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2014年01月07日

『フィクションの中の記憶喪失』小田中章浩(世界思想社)

フィクションの中の記憶喪失 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 記憶喪失や殺人といった非日常的なことが、テレビドラマなどで頻繁に都合よく使われる。現実味の乏しい設定に、うんざりすることもある。そんな記憶喪失も、「虚構の世界、たとえば小説に描かれるようになったのはさほど古いことではない」という。

 著者、小田中章浩が問題にするのは、「さまざまなフィクションが記憶喪失という現象をどれほど正確に再現しているかということではなく、記憶喪失を基にしながら、フィクションの制作者たちが想像力を駆使してどれほど興味深い物語を作り上げたかということである。別の言い方をすれば、記憶喪失が虚構の世界においてどのように「表象」されているか」である。つまり、滅多におこることのない記憶喪失を使って、いかに虚実ない交ぜの社会を描き、読者や観客を「楽しませる」かが、制作者の腕の見せどころとなる。

 さらに、本書の狙いは、つぎのように説明されている。「神話や伝説における変身や試練といったモチーフと同様に、記憶喪失には新たに物語を作り出すための仕掛け(ギミック)としての面がある。これは特に連載漫画や連続テレビドラマのように、大きな物語の枠組みの中で常に新しい物語を生み出していかなければならない場合に便利である」。「テーマとしての記憶喪失とギミックとしての記憶喪失。両者の違いは、フィクションの制作者が、記憶喪失という現象そのものにどこまで興味を抱いているかということである」。「記憶喪失が物語のテーマになっているにせよ、物語の構成要素にとどまっているにせよ、それは物語が作られた時代や文化的な背景によってさまざまに変形される。こうした変形の中の興味深いものについて見ていくのが本書の狙いである」。

 記憶喪失が虚構の世界で描かれるようになったきっかけのひとつに、戦争がある。とくに総力戦となった第一次世界大戦で知られるようになったシェルショックについて、つぎのように説明されている。「記憶喪失(健忘)の中でも特に解離性健忘と呼ばれるものを扱ったフィクション、すなわち登場人物が事故または精神的ショックによって過去の記憶の一部または全てを失い、何らかのきっかけによって思い出すというモチーフが広がる大きなきっかけを作ったのは、第一次大戦(一九一四~一八)である。表象としての記憶喪失は、この戦争で知られるようになったシェルショックという現象と関係している。シェル(shell)とは英語で砲撃を意味し、シェルショックは戦場での精神的なダメージによって兵士に引き起こされるさまざまな症状を指す。具体的には心身が痙攣したり、目が見えなくなったり、耳が聞こえなくなったり、意識を失って昏倒したりすることであり、さらに一時的に記憶を失ってしまうことがこれに含まれる。しかし当時従軍した医師を困惑させたのは、シェルショックが戦場を離れた後の兵士にも残存することであり、それが治らなかったことである。今日の用語で言えば、シェルショックは戦場での体験がトラウマとなって引き起こされるPTSD(心的外傷後ストレス症候群)の一つであるということになる」。

 記憶喪失が治ることは、けっしていいことばかりとは限らない。記憶喪失は、一種の現実逃避であり、治ることによって現実に連れ戻されることになる。つまり、記憶喪失によって戦場から逃れた者は、治ることによってふたたび戦場に赴くことになる。当然、記憶喪失のふりをすることによって、現実から逃避する者も現れる。虚構の世界を描く者にとって、登場人物を天国にでも地獄にでも導くことができる、なんとも便利なものになる。

 本書は、4章と終章からなる。その構成を著者は、つぎのように述べている。「本書の具体的な展開としては、まず第一章から第三章において記憶喪失というモチーフを使った作品の中から興味深いものを取り上げ、それらを時代的な背景の中で論じていくことにする。ただし、こうした歴史的な叙述では拾い上げることのできない作品も多く存在する。そこで第四章において、虚構の世界における記憶喪失モチーフの主な機能について、こうした作品の一部を使いながらまとめることにした」。

 そして、終章では、「これまでの内容では検討することができなかった二つの問題を挙げ、結びの代わり」にしている。ひとつは、「小説や映画からゲーム、漫画へとジャンルを超えて用いられる記憶喪失というモチーフが、今後どのような形を取るのかという問題がある」。それにたいして著者は、「それらの一部はさらにゲーム化するだろう」と結論している。もうひとつは、「表象することが不可能な記憶に関する問題」で、つぎのように本書を締めくくっている。「表象不能な「純粋持続」としての記憶がある一方で、人間は今後も失われた記憶を仮想的に蘇らせるという「遊び」によって「死」と戯れることを止めないだろう。なぜならそれは人間にとっての究極の気晴らし=娯楽であるだけでなく、記憶が「動いている」ことを実感することによって、自らの生を確認する方法だからである。十九世紀末に無意識や解離性健忘が発見されて以来、あるいは記憶の柱の一つとしてその哲学を作り上げたベルクソンや、記憶をめぐる壮大な物語が作り出したプルースト以来、私たちは記憶というものと向き合い、その働きについて考えないではいられない「記憶の時代」を生きているのである」。

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