位置がよりわかってくることだろう。本書でも繰り返し述べられているように、教育学は教育学者だけで議論する時代ではない。教育学は、いまの時代・社会、これからの時代・社会に必要な知識・技術を提示してくれる学問なのだから。

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2010年01月26日

『教育の職業的意義-若者、学校、社会をつなぐ』本田由紀(ちくま新書)

教育の職業的意義-若者、学校、社会をつなぐ →bookwebで購入

 本書は、「若者に希望を!」と、若者を応援するための教育論を展開している本田由紀(東京大学教育学研究科教授)の最新刊である。

 まず「序章 あらかじめの反論」で、著者はこれまでの経験から予想される5つの否定的反応を取りあげ、反論を加えている。それだけ、著者が展開してきた教育論にたいして風当たりが強いということだろうか。

 本書は、5章からなる。まず、「第1章 なぜ今「教育の職業的意義」が求められるのか」では、1990年代半ば以降大きく変貌した日本の若年労働者市場の現状を紹介する。つぎに、「第2章 見失われてきた「教育の職業的意義」」では、その変貌に対応できない日本社会を、歴史的経緯を振り返りながら説明する。そして、日本における状況が、いかに国際的に見ても問題であるかを、「第3章 国際的に見た日本の「教育の職業的意義」の特異性」で確認する。さらに解決に向けて、まずその障害となっている問題点を、「第4章 「教育の職業的意義」にとっての障害」で検討し、「第5章 「教育の職業的意義」の構築に向けて」で、「「戦後日本型循環モデル」が内包していた問題、そしてその崩壊が今もたらしている問題を乗り越え、かつ「キャリア教育」や「生きる力」のような過剰に抽象的で汎用的な人材像への要請にも抗うためには、「柔軟な専門性」という原理に沿った教育課程・教育制度や、労働市場の再設計が不可欠となるということについて論じる」。

 冒頭で述べた「日本で長く見失われてきた「教育の職業的意義」の回復を、広く世に訴える」本書の目的は、つぎのように「序章」の最後で言い換えられている。「問題が山積している現代の日本社会の再編という大きな課題に、教育という一隅から取り組もうとすることであり、魔法のような解決策というよりは、言わば社会の体質改善ともいうべき地味な提言であることは否めない。しかしそれでもなお、本書で述べてゆくことの必要性について、筆者は確信をもっている。それができるだけ多くの人に届き、受け止めてもらえることを願う」。著者は、教育を手段として、日本社会の再編という大きな課題に挑もうとしている。

 それがもっともよくあらわれているのは、本書で著者が主張している「教育の職業的意義」と似て非なる「「キャリア教育」という施策・理念であり、またそれと密接に関わる「人間力」や「生きる力」などの概念や発想」にたいしてである。その問題点と解決策について、第4章でつぎのようにまとめている。「進路選択とは、若者が自分自身と世の中の現実とをしっかり摺り合わせ、その摩擦やぶつかり合いの中で、自分の落ち着きどころや目指す方向を確かめながら進んでゆくことだと筆者は考えている。そのようなしっかりとした摺り合わせが生じるためには、ひとつには職業人・社会人としての自分自身の輪郭が暫定的にでも一定程度定まっていること、もうひとつは世の中の現実についてのリアルな認識や実感、という二つの条件が必要となる。そのような自分の輪郭や現実認識を得る機会を若者に与えないままに、つまり選択のための手がかりがないままに、ただ選択を強いるという性質を「キャリア教育」はもっている」。「筆者は、少なくとも高校以上の教育段階においては、特定の専門領域にひとまず範囲を区切った知識や技術の体系的な教育と、その領域およびそれを取り巻く広い社会全体の現実についての具体的な知識を若者に手渡すことが、上記のような摺り合わせを可能にすると考えている」。

 先日、わたしは授業のなかで学生に謝った。「みなさんの世代にたいして、学校教育も家庭教育も失敗しました」と。そして、学校にも家庭にも頼らず、本や新聞などをよく読んで、現実を理解し自分自身で判断して生きていく知識や技術を身につけること、親身に考えてくれる両親と対話できるよう両親の時代とどう違うのかを説明できるだけの知識を持つことなどを話した。

 著者も、同じ思いを抱いており、最終章の第5章をつぎのように結んでいる。「教育から外の社会や労働市場に出れば、ある程度安定した収入や働き方をどうすれば獲得できるかの方途も不明であり、一度不安定なルートに踏み込めば、その後の挽回の機会は著しく制約される。度を越して過重な仕事、あまりに賃金の低い仕事にはまりこむ危険の高さは、まるでおびただしく地雷の埋まった野原を素足で歩いていかなければならない状態に似ている」。「今の日本社会が若者に用意しているのはこのような現実だ。それを作ってきたのも、それに手を拱(こまね)いているのも、多くは若者たちより上の世代の人間たちである。このままでは、教育も仕事も、若者たちにとって壮大な詐欺でしかない。私はこのような状況を放置している恥に耐えられない」。

 著者のこの声に、まず応えなければならないのは、高校以上の教育に携わっている個々の教職員だろう。受験のためや研究者養成のためだけの教育ではなく、まず生徒・学生が社会に出て働く姿を想像することだろう。そのためには、まず1990年代後半以降、非正規社員の増加、不安定な雇用、劣悪な賃金といった、若者の仕事が大きく変わった現実を理解することだ。そして、日本の企業が日本人を雇うとは限らない状況のなかで、日本のこれからの社会をどのように考えるのか、副題にあるとおり「若者、学校、社会をつなぐ」議論を深めていかなければならない。

 いっぽう、このような状況のなかで、年々ひどくなるように感じる学生の学力低下の問題がある。その根本に、なぜ勉強するのか、勉強したことが自分の人生とどう結びつくのかがわからないことがあるように思える。漫然と退屈そうに座っている学生を見ていると、教壇に立っていても授業に集中できなくなる。そんな学生は、ほかの学生にも悪影響を与える。

 かつて近代公教育が普及しはじめたころ、学習意欲のない児童・生徒の存在が授業の妨げになり問題になった。戦争が総力戦になったように、強い国民国家をつくるためには国民の総力を高める必要があり、日本では「お国のため、天皇陛下のため」の皇民化教育がすすめられ、集団的学力向上が図られた。いま、大学の大衆化のために、本来なら学習意欲のある者だけがいるはずの教室に、なんの目的意識ももたない者がいることによって、学生全体の学力低下のひとつの原因になっている。

 世界的規模で考えなければならない環境、紛争、災害、貧困などの問題に取り組む地球市民として、また高度に複雑化し現状維持さえ困難になった日本社会を安定させる国民として、義務と責任があることを意識することによって、集団あるいは個人としての問題意識を高めることができる。そのためには、まず「若者に希望を!」であると著者は言いたいのだろうが、生やさしいことでないことを充分承知しているからこそ、本書で「地味な提言」をおこなうしかなかった。若者が本書を読むことによって現状を理解し、その解決に積極的に取り組むことによって、教育が変わり、社会が変わる。その環境を整備するのが、上の世代の責務である。

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2009年08月04日

『街場の教育論』内田樹(ミシマ社)

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 大学教育研究センターの兼任研究員をしている。こんな本があるので、読んで紹介してもらえないだろうか、といわれたのが本書である。以下のような紹介文を書いてみた。


 本書は大学院の授業を基にして書かれているため、読書対象ははじめ大学院生や聴講生であったが、加筆している段階で「学校の先生たち」になったという。しかし、著者、内田樹が読んでほしいのは、教育をネタにメシを食っている人たちだろう。だから、著者は、「まえがき」で「「政治家や文科省やメディアは、お願いだから教育のことは現場に任せて、放っておいてほしい」というのが本書が申し述べるほとんど唯一の実践的提言です」と言い放っている。そうしてくれれば、「学校の先生たちが元気になる」という著者の念いがある。

 著者は、神戸女学院大学文学部教授で、「フランス現代思想、映画論、武道論」を専門としているが、それよりブログが人気で、そのブログを基に出版した本がつぎつぎとベストセラーになるエッセイストである。

 本書は、「現代思想」「アメリカ論」「中国論」に続く「街場シリーズ」の4冊目である。全11講の多くは、自身の大学での経験にもとづいている。その経験は純粋な教育・研究だけではなく、著者が近年かかわった大学行政で得た「現場」からのものである。多少現場を知っている者なら、だれかに言ってほしかったことが多く含まれている。だから、学校の先生たちが読むと、「そうだ! そうだ!」と同意して、ストレス解消になり、「元気になる」ことだろう。

 著者の教育論のエッセンスは、第1講でつぎの4つにまとめられている。「(1)教育制度は惰性の強い制度であり、簡単には変えることができない。(2)それゆえ、教育についての議論は過剰に断定的で、非寛容なものになりがちである(私たちがなす議論も含めて)。(3)教育制度は一時停止して根本的に補修するということができない。その制度の瑕疵は、「現に瑕疵のある制度」を通じて補正するしかない。(4)教育改革の主体は教師たちが担うしかない。人間は批判され、査定され、制約されることでそのパフォーマンスを向上するものではなく、支持され、勇気づけられ、自由を保障されることでオーバーアチーブを果たすものである」。

 著者は、アメリカの教育システムの導入に反対する。というより、導入するなら、「アメリカの教育制度の最良の部分、つまり「中枢的に統御しないで、五〇種類の教育制度を並存させる」」を取り入れるために、「まっさきにやるべきことは「文科省解体」」だという。

 その文部科学省が、過去十数年間に「大学設置基準の大綱化、教養課程の改組、学部再編、独立行政法人化」などを大学に求めた結果を、著者はつぎのように総括している。「文科省に出すペーパーだけを書き続け、その間、ほとんど専門の研究ができなかったという人が日本全国に何十人、何百人といます。そういうエンドレスの作業に動員されるのは、どの大学でも、若手で、仕事が速く、要領のいい人です。面倒な仕事は結局同じ人のところに回される。彼らがそれらのペーパーを書かずに、研究教育に専念できていた場合に、どれだけのものを作り出したか、それを想像すると、私は深い徒労感にとらえられるのです」。著者自身、4年間自己評価委員長をやって、「文科省や大学基準協会に出すための「うちの大学はまっとうである」ということを挙証するための文書を山のように」書いた結果の発言で、「この作業が「終わりなき地獄」であることを全身の筋肉のきしみと、澱(おり)のようにたまった疲れに基づいて確言することが」できるという。

 著者の攻撃は、文部科学省だけでなく、財界・産業界にも向けられる。日本の大学の多くが、1990年代に教養課程を廃止したのは、「入学してから二年間を教養教育のような「無駄なこと」に費やしてもしょうがない。それより入学してすぐから専門教育を施した方がいいと」財界・産業界が強く要望したからだ。その結果、「大学生の学力が著しく低下してしまった」。教養教育を受けなかった者は、「自分自身を含む風景を一望俯瞰する力」がないから、自分が何の専門家だかよくわからず、専門性をいかせないのである。

 さらに、著者は、同僚の大学の教員、学生にも厳しい眼を向ける。「どの分野でも先端的な研究をしている人は、他分野の人に自分が今、研究していることを理解させるのが」上手だ。とくに理系の人は外部資金の必要性からうまいが、「人文系の専門家で自分がやっていることをわかりやすく説明できる人というのはきわめて希(まれ)」だ。本書では、著者の専門のフランス文学と社会学がやり玉にあげられているが、ほかの人文系の分野も例外ではないだろう。研究にお金があまりかからないので、「なかなか「身内だけのパーティ」から抜け出せない。社会の知的な編成の変化にも鈍感です。だから、気がつくと、その学界ごと「歴史のゴミ箱」に放り込まれてしまうことが起きる」。大学の予算が減り人文系の研究者にもさかんに外部資金の獲得を奨励するが、たいして必要もない研究費を獲得すると「身内だけのパーティ」にお金も時間も使い、肝心の教育・研究の時間が益々なくなってしまう。「他者とのコラボレーション」が必要なのは、そんな教員の指導を受けている学生についてもいえる。「協働」できない者は、就職試験の面接で「会って五秒」で落ちる。

 本書は、発行してから半年もたたない2009年4月で7刷り、累計4.5万部で、目標の10万部も夢ではないようだ。養老孟司、福岡伸一、児玉清、武田鉄矢、尾木直樹、祐保博美らが、雑誌の書評欄などでとりあげている。しかし、これだけ売れて、注目されているのに、やり玉にあがった人たちが読んでいるとは限らない。読んでも、自分たちだけの責任ではないと思っているだろう。教育論は、だれでもが自分の経験からなにか言いたいことをもっている。著者のように、「一望俯瞰する力」をもっている者は、いろいろな分野の専門家を納得させるだけの論陣を張ることができる。各論で批判されても、総合的な説得力をもつ。ベストセラーになる理由がわかる。

 本書を読んで、元気になった学校の先生たちもいることだろう。だが、残念なことに、現場に戻った学校の先生たちは、今日も教育・研究ではない「雑務」に明け暮れているだろう。教育・研究のための時間を奪うだけとしか思えないような文部科学省の「告示・通達」に従い、就職協定さえ守らず学生に勉学に集中する時間を与えない財界・産業界の要望を聞き、メディア・教育評論家の理想論に右往左往している姿が目に浮かぶ。不思議なのは、授業料を払っている保護者の顔がまったく見えないことだ。市場原理が成り立たない教育だからこそ、大所高所からどういう社会をめざし、どういう人材が必要であるかを考えたうえで、教育論を闘わせる必要がある。そのためには、まず現場での時間的ゆとりが必要である。時間的ゆとりがあれば、学校の先生たちは自分の教育現場にあわせて実践することだろう。それがうまくいかなかったとき、ほかの学校の先生たちの実践が参考になる。そして、それを仲介する機関が必要となる。「他者とのコラボレーション」でなりたつ教育のためには、他者の通達・要望・理想論に打ち勝つ現場の力がなにより必要だということを、本書は教えてくれる。


 ブログが本になり、ベストセラーになる。その理由が、すこしわかったような気がする。しかし、この書評ブログが本になって9ヶ月になるが、ベストセラーどころか初版第1刷が完売できるかどうかもあやしい。ブログを読んでいる人が、お金を払って本を買い再読したくなるかどうかの境目はどこにあるのだろうか。この書評ブログで紹介した本も、この書評だけで要点がわかり本は読まない人がいる。自分のための読書覚書として書いてきたが、もう4年以上、150以上書いてきたので、そろそろ読者を意識して書いてもいいのかもしれない。本になったら再読したくなる、紹介した本が読みたくなる、そんなことをすこし考えてみようと思う。紹介した本が紀伊國屋書店Webで買いたくなる、というのはちょっとむつかしいかも・・・。

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2008年11月25日

『論点解説 日経TEST-あなたの経済知力を磨く』日本経済新聞社編(日本経済新聞社)

論点解説 日経TEST-あなたの経済知力を磨く →bookwebで購入

 「日経TESTはじまる」、そんなCMが聞こえてきた。はじめ何気なしに聞いていたが、ひょっとしたら大きなきっかけになることかもしれないと思うようになった。新聞社としては、購読者の減少を食い止めるための1方策かもしれないが、大学教育を預かる者としては大学生の生活・意識が変わるかもしれないと思った。

 いまの大学生は、本も読まなければ、新聞も読まない。わたしがとったアンケートでも、時事問題の情報源は聞き流しのテレビがほとんどで、新聞をおもな情報源にあげたのは1割強、書籍は1割にも満たない。知らないことを恥ずかしいとは思わない。後期の授業がはじまって、「できるだけ楽して、単位をとりたい」などという会話が聞こえてくる。「日本の企業が、日本人学生を採用するとは限らない。同じ学力なら、賃金の安い外国人を雇う」と、学生に話しても深刻に受け止めていないようだ。そんな学生が、就職希望先から「日経TESTを受けてください」と言われたら、慌てるだろう。大学生の学力低下の歯止めとして、修了試験を課すことは何度か議論されたが実現には至っていない。それが、ひょっとすると、こういうかたちで実現するかもしれない。そんな期待をもって、日経TESTの行方をみていきたい。

 日経TESTの正式名称は、「日経経済知力テスト」といい、「TESTは経済知力テストを英訳した「Test of Economic Sense and Thinking」の略称」である。帯には、「経済の仕組みを理解し、ビジネスを創造する力をはかる! 知力+考える力=経済知力」とある。「本書は日経TESTを受験する人のための参考書として企画され、ベテラン記者が執筆したものですが、問題を予想したり解答技術を教えたりするものでは」なく、「「いま何が起きているのか」「何が問題となっているのか」「将来にどういう影響をもたらすのか」といったことを「論点」として抽出し、解説を施したもの」である。その内容は、つぎの目次からわかる。

Ⅰ 日本の企業経営を読む
Ⅱ 消費・流通の動きを捉える
Ⅲ 日本経済の論点
Ⅳ 金融の課題
Ⅴ 株式・商品市場を読み解く
Ⅵ 現代の科学技術をどうとらえるか
Ⅶ 節目を迎えたグローバル経済
Ⅷ 変わる働き方と教育改革

 第1回公開テストは、9月21日に実施された。1万320人が申し込んだ。来年以降、春と秋に定期的に実施の予定で、次回は2009年4月19日。「4択問題100問」で、「制限時間は80分」、「受験者全員に認定証を発行」、受験料税込み5,250円。

 この日経TESTが成功すれば、全国紙が「社会知力テスト」を実施するかもしれない。企業が就職活動をしようとする学生に受験を義務づけると、学生の朝の習慣が変わり、「知力+考える力」で経済が活性化するだけでなく、日本社会の活性化の起爆剤になるかもしれない。

 大学が独自に学生の学力向上が図れず、新聞社のテストに頼ることがなんとも情けない!

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2008年02月26日

『明治前期の教育・教化・仏教』谷川穣(思文閣出版)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 近代教育と宗教の問題は、どこの国でも近代化論のなかで議論されてきたものと思っていた。ところが、本書を読むと、日本では本格的に取り組まれてこなかったことがわかる。著者、谷川穣は、そのこと自体がさまざまなことを示唆していると考え、「教育史、宗教史、仏教史、あるいは日本近代史といったジャンルのいずれにも分類されうる」が、「どの領域でも実は本格的に取り組まれてこなかったテーマ」を、この一連の論考によって「それらの領域に架橋」し、なにか本質的なものを見出そうとしている。

 本書は2部6章からなり、第一部「教導職と教育-明治初年-」と第二部「仏教と教育-明治一〇~二〇年代-」はそれぞれ3章からなる。各章で論じられている内容は、それほどやさしいわけではない。それをわかりやすくしているのは、著者の真摯な人柄としかいいようがない。「序章」と「終章」で、なにを論じようとし、なにが明らかになったかを、おそらく著者自身にも言い聞かせながら、ひとつひとつ確認して書いている。各章でも、「はじめに」「おわりに」で同様の確認作業がおこなわれている。

 とくに「序章」では、つぎの8つの問題群をあげた後、「本書の構成」を述べ、読者を自分の土俵に引き入れている。
  (1)「国民」形成と学校教育制度
  (2)宗教・ナショナリズム・学校教育
  (3)「教」の時代の捉え方
  (4)寺子屋と仏教の関係史-近世史研究の問題-
  (5)学校教育と宗教の関係史-近代史研究の問題-
  (6)明治前期「教育と宗教」関係史像とその問題点
  (7)教育史研究における民衆教化政策と仏教
  (8)「宗教」の語と学校教育の社会的定着

 本書の「ささやかな」結論は、「終章」で「一言でいうなら、《近代日本の学校「教育」は宗教者の民衆「教化」と「仏教」とを〈踏み台〉にすることで定着した》、となるだろう」と述べ、「近代日本形成期の人々が送った「教」の時代は、前近代の混沌した状況をすっぱり断ち切ったわけではなく、また教育・教化・宗教〈ないし仏教〉を単にそれぞれ固有の領域に切り分けたわけでもなかった。そして「教育と宗教の衝突」論争は、おそらくそのような時代の「終焉」を象徴的に示す、一つの事件であった。その論争内容の空虚さは、個々の分離されざる諸相を、歴史の表舞台から消し去っていったように思えてならない」と結んでいる。

 著者は、問題群(2)「宗教・ナショナリズム・学校教育」で、ナショナル・ヒストリーを超える視座を提起し、「フランスのムスリム」の例をあげて「政教分離の理念と実践の程度は当然のことながら各国の歴史的・社会的な背景によって、多様で複雑な様相を呈する」と述べている。では、近代日本の学校教育の草創期に「歴史の表舞台から消し去っていった」ことが、現在の日本にどのように影響しているのか。グローバル化のなかで、「宗教音痴」の日本人について、ひと言述べてくれると、明治初期の歴史がもっと身近な問題として浮かび上がってきたことだろう。

 日本近現代史では、明治維新や1945年の敗戦を大きな断絶ととらえ、その断絶の前後の連続性を無視することがままみられる。「近世」と「近代」、「戦前」と「戦後」は、時代区分としては便利であるが、そこに大きな落とし穴がある。「近世」は英語で言えば「初期近代early modern」で、「近世」と「近代」の差はあまり感じられない。それが、日本語で「近世」と「近代」というと大きな断絶を感じる。明治維新を過大評価しようとする政治的意図が働いているように感じる。いっぽう、「戦前」と「戦後」の断絶も、「戦前」を不問にしようとする政治的意図が感じられる。それらの政治的意図を排除し、日本史を相対化することによって、学問としての日本史の存在意義が高くなる。そのためには、著者のような若手研究者が、「満を持して」出版するようなことをせず、どんどん出版して世に問えばいい。

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