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2014年04月19日

『現代の起点 第一次世界大戦』山室信一・岡田暁生・小関隆・藤原辰史編(岩波書店)

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 2014年は、第一次世界大戦開戦100年目にあたる。ヨーロッパを中心に、それにちなんだ企画が、つぎつぎにおこなわれはじめている。日本でも、いくつもの出版が出はじめている。本シリーズ全4巻は、7年間に100を超える研究会の成果を凝縮したものであり、「日本初の本格的論集」にふさわしい内容になっている。各執筆者は、個々の専門領域を背景にしているとはいえ、研究会で議論されてきたことを踏まえて、それぞれの役割を果たしている。

 2007年にはじまった京都大学人文科学研究所における共同研究班「第一次世界大戦の総合的研究」では、「第一次世界大戦のもった歴史的な意義とその現在性を二一世紀の日本という時空間から探って」いった。編者を代表して、山室信一は巻頭の<シリーズ総説>で、つぎのように説明している。「しかしながら、それは議論を「日本とアジアにおける第一次世界大戦」という問題に限定するということを意味するものではない。ましてや、ユーロセントリズム史観を日本中心主義史観やアジア中心史観に置き換えようとするものではない。私たちが志向しているのは、第一次世界大戦を日本とアジア、ヨーロッパ、アメリカそしてイスラーム世界やアフリカといった空間範域間の相互交渉過程のなかで捉えたいということなのである」。

 さらに、「欧米の学界においても第一次世界大戦をヨーロッパ戦争とだけ捉える見方に対して異論が唱えられ、グローバルな、あるいはトランスナショナルな戦争としての側面に着目する必要があるとして、世界的な研究交流体制を組織する動きに拍車がかかってきている」状況を踏まえて、「第一次世界大戦前後の世界を共通の分析対象としながら、それぞれのテーマに即して仮説と結論を結ぶ論証のプロセスを示すことが、本論集の課題」であるとしている。その前に、つぎのような説明がある。「こうした国際的な研究交流が進むなかで、私たちは第一次世界大戦を経験した日本において、戦争と平和に対するスタンスという問題だけではなく、政治や経済をはじめとして文学・芸術・学知さらには生活世界などのありようが総体としてどのような衝撃をうけ、それが現在に至るまでいかに持続しているのか、を明らかにすることを期してきた。総力戦という様相を時間の経過とともに強めていった第一次世界大戦は、それが総力戦化という、まさにその途上のプロセスにおいて人間のあらゆる活動に影響をあたえざるをえなかったからである。だがしかし、あらゆる問題を第一次世界大戦の衝撃に還元して捉えることは、また違った新たな偏見を生むことになる。第一次世界大戦以前に既に生じ、それが第一次世界大戦を経ることによって加速されただけの変化もあったかもしれないし、あるいは大戦の時期に単なる並行現象として起きたにすぎない変化があったかもしれないからである。そうした因果関係や影響関係を見きわめるために、私たちは「世界性」とともに、「総体性」と「持続性(現代性)」という基軸をもって、それぞれの研究対象に迫ることを自らに課してきた。もちろん、「世界性」「総体性」「持続性(現代性)」という三つの基軸をもって対象に向き合うということは、すべてをそれに当てはめるという意味ではない。第一次世界大戦には、未だ世界性がない、総体性に欠ける、現代性は大戦以前に始まっていた、といった結論に導かれる対象や分野もあるかもしれない。その意味で三つの基軸は、リトマス試験紙ないしは分光器といった機能をもつ印照基準(フレーム・オブ・レファランス)として設定されるのであって、結論そのものを拘束するものでは決してない」。

 「編集にあたって」では、つぎのように別の表現で、本論集の目的が述べられている。「第一次世界大戦はヨーロッパ内戦でもなければ、第二次世界大戦への前哨戦でもない。それは人類史上最初の世界を巻き込んだ戦争であり、社会のすべてを動員せんとした戦争であり、人の精神のありようを根底から変えてしまった戦争でもあった。そして二一世紀に至って、私たちは様々な位相において、第一次世界大戦が残した負の遺産に呪縛され続けている。このシリーズは、現代世界の幕開けを告げる出来事としての第一次世界大戦を、「世界性」「総体性」「感性」「持続性」という四つの視点から、勃発より百後の今日、改めて問い直そうとするものである」。

 そして、「群集心理のなかで、戦争は避け難い宿命と観念され、「ものすごい数の無意味な死」が積み重ねられていった」にもかかわらず、「現代」も戦争は絶えることはない。なぜかを問いながら、つぎのように述べて<シリーズ総説>を締め括っている。「第一次世界大戦において「戦争宣伝」が利用され、繰り返し幻滅を味わったにもかかわらず、人々はそれを信じ続けるように仕向けられた。それは「個人の一人一人においてであれ、民族においてであれ、強烈な感情は無限に引き延ばされるものではない」ことを知悉している軍隊によって、人工的な煽動が持続的な「投薬(ドーピング)」として施し続けられたからである。そして、数カ月で終わるはずの戦争が長期化するにつれ、前線の兵士も銃後の国民も人工的な煽動と刺激を受け入れ、それを娯楽の糧に転ずることによって苦難から逃避しようとしたからでもあった」。「もちろん、四年三カ月に及んだ第一次世界大戦において、人々は何百回も「戦争宣伝」に幻滅したはずである。しかし、そうであったからこそ、第一次世界大戦の教訓を得て「戦争宣伝」は総力戦を遂行するために、絶対不可欠なものとして洗練されていった。それは宣伝戦・思想戦として第二次世界大戦へと人々を誘っただけでなく、現在ではさらに巧妙に練り上げられ、安全保障と自由の名の下で戦争の絶えない世界を奇異とも思わない心性を育み続けている。そうした「現代の起点」となった第一次世界大戦の諸相を、全四巻の本論集で明らかにしていきたい」。

 第一次世界大戦を欧米の学界がグローバル/トランスナショナルにとらえようとしていることは、歓迎すべきことだが、実際の研究/教育の現場でナショナル/リージョナルな歴史観から脱することは、それほどたやすいことではない。主戦場とならなかった日本などのほうが、グローバル/トランスナショナルに考察することがたやすいかもしれない。100年が経って、欧米と日本などとの研究の交流を通して、いま第一次世界大戦研究は、「世界大戦」としての研究がはじまったといえるだろう。

 第二次世界大戦が日本の敗戦をもって終了してから、70年が経とうとしている。その間、日本人は「巧妙に練り上げられた戦争宣伝」に惑わされることなく、平和を維持してきた。いまわたしたちは、国家安全保障会議(日本版NSC)設置法や特定秘密保護法の成立、国家安全保障戦略と防衛大綱の閣議決定の問題などに直面し、第一次世界大戦から学ぶことによって、改めて「巧妙に練り上げられた戦争宣伝」に惑わされない知恵と術を身につけなければならない状況になっている。なんともむなしい。


【読者のみなさんにご挨拶】

 丸9年間続いたこの「書評空間」も、システムの老朽化などで、4月20日をもって更新作業が停止されることになりました。この9年間、いろいろと支えてくださった読者のみなさんに感謝申しあげます。

 「書評空間」に参加することを勧められて、お引き受けしたのは、昨今まったく本を読まない文学部の学生の存在があったからです。文学部の学生が社会に出て戦力になるのは「読み書き」ができることで、最低、週に1冊を読むのは当たり前だ、と学生に常々言っていたからです。もう何年も言っても無駄だとむなしさを感じていたときだったので、自ら実践して示そうと思いました。最初の1年間、毎週更新をしたのは、そのためです。しかし、それまでの蓄積がある1年目はなんとかなりましたが、2年目には息切れがし隔週にしました。4年目になって、ようやく力が抜け、書けるときに書けばいいと思うようになりましたが、9年間、2週間以上空けることはまったくありませんでした。片道2時間の通勤時間を利用して、読書を重ねました。

 学生に「週1冊」のほかに言っていたのは、いまの時代に必要なのはスペシャリストであってジェネラリストでなければならない、ということです。文学部の歴史学教室に所属していた関係で、読書習慣が身についている学生のなかに、自分の専門分野の本しか読まない者がいることを知っていたからです。したがって、それも実践して示そうと思いました。なかには、最後まで読んでも理解できない本がありましたが、投げ出さずに最後まで読んだことで多少理解できたものもありました。もうひとつ、学生に伝えたかったことは、学ぶ姿勢です。本から学んだことを主体に書くようにし、批判はおさえることにしました。はじめは、著者目線で理解した後、本の内容を自分のことばで要約し、コメントを書くようにしました。草稿を書いてから2~3週間かけて改稿しアップしていましたが、だんだん引用文だらけで、書いてすぐにアップするという状況になってしまいました。引用文は1字1句照合して、原文通りにするよう努めていたのですが、それも2008年秋に右眼が硝子体剥離し、満足に校正ができなくなりました。充分なものを読者にお届けできない後ろめたさがありましたが、若い人たちが初めて書いた本を送ってくれると、紹介せずにはおられませんでした。励ますつもりだったのですが、逆にわたしが励まされていたようです。

 お蔭さまで、初対面の人になんども「書評ブログ読んでます」と言われ、自宅の前で撮った琵琶湖と比叡山を背景にした写真から、すぐにわたしに気づいてくれました。1年前に、職場が「都の西北」に変わり、自宅も池袋の繁華街の一郭に移って、通勤時間を利用した読書もできなくなりました。学生も大学院生だけ、7~8割が留学生で、国際関係学や地域研究を専攻、と激変しました。それでも、毎週または隔週にアップし、引きつづき生活の一部になっていました。更新停止にともない、今後どうするかについては、まだはっきりしません。もはや書評とよべないものですが、本の紹介は続けていきたいと考えています。書くことを前提に読むことと、ただの読みっぱなしだけとでは、理解力がまったく違うということを学んだからです。この体験から、学生に伝えたいことがもうひとつ増えました。「本を読んだら、ひと言でもいいから、なにか書く習慣を身につけてください。そうすれば、読み方がまったく違ってきます!」。

 長いあいだ、どうもありがとうございました。また、いつかどこかでコミュニケーションできることを願っています。

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『外交官の誕生-近代中国の対外態勢の変容と在外公館』箱田恵子(名古屋大学出版会)

外交官の誕生-近代中国の対外態勢の変容と在外公館 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 日本とアメリカのTPP(環太平洋経済連携協定)交渉が、長引いている。かつて、交渉力のない国は不平等条約を押しつけられたり、拒否して軍事力で受け入れさせられたりした。しかし、それが将来の紛争の原因のひとつになったことは、その後の歴史が物語っている。互いが納得して締結するためには、交渉に携わる人びとの知識と信頼関係が重要になる。だが、そのような人材は、はじめからいたわけではない。

 近代に欧米列強がアジアに進出したとき、日本(徳川幕府)にみられるように、はじめアジア各国は欧米と同じ土俵(近代法)で交渉することを拒否した。しかし、それがいつまでも通用しないことがわかると、近代法を学び欧米列強と対等に交渉しようとした。いち早く対応した日本は、近代法への対応が遅れていた朝鮮やシャム(1939年からタイ)に不平等条約を押しつけた。では、中国はどうだったのか。1880年前後に、日本と清国は、奄美から尖閣諸島を含むはずの先島諸島まで、琉球列島の帰属問題について交渉した。そのとき実際に交渉した人びとはどのような人で、それは今日の問題にどう繋がるのか。そのようなことも、わかるのではないかと期待して、本書を読みはじめた。

 本書「序論」冒頭で、著者、箱田恵子は、つぎのように本研究のきっかけを述べている。「科挙制度の長い歴史を有する中国において職業外交官はいかにして誕生したのか。本書は坂野正高が投げかけたこの問いに答えようとするものであり、またこの問いに答えることが近代中国外交史研究に対して有する意義を明らかにせんとするものである」。

 外交官試験制度がなかなか確立しなかった中国で、著者が注目したのは「一八七〇年代半ばから主要国に設置された清国在外公館」であった。その理由は、「在外公館こそが、清末の中国において西洋国際関係の受容に主導的役割を果たし、民国外交部の基礎を築いた職業外交官が誕生する母体となったからである」。「一国の代表機関である在外公館の位置づけが改めて問われなければならないのは、清末中国における外交のあり方が関係して」おり、「中国における外交のあり方、あるいは対外態勢の変遷については」、すでに「清末の三つの段階、つまり「夷務」「洋務」「外務」の時代を経て、民国の「外交」につながっていくと指摘」されている。それを踏まえて、著者は「清国在外公館と「洋務」との密接な関係」に注目し、つぎのように説明している。「ここで言う「洋務」とは先ほど述べたように、通商や軍事、そして外交を含む対外関係の総体を指す。「洋務」という近代化を目指す政策は本来、読書人や政府当局によって担われるべき政策であったが、伝統的支配原理に抵触するがゆえに、実際には中央政府ではなく、地方の総督・巡撫の主導のもとに展開され、それが近代中国の最大の特徴である地方分権化をもたらしたことはよく知られている」。

 「序章」では、先行研究の成果を整理し、本書の課題を最後につぎのようにまとめている。「国家の代表機関である在外公館も、実質的には地方の洋務機関である「局」と同じ体制外的機関としての性質を帯びており、特に両者は人材面で基盤を共有していた。馬建忠がそうであったように、在外公館の構成員の多くは地方督撫(総督・巡撫)のもとで「洋務」に従事していた人材であった。この体制外的機関が、二〇世紀初頭にいかにして正規の制度の中に定置されたのか、地方分権化をもたらした「洋務」と出自を同じくしながら、この在外公館からいかにして国家の統合を象徴すべき職業外交官が誕生したのか、この過程の中に中国において形成され始めた近代外交の特徴が反映されているだろう」。「本書では、以上のような問題関心に基づき、「洋務」の一部として始まった清国在外公館において、外交それ自体の価値が認識されていく過程と、この外交交渉の現場において外交人材が養成され、その中から民国外交部の基礎を築く職業外交官が誕生する過程を明らかにしていきたい」。

 本書は、序論と3部8章、補論、結論からなり、各部の冒頭に簡略な説明がある。「第Ⅰ部 清朝在外公館の設立」では、つぎのようにまとめている。「清朝による常駐外交使節および領事の派遣に至るまでの過程とその意味を改めて問い直し、徐中約の見解との差異を示したい。それにより、在外公館の開設を、中国による国際社会への仲間入りの最終段階ではなく、むしろその起点と捉え、それ以降の変化に重点を置く本書の問題意識を明らかにすることとする。これまでの研究史を方向づけてきた徐中約の研究を批判的に継承すると同時に、在外公館をめぐる研究の新しい方向性を提示したい」。

 「第Ⅱ部 一八八〇年代以降における中国外交の変化」では、3章にわたって駐米公使による在米華人襲撃事件に関する交渉、駐英公使の滇緬界務交渉を取りあげ、「一八八〇年代以降の清国在外公館では、西洋の国際関係を積極的に受容し、清朝をその中に位置づけようとする外交活動が展開されていたことを確認した」。「第Ⅲ部 「外交官」の誕生とその特徴」では、「民国における職業外交官の活躍に道を開いたとされる一九〇六~〇七年の外交人事制度改革を、一九世紀後半以来、在外公館で進められていた外交人材養成の流れとの連続性において捉え、職業外交官が誕生する過程を明らかにする」。

 そして、「結論」で、つぎの3点などを明らかにしたと述べている。「本書は、科挙の伝統を有する中国においていかにして職業外交官が誕生したのかという問いに答えるため、清国在外公館に注目し、常駐使節の派遣に至るまでの経緯から、設立後の在外公館において西洋国際社会に対する意識の変化と外交人材の養成が進み、そうした在外公館での変化を基礎として職業外交官が誕生するまでの過程を明らかにした」。また、「本書では個々の外交交渉をつなぎ中国外交の変容過程を総体的に捉えるため、在外公館の組織と人事に注目し、民国外交部の基礎を築く職業外交官が誕生するまでの外交人事制度の展開を動態的に論じた。その中で、日清戦争前から民初に至るまでの外交人材の人的連続性が明らかとなると同時に、連続していたのは人的構成だけでなく、国際認識や外交観においても連続性があることが認められた」。そして、「本書は在外公館を洋務機関と同様の性質を有するものとする観点を出発点とし、外交における「洋務」の位置を明確にせんとしたことで、これまで「夷務」の観念と「民族主義」的「外交」の観念によって分断され見落とされてきた清国在外公館の役割と、その中国外交における位置づけを明らかにした」。最後に、「このように、在外公館における職業外交官の誕生過程は、清末における中国の対外態勢の変容とその特質を端的に示しており、ここに職業外交官の誕生を問うことの中国外交史研究における意義があるのである」と、結んでいる。

 冒頭の日本との領土問題・国境問題について、具体的な回答を得ることはできなかったが、当時の清朝外交については、基本的なことが得られた。交渉相手国や対象国・地域でも、対応が違っていたことが、つぎの説明からわかる。「清朝の在外公館が主要国に設立された一八七〇年代後半以降、中国の周辺では危機が連続して起こる。いわゆる「辺境の喪失」である。それは、清朝中国を中心とする伝統的な国際秩序が「条約体制」の原理に基づく再編を迫られ、緩衝地帯たる朝貢国が清朝の宗主権から切り離されていく過程であった」。「だが、琉球やベトナム、朝鮮に関しては、清朝とこれらの国々との宗属関係をめぐり、日本やフランスとの間で激しい対立に発展したのとは対照的に、ビルマに関しては、清英間で締結された協定において、イギリスはビルマ人による清朝への朝貢継続を承認した」。

 また、「在外公館における外交人材の養成において、駐在地域によって差異が生じていた点も重要である」とし、そこから日本と中国の外交関係の歴史的原点の特殊性をつぎのように明らかにしている。「ヨーロッパの公使館では職業外交官の養成が進んだ一方、駐日公使館からはそのような人材がほとんど現れなかった。日本の脅威を契機として海防論議の中で常駐使節の派遣が決定されたにもかかわらず、当初は日本語通訳を養成するシステムさえ整ってはおらず、最初の日本語学校は中国国内ではなく、駐日公使館に併設された。駐日公使館で職業外交官が誕生しなかったことは、日本と中国の関係が結局は近代西洋的な外交関係とは異なるものであったことを端的に表していよう」。

 このように日本と中国の近代外交史の特色を明らかにすることによって、今後の外交関係がみえてくる。また、中国と国境を接する東南アジアの国ぐにとの歴史的な外交関係から、現在起こっていることが読み解けるような気がした。「あとがき」では、「次の目標」として「清末・民初の外交官たちの具体的な外交活動を検討すること」が掲げられており、そこから学ぶことも多いと期待している。

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2014年03月18日

『いのちの自然-十年百年の個体から千年のサイクルへ』森崎和江(アーツアンドクラフツ)

いのちの自然-十年百年の個体から千年のサイクルへ →紀伊國屋ウェブストアで購入

 本書は、この40年余に書かれた詩篇とエッセイからなる。著者、森崎和江の書いたものは、時代を感じさせない。当然、40年、30年前に書かれたものには、その当時の時代背景がある。しかし、それをいま読んでも時代遅れと感じさせないのは、いつの時代にもどの社会にも通用する「いのち」を語っているからであろう。

 その著者が苦しんだのは、その時代、その社会にしか通用しない「常識」であった。1927年に日本植民統治下の朝鮮で生まれ、育ち、敗戦前年の44年に福岡県立女子専門学校(現在の福岡女子大学)に入学して、はじめて「日本」を体験したときから、著者の闘いは始まった。「九州炭坑町で、自分とは何か、女として生きるとは何か、国家権力とは何かを問いつづけ」た。「さらに、異国で身を売って働く女性たち「からゆきさん」を訪ね、列島各地に残る「海人」「産小屋」などの民俗を明らかに」する「自分探し」の旅に出た。

 その結論の一端が、本書からうかがえる。「からゆきさん」について、「明治後期や大正・昭和初期にアジア諸国をまわった人々の書物に」、「「土民に見うけされ、すっかり土民ふうになっていてあわれである」と、しばしば書かれている」が、著者はつぎのように「からゆきさん」をとらえている。「からゆきさんに限らず日本の庶民の生活の基本は、生活する風土になじみ根づくことにあった。庶民階層のなかでエリート層がいちはやくその風土密着型から自立する意識と生活手段とを身につけたのである。けれどもそうした近代化から遠い人々は、どこで生きても、その地域の風土に生活と精神の糧を求めた。それはいわば日本土民から日本市民への脱皮に対して、どこに生きても土民たらんとする人々を思わせるのである。そしてからゆきさんの大半はこの基本型を維持していた人々であった」。その「からゆきさんのインターナショナルな感性もまた、大東亜共栄という発想にからめとられてしまう」。

 「海峡の島」では、「河向うという言い方」で、大陸のことを話す北部九州の海辺の人びとは、「文化だけではない。祖先は向うからやって来たにちがいないといって、村の氏神が上陸したという浜辺に碑を立てたり、祭りをしたりするところも残っている」。「このような感性は一代二代で育つものではない。また国家間の交流などで養われるものではないのである。そうではなくて、国家がどうであれ、食べものをやりとりする身近かな他人のようなかかわりを続けてきた時間の集積が、意識とは無縁なままからだのなかに溜まっているというようなぐあいなのである」。

 「韓国と九州の両岸辺を生活空間とし」、「あさげの菜をつむように、向うの生活とかかわった」対馬は、「敗戦とともにはじめてその生活空間であった朝鮮海峡を閉ざされたと言っていい。国家利益がぶつかりあう国境としての海峡を、直接生きるようになった。くらしの上で、海の幸山の幸をうばい合ってきた歴史は、反面では海の神山の神を共にしあう歴史であったから、対馬には古代朝鮮以来の信仰や風習の跡はふかい。またチェチェ島(済州島)は韓国にとっての海峡の島であり、文化的には韓国のなかの異国のような質をもっている。そのように、政治的罪業のふかさよりふかいくらしの上の交流がつづいていた海峡が、国境という空しくいかめしい、そして海の民の感性には縁のない次元で閉ざされたのである」。

 大学院生14人を連れて、韓国に行った。日本国籍6人、韓国籍2人、台湾籍2人、タイ国籍2人、アメリカ国籍1人、ポーランド国籍1人に、高麗大学の学生数人が加わって、史蹟、博物館、国立墓地などを訪ねた。「国籍」と書いたのは、著者のように、その国で生まれ育った者だけではないからである。「親日派」が多い台湾籍の者は、朝鮮の「日帝支配」にたいするあまりに根の深い韓国の反発に驚き、ポーランド国籍の者はドイツとロシアに挟まれたポーランドのことを思い浮かべた。日韓2ヵ国だけでなく、タイ国籍の者のように第3者が加わって、日本の朝鮮の植民地支配を考えた。著者の苦悩を理解できるグローバル人材が育ちつつあるのである。

 著者が2001年に書いたつぎのことばも、かれら・かのじょらは理解できることだろう。「時代は激しく動きます。コメ作りも、海の女神も影ばかり。海も空も地上なみの国境線の中で、生物の子産みは人間界も投資の対象めいていきます。文明摩擦も自然環境の破壊とともに、日々私たち個人に問いをつきつけています。予想もしないことに私たちは直面することでしょう。そして、だからこそ、「わたしとは何か」を自問しつづけたい、と私は思っています」。

 近隣諸国との交流は、長く深いだけに、負の面を取り上げはじめたら切りがない。共存したときのことを思い出し、その大切さを実感できるのは、未来を見つめる若い力だろう。そのとき、著者のようないつの時代にもどの社会にも通用する「いのち」をみつめ、問い続ける姿勢が役に立つ。

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2014年02月11日

『物語 ビルマの歴史-王朝時代から現代まで』根本敬(中公新書)

物語 ビルマの歴史-王朝時代から現代まで →紀伊國屋ウェブストアで購入

 現在の国名は、ミャンマー連邦共和国。2010年からの正式名称である。1989年に国名がビルマからミャンマー、首都名がラングーンからヤンゴンに変わったことは知っていても、1948年の独立後正式名称が何度も変わり、国旗のデザインも1974年の変更を経て2010年に一新したことを知る日本人は少ない。正式な国名は、1948-74年はビルマ連邦、1974-88年はビルマ連邦社会主義共和国、1988-89年はビルマ連邦、1989-2010年はミャンマー連邦である。いずれの国名にも、「連邦」がつく。帯に、「多民族・多言語・多宗教国家の歩みをたどる」とあるゆえんである。

 その連邦国家の歴史を語るにあたって、著者、根本敬は、「「地球市民」の視点に立つ「グローバル・ヒストリー」や「新しい世界史」の重要性が叫ばれる現代にあって、本書のように特定の国の通史、すなわち一国の歩みを時系列に沿って描くこと」でいいのか悩んだ。そして、「「一国を基本とする通史はいまも必要とされているのだ」と自分にいい聞かせ、あえて開き直るように、古いタイプの一国史記述を行うに至ったというのが私の正直な思いである」と吐露している。

 歴史叙述の流行は、当然、その時代や社会を反映している。しかし、「地球市民」を自覚するための歴史が優先される状況が、地球上すべてにあるわけではない。ミャンマー国民にとって、いま必要なのは、「地球市民」としてより「国民」としての歴史だろう。とは言っても、「地球市民」であることを、まったく無視することもできないが、「地球市民」としてのミャンマー国民を語るには、史料があまりに少なすぎ、しかも偏っている。独立後のビルマ/ミャンマーの歴史を語ることが、いかに困難であるかを知っている者は、本書のような「一国史」が書かれたことにまず驚かされる。17年かかったというが、あきらめずに完成させ、こうして読むことができるようになったことに感謝をしたい。

 本書は、「古い時代の記述は最小限に抑え、近現代史の叙述のほうに力を入れている」。その理由を、著者はつぎのように説明している。「現在の国民国家としてのビルマ(ミャンマー)の基盤が、その領域こそ王朝に由来するものの、国家のあり方や基本制度については、英領植民地の時代につくられたといえるからである。そのため、なぜ植民地化されたのか、どのような国家につくり変えられたのか、それによって何が破壊され何が押しつけられたのか、土着の人々の対応はどのようなものだったのかを、ひとつひとつ丁寧に見ていく必要があり、近現代史重視の構成を採用することになった。二十世紀に入って、ビルマ民族の中間層を中心に共有されたビルマ・ナショナリズムの思想や情念も、こうした植民地期の国家のつくり変えと、それに対する土着の対応の文脈のなかで見ていくことが課題となる。また、独立後の政治過程の叙述においても、ビルマが外から受けた影響を十分に意識しつつ、ビルマ・ナショナリズムの負の側面にひきずられながら、国家がさまざまな混乱と直面していく様相を見ていく必要がある」。

 本書の「分厚さに読む気をそがれ」た読者は、「本書の中に計二〇編ちりばめたコラムから読んでいただければ、ビルマの「歴史の香り」」を感じ取ることができる。「ビルマ人の名前」といった基本的なことからはじまり、「全ビルマ恐妻家連盟-永遠不滅の全国団体」という「明るく朗らか」なものまで、序章、終章を含む各章の終わりに、「歴史の香り」がちりばめられている。

 終章「ビルマ・ナショナリズムの光と影」では、「過去を知ったうえで未来に目を向け」、「この国が今後、乗り越えなければならない課題」を3つに集約している。まず、「連邦改革-少数民族問題と難民問題の解決に向けて」は、つぎのような認識からはじまる。「ビルマ・ナショナリズムはビルマ民族とその文化を中心に形成されたため、宗教としては上座仏教、言語としてはビルマ語、歴史認識としては旧ビルマ王国の記憶や面影を重視した。しかし、国内にはビルマ民族ではないさまざまな民族が住んでいることも意識され、彼らとともにひとつの安定した主権国家をつくる必要性が独立前からナショナリストたちのあいだでは認識されていた。問題はその表現として採用した独立後の連邦制が機能しなかったことである」。

 2つめが、「教育改革-従順な人間から自分で考える人間へ」である。「この国の教育問題はあまりに根が深く、単に時間がかかるだけでなく、明確なヴィジョンが示されない限り改革を進めることはできないといえる。ひとつは歴史的・文化的につくりあげられた人々の意識とつながる問題である。この国では「先生や年長者に従順な人間」を育てることが良い教育だとされている」。「こうした教育の伝統のなかでは、政治権力を握った者は、たとえ誰であれ、従順な支持者だけを「よし」とする考え方を持ちやすくなる。軍事政権がその最たるものだが、民主的な手段で政府が成立したとしても、指導者は国民の従順な支持を求め、ときに批判をする自律的なフォロワーを嫌うことになりかねない。そのため、いかなる人間がリーダーになっても、このままでは独裁化したり腐敗する危険性が生じる。政党やそのほかのあらゆる組織においても同じことが指摘できる」。

 3つめは、「経済改革-民主主義と協調する経済発展」で、「これは誰もが認める課題だが、どのように改革すべきかについて議論は深められていない」という。「日本をはじめ、いくつかの国々がビルマへの支援を表明し、経済改革に向けたアドヴァイスを行っているが、ビルマ側に(テインセイン大統領であれアウンサンスーチーであれ)改革に向けたグランドデザインをつくろうとする動きがいまのところ見られないため、そうしたアドヴァイスや支援プロジェクトを国家の経済発展に向けて有機的に活用できるのかが危惧される。ヤンゴンやその周辺では早くも乱開発が懸念され、投機資金の流入による土地バブルが生じている。この問題はとても深刻で、政治面での民主化努力と並行して、経済発展の将来像をビルマ政府が議会や国民に諮りながら具体化させる必要がある」。

 そして、最後に「排他的ナショナリズムの克服」を取りあげている。具体的には1982年国籍法の問題であり、イスラーム系少数民族集団ロヒンギャーの問題である。著者は、つぎのようにまとめて、終章を終えている。「二十世紀に擡頭したビルマ・ナショナリズムは、英国からの独立達成という面では前向きに作用し、独立運動を精神的に支える「光」として貢献した。そのナショナリズムは独立後、ビルマ連邦という主権国家に住む人々を「ひとつの連邦国民」として統合していく精神的なよりどころになるはずだった。しかし、現実は逆の方向に進んだ。ビルマ・ナショナリズムに内包された「影」の部分、すなわちビルマ民族中心の排他性が強くなり過ぎてしまい、ビルマが連邦としてまとまることをかえって阻害する結果になった。換言すれば、ひとつの「ビルマ国民」の形成という独立後の国家的作業に、独立闘争以来のビルマ・ナショナリズムが負の影響を与えたといえる。その犠牲者がロヒンギャーを含む数々の少数民族であり英系ビルマ人だったといえる。この国の未来は、自らのナショナリズムのなかにある強い排他性を、どこまで自覚的に制御できるかにかかっているといっても過言ではないだろう」。

 2011年の民政移管後、「アジア最後のフロンティア」として注目を集めるミャンマー。だが、その前途はけっして揚々たるものではないことが、本書からわかる。暖かい国民性を感じるとともに、ときに残虐な一面を見せることがあるミャンマーを、辛抱強く温かく見守ってきたのが近隣のASEAN諸国である。天然資源に恵まれ、災害の少ないミャンマーの平和と発展を、たんなる投資先とみるのではなく、大切なアジアの一員としてASEAN諸国、そして著者とともに見守っていきたい。

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2014年01月28日

『ラオス史』マーチン・スチュアート-フォックス著、菊池陽子訳(めこん)

ラオス史 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 日本の約3分の2の国土に、わずか632万人(2008年)が居住するラオスに注目するのは、それなりに訳がある。因みに、ラオスは、6億を超す東南アジアのなかでも、シンガポール、ブルネイ、東ティモールを除けば、人口のもっとも少ない国である。

 ラオス人民民主共和国の歴代の国家主席や首相の名前を、ひとりも知らなかった。それでも、専門は「東南アジア史」と言ってきた。19世紀末にフランス領インドシナ連邦に編入され、インドシナ戦争を経て1975年に共和制国家が成立したが、ベトナムの「付け足し」のような感じで、とくに関心はなかった。ところが、東南アジアの大陸部の歴史を知ろうとしたとき、国民国家の担い手になった低地の主要民族だけではなく、高地の「少数民族」に目を向けなければ、地域としての歴史も、それぞれの国民国家の歴史もわからないことがわかってきた。その「少数民族」の比率が高く、地形的にも高低差の大きいラオスが、東南アジアの大陸部を理解する要のひとつのように思えてきた。さらに、このような国家が「生き残る」ことが、今日のグローバル化社会に生きる個々の人びとにとって重要なことではないかと考えるようになった。

 本書は、「ラオス語以外で書かれた初の本格的なラオス通史」である。著者は、「国民国家ラオスを支えるナショナルアイデンティティーの形成にとって歴史叙述がいかに必要とされているか」、「序章」でつぎのように述べている。「ラオスは東南アジア諸国の中でも包括的ナショナルアイデンティティーの構築をイデオロギー的に支えるナショナリストによる歴史叙述が最も発達していない国となった。このことは、ラオスの歴史家にかなり重い課題を課している。近代ラオスの構造はもろく、ナショナルアイデンティティーのための確固とした支えを、おそらく包括的で一元的な歴史叙述に求めているからである」。

 「したがって、私はラオスの歴史叙述には、現在国際的に国民国家であると認められている国家の存在を支える「語り」が、今この時点で求められていると考える。この点において、私の考えていることはラオス国内だけでなく国外の難民社会におけるラオス人の願望、信念、確信をも反映していると信じている。もちろん、私が書いた歴史はラオスの人々に向けたものではない。そういう歴史はラオス人歴史家だけが書くことができる。この歴史は、国外に離散したラオス人の西洋化した子供たちを含め、外からラオスを眺める人々のために書かれたものである」。

 本書を読むと、ベトナムの「付け足し」でもなければ、自主性を奪われ、ただたんに従属していただけではないこともわかってくる。フランス植民支配下の状況は、つぎのよう説明されている。「直接統治の県においてさえフランス人官吏の数は非常に少なく(遠隔地にある小さな県ではたった3、4人であった)、フランスの統治は実質的に間接的であった。これは、ラオ・トゥン[山腹ラオ]やラオ・スーン[山頂ラオ]などの少数民族管理においてよりはっきりしていた。たとえば、ラメット族の場合がよく知られているが、上メコン内の県に居住するラメット族の小集団に対してフランスはラメット族のムアン[くに]を創設し、ラメット族の村長を任命した。そのムアンはラオ人のチャオ・ムアン[地域の支配者]の管轄下にあったルー族の徴税人によって監督された。そして、そのチャオ・ムアンはほとんどがベトナム人である県の行政職員に報告をした」。

 また、1975年に立憲君主制から共産主義の人民共和制に体制が移行したときは、ベトナムのように「革命」的ではなかった。「前国王のサワンワッタナーを国家主席(大統領)顧問に、そしてスワンナプーマーを政府顧問に任命することで、王制から人民共和制への移行に伴う急激な変化を緩和させるための努力もなされた。前皇太子のウォンサワンは最高人民議会の構成員に任命された。前政権の指導者たちは、こうして、彼らの威光と人気を新政権に付与するために利用された。ルアンパバーン王家の王子であるスパーヌウォンが新生共和国の国家主席の地位に就任したこと、そしてほんの少し歌詞を変えただけの前政権と同じ国歌と、ラオス王国政府の旗(頭が3つある象の図柄)に代わって前ラオ・イサラ[自由イサラ]旗の採用が決定されたことで、さらに継続性が強調された」。そして、「1976年中頃までに、[首都]ビエンチャンに住んでいた2万人の中国人と1万5000人のベトナム人の半数が、資産を金(きん)に換え、身に付けて去った」。

 本訳書の原著は、1997年に出版された。その最後は、つぎのような文章で終わっている。「ちょうどラオス王国体制下でもそうであったように、ラオス人民革命党は、国民が統合とアイデンティティーの意識を強く持つようになることを最優先にしていた。政治文化全体の発展に関していくらかの進歩は見られたが、少数民族の生活水準向上という約束を果たせなかったことと地域主義によって、せっかくの成果が損なわれる恐れがあった。政府が国民和解に立ち向かうことに気乗りしなかったのは、教育を受けたラオス人はラオスよりも海外に多く居住しているからで、一方、国のほうは、ある国への依存から他の国へ-アメリカからソ連、ベトナムへ、さらにタイ、中国、世界銀行へと依存先をそっと移していた。ASEANへの加盟は、ラオスに逃げ場と脅威の両方を提供した。逃げ場というのは、加盟国としてラオスに地域的な援助が与えられるという意味であり、脅威というのは、経済的統合が加速化することでラオスの独自性が大きなタイ文化に吸収されてしまうかもしれないという意味である。しかし、ヨーロッパ連合の中でルクセンブルクが他とは異なる存在として生き残っている以上、東南アジアの中でラオスもまた同じような意味で「生き残る」ことができるであろう。ラオスに準備ができていようといまいと、将来的に地域の他の国々とより密接に一体化していくことは避けられないであろう」。

 さらに、2010年の日本語訳出版に際して書き下ろされた「終章」は、つぎの文章で終わっている。「行政の至る所で汚職が蔓延しているので政府予算が吸い上げられ、保健、教育、社会サービスの分野は資金が欠乏している。NGOや2国間援助がその隙間を埋めているが、党のエリートがその問題に取り組もうとしないのを見て援助供与国ががっかりしてしまう恐れがある(2008年、スウェーデンはラオスに対する援助計画の終了を発表した)。もしも将来の経済発展の恩恵、特に期待の水力と鉱物からの歳入がより公平に配分されるべきであるとしたら、改革とそれをやりとげる指導体制が絶対的に必要である。しかし、ラオス人民革命党がその任務を成し遂げるために不可欠な政治的意思を持ちあわせているということを示す兆候はほとんどない」。

 著者の「ラオスへの愛着ゆえの厳しさ」をもって、こう書かざるをえないのは、本書を通読すればわかるだろう。だが、たとえ、国家としてのラオスが生き残ったとしても、そこに居住する「国民」が生き残れるとは限らない。そのことは、このグローバル化時代の格差拡大社会のなかで、どこの国民も同じことが言える状況になってきている。ラオスの将来は、他人事ではないことを認識することが必要だろう。また、有力一族の主導権争いが統合の弊害になっている国は、東南アジアなどどこにでもある。グローバル化時代の国民統合とはなにか、近代の国民統合とは違う次元で考える必要がありそうだ。

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2013年12月31日

『<群島>の歴史社会学-小笠原諸島・硫黄島、日本・アメリカ、そして太平洋世界』石原俊(弘文堂)

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 「捨て石」ということばが気になった。第4章「冷戦の<要石>と<捨て石>」の「おわりに」で、著者、石原俊は、つぎのように繰り返し「捨て石」ということばを使っている。「小笠原諸島・硫黄諸島はアジア太平洋戦争において、ミクロネシアの島々や沖縄諸島などとともに日本内地の防衛と「国体護持」の<捨て石>として利用され、住民は難民化や軍務動員を強いられた。そして両諸島は「サンフランシスコ体制」の形成過程で、沖縄諸島などとともに米国の軍事利用に供され、日本の再独立・復興の<捨て石>として利用された。これによって両諸島は米軍の秘密基地として使用され、米国の戦略的信託統治のもとで核実験などに軍事利用されたミクロネシアの多くの島々と同様、島民たちはディアスポラ化(故郷喪失・離散)を強いられた。さらに、日本への施政権返還後も硫黄諸島民の難民状態は継続し、ポスト冷戦期の米軍再編のなかでかれらは帰郷の望みをほぼ断たれ、徹底的に<捨て石>とされていった。小笠原・硫黄諸島民はいわば<日米合作>の形で、幾重にも<捨て石>とされてきたのである」。

 著者の主要な関心は、「19世紀から現代にいたるグローバリゼーションの展開のなかで、島嶼社会や海洋世界を拠点に生きる人びとが、世界市場・資本制・主権国家・国民国家・近代法といった近代的な諸装置の力に巻き込まれながら、どのように生きぬいてきたのかという問いにある。主な研究対象のひとつは、東京都心から約1,000km南の北西太平洋上に位置し、父島・母島とその周辺の島々からなる小笠原諸島である」。「また、父島から約250km南に位置する硫黄島や北硫黄島などからなる硫黄諸島(略)についても、近年研究対象としている」。「本書は、グローバリゼーションと植民地主義の前線でユートピアとディストピアをくぐりぬけてきた小さな群島からの<近代の定点観測>の試み、すなわち小さな群島の眼からアジア太平洋世界の近代を描き直す試みである」。

 本書は、著者が2007年に出版した『近代日本と小笠原諸島』(平凡社)以降に発表した「小笠原諸島・硫黄諸島の歴史社会学的/社会史的研究にかかわる拙稿と、群島世界や海洋世界とりわけ間太平洋世界の近代について論じた拙稿に基づいている」。『近代日本と小笠原諸島』との違いは、つぎの2点にまとめられている。「1点目は、小笠原諸島の先住者とその子孫たちに照準した前者で正面から扱うことができなかった、小笠原諸島民の状況について、本書では多くの紙幅を割いて言及した点である。2点目は、本書では小笠原諸島民・硫黄諸島民の近代経験を、前者のように日本国家との関係に照準するのみならず、間太平洋世界そして「海」におけるグローバリゼーションと植民地主義の文脈-いまふうにいえばグローバルヒストリーの文脈-に、積極的に定位しようと試みた点である」。

 本書で扱う19世紀から、海域に陸域の「国民国家」が帝国的野心をもって進出してきた。その正当性を支えたのが、ヨーロッパ近代法であった。そのことを、著者はペリーの小笠原諸島領有計画に関連して、つぎのように述べている。「ペリーの入念な行動が、19世紀当時のヨーロッパ公法の展開を意識した領有の手順をふんでいる点にある。前章[第1章「世界市場と群島のエコノミー」]でふれたように、「異教徒」の土地に対するローマ教皇の管轄権を正当化根拠として非ヨーロッパ世界の領有権を主張していた、スペイン・ポルトガル勢力に対抗するために、英仏蘭各国は先占の法理を掲げて、「無主地」を「占有」し継続的に利用した人が帰属する国家が、その土地の排他的な領有権を取得することを正当化しようとした。これに対して、19世紀に入るとさらに後発の植民地帝国であるドイツなどが英仏蘭に対抗するために、「無主地」の領有権取得の条件として「占有」よりも強い「実効的先占」を求めるようになっていた。ドイツと同様に後発帝国であった米国のペリーも、こうした「実効的先占」の論理を意識した行動をとったと思われる。ペリー艦隊は日本(徳川幕府)を含む各国に先立って初めて、小笠原諸島とその住民に対して本格的な主権の行使を目指したのである」。

 小笠原諸島を含む「無主地」は、こうして帝国列強の領有するところとなった。だが、ヨーロッパ「公法」への対応が遅れた中国や朝鮮などは、「主権を行使」する機会を失った。尖閣諸島も竹島も、その機会を失った国ぐにが、いま「主権を行使」しようとしている。「島」「諸島」「群島」「島嶼」、陸の論理でさまざまに表記される「空間」は、そこに居住する人びとにとってどういうものか。本書からも、近代国民国家が主張する「空間」とは、まったく別次元の空間があるように感じられる。

 本書の帯には、「領土問題を考えるための必読の1冊!」とある。

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2013年12月10日

『中国抗日映画・ドラマの世界』劉文兵(祥伝社新書)

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 「中国では、なぜ抗日をテーマにした映画・ドラマが製作されつづけるのか?」「中国人が抱く日本へのネガティヴなイメージを作り上げた根本的な原因が、両国のあいだの政治的摩擦よりも、そもそも日中の歴史問題にあったのはいうまでもない。戦後生まれの中国人が日本に対して抱いているイメージは、戦争経験者の証言や、学校での歴史教育にくわえ、そのかなりの部分が映像によって形成されている」。「二〇一二年の一年間、中国全土をカバーする衛星テレビ放送のゴールデンタイムに放映されたドラマおよそ二〇〇作品のうち、七〇作品以上が抗日ドラマであった。しかし、そのほとんどの作品は、超人的英雄としての中国共産党軍と、残忍だが愚かな日本兵の対決という、一定の図式のもとで、過酷(かこく)な歴史をエンターテインメント化しているという傾向が目につく」。

 本書は、抗日映画・ドラマの歴史的変遷を整理したもので、著者劉文兵は、つぎのように「あとがき」でまとめている。「抗日映画(ドラマ)は、過酷な戦争やそれに対する中国国民の生々しい記憶を映しだすドキュメントであり、またつねに中国国内政治や日中関係、国際関係の変化に左右され、多大な抑圧にさらされるプロパガンダでもあり、さらに勧善懲悪的な痛快さと軽やかな娯楽性に彩られたエンターテインメントでもありました」。

 政府が見せたいもの、一般の中国人が見たいものは、つぎのように説明している。「中国政府が見せたい抗日戦争の歴史とは、どのようなものか。それは、中国共産党の指導によって苦難の末に勝利を得て、ようやく安寧(あんねい)の日々を取り戻したという努力の歴史にほかならない。そのため、日本軍の残虐さと侵略の不当性を訴えつつ、その犠牲の上に今日の平和と繁栄が築(きず)かれているという両面が描きだされなければならない」。「いっぽう、一般の観客や視聴者からすれば、重苦しいドラマよりは、カンフーの達人がさっそうと日本兵を倒す痛快な活劇のほうが楽しい。抗日ドラマを日常のうさ晴らしとして観たい。そのため、ドラマのストーリーや表現はしだいと過剰になり、公式の歴史像から逸脱(いつだつ)する結果となっていた」。

 しかし、視聴者は、これらの「抗日」ものを、けっして「史実に基づくドキュメンタリー的なドラマ」としてとらえているわけではない。「史実に基づくフィクションであることを、観る側もつくる側も認識したうえで、ファンタジーの世界を消費しているわけである。しかし、フィクションだということが分かっているにせよ、視聴者が知らずしらずのうちに、そうした短絡(たんらく)的な思考法に染まっていくという潜在的な影響が考えられる」。

 そして、冒頭の問いにたいして、著者はつぎのように答えている。「日本兵を悪役とした抗日ものだけは、いつの時代になっても絶えることがなかった。中国にとって、抗日ものが孕む対外的なメッセージ性を配慮する必要はないかのようだ。少なくとも日本に対してはそうである。なぜなら、日本はかつて明白な加害者だったからだ。そういう意味で、旧日本軍は、敵としてあつかいつづけても問題の少ない安全牌(ぱい)である」。

 しかし、このようなことはけっして好ましいことではないことを、著者はよくわかっており、さらに日本にたいしても、つぎのように述べている。「他者のまなざしを取り入れることのないまま、単純な物語がひたすら内向きに広がっていくという傾向は、けっして健全ではない。それは、中国の抗日ドラマだけではなく、日本の歴史表象についてもいえるだろう」。「たとえば、第二次世界大戦をあつかう、近年の日本の戦争映画やテレビドラマでは、侵略の過程における日本人の加害者・収奪者としての側面が、まったくといってよいほど無視されている。つまり、加害の史実そのものが表象の舞台から排除されているのだ」。「批判的な自己認識の前提としての他者のまなざしを考慮することなく、自己愛的な物語をひたすら内向きに消費しつづけるという点において、日本の歴史表象は、中国の抗日ドラマと同じ位相(いそう)にあるといえる。否、加害の史実まで隠蔽(いんぺい)し、否認する歴史修正主義の傾向がさらに批判されるべきであろう」。

 最後に、著者は「あとがき」で、つぎのように今後のあり方を述べている。「閉鎖的な状況のなかで、私たちは政治やメディアに左右されることなく、相手国に対する冷静な判断力を涵養(かんよう)しなくてはなりません。そして、メディアがつくり出したイメージとは異なる相手国の実像に触れ、新しい交流の回路を模索し、それを地道に積み上げていくしか道はないのではないかと思います」。

 著者のような中国人がいるかぎり、「反日」はまったくなくなるとまではいえないが、いずれおさまっていくことだろう。隣国同士は、日中にかかわらず、愛憎半ばで、良い関係のときはそれができるだけ長くつづくように努力し、悪いとき冷静に静まるときを待つしかない。その基本は、互いに良いところを認め、尊重しあうことだ。本書を通じても、「抗日」のなかに日本/日本人の優れた部分を認めている場面があった。けっして、一方的な目で見ない限り、好転の機会は訪れる。そう信じたい。

 著者は、「近年の日本の戦争映画やテレビドラマでは、侵略の過程における日本人の加害者・収奪者としての側面が、まったくといってよいほど無視されている」と述べているが、『ビルマの竪琴』(竹山道雄、1947-48年に雑誌連載、56年85年に映画化)にみられるように、敗戦直後からその傾向はあった。その意味で、日本側の戦後責任は重い。また、著者が心配している「加害の史実まで隠蔽(いんぺい)し、否認する歴史修正主義の傾向」が、特定秘密保護法で強まるなら、日本への信頼はさらに低下し、抗日ドラマは今日の問題としてつづくことになる。

 いっぽう、中国人留学生に訊くと、若者には抗日ドラマは人気がないという。しかし、夫婦共働きで、子育てを祖父母に任せている家庭では、祖父母とともに幼子が抗日ドラマを観ている。「西から昇ったお日様が東へ沈む」ではじまる人気漫画の主題歌を、日常生活で東西南北を意識しない都会の子どもたちが、ずっと信じていたという話がある。「刷り込み」の影響が、将来出るのかでないのか。「ギャグ」として、笑い飛ばせる余裕があるといいのだが・・・。

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2013年12月03日

『アジア主義は何を語るのか-記憶・権力・価値』松浦正孝編著(ミネルヴァ書房)

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 「アジア主義」を、まず世界史のなかに位置づけたこと、さらに今日の地域主義と結びつけて時事問題を考えるためにも有効であることを示したことが、本書の特徴であり貢献である。日本学術振興会科学研究費補助金(基盤A)助成プロジェクト(「アジア主義のビジョンとネットワークに関する広域比較研究」)で、ここまでできるという見本のような成果が、本書である。

 相対化すべき従来の日本のアジア主義研究を、編著者松浦正孝は、つぎのように「序章 「アジア主義」の広域比較研究」の冒頭で述べている。「これまでの日本のアジア主義研究では、主に日本の侵略・戦争をもたらしたイデオロギーを、思想史の文脈で分析することが中心であった。アジア主義は、西洋帝国主義による侵略に対してアジア連帯を呼びかける良い面も持っていたが、それが次第に日本による侵略のイデオロギーとなり、その残滓が戦後にも日本資本主義による「大東亜共栄圏」の復活として噴出してくる。そのような言説が、従来のアジア主義に関する思想史的研究のステレオタイプとしてあったように思われる。そして、アジア主義とは、日本を中心としたアジアへの膨張・連帯のイデオロギーであることが、自明の大前提であった」。

 「本書の内容の紹介と、本書や本研究から得られた成果をもとに検討を加えた理論的考察」については、76頁にわたる「序論」に記されている。「本プロジェクトの最終的な目的は、アジア主義の広域比較研究を通じて、各地域のアジア主義やその背景にある自民族中心主義を克服して相対化し、それによってアジア、ひいては世界における各民族、各国家の共生の可能性と条件を探ることであった」。そして、「本プロジェクトを通じて得られた印象」をつぎの2つにまとめている。

 「第一に、比較研究をすることだけでも、我々の意識に変化や化学反応を起こすことができるのではないか、ということである」。「各報告者も、報告を準備する段階で、自分の研究を広域比較研究の場に置き、理論化を含めた可能性を模索する作業を意識するであろう。報告する側も聴く側も、相対化の訓練をしなければならなくなる。議論をする中で、さらなる対話と自己抑制的な考察に身を曝さなければならなくなるから、多くが自民族を扱うアジア各地からの研究者から成る広域比較研究というアプローチをとることは、予想以上の効果を産むことになると考えられる」。

 その研究成果を時事問題にまで広げて考えることを、編著者は領土問題を例に、つぎのように述べている。「成熟し信頼し合う、国民から委任された当局者同士の相互関係がない場合には、歴史認識問題にもつながる具体的なイシューを二国間で議論することによって実りある結果を産むことは難しい。しかし、日韓・日中の共同歴史研究の短い歴史を見ると、対話を重ねることを通じて、双方がどのようなことを問題としているのかを始めとしてお互いに差違を持っていること、そしてそれぞれにとってそれらの差違が大事であることは、少なくとも研究者同士でなら、ある程度認識できることがあるように見受けられる。ナショナリズムを動員する感情的な論争に歴史や政治を性急に巻き込まないためにも、まずは各種の専門家レベルでの対話を増やしていき、その後徐々にその成果を広げていくべきではないだろうか」。

 第2の印象は、「アジアの地域統合、あるいは平和的共存を考える場合には、成熟した世論に基づく公式の討論、西洋的価値観に基づく「民主主義」的で公開された外交交渉などに基づく手続きとは異なる回路を考えることも、必要ではないかということである。アジアという共通の場を有しているからには、友情を含む情念のレベルで、何らかの錯覚が生まれる可能性もあろう。これは、アジアを他の地域と対抗させようということではない。本書で明らかにしてきたように、アジア主義の歴史は、地域主義が、非常に政治的に操作の装置として極めて大きな力を持ちうることを示してきた。それは、対立を増幅させるための歴史であるばかりではないはずである」。

 「このプロジェクトの出発点であり、また目的でもあった」のは、「一度、アジア各地域における様々なアジア主義、言い換えれば、自らの地域を中心として多様な場所から見える「アジア」の風景とその中にある自己認識とを集め、その中に日本のいわゆる「アジア主義」を置いて相対化することで、アジア主義とは何かを再考してみよう」ということであった。

 その結果、「アジアの多様性・複雑性を示しつつ相違を類型化する図式として、様々な理論化を準備する切り口や枠組みを、ある程度見つけることができた。たとえば、「アジア」以外にも色々な地域的枠組みを持っている中国・ロシア・アメリカ、「アジア」よりもまず普遍主義的な枠組みへと向かうインド、常に「アジア」「アジア主義」という括りを考えながらも「アジア」と自らを切り分ける傾向のある日本、大国の狭間にあって「アジア共同体」のような枠組みを発信し続ける韓国・東南アジア、といった国々の違いが析出されてきたことは、本プロジェクトの一つの成果と言えるであろう」。「第二に、時間軸において、これまで曖昧にされてきた戦前と戦後との関係について、その連続性を論じることもできた」。「第三に、空間軸において広域にわたった事例を扱い、ユーラシアやイスラームといった広域圏、アメリカ・イギリス・オーストラリア・ロシア(ソ連。但し、ロシア・ソ連の場合はアジアとの関係が他とはやや異なる)といった域外要因や加入要因、複数の異種ネットワークが接触・交錯する「コンタクト・ゾーン」などの多くの論点に触れることができた」。

 全5部(「アジア主義とは何か」「西洋への対抗・競争としての「アジア」」「中国をめぐる「アジア」観」「日本帝国とアジア主義」「戦後アジア地域秩序の形成」)、28章からなる本書の全体像を紹介することは容易ではない。編著者は、各章ごとに工夫して、つぎのような見出しをつくり、要領よくまとめている。「ネットワークとしてのアジア主義」「アジア主義の両面性と補完性」「韓国における「東アジア論」と「東アジア言説」」「モンゴルにおける「帝国の記憶」」「ヨーロッパとアジアの狭間としてのロシア」「西洋列強と対抗するアジアに期待したハワイ」「アジア概念から自由な多様性としてのインド」「オーストラリアが創り出したアジア人包囲網」「戦前のアジア主義に無警戒だったイギリス」「西洋との対抗のため結びついた汎イスラーム主義と汎アジア主義」「汎イスラーム・汎アラブ・汎アジアを結びつけたパレスチナ問題」「日本のアジア主義から日本盟主論を削ぎ落とした中国知識人」「アジア認識の稀薄な中国」「東南アジアでの通商競争における華商と日本との提携の可能性」「覇権に従いダイナミックに変化するアジア空間」「アジア観念が重要ではなかったガーンディー」「朝鮮キリスト教のアジア主義における役割」「汪精衛政権のアジア地域概念」「台湾知識人の日華親善論・東亜平和論における二面性」「大川周明に汎アジア主義への転回とインドとの出会い」「相互理解なき打算によるアジア主義とイスラーム主義との交錯」「満州事変による汎アジア主義とトゥーラン主義との接合」「自国利益のための汎アジア主義と大タイ主義との野合」「日本の汎アジア主義の悪夢から生まれたスターリンのアジア主義的政治操作」「大亜細亜主義の延長および反共主義としての戦後のアジア主義」「アジア主義との対決の歴史とアジア太平洋国家化の間で苦しむオーストラリア」「アジア内部に浸透するアメリカとこれへの反発」「「四つの論理」と「三つのアジア」」。

 編著者は、「研究会を進めるにつれ、同じ地域の「アジア主義」を扱っても、研究者によってその見解は異なるし、「アジア主義」についての捉え方もそれを捉える人の数だけある、ということがさらに明確になってきた。アジア主義は、定義づけによってどこまで客観的で比較可能な概念になり得るのだろうか。それは、本プロジェクトにとって、永遠の課題でもある」と述べている。本プロジェクトだけでなく、学問上のキーワードとなるものは、その定義づけを明確にしておかなければ、その時代、社会、人びとによって都合のいいように使われ、紛争のもとになる。編著者が、繰り返し今日の問題と照らし合わせながら論じているのも、その危険性を充分に認識しているからだろう。その意味で、「永遠の課題」のために労を惜しまず、本書をまとめた編著者に敬意を表したい。

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2013年11月12日

『植民地近代性の国際比較-アジア・アフリカ・ラテンアメリカの歴史経験』永野善子編著(御茶の水書房)

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 朝日新聞DEGITALは、10月23日につぎのように報じた。「韓国教育省は21日、いったん検定に合格した8社の高校用歴史教科書について、日本の植民地支配や北朝鮮などに関する記述を変更するよう求めた。合格後、一部の教科書について「親日的だ」「北朝鮮に甘い」などの批判が上がり、全体を見直さざるを得なくなったとみられる」。「最も多く修正・補完を求められたのは教学社の「韓国史」。事実関係の間違いもあるが、注目を浴びたのは日本の植民地支配などに関する記述だ」。「「日帝の植民地支配が続くほど、近代的な時間観念は韓国人にしだいに受け入れられていった」との記述は今回、「『植民地近代化論』を擁護する記述と誤解される素地がある」と指摘され、植民地支配による収奪という背景を書くよう求められた」。

 その「植民地近代性」を国際比較を通じて論じたのが本書で、「序にかえて」はつぎの文章で始まる。「日本ではこの一〇年間、朝鮮史研究を軸として、「植民地近代性」について多くの議論が展開されてきた。さまざまな解釈が可能であるものの、一般論として、「植民地近代性」の概念は、植民地的要因が植民地時代に限定されて存在するのではなく、植民地以後にも残滓として各社会の底辺を形づくっている点に着目している。「ポストコロニアル」という概念が、こうした植民地遺制の否定的側面を強調し、それからの脱却の道を模索する思考様式をもつのに対して、「植民地近代性」の概念は、植民地時代に外部から導入され、あるいは新たに創造された諸要因が、独立後に各社会における自律的要素として自己展開し、その社会の中枢的構造をかたちづくっているという現実を直視する」。

 「本書は、近年におけるこうした研究の新潮流を踏まえて、「帝国」、「植民地主義」、「ナショナリズム」、「国民国家」、「脱植民地化」、「エスニシティ」などの議論と接点をもちながら、アジア・アフリカ・ラテンアメリカの諸地域における植民地近代性のありようについて実証的考察をおこなうことをめざした共同研究の成果である」。

 本書は、10章からなる。第1章、第2章は、「植民地統治下台湾で育った沖縄人知識人と日本の朝鮮支配のもとで生まれ日本で教育を受けた在日朝鮮人の思想的軌跡をたどった労作である」。第3章、第4章は「フィリピンにおける歴史研究の脱植民地化の歩みと植民地文化史上における短編小説の意味について考察した論考である」。「第5~7章の三篇の論文は、マラヤとタイの農村を舞台として植民地近代性への接近を試みたものである」。第8章、第9章は「アフリカを対象とした人類学研究から植民地近代性論の是非を説いている」。そして、第10章は、「ラテンアメリカにおける脱植民地化への軌跡を歴史的に跡づけた論考である」。

 こうしてみると、植民地経験もさまざまで、その語られ方もさまざまであったことがわかる。朝鮮や沖縄のように王国が植民地にされたもの、フィリピンや台湾のように植民地化を経て国家としてのまとまりが形成されたもの、「植民地化」とともに「村の中の国家」と表現されるようにコミュニティーが国家的な制度に包含されていったもの、「国民」不在のなかで国民国家が形成されたもの、独立後に脱植民地化を模索したもの、などである。

 植民地が独立して数十年が経ち、独立に至る過程を重視した歴史から、それぞれの国の独自の歴史的発展を語る歴史へと変化してきている。韓国では、保守派と左派の対立が激化し、日本の植民地支配を否定的に語るだけでなく、中国の属国であったことも重視しなくなってきている。いっぽうで、ナショナルヒストリーの語られ方から離れて、アセアン各国のように統合を念頭においた近隣諸国との関係を重視した地域史が重要になってきているところもある。また、グローバル化のなかで国家の役割が相対的に小さくなり、日常生活でも国家を意識しなくなるようになると、国家が語る歴史の偏りに嫌気がさして歴史離れが起こっているところもある。

 このような状況のなかで、「植民地近代性」という共通課題のもとで議論をおこなうには、まず「植民地経験の複雑な諸相」を実証的に明らかにする必要があり、本書はその意味で重要な貢献をしたことになる。朝鮮だけを念頭においた「植民地近代性」論は、普遍的な議論に結びつかない。植民地支配をした側の帝国中心史観から脱するためにも、広範な議論を経て、それぞれの植民地史の特色を明らかにしたうえで、自国以外の読者にも通用する書き換えが可能になることだろう。

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2013年10月29日

『戦争記憶の政治学-韓国軍によるベトナム人戦時虐殺問題と和解への道』伊藤正子(平凡社)

戦争記憶の政治学-韓国軍によるベトナム人戦時虐殺問題と和解への道 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 本書を読んで、韓国は日本の植民地支配や従軍慰安婦問題など、日本にとっての負の歴史を持ち出して批難・攻撃する資格はない、などと考える人は、これからのグローバル化した協調社会のなかで生きていくことを、自分自身で難しくしていくことになるだろう。国家においても社会、個人においても、なにかしら「負の歴史」は存在するもので、それをほじくり出して批難・攻撃すれば、互いの中傷合戦に終始し、成熟した関係を築けなくなる。著者、伊藤正子は、「あげあし」をとることではなく、そこから日本が学ぶことを本書の目的にしている。

 いっぽう、「過去にフタをして未来へ向かおう」というベトナム政府の方針も、続けていくことはもはや困難である。「ベトナム戦争で韓国軍が虐殺行為を行っていた」という事実が明るみに出たのは、1997年にホーチミン市で大学院修士課程に入学し、ベトナム史研究を始めた韓国人女子留学生ク・スジュン(具秀姃、1966年生まれ)が共産党政治局の内部資料「ベトナム南部における南鮮軍の罪悪」を入手したことがきっかけだった。韓国とベトナムの学生交流もさかんになり、2013年6月末現在韓国のベトナム人留学生は3450人で、前年同期の3044人から増加した。また、わたしが所属している留学生が8割近くを占める大学院アジア太平洋研究科修士課程で、韓国人とベトナム人が机を並べていることも珍しいことではない。このように交流の活発化したなかで、過去にフタをすることは不可能で、逆にフタをしようとすればするほど新たな負の歴史が明るみに出てくることになるだろう。

 本書の内容と目的は、帯の表と裏で的確に要約されている。表は、「「残余の記憶」の語り方、交錯、そして抗争」と大書し、その上につぎのような説明がある。「ベトナム戦争で韓国軍が虐殺行為を行っていた-『ハンギョレ21』[週刊誌]の告発は韓国世論を戦慄させ、事実の解明と謝罪を求めるNGOの活動と、「正義の戦争」に拘泥する保守派の反発を招いた。そして被害者であるはずのベトナム政府は経済発展を優先し、事件を封印している。戦争をめぐる記憶のあり方は、同様の問題をいまだ抱える日本にも新たな視座を提示する」。

 「本書の目的は(中略)韓国社会を鋭く割った言論の対立の構造を解きほぐし、自国の負の歴史を直視することの困難さについて考察することにある。(中略)「自国の負の歴史を直視すること」がいまだできているとは言い難く、国家として過去の植民地支配や戦争について、周辺国・地域との和解を成し遂げることができない日本にとっては、この問題は他人事ではないからである。『ハンギョレ21』の試み、そしてそれに続くNGOを含めた謝罪活動と未来の平和へ向けての地道な努力から学ぶべきことは多いはずである」。

 この事件を明らかにした韓国人留学生にしろ、本書の著者にしろ、迷いがあった。ともに、日本も韓国も「成熟した社会」になっていないからである。留学生は、「ベトナム側の一方的な報告書であるかもしれないので検証が必要だと考えたこと、さらには韓国人には、自分たちは外国を侵略して他国に迷惑をかけたことはないとの「神話」があるため、ベトナムで虐殺事件を起こしていたことを公表することで、社会に与える衝撃をはかりかねたこと、また日本の嫌韓右翼に利用されてしまうのではないかという懸念があったからである」。

 いっぽう、著者の迷いは、つぎのように「はじめに」で述べられている。「この問題を日本で取り上げるのは、韓国ではこの問題が依然として「扱いにくい」タブーであるからである。外敵に侵略されることが多かった歴史のために、韓国には自分たちはいつも「被害者」であったとの「神話」ができ上がっている。その歴史認識を覆し、自分たちも加害者側に回ったことがあるという事実を認めることは、相当な心の葛藤を伴うものである。加えて、この問題を否定する参戦軍人たちの団体の中には、暴力的な行動をとるところもあり、韓国人が韓国でこの問題を取り扱う場合には、実際に身の危険が生じる可能性さえあり、相当の勇気と覚悟、信念が必要である」。

 さらに、韓国側だけでなく、ベトナムにも複雑な様相があり、それを示すことが、ベトナム地域研究者としての著者の第2のより大きな目的となると、つぎのように説明している。「被害者ベトナム側も、各級行政組織(国家、省<日本では県に相当>、県<日本では郡に相当>、社<行政村>、村<自然村>、集落)や、また地域によって、そして時間の経過によっても、韓国軍の虐殺行為に対して、実はバラバラの記憶の語り方を示しているのである。それらの記憶の語り方(あるいは「語らない」という語り方も含め)は、しばしばベトナム国家の公定記憶が幅をきかせて、現在では必ずしも虐殺の生き残りの人々の意向を反映したものではなくなってきている」。具体的にいえば、「虐殺の記憶の語りが県レベルを超えて国民に共有されるようになることは望ましいことではなかったからである。「反韓」感情が国民の中で強くなり、ひいては外交・経済交流に悪影響を及ぼすような事態になることを懸念して、ベトナム国家はこの問題が全国的に継続的に報道されることを許さなかった」。

 しかし、このようなほんとうの被害者を排除したかたちでの両国家の「友好・親善」は、「真実・和解」のためにはならないと、著者は、「おわりに-「残余の記憶」を拾いつくそうとすること」で、つぎのようにまとめ、結論としている。「韓国軍が虐殺事件を多発させた地域において、韓国に対するイメージを塗り替え、ベトナム人の韓国に対する憎悪を薄め、親近感に変えて来たのは、まさに『ハンギョレ21』の報道とそれを追ったベトナムの『トゥイチェー』紙の記事、ク・スジュンやナワウリ[NGO]の活動であった。韓国のNGOや個人など民間の地道な活動が、虐殺を生き延びたベトナムの人たちの心を解きほぐし、記憶を捻じ曲げたり誤魔化したり過去にフタすることによってではなく、記憶を新たにすることで、許しと和解が生まれていく過程を本書では描いてきた。ベトナム研究者である筆者がこの問題を取り上げる目的は、「売国奴」とまでののしられたというク・スジュンたちの活動こそ、実は被害者であるベトナムの人々との真の和解を成し遂げることにつながっていることを、分裂したままの世論を抱える韓国社会に、第三者の立場から訴えるためである。「許し」・「和解」は、事実を覆い隠したり、誤魔化したりすること、また国家間の物質的援助の垂れ流しによってだけでは、決して成し遂げられないと考える」。

 そして、日本人が「ク・スジュンたちの実践から学びとるべきなのは、個々人の記憶の重要性を認識し、その掘り起こしと積み重ねによって、ナショナルヒストリーからはじき出されてしまっている、例えば先に述べたような様々な記憶、あるいはまだ大きな注目を浴びていない記憶を、丹念につないで行くこと以外にはないのではないか。それらの記憶こそ、記録していかねばならない「残余の記憶」であり、真実を含むものであろう」。

 本書では、韓国とベトナムとが、日本の戦後処理を例に議論を戦わせる場面がある。『ハンギョレ21』が告発して10年が経った2009年に、「韓国国会で審議された法律の条文の中の「ベトナム戦争参戦勇士は世界平和の維持に貢献した」という文言に、ベトナム政府がかみついたのである。二〇〇一年のキム・デジュン大統領の謝罪とは異なる韓国政府の姿勢に対し、ベトナム政府は、韓国が反発する日本の政治家の靖国神社参拝問題を取り上げて、韓国政府に再考を促した。日々経済関係が深化する中での突然のベトナム側の反発に、韓国政府は素早い事態の収拾をはかった」。この2001年の大統領の謝罪は、「日本のように曖昧にしないことを外交的に誇示したという点においては賞賛に値する」と評価されていた。

 日本人である著者が、専門であるベトナム側の資料に加えて、韓国語の基本文献を読みこなし、インタビュー調査した成果は、新たな事実と考察・分析を可能にした。インタビュー調査では、「韓国人が来たらインタビューには絶対答えない。日本人が来たと聞いたからここに来たのだ」と著者に語った者もいる。しかし、ベトナム、韓国、両国で、著者の想定外の問題が生じたことを「あとがき」で、つぎのように述べている。「ベトナムはベトナム戦争の被害者なのだから、虐殺の生き残りの人たちの証言を聞いてまわること自体、ベトナム政府の機嫌を損ねるようなことは何もないはずだ、少数民族を研究対象としていた時のように政府の警戒を生むことはありえない、などと甘い思いこみをしていたのだが、地元でのフィールド調査を始めるやいなや、ベトナムの「過去にフタをして未来へ向かおう」というスローガン(安倍晋三首相にはお気に入りのスローガンかもしれない)が大きく立ちふさがってきた。スローガンが、公定記憶以外の過去の記憶の掘り起こしと記録に対する大きな障害となっていることに、気づかざるをえなかったのである。また韓国社会では二〇〇〇年代後半から揺り戻しがあって、「負」の歴史の清算を重要と考えている人々というのは思っていたほど多くはなく、世論は鋭く対立したままで、「社会の成熟」とはとても言い切れない状況も見えてきた。しかしそれでも、「右傾化」が指摘され、失言その他で国家や政治家の歴史認識について海外での評判を著しく落としている現在の日本よりはましである、と思う」。

 朝鮮戦争(1950-53年)の結果、壊滅的な打撃をうけた韓国は、60年代初めまでアメリカの援助に頼るしかなかった。そのようななかで、1964年の韓国軍医療団などにはじまるベトナム戦争への参加、しかもベトナム共産主義との戦いは北朝鮮との戦いでもあると認識して「国防」のために戦った韓国。延べ31万人が派兵され、最盛期には5万人を数え、これらの兵士や出稼ぎ民間人の本国への送金が、その後の韓国の経済発展を支えた。いっぽう、1986年にドイモイ(刷新)路線を採択して、韓国から1991年から2008年までに総額9045万ドル、年平均503万ドルの無償援助をえていたベトナム。しかも、その援助はベトナム戦争中に災禍を引きおこした中部に集中し、「補償」の意味が込められていた。両国とも、「韓国軍によるベトナム人戦時虐殺問題」を取り上げたくない理由は、日本の「過去にフタ」をする理由の比ではない。

 このほか、本書では取り上げられていない、韓国軍兵士のベトナム人女性にたいする強姦などによって出生した子ども(ライダイハンと呼ばれる)が最大3万人いるとされる問題、2010年に首都ハノイを中心に開催された「タンロン・ハノイ千年大記念祭」にソウル市が参画を試みたものの結局失敗に終わったことなど、韓国とベトナムとのあいだには微妙な問題が存在する。歴史的には、ともに中国の属国であった時代があり、長く科挙制度の影響をうけていたので、わかりあえる共通認識もあるはずだ。また、国家間の思惑を超えて、しかも「新聞に書かれていることと現実の社会認識にはしばしばずれがあるし、NGOの設立が[一般に]認められていない」ベトナムで、事件調査をした韓国のNGOの活動も、それに協力しNGOのメンバーとなったベトナム人の活動も、「成熟した社会」への一歩となる。日本の歴史認識問題も、市民が成熟し「成熟した社会」をつくることによって「和解への道」が開かれることが、本書からわかる。偏狭なナショナリズムは、これだけグローバルな交流があるなかで、ナショナリズムの負の面が明らかになり、逆にナショナリズムの危機を招いてしまうことになるだろう。

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2013年10月22日

『国民語の形成と国家建設-内戦期ラオスの言語ナショナリズム』矢野順子(風響社)

国民語の形成と国家建設-内戦期ラオスの言語ナショナリズム →紀伊國屋ウェブストアで購入

 「ラオス人民民主共和国、通称ラオスは、東南アジアに位置する共和制国家。国土面積は236,800平方㎞。内陸国であり、北に中華人民共和国、西にミャンマー、東にベトナム、南にカンボジア、タイと国境を接する。首都はヴィエンチャン。東南アジアの国では唯一海に面していない」。ウィキペディアでは、こう説明している。人口は656万人(2011年)。だが、本書が扱う1975年までの「三〇年闘争」ともよばれる内戦期には、200~300万と推定されている。本書で考察する国民語ラオ語とタイ語の違いは、「方言ほどのものでしか」ない。日本の約3分の2の面積に、内戦期に日本の数十分の1の人口が暮らす。多民族社会で、居住地の高低差で民族も文化も違う。そんな地域の人びとが、独立国家のよりどころを国民語に求めた。本書は、国家と社会のあり方を問う、考えさせられる1書である。

 第一次世界大戦中に民族自決が唱えられ、第二次世界大戦後アジア・アフリカでつぎつぎに民族国家が成立した。そのなかのひとつ、ラオスは1953年にフランスから独立したものの、右派、中立派、左派にわかれて内戦状態が続き、ようやく75年に左派のパテート・ラオを中心にラオス人民民主共和国を樹立し、今日まで人民革命党一党独裁体制が続いている。国として独立し、それを維持し続けるのは、なぜなのか。その疑問に、本書は、ほんのすこしだけ、答えてくれている。その「ほんのすこし」を明らかにするだけでも、いかに困難であり、著者矢野順子が苦労したか、この地域の歴史や文化、先行研究のなさを知っている者は、容易に気づくであろう。

 「「国民語」とは、どのようにして「つくられる」のだろうか。そしてそれは、国家建設の過程にいかにしてかかわるものなのであろうか。これが本書の根源にある問いである」と、著者は「はじめに」冒頭で述べている。そのために、「本書では、国民語をつくるにあたって象徴性への要求がコミュニケーション手段としての言語の「あり方」にどのような影響を及ぼすのか、二つの機能のかかわりに注目し、「ラオ語」の境界とともに「ラオス国民」の境界が生成されていく様子を描き出す。そして植民地時代、フランスによって着手されたラオ語を「つくる」作業がパテート・ラオと王国政府にどのように継承されていったのか、両者の比較をとおして明らかにしていく」。

 本書の結論は、先取りして「はじめに」でつぎのようにまとめられており、読者にとってひじょうに助かる。「ラオ語の形成はタイ語、フランス語からの言語的独立をはかるかたちで進められていった。メコン川を国境線とする条約が締結された後も、タイはメコン両岸の住民の民族的同質性を根拠にメコン左岸の「失地」回復を主張していた。フランスはタイの「失地」回復要求をしりぞけ、ラオスを植民地として維持していくため、ラオ語とタイ語の境界を明確化する方向でのラオ語の標準化に乗り出していく。この方針は独立語、王国政府、パテート・ラオの双方に受けつがれ、現在に至るまでラオ語の形成はタイ語からの差異化を第一に進められることになった。一方、独立後も王国政府においてフランス語が重用され続けたことは、言語能力を要因とした社会階層の分化を招き、王国政府の人びとの間でラオ語の独立を求める言語ナショナリズムが高まりをみる。パテート・ラオは、フランス語に依存した王国政府の教育制度を「奴隷的・植民地的」であると批判し、王国政府の人びとに対してラオ語を教授言語とする自らの教育制度の「国民的特徴」を強調したプロパガンダを展開していった。王国政府の人びとの言語ナショナリズムを巧みに利用したパテート・ラオのプロパガンダは学生を中心に支持を集め、パテート・ラオ勝利の一因ともなったと考えられる」。

 このような結論を導くため、著者はつぎの4つの視点を重視して考察をおこなっている。1点目は、「ラオス人エリートたちがフランスによって与えられた評価をどのように克服し、タイ語とラオ語の地位逆転を図ったのかという点に着目する」。2点目は、「植民地時代から内戦期、王国政府とパテート・ラオのそれぞれの体制下での正書法や語彙に関する議論に焦点を当てる」。3点目は、「二点目が対タイ語の言語ナショナリズムの分析であったのに対し、先行研究でほとんど扱われてこなかったフランス語との関係に着目する」。4点目は、「パテート・ラオの国民形成におけるラオ語の位置づけを検討する」。

 それぞれを受けて、最後の「第五章 言語ナショナリズムの展開」の「おわりに」で、つぎのようにまとめて、本書全体の総括としている。1点目で、明らかになったのは、「植民地時代、フランスによって打ち出されたタイ語からの言語的独立という方針が、独立後も王国政府、パテート・ラオの双方において維持され、現在に至るまでラオ語を形成していくうえでの根本方針となってきたことである。しかしこれは、フランスによって与えられた枠組みをそのまま引きうつしたものではなく、ラオス人エリートたちが音韻型正書法の「進歩性」を構築し、そこに独自の伝統を見出すという過程を経てきたものであった」。2点目では、「実際には言語の境界線など存在しないなか、「ラオス国民」の境界に「ラオス語の境界」を一致させようとし」、その「一連の過程はまた、コミュニケーション手段としての言語の形成が、象徴性への要求によっていかに左右されるものである」かを明らかした。3点目では、「一九六〇年代以降に高まっていく、ラオ語を真の国民語へという言語的要求からは、タイ語とともにフランス語もまたラオ語とラオス国民の形成をうながす、「否定的同一化」の契機を提供していたこと」がわかった。4点目では、パテート・ラオの「教育政策の進展とともにラオ語は解放区を代表する唯一の国民語としての地位を獲得し」、「「愛国心」の伝統を前面に出すことで通時的に少数民族をラオス国民に統合する試みもなされ、ラオ語はラオ族を主軸とする国民統合を通時的・共時的に支えるものとなっていった」ことを明らかにした。

 本書は、1975年までの「30年にわたる内戦期」を扱っているため、当然、近代の論理で議論が展開され、「はじめに」でも「想像の共同体」がモデルのひとつになっている。したがって、ラオスでは、いち早く近代国家の形式を整え、ラオ族のタイ化を図るタイ王国との差異化をすることが重要になった。しかし、その差異化は、ラオス国内にかかえる「少数民族」のラオス化と矛盾するものであった。ラオス国内には、独自の文字をもつ同じタイ系の黒タイ、タイ・ルーなどの民族がいる。国家を形成する望みの少ない民族は、国民国家の成立と同時に、国民化と独自の社会・文化の維持という難問を突きつけられた。そして、いまグローバル化やアセアン統合にも対応しなければならなくなった。数百万が使用する国民語は、近代とはまた違った意味をもってくるのか、新たな問題が生じてきていると想像される。そのことを考えるためにも、「国民語形成へと至る道程と意味を考究」することは、今後のラオスのことを考えるためにも、国民国家が支配的であった近代からの離脱を考えるためにも、基礎研究として重要な意味をもつ。

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2013年10月08日

『戦争のるつぼ-第一次世界大戦とアメリカニズム』中野耕太郎(人文書院)

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 「国籍の異なる12名のヨーロッパ人歴史家たちが何度も討議を重ね、その上で共同執筆されたヨーロッパ史の教科書」である『ヨーロッパの歴史』(ドルーシュ編、東京書籍、1998年)では、第一次世界大戦後のヨーロッパに訪れた新しい時代を、つぎのように記している。「ヨーロッパの人々が初めてアメリカの生活様式を発見したのは、まさにこの1920年代であった。多くの人々がこのとき、これを理想的モデルと見なすようになった。古くからあった階級、習慣、趣味の相違はしばしば投げ捨てられ、大西洋の彼方から到来するものは、ことごとく熱狂的に受け入れられた。なかでも20世紀初頭にニューオーリンズで生まれた音楽、ジャズの人気はすさまじかった」。このように理想化されたアメリカは、ヨーロッパ人が羨むような国民国家を形成していたのだろうか。著者、中野耕太郎は、「世界の民主化という大義を掲げて戦われたアメリカの第一次世界大戦」、「その未曾有の実験を「国民形成」という観点から考察」している。

 著者にとっての第一次世界大戦研究は、「あとがき」で、つぎのように述べられている。「私の研究生活はどこか第一次大戦の呪縛のうちにあるようだ。私にとって、この戦争は常に視界から消えることのない大きな山のようなもので、意味のある現代史上のテーマに取り組めば、必ずどこかでこの戦争が姿を現す。ナショナリズム研究、福祉国家論、人種関係史、いずれを探求しても、道はいつか第一次大戦という山にぶち当たる。やはり、この戦争は「現代」を生んだ母胎だったと確信できるが、同時にそれは、真正面から研究対象とするには巨大すぎる山塊でもあった。あまりに大きな暴力、あまりに広大な領域、あまりに凄まじいダイナミズム-私は長く第一次大戦史を書くことを怖れ躊躇(ためら)ってきた」。

 そこに、現在に続くアメリカの「人種・エスニック問題」「正義の戦争の論理」など、100年ほどの前の歴史的問題として片づけることができない深刻で、永遠に解決できないと思われる複雑な問題が横たわっているからだろう。したがって、著者は、細心の注意とともに、「国際、国家、社会、コミュニティといった異なる位相を十分に意識しながら、なおその間を縦横に越境するものとして戦時アメリカニズムの「るつぼ」の歴史的な意義を考察していく」。

 「具体的に第1章では、第一次大戦中立期のアメリカで展開された「国家の役割とナショナリズムに関する諸論争を概観し、あわせて、これと密接に関わりながら形成されたアメリカの国際的コミットメントを考察する」。「第2章では、参戦後展開される政府による国民動員を検証する。特に国民形成に関係の深かった、選抜徴兵制度と戦時広報に注目し、戦時下に変容する国家と地域、個人の関係を明らかにする」。「第3章では、戦時の国民化政策の主たる対象であった外国系住民に注目する」。「第4章は移民と同じく、アメリカ社会のマージナルな存在であった黒人を取り上げる」。そして、「以上の検討を通して、「おわりに」では、戦後に続く展開を概観し、第一次大戦がはじまったばかりの現代史にどのような永続的な刻印を残したのかを考える」。

 ここで注目したいのは、第4章の目的のひとつが、つぎのように述べられていることである。「戦争と人種の問題を検討し、第一次大戦期の国民統合が内包した人種隔離の実態を考察することである。総じて戦争を機に進行する、ヨーロッパ移民の国民化がなぜ非白人の社会的排斥と同時に進行するのかという二〇世紀のアメリカニズム最大の論点にアプローチを試みたい」。当時のアメリカは、「一億弱の総人口のうち約一〇〇〇万人を黒人が、約一四〇〇万人をヨーロッパ生まれの移民が占めた」「るつぼ」であった。

 「ヨーロッパ移民のアメリカ国民への包摂は、排外的ナショナリズムと奇妙な並走関係を続けながら、大きく前進していく」。「アメリカに住むポーランド系やチェコ系はますます多く帰化申請をし、ますます広くアメリカ社会に受け入れられていった。敵性外国人として迫害を受けたドイツ系ですら例外ではない」。しかし、「ヨーロッパ移民の国民化のコンテクストは、黒人やアジア移民には当てはまらない」。そのなかに、日本人移民も含まれている。「民主主義の戦争に差別撤廃の夢を託した黒人達の期待」はみごとに裏切られ、「戦後、人種間の暴力が全国に蔓延した」。休戦翌年の1919年だけで、「シカゴやワシントンをはじめとする二五の大都市で人種暴動が勃発した。その発端は、多くの場合、総力戦が生んだ共同体的暴力の残滓(ざんし)といえるものだった」。

 そして、著者は、「おわりに」を、つぎのように記して結んでいる。「たしかに、戦後、戦争を支持した知識人や黒人指導者の間には、ある種の虚無的な失望感が広がっていた。戦争は本当に世界と国内の民主的改革を伴うものだったろうか? 同時代人の近い過去に対する評価は、決してポジティヴなものばかりではなかった。だが、それにも拘わらず、普遍的価値を掲げた国際主義を追求するという振る舞いにおいて、アメリカの歴史は不可逆的だった。一九四〇年代に二度目の世界大戦を迎えたとき、アメリカは再び理念の戦争-「四つの自由」[言論の自由、信仰の自由、恐怖からの自由、欠乏からの自由]-を構築するであろう。そして、やはりこの戦争目的は、国際関係だけでなく各国内政の改革をも目指す理想となろう。アメリカは、再び国内のマイノリティから市民としての承認を求める声を聞き、普遍主義の例外として囲い込まれた中米・カリブ海問題の矛盾に直面する。それは、ある種の既視感覚を歴史研究者に抱かせよう-すでに二〇年前の戦争で見たなにか。第一次大戦のるつぼは二〇世紀のアメリカ国民国家と国際社会を規定する、ひとつの政治の様式を鋳出していたのであった」。

 アメリカにとっても、第一次大戦は第二次大戦へと続く戦争であった。と同時に、第二次大戦でも解決できなかったアメリカの根源的な問題が引き続いたという意味で、「現代の起点」ということができる。また、「世界の民主化という大義を掲げて戦われた」ことから、世界の動向と国際関係の理解抜きに、アメリカという1国の歴史と社会を語れなくなったということで、アメリカ研究にとっても大きな転換点となった。アメリカだけを対象とするアメリカ研究が成り立たなくなったのである。

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2013年10月01日

『隣人が敵国人になる日-第一次世界大戦と東中欧の諸民族』野村真理(人文書院)

隣人が敵国人になる日-第一次世界大戦と東中欧の諸民族 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 第一次世界大戦中に民族自決が唱えられ、帝国から解放された民族を中心とした近代国民国家が成立して「めでたしめでたし」、という国民教育のための近代史が単純に語れないことが、本書からわかる。

 オーストリア=ハンガリー二重帝国、ロシア帝国、オスマン帝国といった多民族社会のなかでマイノリティとして生きていた人びとのなかには、すぐに民族国家を思い描くことのできた人びともいれば、しばらくして思い描くことができた人びと、いつまでたってもまったく思い描くことができなかった人びとなどがいた。近代国民国家の形成に翻弄された人びとがいたにもかかわらず、EUの成立、グローバル化のなかで、その意味がなくなろうとしている。第一次世界大戦を契機として、近代とはなんであったのかを問うことのできる地域として東中欧があることを、本書は教えてくれる。

 著者、野村真理は、つぎのように「はじめに」で述べる。「ロシア帝国の後継国家はロシアであり、オーストリア=ハンガリー二重帝国の後継国家はオーストリアとハンガリーだが、いまのロシア人やオーストリア人、ハンガリー人は、第一次世界大戦の共同通史を書くことにほとんど「国民」的意味を見出さないだろう。細かいことをいえば、そもそも第一次世界大戦が始まったとき、オーストリア人など存在しなかった。当時のオーストリアで、ドイツ語を日常使用言語とする者はドイツ人であり、現在のオーストリアで、ドイツ人とは異なるオーストリア人というアイデンティティが一般化するのは、第二次世界大戦後しばらくたってからである」。

 「ドイツやフランスでは、第一次世界大戦の戦没者は英霊となり、戦争墓地や戦争記念碑は国民的崇拝を集める聖地となったが、東中欧の諸国家では、第一次世界大戦それ自体は「国民」的記憶とはなりえない。むしろ東中欧の第一次世界大戦は、西ヨーロッパに遅れること一世紀にして、そのような記憶の担い手となるべき国民と、その国民の国家創設史の最初に記されるべき出来事と位置づけられよう」。

 本書では、「オーストリア帝国領ガリツァアの、とくに東ガリツァアに限定」し、「論述の整理上、そこでのポーランド人、ウクライナ人、ユダヤ人の経験を別個に追う」が、つぎのような人がごく普通にいたことを忘れてはならない、と著者はいう。「東ガリツァアの寒村でポーランド人の父とフツル人[おもにカルパチア山脈南東部に居住する少数民族]の母から生まれた」彼は、「ポーランド語とウクライナ語を話し、父はカトリックのポーランド人だったが、自分はギリシア・カトリックの信者だからウクライナ人だと、何となく思っている」。

 ポーランド人やウクライナ人にとって大切だったのは、独立して「国民」になることより、民族文化を守ることだった。第一次世界大戦の前夜、三分割されたポーランドの再興をめぐって三派にわかれたとき、親ロシア派も親オーストリア派も、まず民族文化を守ることを考えていた。親ロシア派は、「万一ロシアが敗北してポーランドがドイツの支配下に入った場合、ドイツ領ポーランドで強行されたドイツ化政策がポーランド全土におよび、政治的、経済的のみならず、文化的にもポーランド民族の破滅を招くという強い危機感を抱いていた」。親オーストリア派は、「ドイツ領やロシア領と異なり、オーストリア領ポーランドでは一八六七年からポーランド人の大幅な自治が実現し、クラクフとルヴフに大学を擁して、ポーランド語による学術・文化活動も制限を受けることなく開花した」ことを思い起こしていた。

 しかし、ユダヤ人にとっては、ポーランド人やウクライナ人のように「ユダヤ人国家を設立することなど、考えられない選択肢だった。ユダヤ人は、まとまった居住地域をもたず、点々と、東中欧のさまざまな都市や町にかたまり住む人々だった」。したがって、「あくまでも現在の居住国でユダヤ人に民族自治の権利が与えられることを求めた。そのさい、まとまった居住領域をもたないユダヤ人の自治の重点は、ブンド[リトアニア・ポーランド・ロシア全ユダヤ人労働者同盟の略称]がユダヤ人の民族言語と見なすイディッシュ語で教育を受ける権利など、文化的自治におかれた」。「だが、彼らの空腹を満たすには、イディッシュ語で教育を受けるより、帝国の支配言語であるドイツ語か、ガリツィアの行政言語であり、文化的支配言語でもあるポーランド語を習得した方が、はるかに大きなチャンスを手にすることができた。ガリツィアからウィーンに出たユダヤ人は、必死に働いて子どもたちにドイツ語教育を受けさせ、やがて彼らがウィーンで一流の商人や、博士の称号をもつ弁護士や医者になる日を夢見た」。

 「未完の戦争としての第一次世界大戦」は、ポーランド人やウクライナ人が求めたような結果をもたらさず、「第二次世界大戦後の国境の引き直しと住民交換、住民追放により、第1章で述べたポーランド問題とウクライナ問題は最終的に解決された。ユダヤ人という、東中欧で領域的解決のしようがない少数民族問題についていえば、それがホロコーストによるユダヤ人ディアスポラ社会の消滅によって解決をみたことは、説明を要しまい。さらにユダヤ人社会の消滅は、戦後ポーランドの反ユダヤ的暴力によってその完成度を増す」。

 「戦間期に小多民族国家であったポーランドは、第二次世界大戦後は、国民のほとんどがカトリックのポーランド人という、単一民族国家に近い国家となる。他方、西ウクライナの中心都市リヴィウ(ウクライナ語称)の一九八九年の人口構成は、総人口七八万六九〇三人のうち、ウクライナ人が六二万二七〇一人(七九・一パーセント)、ロシア人が一二万六四五九人(一六・一パーセント)で、ユダヤ人は一万二七九五人(一・六パーセント)、ポーランド人は九七三〇人(一・二パーセント)である。ここでのユダヤ人のほとんどは、旧東ガリツィアでホロコーストを生き延びた者たちではなく、戦後ロシアからの移住者である」。

 多数決による統治が機能する近代民主主義国家は、「国家が最も安定しやすい」という。しかし、その「民主主義国家」を形成するために、どれだけの犠牲者が出たことか。そして、いまEUに加盟した国ぐにのあいだでは、まったく意識することなく国境を越えることができる。これだけの犠牲を出して成立した近代国家とは、いったいなんだったのか。フランス、ドイツを軸とする国民国家形成だけでは語れないヨーロッパの歴史がある。 

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2013年09月24日

『忘却のしかた、記憶のしかた-日本・アメリカ・戦争』ジョン・W.ダワー著、外岡秀俊訳(岩波書店)

忘却のしかた、記憶のしかた-日本・アメリカ・戦争 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 「忘却のさせられかた、記憶のさせられかた」とも読めた。本書は、『敗北を抱きしめて』の著者ダワーが、1993年以降に発表したエッセイ・評論に、それぞれ自ら書き下ろした解題をつけた論集である。そのときどきに書いたものは、そのときどきの社会的背景や著者自身の環境などがあって、読み返すと何年か前の自分に反論したくなり、本書のように1冊にまとめることができないことがある。それを可能にしたのは、「訳者あとがき」に書かれているように、「歴史家としてのダワー氏の姿勢の一貫性である」。だからこそ、過去と現在との対話ができるのである。

 本書の要約が、表紙見返しにある。「冷戦の終焉、戦後五〇年という節目において、またイラクやアフガニスタンでの新しい戦争が進行するなかで、日本とアメリカは、アジア太平洋戦争の記憶をどう呼びおこし、何を忘却してきたのか-」。「ポスターや着物に描かれた戦争宣伝や修辞、ヒロシマ・ナガサキの語られかた、戦後体制のなかで変容する「平和と民主主義」、E・H・ノーマンの再評価など……。過去をひもとき、いまと対置することで「政治化」された歴史に多様性を取りもどす、ダワーの研究のエッセンスが凝縮された、最新の論集」。

 本書の特色のひとつは、最初の章に「第一章 E・H・ノーマン、日本、歴史のもちいかた」をもってきたことだろう。著者は、「動乱の一九六〇年代に歴史家としての道を歩み、その出発点で孤高の歴史家ノーマンと出会った。日本ではひろく名を知られながら、反共マッカーシズムの犠牲になり、英語圏では封印された研究者である」。博士論文を書き終えてまもない著者が編集したノーマン選集への序論(1975年)を抄録したのが、この第一章である。「ノーマンは、米上院公聴会で「信頼できない人物、たぶんは共産主義者スパイ」だと非難されてのち、一九五七年四月四日に、カイロで自殺した。当時四七歳」。「戦後や占領後の学界の傾向は、「明治国家の権威主義的な遺産」というノーマンの考えにたいし、根源的な敵意をもっていた」。

 「訳者あとがき」では、著者がノーマンから引き継いだ資質を3つにまとめている。「ひとつは、比較史学という手法である。西欧の古典史を学び、数カ国語を自在に操ったノーマンは、時代と地域を縦横に往還して参照する特異な手法を発展させた。それは、ある国の歴史を閉ざされた「物語」としてえがこうとする「一国史観」の対極にあり、欧米など特定の時代や地域を標準とし、そのモデルとの対比で「達成」や「遅れ」を測る発展史観とも対立する」。「ダワー氏は、軍国化した日本の近代史を、後進性ゆえの「突然変異」として異端視したり、日本よりも「進んだ国」には無縁の歴史として排除したりするのではなく、欧米にも「ありえた歴史」ととらえる」。

 「二つめは、歴史という繊細で複雑な「継ぎ目のない織物」(ノーマン)に対する忠誠である。ノーマンが、ミューズのなかでいちばん内気な歴史の神クリオに誓いをたてて、その単純化や図式化を拒んだように、ダワー氏もまた史実にのみ忠誠を誓い、他のどのようなイデオロギーにも拝跪(はいき)しない。その結果、史料に向きあう姿勢はいちじるしくリベラルでしなやかな一方、歴史を稔じ曲げようとする不実にたいしては、仮借ない批判を浴びせる」。

 「三つめは、歴史に大書されることのない無名の人々への愛着である。丸山真男がその追悼文で「無名のものへの愛着」と指摘したように、ノーマンの書く文章には、国家単位でおきる出来事の記述から漏れ落ちる無数の人々の暮らしにたいする畏敬と愛惜がにじんでいる。『敗北を抱きしめて』でダワー氏がその資質を遺憾なく発揮したように、浮かんではすぐに消える「蜉蝣(かげろう)」のような雑誌や漫画本、流行歌や替え歌にも歴史家として気を配るのは、そうした移ろいやすい「史料」の断片にこそ、当時生きた人々の思いや感情が切実に刻印されていると考えているからだろう」。

 著者は、「アジア太平洋戦争における日本の振るまいにかんする、おなじみの右翼側による否定のすべてがふたたびニュースになり、今回は二〇一二年一二月の安倍晋三首相の登場によって、それが加速化されている」ことを憂えている。それも、日本への愛情をもってのことであることは、「日本の読者へ」のつぎの文章からわかる。「日本の帝国主義、軍国主義の過去の汚点を消しさろうというキャンペーンは、一九五二年、長びいたアメリカによる日本占領がやっとおわった時期にまでさかのぼる。それは六〇年にわたってますます強く推しすすめられ、おわる兆しはない。一九七〇年に始まり二〇一二年におわった教職の期間に、私が同僚や学生、ジャーナリスト、ふつうの物好きな知人から最もよく受けた質問は、あえていえば、「どうして日本人は、自分たちの近現代を否定せずにはいられないのか」というものだった。それにたいし私はこう答えた。それは「日本人」一般にはあはまらない。日本の戦争責任にかんする主要な研究の多くは日本人の研究者やジャーナリストによってなされ、書店でもひろく手に入れることができる。平和にたいする日本の戦後の献身は模範的なものだ。日本政府は、とりわけ中国と韓国にあたえた侵略と苦痛をみとめ、謝罪する多くの公式声明を出してきた。-だが、どんなにこうした反論をしても、ほとんど効き目はなかった」。本書からも、著者が「戦争と記憶について日本における考えがいかに「多様であるか」について」、「英語圏の読者につたえようとしたのか」、よくわかる。

 著者は、「こうした多様な声が、「愛国的な歴史」の喧伝に専心する有名な日本人の甲高いレトリックや主張、シンボリックな行為(靖国参拝のような)によって圧倒されてしまうこと」が、国益を損ねていることを、つぎのように述べている。「こうした類(たぐい)の愛国的な偽りの歴史には、ひねくれた矛盾がある。公に宣言する目標は「国家への愛」をうながすことでありながら、一歩日本の外に出てみれば、そうした内むきのナショナリズムが日本に莫大な損失をおよぼしてきたことは歴然としている。それは、戦争そのものによる害とはちがって、日本の戦後のイメージに、消えない汚点を残すのである。中国人や韓国人の激昂した反応は大きな注目を集めるが、それは彼らだけにかかわる問題ではない。わたしたちはアメリカでも英国でも、オーストラリアでも欧州でも、日本の信頼性が侵食されるのを目にしている。国連ですら、批判の合唱に加わった(ここに書くように、国連はふたたび、とりわけ慰安婦問題にかんして、日本に引きつづき義務をはたすことができていないと非難した)」。「日本が一九五二年に独立を回復して六〇年が過ぎたが、その日本がいまも、近い過去と折りあいをつけて、隣人や盟友から全信頼をかち得ることができないことは、深く悲しむほかない」。

 「「歴史」が「記憶」としてどのように操作され、社会にひろまるのかという問題であり、さらには、過去から何かを選びとって記憶することが、他のことを忘れたり、わざと無視したりすることと、いかに分かちがたいのか」、本書から多くのことを学ぶことができ、それが近隣諸国との関係を「悲劇的な物語」にしてしまっていることに気付かされる。しかし、「日本のネオ・ナショナリストの政治家」には、著者の嘆きと憂慮はなかなか伝わらない。伝えることができるのは日本国民だけで、それを各自が自覚することによって、永遠に続くかのように思える「歴史問題」から日本国民は解放されるだろう。

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2013年08月27日

『「大東亜共栄圏」と日本企業』小林英夫(社会評論社)

「大東亜共栄圏」と日本企業 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 本書は、序章と7章からなり、書き下ろしの序章と補足した第七章を除いて、大幅な書き換えをおこなっていない論文集である。著者、小林英夫は、本書の目的を、つぎのように説明している。「一八九五年の日清戦争後に台湾を領有して以降、一九四五年にアジア太平洋戦争に敗北するまでの約半世紀間、日本は東アジア植民地帝国として、この地域の政治・経済・社会生活に大きな影響を与えてきた。本書の目的は、植民帝国として活動した約半世紀間の日本植民地(朝鮮・台湾)、占領地域(満洲国・中国・南方地域)の経営史を総括することにある」。

 著者は、「約五〇年間にわたり東アジア地域を植民地化してきた日本帝国の歴史を振り返るとき、以下の二つの問題をまず考えたい」という。「一つは、日本帝国の植民地支配を可能にし、かつ一九四五年までその支配を継続させたその条件は一体何か。二つには、その間、日本帝国は、いかなる課題を植民地や占領地に課し、誰がそれを推進したのか、それに対していかなる勢力がそれに抵抗したのか、その抵抗の条件と基盤は何だったのか、という点である」。

 本書では、大きく三つの時期にわけて考察している。「第一期は日清・日露戦後期である。第二期は第一次世界大戦前後期、そして第三期は満洲事変から日中戦争、そしてアジア太平洋戦争期である」。著者がこだわったのは、戦後の「東アジア経済圏」と戦前・戦中の「東アジア植民地体制」「大東亜共栄圏」とのあいだに、連続性があるかどうかである。その点について、著者は、第七章の最後の注(35)で、既刊自著の一節を引いて、つぎのように述べている。「今日につらなる『東アジア経済圏』の起点、それを探し出すとすれば、東アジアの親米諸国が、アメリカの指導下で、いっせいに外資導入を軸に『自立経済』体制構築にふみきった一九六〇年代初頭の時点にもとめることができよう」。この戦前と戦後の断絶面を強調した著者の主張にたいして、堀和生氏はそれを批判し、その連続面を強調した。著者が、本書をまとめたのも、この「誤解だけは解いておきたい」という考えからであった。著者の堀氏への反論は、つぎの文献により詳しく記されている:小林英夫「東アジア工業化の起点-堀和生氏の著作をめぐって-」『アジア太平洋討究』第19号(2013年1月)、45-52頁。

 したがって、本書でもっとも重要な章は、「第七章 日本の植民地経営と東アジアの戦後」になる。本章では、それまで各章で検討してきた日本の植民地経営の実態を踏まえ、その歴史的位置を考察している。「その際の基本視点は、戦前の日本の植民地経営が、戦後の動きの中で、いかような変容を遂げたのか、或いは遂げなかったのか、その視座を明確にすることである」とし、3節(「東アジア植民地体制の成立と崩壊」「「大東亜共栄圏」と「東アジア経済圏」」「「東アジア経済圏」の再編」)にわたって考察している。

 その結果、断絶面がもっとも明らかになったのが工業化で、つぎのように説明している。「同じ工業化とはいっても、排他的経済圏を前提に軍需中心の工業化を展開した戦前のそれに比較すると、戦後の工業化は開放経済を前提に対米市場向け民需品輸出産業の育成を課題にしており、この点で戦前と戦後では決定的に違っていた」。「戦後の工業化は日本に代わり権力の頂点に立った親米政権によってアメリカの極東戦略と連動しつつ推し進められた。日本の場合には、戦後一時期のアメリカ占領下の間接統治下と講和後の独立下で、政治勢力の継続性とともに戦中の総力戦体制の連続性が顕著であったのに対して、韓国や台湾の場合には日本の政治勢力の引き揚げと断絶により、総力戦体制は戦後新たに生まれた親米政治勢力に活用されたため、戦前との断絶面が著しく現れた」。

 日本が帝国となって形成した「東北アジア交易圏」と、イギリス領マラヤを中心にタイ(シャム)、オランダ領東インド、フランス領インドシナまで包括した「東南アジア域内交易圏」とを結びつけて、「大東亜共栄圏」を理解することは、それほどたやすいことではない。そこには、「広い意味で政治、経済、軍事的協力関係を内包する」からであり、両者は基本的ネットワークをつくるシステムが異なっていた。本書では、マクロからミクロまで具体的に事例を挙げて、その相違点と共通点を明らかにしている。本書で明らかにしたことは、2015年に経済共同体を目指すASEAN、さらに東アジア共同体を考える基礎となる。本書から、経済だけで共同体を形成することは困難で、総合的に考えなければならないことがわかってくる。

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2013年08月20日

『はじめて学ぶ日本外交史』酒井一臣(昭和堂)

はじめて学ぶ日本外交史 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 本書を読むキーワードは、「文明国標準」と「社会外交史」である。著者、酒井一臣は、「序 外交史をまなぶ【「今」を理解するために】」で、それぞれの見出しの下に、つぎのように説明している。

 「文明国標準」:「19世紀には、西欧地域の優位が決定的になり、西洋文明こそが「正しい」人類の発展経路であり、西洋人=白人がほかの人種より優れているという認識が定着していった。西欧諸国は、西洋文明をうみだした自分たちを「文明国」とし、西洋文明に適応できない地域を遅れた「未開国」とみなした。その際、文明国と未開国を区別する基準となったのが、「文明国標準」(the standard of Civilization)だった。これは、法律・社会・経済制度にくわえ、制度の背景にある価値観・宗教、はては生活様式にいたるまで、西洋文明国の基準で文明化の度合いを判別する考え方である」。

 「社会外交史」:「現在の日本はもちろん、世界中のどこの人びとも、ヒト・モノ・カネのグローバルな動きに関わっている。つまり、外交官や貿易業者でなくとも、わたしたちは世界の動きに影響をうけているのである。よって、外交や国際関係の視点から、社会の変動や人びとの思考様式を考察することが重要になる。外交や国際関係から日本社会のありかたを考えること。これを私は「社会外交史」と呼びたい。外交史というと、条約の難解な解釈論、もしくは戦争の歴史と思われるかもしれないが、身近なできごとも外交史の延長線上にある。この本は、日本の明治から現代までの社会外交史を45の項目にわけて考察する。それは、決して遠い時代の別の世界のことではなく、今につながるドラマなのだ」。

 本書は、著者の2年間の高校常勤講師の2つの経験から生まれた。ひとつは、授業からつぎのことを考えた。「高校の授業と大学の授業は、位置づけも意義も違う。それでも、現在の大学の学習と高校の学習は違いすぎるのではないか。多くの大学生は、研究者になるわけではない。それなのに、大学では研究者の世界の論理が優先される傾向にある。もちろん、専門的で高度な内容の授業も必要だ。しかし、入門段階は、もっと簡単にしなければならないのではないか」。

 もうひとつは、高校教師の生活から考えたことである。「高校の先生は、大学のように研究する時間が与えられるわけではない。また、歴史に興味がある多くの方も、ゆっくり研究書を読む時間はない。でも、研究者は難解な専門用語を使い、注がたくさんついた論文や本で情報を提供しようとする。自分自身も高校の教員をしていて、「そんな難しい本をのんびり読む時間はない!」と叫びたくなる」。「日本をとりまく国際情勢は厳しさを増しています。また、日本人の歴史認識の問題が深刻な外交問題を引きおこしています。近現代の日本外交史に関心を持つ方が増えているのではないでしょうか。「忙しい方々に、ちょっとした時間の合間に、簡単に読んでもらえる本を書いてみたい」」。

 そんな2つの「想い」から生まれた本書は、「1エピソード4頁構成」で読みやすく、エピソード毎に基本的な語句解説と「さらに学びたい人のために」参考文献を1冊だけ付し、巻末には「各国の経済力の変遷」「戦後日本経済表」「日本の領土地図」「内閣総理大臣および外務大臣一覧表」、「もっと学びたい人のために」参考文献3頁がある。エピソードの頁の下には、年表軸も付されている。

 エピソードの内容も、高校の教科書で書かれていることを念頭に置いて書かれているのでわかりやすく、田口卯吉の「日本人白人論」などの意表を突くものもあれば、「軍の暴走を許した国民意識の暴走」など、国民の責任を問うものもありで、読者に外交が自分たちの生活と無縁ではないことを意識させている。

 一般書を書くのは、ある意味で専門書を書くより難しい。本書のエピソードで疑問にもった箇所があり、自分ならこう書くと思った読者がいたら、著者の目的は達成されたことになるだろう。本書は、書かれたことを鵜呑みにする「学ぶ」ための「教科書」ではない。副題にある「「今」を理解するために」、「序」にある「まなぶ」から自分にとっての「外交史」を考えるためのものだろう。

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2013年08月13日

『海のイギリス史-闘争と共生の世界史』金澤周作編(昭和堂)

海のイギリス史-闘争と共生の世界史 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 ずいぶん挑戦的で、挑発的な本である。このような本が編集できるようになったのも、日本の西洋史研究がヨーロッパから学ぶ段階から脱し、独自の西洋史観をもって歴史学を語ることができるようになったからだろう。それは、歴史学の基本を踏まえて、世界史のなかでヨーロッパを語ることを意味している。この当たり前のことを、ヨーロッパ人の西洋史研究者のみならず、かれらから学んできた日本の西洋史研究者も、なかなか気づかなかった。これまで、ヨーロッパ史はヨーロッパ世界のなかだけで語られ、ヨーロッパ外のことに関心がなかった。

 本書の「総説 海の歴史のルネサンス」は、まず「歴史学の定義」から入る。編者、金澤周作は、つぎのように本書で共有する定義を説明している。「歴史学、それは、知られざる過去の人間の営みを、現在の地点から、可能な限り確かな証拠と可能な限り飛躍のない論理に基づいて再構成した上で、現在を生きる私たちの歴史像に一石を投じる学問である」。

 そして、おもしろいはずの歴史をつまらなくしているのは、この「定義からの逸脱が原因である」、「つまらないと感じる歴史は、現在の自分にも既存の歴史像にもなんら響かないものなのかもしれない」という。つまり、歴史を現代の目で見ていないからつまらないのである。とすると、イギリスの歴史も、イギリスが世界の超大国として繁栄した時代のひとりよがりの歴史観でみているからつまらないのであって、現代の日本人の目から見れば、おもしろくなるということだろう。

 イギリス史を「とてもおもしろい」ものにするために、編者は「人と海の歴史的な関わりを多面的に扱う海の歴史」(海事史)に注目した。「海の歴史は、一方で、イギリス近世・近代史のバランスのとれた、多面的な姿を描き出す上で非常に適し、他方で、「イギリス」を主要なアクターないし背景にするグローバルな人間行動を再構成する前提として不可欠な視角なのだ」。さらに、海の歴史は、イギリス史叙述を引き裂いてきた「三つの「二重性」-微視的/巨視的、陸的/海的、強い/弱い」を、3つながらに統合する可能性を秘めているという。

 おもしろい「海のイギリス史」を書くために、「本書の提案」として「四つの心構え」をあげている。まず、「海の歴史に関わる主体をなるべく多くすくい上げること」、つぎに「誰かのイメージとして、あるいは交流の事実の集積の結果として、独特な個性を持った海域ができるという」こと、「より曖昧で不正確な表象や言説にも注意を払っていく」こと、そして4つめとして、「イギリスの海事は、ナショナルな条件の下で展開したが、やはりグローバルな舞台を忘れるわけにはいかない」ことをあげている。

 本書は、「イギリスの海の歴史「研究」の全貌をまとめ上げ、基礎的事実とともに多彩な研究動向とこれからの方向性を提示する、イギリスでも日本でもおそらく例のない「研究入門」のための書」で、つぎの3部構成をとっている。「第1部では海の歴史の光の面、すなわち概してイギリスの強さをあらわす側面を扱う」:「第1章 探検・科学」「第2章 海軍」「第3章 海と経済」「第4章 港」。「第1部とは対照的に、第2部は、影の面、すなわちイギリス史の本流から外れるような、イギリスの弱さを示す側面を扱う」:「第1章 海難」「第2章 密貿易と難破船略奪」「第3章 海賊」「第4章 私掠」。第3部では、「網羅的に整理したイギリスの状況を、他地域の事例から相対化する」ため、第3部の執筆者は第1部・第2部の執筆者たちと対話を重ねた上で執筆している:「第1章 近世フランス経済と大西洋世界」「第2章 近世フランスの海軍と社会」「第3章 ポルトガル・スペインと海」「第4章 オランダと海」「第5章 近代中国沿海世界とイギリス」。さらに、本書には20のコラムが挿入されている。

 「総説」の「おわりに-メッセージ」には、本書の目的が「本書が開く世界」の見出しのもとに、つぎのように述べられている。「まず、イギリス近世・近代という、世界の歴史において特筆すべき存在感を示した対象を、今までよりも深く、また違った仕方で理解するために、海の歴史にまつわる基本的な史実や論点を整理すること。しかし、イギリス近世・近代だけを見てイギリス近世・近代の「個性」を描いてしまうような愚を避け、同時代の西欧諸国、そしてアジアの海の歴史の成果と対話しながら、より相対化された像を提供することも目指している。これは同時に、イギリス史にとって鏡の役割を果たしてくれる当の諸外国の歴史を相対化することにもなろう。さらに、過去というそれ自体混沌としかいえない対象に、どこからどうやってどのような網をかけ、その混沌を「歴史」という物語として再構成していくかについての、アイデアの数々を提供することも本書が意図していることである」。

 そして、最後に、「読者の皆さんへ」「この本が、斬新な研究の炎を諸所で燃え立たせることができるような、消えない埋め火であらんことを願いつつ、あなたを以下の本編が描き出す万華鏡のような海の歴史の世界に送り出したい」と結んでいる。ここまで書くのであれば、読み終えた読者に、編者の思いと同じだったか、問いかけてほしかった。読者は、編者の思いを越えて、あるいはとんだ思い違いをして読んだかもしれない。短い「あとがき」でもあれば、読者は編者と思いを共有できたことを確認して、本書を安心して閉じることができただろう。

 歴史をつまらなくしている原因のひとつに、いまだに近代をリードしたヨーロッパを中心とした歴史観がある。編者もそのことに充分気づいているから、第3部第5章の「近代中国沿海世界とイギリス」があり、同部第3章や第4章などもヨーロッパ世界にとどまらず世界を扱おうとしている。それで充分でない部分は、コラムで補っている。しかし、残念なことに西ヨーロッパや東アジア以外は、「海の歴史」に関心のある研究者が少なく、研究があまり進んでいない現実では、補いようがない部分もある。西洋中心史観が時代にふさわしくない歴史観であることは、近代の終焉を感じ始めたかなり以前から気づいていたにもかかわらず、それにとってかわる歴史像が描けないために、時代遅れなままの状況が続いている。

 もうひとつ、歴史をつまらなくしているのは、陸地中心史観で、陸の概念で陸から海を一方的に見てきたからだ。これについては、まだ気づいている人が少なく、研究はまったくないといっていいほど少ない。陸から海へ・海から陸へ、双方向から見る視点がないのは、海を主体的に見る発想自体がなく、海を陸の従属物と見ているからだろう。今日、海を陸地の延長だと見て、紛争の海にしているのも、一方的な陸地中心の見方からだ。古来から、海は、グロティウスが唱えたように、利用する者にとっての「公海の自由」がある。陸地の支配者が占有するものではない。大切なことは、海の歴史研究の発展を、紛争の海を助長するために利用されることなく、平和な海に戻すために役立てることだ。そうしなければ、現実の問題に役に立たない歴史は、つまらない「趣味」の世界のものだと思われてしまうだけでなく、紛争の種になる有害なものになってしまう。

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2013年07月16日

『新・ローマ帝国衰亡史』南川高志(岩波書店)

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 「これはすごい!」、まずそう思った。本書のタイトルの「新」の後に「・(ナカグロ)」がある。その意味を問い、理解することが本書の価値を知ることになるとも思った。

 表紙裏開きに、つぎのような要約がある。「地中海の帝国と言われるローマ帝国は、実は「大河と森」の帝国だった? 衰亡の最大原因とされる「ゲルマン民族」は存在しなかった? あの巨大な帝国は、わずか三〇年で崩壊した?-歴史学の最新の知見から<二一世紀の衰亡史>を語り、栄えた国が衰えるとはどういうことか、国家とはそもそも何なのかを考えさせる、刺激的な一書」。たしかに「刺激的」だった。本書は、「歴史学の最新の知見」を要領よくまとめた概説書ではない。著者、南川高志は欧米を中心とした最新の歴史学を踏まえて、「独自の考え」のもとに新たな歴史像を提示している。

 まず、1970年代以降に歴史学界で新しい解釈の傾向が生じ、90年代に有力になったローマ帝国史を、つぎのように説明している。「古代の終焉期に関する新しい研究においては、ローマ帝国の「衰亡」や西ローマ帝国の「滅亡」を重視しないのである。「変化」よりも「継続」が、政治よりも社会や宗教が重視されるようになり、「ローマ帝国の衰亡」を語るのではなく、「ローマ世界の変容」が問題とされるようになった」。「こうした新しい研究傾向と並行して、ゲルマン民族の大移動の破壊的な性格を低く見積もり、移動した人々の「順応」を強調する学説が提唱されるとともに、ギリシャ人、ローマ人以外の古代世界住民の歴史と文化をより重視しようとする動きも見られた」。

 しかし、著者は、「こうした学界の傾向とは異なり、ローマ帝国という政治的な枠組みの意義を重視する」。そして、つぎのような希望を述べる。「この国家の枠組み、およびそれによって作られていた世界が衰退し崩れ去る局面を取り上げたい。二一世紀に入って、欧米の学界で「ローマ帝国の衰亡」を重視すべきという主旨を持つ著作がいくつか発表されるようになって、今後の学界の動向が注目されるが、それらを参考にしつつも、この書物では私の独自の考えで「衰亡史」を語ることとする。「独自の考え」とは、衰亡の過程の史実に関する創見を意味するのではなく、ローマ帝国の本質に関する見方のことである。長らくローマ帝国の最盛期を研究してきた成果を踏まえて、衰亡史を書いてみたい」。

 「ローマ帝国は、イタリアに発し、地中海周辺地域を征服して帝国となった。そのため、ローマ帝国は一般に「地中海帝国」と理解され、性格づけされている」。しかし、著者はつぎのように別の角度から衰亡史を見ようとしている。「国家生成期はともかくとして、最盛期以降の帝国をも「地中海帝国」とみなせば、ローマ帝国の重要な歴史的性格を見誤ると私は考えている。イタリアや地中海周辺地域だけでなく、アルプス以北の広大な帝国領を念頭に置く必要がある。イタリアに中心を置く立場からは辺境と呼ばれるようなこの地域こそが、最盛期から終焉期にかけて、ローマ帝国の帰趨を決めるような歴史の舞台になったところにほかならない」。

 さらに、つぎのように、その理由を述べている。「私は、イタリアやローマ市といった帝国の「中核」地域から論じる伝統的なローマ帝国論よりも、帝国の辺境から考察するローマ帝国論のほうが、新しい研究と解釈の可能性を秘めていると感じている。辺境地域は、帝国の外の世界との対立や交流を通じて、軍事面でも社会文化的な面においても帝国の本質が顕現する場である。私はここしばらくブリテン島やライン川、ドナウ川周辺の帝国領の研究をしてきたが、こうした辺境属州の実態や動向を知ることで、ローマ帝国の統治や生活・文化の形式について、その特質をより深く理解できると考えている。本書ではそうした視角から見た独自の帝国論を、衰亡を語る基礎としたい」。

 このような著者独自の「ローマ帝国の衰亡の理解、扱いもまた、時代の子」で、本書の目的を「序章 二一世紀のローマ帝国衰亡史」の最後で、つぎのように述べている。「栄えていた国が衰えるというのはどのようなことなのだろうか。それまで当たり前の存在と思われていた世界が動揺し、やがて崩壊してゆくのはどのように理解されるべきだろうか。この重い問いに対して、黄昏ゆくローマ帝国について語りながら、歴史と未来を考える素材を読者に提供すること、これがこのささやかな書物の目的である」。

 著者のいう「ローマ帝国の本質」とは、帝国を支えた「ローマ人」のことであり、その「ローマ人」が増え、「ローマ人」の居住空間の拡大がローマ帝国の拡大となった。そして、その「ローマ人」には、「ローマ国家の約束ごとに従い、その伝統と習慣を尊敬する者なら誰であろう」となれた。属州の民や外部世界から属州に入って生きていこうとする「新しいローマ人」は、「ラテン語を話し、ローマ人の衣装を身につけ」、「ローマの神々を崇拝し、イタリア風の生活様式を実践」すればよかったが、実際には「ローマの生活様式、文化の浸透は緩やかで、都市市民など限られた人々に行き渡った」にすぎなかったようだ。それでも、「ローマ人である」というアイデンティティが、「多様な人々を、排除ではなく、統合する機能を与えて」いるかぎり、帝国は安泰だった。

 著者は最盛期のローマ帝国を、つぎのようにまとめている。「担い手も領域の曖昧な存在であったにもかかわらず、一つの国家として統合され、維持されていた。そして、その曖昧さこそが、帝国を支える要件であったのは、本書で見てきたとおりである。そうした曖昧さを持つローマ帝国を実体あるものとしたのは「ローマ人である」という故地に由来するアイデンティティであった。アイデンティティなるものは本来、他と区別して成立する独自性を核としている。にもかかわらず、最盛期のローマ帝国がこのアイデンティティの下で他者を排除するような偏狭な性格の国家とならなかったのは、それが持つ歴史とその記憶ゆえであった」。

 ということは、「ローマ人である」というアイデンティティが失われたとき、帝国はその存在意義を失い、あっけなく崩壊することを意味した。「四世紀の後半、諸部族の移動や攻勢の前に「ローマ人」のアイデンティティは危機に瀕し、ついに変質した。そして、新たに登場した「ローマ」を高くかかげる思潮は、外国人嫌いをともなう、排斥の思想だった。つまり、国家の「統合」ではなく「差別」と「排除」のイデオロギーである。これを私は「排他的ローマ主義」と呼んだが、この思想は、軍事力で実質的に国家を支えている人々を「野蛮」と軽蔑し、「他者」として排除する偏狭な性格のものであった。この「排他的ローマ主義」に帝国政治の担い手が乗っかって動くとき、世界を見渡す力は国家から失われてしまった。国家は魅力と威信を失い、「尊敬されない国」へと転落していく」。

 そして、著者は、「終章 ローマ帝国の衰亡とは何であったか」を、つぎのような文章で締めくくっている。「ローマ帝国は外敵によって倒されたのではなく、自壊したというほうがより正確である。そのようにローマ帝国の衰亡を観察するとき、果たして国を成り立たせるものは何であるのか、はるか一六〇〇年の時を隔てた現代を生きる私たちも問われている、と改めて感じるのである」。近隣諸国の人びとを「他者」ではなく、ともに新たな地域社会をつくっていく「仲間」ととらえることで紛争を抑え、また、そういう思潮をかかげることで、日本という国家は魅力と威信を保ち、「尊敬される国」になることができる、と本書から学ぶことができた。

 本書を読んでいて、たびたびうれしくなった。「辺境」や「曖昧さ」、「可変的」などということばは、歴史学ではこれまであまり重視されなかった。東南アジアを語る場合、これらのことばを抜きにすることができなかっただけに、古代ローマも東南アジアも、同じ次元で語ることができると思った。東南アジアのような「辺境」から、世界や時代を見ることができることを本書は、実証している。「ローマ人」という曖昧さは、東南アジアの集団を語るときに有効である。また、「集団のアイデンティティも可変的である」というのも、東南アジアにあてはまる。これらのことは、近代に発展した固定的な概念で、前近代も現代(ポスト近代)も語られてきたことを意味し、近代化が遅れたり、未発達な国や地域、人々を軽視してきた歴史観に変更を迫るものである。ようやく歴史学も、近代を乗り越えようとしていると感じた。しかも、ヨーロッパを主戦場としてきた古代ローマ帝国史研究に、日本人が新しい見方を提示したことに誇りを感じる。

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2013年07月09日

『捕虜が働くとき-第一次世界大戦・総力戦の狭間で』大津留厚(人文書院)

捕虜が働くとき-第一次世界大戦・総力戦の狭間で →紀伊國屋ウェブストアで購入

 「第一次世界大戦を通じて捕虜の数は九〇〇万人ほどと考えられている」。そして、帯には、「敵国のために働くとは?」とある。これまで考えが及ばなかった領域に足を踏み入れる予感があった。

 「おわりに」で、本書の意義について、つぎのように説明されていた。「本書は第一次世界大戦の捕虜について、特にその労働について詳しく論じたものである。第一次世界大戦の捕虜の労働について一冊の本の形で論じたものは国際的に見てもこれまでなかったものである。第一次世界大戦が終わって一〇〇年が経過して初めて研究の水準がそこまで達したということになるだろう。大戦が終わってすぐには参戦国の政府、軍、外交当局が自国の勝利(敗北)に向けて取った政策や戦略が問われた。またそれとは視点を変えて、いかに平和を維持するかという問題意識から行われたとは言え、カーネギー財団の支援による大戦の研究も、国家の政策に力点が置かれたという点では、同様であった。ただし個人的な経験としての大戦に関する記録は大戦間期に大量に出版されており、それがその後の研究の進展を支えることになったことも事実である」。

 なぜ捕虜兵の労働について語られなかったのか、著者、大津留厚はつぎのように説明している。「大戦の開始とともに一国の総動員体制の中に組み込まれ、それぞれの労働の場から切り離されて戦場に投入された兵士が、戦いの中で捕虜になり、いったん総動員体制から排除される。その後捕虜は敵国の総動員体制の中で労働力として再登場することになる。総力戦体制が一国の人的、物的資源を総動員する体制と考えたときに、「働く捕虜兵」の存在はその狭間に置かれた存在だった」。「第一次世界大戦が人類が経験する最初の総力戦だったとすれば、それは狭間としての働く捕虜兵の存在を前提にして初めて可能になるものだった。なぜなら交戦各国は戦争が長期化し、国家の人的、物的資源を総動員しなければ戦争を遂行し得ないことに対して備えができていなかったからだ。そこで捕虜兵の労働力が不可欠なものとなった」。「しかし「次の」総力戦をもし戦うとすれば、それは始めから準備をしていなければならなかった。そのときに敵国の総力戦体制を支えることになる可能性のある「捕虜」の存在は排除されることになる。働く捕虜兵の存在は歴史から抹殺されることになった」。

 しかし、それは国家から見たときのもので、個々の捕虜兵には、生活があり、経験があった。本書の「記述の中心は、第一次世界大戦の間にほぼ二〇〇万人の自国兵士を捕虜として失うと同時にほぼ同数の敵国兵士を捕虜として収容したオーストリア=ハンガリーに置かれる。すなわち、シベリアを中心にロシア各地に収容されたオーストリア=ハンガリー捕虜兵とオーストリア=ハンガリーに収容されたロシア人、イタリア人、セルビア人捕虜兵約四〇〇万人がその対象となる。日本で収容されたドイツ、オーストリア=ハンガリー捕虜兵約四六〇〇人は四〇〇万人に比べればわずかな数でしかないが、そこには四六〇〇人それぞれの経験があり、その一千倍の世界を覗く貴重な窓の役割を果たしている」。

 個々の捕虜兵には、生活があった。当然のことが、思い浮かばないのも、戦争という非常時のせいだろうか。そこに生活があれば、戦争が終わり捕虜でなくなったとしても、その地に留まる者がいても不思議ではない。いったん帰還した旧捕虜が、元の収容地に戻ることも珍しいことではない。国家としての戦争は終わっても、「戦時」が続く者がいる。未帰還兵などである。第一次世界大戦中の「一九一七年のロシア革命の発生は一部の捕虜にとっては自発的な帰還を可能にしたが、多くの捕虜が衣食住の保障も失ってシベリアに取り残されることになった。その中には「残る」ことを選択するものもあったし、帰還する意志も失って留まっているものもあった。そこには無数の「戦時」があった」。  これだけ、戦争について長年語られながら、語られないことのほうがはるかに多いことを、改めて考えさせられた。「脱走兵、捕虜、難民、民間人の抑留、自国民政治犯の収容、住民の強制移住、外国人労働者など一国的総力戦論では捉えきれない」多くの重要な課題が残されていることも、本書から学んだ。

 いっぽうで、この第一次世界大戦時の問題は、第二次世界大戦にどのように引き継がれたのだろうか気になった。日本でも、約4600人の捕虜を収容したことが、その後の捕虜の考え方にどのような影響を与えたのか? 「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓への影響はなかったのか? 「引き続く世界大戦」としての捕虜の問題が語られると、第一次世界大戦に「疎い」日本人にも、より身近になってわかりやすくなる。この点について、本書ではつぎのように語られている。

 「日本政府はハーグの陸戦条約を改定した一九二九年のジュネーヴ条約を批准しなかった。その論理は、内海愛子が『日本軍の捕虜政策』で的確に指摘しているように、「相互性」の否定にあった。「帝国軍人の観念よりすれば俘虜たることは予期せざるに反し外国軍人の観念に於ては必しも然らず従て本条約の形式は相互的なるも事実上は我方のみ義務を負う片務的のものなり。」捕虜の「尋常な」労働を保障する国際条約を否定した日本陸軍には捕虜の「強制的な」労働への道しか残されていなかった。国際的に見ても第二次世界大戦における過酷な捕虜体験は戦後にPOW(prisoner of war)研究を大きく進展させたが、第一次世界大戦の数百万人に及ぶ捕虜の「尋常な」労働体験は、「総力戦」と「総力戦論」の狭間で忘れ去られてしまった。本書はこの歴史の欠落を埋めようとするささやかな試みである」。

 本書によって、「総力戦」研究の新たなページが開かれた。

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2013年06月18日

『戦う女、戦えない女-第一次世界大戦期機のジェンダーとセクシュアリティ』林田敏子(人文書院)

戦う女、戦えない女-第一次世界大戦期機のジェンダーとセクシュアリティ →紀伊國屋ウェブストアで購入

 本書は、「大戦の勃発を機に顕在化したイギリスにおけるジェンダー問題を、プロパガンダ、制服、モラル・コントロールをキーワードに読み解いていく」。

 大戦という非常事態は、女性にとってプラスにはたらいたのか、マイナスにはたらいたのか、よくいわれる社会進出のきっかけになったのか、そんな単純なことではなかったことが本書からわかる。それを的確に簡潔にまとめたのが、「あとがき」のつぎの一文である。「大戦は女性の暮らしをどう変えたのか。従来のジェンダー概念にいかなる変更を迫ったのか。大戦とジェンダーを扱った研究が格闘してきたこのシンプルな問いへの答えは、視点を変え、スパンを変えることによって、いかようにも変化する。女性の目覚ましい社会進出と新たなジェンダー秩序の形成。しかし、その陰には常に、限界と揺り戻しがあった。執筆当初は「問い」に対する答えをさがしあぐねて袋小路に入ってしまったが、しだいに、光のあて方によってまったく違う像を見せるその多面性こそに意味があるのではないかと思うようになった。大戦期の女性の前には、おどろくほど多くの道がひらかれていたと同時に、ただ一つの選択肢が決定的に欠けていた。大戦が女性に与えた豊かな選択肢と、同じく女性に課した重い足かせ。そこに生じる軋轢や矛盾、両義性こそが大戦期のジェンダー問題の本質なのだとあらためて思う」。

 戦時に戦う選択のある男性に比べ、女性はより複雑だったことを、著者、林田敏子は「おわりに」でつぎのように述べている。「戦時においては、男性が自らの存在価値を証明するには、軍隊に入隊しさえすれば十分であった。男性に与えられた選択肢は、兵士になるか、ならないかというきわめて単純なものだったからである。しかし、(自国の)兵士になるという選択肢を奪われたイギリスの女性たちは、国民/市民としての価値を男性とは違う形で示さなければならなかった。白い羽運動をはじめとする募兵活動に取り組んだ者、軍需工場で兵器の製造に携わった者、男手の不足する農地で農作業に従事した者、そして、軍の補助要員として戦場へ向かった者。女性たちはさまざまな形で戦争に協力することで、自らの愛国心をかたちにした」。

 その複雑さは、普通、節のない「はじめに」と「おわりに」にそれぞれ4節、3節があることで現されている。「はじめに」の4節のタイトルは、「1 カーキ・フィーバー」「2 大戦がひらいた世界」「3 制服の時代」「4 生産か生殖か」、「おわりに」の3節は「1 セクシュアリティの戦争」「2 大戦が変えたもの、変えなかったもの」「3 「空」への扉」である。そして、具体的事例は、4章からなる本文(「戦いを鼓舞する女」「ベルギーの凌辱」「愛国熱と戦争協力」「「戦う」女たち」)で、各章扉および62枚の図版とともに語られている。

 男性のように単純なものではなく、兵士になるという選択肢を奪われただけに、女性には反戦・非戦のための選択余地があった。にもかかわらず、白い羽運動のように無責任に男性を戦場へと駆り立てる選択をしたのは、なぜか。そう仕向けたのは、なにか。男性からでは見えてこない、時代や社会に潜むものが見えてくる。戦争という非常時の研究から、日常の基本的問題が見えてくる。

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2013年06月04日

『多民族国家シンガポールの政治と言語-「消滅」した南洋大学の25年』田村慶子(明石書店)

多民族国家シンガポールの政治と言語-「消滅」した南洋大学の25年 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 シンガポールのことを、「明るい北朝鮮」と言った人がいる。本書を読めば、その意味がわかる。1965年の独立以来、リー・クアンユーの指導の下、人民行動党が一党独裁を続け、その独裁を批判すれば、国内治安維持法で無期限に収監される。野党も存在するが、選挙区ごとに第1党が議席を総取りするため、野党議員は当選しにくい。

 本書は、そのような独裁体制下で「権力に祝福されない大学」として、1955年の開学からわずか25年で幕を閉じた南洋大学(南大)の歴史を辿る。著者、田村慶子は、その歴史をつぎのように要約している。「数では圧倒的に英語派に勝るものの、政治権力から遠かった華語派華人が、英語派との抗争の末に社会の周縁に追いやられていく過程であり、権力の側から見れば、多民族多言語の社会において民族の言語や文化をどのように政治的に管理するのかという政治と言語の葛藤の歴史である」。

 シンガポールは、淡路島ほどの面積に400万弱の国民が暮らし、その内訳は華人75%、マレー人14%、インド人9%で、中国語を教授用語とする大学があっても、なんら不思議ではない。ところが、この「権力に祝福されない大学」は、「多言語、多文化、多民族社会に生きる多様な人びとをどのようにして単一な国民にするのかという国民統合の考え方が、大学創設者と権力側で大きく異なっていたことと、東西冷戦という時代ゆえ」に、「大学設立構想が発表された一九五三年当時から、イギリス植民地政府と隣国マラヤ連邦政府、当時はまだイギリス植民地であったシンガポール政治指導者にとって、とてもやっかいなものであった」。

 そのため、「イギリス植民地政府は構想を断念させるべくさまざまなことを画策し、マラヤ連邦のマレー人政治指導者は声高に反対した。大学は有限会社として認可を受けて出発したものの、その学位は承認されなかった。シンガポールがマレーシア連邦の一州となった直後の一九六三年には学生や卒業生が大量逮捕され、大学創設者でもあった理事長の市民権を剥奪された。シンガポールが独立国家となって三年後の一九六八年にようやく学位は政府によって承認されたものの、南大は徐々に華語大学から英語大学に再編され、英語大学として一九四九年にイギリスが設立したシンガポール大学と八〇年に合併して、シンガポール国立大学となった。その直後、校舎や講堂、寄付者の名前が刻まれた石碑など、南大を思い出させるものはほとんど壊されてしまい、跡地には南洋理工学院が設立された。学院は一九九二年に南洋理工大学に昇格し、現在に至っている」。

 いっぽう、ときの「権力者」、リー・クアンユーは、2012年に出版した回顧録のなかで、南大を「創設者と学生の多くは共産党の影響を受け、国民統合を阻害した大学」とみなし、つぎのように評価した。「南大は最初から失敗を運命づけられていた。歴史の流れに逆らって創設された大学であった。共産中国の影響力が南大を通して華人に及び、親中国の若者を生み出すことを恐れたため、地域を支配する大国イギリスとアメリカが大学の創設を認めない結果になることを、創設者タン・ラークサイは予測できなかった。タンはさらに東南アジア諸国の国内政治も理解できなかった。親中国のビジネスマンによって創設された大学は、最初から近隣諸国に疑惑の眼で見られた」「南大は一九七〇年代中葉まで二言語で教育を行うことを拒みつづけた」。

 滑稽なのは、徹底的に弾圧された南大が消滅したと同時に、中華人民共和国との関係が好転しはじめ、密接に交流する必要性から、政府が華語奨励運動を展開し、南大の復権さえ取りざたされたことである。このような独裁政権を批判することはたやすい。しかし、小国ゆえに、時代を先読みし、生き残りのために、国民を導く務めが国家指導者にはあった。ましてや、1948-60年は共産主義の脅威から、非常事態が布告されていた。リー・クアンユーは、「断固として物事を進める政府がなければこの国は混乱する」と述べ、強い決意を示した。劣化した民主主義の下で、決められない政治で混乱する国ぐにからみれば、羨ましい面があるかもしれないが、本来あるべき姿ではない。

 救いは、政府からの補助金がおりず劣悪な環境の下で学んだだけでなく、度重なる弾圧で大きな心に傷を負った学生が、その後その経験を生かして活躍していることだ。つぎのように、「おわりに」で紹介されている。「深い心の傷を追ったがゆえに、卒業生の絆は強い。南大がなければ進学することが出来ずに将来どうなっていたかわからない学生たちは、貧弱な大学施設で文句もいわずに助け合って勉学に励んだ。第二章で紹介したように、南大の新入生歓迎会は学生サークル、学科、学部、全学レベルで何度も行われ、学生どうしの絆を深めた。母校を失ったことがその絆をいっそう強め、一九九二年からは国際同窓会が毎年あるいは隔年で開催され、多くの卒業生が家族とともに参加している。一九六八年まで学位が承認されなかったから、南大を卒業後に欧米の大学に留学して学士号を取り、さらに大学院に進学する学生も多かった。経済的に余裕のない卒業生も何年か働いて留学資金を貯めて欧米に渡った。一九六〇年から六七年の卒業生三三二四人のうち一二・六%が海外で修士、博士号を取得している。新設の私立大学としては驚くべき数字である」。

 半世紀以上にわたってシンガポールという国家を率いてきたリー・クアンユーが、2011年に閣僚と人民党の中央執行委員を退いた。人民党の独裁にも陰りがみられるようになってきている。「明るい北朝鮮」から変わる日も近いかもしれない。それは、南大が復権する日を意味する。著者は、つぎのような文章で本書を終えている。「一九六〇年代に「共産主義者」として逮捕、除籍された多くの学生や市民権を剥奪されたタン・ラークサイの名誉回復、南大に「二流の大学」の烙印を押して「消滅」に追いやった政府の強引なやり方の是非が問われるに違いない。そのとき初めて南大は復権するのであろう」。

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2013年05月28日

『「八月の砲声」を聞いた日本人-第一次世界大戦と植村尚清「ドイツ幽閉記」』奈良岡聰智(千倉書房)

「八月の砲声」を聞いた日本人-第一次世界大戦と植村尚清「ドイツ幽閉記」 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 「本書で取り扱うテーマは一見マイナーかもしれない」。しかし、マイナーだからこそ、重要な意味をもってくることがある。とくに本書で扱う第一次世界大戦は、「総力戦」として知られる。研究のほうも、マイナーなテーマを含めて「総力戦」であたらねば理解を深めることはできない。著者、奈良岡聰智は、「おわりに」で、つぎのように説明している。本書で扱うテーマは、「想像以上の奥行きと広がりを持っていると思われる。巻末の表をご覧いただければ分かるように、第一次世界大戦勃発時にドイツにいた日本人は、外交官、軍人、実業家、学者、医師、エンジニアなど、当時の日本を代表するエリートたちであった。本文でも述べたが、これは当時の日本がいかにドイツから多くのことを学んでいたかを反映しており、彼らの存在自体が日独交流の歩みを体現している観がある。このときドイツでどのような人々が何をしていたのか分析することで、日独交流史や日本人の留学史上、興味深い知見が得られると思われるが、本書はその端緒の紹介に過ぎない。今後さらに調査を続けていきたいと考えている」。

 第一次世界大戦直前の在ドイツ日本人の統計資料をみると、外務省の調査で434名、内留学生は約86%の374名、首都ベルリンに限ると206名の内約90%の185名であった。1913年のフランス36名、イギリス83名と比べても、ドイツは圧倒的に多かったことがわかる。それだけに、ドイツ人も日本がドイツから多くのことを学んでいたことを知っていて、日本がドイツに宣戦布告すると「恩知らず」との罵声を日本人に浴びせた。

 著者の本書執筆の第1の動機は、日本本国の人びととは全く異なる大戦経験をした100名近くいた抑留日本人などがどのような経験をしたのか、「従来全くと言っていいほど知られていない、彼らの第一次世界大戦経験を解明しようという試みである。強制退去、抑留、敵国への残留……彼らの経験は、普通の生活では決してありえない、まさしく数奇なものばかりである。彼らの劇的な経験を掘り起し、そのありのままを明らかにしよう」というものである。

 第2の動機は、つぎのように説明されている。「一九一四年に第一次世界大戦が勃発してから、間もなく一〇〇年を迎える。第一次世界大戦を「現代世界の起点」として位置づけているヨーロッパでは、開戦一〇〇年を機として、大戦の再検証がさまざまな形で行われつつある。他方で、当時この戦争を「対岸の火事」としてしか受け止めなかった日本では、大戦が「忘れられた戦争」のままになっている。近年、このような彼我の認識の差を埋めようとする学問的試みが始まっているが、残念ながら我が国では、第一次世界大戦研究の蓄積はまだまだ浅いのが現状である。このようなギャップを埋め、日本にとって「第一次世界大戦」とは何だったのか」を考える一つのきっかけを提供したい。これが本書を執筆した第二の、そしてより重要な動機なのである」。

 本書は、2部からなる。日本の外交記録、新聞、手記など、一次史料をふんだんに活用した第一部では、「第一次世界大戦勃発後の在ドイツ日本人の動向を、退去者、抑留者、残留者に分けて紹介する。次いで第二部では、ドイツで三ヶ月近くにわたって抑留生活を送った医師植村尚清(ひさきよ)の手記を紹介する。この手記は、これまで全く知られてこなかった史料であるが、当時の抑留の実態を詳細に伝えるたいへん貴重な記録である。本書ではこの貴重な史料を、ご遺族の許可を得て、全文翻刻して掲載した」。

 日本人がドイツを退去するにあたって、いくつかの共通点があったことを、著者はつぎのように述べている。「第一に、彼らは、大戦勃発当初は事態を深刻視せず、むしろ戦争を楽しむ風さえあったことである。第二に、その後、大使館や他の在留邦人の動向に気を配って、日独関係やドイツ人の対日感情を悪化の兆しを的確に把握し、退去を決断したことである。第三に、ドイツから退去する際には、友人や同僚と行動し、周囲との軋轢を生じないよう、慎重に行動したことである。彼らは、オランダ経由でイギリスに渡ったという点も共通している。またいずれの人物も、大戦勃発時のベルリンの混乱ぶりや、ドイツ人の対日感情の変化について、よく伝えている。これらは、第一次世界大戦勃発の瞬間に立ち会った日本人の行動や心情の記録として、大変貴重なものであると言うことができるだろう」。

 著者は、日本のドイツ人捕虜の研究が比較的すすんできたのにたいして、ドイツの日本人抑留者についての研究がないこと、また第二次世界大戦など民間人抑留者の研究成果が出てきているなかで第一次世界大戦にかんするものが少ないことなど、研究のアンバランスを指摘している。日本で歴史認識の問題が取りざたされるのも、このような研究のすすみ具合が、国によってあるいはテーマによって大きく異なることが原因のひとつである。「世界大戦」であり「総力戦」であるなら、国やテーマを越えて、総合的に理解する必要がある。その意味で、本書は従来欠けていたものを補うとともに、著者自身今後の課題としている、これをきっかけに「奥行きと広がり」をもって研究をすすめる第一歩となるものである。

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2013年05月21日

『黄禍論と日本人-欧米は何を嘲笑し、恐れたのか』飯倉章(中公新書)

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 「さて、お楽しみいただけたでしょうか。「面白くなければ歴史ではない」などというつもりはもちろんないのだが、諷刺画を扱っているからには、読者の皆さんにはその皮肉や諧謔を味わってもらいながら、当時の歴史を実感していただければと思った。現代の感覚で、当時のユーモアを理解するのは容易ではないでしょうが……」。本書の「あとがき」は、このような文章ではじまる。最後の「現代の感覚で、当時のユーモアを理解するのは容易なことではないでしょうが……」から、著者、飯倉章の苦労が偲ばれる。さらに、著者は、読者に西洋「紳士の嗜(たしな)み」とされる「高度なユーモアやウィット」を理解してもらおうとしている。

 ある意味で風刺画の黄金時代とされる、本書で論じられている19世紀終わりから1920年代半ばまでの歴史と社会を読み解くためには、それが描かれた背景を知る必要がある。著者は、つぎの3点を「序章 諷刺画の発展と人種主義」で確認している。「まず諷刺画家は歴史家ではない。従って、諷刺画も通常の意味で歴史の資料となりうるものではない。ただ、諷刺画を通して、歴史的事件の隠された側面や、外交文書・記録や新聞・雑誌の記事では窺(うかが)い知れない多様な意味が明らかにされることはある。また、表現そのものが荒唐無稽(こうとうむけい)な想像力の産物であったとしても歴史的に意味を持つ場合もあるかもしれない」。

 「第二に、諷刺画を読み解くにはそれが描かれて発表された時のコンテクスト(文脈)を十分理解する必要がある。本書で取り上げる諷刺画は、時事諷刺漫画や政治漫画とも呼ばれるものであり、時代と切り離して普遍性をもって鑑賞される絵画とは異なる。発表された日付や年月、題材としているであろう事件や出来事を理解しないと、まったく違った意味に解釈してしまうおそれがある」。

 「第三には、諷刺画家自身の信念・信条と課せられた制約条件も理解しておく必要があるだろう。諷刺画家は信念・信条を持っているが、思うがままに描けるわけではなく、さまざまな制約条件を課せられている。制約条件とは、読者であり、諷刺画を掲載する媒体の編集者であり、社会や政府である。諷刺画家は、まずは読者のために描くと言えよう。それもたいていはその媒体が売られている地域の特定の読者のために描く。一〇〇年以上も経ってから鑑賞されるとは想定していないだろう。彼らは、さらに自らの作品を掲載する新聞・雑誌の編集者を意識して描く。むろん、諷刺画家が常に読者や編集者に媚(こ)び迎合しているというのではない。その時代の雰囲気を理解しながら、想像力でその一歩先を行くようなものを描くこともあるだろう」。

 本書は、黄禍論を通して、「近代的な人種概念に裏づけられた人種主義」をみようとしている。黄禍論は、「自分たちのみが優等であると信じる白色人種社会が、黄色人種への蔑視に基づく政治・外交を当然と考えていた時代の産物である」。「とくに東アジアの黄色人種、日本人と中国人が連合して攻めてくる、といった脅威」を「黄禍」と名づけた。著者は、さらにつぎのように説明をつづけている。「黄禍思想は、日清戦争後に流布したものである。これは自由・平等・博愛・民主主義・人権尊重を根幹とする西洋近代思想と比べれば、はるかに薄っぺらなものだ。しかし、大衆化が進む西洋メディアのなかで、新聞・雑誌の記事から未来小説、さらにはヨーロッパから新大陸に普及した諷刺画(ふうしが)の格好のトピックとなっていく。さらに、三国干渉後、ドイツの皇帝(カイザー)ヴィルヘルム二世は後に「黄禍の図」と呼ばれることになる寓意画(ぐういが)を西洋の指導者に配ったが、西洋ではこれをパロディ化する諷刺画も多く生まれた」。

 「本書は、そのような人種主義に裏打ちされた「黄禍」としての日本・日本人イメージが、主に欧米の新聞・雑誌の図像、とくに諷刺画のなかで、どのように表彰・表現されていったかを明らかにするものである。一九世紀末から二〇世紀初頭の日本や日本人は、時に極端に歪曲(わいきよく)されて醜く描かれることがあった。しかし、興味深いのは、時々の国際関係のなかで、日本を支持したり頼りにした国々において、「黄禍」をパロディ化して嘲笑(あざわら)ったり、批判している諷刺画もたくさん描かれたことである」。

 そして、「黄禍思想は、日本・日本人に対する西洋人の認識のなかに根を下ろして、日本との対立が顕著になった時に露骨に唱えられることもあった。近代の日本人につきまとった黄禍論を吟味しながら、その影響下で描かれた日本人像」をみた著者は、つぎのように結論して、本書を終えている。「日本は、アジアにおける非白人の国家として最初に近代化を成し遂げ、それゆえに脅威とみなされ、黄禍というレッテルを貼られもした。それでも明治日本は、西洋列強と協調する道を選び、黄禍論を引き起こさないように慎重に行動し、それに反論もした。また、時には近代化に伴う平等を積極的に主張し、白人列強による人種の壁を打ち破ろうとした。人種平等はその後、日本によってではなく、日本の敵側の国々によって規範化された。歴史はこのような皮肉な結果をしばしば生む。そう考えると、歴史そのものが一幅の長大な諷刺画のように思えないでもない」。

 後に「黄禍の図」と呼ばれた寓意画を描かせたドイツ皇帝ヴィルヘルム二世は、いろいろお騒がせな君主だったようだ。第一次世界大戦休戦直後に退位させられたが、本書からも退位させられた理由がわかったような気がした。いっぽうで、かれの言動から、ヨーロッパがアジアをみるときの本音も感じた。

 新幹線のなかで読む本2冊を鞄に入れるはずが、自宅を出た後1冊もないことに気づいたときは、一瞬途方に暮れた。幸い、駅の本屋に立ち寄る時間はあった。そんなときに買った本だったが、それなりに楽しめた。この時代、欧米がけっこう東アジアに注目していたことも確認できた。それだけ、東アジアは欧米にとって魅力的な「侵出地」であったともいえる。

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2013年05月07日

『フィリピンBC級戦犯裁判』永井均(講談社選書メチエ)

フィリピンBC級戦犯裁判 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 日本と日本が植民地にしたり占領したりした国や地域との歴史認識問題は、なぜいつまでもつづくのだろうか。その理由の一端が、本書からわかる。それは、日本とそれらの国・地域の責任の考え方が違うからである。日本人は戦争に加担し、害を直接加えた人に責任があると考えている。しかし、害を受けた人びとは、それを止められなかった人や社会にも責任があると考えている。たしかに一般の日本人も被害者という側面があることは事実だが、軍国主義社会を意に反してであっても結果的に容認した日本人ひとりひとりが、間接的加害者になっていたことも自覚しなければならないだろう。ましてや実際に戦場にいた指揮官や加害の現場にいた者は、その責任から逃れることはできないだろう。ところが、戦後の日本では、早くから戦犯に問われた者も、個人的には立派な人たちであったという「物語」が語られるようになり、責任が問われるどころか、英雄視されるようになった。

 そのあたりのことを、本書ではつぎのように説明している。「一九五二年の戦犯釈放の嘆願署名運動で一〇〇〇万人を超える署名が集まったとされるように、主権回復を境に、日本国内では戦犯を「犯罪人」ではなく、「戦争犠牲者」と見て同情を寄せるムードが広まっていたのである」。いっぽう、刑死した戦犯の遺体を荼毘に付して日本に持ち帰ることに、「フィリピン政府は、日本側が「遺骨を引取つた後これにmilitary honor〔軍人としての名誉〕を与え英雄視するようなことはないか」と懸念を抱いて」いたのである。害を受けた者から見れば、天皇も一般国民も責任を一部の軍国主義者に押しつけ、その軍国主義者を英雄視するのであれば、だれも責任をとらず、戦争への反省がないと思えてしまう。ましてや、そういう軍国主義者を生んだ社会的責任を当時の日本人が感じず、そういう社会にしないように子孫を教育しないのであれば、日本人は正しく歴史を理解せず、軍国主義が復活してふたたび近隣諸国に脅威を与えると、考えられても仕方がないのだが、そのことに思い至る日本人、なかでも政治家が少ないので、歴史認識問題がつづくのである。

 フィリピンでは、一般市民を含め100万以上が理由もなく殺害され、しかも多くのフィリピン人が銃剣などで直接日本兵が身近な人びとを殺すのを目撃した。そのひとりが、1953年にフィリピンで服役中の日本人戦犯に恩赦を与え、帰国を許したキリノ大統領で、かれは1945年2月のマニラ市街戦で妻や子どもを殺害され、目の前の子どもの遺体を収容して葬ることさえできなかった体験をした。

 いっぽう日本では、兵50万以上の戦死者を出したといわれるフィリピン戦線で、その多くが敗走中の病死・餓死者などであったこともあり、戦闘の壮烈さより悲壮感があった。そして、戦後捕虜収容所生活を送り、帰国することになった「日本兵の多くは、フィリピン人の罵声と投石にさらされ、「敗戦の悔しさや「捕虜」の惨めさが身に沁み」る中で、激怒するフィリピン人の気持ちになかなか共感できず、戸惑いや反発心の中にいた」。そのため、「少なからぬ日本人たちが「二度ともうフィリピンなんかに来るものか」と、恨みに近い感情を抱いてフィリピンを後にした」。しかし、なかにはフィリピン人の気持ちが個々の日本兵ではなく、日本人全体に向けられていることを感じとっていた者がいた。「戦犯者の首実検」のために無実の罪で戦犯容疑をかけられたことについて、ある日本兵捕虜はつぎのように語っている。「〔家族を殺されたフィリピン人が〕「この人だ」って言えばすぐ連れてかれる。いやあ、それはよ、「俺でねえ」と、「違う」となんぼ泣いてしゃべっても、「この人だ」って言ってしまえば、片っ端から連れていかれる。やっぱり、フィリピンの殺された人のその家族であれば、たとえば人違っても、その代わりに(別人を)連れていって殺してしまうと。そういう気持ちになっているからよ、だから恐ろしいんだよな。自分で「やらねえ」つったってあとは駄目や」。

 著者、永井均が本書を書こうとした動機も、日本人の知らないフィリピン側から日本人戦犯を見ようとしたところにあり、「はじめに」でつぎのように説明している。「日本側の人々が描く物語からは、モンテンルパ[日本人戦犯が収容されていた刑務所]のもう一方の主役であったフィリピン人たちの「顔」は見えにくく、フィリピン側の思考やふるまいについて、具体的な像を結ぶことは難しい。日比両国民を当事者とする歴史的な出来事の見方は、半世紀余りを経ても、いまだバランスを欠いたままだ。戦犯裁判や受刑者の収監に関わったフィリピン人の考え方や態度などを具体的に知ることで、日本人戦犯問題史をより深く、より広い視野から見る可能性が開かれるのではないか」。

 したがって、著者は本書の課題を「フィリピンから見た対日戦犯裁判の諸相を明らかにすること」とし、具体的には「そもそもフィリピン軍の戦犯裁判は、どのような経緯で実施されることになったのか。フィリピン当局の戦犯政策はいかなるもので、裁判にはどのような特徴が見られるのだろうか。また、フィリピン国民は日本人戦犯や裁判をどう見ていたのだろう。有罪判決を受けた者はモンテンルパのNBP[ニュービリビッド刑務所]で服役するが、フィリピン当局は彼らをいかに処遇したのだろうか。さらには、日本と国交がない中で、キリノ大統領はなぜ一〇〇名を超える日本人戦犯の恩赦を決断し、帰国を許したのか」が議論されている。

 本書は4章からなり、著者はそれぞれの章を「おわりに」で、つぎのようにまとめている。「まず第一章において、米軍の捜査報告を手がかりに、日本軍の残虐行為の諸相を分析し、こうした占領者の暴力がフィリピン人の対日憎悪と強い不信感の源泉にあることを確認した。第二章は、フィリピンの対日戦犯裁判の文脈と、この国家プロジェクトの政策目標、および裁判の展開状況と特徴について叙述した。第三章は、戦犯の服役環境が「寛大」と評された背景を、フィリピン当局の政策面と人的な要因、戦犯たちの態度、比日双方の国民からの支援といった観点から描き出した。そして第四章は、戦犯の刑の扱いをめぐるフィリピン側の対応を、死刑事案の行方(処刑と赦免)を中心に論じ、最終的にキリノ大統領が残余の戦犯全員の恩赦を決定、電撃帰国させた舞台裏を追った」。

 そして、続けてつぎのように結論している。「フィリピンにとって戦犯処理は、戦争によって比日間に生まれた「溝」の源泉を問い直す重要な「戦争の後始末」であり、新生独立国として自らの能力を内外に示す国家的事業であった。裁判の結果は峻厳で、応報的な厳罰色の濃いものだったが、服役と刑の執行段階では寛容と慎重さを基調とし、関係性の修復が志向されていた。このように本書は、戦犯裁判だけに焦点を当てるのではなく、服役や赦免までの全過程を分析対象に据えることにより、戦犯処理の評価として、従来のような「復讐」や「報復」とは別の見方、すなわち関係修復を模索する重要プロセスと捉える見方がありうることを示した。戦犯処理のプロセスを、当時の対日政策や世論動向と関連づけて考察する本書のようなアプローチは、隣国の対日観-戦争認識のすれ違い-の由来を歴史的に理解するための補助線ともなるであろう」。

 さらに、「本書はまた、隣国との歪んだ関係に対処する際、破局を避けようとする努力と選択が重要であることを示唆した。併せて、破綻した関係を回復の方向に向かわせていくうえで、個人や仲介者が果たす役割の重要性についても強調した」と述べ、つぎのように本書を結んでいる。「「悪い関係の中にあっても、人と人との温かい交流があった」こと、比日両国の対立的状況の陰で、決して目立ちはしないが、関係改善を模索する努力が個人ベースでなされていたことに、我々はもっと注意を払うべきであろう」。

 冒頭で述べたように、個々の戦争責任を集団として、つまり日本人として、さらには日本人の子孫として、はたして受けとめることができるのだろうか。わたしは、そうしてきた人を知っている。詩人でノンフィクション作家の森崎和江さんである。1927年に朝鮮大邱で生まれ、戦争中1944年に帰国するまで朝鮮で育ち暮らし、戦後の日本社会のなかで一身に日本による植民支配にたいする強い贖罪意識を背負って生きてきた。本書から伝わる戦後の日本社会のなかで、かの女がどのように苦しんだのか、改めて考えさせられた。かの女の苦しみをほかの日本人に理解してもらえず、朝鮮の人びとと日本人との良好な関係が築けないことを危惧し、歴史認識問題のようなことがおこる度に心を痛めたことだろう。植民地や占領地の人びとを苦しめた原因に、戦前戦中の日本社会があり、それを容認した贖罪意識を個々の日本人が感じないかぎり、そしてそのことを後世に伝えないかぎり、歴史認識問題に終わりはないだろう。だが、終戦直後からはじまる歴史認識問題の源流を本書から学べば、終わりがはじまるきっかけになるだろう。

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2013年04月02日

『ホロコースト後のユダヤ人-約束の土地は何処か』野村真理(世界思想社)

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 「ホロコーストの嵐が吹き荒れるなか、ユダヤ人に逃走する理由がありすぎるほどあったとすれば、戦後、彼らはなぜ、もとの居住地に帰還して生活を再建せず、ヨーロッパを去ったのか。彼らは、どこに行きたかったのか」と、著者野村真理は「帯」で問うている。「序」で、1946-51年にパレスティナ/イスラエルに渡ったヨーロッパ・ユダヤ人は38万人以上、アメリカはじめパレスティナ/イスラエル以外に移住した者は約16万5000人と記されている。この数字から、当時現場にいた連合国軍最高司令部元高官は、つぎのように「特記に値する」と述べている。「イスラエルは、シオニズムと主権をもつユダヤ国家設立願望との賜物とみなされるより、ユダヤ人の移住に対して世界が設けた理不尽な障壁のために、必要に迫られた選択の結果と見ることができるだろう」。

 本書は、「ホロコースト後、イスラエル建国にいたる事情は、正確に知られているとは言いがたい」ドイツ史研究者を中心とする研究と、戦後ポーランドの歴史的状況にいたるまで視野におさめることが容易ではないパレスティナ近現代史研究との隙間を埋めようとする試みである。

 本書は2部からなり、それぞれの部は3章からなる。著者は、「第一部と第二部の各章を通し番号とすることによって、それらが時系列的に発生したかのような印象を与えることを避け」ている。「第一部と第二部で述べることは、ほとんど同時並行的に、互いにほかの出来事の引き金となり、また結果となりつつ進行し」、「第一部では、ユダヤ人DP[Displaced Persons]問題発生の経緯と、この問題に対するアメリカ、イギリスの対応について詳述」している。「第二次世界大戦後のDPとは、第一義的には、戦争に起因する事情によって本来いるべきところから移動させられた(desplaced)人々をさす。それゆえ戦争という原因が消滅すれば、帰還によってその人数は減少するはずである。ところが、ユダヤ人の場合、戦後になってポーランド等を脱出したユダヤ人が、上述のDPの定義を混乱させつつDPと認定され、その数が一九四七年にいたるまで増加し続けるという、特異な経過をたどった」。

 「これに対して第二部は、視点をユダヤ人DPとシオニストの関係に移し、イスラエル建国にいたるまで、シオニストがユダヤ人DP問題に対し、必要に迫られ、あるいは戦略的に、いかにかかわったかを明らかに」している。「以上の第一部、第二部を通じて明らかにされるユダヤ人DP問題は、第二次世界大戦後のヨーロッパで発生した膨大な数のDPおよび難民問題の一部であった」。

 本書のキーワードである「DP」「ユダヤ人」など、だれのことをさしているのか、はっきりしないという厄介な問題がある。そこで著者は本論の流れを中断することを避けるために3つのコラムを設けて説明したり、「序」で説明するなどの工夫をしている。それでも本書で取り上げられている人口は目安にしかならない。ことばも、決まり切っているわけではない。たとえば、「ホロコースト」という「古代ユダヤ教で犠牲の動物を祭壇で焼き、神に捧げる燔祭(はんさい)を意味するギリシア語に由来する」語が意識的に避けられることもあり、フィルムでは「ショアー」という「ヘブライ語で大惨事を意味する」語が使われた。

 本書から、ヨーロッパ世界の基層が見え隠れし、より深層にいたる道筋の一端が示されたように思えた。進んでいるようにみえるホロコースト研究にも偏りがあり、より広い視野のなかでの考察が必要なことがわかった。いまだ問題の解決の糸口さえ見出せない中東問題を考えるには、本書のように基本から掘り起こしていくしかないだろう。その意味で、「序説」からの進展を期待したい。

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2013年03月12日

『ナチ・イデオロギーの系譜-ヒトラー東方帝国の起原』谷喬夫(新評論)

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 ヒトラーといえばユダヤ人虐殺というイメージがある。しかし、著者、谷喬夫は「あとがき」で、つぎのように述べている。「もし<ホロコースト>だけを単独で考察してしまうと、ヒトラーの蛮行は政治思想の対象というより、結局かれの人格上の欠陥やパラノイアに、追従者たちは「権威主義的人格」に還元されてしまう恐れがある。しかしヒトラーの幼少期や青年期の伝記をいくら詳細に眺めても、それがいかに興味深いにせよ、その政治思想の秘密を解く鍵が見つかるわけではない」。「ユダヤ人絶滅政策を誘発したヒトラーの東方支配のアイディアは、決してかれ個人の病的妄想の産物ではない。ヒトラー自身は黙して語らないが、それは本書が明らかにしたとおり、一九世紀のドイツ・イデオロギーやクラースら帝政末期の極右派、さらにルーデンドルフに代表される東部戦線の白昼夢を引き継いだものである」。

 著者の疑問は、「いったいこうした東方支配のアイディアはどこから来たのだろうということであった」。「そこで本書では、ヒトラーの東方大帝国構想が思想史的にみてどこにその起原を有していたのかを追求してみた。その系譜として、わたしはトライチュケを代表とする一九世紀ドイツ・イデオロギー、帝政ドイツの極右勢力、全ドイツ連盟会長クラースの政治思想、さらに第一次世界大戦末期のドイツ東部戦線の国民的経験に出会った。ヒトラーはこうした思想的系譜との連続性を示しながら、しかしそれを誰もが想像し得ないほどに急進化、凶暴化した。ナチにおける合理性と非合理性の「悪魔的統合」(M.ホルクハイマー)は、伝統的右翼の想像し得ない野蛮を生み出したのである。したがって本書はナチ・イデオロギーの系譜を、ドイツ政治思想の連続性と非連続性の二重構造のなかに探ろうとした試みである」。

 かねてよりドイツはなぜ、海外植民地の獲得に積極的でなかったのか、不思議に思っていた。その理由のひとつは、歴史的にイギリス、オランダ、フランス、さらにはデンマーク、スウェーデンのように東インド会社あるいはそのような海運力がなかったから、と考えていた。しかし、本書では、東方政策との関連で、つぎのように説明されていた。「なぜ海外よりも内陸植民の方がふさわしいのだろうか。その理由は、海外植民の場合、人口流出によって「ドイツ民族の力の消耗」、「民族喪失」をもたらす可能性が高いからである。この点もヒトラーによって東方政策の論拠として受容されている。したがってクラースによれば、海外植民地の目的は当面、原料調達や製品販路、軍事上および交通上の中継基地とされるべきなのである」。

 また、別のところでは、つぎのように説明されていた。「ドイツが必要としているのは、ヨーロッパ内部の植民地であり、そこに健全なドイツ人農民階級を育成することである。内陸の植民地に自営農民が増大すれば、大都市の過密状態も、移民という民族の海外流出も食い止めることができ、食糧の自給体制も確立することができる。海外植民地は、ドイツ民族の流出という欠陥を持っているから、あくまでヨーロッパで、「われわれは西でも東でも土地を要求しよう」というのである。ヒトラーは『わが闘争』において、ヨーロッパ東部へ植民地を獲得するという目標を、自分の独創のようにいっているが、実はこうした方針は全ドイツ主義者の主張だったのである」。

 そして、人種差別、能力主義、社会主義敵視なども、クラースなどの思想に行き着くことを、つぎのように述べている。「クラースにとって、また社会問題の深刻さを自覚する保守派にとってさえ、社会主義者は<帝国の敵>である。クラースによれば、そもそも普通選挙は、劣等で無能で粗暴な者と、「尊厳[略]」「能力[略]」「円熟[略]」を備えた者(クラースによれば、こうした人々は当然「財産と教養」を有している)を同列に扱う悪しき平等思想(その創始者はルソー)に基づいている。制約なき普通選挙によって、劣等者の支配に道が開けたのである。もし帝国の伝統を維持したければ、劣等者の支配をたくらむ社会主義者は追放されるべきであり、国家が自己保存権を有する限り、法治国家の下でもこうした特例法の制定は可能である。さらにクラースによれば、社会主義の危険を一層深刻にしているのは、その背後に、ドイツ民族を汚染するユダヤ人がうごめいていることである。そのインターナショナリズムはドイツの国益を著しく損なうことになる」。

 今日でも、たとえばEU内の債務危機に陥っている国々を、ドイツが同じような目で見ているとするなら、民主的なEU像は見えてこない。いっぽうで、このような見方が否定できないような状況が、日本にもあるとするなら、ヒトラーの急進化、凶暴化にいたるような環境が日本にもあるといえる。本書によって、その系譜はわかった。しかし、もういっぽうでそれを止めることができなかった原因を明らかにしなければ、第二、第三のヒトラーが出現することになる。

 また、ドイツの東方政策と同じようなことは、ソビエト連邦時代(1922-91年)に連邦内各地へのロシア人移住としておこなわれ、中華人民共和国の漢族の「周辺」への移住は今日もつづいている。そう考えると、国民統合の名のもとにおこなわれる「生存闘争」は、今日でも世界各地でおこなわれているといえるかもしれない。

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2013年03月05日

『記念碑に刻まれたドイツ-戦争・革命・統一』松本彰(東京大学出版会)

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 東西ドイツの統一から丁度1年後の1991年10月3日に、ブランデンブルク門を見に行った著者松本彰は、「統一後にドイツ人の歴史意識がどのように変化していくか確かめたいと思い」、「記念碑のハンドブック」「記念碑の通史」を手に入れ、「何かがつかめるのでは、という予感がして、記念碑巡りを始めた」。本書の特徴は、冒頭16頁のカラー写真に加え、本文中93頁にわたる図版が掲載されていることで、「記念碑索引」6頁、「図版データ一覧(撮影年月・出典)」5頁が巻末に添えられている。

 「ドイツ統一」は、これが初めてではなかった。一般に知られる「一八六七、七一年のドイツ統一」に加えて、著者は「ヒトラーがオーストリアを併合した「合邦」=「一九三八年のドイツ統一」にも注目し、「範囲も意味するものも大きく異なる「三回のドイツ統一」と、戦争、革命の関係を問題にしながらドイツ史を再考」した。その成果が、本書である。

 本書は、「序章」と6章、「終章」からなる。著者は、つぎのようにまとめている。「本書は、記念碑の歴史を追いながらドイツ史を再検討すること、「記念碑に刻まれたドイツ」について考えることをテーマとする。ホブズボームの時代区分を用いて、第一、二章でフランス革命から第一次世界大戦までの「長い一九世紀」を、第三、四章で「短い二〇世紀」の前半、「現代の三〇年戦争」としての二つの世界大戦の時代を、第五章でその後の一九九〇年までを、第六章で一九九〇年以降を扱う。終章ではドイツ・デンマーク国境を取り上げる」。

 本書を読み解く鍵のひとつに、「国民」がある。著者は、「あとがき」でつぎのように述べている。「確かに、ドイツでは国民の意味するものが、時代によって、立場によって大きく異なり、そこには大きな断絶がある。本書では国民が三重の意味で用いられたことを指摘しつつ、一九世紀はじめからナチズムまでの国民記念碑への熱狂と、その後の「過去=ナチズムの克服」のための記念政策を追うことになった」。

 そのことをもっと具体的に、「序章」の「アイデンティティの重層・複合」で説明している。「ドイツ統一は、それぞれの個人にとっては、アイデンティティの問題である。ドイツでは「国民」が三重の意味で用いられたことに象徴されるように、国家と民族の関係が複雑で、どこまでがドイツか、誰がドイツ人か、様々な理解があり、人々のアイデンティティは重層的かつ複合的だった。平時ではアイデンティティは重層的、複合的、あるいは分裂的であっても差し支えないが、戦時にはそれは許されない。「ドイツは一つ」にならなければならない。人の命は一つであり、その一つの命を国家に捧げることが求められる。例えば、ドイツ系ユダヤ人の多くは、ドイツ語を話し、ドイツ文化を担い、ドイツ国民としてのアイデンティティを持っていた。一九世紀末以降、彼らへの差別が厳しくなるが、第一次世界大戦が勃発した時、かなりの数のユダヤ人が志願兵として戦場に向かった[一二一頁]。また、ドイツの国境は時代によって移動しており、住民の国籍はそのたびごとに変更させられた[終章]」。

 「強力な国家のために、誇り高い市民=国民=「兵士としての男」が必要とされ、ジェンダー的、民族的、宗教的、階級的な弱者、マイノリティは差別され、抑圧され、それに対する抵抗は社会運動を生み出した。ドイツでは統一のため、強いドイツのために戦争が繰り返され、行き着いた先がナチズムによる破局だった。ドイツ中に蔓延する「勇敢な兵士、強い男」「倒れた兵士を悼む、やさしい母と娘」というステレオタイプ化された戦争記念碑の表象は、「ゲルマン以来の伝統」とされたが、明らかに「創られた伝統」だった」。

 このような「重層・複合」的な問題を抱えながら建てられた記念碑は、多面的な分析が必要であり、著者は「記念碑の政治学」「記念碑の美学」「記念碑の宗教学」の3つの視角から考察を試みている。そして、「記念碑の歴史を具体的に考える上で、特に注意すべき五点」をあげている。「第一に、記念碑には事件の後、かなり経ってから建てられるもの」がある。「第二に、記念碑のその後にも注目すべきである」。「第三に、建てた側の「意図」だけでなく、見る側の「受容」も問題にしなければならない」。「第四に、記念碑の様式や意味の変化を追っていくことが重要になる」。「第五に、重要な記念碑は既存の記念碑、それもかなり遠方の記念碑や外国の記念碑なども意識して作られる。記念碑相互の関係について、長い歴史の中で総合的に検討する必要がある」。

 「ベルリンの壁」が崩壊し、記念碑をめぐって激しい論争が起こったことが、著者を記念碑巡りへとかきたてた。そして、記念碑論争が、ドイツ人の歴史への関心を呼び起こした。日本も、近隣諸国との「歴史認識」問題を抱えている。「終章 ドイツ・デンマーク国境の記念碑」は、双方から歴史をみつめる必要性を説いている。本書全体を通して、ヨーロッパ世界のなかで、とくに近隣諸国・民族との関係のなかで議論を進めている。それにたいして、日本人は東アジア地域のなかで歴史を考える土壌が生まれ、育っているのだろうか。ドイツの歴史から学ぶことも多い。

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2013年02月19日

『東アジア海域に漕ぎだす1 海から見た歴史』羽田正編・小島毅監修(東京大学出版会)

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 『海域から見た歴史-インド洋と地中海を結ぶ交流史』(名古屋大学出版会、2006年)の著者、家島彦一は、つぎのように明確に自らの立場を述べている。「海(海域)の歴史を見る見方には、陸(陸域)から海を見る、陸と海との相互の関係を見る、海から陸を見る、海そのものを一つの歴史的世界として捉えたうえで、その世界のあり方(域内関係)、他との関係(海域外や陸域世界との関係)を見る、などのさまざまな立場が考えられる。私の研究上の立場は、それらのうちの最後にあげたように、陸(陸域)から海(海域)中心へと歴史の視点を移すことによって、海そのものを一つの歴史的世界として捉えること、そして海域世界の一体性とその自立的な機能に着目すること、さらには海域世界から陸域世界を逆照射(相対化)することにあるといえる」。本書は、前2者の「陸(陸域)から海を見る、陸と海との相互の関係を見る」立場で書かれている。「海から見た歴史」にもいろいろあるが、本書は比較的閉じられた海域である東アジア海域を中心に扱っており、陸の関与が大きいため、この立場になったのだろう。

 全6巻からなる本シリーズを読み終えたとき、「あなたの世界観はきっと変わっている」と、「刊行にあたって」の最後に書かれている。本シリーズでは、「八九四年の遣唐使廃絶から一八九四年の日清開戦にいたる」「一千年間を対象とし、ほとんど正式な国交がなかったにもかかわらず、多彩で豊富な交流の営みがおこなわれ、それらが日本で、〝伝統文化〟と呼ばれているものを生みだすうえで決定的な役割を果たしたことを明らかにしていく」という。

 その第1巻「海から見た歴史」は、画期的な編集方針のもとに執筆された。編者、羽田正は、そのことをつぎのように「あとがき」で説明している。「研究会を頻繁に開いて、参加者全員が納得するまで徹底的に議論を交わし、いくつかの概念や歴史の見方、歴史叙述の方法について共通の理解を得ようとしたのである。そして、その理解にもとづいて、「東アジア海域」の過去を解釈し、叙述することを試みた。すでにさまざまな考え方があるところで新たな歴史理解や叙述方法を打ち出そうとするのだから、当然、研究会での議論はつねにおおいに白熱した。異なった見解を持つ研究者同士がどうしても譲らず、いささか険悪な雰囲気に陥ったこともあった。結果として、すべての点において、参加者の合意が得られたとは、残念ながら言えない。しかし、この方法を採用したことによって、参加者間での情報共有が飛躍的に進み議論がおおいに深まったことは間違いない。そして、一人の研究者による個別研究では到達できないようなレベルと広がりを持つスケールの大きな共同研究の成果を提示できたのではないかと思う」。

 具体的には、つぎの4つの段階に分けて本書の執筆・編集作業が進められた。「1 プロローグと第Ⅰ部から第Ⅲ部という四つのパートについて、執筆と編集を担当する複数の編著者を決め、彼らが草稿を作って各部と全体の研究会に提出した」。「2 原稿の大筋が一応できあがったところで、四名の方に通読、コメントをお願いした」。「3 編著者グループから各部の主編者を決め、彼らが、各部の原稿のとりまとめを担当し、四つのパートを通読して、相互に記述内容の重複や矛盾、用語の意味などについてコメントし、各々の原稿の推敲をおこなった」。「4 四つのパートの主編者が、最終稿を仕上げて東京大学出版会に提出し」た。

 このような「理系の研究でふつうに見られるような研究者の連名による発表方法」を採用した結果、本書は「海によって結ばれた、近代以前の東アジアの往来の歴史を、俯瞰的に見つめなおす」優れた概説書に仕上がった。その基本的なスタンスを、編者は「プロローグ 海から見た歴史へのいざない」でつぎのように述べている。「私たちの多くは、これまでなかば無意識のうちに陸の権力の視線で当時の歴史を理解してきた。しかし、海域の側から見れば、同じ対象が異なって見えるのではないか。陸中心の政権の目で記されてきたこれまでの東アジア史を見直し、海と陸をあわせた東アジアを想定し、その歴史を描いてみたい。海を真ん中においてそこに生きる人びとの目線で歴史を考えてみたい」。

 本書で呼ぶ「海域」は、「ある区切られた範囲の海をさす自然地理的な用法とは異なり、人間が生活する空間、人・モノ・情報が移動・交流する場としての海のことをさしている」。そして、「本書の主要な舞台となる「海域」は、具体的にいえば、東シナ海と黄海を中心に、北は日本海・オホーツク海、南は南シナ海へと南北に連なるユーラシア大陸東辺の海である」。

 本書は3部からなり、「少し変わった叙述スタイルを試みている」という。「歴史書によくある時系列に即した通史的な叙述ではなく、時間的に異なった三つの時期を取り上げて、その時代の海域とそれを取りまく地域の特徴をモデル的に再現しようとした。このような構成をとったのは、抽象的な概説ではなく、できるだけ、海の中心に視座をおいて周囲をぐるりと見回すパノラマのような具体的なイメージを読者に届けたかったからである。しかし、すべての時代にわたってそのような記述をおこなうには、紙数にも時間にも制約がある。そこで、この海域の歴史的特質が浮かびあがるように、三つの「百年間」を選びだして、それぞれの時代の特徴や多様性を具体的に描き出してみようというのである。このような手法は演劇ではよくみられる。本書を三部構成の海から見た歴史劇と見立てていただくのもよいだろう」。「三つの「百年間」とは、次の通りである」。「第Ⅰ部 一二五〇年-一三五〇年 ひらかれた海」「第Ⅱ部 一五〇〇年-一六〇〇年 せめぎあう海」「第Ⅲ部 一七〇〇年-一八〇〇年 すみわける海」。

 さらに「本書では、三つの「百年間」を叙述するにあたって、海から眺める視角やものさし、叙述の流れなどを、できるだけ揃えることにし」、「まず、各部の冒頭には「時代の構図」が置かれ、それぞれの「百年間」の海域の位置づけと特徴が述べられる。つづいて、「人」がテーマとなる。私たちは海域と関わった人びとを、(1)政治権力やこれと密接な関係をもつ人びと、(2)航海や貿易と関わる人びと、(3)沿海で暮らす人びとの三つの範疇でとらえることにした。それぞれのグループが海域の歴史の展開にどのような役割を果たし、どのように関わったのかが説明され、また、各時代に海域交流の舞台となった港町とそこでの貿易の実態や「国外」から来た人びとの存在形態や権力による管理などの特徴についても述べられる。次は「モノ」だ。海上を運ばれたモノの多様性や時代的特徴を明らかにし、モノの観点から、各時代の東アジア海域の経済面での特徴が論じられる。最後は「情報」である。技術、学芸、美術、信仰、思想など、広い意味で「情報」に関わる要素の受容や拒絶の諸相が取り上げられ、それぞれと東アジア海域の歴史との関わりが説明されることになる」。

 本書から「陸の世界から見えにくい」海域を、明確な問題意識をもって「陸地人の目線・文脈にそって書かれている」史料を丹念によみ、再構成することによって、その内実や「陸域」との関係性を具体的に明らかにしようとしている。「海域に生きる人びとの権力への帰属意識や「よそ者」との距離のとり方は、陸の人びとと同じだったのだろうか。「家族のために汗をながす」漁師や船乗りと、「人殺しをものともしない」海賊や兵士はどういう関係にあったのだろうか」という問いにたいして、「海域を中心に据えた歴史、すなわち「海から見た歴史」」を明らかにして答えようとしている。その試みは、本書の設定した「海から見た歴史」において、現在の研究成果を存分にいかして、成功しているといっていいだろう。読者の世界観も変わり、学ぶことも多かっただろう。

 本書から、陸の人びとが海を媒介にして、あるいは海と接点をもつことによって明らかになった「海から見た歴史」を、さらに発展させ、冒頭で示した家島のいう「陸(陸域)から海(海域)中心へと歴史の視点を移すことによって、海そのものを一つの歴史的世界として捉えること、そして海域世界の一体性とその自立的な機能に着目すること、さらには海域世界から陸域世界を逆照射(相対化)すること」へと考察を深めていくためには、海域を主体性をもった空間として研究している地域研究者や自然科学者との共同研究が必要になるだろう。そうすることによって、陸の人びとが海と接点をもったその先の海域世界が姿を現してくるだろう。また、本書はあくまでも、人間中心の歴史である。鶴見良行の『ナマコの眼』(筑摩書房、1990年)のような視点が加われば、陸の海商が手に入れた海産物や林産物、中国で南海の物産と呼ばれた商品が、どのような環境(自然や社会)のもとで収集(生産)され、運ばれ、海商の手に届いたのかも、その一端がわかってくるだろう。領域・領海を近代国民国家の1要素と主張する「紛争の海」の危険性から解放するためにも、陸から離れた共存・共生する海の主体性を語る歴史観が必要になる。

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2013年02月12日

『フィクション論への誘い-文学・歴史・遊び・人間』大浦康介編(世界思想社)

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 本書は、京都大学人文科学研究所の共同研究「虚構と擬制-総合的フィクション研究の試み」の成果をもとにした論文集である。本書の狙いは、「なによりまず読者にフィクション論の諸相にふれてもらい、「フィクション論的思考」とでもいうべきものを知ってもらうことにある」。その理由を、編者大浦康介は、つぎのように「まえがき」の冒頭で説明している。「「フィクション論」は、おおよそ一九七〇年代以降、欧米では着実に地歩を築いてきた研究の一分野であるが、日本ではまだまだ馴染みが薄いというのが実情だろう。じっさい、フィクション作品(小説、演劇、映画等)を論じればフィクション論だといった短絡的な誤解も根強い」。

 「フィクション論の「守備範囲」は広い。それはおそらく虚構を生み出し、虚構を用い、虚構と戯れるということが、人間の基本的な文化的営為のひとつだから」であり、「夢想や妄想といった心的現象までフィクションに含める」と、「フィクション」の意味は無闇に広くなる。しかし、「フィクション論の可能性も、難しさも、そこに潜む陥穽もこの点に由来する」。

 本書は、序論、それぞれ3章からなる4部全12章、7つのコラム、8つの読書案内(フィクション論の基本文献)からなる。まず、「序論」で「フィクション論ではいったい何が問題となるのか、どこがフィクション論の「勘どころ」なのかを、先行研究の成果も踏まえながら概説」する。「フィクションは身近な存在であるが、それを扱うフィクション論が何かはよく知られていないからである」。4部からなる本論部分の第Ⅰ部「フィクションの諸相」では、「小説、映画、マンガなどをおもな分析対象として」論じる。第Ⅱ部「フィクション論の新たな地平」では、「これまでフィクション論であまり問題にされることのなかったジャンルを正面から」扱う。第Ⅲ部「フィクションと歴史叙述」では、「テーマを絞って、フィクションと歴史叙述の関係を問題」にする。最終第Ⅳ部「原理的問いかけ-現実、表象、語り」では、「「現実(性)」、「表象」、「語り」などをキーワードとして、フィクションに関する「原理的問いかけ」」を試みる。

 編者は「序論 フィクション論の問題圏」で、「フィクション論が提起する問いには、大きく分けて二種類ある」とし、つぎのように説明している。「ひとつは「フィクションとは何か」という、いわばど真ん中の問い。虚構性、すなわちフィクションをフィクションたらしめている属性に関する問いである」。「もうひとつの大きな問いは、フィクションの効用にかかわるものである」。これらふたつの問いは、「ときに交錯しつつ、フィクション論のフィールドを形づくっている。もちろん、問いはこれに尽きるわけではない。「フィクション能力」の獲得をめぐる心理学的問題、フィクション概念の成立をめぐる歴史的問題、西洋圏とそれ以外との差異に関する比較文化的問題など、いずれもスケールの大きな問題が後に控えている。本論では、これらすべてを十分に論じることはむろんできないが、少なくとも諸問題の位置関係を明らかにし、大まかな理論的見取図のようなものを提示できればと考えている」。

 この「序論」では、アリストテレスが歴史叙述との対比において、「自然の模倣であると同時に創造でもあるポイエーシスの普遍性」を主張したことを、つぎのように引用している。「詩人(作者)の仕事は、すでに起こったことを語ることではなく、起こりうることを、すなわち、ありそうな〔本当らしい〕仕方で、あるいは必然的な仕方で起こる可能性のあることを、語ることである。〔……〕歴史家はすでに起こったことを語り、詩人は起こる可能性のあることを語る〔……〕。したがって、詩作は歴史に比べてより哲学的であり、より深い意義をもつものである。というのは、詩作はむろん普遍的なことを語り、歴史は個別的なことを語るからである」。

 これにたいして、第Ⅲ部第9章「歴史叙述と「想像力」-戯曲を素材に」で、小関隆は、現代アイルランドを代表する劇作家フランク・マクギネスの『ソンム川に向かって行進するアルスターの息子たちを見守り給え』をとりあげ、第一次世界大戦中の1916年のソンムの戦いで多くのアルスター兵が犠牲になった事実を通して、「歴史学とフィクションの関係という難問に関するなんらかの示唆を得ること」を試みている。

 そして、「むすびに代えて-「史実」とフィクション」で、つぎのように考察を深めている。「『ソンム川』が強烈なインパクトをもつ作品として評価されたのは、複数の声の対話という戯曲の特性に依拠しつつ、マクギネスが存分に駆使した、歴史学を取り巻くさまざまな制約から相対的に自由な「想像力」が、「史実」べったりでは到達しがたいある種の「真実」に迫りえたからこそであった。そして、もう一歩踏み込んで、フィクションが突破口を開いたがゆえに、「ソンムの血の犠牲」のアカデミックな再検討が可能になった、と論ずることもできるかと思われる」。

 「さらに、「想像力」を過度に排除しない「新しい歴史学」の模索を促すメッセージを『ソンム川』に聞きとることも、間違いではないかもしれない。それは「実際に起こった出来事」だけでなく「起こりえたかもしれない出来事」までをも引き受ける、現実には封じ込められた可能性へと「想像力」を適用してゆく歴史学である」。

 そして、つぎのように言い切る。「歴史にifをいうな、との常套句には、こう応答しよう。有意なifを歴史に投げかける能力こそ歴史研究者に求められるものであり、この能力を「想像力」と呼ぶことは決して的外れではない、と。聡明な「想像力」から発せられる限り、歴史にifをいうことは奨励されてよい」。「新しい歴史学」者は、アリストテレスのいう詩人の能力をもつことによって、歴史を普遍的、より哲学的で、深い意義をもつものにすることができるようになる。

 フィクションのない社会、人間関係はつまらないことが、本書をとおしてわかった。いっぽうで、フィクションがもつ影響力の大きさ、深刻さにも気づかされた。わたしたちが、フィクションと上手につきあっていくための基本的知識が、本書にはいっぱい詰まっている。

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2013年01月22日

『日本統治時代台湾の経済と社会』松田吉郎編著(晃洋書房)

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 本書は、兵庫教育大学東洋史研究会を前身とする史訪会の会員13名からなる論文集で、「新たな研究成果を盛り込んで体系的に日本統治時代台湾の社会経済史を述べる必要がある」との考えから企画されたものである。

 その13の論文(章)は、つぎのように編著者によって紹介されている。「台湾の物産・金融について、堤和幸は米穀流通と籾摺り業者の土壟間の活動を述べ(第1章)、新福大健は砂糖生産に関連して糖業連合会の活動を述べ(第2章)、池原一磨は品種改良の視点から台湾糖業を述べ(第3章)、浜野勇貴はバナナ産業の推移を述べ(第4章)、河原林直人は茶業をめぐる商人の角遂について述べている(第5章)。松田吉郎は台湾の金融機関である産業組合の役割、及び戦後における信用合作社、農会への継続性について述べている(第6章)。趙従勝は台湾拓殖株式会社による海南島農業開発が台湾経験の海南島移植の側面と海南島事情に適応し、戦時下の緊急的農業であったという二側面を指摘している(第7章)。ここまでの論文は日本統治時代の物産(米・砂糖・バナナ・茶)とその金融であった。特に、従来の研究では台湾の経済は米・砂糖のモノカルチュアという研究が盛んであったが、これらの研究成果によってそうではなく、マルティカルチュアであることが明らかになっている」。

 さらに、つぎのように続けている。「社会資本の整備・運用について、井上敏孝は台湾総督府による基隆などの築港事業の意義を述べ(第8章)、白井征彰は台北の上水道整備事業について述べ(第9章)、齋藤尚文は台湾運輸事業を台湾運輸同業組合から明らかにし(第10章)、蔡龍保はこれらの社会資本の技術的側面を支える台湾技術協会の設立とその事業について述べている(第11章)。今井孝司は救済事業・社会事業を述べ(第12章)、黄麗雲は船舶航行と龍船の意義を述べている(第13章)」。

 編著者は、「巻頭言」でつぎのように付言している。「本書の研究成果は日本統治時代台湾における経済・社会建設を「善悪論」で結論づけるのではなく、何故、経済・社会建設を行ったかを問いかけるものである。筆者の愚考では、弱小国日本が欧米列強に対抗するために、日本内地のみならず、台湾、朝鮮、「満州国」、南洋群島の外地の経済・社会を発展させ、「日本帝国」全体のレベルアップによる欧米列強に対抗したものと考えている。この点については読者諸氏のご意見を戴きたい」。

 本書は、「体系的に日本統治時代台湾の社会経済史を述べる」必要を感じて編集されたものであるが、それぞれのテーマの研究状況や執筆者の力量の違いからか、全体を通して均質なものになっていない。それを補うべき、全体のまとめが、わずか2頁の「巻頭言」しかなく、個々の論文(章)を個別に読むことで学ぶことがあっても、台湾を専門としない者にとっては、本書を1冊のまとまりあるものとして読むことはできないだろう。論文集は、ひとりの執筆者によるものであろうが複数の執筆者によるものであろうが、「序章」と「終章」が決め手になる。その点、本書は個々の論文の「日本統治時代台湾の社会経済史」のなかでの位置づけや、その意義が充分に伝わってこなかった。

 本書所収の論文は、「東洋史研究会」を前身としているだけに、近代文献史学を基本にしているものが多い。執筆者のなかには台湾出身者と思われる者がいるが、かれらの視点が日本人研究者に充分に伝わっていないだけでなく、かれら自身の論文も日本が残した文献史料に基づいているために、帝国日本の歴史観が感じられるものがある。地域研究的視点を加えると、文献ではなかなか理解できない諸相に気づいたことだろう。また、現代台湾に通ずるものにも、視点が及んだことだろう。本書で体系的理解が可能になったのであれば、つぎの段階に研究を進めていくことができる。台湾人研究者との交流、議論の発展により、この分野の研究があらたな段階に入ることを期待したい。

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2013年01月15日

『ベルリンの壁-ドイツ分断の歴史』エトガー・ヴォルフルム著、飯田收治・木村明夫・村上亮訳(洛北出版)

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 「壁が倒れたとき あなたは何歳でした? なぜ人びとは壁に慣れてしまったのか? その壁がどうして、1989年に倒れたのか? 建設から倒壊までの、冷戦期の壁の歴史を、壁のことをよく知らない若い人にむけて、簡潔かつ明瞭に解き明かす。写真 多数掲載」と帯にある。表紙見返しに「主な人名と用語」「主な出来事」があり、「壁のことをよく知らない若い人」だけでなく、「連邦共和国」と「民主共和国」のどちらが西ドイツか東ドイツかわからなくなったときなどに役に立つ。

 読者対象を「若い人」としているなら、帯の最初の問いの答えは、「生まれていなかった」になる。「なぜ人びとは壁に慣れてしまったのか?」の問いは、つぎの記述から読みとれる。1961年8月13日に始まった「ベルリンの壁建設が国家の分裂の原因を作りだしたのではない。その諸原因はずっと以前にさかのぼり、とくに一九四八年の通貨改革にあったと。壁建設を支持した民主共和国[東ドイツ]の少なからぬ知識人たちは」、「「階級の敵の攪乱工作」や「親ファッショ的」連邦共和国[西ドイツ]の時代遅れな輩が、民主共和国に害をなしてきたではないか。だから壁を築くしか、共和国を最終的に安定させることはできなかったのではないか」。そして、「大多数の人たちはいつまでも、反抗的態度や抵抗の姿勢をつづけるわけにはいかなかった。だからといってエルベ以東のドイツ人が、熱心な共産主義者になったのではない。彼らはむしろ民主共和国に適応して、あらゆる対外的、対内的な困難にもめげず、しだいになし遂げた自らの建設的業績を誇りに思うようになった」のである。

 また、9章「世界最長のカンバス ポップ・アートの壁」の冒頭の「ベルリンの壁は三つの顔を併せもっていた」の説明では、3つめとして「西側の多くの人たち」が慣れていった理由を説明している。「第一に東側にとって壁は、防波堤、防塁そして都市要塞」であった。「第二に中立的な立場からみた壁は、率直にいって二〇世紀後半のもっとも重要な建築物に属した。それは鉄のカーテンとともに、東西の分断線と分離の政治的現実とを象徴していた。第三に西側において壁は恥辱の壁、コンクリートの怪物、死の壁であり、それには告発調の、あるいは終末論的な常套句がとりついていた。しかし、人びとはそれにもしだいに慣れていった」。「西側の多くの人たちは壁の存在に-そしてまたドイツの分断にも-すっかりなじんだ。少なくとも壁はますます「見過ごされる」か、あるいは人びとの日常生活に溶けこんだ。境界域は一般には、心の緊張をほぐし、休養をもたらす自然保護公園とみなされた」。

 最後の問い「その壁がどうして、1989年に倒れたのか?」は、11章「世界を揺るがした出来事 一九八九年、壁の倒壊」で、つぎのように結論づけられている。「一二月二二日の公式開放までには、なおしばらく間があった。だが一一月九日の壁決壊は、たんに国境の開放にとどまらない意味があった。それは社会主義統一党体制の終焉であった。国境を統制できなくなるとともに、党支配体制は一九六一年の壁建設以降、住民の意志に反して国内的な承認を強制できた権力の元手をも失ったのである。社会主義統一党国家はその醜悪極まりない建造物よりも、ほんの短い期間生きながらえたにすぎない」。

 このあと、12章「壁の消滅と記憶へ 壁が後に残したもの」、「むすび 現代世界における壁」とつづき、「今なお世界中にある「壁」にも目を向けてほしい」と著者は願って、「日本語版まえがき」にもつぎのように書いてきた。「いまもなお世界はたくさんの壁からなります。さまざまな国家が巨大な遮断施設をつくり、閉鎖的となっています。今日みられる壁は、もはや自国住民の出国を阻むためのものではなく、「入国してほしくない」人びとに対して国々が外への門戸を閉ざしているのです。けれども、ひとつだけ確かなことがあります。遮蔽物、つまり壁を築くことは、政治が正常に機能しなくなっている証拠にほかなりません。このことは世界にひろく当てはまるでしょう」。

 「たとえば、イスラエルとパレスチナのあいだ、アメリカとメキシコのあいだ、インドとバングラデシュのあいだ、都市の富裕層と貧困層とのあいだに、「壁」が構築され続けていることに」、あなたは気づいているでしょうか。そして、あなたの身近にも。それは、あなた自身がつくっている「壁」かもしれない。

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2013年01月08日

『東大講義 東南アジア近現代史』加納啓良(めこん)

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 「あとがき」で、著者加納啓良は「国や地域ごとに民族や言語が大きく異なる東南アジア全体の歴史を1人で描くという冒険をしている」と述べている。長年、東京大学で「東南アジア近現代史」や「東南アジア経済史」の講義を担当してきた著者が、自分自身で書きためた講義ノートを基に授業を進めるようになったのは、2012年3月に定年退職する前の2、3年にすぎず、それまでは各種参考書に頼っていたという。それだけ、東南アジア史の概説書を1人で書くことは難しい。また、高校までに東南アジアのことをほとんど学んでいない大学生に、理解してもらうことはたやすいことではなく、東大生もその例外ではない。

 にもかかわらず、東南アジアについて学ぶ必要があることを、最後の第10章「20世紀末以降の東南アジア」の最後で、つぎのように述べている。「21世紀の東南アジア地域の平和・安定・繁栄は、私たちにとって遠い異国の出来事ではなく、日本の平和・安定・繁栄と連動しており、逆に東南アジアの危機と不安は日本の危機と不安にもつながるという、切っても切れない構造的相互依存の関係が東南アジアと日本の間には過去40年あまりのうちに既に形成、蓄積されている」。「また、政治的、外交的な面から見ても、アメリカと台頭する中国という2大強国のはざまにあって日本が21世紀の世界で賢明に生き延びていくためには、ASEANに結集する東南アジア諸国との友好・連帯はこれまで以上に死活の重要性を帯びてくるに違いない。こうして、東南アジア現代史を学ぶことは、日本の現代史を学び将来を構想するためにも有益、いや今や不可欠なのである」。

 「本書は、政治・経済の動きを中心に、主に19世紀半ばから現在にまで至る東南アジア全域の歴史を概観したものである」。「多彩な内容を持つ地域の歴史を1つにまとめて記述しようとする」理由を、著者は「まえがき」でつぎのように説明している。「第1に、民族的に多様であるといっても、東南アジアの大半の住民が人種的にはモンゴロイドに属し、主な農業の形態は稲作で米が最も重要な作物であり、熱帯の自然環境のもとで生活様式や基層文化に多くの共通点を持っている。歴史的に見ても、古い時代には隣接するインドや中国の文化、文明から強い影響を受け、17~20世紀には大半の地域が欧米の植民地支配またはその強い政治経済的影響のもとに置かれ、その中で現在の国家、社会の原型が形成されたという経験を共有している」。

 さらに「特に最近150年前後の時期を「近現代史」として本書で取り上げる」理由をつぎのように説明している。「まず、19世紀後半までの時代に東南アジアの全域が資本主義世界経済のシステムに編入されるとともに、東南アジアと世界の他地域、および東南アジアの中の諸地域の間に、それまでとは次元の違う強い分業関係が形作られ、東南アジアの各地における経済・社会の変動が共通の脈動に従って進むようになった。さらに、20世紀に入ると、植民地支配を覆して新しい国民国家を創造しようとする政治的動きが展開し、この点でも共通の脈動を持って東南アジア全体の歴史が動く様子が強まった。本書では、この脈動に注目しながら、各国、地域の個別の歴史の動きをまとめて叙述することを試みる」。

 本書は、第1章「東南アジアの概況と近現代史の時代区分」で、「東南アジアの地理的範囲」「東南アジアの自然環境」「民族と言語」「人口」「食物」「宗教」「東南アジア近現代史の起点」を説明し、第2章「近代以前の東南アジア史」で「近現代史を理解する前提として知っておくことが最低限必要と思われる東南アジアの前近代史の概略について」まとめている。第3章から10章まで、時代順に国・地域ごとに、著者の専門であるインドネシア経済を中心に記述している。それぞれの章の「はじめに」にあたる部分がないものもあり、「おわりに」がないため、それぞれの章の全体像を理解あるいは確認したうえで、つぎの章へと読み進めることはできなかった。

 最後の第10章にのみ、「おわりに」があり、「21世紀世界と東南アジア」で、1870~1910年頃に起きた変化に匹敵する「第2の交通・通信革命」が、1970年代から現在までの約40年間に全世界に波及したことを述べて、第3章と第8-10章をつないでいる。また、第8章以降は、国・地域ごとではない記述が増え、世界史のなかのASEAN史として読むこともでき、東南アジア地域が「日本の平和・安定・繁栄と連動」していることがわかる。

 さて、内表紙に東南アジア近現代史を彩った41人のリーダーの顔写真が並んでいる。何人、わかるだろうか。本文にも掲載されているので確認できる。この講義の試験問題として、このなかから何人かを選んで、「だれで、なにをした人か」を答えてもらうこともできそうだ。

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2012年12月25日

『二〇世紀の戦争-その歴史的位相』メトロポリタン史学会編(有志舎)

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 「二〇世紀は、義和団の乱とボーア戦争[に]よって幕を開け、第一次および第二次世界大戦という二度にわたる未曾有の大戦争を人類は経験した。一九一四年以降、二〇年代の一時期を除いて地球上に戦争がなかった年はないと言われ、戦争や紛争によって命を落とした者の合計数は一億九〇〇〇万人に及び、二〇世紀は史上最も多くの人びとが非業の死を遂げた時代であった。二〇世紀が「戦争と殺戮の時代」と呼ばれるゆえんである」。

 本書は、シンポジウム「二〇世紀の戦争-世界史的位相」を基にしている。シンポジウムの目的は、「第一に、第一次世界大戦、第二次世界大戦、戦後の一局面をイギリス、日本、ドイツなどの事例に基づいて実証的に明らかにすることにある。第二に、戦争という角度から二〇世紀を考察し、戦争が、何を変え、何を生み出し、そして現在に何を残したのかを問うことである。戦争によって刻印された二〇世紀を知り、現在の私たちが立つ位置を知ろうとする試みである」。

 本書は、「二〇世紀の戦争-序文にかえて」、シンポジウムの報告(Ⅰ戦争の諸相、第一~四章)と報告後のコメントや寄稿論考(Ⅱ「戦争」を見る視角、第五~七章)からなる。最終章の「七「二〇世紀の戦争」を考える」がシンポジウムを総括し、つぎの4つの問題を指摘している。「一つは「二〇世紀の戦争」というもののとらえ方。二つ目は、記憶の問題で、今日は第一次世界大戦の受けとめ方が一つの焦点だったと思うのですが、第一次世界大戦の記憶が第二次世界大戦にどういう影響を与えたかという問題。三番目は、軍民関係とか軍隊という組織の性格をどうとらえたらいいか。四番目は、第二次世界大戦後の戦争の問題をどう考えたらいいかということです」。

 「序文にかえて」では、「二〇世紀の戦争」を「総力戦体制を戦争動員に向けた完結したシステムとしてイメージすることは誤りではない」が、「第一次世界大戦時において現れた総力戦体制の構築は限定的であり」、「総力戦体制が本格的に成立した第二次世界大戦においてでさえ、「総力戦」という言葉では説明できないような多様な現実が存在した」ことを指摘し、つぎのような具体例を挙げている。「大戦末期に至るまで、ナチ党指導者は、兵器を扱う任務に女性を就かせることはおろか、女性らしさが失われることを懸念して女性が兵士用のズボンをはくことさえも禁止しようとした」。第一章では、つぎのような事例も紹介されている。「帝国のヒエラルヒー構造でインドよりも下に置かれていた西インド諸島からは、白人兵とともに黒人兵も動員されてヨーロッパに送られたが、直接の戦闘員として用いられたインド兵と違い、彼ら黒人兵は戦闘員にされなかった。イギリス陸軍省はその理由は「さまざま」であると述べていたが、白人との戦いに黒人を用いることはできないという人種要因が決定的であった」。

 「序文にかえて」では、歴史学が戦争抑止に果たす役割についても、つぎのように述べている。「歴史学において、国民国家、民族、国境など対立を誘発しうる概念を批判的に再検討することを通じて、ヨーロッパ近代が作った世界史認識の枠組みを相対化し、将来の衝突を抑止するような新しい構想や歴史叙述が目指されている」。「歴史学の立場から、二〇世紀という史上最も多くの人びとが非業の死を遂げた世紀を乗り越えようと試みるのであれば、「植民地独立戦争」、「米ソ間の代理戦争」、「民族対立」、「総力戦」などのような安易な構図で、戦争を説明することではない。むしろ、戦争の諸局面をより具体的に知ることにこそ、対立を予防し、和解の手段を見つけ出す鍵が潜んでいるように思われる」。

 日本では、第二次世界大戦を中心に、個別の戦争が語られる傾向があり、本書のように「二〇世紀の戦争」として世界史のなかで語られることはあまりない。そして、本書は、歴史学として考察し、歴史学の役割を論じている。個々の戦争を相対化することによって、これまで見えなかった個々の戦争の実相が見えてくる。さらに、戦争を通して20世紀像を見ることによって、これから構築していく戦争のない21世紀像を考えることができる。「まだ過ぎ去ろうとしない」「戦争の時代」を、いかに止めるか、本書にはそのヒントが多く示されている。

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2012年12月18日

『編集復刻版 南方開発金庫調査資料(一九四二~四四年)』早瀬晋三編集・解説(龍溪書舎)

編集復刻版 南方開発金庫調査資料(一九四二~四四年) →bookwebで購入

 南方開発金庫は、日本占領下の東南アジアで、事実上、中央銀行として活動した日本政府の金融機関である。占領地の資源開発のための資金を日本の軍受命企業に融資するなど、軍政に大きくかかわり、占領地の住民への影響も大きかった。その南方開発金庫が発行した調査資料200余点のうち、約4分の3の所在が明らかになった。日本占領地の金融政策や構造だけでなく、日本占領下の東南アジアの実相の一端がわかる貴重な資料が編集・復刻され、刊行が始まった。その推薦文5つを紹介する。

●幅広い分野を網羅する調査資料の復刻(慶應義塾大学名誉教授 倉沢愛子)
 「大東亜」戦争は資源の戦争であったといわれる。他にも様々な理由づけや思惑があったにせよ、この戦争の第一の目的は、日中戦争継続のための資源の獲得であった。しかしそれに向けて日本軍ならびに日本政府はどのような青写真を持っていたのか、そしてそれを実行するためにどのような戦略を立てていたのかを全体的に解明する作業は、非常に精力的になされてきたとはいえ、いまだに全貌が解明されているとはいえない。その意味で今回一五〇点もの南方軍政関係の第一次資料が復刻されたと言う事は、日本史の研究者にとっても、東南アジア史の研究者にとっても信じられないような朗報である。
 これらは、占領地において中央銀行的な役割を果たしていた南方開発金庫が行った調査であるから、通貨や為替問題が中心かと思いきや、経済全般、とりわけ資源状況(鉱業、林業、水産業他)、各種の生産活動の実態、さらに流通に関する調査データもたくさん盛り込まれている。とりわけ日系の企業活動に関するデータは詳細である。さらに狭義の経済問題を超えて、人口問題、教育問題、民族問題、村落構造などに関する調査も実施されていて、社会全体を分析するにも有効である。 南方開発金庫は、南方の占領が開始されたのち一九四二年四月に満鉄、横浜正金銀行、台湾銀行、陸海軍出身者たちが幹部となって開業されたものであるが、東京にあった本金庫には「調査部(のちに調査課)」が、またマライ、ジャワ、フィリピンの支金庫には「調査係」が置かれていたという。このことからも、調査という仕事にかなり力を入れていたことが分かる。これまで各占領地の軍政機構内に設けられた調査機関によって行われた調査記録はいくつか紹介され活用されてきたが、今回の資料は、一つの機関が占領地全体を視野に入れ、いずれの占領地に関してもある程度画一的な内容を網羅し、さらに比較の視点も交えて実施した調査である点が注目される。多くの研究者に様々な角度から活用して頂きたいと思う。

●『南方開発金庫調査資料』の刊行に寄せて(獨協大学名誉教授 波形昭一)
 毎年八月の「終戦の日」には全国各地で戦没者追悼の催しが行われるが、戦争体験者の参列が年々減っていると聞く。すでに終戦から六七年になる。それほどに時は過ぎた。今、「南方開発金庫とは?」と問われて即座に答えられる人は幾人いようか。「聞いたことがある」程度の答えでも、そうとうの高齢者でなければ不可能であろう。
 南方開発金庫は、対米開戦からおよそ四か月後の一九四二年三月に設立され、日本占領下の東南アジアで活動した日本の国策金融機関である。「南発(なんぱつ)」の通称で呼ばれたが、その活動期間(寿命)が短く、かつ活動領域が日本内地に直接及ばなかったためか、台湾銀行、朝鮮銀行、南満洲鉄道(株)(通称、満鉄)、東洋拓殖(株)(同、東拓)などに比べて、その名はあまり知られていない。しかし、南発こそまさに「大東亜戦争」の虚妄性を具現した象徴的存在だったのであり、その実相研究は今後さらに深められなければならない。
 ところで、このたび龍溪書舎から『南方開発金庫調査資料』が刊行されることになり、この快事を心より喜ぶとともに、ある種の感慨にひたるのである。というのは、筆者は二〇年ほど前、小論(「南方占領地の通貨・金融政策」伊牟田敏充編著『戦時体制下の金融構造』日本評論社、一九九一年)をものする機会があり、当時、南発に関する生資料の蒐集にひどく苦労したからである。今回刊行される『資料』は、南発の調査課ないし資料課による「南方」情勢調査類が中心であるから南発自体の活動状況を直接に語るものではないが、日本占領期の東南アジア諸国諸地域における金融・通貨・物価・企業・産業資源・土地・農業・貿易などの経済事情はいうまでもなく社会・人口・教育事情にまで及ぶ調査類であり、そのほとんどがこれまで未利用のものである。その意味で、今後の戦時期東南アジア研究に果たす本『資料』の価値を信じて疑わない。

●南方開発金庫調査資料から拡がる世界(早稲田大学大学院アジア太平洋研究科教授 村嶋英治)
 南方開発金庫は、日本占領地の国策金融機関として知られる。しかし、その調査対象は、日本の同盟国であったタイ、フランス植民地政府と共同統治していたインドシナなどにも及び、支金庫のあったマライ、ジャワ、比島、スマトラ、ビルマ、北ボルネオ、南ボルネオ、セレベス、小スンダ、ニューブリテン、東ニューギニア、西ニューギニアを超えて、「大東亜共栄圏」あるいは「南方共栄圏」を視野に入れていた。また、中央銀行としてだけでなく、開発銀行としての役割を担うことになったため、占領地および占領地と密接な関係にあった周辺諸国・地域の社会・文化構造の把握にも努めた。
 おもな資料シリーズとして、金融関係の「金調」、経済関係の「経調」、産業関係の「産調」、貿易関係の「貿調」に加えて、社会関係の「社調」があった。さらに「経調」には「邦人企業概観」、「社調」には「政治組織概要」、「財政概要」シリーズがあって、タイ、インドシナも含まれた。個々の調査は、占領地の個別の国・地域や産業を扱うとともに、「共栄圏」全体を把握しようとしており、日本が「共栄圏」でめざしていたものの一端が垣間見える。さらに、「共栄圏」内にすでに存在していた地域としての人的、物的交流が見えてくる。当然、これらの国・地域は、戦前欧米帝国主義諸国とも深いかかわりがあったため、世界ともつながっていた。
 南方開発金庫の役員は、日本銀行のほか南満州鉄道株式会社、横浜正金銀行、台湾銀行の出身者からなり、行員については当初日本銀行から派遣された四二人などが就いた。当時の日本の金融関係のエリート集団が、調査にあたっていた。それだけに、社会や文化にたいする洞察力も鋭く、当時の東南アジアの社会などを理解するための基礎資料となるものを残している。これまで、個々の研究者が専門に基づいて部分的に使用されてきた資料を、まとめて読むことによって相対化でき、新たに読み込むことが期待できる。わたしも、専門であるタイから視野を拡げて、考察できることを期待している。

●南方共栄圏の網羅的調査の復刻に期待します(首都大学東京大学院社会科学研究科教授 山﨑志郎)
 太平洋戦争期の南方共栄圏の経済実態は、戦時経済研究が盛んになる中でも依然として不明な点が多い。南方開発金庫は、フィリピン、マレー、スマトラ、ジャワ、ビルマ、北ボルネオ等の経済開発資金の融資や現地通貨の供給を目的に一九四二年三月に設立(四月業務開始)された。開設から一年間は現地日本軍の使用する軍票の借り入れと、国内での債券発行によって運用資金を調達したが、二年度からは現地通貨表示の南方開発金庫券の発行が認められ、中央銀行と開発銀行の役割を担うことになった。同金庫は、現地通貨、軍票を回収するとともに、現地金融機関の預金、政府機関の資金を預金として吸収した。各地の業務では、フィリピン、マレー、ビルマでの復興と開発のための融資が大きな比重を占め、これに現地金融機関への融資、現地政府・軍への貸し上げなど、二十数億円相当の融資業務があった。日本国内では、預金部・地方銀行・保険会社からの借入金、債券発行、日銀借入などによって調達した円資金を、南方開発に携わる日本企業に対して五億円ほど融資した。しかし、最大の資金運用は、一一一億円に上る現地通貨表示で発券した南方開発金庫券の軍貸し上げであった。このようにして設立から三年余の間、南方での軍の支出を通じた膨大な通貨供給と、開発資金融資を担った。
 通貨・金融業務と並んで、南方経済調査も盛んに行っていた。南方調査では、大東亜省、台湾総督府といった政府機関、台湾銀行、横浜正金銀行といった政府系金融機関、南洋経済研究所、南方植産資源調査会、日本南方協会などさまざまなシンクタンクも報告書を作成しているが、開発の最前線にいた南方開発金庫の調査記録が今回可能な限り網羅され、復刻される意義は大きい。本資料集に収録された調査報告は各地から定期的に送られたデータを基にしており、南方諸地域に関するバランスの取れた総合的調査記録になっている。太平洋戦争の開戦準備と並行して南方経済開発構想が本格的に進展し、物資動員計画においても重要資源の開発輸入が喫緊の課題となった。こうした占領地開発と統治政策の基礎になるのが、これらの報告書であった。この資料の刊行を機に戦時下のアジア地域研究が一層活発になるものと期待される。

●「南発」資料集成という偉業(京都大学名誉教授・中部大学特任教授 山本有造)
 南方開発金庫いわゆる南発は、南方占領地の開発銀行をめざして一九四二年三月に設立された。しかし各種「軍票」に代替する不換銀行券「南発券」を発行することになって、作戦資金および物資買付け資金を乱発する軍の御用機関となり、現地における資源収奪とインフレ昂進の源泉となった。
 編者・早瀬晋三教授はフィリピン史の専門家であるが、いまや東南アジア全域にわたる文献資料に関する該博な知識、さらにはフィールドワーカーとしての広い活動でも知られている。私にとっては、東南アジアの歴史と現在についての、文献と実状についての情報の「宝箱」のような存在である。その彼が、「フィリピン関係文献目録」についで、龍溪書舎から「南発」関係資料集成を刊行するという。
 「南発」資料の体系的な整理が難しいのは、ひとつには本金庫が東京、支金庫がマライ、ジャワ、比島、ほか南方各地に一二、さらに支金庫の下に出張所があるというその余りにも広範な配置にあり、またもうひとつには、その生涯が短すぎて、(当時の多くの国策機関に見られるような)刊行物一覧に類する目録類がないことである。
 早瀬教授は、その持ち前の知識と粘りとフットワークでおよそ二〇〇点の出版物のうち、現物で確認出来た一五〇点を復刻されている。丁寧な解説が付いているのはもちろんであるが、地名・事項索引も付くという。この資料により一九九〇年代で一段落している「南発」研究にも新しい光が当てられることになろう。私も少しずつ「大東亜共栄圏」研究に歩を移そうと思っている。「南発」資料集成の刊行が大いに楽しみである。

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2012年12月11日

『アホウドリと「帝国」日本の拡大-南洋の島々への進出から侵略へ』平岡昭利(明石書店)

アホウドリと「帝国」日本の拡大-南洋の島々への進出から侵略へ →bookwebで購入

 12月5日(水)NHKテレビは、絶滅が心配されている国の特別天然記念物アホウドリが、現在の繁殖地である伊豆諸島の鳥島から南に350キロ離れた小笠原諸島の聟島への移転の期待が膨らんだことを報道した。鳥島はしばしば火山の噴火で壊滅的な被害が出、1939年の噴火後アホウドリは絶滅したと報告されたこともあった。アホウドリは、1887年から始まった羽毛採取のために絶滅寸前になるまで撲殺され、1951年に30-40羽にまで減少した。

 なぜ、大量に撲殺されたのか。一時は日本の輸出品の上位にその羽毛やはく製がランクされ、フランスなどヨーロッパに輸出されたにもかかわらず、その実態は明らかではない。その理由を、著者平岡昭利は、つぎのように説明している。「鳥には、害虫を食べる益鳥という考え方があり、さらに、羽毛採取のため撲殺によって捕獲し続けたアホウドリは1907年より保護鳥に、さらに1958年には天然記念物になっており、生活のため、その鳥を捕るために、はるか遠い太平洋の島々へ行き、不運にも死亡したことなどは忘却したい事実であり、伝承されることはなかった。まさにこれらの出稼ぎ労働者は、いわば忘れられた「棄民」と言え、また日本人による大量のアホウドリ撲殺という事実も、日本人自身が記憶に残したくない事柄であったとも言える」。

 本書は、著者が40年ほど前に修士論文作成のために、「大東諸島」で調査したときの疑問に、端を発している。大東諸島は、「1900年に八丈島の人々が、南大東島の断崖絶壁をよじ登って上陸したことによって開拓の緒が切られ、その後、サトウキビ農業とリン鉱採掘で知られる重要な島となった」。その疑問とは、「八丈島から直線で南西に1,200km離れた絶海の無人島に、人々は何のためにやって来たのかという根本的な問い、その行為目的は何だったのかという疑問に対しては、何度尋ねても、農業のために大東島に移住したという言葉しか返ってこなかった」ことである。著者は、長年「果たして農業をやるためだけに南大東島の垂直に切り立つ20~30mの断崖をよじ登るものなのか、何か心の片隅に釈然としないものがあった」のである。

 本書によって、その疑問にたいする答えが明らかになっただけでなく、太平洋および東アジア近海の無人島の国家への帰属の歴史的過程が明らかにされた。まず、著者の疑問への答えは、つぎのように「おわりに」で述べられている。「太平洋への進出の行為目的であったアホウドリなどの鳥類資源の枯渇は早く、無人島に進出した人々は、図54[略]の枠組みのように、次なる無人島を探し求め、あるいは、また行為目的を鳥からグアノ(鳥糞)→リン鉱に変化させつつ、その行為範囲は空間的に一層拡大した。同時にその行為の主体は、山師的な人々から商業資本へ、さらに独占資本へと移行し、軍需資源ともなるリン鉱に至っては、国家による武力進出にまで突き進んだ」。大東島を開拓した玉置半右衛門は、1888年に鳥島に上陸し、アホウドリを捕獲、巨利を得ていたことで知られる人物で、「鳥島でのアホウドリ激減に危機感をもった玉置は、次なるアホウドリの生息地を求めて早くから太平洋の無人島を探索していた。そのような状況のもと、大東島の情報を得て八丈島の人々を派遣したのであった」。

 羽毛から製作された衣服は、軽く、暖かいため、パリで大流行した。「1870~1920年頃にかけて日本は世界の婦人帽の主要な原料供給国であった。羽毛に加えて明治10年代後半から鳥類のはく製の輸出も盛んになった。この輸出増加はヨーロッパ、とりわけフランスにおけるオートクチュールの新作コレクションで帽子や頭飾などに多くの羽毛や羽飾りが使用され、ファッションとして一般にも大流行したことによっている」。

 「明治期、鳥類を追った日本人の太平洋進出は、空間的にも拡大を続け、1897(明治30)年前後には遠く北西ハワイ諸島にまで達した」。このような日本人の太平洋進出を、著者は、「バード・ラッシュ」と定義した。「この日本人のバード・ラッシュの背景には、1898年から施行された遠洋漁業奨励法による多額の助成金があり、これを受けた人々は、遠洋漁業よりも多くの利益を得られる鳥類捕獲に従事した」。

 この日本の「バード・ラッシュ」より早く、「グアノ・ラッシュ」と定義されたアメリカ合衆国の太平洋への進出が1850年代後半に始まっていた。グアノは海鳥糞で、「アメリカの農業は、西部開拓の名のもとに拡大を続けながらも、収奪的な性格が強く地力が消耗し、農民は地力回復のため争ってグアノを購入した」。1856年8月、連邦議会で「グアノ資源の確保に法的な根拠を与える「グアノ島法」(Guano Island Act)が可決された。この連邦法は、アメリカ人が他国の主権の及ばない島々でグアノを発見し採掘すれば、その島はアメリカの領土になり、発見者には採掘権が付与されるという、アメリカにとってきわめて都合の良い身勝手な法律であった。この法律が施行されると、約48の島々について法律の適用が申請された。これを契機としてアメリカ人によるグアノを求めての無人島探検は、一層、拍車がかかり、その獲得競争が繰り広げられることとなった」。そして、アメリカ領となった島々にも、日本人が侵入し、アメリカ政府は、1903年に鳥類捕獲禁止令、さらに1909年に鳥類保護法を発布し、ハワイ諸島鳥類保護地域を設定した。

 日本人は、東シナ海、南シナ海にも進出し、中国と領土問題を起こすことになった。1895年に、日清戦争の結果、台湾を領有した日本人は、台湾北部の無人島獲得に奔走し、アホウドリ捕獲、リン鉱採掘などをおこなったが、大正後期にはこれらの島々は無人島に戻った。1897年にはアホウドリ捕獲を目的に尖閣諸島にも進出し、わずか3年でアホウドリが激減した後、鳥類のはく製、カツオ漁業、鳥糞採取など略奪的な資源の獲得をし、1940年頃に尖閣諸島の島々も元の無人島に返った。

 いっぽう、東沙島には1907年に進出し、鳥類の捕獲以外に、グアノ・リン鉱採取のため、400人余の労働者を導入して企業島としたが、領土問題から清国が資産を買収することで1909年に撤退した。また、第一次世界大戦中の1914年には、日本海軍が占領した南洋群島アンガウル島で、09年にドイツによってはじめられていたリン鉱採掘を海軍直営で事業をおこなった。さらに、1910年代にパラセル(西沙)諸島にも進出し、中国海軍、さらに日本海軍が占領した。スプラトリー(南沙)諸島では、1921年にグアノ・リン鉱採取に着手し、22年から8年間に3万トンを採掘した後、島々は無人島に返り、33年にフランスが領有を宣言、39年に日本軍が武力で領有した。尖閣諸島だけでなく、現在中国とベトナム、フィリピンなど東南アジアの国々とのあいだで問題になっている島々にも、かつて日本人が略奪的資源開発をおこなっていたのである。

 このように、これらの島々は、日本の「固有の領土」でもなければ、中国、東南アジアの国々の「固有の領土」でもなく、資源獲得のために民間人が進出し、軍需物資でもあったリン鉱に至っては、国家による武力進出がおこなわれたことが、本書から明らかになった。これらの事実は、2011年8月30日に本「書評空間」で紹介した『地図から消えた島々-幻の日本領と南洋探検隊たち』(長谷川亮一著、吉川弘文館)より早く、学会誌等に掲載された論文で明らかになっていたことで、本書によってまとめて読むことができ、より理解しやすくなった。著者の長年の疑問が解けただけでなく、日本周辺の無人島を含む島々が、どのようにして国家に帰属していったのかがわかる基礎研究として、高く評価できる。

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2012年11月20日

『資源の戦争-「大東亜共栄圏」の人流・物流』倉沢愛子(岩波書店)

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 「本書を通じて訴えたかったことは、住民にそれだけの犠牲を強いて実施した経済施策は、全く現地の実情や民生の向上などを考えず、そのために意図せざる人的被害を現地の社会にもたらしたということ、そしてそれだけの犠牲を強いて実行した資源取得政策が、日本の目的にさえかなわなかったこともあったということである。どこに怒りをぶつけたらよいのか分からない戦争の理不尽さ、資源の無駄遣いを具体的に指摘することを、本書は一つの目的としている」と、著者倉沢愛子は「序章 「大東亜共栄圏」の人流・物流」を締めくくっている。

 東南アジアの地域研究を専門とする著者は、その序章で、戦時期の日本経済史研究を高く評価し、「本書が目指すもの」をつぎのように語っている。「戦時期の日本経済史研究の蓄積は非常に厚く、日本がどのような経済的戦略で戦争を遂行し、何がうまく行かなかったから戦争経済が破綻したのかについてはすでに語りつくされている感があり、筆者がその学問分野に直接貢献できることはおそらく何もない。したがって、東南アジアの地域研究者としての筆者にできることは、こういった日本の戦時経済政策の分析を、現地の社会の状況分析と突き合わせていくこと、日本があるいは「大東亜共栄圏」全域がその時その時に置かれていた状況をできるだけ理解して、日本の政策決定や経済動向を東南アジアにおける推移と結びつけて語ることであろうと考えた」。

 そのために、著者は、「これまでの研究の多くはインドネシアに関するもので、フィールド調査の成果をもとに村落社会の住民の視点で歴史を再構築することに主眼を置いてきた」ことに加えて、「本書は、大胆にも専門外で、しかもフィールド調査を踏まえていない地域(マラヤ、シンガポール、ビルマ)にまで守備範囲を広げた」。「あえてそのような無謀なことをしたのは、「大東亜共栄圏」内の他の地域をも視野に入れないと、物資や労働力の「相互調達」と「移動」が前提となっている資源の問題は十分に解明できないとの考えからである。とはいえ、地域的な守備範囲は、インドネシア、英領マラヤ、シンガポール、ビルマに限定された。それは、現地での聞き取り調査か、一次資料(文書館資料)へのアクセスが可能であった地域のみを対象にすることにしたためである」。

 本書のための聞き取り調査は、著者が30年ほど前に集中的におこない、その後断続的におこなったもので、文書館調査はここ数年、イギリス、オランダ、シンガポール、マレーシア、インドネシアなどで精力的におこなったものである。庶民から直接聞き出すだけでなく、「庶民の生活を多少なりとも描き出した諜報レポートや住民の尋問レポートなど」から、「民衆が生きていた当時の社会の土の匂いや空気の匂い」を伝えようとしている。本書は、4章からなり、「労働力、食糧(コメ)、商品作物、石油などコモディティごとに章・節を立て、それぞれに対する日本側の政策を論じ、現地の状況を手もちの限られた情報で分析」し、「できうる限り「土の匂いのする」記述を試み」ている。

 本書の副題に、「大東亜共栄圏」が使われている。「南方共栄圏」ということばもある。その違いはなんだろうか。著者は、「あとがき」をつぎのように書き出している。「日本は一九四一年一二月、日中戦争継続のための資源確保を目的として東南アジアにまで戦火を拡大した。資源の豊富なインドネシア、マラヤ、シンガポールなどで、その獲得をより確実なものにするために日本が選んだのは、「軍政」という直接支配であった。これは、「作戦終了までの一時的な統治」という本来の語義を越えて強い権力を行使するもので、「公式帝国」(略)に近い。つまり、ナショナリズムの隆盛を受けて満州国や中国の占領地で行われていた「非公式帝国」型の統治から見ると一歩後退で、植民地支配に否定的になりつつあった当時の世界の潮流に逆らうものであった」。管見のかぎり、「大東亜」ということばは、一次資料では意外と使われていない。「南方」のほうがはるかに多い。このことは、著者が指摘しているとおり、「大東亜」を一体と見ていなかったためかもしれない。

 同じく「あとがき」で、著者は「住民を飢餓状態に追い詰めながらも強制的に供出させたコメなどが、輸送力不足のために現地で投棄されたり、倉庫に眠ったまま腐るという事態を生じさせた」と述べている。この事態は、第一次世界大戦時にも起こった。輸出用商品作物栽培が普及したジャワでは、すでにコメは自給できず、フランス領インドシナやイギリス領ビルマから輸入していた。それが、ドイツによる無制限潜水艦作戦などの影響で船舶が不足し、輸入できず深刻な食糧不足に陥った。その経験が「大東亜戦争」にどのように影響したのか、第一次世界大戦時とのかかわりで日本占領下のジャワ農村社会を考えることもできるだろう。

 このような課題は、著者が充分に認識しているため、つぎのように続けている。「本書は、そのような基本的な歴史理解に基づいたうえで、東南アジアの現地社会に根差した具体的な事例をできるだけ多く取り上げ、日本経済史研究者による戦時経済研究につなげることを目指した。扱った地域に偏りがあり、カバーしきれなかった経済のメカニズムや社会の諸相も多々ある。また、東南アジアの研究者たちの成果も十分取り込んでいるとは言えない。したがって、これが研究の集大成であるなどとは決して思っていない。むしろ、今後さらに筆者自身、あるいは若手の研究者たちが発展させていくための入り口を提示したものだと思っている」。

 本書を、東南アジア側に偏りすぎているととらえる読者がいるかもしれない。著者が「民衆が生きていた社会の土の匂いや空気の匂い」にこだわるのは、日本に占領された民衆の目線を大切にしたいと思っているからである。偏向した記述が多いとして教科書検定基準を見直す動きがあるが、それは東アジアの若者の交流を活発にしようとする平成19年に当時の安倍首相のときにはじまったJENESYS(21世紀東アジア青少年大交流計画プログラム)などと矛盾することになる。日本の占領下にあった国や地域の若者は、学校教育だけでなく、家庭や社会で日本がなにをし、人びとがどう思ったのかを学んでおり、そのことを知らないで日本側に偏った学校教育を受ける日本の若者との交流が深まれば、当然その認識の違いの大きさに気づき、日本/日本人にたいして不信感を抱くことになり、逆効果になるおそれがある。日本の伝統文化に誇りをもてるようにすることは、もちろん大切なことであるが、国際交流がさかんになるなかで、かつての日本がなにをしたのかを相手目線で知っておくことも交流の深まりと継続のために大切なことである。歴史に謙虚に向き合うことが、日本人としての自信と誇りにもつながることがわかるような歴史教育を考えていかなければならない。

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2012年11月13日

『スペイン帝国と中華帝国の邂逅-十六・十七世紀のマニラ』平山篤子(法政大学出版局)

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 帯に、「マニラにおけるスペイン政庁設立の1571年から1650年前後まで、スペイン人と華人との邂逅を地球一元化の過程における画期と位置づけ、両者の関わりにおいて惹起された事件を軸に、「ヒトの移動と邂逅」を考察」とある。著者平山篤子は、「序章 本書の課題と構成」で「考察の対象を、マニラにおけるスペイン政庁設立の一五七一年から一六五〇年前後までとするのは、舞台である東アジアもスペインが位置するヨーロッパも共に十七世紀中期に時代の転換期を迎え、概ねこの時期を境として政治や経済的環境が大きく変化するため、それ以前と以後では諸条件が異なるからである」と説明している。

 本書で、著者は従来の通説を原史料に基づいて批判し、新たな事実・解釈を随所に示しているだけでなく、本書全体を通してより広い視野のなかで根本的な問題を提起し、「現代の「地球一元化」が惹起する問題と同質にして最初の議論」を展開している。そして、より説得あるものにするため、構成に充分な注意を払っている。本書の構成は、「序章」、第一章、2部7章と「終章」からなる。第Ⅰ部に入る前に、61頁と比較的長文の「第一章 スペイン・カトリック帝国とフィリピーナス諸島(一四五〇頃~一六五〇頃)」があり、「スペインの海外発展の特徴を整理・確認」している。つぎに、各部の「はじめに」で部の全体像を示し、課題を明らかにしている。各章のほとんどには「はじめに」と「小括」があり、各章の課題と明らかになったことが整理されている。そして、「終章 ヒトの移動と邂逅」では、「第Ⅰ部、第Ⅱ部を比較考察する視点を維持し、スペイン人のチナ認識の経年変化、両者の間に維持される関係、惹起される事故や事件にスペイン人のチナ認識がいかなる影響を与えるのかに注視し」、総括している。

 この「終章」では、各部で論じ、明らかにしたことを、つぎのようにまとめている。「第Ⅰ部 スペイン・カトリック帝国の対チナ観」では、「フィリピーナス諸島を中心舞台として政庁樹立の初期に起きた明国宣教に関する議論を、それに参画した三人の論者を中心にして論じた。これは当事者が「チナ事業」と呼ぶもので、明国の宣教のための軍事侵攻・統治までを想定した計画、およびその正邪に関する議論を主題にしている」。そして、「議論の動機は他者の権利擁護などという現代の人権派的発想にあるのではなく、正に国王も含めた個々の人間の魂の救済にあるのであり、それゆえにこそ、これほど真剣、かつ長期に亘るのである。つまりここでカトリックは公私の世界を繋ぐ「公共善の鎹」の役割を果たしていると言えよう」。「そして、本稿で取り上げた議論は、新大陸での宣教問題では征服民と被征服民という関係の非対称性ゆえに見逃される面を有する。即ち、チナに対しては「高度文明の他者」という観念が働くことで、自他を対等に位置させねばならないという意識を引き出した。この点で現代に与える示唆は新大陸の議論よりも大きいと結論づけた」。

 「第Ⅱ部 スペイン政庁の対華人観、対明観-マニラにおける華人暴動を通して」では、「スペイン統治期前半に起きた大規模な華人の暴動としては五回が記録されているが、その最初の二回を取り上げた。暴動に関する報告書が、平時には語られない状況、本音や習慣等を露わにする可能性が大きいことに注目したからである。各事件に言及する史料に沿って経過確認をした後、その原因と対応行動、および双方の行動の理由に焦点を当て、時代背景の推移にも注目しながら論じた」。そして、つぎのようにまとめている。「地球規模でモノ・ヒト・カネ・情報が動く現実に気がつき、その問題点に深い憂慮を抱きながらも止められない、それが地球現象として日常的に人々の口に上り始めたのはごく最近のことだが、この点でも当時期マニラはそのプロトタイプの経験をしていたことになる。政治システムも文明の原理も全く異なる両者が、世界に変革を来すほどに達するモノの量を扱いながら、決定的な負の関係に陥ったのは、八十年余りの中で二度しかないと見るならば、共存を維持するのが常態と言え、関係維持の姿にこそ特筆すべきものがある」。

 最後に、本書の限界、今後の課題をつぎのように述べて、締めくくっている。「両者の関わりの解明は、まだ圧倒的にスペイン側の史料に拠っている。対呂宋交易が数量面で圧倒的な量を誇っていたとすれば、明・清国側史料によっても証拠づける余地はまだあるはずである。第二次暴動では、諸島居留の漳州華人のほとんど死に絶えたゆえに史料が残らないとも言われるが、本稿では脱出した華人も多いのではないかと推測した。その観点に立てば、清国側史料を絶望視するのは少し早いと考えられる」。「一方、帝国の重要な使命としてのカトリック化では、華人の改宗過程について未詳の部分が大きい。彼らの改宗過程、改宗の原理などという華人教会発展のプロセスを、現地修道会の文書等を通じて具体的数量で明らかにしていくのがその一つの方法と考えられる。この両面から進めていくなら、緒についたばかりのこの地域の「ヒトの移動と邂逅」に関する研究は、地球一元化が惹起する窺うに最も困難な局面の解明をもう一歩進めることになるのではないだろうか」。

 本書は、文献史料を丁寧に読み込むことによって、新たな発見と解釈を導き出すことで、学問的に大きな貢献をしている。その背景にあるのは、著者が「圧倒的にスペイン側の史料に拠って」いながら、東アジア・東南アジア側の視点を取り入れることによって、文献史料では見えないものを感じながら本書を執筆したことだろう。それは、つぎの一節からよくわかる。「本稿で扱う時期、フィリピーナス諸島の社会構成はいかなるものであったのか。ドミニコ会士フアン・コーボが一五八九年に母修道院に送った報告書に拠れば、特にマニラには多様な人がいた。公式には語られないポルトガル人も少なくなく、現地人に次いで華人が多く、日本人がそれに次いだ。日本人の数は当時それほど多いとは思えないが、日本人に強い関心を持っていたコーボは彼らに注目したのであろう。アジア系ではシャム、カンボジア、ジャワの人間、他にはベンガルなどかなり西方の人々や「ターバンを巻いた人々」、更には、「ギリシアから来たギリシア人」や「クレタ島から来たクレタ人」にも言及しており、公文書には現れない多様な人々が開放空間である諸島にはいた可能性を示唆する。他方でコーボが言及しないにもかかわらず、確実に存在したのは新大陸の先住民で、メキシコからの補充兵力のかなりを彼らが占めた。彼らは諸島住民と同一視されていたので、コーボの関心を喚起しなかったのだろう。以上の多様な人間集団は、スペイン人到来当時の報告や華人の記録には現れないので、スペイン人の到来が喚起した現象と言えよう」。

 見えないものは、当然書くことができない。しかし、見えないものを感じながら、より広い視野のなかで考察することによって、近代では克服できなかった西洋中心史観やナショナル・ヒストリーから脱することができる。著者は現代を意識し、現代とのつながりを求めながら研究し、執筆していることから、現代に通用する歴史を本書で具現したということができるだろう。

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2012年11月06日

『コロニアリズムと文化財-近代日本と朝鮮から考える』荒井信一(岩波新書)

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 近年日本と韓国の学術交流がさかんになって、日本人研究者が韓国で発表する機会も増えている。これらの日本人研究者、とくに日本考古学、日本近現代史を専門とする者は、本書で書かれているようなことを充分に認識しているのだろうか。もし認識していなくて、交流を通じてもそれに気づかないのであれば、その交流は逆効果に終わってしまう。

 最初の日本による朝鮮の文化財略奪の舞台となったのは、高麗時代の13世紀にモンゴル侵攻によって30年間王都があった江華島で、1875年に日本軍が攻撃したときだった。その後、江華島だけでなく、約500年間高麗の王都があった開城付近で、無数の墳墓があばかれ、「どの山もどの丘も一面蜂の巣のごとくに穴だらけとなっている」という状況になった。江華島では、日本より早く1866年に攻撃し、島の一部を約40日間占領したフランスが「古文書その他の宝物を奪い建物を焼いた」。欧米帝国主義諸国は、世界各地で帝国的侵出をし、文化財を略奪した。日本もそれにならったことを、著者はつぎのように述べている。「軍事的威圧を背景とする不平等条約の強要といい、文化財の略奪といい、近隣諸国に対する明治国家の最初の対外活動は、欧米「文明国」の範にならったものであり、江華島はその象徴的な初舞台であった」。

 帝国日本による朝鮮での略奪の実態は、第1章と第2章の見出しを含めた目次から、軍官民学が一体となっていたことがよくわかる。「第1章 帝国化する日本、そして文化財」「1 最初の文化財略奪の舞台-江華島」「「天然の要塞」」「江華島事件」「文化財の略奪」「四つの史庫」「貴重図書の返還」「史庫の略奪」「河合弘民と「河合文庫」」「高麗古墳の盗掘」「伊藤博文と磁器収集」「武装巡査に護衛された遺跡調査」「2 日清戦争と文化財」「文明国としての体裁」「九鬼の帝国博物館構想」「「東洋美術唯一」の代表」「軍主導の文化財略奪」「3 なぜ鉄道建設なのか」「帝国大学の学術調査」「植民地経営と鉄道」「建築調査に秘められた目的」「古市公威と山県有朋」「縦断鉄道を熱望する」「強制収用と農民の嘆き」「こわされる先祖の墓」。

 「第2章 学術調査の名のもとに」「1 関野貞の古蹟調査」「朝鮮史をどのように認識したか-「植民地史観」」「関野貞の古蹟調査」「高句麗壁画と日本」「影の主役たち、アマチュア・コレクターと軍」「仏教遺跡でも」「取締りは可能か」「2 朝鮮半島の日本人たち」「日本人の移住」「ジョージ・ケナンの見た日本人」「出土品目当ての濫掘・偽造ブーム」「タダ同然の「重宝」、白玉仏」「和田雄治の功罪」「植民地エリートたちの差別意識」「密掘は合法か不法か」。

 このような近代の負の遺産は、世界の帝国がからんでいるだけに、二国間だけで解決できない複雑な問題を孕んでいる。そのため、「第3章 同化政策とつくられた歴史」で日韓併合から日本の敗戦までの植民地時代に日本が朝鮮でなにを「破壊」したかにつづいて、「第4章 文化財は誰に属するのか-講和から日韓交渉へ-」、さらに「第5章 世界で進むコロニアリズムの清算」と時代を追って視野を広げて考察し、「終章 文化財問題のこれから」へと議論を展開する必要があった。

 第5章は、つぎのような説明からはじめている。「文化財の保護が大きな課題となったのは、第二次世界大戦の特徴のひとつであるが、この戦争をきっかけとする脱植民地化の進行のなかで、国外にもちだされた文化財の返還問題が、コロニアリズム清算の一環として強く意識されるようになった」。「自国内で発見された、コロンブスの新大陸到着以前のすべての遺物について、メキシコが所有権を宣言し、多くの中南米諸国がこれにならった。イタリア、ギリシャその他の地中海諸国やイラクからの文化財の不法な搬出が、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカなどの先進国との間で紛争を招き、また時には国内問題となっている。本章では国際社会の対応や、いくつかの事例について考えてみたい」。

 韓国がことあるごとに歴史認識問題をとりあげ、日本を攻撃するのは、つぎのように日本によって奪われたものを取り戻すことによって、国家・民族としての誇りと帰属意識のよりどころを確たるものにしたいと思っているからである。1919年の「三・一独立運動によって危機に見舞われた植民地支配をたてなおすために、総督府は民衆のなかの朝鮮王朝の記憶を抹殺する政策をとった」。「しかし五百年以上つづいた朝鮮王朝の記憶、史蹟や歴史遺物は朝鮮半島の全域に存在し、人々の国や地域への誇りや帰属意識のよりどころになってきたことは否定できない」。「ソウルの宮殿だけをとっても、併合百年を記念する事業として二〇一〇年には、日本が破壊した慶煕宮(キヨンヒグン)の復元や、保護条約強制の現場である重明殿(チユンミヨンジヨン)の歴史博物館化などがおこなわれている。植民地支配の清算が基本的枠組みとなるが、具体的には歴史資料などの文化財は、その成立した環境・背景におくことによりその真価が理解できる」。

 韓国の人びとが、日本にたいして問題としているのは、返還が順調におこなわれていないだけでなく、ほかの欧米帝国諸国と同じように、政治的に利用するために、「留保」していることである。たしかに、関係が悪化したときに返還すれば、効果的かもしれない。しかし、それでは根本的解決にならない。本書の帯にある通り、「国家間、民族間問題の未来を拓くカギとして」は、完全に清算したうえで、対等な立場に立って交流することが望ましい。もう先送りすることは、やめようではないか。

 もうひとつ、韓国の人びとが「反日」を繰り返す理由は、このような歴史を日本人が教育していないことである。しかも、日本史を専門としている研究者が知らず、知っていても深刻に考えていないことである。それどころか、国家や世論をリードしなければならないはずの、大学がこの問題にかんしては足を引っ張っている。「学術調査の名のもとに貴重な文化財を略奪したり、国外にもちさる例は中国や朝鮮にかぎらず、同じ時代の中央アジア、南米、アフリカなどでもひろくおこなわれた。帝国主義の時代に世界に拡大した文化的コロニアリズムの産物であった」。そして、「二〇〇六年の国連総会は「文化財の原産国への復帰または返還」決議を採択した」。しかし、依然として「帝国主義国家」は「合法」的に取得したと主張したり、返還後の管理能力の問題をあげたりして、多くの「復帰または返還」に応じていない。これらの文化財は、もはや1国家や1民族の遺産ではない。人類の遺産であることを考えれば、原産国に戻し、とくに「略奪」した国家や研究者が中心となって管理していくべきものだ。大学は、その先頭に立つことによって、世界をリードする大学になる。

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2012年10月23日

『フィリピン近現代史のなかの日本人-植民地社会の形成と移民・商品』早瀬晋三(東京大学出版会)

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 本書は、30年間余にわたって研究してきた日本・フィリピン関係史をまとめたものである。通常、還暦、退任といった節目にまとめるものを、一足早くまとめた。多くの研究者がまとめることができずに出版しなかったり、出版しても序章・終章のない既発表論文の寄せ集めで終わるのをみてきたからである。早く出版すれば、これで終わりではなく、「つぎ」へ進むことができると思った。

 本書は、これまで書いてきたもののなかから8論文を選び、3部に分けた。3部のタイトルは、つぎの通り学術書としてふさわしくないものかもしれない:「フィリピンで汗を流した日本人」「フィリピンの生活必需品となった日本商品」「フィリピンと戦争を挟んで交流した日本人」。また、「索引」は21頁で、どうでもいいような職種や雑貨名が並ぶ。これも本書の特色のひとつで、「索引」はたんなる付録ではなく、学術書の1部として自己主張している。これらのことは、従来学術書で充分に扱われてこなかったことを議論していることを示している。

 本書の「序」と「結」は、近現代日本・フィリピン関係史を研究してきて、ずっと気になっていた基本的なふたつの問いでまとめた。「序」は、つぎの文章ではじまる。「本書を通じて問いつづけていることが、ふたつある。ひとつは、フィリピンは、なぜ近代を代表する大国アメリカ合衆国の植民地であったにもかかわらず、けっして「自由と民主主義」を謳歌し、物質文化に恵まれた「豊か」で、政治的に安定した国家にならなかったのかである。もうひとつは、日本とフィリピンとの交流が長く、密接であるにもかかわらず、なぜ広がりをもつ蓄積あるものにならなかったのかである」。「これらのふたつの問いは、たんにフィリピン史や日本・フィリピン交流史研究にとどまらない、大きくて深い問題を投げかけている。今日、そしてこれからの世界を考えるにあたって、前者は大国主導ではない世界秩序の構築を、後者は多文化共生が重視されるなかでの交流のあり方を問うているからである」。そして、「結」で、それなりにこたえたつもりである。

 本書の特徴のひとつは、「一言でいえば、「近代文献史学を超えるための現代の歴史学」ということになるだろう」。各章は、文献史料から得られるデータを集計し、その事実から議論を展開している。「意図的であるかないかを問わず、恣意的な資料の「つまみ食い」という弊害を避け、資料の全体像を明らかにしたうえで、分析・考察するために」、「資料の整理、研究工具の作成・刊行と同時並行して」書いてきたものである。

 つぎの特徴として、首都中心の近代の歴史像からの解放を目指したということである。日本側の対アジア貿易、アジア向け商品の製造の中心であった大阪・神戸に注目し、港別貿易統計を使って、東京・横浜中心史観の日本の対外関係史では軽視されてきたことを明らかにした。また、その日本商品が普及したフィリピンの都市の下町や地方社会に目を向け、日本商品が貿易統計以上にフィリピン社会に影響を与えたことを論じた。

 もうひとつの特徴は、つぎのように日本人や日本商品を受け入れたフィリピン社会の特性を念頭に置き、さらに今日のグローバル化のなかでのヒトとモノの移動を考えたことである。「ここで忘れてはならないのは、日本人や日本商品を受け入れたフィリピン社会が海域に属していたことである。流動性が激しく、安定していない海域世界では、ヒトやモノの移動が日常的で、「よそ者」は新たな知識や技術などをもたらしてくれる歓迎すべき存在だった。自分たちの生活を豊かにしてくれるヒトやモノを拒む理由はなかった。これまで「棄民」ということばで象徴的にあらわされてきたネガティブな移民像から脱却し、「よそ者」をポジティブに受け入れてきたフィリピン社会を念頭に日本人移民を考察していくことも必要だろう。そして、今日、グローバル化のなかでさまざまな影響が歓迎/危惧されるなかで、自分たちも気がつかないうちにほかの人びと・社会に影響を与えるかもしれないことを自覚しなければならないだろう」。

 これで、フィリピン研究を「卒業」するつもりでいる。「卒業」は引退ではなく、新たな出発である。フィリピン研究だけをやっていると、日本で発行されたフィリピン関係の本は全部読んでいなければならない、最新のフィリピン研究を把握するためにフィリピンに足繁く通い本を買ってこなければならない、というような「強迫観念」がつきまとった。結果として、視野が狭くなり萎縮して、学び発展しようという意識が薄らいできていたような気がする。フィリピンにこだわらなくなることで、新たな問題意識ができたり、フィリピンだけでは解決し得なかった問題の糸口が見つかるかもしれない。そう期待して、「つぎ」へ進みたい。

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2012年10月09日

『北一輝-もう一つの「明治国家」を求めて』清水元(日本経済評論社)

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 本書は、1983年に発足した日本経済思想史研究会が世に問うシリーズ「評伝・日本の経済思想」の1冊である。このシリーズには、柳田国男など、一見、経済思想とは無縁であるかのようにみえる人物も含まれている。革命思想家として知られる北一輝も、そのひとりである。そして、著者もけっしてその道の専門家ではない。だからこそ、本書は価値があるのかもしれない。あまたある北一輝論で、これまで扱われなかった「北の経済思想らしきものに焦点を当てて」論じているからである。

 著者は、「経済」を狭義の経済ではなく、つぎのように「economyの原義に立ち戻って、北の「経済」思想をその生涯と交錯させながら叙述しよう」とした。「「経済」の語は、「共通する規範」という意味のギリシア語のオイコノミアに由来する英語のeconomyの翻訳語だが、この語が内包する意味の範囲は、狭義の経済にとどまらず、はるかに広い。ちなみに、手もとの英和辞典を繰ってみると、economyには、経済・理財・家政のほかに、組織・制度・社会、有機的統一、自然界の秩序、天の配剤、摂理などの訳語があがっている。本来、economyとは、自然法則にしたがい動く自然界の循環を含めた人間を養うシステム全体のことなのである」。

 著者は、北の代表作「『国体論及び純正社会主義』において、economyの原義に近い、人類史を総括するような普遍的な社会理論の構築を目指したことは明らかである」とし、第1~5章で北の社会理論、社会主義思想を読み解いていく。そして、第6~7章では、北の思想と生涯の概略を最後までたどれるようにしている。

 1936年の二・二六事件に関与した北は、「今度の事件には関係ないんだね、然し殺すんだ、死刑は既定の方針だから已むを得ない」という陸軍省当局のシナリオによって、ただひとりの純粋な民間人として銃殺された。事件を、「軍のあずかり知らぬ外部の不逞思想の影響を受けた青年将校の暴走によるものとして決着させられなくてはならなかった」からである。

 北の思想の今日的意味を、著者はつぎのようにまとめて、本書の結論としている。「人間の解放に大きな役割を果たして来た市場経済の機能を維持しつつ、この機能を導く原理、価値の根源は、マルクスのいうとおり、商品と商品との関係には決して還元されることのない人間の関係としての「社会」に求められなくてはならない。その中核をなすのは、みずからにとって大事な人すべてで「自己」だと実感できるような「共同体」であろう。そうした「共同体」としてのそれぞれの自己が、自然を介して重層的に多様な関係をとり結ぶ「社会」という価値原理を決して手放すことのない、しかも個々自由な目的を一般的ルールにしたがい追求できる市場経済においてしか、生が充足され、真に人類が解放されることはあるまい。埒もない話だが、われわれの目指すべき道は、「資本」主義ならぬ、「社会」という価値原理に基づく「社会」主義市場経済にしかないのではないか、としか今はいえない。北一輝は、このような問題を時代の制約のなかでぎりぎりのところまで追い詰めた先駆的思想家である。本書は、歴史的な転換期にある日本の新しい経済社会を考えるうえで、この先覚者が、完璧な「倫理的制度としての国家」を希求するのあまり、スターリニズムの逆説をも呼び寄せかねなかったという、その壮大なあやまりをも含めて、何らかの「よすが」になってくれればという思いから書かれた」。

 ほかにも、本書には今日的意味を感じさせる記述がある。1919年の五・四運動を目の当たりにした北が、つぎのように述べているのを、著者は引用している。「「ヴェランダの下は見渡す限り此の児[養子の中国人]の同胞が、故国日本を怒り憎みて叫び狂ふ群衆の大怒濤」、しかもその陣頭指揮にあたる者は、「悉く十年の涙痕血史を共にせる刎頸の同志」である。これを地獄といわずして何というのか」。ここでも、北は「明治国家とは異なる「日本の近代」」をみていた。「闘い敗れた「急進的ナショナリスト」が目指したもの」から、今日のために学ぶことがあることが本書からわかる。

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2012年10月02日

『「お雇い」鉱山技師エラスマス・ガワーとその兄弟』山本有造(風媒社)

「お雇い」鉱山技師エラスマス・ガワーとその兄弟 →bookwebで購入

 著者、山本有造は、本書を楽しんで書いている。その理由は、長年(40年)疑問に思っていたことを、専門の数量経済史から離れて書くことができたからである。だからといって、まったく専門から離れたわけではないことが、本書を読めばわかる。これまでに培ってきた研究があったればこそ、それから距離を置いた本書が書けたように思える。幕末から明治にかけて日本にやってきた「お雇い」外国人兄弟を通して、当時の日本という国家の位置、社会の様相だけでなく、東アジア情勢や世界情勢まで、その一端がわかってくる。それは、ザ・ヤトイthe Yatoiということばが、「今日では「お雇い」を指す言葉として英語でも通用」し、「彼らは日本における「文明開化」の尖兵であった」ことと関係している。

 著者の疑問は、開港期の幕末・維新史の文書や史書に、頻繁にガワーという名前をみつけたことによる。しかも、「出所によって、ガワルだの、ガールだの、ガワールだの、果てはゴールなどと呼ばれて最初はとまど」い、「また職業も「お雇い」鉱山技師であったり、領事であったり、貿易商であったり、時には画家あるいは写真家らしかったりして、これにも振り回される」ことがあったからである。

 著者は、「はじめに」の最後で、つぎのように述べて、「この小さな好奇心から生まれた、一九世紀日本とイギリスとイタリアを結ぶ探求の記録」をはじめている。「横浜貿易商それも「英一番館」の番頭、「お雇い」鉱山技師、そして「英国領事」を名乗る三人のガワーが、安政六年(一八五九年)まさに三港開港の直後から、明治一〇年(一八七七年)すぎまで、横浜を中心に日本各地に出没した、らしい。彼らはどこから来たのか。なぜ日本に来たのか。彼らは何を日本に残したのか。彼らはどこへ消えたのか。幕末・維新史に興味があるものであれば、これを知りたいではないか」。

 その結論は、「おわりに」の最初の1頁で、つぎのように述べられている。「開国以降の幕末・明治初期に、三人のガワー姓のイギリス人が日本に現れる。はじめに現れるのはイギリス総領事館(公使館)補佐官として一八五九年(安政六年)に来日したエーベル・ガワーであった。彼はイギリス領事として日本各地を転任し、一八七六年(明治九年)兵庫・大阪領事を最後に、日本を離れた。次に現れるのは「英一番館」ジャーディン・マセソン商会横浜支店の支店長として一八六二年(文久二年)に着任したサミュエル・ガワー、われわれのいうS・Jであり、彼の離日は一八六五年(慶応元年)春であった。三番目が「お雇い」鉱山技師として一八六六年(慶応二年)箱館に現れるエラスマス・ガワーである。彼は箱館、佐渡、東京、長崎で仕事をし、一八八〇年(明治一三年)に新しい仕事を求めてタイ、インドへ去った」。

 「彼ら三人が、イタリア・トスカーナのリヴォルノ(レグホーン)市在住のイギリス人商人・ジョージ・ヘンリーと妻アンの同腹の兄弟であることを小著では明らかにした。S・Jが一八二五年生まれの長男、エラスマスが一八三〇年生まれの次男、エーベルが一八三六年生まれの三男であった。粗々の計算で、S・Jの来日時が彼三七歳でおよそ三年の滞日であった。エラスマスの来日は三六歳、彼は一四年間を日本ですごし、五〇歳にして去った。エーベルの来日は二三歳、離日そして引退も四〇歳という若さであったが、彼の日本滞在は足掛け一七年におよんだ」。

 「ガワー兄弟は教科書を飾るといった意味での歴史の主役ではなかった。しかしそれぞれの職業を通して開港期・日本の西欧化・近代化に大きな役割を果たした「異人たち」であった」と結論した著者は、つづけて司馬遼太郎『胡蝶の夢』のつぎの文章を引用している。「幕末から明治初年の日本は、濃厚に異質な世界であった。ここにきて物を教えることに熱中した幾人かのヨーロッパ人は、帰国後、海のそこから帰ってきた浦島のようにどこか茫々として後半生を送るところがあった」。

 本書の謎解きに、大いに役にたったものに、GROと文書館史料がある。戸籍登記所GRO(General Register Office for England and Wales / The Office for Registration of Births, Deaths and Marriages)は、1837年にイングランド、ウェールズで、すべての出生、死亡、結婚の登録が義務づけられたことにともなって設けられた。55年にはスコットランド、アイルランドでは45年に結婚、64年に出生、死亡の登録が強制された。そのおかげで、家系図を調べるのが容易になっただけでなく、既婚者による結婚詐欺の被害に遭うことも減った。イギリスなど欧米の文書館に行くと、あきらかに研究者には見えない多くの高齢者を見かける。それぞれ自身のfamily historyや郷土史などを調べている。ときには、研究者には思いもつかないような新たな発見があったりする。文書館や図書館の役割に、日本にはない受動的でないものを感じる。

 日本では、人名の読みにほとほと苦労する。外国人のカタカナ表記も同じであったようだ。日本史など日本研究が国際化して、英語で書くようになると、人名のローマ字表記が問題となる。このような役所や文書館があると助かる。「日本の西欧化・近代化に大きな役割を果たした」ひとりエーベルが、40歳で「失意をもって日本を去り、長い余生を送った」一因も、目に見えない「文化摩擦」に青壮年期の17年間さらされつづけてきたからかもしれない。本書を読むと、どこかで日本人と行き違いしたことがうかがえる。

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2012年09月25日

『三つの旗のもとに-アナーキズムと反植民地主義的想像力』ベネディクト・アンダーソン著、山本信人訳(NTT出版)

三つの旗のもとに-アナーキズムと反植民地主義的想像力 →bookwebで購入

 日本人にはちょっとわからない著者の博識を背景に、独特の言い回しがあって理解するのが困難な本書を、日本語で読むことできるようにしてくれた訳者に、まず感謝したい。著者アンダーソンは、その著書『想像の共同体』(原著1983年)で、世界的に有名になった東南アジアを中心とするナショナリズム研究者である。本書では、19世紀末という「グローバルなアナーキズムとローカルなナショナリズムがときに対立しながらときに連結するという独特な政治空間を醸しだした時代」を扱う。地域は、3つの旗「フィリピン独立運動派の秘密組織カティプーナンの旗、アナーキストの黒旗、そしてキューバ国旗」で象徴している。残念ながら、原著表紙に5つずつ描かれている3つの旗は、日本語訳の本書にはどこにもない。原著にもなんの説明もないため、門外漢にはなにをあらわしているのかわからないが、著者は読者に「未知の世界」の話を予告する意味で、意図的に説明しなかったのではないだろうか。

 本書の概略は、帯の裏でわかる。「フィリピン・ナショナリズムの父ホセ・リサール、人類学者イサベロ・デ・ロス・レイエス、活動家マリアノ・ポンセ。19世紀末に連鎖的に発生したキューバ独立運動、フィリピンの民衆蜂起、ヨーロッパの反政府活動に三人の足跡はどうつながり、なにを語るのか。100年前に現れた地球規模の政治空間を詳細に描写し、国家・共同体・グローバリズムの問題を現代にふたたび問いかける」。現代に問いかけているわけは、「序文」最後のパラグラフでこう書かれている。「本書にはわたしたちの時代に類似したもの、あるいは共鳴するものが多数あることに読者は気づくかもしれない」。

 本書を読むと、「読者は、アルゼンチン、ニュージャージー、フランス、バスクの内地でイタリア人と出会う」。「プエルトリコ人やキューバ人にはハイチ、アメリカ合州国、フランス、フィリピンで、スペイン人とはキューバ、フランス、ブラジル、フィリピンで、ロシア人とはパリで、フィリピン人とはベルギー、オーストリア、日本、フランス、香港、イギリスで、日本人とはメキシコ、サンフランシスコ、マニラで、ドイツ人とはロンドンとオセアニアで、フランス人とはアルゼンチン、スペイン、エチオピアで出会う」。このようなことになったのも、「一九世紀末の二〇年間に「初期グローバリゼーション」と呼びうる兆候が始まっていたからである」。通信、交通の発達が世界を「狭く」し、それにのってアナーキズムが世界へ広まった。

 そのアナーキズムがナショナリズムとどう呼応していったのか、その具体例が本書で語られている。「新世界における最後のナショナリストの蜂起(キューバ、一八九五年)とアジアにおける最初のそれ(フィリピン、一八九六年)とのあいだのほぼ同時性は偶然の発見などではない。伝説的なスペイン世界帝国の最後の、そして重要な遺物である現地住民、すなわちキューバ人(それとプエルトリコ人とドミニカ人も)とフィリピン人はお互いについての出来事を読むだけではなく、個人的な人間関係を築き、ある点までは互いに協調しながら行動した-そうしたトランスグローバルな相互関係が世界史上初めて可能になったのである」。

 著者は、「本書の構成は方法論と対象に基づいている」とし、続けてつぎのように説明している。「独断的ではあるが、本書の明快な出発点は一八八〇年代の静かで遠く離れたマニラとなる。それから、話題は次第にヨーロッパ全土に拡がり、そしてアメリカ大陸、最後には出発点以上に独断的な結末に向けてアジアにまで延びていく。こうであるから、本書にふさわしい終わり方は「結論」なしということであろう。本書は、言うなれば一八六〇年代初頭に生まれた三名のフィリピノ愛国者であった若者の人生を中心に描くことになる」。

 「第一章と第二章は、二冊の注目すべき書物を対照的に検討する。一つはイサベロの『フィリピンの民俗学』・・・、もう一つはリサールの二冊目の著作に当たる不思議な小説『エル・フィリブステリスモ』」。「第三章は、素人の文芸批評から離れて政治の領域に入るところから始まる」。そして、「ヨーロッパと東アジアにおけるビスマルクの影、産業用爆発物におけるノーベルの技術革新、ロシアのニヒリズム、バルセロナとアンダルシアでのアナーキズム、これらすべてが本章では明らかとなる」。「第四章は、一八九一年のリサールの帰郷から一八九六年の年の瀬も押し迫ったころに執行されたかれの処刑までのあいだの四年間を取りあげる。とりわけ、キューバにおける政情の変化と、フロリダとニューヨークでのキューバ人移民コミュニティにおける変化について議論する」。「第五章は最も複雑である」と冒頭に述べ、前半でバルセロナで発生したアナーキストによる爆破事件からドレフュス事件までもっていき、後半はイタリア人アナーキストによる暗殺事件に始まる。そして、「最後の主要な二つの節では、リサールの親友であるマリアノ・ポンセの活動とイサベロ・デ・ロス・レイエスを軸に議論を展開する」。たしかに複雑で、わかりにくい。

 ここまで読んで、とてもついていけないと読むのをあきらめる人がいるかもしれない。とくに『想像の共同体』のファンは、そう感じるかもしれない。『想像の共同体』の原著が出版されたのが、1983年である。この年を考えると、『想像の共同体』は近代科学のひとつの終着点であったかもしれない。「訳者あとがき」では、つぎのように説明している。「本書は前書[『想像の共同体』]の続編的位置づけにある。前書ではナショナリズムの誕生と展開の過程を非ヨーロッパ的視点から描写した。しかし、一九七〇年代における英国でのナショナリズムをめぐる言説に論争的に挑むという意図を秘めていたために、想定読者は英国の知的伝統を所与とする人びとであった」。「それに対して本書はそうした知的論争から自由であり、広い読者に開かれている」。

 しかし、もしわずか1頁の著者による「後記」が、重要な意味をもつなら、想定読者は「毛沢東主義の「新」共産党の影響が色濃く残っている」「急進的なナショナリストとして有名なフィリピン大学」関係者で、本書はかれらのフィリピン革命史観にたいする挑発かもしれない。本書の原著が2005年に出版されて、数年がたった。「日本語版への序文」のつぎのパラグラフは、日本人ではなくフィリピン人の読者に向けてのものかもしれない。「本書は、偏狭な国民国家主義的歴史叙述という枠組みに対する一種の批判の書として読むこともできる。その歴史叙述では、ひとえに国民国家の枠組みで構成されるために、個々のナショナリズムの特殊性を過度に強調し、その結果として外部世界は軽視される。ところが実際には、ナショナリストとして知られる思想家や指導者は少なからず、故郷を離れて異国の地を旅し、そこで生活し、教育を受けてきた。かれらは未知の言語を習得し、外国人が書いた新聞、冊子、小説を読み、反植民地主義的思想を有する自由主義者や左派活動家(特にアナーキスト)と親交を深めた。ここからもわかるように、ナショナリズムは国際主義(インターナショナリズム)と不可分であり、そのように理解する必要がある」。出版後数年間に、とくに反響のあったフィリピン人だけを対象にしたわけでもないだろう。著者は、前書『想像の共同体』を「偏狭な国民国家主義的歴史叙述」として読んだ者にたいして、わざと「正反対な事柄を話題」にした本書を書いたのかもしれない。本書についていけないと感じた人は、「偏狭な国民国家主義」者かもしれない。

 当然、著者の「挑発」にのったフィリピン人研究者は、個々の事実誤認を指摘したりして反論するだろう。それこそが、著者が批判の対象とした「偏狭な」ものにほかならない。本書でとりあげた3人は、国民国家という枠組みで発想もしていなければ、行動もしていない。「初期グローバリゼーションの展開」のなかで考え、行動した人びとである。「後期」に突入したいまだからこそ、「初期」のことがわかる。その意味で、「初期」の研究はいまが「旬」なのかもしれない。

 そして、本書がフィリピンを専門としているわけではない研究者によって翻訳されたことは幸いであっただろう。とくに近代に教育を受けたフィリピン研究者には、気になることがあまりに多く、翻訳することができなかったであろうし、訳注をつけはじめたら切りがなく、出版することができなかっただろう。出版できたとしても、もうとっくに「旬」をすぎたころかもしれない。訳者は、そのことを重々承知のうえで、このような時代と社会がわかるほんとうの意味での世界史を日本人にも伝えたくて、翻訳を決断したのであろう。その決断にも拍手を送りたい。

 本書は、初期グローバリゼーションだけを扱うのではなく、その前後やグローバリゼーションの影響が少ない国や地域も考慮に入れて、グローバリゼーションを相対化しているという意味で、グローバル史ではなく世界史である。グローバリゼーションを強調するあまり、帝国中心のバランスを欠いた歴史叙述になることからも免れている。その免れえた理由のひとつは、英語がまだ「国際語」ではなかった時代を、その雰囲気を感じてもらうために、スペイン語、ドイツ語、フランス語、タガログ語などで書かれた史料を原文のまま引用し、著者自身の英訳を添えていることからもわかる。これだけの言語が理解できる著者だからこそ、「失われた知識人」たちの世界に入っていった本書が書けたといえる。日本語訳でも、原文はそのまま掲載している。アナーキストもナショナリストも、この多言語社会のなかで交流し、「つながった」。英語だけが支配的な「国際化」への警告かもしれない。ひとつの「国際語」だけでは、とくに人文学的なことは、多文化共生社会とは無縁な「知の帝国主義」的理解に陥る危険性がある。

 本書のような「冒険」は、フィリピンを専門としている研究者だけでなく、ヨーロッパや中南米などを専門としている研究者からも批判されるだろう。その批判が、この「冒険」を読んだからできたのであるなら、その「冒険」をつぶすのではなく、「冒険」の先にあるさらなる「冒険」をめざさなければならない。著者は、この3つの旗とその「つながり」がわかることによって、現代のグローバリズムがよりよくわかるようになるのだと言っているような気がした。

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2012年09月18日

『稲の大東亜共栄圏-帝国日本の<緑の革命>』藤原辰史(吉川弘文館)

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 いままでいちばんおいしかったコメは、フィリピン南部ミンダナオ島ダバオ市街地から少し内陸に入ったカリナンで食べた陸稲の赤米ジャバニカだ。日本人が普通に食べる白米ジャパニカより粒が大きく、香りとともにじっくり味わうことができた。1985年に調査のために下宿していた家の奥さんは、市場でちょっと変わったものがあると、買ってきて食べさせてくれた。たくさんの種類の地場もののコメやイモ、野菜があることがわかった。タイのバンコクのスーパーマーケットに行っても、いろいろなコメがあることに驚かされる。ジャスミンライス(香り米)として世界的に有名になった輸出用とは違い、人びとが食生活を楽しむためのコメがあるのだ。

 本書では、ただたんに人びとから豊かな食生活を奪っただけではなく、「コメの品種改良の歴史にひそむ、「科学的征服」の野望」が語られている。裏表紙には、つぎのような本書の概略がある。「稲の品種改良を行ない、植民地での増産を推進した「帝国」日本。台湾・朝鮮などでの農学者の軌跡から、コメの新品種による植民地支配の実態の解明。現代の多国籍バイオ企業にも根づく生態学的帝国主義(エコロジカル・インペリアリズム)の歴史を、いま繙(ひもと)く。」

 この概略を読まないで、帯に大書された「稲も亦(また) 大和民族なり」だけ見て読みはじめると、日本の稲作文化とそれを支えた農学者たちの礼賛の本ではないかと思ってしまう。著者、藤原辰史は、農学者たちの功績を認めつつ、それでも罪悪のほうがはるかに深刻で後世まで引きつづく問題を遺したことに鋭く切りこんでいく。そして、その功績は市場原理と結びついていったものであり、とくに自家消費用の在来米を栽培する人びとの生活を豊かにするものではなかったことを明らかにする。著者は、植民地産米の増産について、つぎのように述べている。「移出する側の植民地の農民は、良質(と内地の市場で評価される)品種を食べることはまれであり、在来の食味の悪い(と内地の市場で評価される)米や、粟(あわ)や黍(きび)を食べる。内地米は基本的に自給米ではなく商品であった」。

 植民地台湾で導入された蓬莱米は、肥料を購入できる農家には歓迎されたが、「妻君」は「夫婦喧嘩をしてまで導入を拒んだ」。その理由を、著者は「三重の違和感があったのではないか」と述べ、「肥料依存型の農業構造のみならず、台湾の社会構造と心理構造をその両面からダイナミックに改変した」と指摘している。いったん導入され、肥料、農薬、水への依存度が高まると、収穫量が減る恐怖から抜け出すことができなくなる「薬物依存」と同じ状況に陥る。それを日本は朝鮮、台湾につづいて「大東亜戦争」で占領した東南アジアにも導入し、さらに戦後の「緑の革命」にも影響を与えることになった。

 著者は、本書の基本的立場をつぎのように述べて、結論へと誘っている。「品種改良の政治的および社会的影響を、高橋[昇]や菅[洋]のように無害化することでもなく、山元[皓二]や高木[俊江]のように政治による科学技術の独占としてとらえることでもない。あるいは、盛永[俊太郎]のように発展史のなかに埋め込むのでもない。そうではなく、品種改良が編み出す技術的連関の網のなかで人びとが生き、生かされるという状況を記述することであった」。

 そして、著者は「育種技術は「人を殺すこととまったく関係がない」」というきれい事は、「事実ではない」ときっぱり言い、最後の節「日本植民地育種の遺産」でつぎのように結論している。「育種技術が社会の矛盾を温存して人間と空間を人間の生活実感を通して支配するこのシステムは、警察権力や軍事力で人間を支配するよりもいっそう持続的で摩擦が少なく、それだけに、かえってとてつもなく厄介な統治システムでもある」。

 そして、エピローグ「日本のエコロジカル・インペリアリズム」で、つぎのように警告する。「二一世紀の帝国主義が、国家の枠を超えて、遺伝子操作技術をはじめとするバイオ・テクノロジーによって人間と人間以外の生物を同時に支配するという、新しい段階に突入することは間近に迫っているように思われる。医薬品産業と種子産業はしばしば同一の企業に担われている。古い時代の偶然が新しい時代に必然になることで、歴史は進展してきたからである」。

 わたしたちは、なんのためらいもなく日本のコメはおいしいと思い、その日本のコメを守り、広めていくことになんの疑問も思っていない。だから、それに真摯に取り組む農学者たちを立派な科学者として尊敬してきた。しかし、本書を読むと、日本のコメは戦前・戦中の帝国主義・植民地主義と深く結びつき、それが戦後のアメリカの食糧戦略にも結びついていったことがわかる。そして、「稲も亦 大和民族なり」というように民族文化と絡み、世界に誇ることができると思っているために、さらにやっかいである。すくなくとも、日本人の稲のもつ特殊性を理解したうえで、その神聖性は国内にとどめ、外国に押しつけることだけはやめた方がよさそうだ。

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2012年08月21日

『歴史のなかの熱帯生存圏-温帯パラダイムを超えて-』杉原薫・脇村孝平・藤田幸一・田辺明生編(京都大学学術出版会)

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 本書は、1冊の本として理解しやすいものではない。だからこそ、全体を通して読みたい本である。本書が目指しているものを端的にあらわしているのは、「終章 多様性のなかの平等-生存基盤の思想の深化に向けて-」のつぎの冒頭のことばである。「人間のなすあらゆる学問の目的は、世界に対する人間の関係を探求することにある」。しかし、学問の現状は、「世界に対する人間の関係」のほんの一部しか手をつけていないし、手をつけている分野でも、進んでいる分野はごく一部である。本書が、1冊の本として理解しやすいものではないのは、進んでいる分野のかなりこなれた記述と、手をつけはじめたばかりのまだ整理が充分でない記述が、混じりあっているからである。さらに、序章、4編14章、終章からなる本書のそれぞれの編と編、章と章とのつながりがよくわからないものがあるからである。それだけ、本書、本講座が目指しているものが、とてつもなく巨大なものだということだ。その現状を知るためにも、本書全体から個々の分野の位置を確認したい。

 本書は、全6巻からなる「講座 生存基盤論」の第1巻である。ほかの巻は、以下の通りである。「第2巻 地球圏・生命圏の潜在力-熱帯地域社会の生存基盤-」「第3巻 人間圏の再構築-熱帯社会の潜在力-」「第4巻 熱帯バイオマス社会の再生-スマトラの泥炭湿地から-」「第5巻 生存基盤指数-人間開発指数を超えて-」「第6巻 持続型生存基盤論ハンドブック」。

 本講座は、「京都大学グローバルCOEプログラム「生存基盤持続型の発展を目指す地域研究拠点」(2007-2012年)の最終報告書」である。本講座は、「これまでのアジア・アフリカ研究の多くは、欧米や日本の歴史的経験に基づいた、したがってアジア・アフリカ地域全体からみればバイアスのかかった認識枠組から自由ではなかった」という認識の偏りを克服するために、「これまで「地表」から人間の眼で見てきた世界を、より三次元的で複眼的な「生存圏」から捉え直すことを提案する」。「そして、現在なお広く共有されていると思われる二つの見方の根本的な転換を示唆する」。

 「その第一は、「生産」から「生存」への視座の転換である」。「現在必要とされているのは、生産性の向上や労働の尊さといった価値を否定することなく、しかしその意味を、もう一度この「生存」の観点から捉え直すこと」である。「第二は、「温帯」から「熱帯」への視座の転換である」。「われわれは、地球環境における熱帯の本質的な基軸性と、技術や制度の発達における温帯の主導性との間に大きなミスマッチをみる。これを矯正しなければ、人類が地球環境を理解し、それと共生していくことはできない」。

 そして、「本講座の刊行によせて」の最後に、本講座の課題をつぎのように説明している。「人類生存基盤が持続する条件をできるだけ幅広く探ることである。人間環境の持続性を分析する基本単位として「生存圏」を設定し、そこで個人が生きるために、あるいは地域社会が自己を維持するために必要な物質的精神的諸条件を「生存基盤」と呼ぶとすれば、われわれの最終目標は、ローカルな、リージョナルな、あるいはグローバルな文脈で、持続型の生存基盤を構築する可能性を具体的に明らかにすることである。生存基盤論は、そのための分析枠組として構想された」。

 この講座の第1巻である本書の課題は、「持続型生存基盤論の基礎となる長期の歴史的パースペクティブを示すとともに、それによって熱帯生存圏の新しい理解を提示することである」。4編それぞれ冒頭で、編の「ねらい」を簡潔に、つぎのように述べている。

 「第1編 生存基盤の歴史的形成-生産の人類史から生存の人類史へ-」が「目指すのは、「生産の人類史」から「生存の人類史」への歴史叙述の書き換えである。これまでの人類史(主として現生人類史)では、「狩猟・採集」の時代から「農業(と家畜使用)」の時代、さらには「産業」の時代へといったように、生業を基軸にして時代区分やそれぞれの時代の特徴が叙述されてきた。しかし本編では、「生存」を規定する諸条件に着目する「生存の人類史」を目指している。「生存の人類史」とは何か。それは、人類史すなわち「人間圏」の歴史を、「地球圏」および「生命圏」の論理との強い連関のなかで理解することにある」。

 「第2編 近代世界システムと熱帯生存圏」は、「近現代史を念頭に置き、人間圏、とくに温帯で生まれた技術革新が熱帯生存圏をどのように変容させてきたのか、変容させようとしているのかを論じる」。「本編は、熱帯生存圏が温帯における経済と技術の発展にどのようなインパクトを受け、いかなる対応を迫られてきたのかを論じた3本の論考を収録する。ここでの焦点は、温帯の発展を支えた近代的な技術でもなければ、熱帯地域に蓄積された在来の技術でもなく、温帯と熱帯のあいだに生じた、あるいは生じつつある、まさしく地球規模での技術革新とその伝播の帰趨をどう理解するかにある」。

 「第3編 モンスーン・アジアの発展径路と日本-発展を支えた農村制度に着目して-」は、「日本を含む東(北)アジアから東南アジア経由でインドまで広がる「モンスーン・アジア」について、同地域に特徴的な生態的基盤のうえに展開した、農業や森林利用・管理におけるさまざまな制度(institutions)に着目し、制度がいかに進化(evolve)し、技術の開発や外部からの受容を媒介として発展径路を規定してきたかを論じたものである」。

 そして、「第4編 熱帯における生存基盤の諸相-植民地支配・脱植民地化・石油依存-」は、生存基盤持続型発展のために熱帯地域が有する現代的可能性に着目する。とくに植民地期から現代までの長期ダイナミクスという歴史的視角およびグローバルなつながりのなかの地域の固有性という地域研究的視角から、熱帯の生存基盤の変容と現状を検討することをつうじて、温帯パラダイムを乗り越え、熱帯を焦点において歴史観・世界観を見直す試みをなす」。

 このような大きな構想の下での共同研究、しかもさまざまな分野の研究をまとめることは並大抵のことではない。それを批判することは、それほど難しいことではないが、それは逆説的で、このようにまとめられたからこそ、批判ができるようになったということができる。それだけ、本書、本講座の出版の意義があるということである。これを出発点として、さらなる共同研究、個々の研究の発展を期待したい。

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2012年08月07日

『東南アジア占領と日本人-帝国・日本の解体』中野聡(岩波書店)

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 本書は、「南方徴用」された作家・文化人の徴用令書を受け取った戸惑いの様子からはじまる。「大東亜戦争」では、「多くの民間人が国家総動員法・国民徴用令により徴用され、陸海軍に勤務した。軍属とも言う。通常その任期は一年であった」。これらの民間人の体験にもとづいた「語り・回想narrative」は、おびただしい数にのぼった。「本書では、日本の南方=東南アジア占領が、戦後の日本と日本人に向けて開かれた歴史経験としてもった意味を、主として東南アジア占領に関わった日本人の「語り・回想」を読み解くことを通じて考えていく」。

 「本書は、日本帝国が直面した矛盾と限界を浮き彫りにする視点から」「「大東亜共栄圏」の「虚像」と「実像」という問題」に注目する。著者、中野聡は、さらにつぎのように説明している。「この対比から一般に想像されるのは、互恵・平等を想起させる「共栄」という宣伝文句(虚像)の一方で、東南アジア占領の実態(実像)は日本を支配者とする垂直的な支配であり、日本が占領下のビルマやフィリピンに与えた「独立」はカッコ付きに過ぎなかったという見方であろう。しかしはたして日本は、その「実像」を実現できたのであろうか。むしろ日本帝国が秩序の形成力に不足していたという現実が、日本帝国をその膨張の極点において揺さぶり、「共栄」や「独立」の観念をめぐる力関係にも影響を与えていったのではないか。このような観点から本書では、東南アジア占領に関係した日本人の「語り・回想」を通じて、日本帝国が東南アジア占領によって揺さぶられ、解体されていく契機-「南方=東南アジア占領の歴史的衝撃」-に注目していきたい」。

 「そして東南アジア占領とその破綻をめぐる日本人の「植民地経験」に注目するとき、東南アジアという「他者」に対して日本帝国のやり方が通用しないことを学ぶという経験そのものが日本人に与えた歴史的衝撃としての意味も浮かび上がってくる。この視点から、本書は、東南アジア占領者としての日本人の経験が日本と日本人の戦後に開かれた歴史経験としてもった可能性にも注目していきたい」。

 その「語り手」たちとして、つぎのような多様な日本人が登場し、「自らの経験を戦時においてどのように語り、また戦後においてどのように反芻してきたのかを辿っていく」。「まず、東京の戦争指導部とその周辺の人々」。「とくに、占領地から遠く離れた東京の密室とも言える状況のなかで、大本営参謀や戦争指導部がいかなる発想から南方=東南アジア占領に臨んでいたのかを、検討していきたい」。

 つぎに検討するのが、「南方派遣軍の将兵が残してきた記録・回想」で、「主として派遣軍の中枢において軍政・占領政策を担い、東京の戦争指導部と、被占領地の政治指導者・住民との間に立った人々の経験である」。「一方、地方レベルでの占領の現場についての記録・回想は断片的にならざるを得ないが」、「被占領地の政治指導者や住民との関係をめぐって日本の軍人がどのように思考し、行動しようとしたのかを検討していく」。また、「アジア・太平洋戦争のもっともめざましい特徴のひとつ」が、「徴用・雇用・企業派遣などのかたちで多数の民間の人材を軍が戦争と占領に活用した」ことであった。「彼らの「語り・回想」は、数量的には軍人のそれに較べると限られるものの、軍人には欠けがちな視点からの東南アジア占領史の「語り手」として、重要な意味をもっている」。そして、文民のなかでも、冒頭で登場した「文士をはじめとするいわゆる「文化人」」は、「その職責や作家的関心から」、「従軍当時から戦後にかけてきわめて多くの「語り・回想」」を著した。

 「陸海軍全体の定員で総計約二万人にのぼった軍属全体のなかでは、南方派遣軍全体で定数七六五二人の占領運営を支える軍政要員として官吏・官僚・企業人が「司政長官」・「司政官」として徴用され、さらに、陸海軍全体で定数一万三六九五人にのぼる、通訳・通信技手など軍の不足する人材を補う軍属が兵卒と同様の待遇で徴用された」。なかでも、著者は「経済人」たちの「語り・回想」に注目し、軍人や作家とは異なる視点で、「アジアの「他者」と向かい合う経験を語る、多様な民間人の記録・回想を本書では参照していく」。さらに、戦前からの在留邦人の経験を踏まえた回想を検討する。

 最後に、著者は、「本書には登場しない「語り手」たち」にも、思いを馳せる。「南方派遣の日本人の生還率は全体で四四%、東南アジアに限定しても五四%に過ぎない」。「語り・回想」は、おもにその生存者に限られる。また、「日本帝国の「日本人」としての台湾人・朝鮮人」も語られていない。しかし、著者は、「残されてきた「語り・回想」をテキストとして用いるがゆえに、語らざる人々(サバルタン)の視点が可視化されにくいことを自覚して」、「残されてきた「語り・回想」から紡ぎだされた「支配的な語り」に寄り添いながら、そこに「欠けていること」を含めて、それらを読み解いていくという方法を採っていきたいと考えている」。

 本書は、以上の「序章 歴史経験としての東南アジア占領」と5章からなる。最大の特色は、「第五章 帝国・日本の解体と東南アジア」で、戦後を見据えて、「1 終焉に向かう戦局とアジアのナショナリズム」「2 「学びの場」としての東南アジア占領」が論じられていることだろう。著者が得た結論のひとつは、「日本人にとってアジア・太平洋戦争が、南方=東南アジアの被占領者という「他者」の存在を通じて、帝国・日本のやり方が通用しないことを学習する機会ともなったという点であった。その意味で最大の焦点となったのが、「他者」のナショナリズムにどう向かい合うかという問題だった」。もうひとつは、「変化すべきは「かれら」東南アジアではなく、実は「われわれ」日本人ではないのかという「答え」である」。

 しかし、日本が東南アジア占領から「学んだこと」は、戦後どのようなかたちとなったのだろうか。本書は、つぎのように結ばれている。「本書で検討してきた、日本の東南アジア占領とその崩壊の日々は、日本人に、「他者」の眼を通じて自己を見据える機会を与えた貴重な時間でもあった。そこから浮かび上がる戦後の日本と日本人に向けて開かれた歴史経験としての東南アジア占領の意味とは、日本が東南アジアを欧米植民地支配の軛(くびき)から解放したという歴史の陽炎(かげろう)よりも、もっとたしかな現実である。それは、敗北と絶望と自己否定を通して、そして東南アジアという「他者」との遭遇を通して、帝国・日本が語る「其所を得る」大東亜共栄圏像の虚妄を悟り、帝国・日本の過去との決別が戦後の良い出発となるであろうことに気がつき始めた日本人の姿である。そして敗戦のわずか数年後、サンフランシスコ平和会議で国際社会に復帰した日本と東南アジア諸国は賠償問題で向かいあうことになる。そこで、あまりにもあっさりと過去と決別した身軽な平和国家としての「戦後日本」と、生まれ変わったように平和を愛する健忘症の「戦後日本人」を-まだその多くが日本占領期から始まった独立戦争・内戦・政治的混乱の疾風怒濤のただ中にあった-東南アジア諸国の人々は、驚きの眼をもって迎えることになる。だとすれば、日本の東南アジア占領とは、日本が東南アジアを解放したのではなく、むしろ帝国・日本の軛から日本人を精神的に解放する営みであったとさえ言えるように思われるのである」。

 東南アジアは、日本によって初めて占領されたわけではない。国・地域によっては、古くから中国人、インド人、イスラーム教徒によって占領されたり、植民によって土地を奪われたりした経験がある。近代になって、タイを除き欧米の植民地になった。しかし、それは今日の東南アジアの国ぐにが全土に渡って植民地支配されたことを意味しない。植民地行政の中心となる主都で、制度的に整備されていったに過ぎず、都市や新たに開発された地域以外では、幅広い自治が認められ事実上「独立」していたところもあった。西欧の植民地支配が、「完全」ではなかったところで、日本が力づくで軍政をはじめたのである。フィリピンだけが、もともと南部のイスラーム地域を除き王国らしい王国がなく、「間接支配」を許すだけの地方の「くに」がなかった。民族運動も主要民族中心におこなわれ、周辺民族への介入は当初避けた。そのような東南アジアでは、一般に中央での「宥和」と地方での「様子見」が、占領地・植民地行政の基本であったはずである。それがわからず、「圧政」したことが、「日本の支配に対する全民衆的な怒りと恨み」になった。「民度が低い」と決めつけた東南アジアの歴史と文化を、少しでも理解していれば、東南アジア占領から学んだことが戦後すぐに消え去ることもなかっただろう。戦後においても、東南アジアの歴史と文化を理解し、「学ぶ」発想が、なかなか広まらなかった。

 近代の帝国では、一時的な軍事的占領はできても、恒久的な植民地支配は難しいことがわかってきたため、同化政策やら協同政策、倫理政策が議論された。日本も、欧米の帝国主義諸国家と「悩み」を共有し、植民地支配のあり方を議論し、台湾や朝鮮、満洲が、その実験場となった。さらに、これらの植民地支配の経験のある軍人、行政官が、東南アジア占領にかかわった。にもかかわらず、さらに「民度の低い」と考えられた東南アジアでは、その経験がいかされなかった。帝国日本の崩壊、解体は、近代帝国の解体と現代への変容という世界史の文脈で考察することも必要だろう。戦後の日本では、帝国が解体され、アメリカの庇護下で復活したために、東南アジアとの新たな関係を築くことは議論されず、東南アジア占領から学んだことがいかされることはなかった。

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2012年07月24日

『戦争の記憶とイギリス帝国-オーストラリア、カナダにおける植民地ナショナリズム』津田博司(刀水書房)

戦争の記憶とイギリス帝国-オーストラリア、カナダにおける植民地ナショナリズム →bookwebで購入

 オーストラリアやカナダは当然独立国で、歴史的にイギリスとのかかわりが強い、くらいにしか一般の日本人は思っていないだろう。『世界史小辞典』(山川出版社、2004年)をみると、オーストラリア、カナダは、それぞれつぎのように説明されている。オーストラリアは、「イギリス連邦内の独立国。...1901年よりオーストラリア連邦を形成して、イギリス帝国内の一自治領となった。...2度の世界大戦に参戦することにより国家意識が強くなり、51年、ニュージーランドとともにアメリカとのANZUS条約を締結する」。カナダは、「1931年のウェストミンスター憲章で外交自主権を獲得し、...1982年憲法で名実ともに独立した」。ニュージーランドは、「1947年、ウェストミンスター憲章を承認し、完全に独立した」とある。しかし、1988年に「建国200年」を祝したオーストラリアの独立は、明記されていない。

 本書は2度の世界大戦参戦を契機に、アメリカ合衆国の台頭もあって、イギリス帝国とドミニオン(白人自治植民地)とのあいだで「右往左往」するオーストラリアとカナダのナショナリズムを追っている。著者、津田博司は、その論点をつぎのよう整理している。「帝国意識の概念が内包する「イギリス帝国への帰属意識」、「トランスナショナルな帝国的アイデンティティ」という要素に目を向ける。さらに、大戦間期に成立する戦争記念日を「学習された帝国意識」が表出する場としてとらえた上で、帝国意識そのものだけでなく、その意識を強化・解体する論理の変遷をたどる。そこでは、二つの世界大戦以降のイギリス帝国をめぐる政治的状況、戦争の記憶を通じた帝国規模の紐帯と植民地ナショナリズム、脱植民地化に代表される世界規模の動向といった、複数の位相の相互関係が論点となるだろう」。

 そして、本書の最終的な目的を、「序論 イギリス帝国の紐帯と二つの世界大戦」の最後でつぎのように述べている。「「帝国の総力戦」の記憶は、イギリス帝国を取り巻く状況に応じてその文脈を読み替えられながら、多文化主義化するカナダおよびオーストラリアのアイデンティティに適合的な物語へと変容している。そうした読み替えのダイナミズムを検証すること」である。

 本書は、序論、3部8章、結論からなる「歴史上の「記憶」をテーマにした研究書」である。本書の構成は、つぎの通りである。「第一部「大戦間期における戦没者追悼と「記憶の空間」」では、イギリス本国における休戦記念日の成立過程を検証し、そこで確立された戦没者追悼の様式が二つのドミニオンへと普及する過程を追うことで、第一次世界大戦の記憶と帝国規模の連帯意識の関わりを論じる。続く第二部「第二次世界大戦と「ブリティッシュネス」の拡散」では、まずイギリス本国での平和主義の進展と宥和政策の破綻、新たな大戦による帝国的な「記憶の空間」の変容について考察する。続いて第二次世界大戦中から戦後にかけてのオーストラリアに着目し、政治外交史的な文脈での構造変化が進む一方で、帝国への帰属意識に基づくアンザックの伝統が継続したことを明らかにする。さらに、第二次世界大戦直後のカナダ国旗をめぐる議論を通して、帝国的アイデンティティが依然として存続するなか、反イギリス的なナショナリズムが萌芽する変化を示す。ここでは、両ドミニオンにおける「ブリティッシュネス」に基づく国民統合が焦点となる。第三部「脱植民地化と「新しいナショナリズム」」では、第二部でのカナダ国旗をめぐる議論を前提として、一九六四年の「大国旗論争」を紹介し、多文化主義と新国旗の制定の関わり、戦争の記憶への新たな意味づけを概観する。さらに、同時期にヴェトナム戦争を戦っていたオーストラリアを対象として、脱植民地化を志向する「新しいナショナリズム」がアンザック・デイを批判(あるいは包摂)する軌跡を描き出す。終章である結論「帝国の終焉と多文化主義化する戦争の記憶」では、一九九〇年代以降の多文化主義社会における戦争の記憶の変容を分析した上で、本書全体の議論を総括する」。

 その「結論」は、つぎのように結ばれている。「オーストラリアおよびカナダは、それぞれの連邦成立を基準として考えれば、比較的「歴史の浅い」国家である。しかし、だからこそ両国は、「近代」という時代の申し子として、国民国家と帝国主義、さらには多文化主義と脱植民地化といった、現代世界を特徴づける要素が濃密に絡み合った歴史を有している。本書が論じてきた世界大戦の記憶の変遷は、こうした歴史の展開の縮図としてとらえることができるだろう。両国におけるナショナル・アイデンティティの重層性やそれがもたらす軋轢と変容は、近代的な「想像の共同体」の本質を如実に示すものだと言える。本書で得られた知見が、イギリス帝国という空間や帝国史というディシプリンの枠組みを超えて、多様な分野でのナショナリズム研究に資することを願ってやまない」。

 1931年のウェストミンスター憲章で自治領として認められたドミニオンは、6つある。それぞれ自治領となった時期が違い、1867年にカナダ、1901年にオーストラリア、07年にニュージーランド、10年に南アフリカ連邦、17年にニューファンドランド、22年にアイルランド自由国が認められた。これら6つのドミニオンと「コモンウェルス」とよばれる旧植民地を含むイギリス連邦全体のなかで、本書の議論はどう位置づけられるのだろうか。「イギリス帝国」は、歴史学の研究対象としてあまりにも巨大である。本書がその一角に挑んだことで、つぎへすすむことができる。著者もそのことがよくわかっているのであろう。「結論」では、「求められる」「願ってやまない」という他人事のような表現がある。ひとりではとてもかなわない領域に踏み込んだ、著者の今後の研究に期待したい。

 また、多文化共生のモデルとされてきたオーストラリアやカナダで、いま多文化主義の「終焉」「消滅」「後退」などといわれるようになってきている。それは政策として失敗したのではなく、成功した結果だともいわれている。本書でも、多文化主義ということばが何度も出てきた。この現実と本書の議論は、どう絡むのだろうか。それは、「帝国」を越えた問題なのだろうか。今後の行方にも注意したい。

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2012年07月17日

『警察』林田敏子・大日方純夫編著(ミネルヴァ書房)

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 どこの国の警察も同じようなものだと思って、歴史書を読んでいると、よくわからないことがあった。同じ国なのに地方によって役割が違っていたり、軍隊との区別がつかなかったりで、疑問に思ってはいたが、そのままにしていた。そんな疑問が、本書によってすこし解消できたが、奥深い問題があり、このシリーズ「近代ヨーロッパの探求」にふさわしい、警察を事例として「近代」がみえてくることがわかった。「近代」は合理的、単純化して考える傾向があるだけに、「近代」だけみているとわかった気になるが、本書のように近世からの流れをつかみ、非ヨーロッパと比較すると、近代に成立した国家のためのヨーロッパの警察制度の実像がみえてくる。そして、それは国家のためだけでなくなった今日の警察について考える指針を、わたしたちに与えてくれる。

 本書は、用意周到に準備がすすめられた。企画からすでに10年近い年月が過ぎており、最初の執筆者会議から3年かかって出版された。その間、「行政警察・司法警察・刑事警察・政治警察・予防警察・治安警察などの用語には、訳語の問題や国による違い」など、「執筆者間でその都度、議論、確認し」、「「近代」のとらえ方」も「国によって違いがあり、日本とヨーロッパの間にも「近代」の相違があるため、扱う時期に関しては、「近世」「近代」の担当者間で話し合う」など調整している。編者の苦労が、推察できる。そして、つぎの5点を留意し、「警察(治安維持)制度の歴史・概略に言及した上で、自由に執筆することを基本方針とした。「①単なる制度史にならないように工夫すること、②それぞれの国・時代の「特殊性」を明確にすること、③「近代とは何か」という問題を意識すること、④「非ヨーロッパ」の担当者はヨーロッパとの関係性を意識すること、⑤現代警察とのつながり・関連を意識すること。

 本書は、序章、3部10章からなり、第1部はドイツ、フランス、イギリス3国の近世、第2部は同じ3国の近代、そして第3部は「非ヨーロッパ」のアメリカ、日本、朝鮮、英領マラヤを扱っている。それぞれの執筆者は、「「近代警察とは何か」という根本的な問題について」、「ゆるやかなコンセンサス」のもとに、「論点にあわせて独自の定義づけ」をして執筆しているが、「いくつかの問題意識が共有されている」。

 「一つは、ヨーロッパと非ヨーロッパ、あるいはヨーロッパ内での相互浸透作用を重視することである。近代警察が導入されるさいには、かならず何らかの「モデル」が参照される。早くに近代警察を樹立した国が「後進国」に学ぶ例もあり、その影響はけっして一方的なものではない。また、類型化に依拠した従来の比較研究ではけっしてみえてこない「多様性」にも注目している。ここで重要なのは、一九世紀のヨーロッパにおいては、警察制度そのものが国内で一元化されていなかった(できなかった)という事実である」。

 「さらに、本書がもっとも力点をおいているのは、考察の対象を「理念」から「実態」へと転換することである。政治エリートが掲げた制度改革の理念は、執行現場の隅々まで貫徹したとはかぎらない。個々の警察官や彼らを統制する現場の指揮官が自らの任務をどうとらえるかによって、理念と実態(現場)との間でずれが生じる可能性はきわめて高い。より実態に即した分析を行う上で必要だと考えられるのは、国家権力の発動機関としての警察と、その受益者であり統制の対象でもある人々との関係性を問うことである」。

 以上の問題意識のもとに、編者は「近代ヨーロッパの探求」という課題に、つぎのように答えようとした。「一八世紀から一九世紀にかけて、ヨーロッパ全域ですすめられたポリス改革。近代警察の創設は、国民国家の形成過程でそれぞれの国が直面した問題への処方箋の役割を果たすものでもあった。しかし、国家の統治理念や政治文化が色濃く反映された個々のシステムは、国や地域によって異なる形で展開した。警察導入の過程で生じた軋轢、理念と実態との乖離、そして国や地域ごとの多様性に焦点をあてながら、「それぞれの近代」を浮かび上がらせてみたい」。

 そして、「序章」の最後で、「残された課題」について2点あげている。1点は、EUが拡大していくなか、本書でとりあげたドイツ、フランス、イギリスだけで「ヨーロッパ」を論じたことにはならず、北欧、南欧、東欧の旧共産主義諸国、旧ユーゴ地域への視点の拡大の必要性である。もう1点は、女性警察を考察の対象に含め、その成果を「従来の(男性)警察史と接合していく作業は、今後不可欠になってくる」ということである。

 編者が強調している「日本においては、これまで「警察」をテーマとした比較研究は存在しなかったという事実」を考えると、本書がいかに画期的な試みであるかがわかってくる。このような初めての大きな試みを、紙数のかぎられたなかでおこなうことはひじょうに困難であるが、ポイントをおさえ、「ヨーロッパにおける警察システムの特徴や変化を描き出すことで、近代とは何かを考察する」ことはできたのではないかと思う。

 日本では初めてだが、ヨーロッパでは1990年代に入ると、比較研究の成果がつぎつぎに発表されるようになったという。その背景には、「EUの発足によって「警察の国際ネットワーク化」に向けた動きが加速したこと」があり、「国境を越えたヨーロッパ警察の創設が現実的な課題となるなかで、歴史的分析をふまえた議論が必要とされるようになった」からである。本書の各章でも、それが反映されているのだろう。日本で初めてでも参考文献を見る限り、執筆のための材料は少なくなかったようだ。それが逆に、ヨーロッパ3国のつながりを希薄にさせてしまったような気がした。ヨーロッパでは、ナショナル・ヒストリーや地方史が重視されるあまり、地域史としてのヨーロッパ史の執筆の妨げになっている。ヨーロッパ人研究者が克服しにくい歴史を、日本人研究者が挑戦することも必要であろう。その意味で、第3部の「非ヨーロッパ」は、今後の発展を期待させる。「比較」自体が近代ヨーロッパの考え方で、非ヨーロッパを加えることで、「比較」を越えた歴史学や世界史の考察が可能になるだろう。「ヨーロッパ」の担当者が、非ヨーロッパとの関係性を意識することで、新たなヨーロッパがみえてくるだろう。ともあれ、この初めての試みが、歴史学研究、ヨーロッパ史研究の大きな発展へとつながっていくことを期待したい。

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2012年07月03日

『ナチスのキッチン-「食べること」の環境史』藤原辰史(水声社)

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 「台所にも歴史がある」で、本書ははじまる。「違うんじゃないの?」と思いつつ、読み進め、著者が言わんとすることは、「台所にも歴史がある」という下手な社会史ではないことがわかった。著者藤原辰史は、台所の歴史だからこそ、人間の本質がみえるのだと言っているように思えた。

 本書は、台所の近現代史である。「対象とする地域は、戦争に二度敗れ、東西に分裂したが、一九六〇年代にどちらも消費社会を実現した現代史の激震地、ドイツである。時代は、十九世紀中頃から一九四五年までの百年、そのなかでもとくに両大戦そのものと、それに挟まれた戦間期を扱う」。「そして、本書が最終的にクローズアップしていくのはナチ時代(一九三三~四五年)」。ナチスは、「家事や台所の合理化を推進した」。

 著者は、「台所の歴史を眺めるアングルをつぎの三点に整理する」。「第一に、台所を労働管理空間としてとらえる見方である」。「建築学的な台所設計や家具の配置が前面にでてくるのがドイツ現代史の特徴であり、また、エネルギー企業と電機メーカーによる家事テクノロジーの急速な普及も台所仕事の環境を大きく変えた」。「第二に、台所が、人間による自然の加工・摂取の終着駅であり、エネルギー網の末端である、という点である。つまり、人間と自然をとりむすぶ物質のリレーのなかで、台所が生態系のもっとも人間社会に近い中継地点であるとともに、自然から取り出してきたエネルギーや道具を販売する企業にとっては大きな販路なのである」。「第三に、台所を信仰の場、あるいは畏怖の対象としてとらえる見方である。世界各地で竃信仰が存在することはよく知られている」。

 そして、著者はそれらのアングルから、「本書は台所の諸構成要素の関係史、つまり台所の環境の歴史であり、同時にまた台所の思想の歴史でもある」とし、2つの問題意識を念頭に5章にわたって、考察、分析している。ひとつ目の問題意識では、つぎのように問うている。「ほかの生きものを食べなければ生きていけないヒトの「外部器官」、自然を改変する人間の作業の最終地点、あらぶる火の力に対する信仰と制御の場、人間社会の原型である男女の非対称的関係の表出の場-つまり台所とは、人間が生態系のなかで「住まい」を囲うときにどうしても残しておかなくてはならない生態系との通路なのである。このような見方をすることで、台所で行為する人間を「労働者」、台所仕事を「労働」という近代的概念によって規定してしまうことで漏れ落ちる、台所の生態学的な性質を救い出すことができるのではないか」。

 ふたつ目の問題意識では、つぎの問いである。「一方、社会史的な史料の残りにくい分野であるだけに、家事マニュアルやレシピなどに繰り返し書き込まれている通俗道徳にも注意を払う必要がある。通俗道徳は、動物や植物、気象現象などとの格闘のなかで、あるいは、経済変動に対応を迫られるなかで生まれた知恵であり心構えである。常民の日々の生活に溶け込んだ行為様式を叙述するためには、この通俗道徳を思想史の文脈で剔出し、信仰や学知の精神世界と癒合させることが不可欠である。そうしてこそ、はじめて、これまで台所仕事が、ある性別、ある社会階層の人間に偏ってきた歴史内部の権力関係を暴くことができるのではないだろうか」。

 本書は、「時間を中心に組み立てられた人文・社会科学に空間という概念を導入」した「空間」論の影響を受け、「歴史のなかの人間の位置づけを根本から問い直すことからはじめる環境史に挑戦」した成果でもある。そのことは、最後の章「第5章 台所のナチ化」のつぎの一文からもわかる。「ナチスの動員を読み解くにあたって重要なのは、「人」を埋め込む「空間」である、と私は考えている。「人」が「空間」に組み込まれ、「空間」が「人」を超越し、「空間」に「人」が支配される、というようなサイクルである」。「「機械」こそが、ナチスが究極的に主婦に求めたモデルであった。まさに食の内実が均質化し、主婦の人間性が剥奪されるかわりに、台所があたかも生命をもった有機体のように、吸収、消化、排出を繰り返す。ナチスの有名なスローガン「君は無、君の民族こそすべて」の精神は、まさにこうした空間の人間の生き方を示している」。

 そして、「終章 来たるべき台所のために」では、全3節の最初の節「一、労働空間、生態空間、信仰の場」で、「序章」で整理した3つのアングルが、「建築学、テクノロジー、家政学、レシピといった構成要素からドイツの台所の変身過程を立体的に追う過程で、どのような像を結ぶことができたか」、まとめている。つぎの節「二、台所の改革者たちとナチズム」では「指導的な役割を果たした三人の女性たちのナチ時代の受難は、何を意味していたのだろうか」と問い、最後の節「三、ナチスのキッチンを超えて」では「彼女たちの遺産を吸収して生まれたナチ時代のキッチンについて」考察し、「家族愛だけでは、台所仕事の深遠さを汲み取ることができないのである」と結んでいる。

 この終章は、文献史料を中心とした近代歴史学者では決して書けない、つぎの文章で終わっている。「肉食が好まれる時代に、肉食レシピを増やすような料理本は寿命も短い。歴史学もまた、過去の出来事のみならず、そのゴミ捨て場から、実現されなかった可能性を救出し、それを素材に未来を料理するためのレシピだといえよう。ドイツの古書店で見つけた料理本は、表紙が擦り切れ、背は破れ、書きなぐられたメモの紙切れがそのなかに数枚挟まれているようなものであった。本書が新しい一皿を求めてやまないすべての読者にとって、そんなレシピであればと願う」。

 この後、註、参考文献、人名索引があり、これで終わりだと思っていたら、「「食べること」の救出に向けて あとがきにかえて」という10頁ほどの重い文章がつづいていた。「ナチスのキッチンの究極は絶滅収容所にあるのでは」という出版社の編集者のコメントにこたえたものである。「納得できるまで、自由に書くことを許し」た編集者の強襲が、つぎの文章を著者に書かしたのだろう。「みんなで一緒に作って、食べて、片づけることは、実に楽しく、美しい。その時間を惜しんで成長に邁進する社会こそが「最暗黒」であったことに、光の世界の住人たちは、そのとき初めて気づくはずである」。著者は、いまの日本や世界に、ナチ時代の影をみているのかもしれない。

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2012年06月19日

『東南アジアから見た近現代日本-「南進」・占領・脱植民地化をめぐる歴史認識』後藤乾一(岩波書店)

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 本書の帯に、1991年に天皇が初めてインドネシアを訪問したとき、インドネシアの有力紙に掲載された社説の題「傷は癒えたが傷痕は残っている」が大書されている。「[日本の占領・軍国主義化の]苦しみと残虐な外傷はまだ残っており、彼ら[国民]の脳裏に焼きついているとしても当然であろう」という「国民感情の底流にあるものを厳しく凝視」したこの社説は、東南アジアで比較的犠牲者の少なかったインドネシアでも、深い傷跡を残していることをあらわしている。最大の激戦地となり人口の7%の110万余が犠牲になったといわれるフィリピンでは、その傷はさらに深く、「その傷口からの流血は見えないところで今でも続いて」いる、とフィリピン第一の研究者は述べている。

 それにたいして、日本では「欧米諸国の圧制に苦しんでいたアジア諸国の独立回復を早めた点は、評価すべきだ」という解釈が早くから根強く存在し、それは1995年の「終戦五十周年」を契機に強まった「歴史修正主義」派の積極的な言論活動で、一般とくに若者のあいだで受け入れられるようになってきている。

 著者、後藤乾一は、この東南アジアの人びとの認識と乖離していく日本の現実を踏まえて論考を書き、それらをまとめたのが本書である。1995年に出版され、2010年に岩波人文書セレクションに収録された『近代日本と東南アジア-南進の「衝撃」と「遺産」』の姉妹編でもある。

 本書の内容については、表紙見返しにつぎのように的確にまとめられている。「日本と東南アジアのあいだの戦前・戦中・戦後関係史を、それぞれ「南進」「占領」「独立と脱植民地化」をキーワードにしながら、いまなお決着していないアジアの近現代史をめぐる歴史認識問題に一石を投じる」。「第一部は日清戦争前後期から、対東南アジア軍政から敗戦を経て、東南アジア各国の脱植民地化・独立を通して新たな地域秩序を構築するにいたるまでの約六〇年間の歴史過程を扱う」。「第二部は、戦時期における日本の外交官・陸海軍武官・残留日本兵という重層的なインドネシア体験を通して、日本及び日本人にとってのインドネシア独立革命の意義と真実を描く」。「第三部は、一九三〇年代から戦時期にかけての民間輿論や知識人におけるアジア主義言説、及び戦後五〇年を経てにわかに浮上した「解放戦争」史観・「自衛戦争」史観・「独立貢献」史観をめぐる排外主義的なナショナリズム言説をたどり、言論空間における日本人の東南アジア像を明らかにする」。

 著者は、これまで原口竹次郎、大島正徳、若泉敬といった中央と周辺の両方からみることができる人物を通して、時代や社会を考察してきた。本書でも、それがいかんなく発揮されていることは、目次にあらわれた人物名からわかるだろう。日本とインドネシアという国家同士の関係史を制度史としてだけみるのではなく、人物を介在させることによって、人間同士の関係で成り立っていたことを明らかにしている。

 本書は、「過去十数年に執筆した諸論考を中心に編んだもの」で、「必要に応じ旧稿を補正するとともに、近年の内外の新たな研究成果も可能な限り反映させることに努めた」という。それは、たやすいことではない。それぞれの論考は、その時どきの研究状況や社会的背景によって書かれるもので、後から出てきたものをその時の文脈に書き入れることは、齟齬をきたす。したがって、ほんの付け足しにしか書けないのが、通常である。しかし、本書で感心したのは、新たな研究成果が論考のなかでうまくおさまっていることである。しかも、新たな研究成果というのは、日本・インドネシア関係や日本・東南アジア関係といった本書に直接かかわるものだけではない。各論考を相対化するために、より広い視野のなかで勉強したものである。それは、「負の遺産」を克服するためには、より客観視する必要であったからだろう。

 著者の基本的モティーフは、「まえがき」でつぎの2点に集約されている。「第一は、近現代史の中で日本と東南アジアはどのような関係を築き、その歴史を双方とりわけ日本は、どのような認識枠組みの中で理解したのかという問題である。第二は、日本人が東南アジアに向けるまなざしという問題である。近代西欧を尺度として東南アジアを理解するある種のモダニズムが、はたして克服されたのか否かについての関心に発するものである。この二つは本質的なところで表裏一体の間柄にある」。  しかし、著者が思うように進んでいないのが日本と東南アジア関係であり、その原因は日本側の「東南アジアから見た近現代日本」像の欠如であることは明らかである。この現実をどうすれば改善できるのか、その答えがないことは本書の締めくくりのことばが少ないことであらわされているのかもしれない。

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2012年06月08日

『マンダラ国家から国民国家へ-東南アジア史のなかの第一次世界大戦』早瀬晋三(人文書院)

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 文字通り、小著である。だが、この小著でさえ、すこしこのテーマにかんして知識がある人なら、1冊の本になるとは想像だにしなかっただろう。著者であるわたし自身も、すこし調べて、とても無理だと思った。それが可能になったのは、参考文献を訊いてまわるわたしに親切にこたえてくれた東南アジア史研究者はもちろんだが、共同研究「第一次世界大戦の総合的研究」(京都大学人文科学研究所)のメンバーが有形無形に後押ししてくれたからである。

 2007年4月からもう5年になる月2回開催される研究会に出席しているうちに、自分の役割と書かなければならないことがだんだんわかってきた。書くことを決意したとき、「5年かけても、まともなものは書けそうにないので、半年で書くことにした」と、メンバーの何人かに告げた。ある人は、「わたしなら、書かない」と言った。わたしも、研究がある程度進んだ分野のテーマであるなら、一定レベルのものが書けないのなら書かない。しかし、わたしが書こうとしていたテーマは、これまで概説書や通史などでまったく触れられてこなかったものを多く含んでいる。また、東南アジア全体を見まわして書いたものがなかった。しかも、テーマが「世界」大戦である。主戦場となったヨーロッパや大戦を利用して東アジアで勢力を拡大しようとした日本の話だけでは、「世界」大戦にならない。当時の東南アジアは、多くの国・地域が欧米の植民支配下に入り、古くから密接であった中国との関係もつづいており、日本との関係も深まってきていた。東南アジアを通して、欧米と東アジアをつなぐことができるかもしれない、さらにそれが「世界」を理解する一助になる可能性がある、そう思うと、もう学問的レベルのことなど、どうでもよくなった。とにかく書けば、第一次世界大戦の「総合的研究」のとっかかりのひとつを提示することになると思った。

 だが、いざ準備をはじめると、まず日本語ではシンガポールにかんする桑島昭の論文以外まとまったものはなく、通史でもインドシナとタイを除いて具体的な記述は皆無だった。英語では、桑島などが書いたシンガポールにおけるインド兵の反乱についての本が何冊があり、フランス領インドシナとオランダ領東インドにかんしてそれぞれ第一次世界大戦期を扱った本が最近出ていた。アメリカ領フィリピンでは、国防隊創設のいきさつの論文がひとつあった。後は、英語の概説書や通史、事典の項目などから拾い出していくしかなかった。このような断片的な情報をつなぎ合わせて、それぞれの国・地域、そして東南アジア全体を見渡すことが、果たしてできるのだろうか。不安ななかで執筆をはじめた。

 まず、事実関係から整理をはじめたが、もちろん第一次世界大戦期だけで、1冊の本になるとは思えなかったので、その前後をどう結びつけるかを考えた。東南アジアの場合、従来、第一次世界大戦を契機に民族運動が高まり国民国家への形成へと向かっていったことと、輸出経済が進展したことがいわれてきたので、この2点を中心に話を進めることにした。ほんとうは、国・地域ごとに語りたくなかったが、第一次世界大戦への対応は当然欧米の植民宗主国ごとになるため、東南アジアを一括りで語ることができなかった。それでも、1冊の本の分量にしては少ないように思えたので、第4章として、現在の各国の歴史教科書で、第一次世界大戦がどのように語られているのかを加えた。その基として、世界の教科書で2つの世界大戦の語られ方を比較したディスカッション・ペーパー(名古屋大学大学院国際開発研究科http://www.gsid.nagoya-u.ac.jp/bpub/research/public/paper/article/186.pdf)があった。ヨーロッパと日本で、ずいぶん違うことを研究会で学んでいたから、その語られ方を整理していた。

 このように、研究会で学んでいたことから、書くべきことがわかっていたのか、最初に考えていた以上に書くことがあった。つまり、研究会はヨーロッパや日本にかんすることが中心であったが、5年間で100も報告を聞いていれば、自ずと自分が書くことがわかってきていたのだ。あるいは、共同研究のメンバーが、「門外漢」のわたしがいることで、わたしが書くべきことを、意識的であろうがなかろうが、発表や質疑応答のなかで示唆してくれていたのかもしれない。このように考えると、本書はわたしが書いたというより、研究会が書かしたといっていいだろう。

 ナショナル・ヒストリーに限界があるように、東南アジアという地域史にも限界がある。とくに、古代から中国、インドといった大国の影響を受け、近代には欧米との関係も密接になった東南アジアは、グローバルに歴史を考える格好の材料を提供してくれる。また、地域性豊かな「マンダラ国家」は国民国家が成立した後も、社会的基盤として地域社会に根強くいきつづけている。ナショナル・スタディーズから抜け出せない東南アジアの各国の研究者や西洋中心史観から抜け出せない西洋学研究者、ともにそれを意識さえしなかった人びとに、本書がなんらかの刺激を与えることができたなら、望外の喜びである。

 したがって、自分の関心のあるところだけ拾い読みするというのは、著書であるわたしにとっていちばん大きな失望で、しかもそれをほめられるとしばらくボー然として立ち直れないのではないかと思ってしまう。国・地域ごと、分野ごとなら、それぞれの専門家が分担執筆すれば、もっといいものになったことは明らかである。しかも、間違いや不適切な文章は格段に少なくなる。かつて、ある概説書の再版を出版したときに、数百ヶ所訂正したという話を聞いたことがある。その本を全学共通科目の教科書にしていたわたしは、なかば冗談で100ヶ所以上訂正箇所を見つけた者には、先着1名に限り100点の成績をつけると言った。初版と再版を丁寧に比べて読まなければわからないだろうから、教科書の内容を充分に理解してくれると思ったからである。ところが、わたしの想像を超える、内容をまったく理解しない方法で100ヶ所以上を見つけてきた学生がいた。概説書の執筆というのは、それだけリスクがある。しかし、それを補ってあまりあるものがあると信じたからこそ、無理を承知で書いたのである。拾い読みせず、文字通り小著なのだから一気に全部読んで、全体像からこの本の長所を読みとってほしい。そして、いたらぬところに気づいて、自分自身の課題にしてほしい。本書を通して、歴史から学ぶことを発展的にとらえる人が増えることを願っている。

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2012年05月29日

『日本人のアジア観の変遷-満鉄調査部から海外進出企業まで』小林英夫(勉誠出版)

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 著者が本書を執筆した思いは、「あとがき」のつぎの文章によくあらわれている。「日本とアジアの人々の歴史的「和解」を進めるには、どうすればいいのかという差し迫った問題意識が横たわる。二十一世紀のグローバリゼーションの波を活用しつつ、「ヒト」の流れの活発化に留意し、これをきっかけに「和解」を推し進めることができないものかというのが、本書の終章で展開した「解」を生むきっかけであった。簡単にできることではないが、しかし一歩一歩推し進めるための大前提は相互の信頼関係の構築以外にはない。侵略を侵略と認めた上での正しい歴史理解の上で、率直に話し合う場の実現とその拡大は、グローバリゼーションが進めば進むほど、その可能性は拡大するといえよう」。逆に、歴史理解が充分でないと、その可能性は遠退くことになる。そして、この問題が差し迫ったものであるという意識は、とくに日本人の若者のあいだでは乏しい。

 本書は、帯にある通り、「日清・日露戦争以来の「伝統的アジア学」と太平洋戦争期の「新アジア学」の相克と変遷をたどり、戦後の企業の海外展開と国際化のなかで変化していった日本人の対アジア意識を探る」ことを目的としている。その変遷は、「序章」の段落のはじめの部分をつなぎ合わせると、概略がつかめる。抜き出してみる。  「戦前・戦後の対アジア認識の変化は、絶えず日本人のアジアでの主たる関心地域とそのつどの関心課題によって大きく規定されてきたことは言うまでもない。戦前、しかも日清・日露戦後期のそれは、日本の国策たる朝鮮・台湾・満蒙地域を中心とした領域での勢力拡大と関連した政治経済文化諸問題の検討に充てられていた」。

 「ところが、アジア太平洋戦争期に入ると状況は大きく変わる。占領した東南アジア地域は、同じアジア地域とはいっても、欧米の直轄植民地の歴史が時には数世紀にもわたり、その調査課題も手法も明治以降の日本の東アジア調査とは著しく異なる」。

 「戦後のアジアとの出発は、戦前の東アジアの植民地化をどう認識するか、だった。東アジア各国の植民地化とそれへの反省が認識されるなかで多くの著作が出されると同時に、それに対抗し植民地支配を否定する著作もあらわれてきた。しかし、一九五〇年代は戦争とアジア植民地化への反省が強かったといってよい」。

 「しかし一九五五年以降高度成長がスタートし、日本は社会主義陣営との扉を閉ざしたまま、東南アジア地域への経済進出を開始する。この転換過程で、日清日露戦争以降の朝鮮・台湾・満蒙中心のアジア学の潮流に代わって、東南アジアをフィールドとした新しいアジア学的潮流が次第に強くなり、「独立」という課題を掲げ、経済成長を目的としたこの地域の研究が前面にせり出し始める」。

 「一九八〇年代になると戦争体験者が第一線から退くなかで、次第に戦争への反省とアジアへの侵略の認識は後景に退き始め、逆に戦争体験の「客観化」、個別化が進み始める。「日本人の戦争体験」は大前提として掲げるものの、日本人のなかでの個人体験が語られ始め、それが次第に日本人のアジア観を複眼化させ、多様化させ始めた」。

 「日本人のアジア観を規定する動きのなかに一九八五年から八九年まで続いたバブル経済がある。バブル経済は、日本人の労働観を変えると同時にアジア観でも大きな変化を生み出した。この時期日本人の海外旅行者数は激増し、また日本への外国人就労者数も激増した。日本企業の海外進出も急増した。勢い日本人の対外認識は拡大し、戦前・戦中とは違った意味での日本人のアジア地域を中心とした対外認識の変容を生み出していった。一言でいえば、アジアの先頭を走る日本と日本人意識の覚醒と確認であった」。

 そして、「終章 アジア観の行方」を3節に分け、「第一節 アジア観の地域的変遷」で戦前・戦中・戦後の変遷の考察から明らかになったことを整理し、「第二節 アジア観の新しい動き」で、バブル崩壊後をつぎのように説明している。「一九九〇年代以降は一転してグローバル時代のなかで「失われた十年」という言葉が象徴するように、日本の経済力の減退を生み、そのまま政治的、外交的パワーの喪失として、アジア各国への影響力を減じていった点がある。その結果、日本は一方でグローバル化を求めながら、他方で限りなく個人のなかに埋没しつつ内向きな姿勢を強くしていったのである」。さらに、「グローバル化のなかでの日本人の自己認識の個への回帰という現象は、対アジア観という視点から見た場合には、植民地支配そのものから距離を置く行為に連なる。これは、植民地支配という過去の歴史認識の風化を生む危険性を持つが、同時に植民地支配の認識の上になされるならば、それはその認識を深める可能性も秘めている」好機ととらえ、「第三節 和解への道」のための交流の前提を、つぎのように述べて、終章を結んでいる。

 「日本側が戦前行った様々な侵略行為の正確な認識と理解が前提とならなければならないことは、ここに改めて言うまでもない。問題は、こうした日本側の学習成果をきちんと中国側に伝えることこそが、和解への第一歩となるということである。もし、そうであるとすれば、今日日本で進んでいる個への回帰、自分史への回帰という現象は、決して無駄な動きであるとは思われない。むしろ、そうした個にまつわる事実の発掘こそが、こうした日中和解の糸口を作るかもしれないという意味で、むしろ場合によっては積極的意味を持つのである。いま、東アジアで積極化しているグローバリゼーションの動きと日中双方の「ヒト」を媒介にした交流は、こうした和解を進める動きの追い風になることも、また間違いない事実なのである」。

 問題は、バブル経済崩壊後の「失われた十年」に生まれた現在の大学生以降の世代のアジア観かもしれない。自信のもてない世代に、対等な対話ができるか、そのための基本的知識はあるか、はなはだ心許ないのが現状ではないだろうか。戦前・戦中・戦後世代の「和解への道」がうまくいっていないなかで、どういう新たなアジア観が日本人の若者に必要なのか、それとももうアジア観など必要なく、グローバルな世界観だけが必要なのか、本書で示された変遷をたどりながら考えてみたい。

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2012年05月08日

『日本をめざしたベトナムの英雄と皇子-ファン・ボイ・チャウとクオン・デ』白石昌也(彩流社)

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 「15歳からの「伝記で知るアジアの近現代史」シリーズ」第1巻として取り上げられたのが、ベトナムのファン・ボイ・チャウとクオン・デである。表紙には、「独立の闘士たちが見た日露戦争後の日本とは? 壮絶な人生ストーリー」とあり、ホー・チ・ミンなら知っているという人のために、裏表紙にはつぎのように書かれている。「逃亡、追跡、仲間たちの非業の死…… 何度も挫折し、命がけで闘った数々の若き人々。ホー・チ・ミン出現前夜、もうひとつのベトナム独立運動史」。

 国際空港に行くリムジンバスのなかで、若い女性が「ホー・チ・ミンって、人の名前なの?」と言ったのを聞いたことがある。そんな人も、本シリーズを読むことができるよう、執筆者・編集者は配慮している。シリーズの目的は、つぎのように説明されている。「欧米中心の偉人伝とは一線を画す、アジアの伝記シリーズ。本シリーズは、その国の歴史でヒーローとして扱われる抗日派だけではなく、「親日」とみなされてきた人々も積極的に取り上げる。日本にあこがれ、日本を目指したがために、「現実の日本」と直接向き合い、格闘せざるを得なかった彼らの目線をとおして、大人も知らなかった日本の近現代を逆照射する。日本とアジア、そして世界の歴史が変化していく中で、彼らはどのように翻弄され、どのような迷いや悩みを抱いたのか- 目的をとげ成功をおさめた偉人ばかりでなく、挫折し、失意のうちに生涯を終えた人びとの生き様を中高生に伝える」。

 静岡県袋井市(旧浅羽町)常林寺境内に「浅羽佐喜太郎公紀念碑」がある。建てたのは、本書の主人公のひとり、ファン・ボイ・チャウである。漢文で書かれた碑文の訳(前半)と書き下し(後半)を、袋井市観光協会浅羽支部のホームページからみつけることができる。「われらは国難(ベトナム独立運動)のため扶桑(日本)に亡命した。公は我らの志を憐れんで無償で援助して下さった。思うに古今にたぐいなき義侠のお方である。ああ今や公はいない。蒼茫たる天を仰ぎ海をみつめて、われらの気持ちを、どのように、誰に、訴えたらいいのか。ここにその情を石に刻む」。「蒙空タリ古今、義ハ中外ヲ蓋ウ。公ハ施スコト天ノ如ク、我ハ受クルコト海ノ如シ。我ハ志イマダ成ラズ、公ハ我ヲ待タズ。悠々タル哉公ノ心ハ、ソレ、億万年」。この後、「戊牛春」「越南光復会同人謹誌」「大杉旭嶺鐫」とあり、紀念碑裏面には、「大正七年三月。賛成員 岡本三治郎、岡本節太郎、浅羽義雄」とある。

 浅羽佐喜太郎は、1907年にベトナム人留学生のひとりが道端で疲労で倒れているのを介抱したのが縁で、かれの学費を援助し、さらに日本政府の弾圧で苦境に陥ったベトナム人留学生にたいして1700円の大金を提供した恩人として、本書で説明されている。「光復会」は、立憲君主制を目指した「ベトナム維新会」を引き継いで1912年に設立された組織で、共和制を目指した。

 本書で注目されるのは、ふたりの活動の舞台の広がりと、国内での地域性である。ファン・ボイ・チャウは北部のハノイと中部のフエのちょうど中間にある教育熱心で華僑合格者を多数輩出した貧しい農村地帯で生まれた。いっぽう、クオン・デは、阮朝初代皇帝の長男の直系でありながら、初代皇帝より先に長男が死んだために傍流に追いやられた家系に属していた。とくに初代皇帝の出身地で、フランスの直轄領になった南部にゆかりがある。しかし、国境近くの山岳地帯には、阮朝もフランス植民地政府も手を出せなかった「大親分」がおり、各地に「海賊や山賊の親分みたいな人物」がいたことが記されている。

 いっぽう、独立運動の舞台は、中国を中心に日本やタイにも及んでいたことが、本書からわかる。ベトナム人留学生が日本に来たのも、日本が中国人の革命運動の拠点のひとつとなり、ベトナム人も日本滞在中の梁啓超や孫文などと交流があったからである。また、日本はインド人やフィリピン人などの民族運動の活動拠点のひとつでもあった。アジア人活動家の集う場所であり、それにたいして日本人アジア主義者や軍部がかかわった。

 ベトナム国内で弾圧を受けた者は、中国やタイ、日本に逃れた。中国では、中国国民党や軍閥の保護を受けた。タイとの歴史的かかわりは、つぎのように説明されている。「タイの東北部や東南部にはベトナム人が古くから定住して、あちこちに固まって住んでいました。グエン・フク・アィン(後のザー・ロン皇帝)が阮王朝を創始する以前タイに一時亡命した際に付き従った部下や兵士たち、1880年代の反仏蜂起に参加して敗れた後に逃れてきた難民、そしてフランス人宣教師とともに移住してきたカトリック教徒や、その子孫たち」、クオン・デが「とりわけ当てにしたのは、ザー・ロン皇帝ゆかりの移住者たちの子孫」だった。

 2010年11月3日、フエンのファン・ボイ・チャウ旧居敷地内に、ファン・ボイ・チャウ没後70年、浅羽佐喜太郎没後100年を記念して、「東遊運動が生んだ日越友好之碑」が、日本人有志によって建立された。袋井市では、シンポジウムが開催され、ベトナムとの交流が続いている。

 「15歳から」というシリーズの意図はよくわかるが、このことは大人であっても、なにも知らないことを前提に本を企画し、執筆しなければならない嘆かわしい状況にあるということをもあらわしている。ベトナムに観光旅行に行く若い女性が、ホー・チ・ミンの名前を知らないことに、驚きもしない現実がある。

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2012年05月01日

『戦友会研究ノート』戦友会研究会(青弓社)

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 本書は、1978年、80年に続く2005年の全国規模の戦友会調査を踏まえて書かれている。1978年、80年の調査が戦友会の最盛期であったのにたいして、2005年の調査は「戦友会の終焉を意識したものであった」。

 本書の目的は、表紙につぎのように書かれている。「軍隊での戦闘体験を共有した仲間が作った戦友会は、数と規模、そして会員の情念と行動力の強さから日本独特の社会現象である。会員への聞き書きも含めて、軍隊や戦争への感情、死んだ戦友への心情などを60項目で浮き彫りにし、戦争体験の継承をめざす」。そして、「新しい研究者への誘い水になることを期待して、戦友会についての基礎知識を提供しようとするものである」。

 本書では、「戦友会そのものについての情報と、関連情報とを、まとめて体系的に語ることは難しいと考え」、「戦友会に関連した情報をあえてバラバラに提示」し、「本文となるべきもの、註となるべきものを、それぞれ小項目として提示」している。読む事典として便利であるが、執筆者が期待した「読者の頭の中で組み合わせてもらう」ことは、それほどやさしいことではない。

 まず最初の項目「戦友会と伊藤桂一」で、「戦友会を成りたたせているのは、慰霊、親睦、体験の語り合いの三つです」と伊藤から教わったことなど、戦友会の基本を理解させ、続く「日本軍の組織・編制」などで基本的知識を与えている。たとえば、「戦後世代にとって、旧日本軍についての記述のなかで、最もわかりにくいのが部隊の呼称である」が、「通称号」の項目で、つぎのように説明している。「日中戦争がはじまった一九三七(昭和一二)年、戦地にある部隊を秘匿するために、指揮官の姓と部隊の種別を組み合わせる表記が用いられるようになった」。しかし、「この方式は、指揮官が変わると部隊名・隊名が変わることになり、混乱すると考えられたためか、一九四〇(昭和一五)年改訂が加えられ、「通称号」が導入された」。「「通称号」とは、「兵団文字符」と「通称番号」からなるものである。「兵団文字符」とは、軍・師団・旅団といった大きな兵団に、漢字一文字か二文字を与えたもので、例えば、ビルマ方面軍には「森」、第十四方面軍には「尚武」、第十一師団には「錦」が与えられた」。「「通称番号」は数ケタの数字であるが、必ずしも連番ではない。「通称号」によって、大きな部隊から小さな隊まですべて固有名をもつことになった。なお、中隊や小隊は、従来どおり隊長名をつけた」。

 靖国神社との関係も、「靖国神社と戦友会」で、つぎのように説明している。「護国神社では、戦友が祭神として祀られていない場合もあり、神籬を置いて降神の儀をおこなわなければならないが、靖国神社はいつも全員が祀られているのでなんの問題もないと考えられているようである。靖国神社でしか慰霊祭をやらない戦友会もあるが、その大きな理由もそこにある」。

 そして、目下の研究目標として、つぎのことを考えているという。「解散した戦友会を含めて、戦後存在した戦友会をすべて記録にとどめ、関係資料の所在を明らかになるようなデータベースを構築することを目下の研究目標としている。それはわたくしたちの研究の総まとめの意味もあるが、新しい研究者のために役立たせることができればと思ったためでもある」。このデータベースでは、国立歴史民俗博物館が2003年に調査結果を発表した戦争記念碑の不充分さも補えるいう。30余年にわたる共同研究の総まとめを期待したい。

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2012年04月24日

『世界システムと地域社会-西ジャワが得たもの失ったもの 1700-1830』大橋厚子(京都大学学術出版会)

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 こういう本は、勉強になるからといって、すぐ読むことができるものではない。心の準備ができるだけの知識と目的意識が必要だからだ。

 本書は、序論、5編17章、結論からなる。序論で本書の研究姿勢を明らかにし、第1編3章で研究方法を論じ、以下各編の終わりで編全体のまとめをして、結論へと読者を誘っている。これだけ周到に論を進めていても、本書を読み理解するのは、それほど簡単ではない。それは、本書の第一の特徴である「普通の人々」を、グローバルヒストリーのなかで理解しようとしたからであろう。

 著者、大橋厚子は、「序論」で、本書が目指した研究史上の2つの貢献を、つぎのように述べている。「第1は、近年盛んになりつつある東南アジア型発展径路の研究に、産業資本導入の初期条件を分析した事例を提供することである。その中で、輸出用作物栽培が、貨幣経済と分業とが発達した社会に導入された場合と、貨幣は使用しても貨幣経済や分業が発達しているとは言えない社会に導入された場合とでは、中央政府の果たす役割、および栽培が住民に与える影響が異なっていること、そして後者の場合、開始期における政府の便宜供与は必須であること、を示したい」。

 「第2は、同じく近年盛んになりつつあるグローバルヒストリー研究の中で、普通の人々の役に立つ、あるいは彼らの立場に立った研究の可能性を探ることにある。この試みは、植民地政庁の政策とこれに対する人々の日々の対処が社会変化を生み出すという認識枠組のもとに行なわれる」。

 著者は、本書が対象とする17世紀末から1830年までのジャワ島西部プリアンガン地方が、これらの考察の課題にたいして、きわめて適合的な条件を備えている、という。そして、著者は、さらに、「コーヒー栽培の拡大とともに焼畑移動耕作から水田耕作へと食糧生産の重心が移りながら開拓が進む土地での社会変化は、総体としてどのようなものであり、住民に如何なる影響を与えたであろうか」と問い、つぎのように考察を進めたいとという。「プリアンガン地方でこの事態が進行した時代は、I. ウォーラーステインによって「広大な新地域の『世界経済』への組み込み」が議論された時代と同時代である。さらに社会変化の内容も、輸出用作物栽培における「大規模意思決定体の出現」など「組み込み」論で示されたクライテリアが使用可能な部分がある。そこで本書では、ウォーラーステインの「組み込み」論を批判的に応用して社会変化の分析に利用する。すなわち、グローバルな動向を世界各地の普通の人々に伝える媒介項として、地域社会の形成・変質を考察の中心に据える。組み込む側と組み込まれる側の相互作用を前提とし、さらに東南アジア島嶼部に特有の生態・社会組織および貿易環境が政庁や在地の人々の活動に与えた影響に注目する。加えて植民地政庁による中央集権の進行および地域性の変質を鮮明に示すために、植民地政庁に始まり、政庁に直属する現地人首長、下級首長、集落の長、男性住民、そして一般の主婦に至る社会関係の連鎖に焦点を当てたい」。

 本書を通じて、これまでの問題提起や仮説を支持する結果になったものもあれば、逆に否定する結果になったものもあった。ジャワ島内だけでも地域差があり、ましてやオランダ領東インド全体をひと言で括ることには無理がある。だからこそ、著者は「本書で行なう分析のひとつひとつは実証が充分とは言えない」という。それは、できうるかぎり実証的に考察をおこなった、あるいはおこなおうとしたから言えることだろう。

 そして、その結果、「近代世界システムによる「組み込み」がプリアンガン地方の末端で現地首長層および住民に見せた顔は次のようであったと言える」としている。「第1は独占の追求である。ヨーロッパ諸国同士および現地の大国との外交交渉によって貿易そのほかの独占権を確保し、主要港湾都市を管理する。さらに内陸輸送については交通インフラを独占的に建設し、金融サービスおよび生活必需品の供給を独占する。第2は、初期段階における具体的な恩恵の独占的提供である。首長層には経済社会的上昇階段を提供し、首長層および住民には、食糧・資金・物品という可視的かつ生活や生産に無くてはならない利益を提供する。利益の中には、輸送の肩代わりなど住民に安楽を与えるサービスの提供も含まれた。そして第3に、恩恵を与えるに際し、条件を提示して首長層や住民を選別した。その条件は、植民地政庁に無断で移動せず、政庁の決めた作業場・仕事内容・スケジュールで労働することであった。こうして世界システムが、まず最初に利益供与を行なうことによって対価として住民から巧妙に奪ったものは、生産と生活上の選択肢や決定権であった」。

 さらに、「普通の人々のグローバルヒストリーにおける事例研究のひとつとして、本書の考察が現代の人々に対し何らかのより良い対処法を示唆することができるであろうか」と問い、つぎのように答えている。「一般的には、目先の便宜供与・経済の活性化と引替えに、知らず知らずのうちに、生業を営み生活を組織する決定権を手放さないこと、同様に、生存戦略の選択肢を不用意に減らさないことを提案できよう。経済の向上や活性化の影で起こるこのような事態は、政策を実施する側も意図していない場合が多いが、そのような誘惑がどのようになされるかについてもヒントを提供し得たと思う」。

 そして、「最後に、インドネシアの現在についてここで述べたことの一部は、日本についても言えることを指摘して本書を終わりたい」と、「結論 「地方」は、なにゆえに地方になったか?-あるいは「普通の人々」のグローバルヒストリーのために-」を結んでいる。

 概説で述べられていることを、実証することは容易いことではない。本書で著者がこだわり続けているのは、植民地政庁や現地エリート層によって語られてきた制度史では理解できない「普通の人々」のグローバルヒストリーへの「組み込み」である。そのために、限られたデータをフルに使って「得たものと失ったもの」を明らかにしようとした。その姿勢から学ぶことがひじょうに多いが、その困難さも本書から伝わってきた。

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2012年04月10日

『国家と歴史-戦後日本と歴史問題』波多野澄雄(中公新書)

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 2001年から06年の首相在職中、毎年靖国神社に参拝し、内外で物議を醸した小泉純一郎も、ちょうど小学校時代と重なる大学新入生にとっては「過去」の人で、説明をしなければならなくなった。なぜ日本は「戦後」という過去を、現代の問題として引きずりつづけなければならないのか、本書は学生に説明するいい教材になる。日本の学生などの若者にとって、すでに「終わった」はずの過去にこだわる人びと、とくに日中戦争とは無縁のはずの自分たちと同世代の中国人の「反日」が理解できない。本書を読めば、その理由もわかるだろう。

 その理由のひとつは、国家間で解決済みの問題も個人の問題としては残っているからである。本書の帯の裏には、「国家間の問題から個人補償へ」の見出しのもとに、つぎのようにまとめられた文章が載っている。「アジア・太平洋戦争の「清算」は、一九五一年締結のサンフランシスコ講和を始めとする一連の条約で終えたはずだった。だが、八〇年代以降、教科書、慰安婦、靖国神社、そして個人補償請求と問題が噴出。日本政府は司法の支持を頼りに、一連の条約を「盾」とし跳ね返してきたが、世界の民主化、人道主義の浸透の前に政策転換を余儀なくされつつある。戦後日本の歴史問題の軌跡を追い、現代国家はいかに歴史と向き合うべきかを問う」。

 著者、波多野澄雄は、「一九七九年の防衛庁防衛研修所戦史部(現・防衛省防衛研究所)への入所以来」三〇年間、「国の歴史事業に絶え間なく取り組んだ」歴史研究者である。その戦後処理事業を大別すれば、つぎの3つになるという。「一つは、戦争の検証と伝承という事業であり、二つめは、一九九〇年代以降のいくつかの「歴史和解事業」である。そして三つめは、外交文書の検証や編纂、公開という事業である」。著者は、戦没者追悼平和祈念館(現・昭和館)の設立準備・運営、「女性のためのアジア平和国民基金」(アジア女性基金)のための資料調査、「アジア歴史資料センター」設立準備・運営、日英交流史事業、高校歴史教科書の検定、日中歴史共同研究などにかかわったことから、より全体像がみえているなかで慎重にことばを選びながら、本書を執筆している。そして、なぜ、今日まで引きずるのかを、歴史的に検証している。

 3部からなる本書の構成と目的は、「序章 戦争検証の挫折」の最後で、つぎのようにまとめられている。「第Ⅰ部では、厳しい冷戦の下で形成され、日韓・日中間の国交正常化を経て一九七〇年代に定着した講和体制は、戦争や植民地支配に起因する賠償や補償、さらに戦争責任という問題にどのような回答を与えてきたのか、置き去りにしてきた問題は何か、「戦後補償問題」の噴出とどのような関係にあるのか、こうした問題を検証する」。

 「第Ⅱ部は、一九八〇年代の歴史問題を取り上げる。一九七〇年代までに定着した講和体制は、国家間の問題としては歴史問題を封じ込めたはずであった。しかし、一九八〇年代には講和体制が想定していなかった歴史教科書問題や首相の靖国神社参拝といった、いわば「内なる歴史問題」が「国際化」したことで、政府を悩ませる」。

 「第Ⅲ部は、世紀転換期、すなわち一九九〇年代から二一世紀初頭にかけての歴史問題の展開を取り上げる。一九九〇年代のさまざまな「戦後補償問題」の噴出は、必ずしも新しい問題ばかりではなかった。しかし、冷戦と自民党支配という講和体制を支えた内外要因が大きく揺らぐなかで、歴史問題は政府を翻弄する」。

 「歴史問題について、あるいはその基盤となる「過去の戦争」の責任や原因といった問題について、国による検証が十分ではなく、国民が共有できる「パブリック・メモリー」が形成されない原因は、いったいどこにあるのか。歴史観の多様な共存を保障する国として、政府は歴史問題をいかに「管理」すべきなのか、あるいは「関与」すべきなのか」。

 「そして、すでに六〇年以上も前の「過去の戦争」にどう向き合い、どのように後世に伝えていくべきなのか。本書がこういった問題を考えるよすがとなれば幸いである」。

 歴史問題の原因が終戦直後からあったことは、よく言われる。「一億総懺悔」と言われるいっぽうで、戦争責任を政・軍指導者に押しつけ、天皇と国民は免れ、被害者意識をもつようになった。やがて五〇年代六〇年代に、それら政・軍指導者が復活し、戦争責任の所在が不明確になった。それが、中国など被害国民衆の怒りとなり、たとえ政府間で「解決済み」と言われても、個々人が納得しなくなった。

 また、歴史問題は、ドイツをめぐってもあったはずだが、西ヨーロッパでは近隣諸国との関係が改善したのにたいして、東・東南アジアではそういかなかったことが問われる。それにたいして、著者は「アメリカの戦略変化」が大きくかかわったことを、つぎのように説明している。「戦争賠償の主題から「戦争責任」という問題が遠ざかっていった国際的背景は、被害を受けたアジア諸国への配慮よりも、日本の復興と政治的安定を優先するというアメリカのアジア戦略の変化であった」。

 「占領初期にこそ、アメリカ側で、戦争責任を正面から問う講和案が検討され、また、日本による戦争賠償を媒介にして、脱植民地化と国家形成の途上にあったアジア諸地域と日本の復興とを一体として達成するという講和プログラムが存在した。しかし、まもなく日本の復興と政治的安定のみが関心事となり、賠償軽減を一方的に進め、賠償交渉においてもアジア諸国への配慮は相対的に小さなものとなっていった」。

 「それとは対照的に、ヨーロッパでは、アメリカは西ドイツを主権国家として再出発させるにあたって近隣諸国との関係改善を促すという政策をとった。西ドイツもまた、西ヨーロッパという政治的、経済的にまとまった一つのユニットとしての国際社会のなかに自らを明確に位置付け、国家として再生する道を開いた。国家主義や国民の帰属意識という狭い定義にとらわれず、西ヨーロッパ社会の一員であるドイツ国民という意味でのナショナル・アイデンティティの再構築が試みられた。ドイツの侵略戦争の犠牲となったポーランド、オランダ、ベルギーといった周辺国も後押しした」。

 「こうしたアメリカの日独に対する対応の相違は、過去の戦争に対する認識を、近隣諸国の認識や理解のなかで検証するという機会を持ち得たドイツと、そうではなかった日本という差異をもたらした。講和体制は、日本が過去の戦争の解釈や認識を形成する上で、被害を受けた近隣諸国との間で共有できる解釈や認識は何かについて、深く検証する妨げとなったのである」。

 歴史問題だけでなく、EUと東アジア共同体という地域共同体の比較もできないことがわかる。西ヨーロッパはまとまりのあるユニットが歴史的文化的にも形成されていたから、その積み重ねとしてEUが成立したのであり、東アジアは積み重ねができない状況にある。だからこそ、ひとつずつ努力を積み重ねて近隣諸国との関係を改善していかなければならない。

 その基本となるものに、歴史資料がある。日本は2001年にアジア歴史資料センターを開設したが、公文書の公開はひじょうに遅れ、歴史研究の大きな妨げになっている。たとえ研究成果で確固たる事実が解明できても、政府がそれを認めるとは限らない。また、歴史教育の問題について、著者はつぎのように述べている。「学術レベルの成果が、国民レベルの議論や歴史教育にも反映され、共有されるとは限らない。日中双方とも、それぞれ異なる意味で「国内問題」としての歴史問題を抱えている。中国の場合は、「抗日戦争」の勝利が現政権の基盤となっているとすれば、それに抗するような歴史教育はあり得ない。他方、日本は多様な歴史観の共存を保障し、教科書検定制度もそれを前提としているため、公的支援による歴史研究の成果も権威を持ち得ない」。

 帯の表に「民主国家日本を縛り続ける帝国日本という過去」とあり、そこから解放されることは並大抵でないことが、本書からわかった。著者は、この困難な問題にたいして、「終章「平和国家」と歴史問題-未来への説明責任」で、沖縄の問題を大きく取り上げ、沖縄の理解なしに「平和国家論」は成り立たないことを示唆している。そして、歴史研究者として、「歴史編纂とパブリック・メモリー」の必要性をつぎのように主張している。「「歴史問題」が東アジアにおける国際協調の課題となり、一国の歴史は他国の歴史との関連においてこそ初めて意味を持つ、そのような時代にわれわれはさいしかかっている。国の営みのなかで何を記録として後世代に残していくか、という問題を考えるとき、歴史の語られ方は異なっても、東アジアのすぐれた経験は活かし得るはずである」。

 さらに、最後の見出し「未来への説明責任」を、つぎのことばで結んでいる。「平和国家論をいわば「国是」として守り抜こうとすれば、そこに沖縄からの批判にも耐え、村山談話[戦争への反省]を力強く支えるような内実を与える必要がある。その内実とは、近代日本の絶え間ない戦争と帝国圏の膨張の遺産について、広く歴史的検証可能な知的基盤の形成にあろう。それは、国や地方を問わず日本の行政機関に著しく欠けている「未来への説明責任」を果たすためでもある」。

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2012年04月03日

『「国民国家」日本と移民の軌跡-沖縄・フィリピン移民教育史』小林茂子(学文社)

「国民国家」日本と移民の軌跡-沖縄・フィリピン移民教育史 →bookwebで購入

 昨今の博士論文のなかには、とても出版にたえないものがある。脈略のない論文が数本並んでいるだけで、全体を通してなにが言いたいのか、とくに専門外の者にはさっぱりわからないものがある。その点、本書は安心して読むことができた。序章、2部8章、終章からなり、序章と終章で全体像がはっきり示されている。各章にも「はじめに」と「おわりに」があり、わかりやすい。

 本書の特徴は、つぎの3つの研究領域を交錯させて論じていることである。すなわち、「近代沖縄教育史研究、植民地教育史研究、そして沖縄移民(史)研究である」。著者、小林茂子にとって幸いだったのは、それぞれの領域には膨大な研究蓄積があったことである。それを素直に学びとり、つぎの2つの課題を設定した。「第1は、戦前期沖縄において展開された移民教育を、国・県の移民政策との関連性をふまえつつ学校教育、社会教育双方から把握し、その実践を歴史的総体的にとらえるということである。そのために後節で詳述するごとく、戦前期沖縄の移民教育に関する時期区分を試み、それぞれの時期の特質を明らかにしていく。これが第1の課題である」。

 「第2は、フィリピン・ダバオの沖縄移民の意識構造を、移民個人の生活世界から描き出すとともに、フィリピン・ダバオがおかれた政治的経済的な外部状況とを関連させて明らかにするということである。とくに、移民二世の意識形成を考える場合、日本人学校での「臣民教育」の影響は大きいといえるが、同時に家庭における沖縄文化の伝承という側面にも着目しつつ、それと外部世界との関係を考えたい。これが第2の課題である」。

 「つまり、沖縄における移民教育の実践の歴史的事実の把握(第1の課題)という作業から、移民に対し沖縄での教育がいかなる役割を担ったのかを問い、また、渡航地フィリピン・ダバオでの移民の自己意識の形成(第2の課題)という内面の問題について、それが移民にとってどのような意味があったのか、これらの諸点を移民送出地域と渡航先双方を視野にいれて、沖縄の移民教育を総体的に解明することにある」。

 本書の目的は、「終章」の冒頭で、つぎのようにまとめられている。「本研究の目的は、「風俗改良」の取り組みから「国策」移民のための教育へと変わっていく、沖縄における移民教育の実践状況と、フィリピン・ダバオにおける沖縄移民の自己意識の形成という2つの局面から、差別に対する沖縄移民の、生き抜くための適応と内面変化の過程を解明することにあった」。

 そして、「この2つの局面をとらえる視点として、次のような分析枠組みを設定した。すなわち、1つは戦前期沖縄における移民教育の特質を時期区分にそって明らかにしつつ、そこから「必要的同化」と「文化的異化」の側面を析出した。また、もう1つはフィリピン・ダバオにおける沖縄移民の自己意識を「日本人意識」と「沖縄人としてのアイデンティティ」という二層の意識構造としてとらえ、その関係性を追求した」。

 続けて各章ごとに論点を整理し、最後に「移民研究の教育学における意義と今後の課題」を探り、つぎの4点にまとめている。「第1は、戦前と戦後における沖縄県の移民教育についての連続面、断続面を明らかにする必要がある。戦後も沖縄からは多数の移民が送出されており、そうした状況のなかで移民教育はどのように実施されたのか、それは移民自身の自己意識にどのような影響を与えたのか。アメリカ占領期の教育改革とのかかわりから本土復帰後の学校教育、社会教育両面において、解明する必要があるだろう」。

 「第2は、沖縄県のほかにも「移民県」と称されていた広島県、長野県、和歌山県など、移民を多く送出した地域で実践された移民教育史を掘り下げ、それらと沖縄県との比較・検討が重要な課題となる。とくに移民の送り出しには地域史とのかかわりが大きいが、移民=棄民の考えがあり、これまで地域史あるいは地域の教育史のなかに移民はほとんど登場しなかった」。

 「第3に、フィリピンへの沖縄移民をさらに太平洋諸島に渡った移民と比較検討する視点も重要であると考える。太平洋諸島への移民は、日本やアメリカ、イギリス、フランスなど欧米諸国とのかかわりが大きい。フィリピンも含めこれらの地域への移民の実態を広く世界史的視野からとらえる必要がある。それは移民に関する教育についても同様であり、フィリピンや太平洋諸島の移民教育史を植民地教育史との連関も視野にいれて、よりグローバルな視点から把握する取り組みが重要になってくると考える」。

 「最後に、フィリピンへの沖縄移民も含めたアジア諸国への日本人移民についての教材化を進めることも、必要な課題となろう。それは上述のごとく移民研究と移民を取り上げた教育実践との連携をより進めるという点でも重要であるが、今後経済協力協定(EPA)に基づいて、日本へインドネシアやフィリピンなどアジアの労働者が増加する可能性があるという、国際的な状況もある。そうした人たちをどう受け入れ、相互理解を図り共生していくのかという、現実的な教育実践課題としても深めるべき必要性があると考えている」。

 長年、教育の現場にいただけに、著者は研究をどう実践にいかすのかを問うている。本文のなかでも、生徒、教師、保護者の顔がちらついてきそうな場面がいく度かあった。研究面だけでなく、研究対象とどう向き合うべきか、学ぶことが多々あった。

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2012年03月20日

『日本地図史』金田章裕・上杉和央(吉川弘文館)

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 東南アジアでフィールドワークをしているとき、現地の人びとが地図が読めないために、難儀をしたことが何度かあった。地図が読めるようになる日本の地理教育は、すごいとも思った。だが、あるとき、現地の人が地図を指してなにやらつぶやいているのを聞いて、ハッとした。「ここは陽が当たらない」と言っているのだ。日本の近代地理教育で、「陽が当たらない」という発想はない。しかし、そこの住民にとって、農作物を植えたりする生活上、「陽が当たらない」ことはひじょうに重要なことだ。自分の調査のことしか考えず、地図がだれのためなんのためにあるのかを考えていなかった自分が恥ずかしくなった。本書でも、まずそれぞれの時代や社会が、地図になにを求めようとしたのかを基本に読んでいこうと思った。

 本書の目的は、「はしがき」でつぎのように述べられている。「日本は、この地図史をたどる資料にめぐまれていると言ってよい。八世紀の地図の実物が二〇点以上も伝存する国はほかに存在しないのではないかと思う。国家の土地政策を反映した、特徴的な古代の地図に加え、絵画的要素の多い中世の地図、手描き図に加えて印刷図が一般化した近世の地図など、多彩な地図の内容とその変容を紹介しようとするのが本書の目的である。近代地図の成立過程における多様な状況についても言及したい」。

 Ⅰの表1「日本における古地図の機能と表現対象」は、8~18世紀の地図を分類し、時代ごとに機能を整理してくれているので、ひじょうにわかりやすく、これが頭に入っていると本書が読みやすくなる。世界・国・小地域の3つのレベルのスケールに分け、それぞれをつぎのように説明している。「世界レベルの地図は、世界観・世界認識を表現したものであり、近代ヨーロッパの世界図を受容し、[天文学者]高橋景保のようにその精度を高める段階に入ってはじめて、国土把握と同水準の世界把握へと転換する」。「国レベルのスケールの地図は、八世紀にすでに国土把握のために作製されたことが明らかであり、古代・近世の国・郡図はその精細図である。ただし、中・近世の日本図では、周辺に雁道(かりみち(がんどう))や羅刹(らせつ)国など想像上の土地が描かれているものも多く、この点では世界観をも表現していることになる」。「小地域レベルのスケールの地図はきわめて多様であるが、大別すれば三つのグループとなる。①土地の面積や場所、あるいはその広がりの状況を表現する地図、②道・用水・建物など多様な建造物・構築物あるいはその集合体ならびに集落などの実態や利用状況を把握・表現する地図で、土地そのものを直接的に表現することが主目的ではない地図、③各種の推定・考証・復原などのための地図で、世界観・歴史観などを反映してはいるが小地域を対象としたもの、である」。

 地図が重要な歴史資料であることは、だれもが認めることだろう。しかし、だれもが簡単に読めるわけではない。著者は、その困難さをつぎのように述べている。「言語は、一語ずつ順に話され、書かれ、読まれる。地図という言語はしかしそうではない。地図を読む順番は定まっていないのである。地図を描いた順に読む、という必要はなく、また地図をどういった順に描いたのかはむしろ不明であることの方が多い。にもかかわらず、空間表現のためには地図は不可欠であり、地図というもう一つの言語でなければ、表現し伝達することが困難なことがらがある」。それが、1970年代以降、「地理学および歴史学の研究者による研究成果が次々と提出され」るようになった。「そこには、国絵図が単に地図史にとどまるのではなく、政治史にも密接にかかわる史料であることが専門家以外にも周知され、国絵図への関心が高まっていったこと、文字資料以外の絵画資料を用いた歴史研究が進展し、「史料」としての位置づけが適切に与えられるようになってきた」ことが関係していた。

 歴史研究にとって地図がいかに有用であるかは、本書で取りあげられている江戸時代に蝦夷地が描かれていても、琉球が描かれていない例などからわかる。伊能図では「日本」が描かれていたが、その「日本」に琉球が含まれていないことを、著者はつぎのように説明している。「それは伊能忠敬の測量隊が琉球まで及んでおらず正確さを期すことができなかったからであることは容易に想像され、この点では享保日本図と同じ姿勢であることになる。ただ、北方の蝦夷地のうち、西蝦夷については忠敬の測量隊は赴いていないにもかかわらず、間宮林蔵(まみやりんぞう)によると思われる測量成果によって補足されるのである。未測量であった問題、距離の問題といった点があるにせよ、伊能忠敬ないし伊能図を最終的に取りまとめた高橋景保らにとって、北方と比較して南方への意識は乏しかったといわざるをえないだろう」。

 豊田市近代の産業とくらし発見館企画展「白瀬矗(のぶ) ~夢の南極大陸へ~」(1月18日~3月25日)をみた。その趣旨は、つぎのように説明されている。「明治45年(1912)1月28日 午後0時20分、白瀬矗(しらせのぶ)陸軍中尉率いる日本南極探検隊は、南緯80度5分、西経156度37分の地点に到達し、ここに日章旗を立て、見渡す限り一帯を「大和雪原(やまとゆきはら)」と命名しました。当時、南極点を目指した他国のライバル探検隊に比べ、日本南極探検隊の装備は極めて乏しいものでしたが、一人の死傷者を出すことなく帰還したのは驚くべき快挙であり、また、学術調査の上でも大きな成果を挙げました。今回の企画展は、白瀬日本南極探検隊100周年記念プロジェクトの一環である全国巡回展示を迎え、白瀬中尉の生涯と彼が率いた日本南極探検隊の偉業を展示タペストリーで紹介します。さらに、長年の夢であった南極探検を成し遂げた“刻の英雄”白瀬中尉が、その後どのような生活を送り、終焉地「挙母[ころも]」(現在の豊田市)へと辿り着いたのか、その後半生を多くの方に知っていただければ幸いです」。

 白瀬は、南極探検を志す前に千島列島で苦難の日々を過ごしている。探検家の関心は苦難をともなう寒冷地にあって、「楽園」である南方ではなかったのだろう。また、ロシアの東漸ともかかわりがあったのだろう。そして、白瀬は晩年まで「大和雪原」を日本の領土であると主張していた。19世紀の日本の地図は、北方への関心、領土獲得のための探検を、どんな文献よりも雄弁に語っている。地図はいろんなことを語ってくれる。それを聞くことができる「耳」をもちたいと思った。

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2012年03月13日

『バターン 死の行進』マイケル・ノーマン/エリザベス・M・ノーマン著、浅岡政子/中島由華訳(河出書房新社)

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 タイトルの「バターン」と帯の「日米両軍を公正な視点で徹底的に検証した衝撃の書!」、そして訳者名を見て、本書に期待するものはあまりなく、しばらく書棚に放っておいた。読んでみて、思った通りの内容だった。

 期待しなかったのは、フィリピン側の視点がなさそうだったからである。開戦当時1600万人が暮らすフィリピンで、日本人とアメリカ人が戦った。フィリピン人にとって、迷惑な話どころではない。アメリカ人が日本人の視点で語ろうが、戦争の真実を語ろうが、そこに暮らす人びとのことが語られなければ、なんの意味もない。日本人が1000人ほど住んでいた硫黄島の戦いを、日米双方の視点で語るのとは根本的に違う。フィリピン語をちょっとでも知っていれば、「バターン」ではなく「バタアン」と表記したであろうし、本文でもフィリピンのことを知っていないために苦笑することがあった。英語がよくできるだけではわからないことがあるため、フィリピンの専門家を監修者に加える必要があった。

 著者は、フィリピンのことをまったく念頭に置いていなかったわけではない。「日本の読者の皆様へ」で、つぎのように書いている。「本の執筆にあたっては、戦争の痛ましい真実を知らしめると同時に、戦争を主題とする書物にしばしば見られる脚色を排除するため、三つの視点を用いる必要があった。アメリカ人、フィリピン人、そして何よりも日本人の視点である」。たしかに、フィリピン人にかんする記述がまったくないわけではない。また、フィリピン人研究者で第一人者のリカルド・ホセの助言を得て、写真を借用して掲載している。しかし、かれの気持ちは理解できなかったようだ。このことは、戦争中にアメリカ人がフィリピン人を軽視したことと同じだろう。

 著者のフィリピン観は、冒頭のつぎの1節によくあらわれている。「一八九八年以来アメリカに占領されていたフィリピンは、周辺の地域よりやや発展が遅れていた。シンガポールの活気とも香港の繁栄とも無縁のこの地を、当時のガイドブックは「楽園」と呼んだ。実際、マニラは美しかった。ヤシの木々が入り江の防波堤をそっと見下ろすように並び、夜になると常緑高木カミアスの甘い香りがあたりを立ちこめた」。そこに、植民地支配下で暮らす人びとの息吹は、まったく感じられない。

 本書の目的は、「日本の読者の皆様へ」の冒頭で、つぎのように述べられている。「私たちが本書を執筆した目的は、戦争の真実を伝えることだ。戦いの火蓋が切られるやいなや、敵味方を問わずあらゆる人びとが損失をこうむる、議論の余地のない真実を」。そして、その「真実」は、敵であった元日本兵から話を聞くことで、著者はつぎのように考えた。「アメリカと日本とでは文化がはなはだしく異なったうえ、両国それぞれがプロパガンダ作戦をくりひろげていたが、バターン半島に送りこまれた日本兵は、根本的には、その敵だったフィリピン兵やアメリカ兵とそれほど変わらなかったに違いない、と」。「だからこそ、バターンの戦いの最中からその後にかけて行なわれた、残虐で非道な仕打ち-弁解も否定もできない虐殺行為-にはとまどいを禁じえなかった。私たちは首をひねった。農業や工場労働に従事していた日本の分別ある若者たちが、人として守るべき法規をないがしろにし、武器をもたない無抵抗の者、すなわち民間人と戦争捕虜とに不寛容だったのは、いったいどうしてだろう? 無慈悲で恥知らずな振る舞いにおよんだ日本兵が少なくなかったのは、どういうわけだろう?」。

 本書の原題である「暗涙Tears in the Darkness」は、バタアン戦の司令官であった本間雅晴中将がバタアン戦の最中に戦死者名簿を前にして涙を流したという逸話にちなんでいる。著者は、「戦争とは敵味方のいずれにも残酷なものであり、いずれにも無意味な損失を強いるのだという私たちのテーマが、この表題によくあらわれていると思う」という。では、敵でも味方でもないのに日米戦に巻き込まれたフィリピン人の涙は、どのように理解したらいいのだろうか。日米戦を越えた戦争の悲惨さを語りたいのであれば、フィリピン人の視点が是非とも必要だった。

 本書から学んだことはたくさんあったが、ナショナルヒストリーは越えても帝国史観から抜け出せなかったことで、書く段になってわたしの頭からすべて消えてしまった。

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2012年03月07日

『戦争の記憶を歩く 東南アジアのいま(3刷)』早瀬晋三(岩波書店)

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 ちょこっと4頁ほど、増補した。だが、この差は大きい。

 本書の英訳A Walk Through War Memories in Southeast Asia (Quezon City: New Day Publishers)を2010年に出版し、それを読んだアテネオ・デ・マニラ大学の学生(20歳前後)51人から感想文が届いた。それらをまとめて、「戦争認識のすれ違い-日本人学生とフィリピン人学生-」(『大学教育』大阪市立大学、第9巻第1号、2011年9月、25-32頁)を書いた。増補した4頁は、そのダイジェストである。

 日本と中国、日本と韓国の歴史認識の相違については、内外でたびたび取りあげられ、共通教科書作成の試みもされている。中国人や韓国人で日本語文献を読むことができる者も多く、また日本語から中国語、韓国語に翻訳されたものもある。しかし、日本が戦場とした東南アジアの国ぐにの研究者で日本語の文献を読むことができる者はほとんどいない。したがって、歴史認識の違いについて取りあげられたとしても、共通の文献を読んだうえでの話ではない。増補した部分は、本書の英訳を母国語同様に読むことができるフィリピン人エリートに限られているとはいえ、日本人学生と同じ本を読んだうえでの歴史認識の違いを明らかにしたものだ。

 ついでに、書評などで指摘された間違いや誤解を招く表現を書き改めた。研究者でない者にとっては、出版されたものに間違いがあるなど、とんでもないことのように思えるかもしれない。しかも、岩波書店のように内容チェックが厳しいところでは、そのようなことはありえないと思われるかもしれない。しかし、現実は高校歴史教科書にも間違いがあることを、拙著『未来と対話する歴史』(法政大学出版局、2008年)などで指摘し、その原因も示した。

 専門の殻に閉じこもり、原史料からわかることだけを書いていれば、恥をかかないですむ確率は高くなる。しかし、自分の専門を相対化するために、視野を広げることは、グローバル化時代の歴史学にとって必要不可欠なことだ。日本史と中国史、朝鮮史を寄せ集めても東アジア史を語ることができないように、日本がつくった戦争空間としての「大東亜共栄圏」を語るには、それぞれの国の専門家が書いたものを寄せ集めるだけでなく、ひとりで執筆することも重要である。自分の専門領域なら、概説書を書くときも原史料や専門書が頭に浮かぶ。だが、原史料を読んだことがなく、専門書も限られたものしか読んだことがない領域は、単純な間違いをしても気づかない。その危険を冒しても、書く必要があるのは、マイナス面よりプラス面のほうがはるかに大きいからである。「専門外のことは書くな」と言えば学問の発展はないし、人びとはひじょうに視野の狭いものしか読むことができず、偏狭なナショナリズムのもとでは国際紛争・戦争にまで発展してしまう。専門家が100度行っても書けないことが、専門外の者が別の視点から見て1度行っただけで書けることもある。

 研究者を長年やっていれば、他人のあら探しはそれほど難しいことではない。ましてや専門外の者が、視野を広げて書いたものはケチをつけやすい。批判するときは、自分が書くことを想定して、いかに建設的なことがいえるかが重要になる。言い換えれば、自分自身の執筆のために、いかに生かすかを考えると、まず執筆者から学ぶという姿勢が重要であることに気づく。学ぶという観点で批判するなら、まず自分自身が執筆者の視点に立って正確に読むことができたかが気になるはずだ。読めていないのに、批判はできないのだから。研究者が多く成熟した分野ならいざ知らず、東南アジア史のような研究者が極端に少ない分野では、互いの長所・短所を認めあってともに発展していきたい。

 ともあれ、どのように正当化しようが、間違いや誤解を招くことを書いたことは恥ずべきだ。指摘されたことに、素直に感謝したい。そのお蔭で今回訂正することができ、読者により正確に伝えることができたのだから。

 本書タイトルの一半は、「東南アジアのいま」である。本書を読んで、東南アジアの戦跡巡りをした人には、たいへん申し訳ないことをした。本書日本語版が出版された2007年には、本書に書かれた内容とは違う状況になっていた。すでに「いま」ではなかったのだ。とくにシンガポールがそうで、今回つぎのような追記を入れた。「二〇一一年一一月にシンガポールを再訪したところ、博物館の展示内容が大きく変わっていました。「シンガポールのイメージ」館から「降伏の間」がなくなり、日本占領期のものは一コーナーしかありませんでした。「降伏の間」の展示は、シロソ砦に分散展示されています。また、晩晴園は孫文に集中した展示の孫中山南洋紀念館となり、日本占領期にかんするものはなくなりました。ディスカバリー・センターの日本占領期関連のものもなくなりました。代わって、新たに日本占領期にかんする博物館Memories at Old Ford Factoryが、二〇〇六年にオープンしました。山下中将がパーシバル中将に降伏を迫り、イギリス軍が降伏した場所です。国立博物館も二〇〇六年に再オープンし、記録と証言を中心に歴史と文化を紹介する「歴史ギャラリー」で充実した展示をしています」。また、マレーシアの国立歴史博物館は2007年に閉館し、展示は国立博物館に移っています。

 本書では、そのことを見越して、2007年に出版したとき「序章」でつぎのように書いていた。「記念碑は壊されることがあり、博物館の説明文は時代によって変わります。後世の歴史研究のために「史料」として記録し、残すという役割も果たします」。本書も、現地調査してから10年近くになり、けっして「いま」ではなくなった。しかし、フィリピン人学生が本書を読んでどう思ったのかの「いま」を加えることができた。新たな視点で、読んでいただけることを期待している。

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2012年02月21日

『両インド史 東インド篇』ギヨーム=トマ・レーナル著、大津真作訳(法政大学出版局)


両インド史 東インド篇〈上巻〉
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両インド史 東インド篇〈下巻〉
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 本書を、わたしはどのように読んだらいいのだろうか。本書の出版されたフランス革命前夜の研究なら、それなりの読み方があるだろうが、17世紀の東南アジア史研究のために本書を読むとなると、どのように読んでいいのかわからない。18世紀後半の著者の目を通したものであるから、原史料ではない。近現代の研究者のような客観性もない。1字たりとも引用することはできない。しかし、18世紀後半のヨーロッパ人知識人が、どのような「東インド」観をもっていたのかはわかる。それも、16世紀からの連続性のなかで、理解することができる。本書を自分の研究に活用できないのは、明らかにわたしの未熟さによる。

 本書は、レーナル編纂の『両インドにおけるヨーロッパ人の植民と貿易の哲学的・政治的歴史』全19篇のうち最初の5篇を訳したものである。初版は1770年に出版され、何度も版を重ねている当時のベストセラーである。その理由とその後の顛末を、上巻の「訳者解説」では、つぎのように説明している。「初版本がフランスか、オランダかで印刷され、流布され始めたときは、ちょうどルイ一五世(一七七四年没)統治の晩年で、フランス社会の軋轢が表面化してきた時期にあたっていた。本書は、宗教的狂信と専制主義に反対する意見をふんだんにちりばめていたので、新時代を予感して、哲学と政治に熱をあげていたフランスの世論に大いに受けた。そのため、政府が当初許可した二五部は、たちまち売り切れとなってしまった。本書がパリに流布し始めた七二年春には、検閲当局は、その大胆なキリスト教批判や専制君主批判に注目し、発禁処分の時期を見計らっていたが、同年末、国務顧問会議で「執念深いモープーの提案で」、公序良俗に反するというきまり文句のもとに、廃棄処分が決定され、翌年には、ソルボンヌも検閲のための特任官を任命した。しかし、『両インド史』の方は、廃棄処分の決定にもかかわらず、目の玉が飛び出るほどの高値で取引された。フランス国内での需要に応じて、『両インド史』初版は、次々と増刷され、政府の黙認のもとに、世間に公然と出回ることになった。流布の状況は、一七七二年に「少なくとも四度が、再版が出」て、「翌年にはそれが一一度となり、一七七三年には六度」となるほどすさまじかったのである」。

 これだけヨーロッパ世界に受け入れられた背景には、オランダ、イギリス、フランスなどの東インド会社の帝国的進出があった。たんなる貿易会社から近代植民地形成への動きがみられるようになり、フランスはインドでイギリスに敗れ、一七六九年に東インド会社の解散に追い込まれた。その「世界史」的関心について、「訳者解説」は、つぎのように説明している。「『両インド史』は、初版から「モンテスキュー以来の記念碑的労作」(グリム)と評価してもかまわないほどの規模を持っていた。それは、これまで、まったく本格的な研究対象とはならなかった地域をとりあげ、その地理的・歴史的・文化的風土を論じ、貿易をキーワードに過去と現在の経済的・政治的歴史を調査し、描き出していた。本書は、初めての世界史的記述と言える『法の精神』(一七四八年)と比べても、また、同じく世界史を扱って、少し遅れて出版されたヴォルテールの『習俗論』(一七五三年)と比べても、質・量ともに、これらをはるかに超える壮大さを持っていた。しかも、内容の実証性と資料の厳密さおよびその広がりにおいては、先にも述べたように、「幾何学的正確さ」を理想とする本書は、類書を寄せつけぬ水準に達していたと言わなければならない」。

 レーナルは、正確さを期すために「原資料」に頼るよう心がけたことを、冒頭の「おしらせ」でつぎのように述べている。「私は、新たな調査を行ない、あらゆる方面から援助を受け取ったので、幸いなことに、持ちうるかぎりでの広がりと正確さをあますところなく作品に与えることができた。本書に含まれている細目の大半は、原資料から取り出されてきたものである。原資料に匹敵するほどの確固たる根拠を持たない細目については、どこの国の人間であるかを問わず、情報に最高に明るい人間による証言がそれらを支えてくれている」。

 具体的な「原資料」として、英国議会報告書に含まれている東インド会社の経営内容や株式の変動などの詳細な数値データが使われている。これらの報告書や数値データのほか、レーナルは「実際に航海と貿易にたずさわった人間が著わした航海記や見聞録、征服事業に参加した人間が著わした記録、諸王国の支配者の事蹟を記録した史書、それにロシアを含むヨーロッパ全域の歴史については、政治家の回想録をはじめとするさまざまな文書、さらには、東西インドからシナにかけて派遣された宣教師の報告集などを渉猟したことはもちろんである」。しかし、引用した文献資料にかんする注記はない。いまわたしたちが、「1字たりとも引用することができない」理由のひとつは、近代文献史学の必須条件である根拠が示されていないからである。もっとも当時は、情報源を明らかにしないことが、商業上の当然の権利であった側面もあるため、レーナルを責めることはできない。それを理解したうえで、どう「読む」かである。

 本書の篇名である「東インド」について、地理的な確認をする必要がある。レーナルは、「東インドという総称をめぐっては、アラビア海とペルシア王国を越えたところにある広大な地域と普通に理解する」と述べているが、訳者は「実際に著者が取り扱う地域は、この区分を東西方向と北方向にはるかに越えた広大な地域となっている」と述べ、具体的につぎのように説明している。「東インド篇が取り扱う東インド概念で包括される地域を具体的に列挙するとすれば、まず、ヨーロッパ人が東インドと呼んだ「本来の」インド、インドシナ、インドネシア、東インド諸島をあげなければならない。次に、異教が支配する中近東地域、ポルトガルがインド航路開拓で交易を持つにいたった東西のアフリカ沿岸部、ヨーロッパとは陸続きの黒海周辺地域、カフカス地方、中央アジア、シベリア、モンゴル、シナなど、本来の地理的概念には含まれてこなかった地域をあげなけれならない。さらに、この範疇に属する地域として、太平洋では、台湾島はもとより、マゼランの世界周航でスペインと関係を持つにいたったフィリピン諸島、ヨーロッパの列強が熾烈な争いを繰り広げた香料諸島周辺、また、あまりにも地理的にヨーロッパからは僻遠にあったために、ヨーロッパにとっては、未知のベールに包まれていた朝鮮半島から日本を含む極東諸国をあげておかなければならない」。

 第一篇でポルトガル人、第二篇でオランダ人、第三篇でイギリス人を扱った後、フランス人でイエズス会に入会し、ジャーナリストとなったレーナルは、第四篇「東インドにおけるフランス人の旅行、植民地、戦争、貿易」を、つぎのように書きはじめている。「本書をはじめるにあたり、私は真実を書く誓いをした。そしてこれまで私は、この誓いを忘れたことはなかったと自分では思う。凡俗のものでしかない依(え)怙(こ)贔(ひ)屓(いき)によって、私が私自身と他人に私の国の過ちに関して持論を押しつけるようなことがあれば、私の手などひからびてしまえ。私は、私の先祖がしてきた善行であれ、悪行であれ、それをぼかして言うつもりはない。ポルトガル人もオランダ人も、そして、それがイギリス人であってさえも、私の公平性を期待してよい。これらの人びとはこの本を読み、私をどうか裁いてほしい。私が彼らを扱ったときには厳しくしたのに、その厳しさをフランス人に対しては、緩めてしまっていることを、もし彼らが発見したなら、私を、二〇〇〇年前から諸国民と君主たちの精神を毒してきた、おべっかつかいの仲間にいれてくださってもいいし、同じ部類の書物のなかで多数派を占める低俗さの記念物に私の書物を加えてくださってもいいし、私が私の魂の入り口を恐怖感、あるいは期待感のために開いてしまったとお疑いになってもいい。私は甘んじて彼らのいっさいの侮蔑を受けよう」。

 第五篇で「デンマーク、オーステンデ、スウェーデン、プロイセン、スペイン、ロシア」を扱った後、「ヨーロッパと大インドとの結びつきに関する重要ないくつかの問題」を第二四章から第三五章まで12章にわたって論じている。そのうち9章は「シナ」にかんするもので、つぎにあげる残り3章のタイトルから、なぜ本書が読まれたのかの理由の一端が伝わってくる。「第三三章 ヨーロッパは大インドと貿易をつづけるべきであろうか?」「第三四章 大インドで貿易を行なうために、大規模な植民地をヨーロッパは必要としているか?」「第三五章 ヨーロッパは大インド貿易を自由化すべきか、それとも独占会社を通じてそれを開発すべきか」。

 どう読んでいいかわからないわたしにたいして、1970年代末に本書の翻訳を志した訳者は、「本書の翻訳が急がれる理由」をつぎのように説明している。「ヨーロッパ諸国の植民地獲得と植民地経営の歴史を描いた本書は、一八世紀後半に書かれたものであるにもかかわらず、わが国においては、今日性をいささかも失っていないからである。脱亜入欧を唱えた明治以来、今日にいたるまで、われわれは、植民地主義ないし植民地主義的発想に起因する諸問題を反省なく抱えこんだままである。それは、現代日本に再び「アジア的身体の問題性」を浮かび上がらせている、と指摘する作家もいる。また、第三世界では、形を変えた植民地主義である経済侵略と資源略奪による貧困と飢餓がいささかも衰えを見せていない。かつては、植民地主義の発端は、黄金と奴隷と香辛料の獲得であったが、今日では、それは、もっと直截に、食糧の確保である。その一方で、地球環境の先進諸国による破壊も、経済のグローバリズムの名の下に、人類の未来を脅かすまでにいたっている」。「たしかに、本書に示されたようなヨーロッパ思想とその進化形態である啓蒙主義の基本的前提である進歩の普遍主義を、見境のない現代のグローバリズムから区別することは難しいかもしれない。しかし、それはそれとして、たとえば、本書に克明に描かれているインドの植民地化と今後描き出されるであろう新世界征服の地獄絵図に見られるような過去の狂気と失敗と惨禍の教訓にわれわれは学ぶべきであろう」。

 未来を見据え、本書をどう読むか、まだわたしにはよくわかっていないが、日本語でこのような文献が読めることは、ほんとうにありがたい。訳者と出版社に感謝いたします。

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2012年02月07日

『世界史の中のアラビアンナイト』西尾哲夫(NHKブックス)

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 2011年11月、フィギュアスケートNHK杯ショートプログラムで、浅田真央は青いハーレムパンツ衣装で登場した。曲は「シェヘラザード」。1888年夏に完成されたニコライ・アンドレイェヴィチ・リムスキー=コルサコフ作曲の交響組曲である。千夜一夜物語の語り手、シェヘラザードの物語をテーマとしている。

 本書の終章は、「シェヘラザードをめぐって-世界文学への道」である。そこで著者、西尾哲夫は、シェヘラザードをつぎのように紹介している。「アラビアンナイトのヒロインであるシェヘラザードは、アラブ文学を代表する女性像として、文学者や文学史家の注目を集めてきた」。「シェヘラザードは女性の美点を弁護して女性の地位向上を果たすためのキャラクターであるという見方もある」。「性愛文学の系列に属するアラビアンナイトでは、シェヘラザードの官能性が強調される。一方で、子ども向けファンタジーの中では、純真な乙女あるいは賢い母親としてシェヘラザードが描かれる。つまり、これといった性格特性のないシェヘラザードは、アラビアンナイトの位置づけによって、いかようにも変化するキャラクターなのだ」。

 本書では、なぜ「いかようにも変化する」ようになったのかを、学問的に立証している。著者は、つぎのように「序章 エブリマンズ・アラビアンナイト」で問いかけ、本質へと迫ろうとしているのかを説明している。「本書ではヨーロッパの東方観とアラビアンナイトの相互関係を検証しながら、国際協同による調査研究をとおして明らかになった新事実を織り交ぜ、アラビアンナイトの軌跡を俯瞰(ふかん)してみよう。アラビアンナイトの成立過程を追っていくことで、ヨーロッパ、中東、そして日本の近代史を、今までとは少し違った窓からのぞくことができるのではないだろうか」。「具体的には、《アラジン》《アリババ》《シンドバード》の内容から始まり、アラビアンナイトの成立史を簡単に確認した後、海外に膨張するヨーロッパが植民地経営の需要にみあったアラビアンナイト編集版を作成した経緯を追ってみよう。その過程で、近世エジプトで千一夜を含む物語集としてまとめられた「もうひとつのアラビアンナイト」が、どのように近代ヨーロッパとかかわり、世界文学へと変貌していったかが見えてくるだろう。そして最終的には、アラビアンナイトのキャラクター中、誰よりも個性の乏しい人物、つまり、語り手シェヘラザードの本質がつかめてくるはずだ」。

 そして、終章で、著者はつぎのように結論づけた。「シェヘラザードはアラビアンナイト解釈の文化的背景によって、いかようにも変化する人物として描かれていた。見方を変えれば、シェヘラザードは肉体性を喪失することによって女性の肉体機能が本源的に備えていると考えられていたカイド[策略、悪だくみ]の拘束から解き放たれたとも言える。千年以上も昔に「原アラビアンナイト」が誕生して以来、この物語集はさまざまに加工されてきた。多様な文化と時代、そして価値観を越えてアラビアンナイトが世界文学となりえたそもそもの原因は、肉体性を喪失した物語再生装置としてのシェヘラザードという初期設定にあったのではないだろうか」。「アラビアンナイトの登場人物中、誰よりも明確な個性を持っていたのは、無個性なシェヘラザードだったのではなかったか。そして枠物語としてのアラビアンナイトが、文明を越境しながら次々と新しい物語をとりこみ、うみだしてきたのは(そして今日もまた、新しいアラビアンナイトがうみだされている)、文化コードとしてのカイドを捨てることによって新しい力を得たシェヘラザードのおかげだったのではないだろうか」。浅田真央も、その「新しい力」に期待したのだろうか。

 そして、つぎのように結んでいる。「ガラン版『千一夜』に始まり、カルカッタ第一版、カルカッタ第二版、レイン版、バートン版、マルドリュス版などを包含する巨大な文学空間は、オリエンタリズムによってとりこまれた他者像を整形あるいは解体し、さらには融合させていった」。「近代ヨーロッパとアラビアンナイトのであいは、不幸な偏見を生み出すことにもなった。だが、本書でその成立の過程をたどってきたように、オリエンタリズム的文学空間は、特定の地域で伝承されてきた文学を新しい形へと変化させるモメンタムが生気する場として作用したと言えるだろう」。

 ところで、わたしたち日本人が親しんでいるアラビアンナイトは、どのように変化したものなのだろうか。「あとがきに代えて-日本のアラビアンナイト」で、つぎのように説明している。「日本でのアラビアンナイト紹介は、オリエンタリズム的文学空間で形成されたアラビアンナイトの移入に終始したことになる。だが、本書をとおして確認してきたように、現在のアラビアンナイト誕生のきっかけとなったオリエンタリズム的文学空間は、中東世界と近代ヨーロッパとの相互作用によって生じたものだった。つまり日本では、アラビアンナイトを産んだ中東文化への視点さえないような状態で、近代ヨーロッパで形成されたアラビアンナイトを受けいれてしまったことになる」。

 現在、ガラン版『千一夜』の全訳に着手しているという。このような研究が、現代社会の役に立つのだろうかと、訝しがる人がいるかもしれない。その疑問にたいして著者は、2010年から11年にかけて始まった「アラブの春」を演出したフェイスブックによるコミュニケーションについて、つぎのように解説をしている。「複雑かつ美麗な」「「書きことば」による情報交換が成立している世界と、「話しことば」による日常的な会話の世界が分かれて」いる「アラビア語圏では、民衆が言語コミュニケーションをつうじて広範なネットワークを作り出すことが難しかった」。「だがITの出現によって、大きな変化が生じてきた」。「若者たちは、ローマ字による日常会話をメールで送るようになった。ローマ字ではアラビア語のすべての音を表記できないのだが、友人同士の意思疎通にはそれほど問題はない。「話しことば」は、地域だけではなく職種や部族によっても異なるが、若者たちがローマ字メールに使用したのは、いわゆる中間アラビア語とよばれる新生アラビア語の一種だった。やがてアラビア文字を用いた通信環境が整いはじめると、二〇一一年の反政府運動で彼らが連絡用に用いたのは、アラビア語表記による中間アラビア語だった」。

 このような言語事情は、アラビアンナイトの普及や変化と大いに関係がある。どこのだれが、どのようにして読み、書き換えていったのかを理解することは、今日の社会情勢を把握する大きな力になる。基礎研究は、いつどのようなかたちで役に立つかわからないところがあるが、本研究は「アラブの春」の理解に役立つ。

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2011年12月20日

『新しい世界史へ-地球市民のための構想』羽田正(岩波書店)

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 帯に「いま、歴史の力を取りもどすために」とある。著者、羽田正は、「歴史の力」が衰えていると感じ、危機感をもって本書を執筆した。著者が伝えたいメーセージは、「はじめに」でつぎのように書かれている。「現在私たちが学び、知っている世界史は、時代に合わなくなっている。現代にふさわしい新しい世界史を構想しなければならない」。「いま私たちが身につけている世界史認識はどんなもので、その何がどのように問題なのか、新しい世界史とはどんなもので、どうすればそれが作り出せるのか、これらの問題を考え、論じてみたい。世界史を語るのではなく、世界史の語り方をあらためて考えるのである」。

 本書は著者が、「ここ数年試行錯誤してきた」「思索の中間報告」である。「まだ完全なものではない」ことを自覚しながら、書かなければならないと思ったのは、「現代世界の各地で生じる様々な出来事に関して、従来の世界史理解を無批判に援用し、それを当然の前提として発せられる分析や解説、提案などを読み聞くにつけ、この現状を変えるべく一刻も早く声をあげねばならないと考えるようになった」からである。そして、「この本がきっかけになって、世界史の研究方法や教育研究体制についての議論が活発になり、やがて新しい世界史がくっきりとその姿を現し、人々の世界を見る目が変わってゆくことを期待している」。

 著者は、最初の3章(「第一章 世界史の歴史をたどる」「第二章 いまの世界史のどこが問題か?」「第三章 新しい世界史への道」)で、まず史学史をおさえ、つぎに現行の世界史は「日本人の世界史である」「自と他の区別や違いを強調する」「ヨーロッパ中心史観から自由ではない」の3つの弱点があるとして、その克服を模索し、第四章で自身の「新しい世界史の構想」を披瀝している。そして、「終章 近代知の刷新」で、「本書の主張」をつぎのようにまとめている。「私たちが地球というコミュニティの一員であることを強く意識し、地球への帰属意識を高めるためには、どうしてもその歴史、すなわち地球社会の歴史が必要となる。それは、日本やアメリカ、中国といった別々の国の歴史を集めて一つにした世界史ではない。むろん、ヨーロッパや東アジアなどの地域世界の歴史を集めて一つにしたものでもない。これらの世界史は、国や地域への帰属意識を高めるものではあっても、地球市民意識の涵養には無力だからである。地球社会の歴史は、「世界をひとつ」と捉えるとともに、世界中の様々な人々への目配りを怠らず、彼らの過去を描くものでなければならない。新たにそのような世界史を構想するべきだ」。

 著者の熱い想いは、充分に伝わってきた。だが、著者自身がわかっているように、そう簡単ではない。ヨーロッパ中心史観や自国中心史観など、中心史観は世界史の妨げになることはわかっていても、自国中心史観の歴史さえを満足に語られていない国はいくらでもある。さまざまな中心史観で語ることが、重要な国や地域などもある。従来の歴史は、まずわかることから語ってきて、それをまとめたものが「世界史」だった。いま重要なことは、わからなかったために、あるいはわかろうとしなかったために、これまで語られることのなかった歴史を意識することである。これまでに書かれてきた歴史を、わからないことまで含めて相対化しないと、「知の帝国主義」になって、中心史観から脱するどころか、逆に中心史観を助長することになる。

 たとえば、東南アジア史の概説書を書こうとして、カンボジアの植民地化について『世界各国史 東南アジアⅠ大陸部』(山川出版社)や『岩波講座 東南アジア史』を見ると、1863年のフランスによる保護国化以降の記述がないことに気づく。あたかもカンボジアという国が消えてしまったかのように。しかし、通史や概説書に記述があるからといって、安心できるわけではない。複数のものを見比べると、矛盾があることは珍しいことではない。研究書のように出典が書かれていないので、どれが正しいのかを判断することはむつかしい。さらに、どの本にも同じことが書かれているからといって、安心できるわけでもない。だれも原史料に基づいて本格的に研究していないので、間違ったものを検証することなく書き継がれていることがある。本書にある「オランダは1623年のアンボイナ事件を機にイギリスへの優越を決定的にし、領土獲得にとりかかった」という記述は、17世紀のイギリス東インド会社の文書を読めば間違いであることがわかる。わかっても、日本古代史のように「教科書が変わる大発見」とふうに新聞に載ることもないので、なかなか訂正されない。このように、世界史はおろか、東南アジアだけでも全体を見渡して正確に歴史を書くことは不可能である。

 では、東南アジア史のように研究の進んでいない分野の研究者を増やすことができるのか。それも、ひじょうに困難である。研究の進んでいる中心史観で語ってきた研究者は、自分が語る歴史がそれにあたると気づいていない。したがって、研究の進んでいない分野の研究を世界史全体のなかで評価する力がなく、「劣った」研究であるとみなしがちである。研究蓄積の乏しい分野の研究をし、発表をすると、「本格的な研究ではない」「考察が充分でない」「初歩的な間違いがある」などと言われることがままある。手っ取り早く研究業績を出したい若手研究者は、研究のしやすい蓄積のある分野のテーマを選んで、時間のかかるわりに評価されない分野を避ける。ましてや、成果が出るかどうかがわからないようなテーマに、危険を冒してまで挑戦する者はいない。これでは、若手研究者は出てこない。近代の中心史観の歴史はわかりやすく、教えやすいので、やっかいだ。まずは、研究の進んでいない分野の研究が、いかに世界史認識や歴史学にとって大切かに気づいてもらうための具体的な歴史叙述が必要であろう。本書でも、いくつか紹介されている。つぎに、中心史観で研究業績のある者に、別の視点からの研究に挑戦してもらうことだろう。岩波歴史選書などに、好例がある。

 著者の焦りはわかるし、このような本が必要なこともわかる。だが、いま個々の歴史研究者がしなければならないことは、原史料に基づいて中心史観から脱した具体的な歴史叙述を、ひとつひとつ積みあげていくしかないのではないだろうか。それをしていない者が何人集まって議論をしても、空論に終わって、具体的な成果は期待できないだろう。ともあれ、本書が、「新しい世界史」を考え、議論するための指針となることは、だれもが認めるだろう。

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2011年11月22日

『戦後日本=インドネシア関係史』倉沢愛子(草思社)

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 本書を読み終えて、「引き続く過去」ということばが浮かんだ。しかし、問題は、2国間関係のいっぽうのインドネシアの人びとがそれを重くとらえているのにたいして、もういっぽうの日本の人びとの多くがすでにまったく意識していないか、その意識を「なきもの」にしようとしていることである。著者、倉沢愛子は、その意識の違いを過去の問題としてではなく、今日さらに未来の問題としてとらえている。

 本書は、「序」で「歴史的背景」「本書の概要」「筆者の主張と問題提起」「先行研究」が要領よくまとめられ、その後具体例を7章にわたってあげて、理解を深められるようになっている。そして、「終章 インドネシアにおける対日歴史認識」で、「引き続く過去」がインドネシアでどのように受け継がれているのかをまとめている。

 著者は、「序」の冒頭で、「本書は、「大東亜」戦争終結以後の日本とインドネシアの関係を、広い意味での戦後処理という観点から、「戦争」の問題を常に念頭に置きつつ、また戦後の新たな関係への移行過程を踏まえつつ考察したものである」と述べている。そして、「本書は、タイトルに国家と国家の名前を冠しているが、国際関係論や外交史ではなく、できるだけ両国、とりわけインドネシアの内政問題や社会変容、さらには国家関係では見えてこない、歴史のアクターとしての「人間」(「人物」と言うよりは「人間」)にも焦点をあてることを目指している」とし、具体例としてつぎの3つのトピックに分けて考察している。「その一つは、戦争によって移動(招集、抑留、連行その他)させられた人々の、戦争直後における帰還や残留にまつわる諸問題と、その後、彼らが定住した社会における立場や役割の分析などである」。「第二のトピックは、日本が戦争によって被害を与えた対象(国家、社会、個人)への償いの問題である」。「第三のトピックは、戦争と賠償を引きずっていた戦後の日イ関係が、スハルト政権の誕生により人脈的にも新たな局面へと移っていく過程でどのように変化していったのかを、日本の企業進出、対日批判そして反日暴動(マラリ)(一九七四年一月)などを軸に分析する」。

 これら3つのトピックを論じるなかで、著者が主張し、問題提起としたのは、つぎの4つである。「ひとつは、戦後間もない時期(一九四五年から一九五八年頃まで)の日イ関係は、両国とも第一義的な国益そのものが明確でなく、混乱と試行錯誤の連続であったのではないかということである」。「第二の主張点は、やがてその混乱と試行錯誤のなかからも、最終的な路線が徐々に明確になってきたこと、そしてそれはインドネシアにとっては脱植民地化の徹底(オランダとの全面的対決)であり、日本にとっては東南アジア重視政策であったということである」。「第三に、少なくとも一九六〇年代中頃までは、戦前・戦中からの人的ネットワークの連続性が強く見られ、これが公的な政策決定に少なからぬ影響を与えていたのではないかという点である」。「第四に、「戦後」は本当に終わったのか、という問いである」。

 この第四の問いにたいして、著者は「結論にかえて」で、つぎのように「終わっていない」と明確に述べている。「これは微妙な形でインドネシア社会に生き続けている。確かに戦争の記憶を持たない新しい世代は、日々の生活のなかで経済大国としての日本のプラスのイメージを膨らませて育ってきた。日系の子供たちがその血筋をできるだけ隠そうとして過ごした一九五〇年代、六〇年代と比べて、今は日本の血を受け継いでいることをむしろ誇りにする子供たちも多い。一方で、戦争の被害に遭った当事者たちが年齢を重ね、一人二人と姿を消してゆき、戦後補償問題は立ち消えになりつつある」。「とはいえ、その子孫たちはまだ複雑なわだかまりを持っていることが少なくない。両国の当事者たちのあいだで、かつて一度も、問題をさらけ出して「和解」のための積極的な努力がなされなかったことにより、あたかも潰瘍を残したまま傷が癒えたときのような後味の悪い回復しかなされなかったのである。また、学校の歴史教育の場では依然として、〝残虐な日本軍政〟という言説が語り継がれている。その教科書は、改定のたびに感情的な記述からより客観的な記述に移りつつあるものの、まだ基本的な論調は不変である。それは「歴史的事実」として恐らく変わることはないだろう。日本にとって戦後は終わったようであるけれど、インドネシアにとってはまだ終わっていないのである」。

 「まだ終わっていない」から、インドネシア政府は、日本の国連安保理事会の常任理事国入りの決議に際して反対に回ったのであり、「日本ももっと大人になって、歴史から学ぼうという姿勢を持てば」、インドネシアの人びとも政府も「引き続く過去」へのこだわりを捨て、新たな日本との関係を築いていこうとするだろう。「引き続く過去」に無頓着な日本人は、つぎのインドネシア人の警告を重く受けとめなければならないだろう。「今の日本政府があの戦争は崇高なものであり、日本にとって不可欠な戦争だったと考えているなら別だが……。もし日本がそのように考えているのだとすれば、われわれも考え直さなければならない」。もはや、「経済大国の脅し」で、過去を不問にすることはできないことが、本書から伝わってくる。

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2011年11月08日

『兵士たちの戦後史』吉田裕(岩波書店)

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 まず、この困難なテーマを研究する指針となる本を書いた著者、吉田裕に敬意を表し、感謝したい。「兵士たちの戦後史」といっても、兵士は敗戦時に陸海軍あわせて約789万人おり、玉砕した部隊のわずかな生き残りもいれば、「水汲みがたいへんだった」といって「負けた」という実感のない者もいる。それぞれさまざまな戦争体験をし、戦後の生活もさまざまであった。それをまとめて語ることなど、とうていできることではない。いわゆる「戦記もの」だけでも「ごまん(5万?)」とあり、それらをそうとう読みこなす必要がある。数も深さもだ。書いても、自分自身が満足のいかない部分が随所に出てくるだろうし、いろいろな立場で読むであろうさまざまな読者に満足してもらえるものなど書けるわけがない。というようなことは、実際に書いた著者がいちばんよくわかっていることだろう。だから、本書を読むことができる者は、まず著者に敬意を表し、感謝するしかない。

 本書は、戦争体験者が消えゆくなかで、「アジア・太平洋戦争を戦い、そして生き残った元兵士たちの戦後史を記録することを意図して」書かれた。かれらの戦後史にこだわる理由を、著者は2つあげている。「第一には、戦争の時代をより深く理解するためには、その戦争の戦後史を視野に入れる必要があると考えるからである」。「第二には、生き残った兵士たちの様々な営為が、戦後日本の政治文化を社会の奥深いところで規定していると考えられるからである」。

 そして、考察にあたって、つぎの4つの点を留意したいという。「一つは、できる限り、兵士や下士官を中心に彼らの戦後史を跡づけてみたいということである。そのことは将校であった人々の戦後史を重視しないということを全く意味しない」。「もう一つの留意点は、「戦争の記憶」に対する関心のたかまりを背景にして、歴史学や民俗学の分野で、戦死者の「慰霊祭」や戦争記念碑などに対する研究が急速に進展してきたことである」。「三つめは、自身の立ち位置の問題だが、あの戦争に直接のかかわりを持たなかったという「特権者」の高みから、彼らの戦後史を裁断してはならないということである」。「四つめの留意点は、自分自身の心の揺れをどこまで自覚しながら歴史分析を行うことができるかという問題である」。

 本書は、戦後を5章に別け、年代順に日本社会のなかでのかれらの位置づけをしていく。まず、「第一章 敗戦と占領」では、遠く故郷を離れた戦場から復員してきた兵士たちが、「戦争と敗北を、帰還兵たちの責任に帰そう」とする民間人の視線にさらされたことを記述する。その復員兵も、「被害者意識が強く加害者としての自覚が希薄」で、「戦死した戦友への後ろめたさの感覚もこの時点では希薄」であった。この復員兵への冷ややかな視線は、GHQの対日占領政策によって助長されたことを、ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』を参考に、つぎのように述べている。「米軍がアジア・太平洋戦争中から実施していた対日心理作戦では、軍部と国民・天皇との間に「くさびを打ち込む」ことが重視されていた。つまり、米軍は、日本の軍部は、強力な情報統制と情報操作によって、国民だけでなく、天皇をも欺いたのだ、国民もそして天皇自身も、軍部を中心にした軍国主義勢力の犠牲者なのだ、ということを強調することによって、日本を戦争終結の方向に誘導しようとしたのである。この対日心理作戦の手法が対日占領政策にも援用されることによって、すべての責任を軍部に転嫁しようとする国民意識が形成されていくことになる」。

 つぎの「第二章 講和条約の発効」では、1952年のサンフランシスコ講和条約の発効、経済復興とともに、この流れが逆行しだすことを記述する。「靖国神社・護国神社の復権」「軍人恩給の復活」「戦犯の復権」をへて、「旧軍人の結集」がおこなわれ、旧軍人団体は政治圧力団体へと「成長」していく。

 「第三章 高度成長と戦争体験の風化」では、「戦後民主主義」が定着し「戦中派」が社会の中堅となっていくなかで、戦友会や旧軍人団体が発展していくいっぽう、戦争体験の風化が叫ばれるようになり、戦後生まれが成人して「戦無派」世代が登場する過程を追う。

 「第四章 高揚の中の対立と分化(一九七〇年代-一九八〇年代)」では、「戦中派」世代が定年を迎え、戦友会・旧軍人団体の活動が最盛期となり、残された問題を解決しようと「圧力」を強めていくいっぽうで、元兵士個々人が語り始めることを述べる。

 「第五章 終焉の時代へ」では、「旧軍人団体の活動の停滞」「侵略戦争論への反発」「持続する変化」の3節で、総決算をおこなうとともに、自分たちの経験を引き継いでもらう試みが語られている。

 そして、「終章 経験を引き受けるということ」の「経験を持つ意味」で、元兵士たちの戦時・戦後経験が、どのような意味をもっていたのかを問い、つぎの3つにまとめている。「第一には、戦争という行為の悲惨さや虚しさを身をもって体験し、「帝国陸海軍」がいかに非人間的・非合理的な組織であり、深い亀裂の入った分断された組織、つまり構成員間の一体感が欠如した組織であったかを知りぬいた多数の人々がこの社会の中に存在していたこと自体の重みである」。「第二には、彼らが過激なナショナリズムの温床とはならなかったことがあげられる」。「第三には、戦争や戦場の生々しい実態についての無数の記録や証言を、とりわけ下級兵士の記録や証言を彼らが残してくれたことがあげられる」。

 著者は、「あとがき」で「自分史のような著作を書いてしまった」と吐露し、「思春期、青年期の私は、なぜあれほどまで無慈悲に、父親の世代の戦争体験に無関心、無関係を決めこんでいられたのだろうか」と、「自責の念」を告白する。そして、その「自責の念」があったからこそ本書を書くことができ、書き終えて「責めを果たしたような気がする」と達成感を抱いている。つぎの課題は、つぎの世代にどう繋いでいくかのようだ。それは、戦争体験者がいなくなるだけ、より難しい課題になるかもしれない。

 本書を読むと、アジア・太平洋戦争が「総力戦」であったはずなのに、日本人が一致団結していなかったことがわかってくる。ならば、日本の戦後史は、日本人の団結力を強めることに努力した歴史であったということができるかもしれない。いまの「がんばろう! 日本」も、その延長線上にあるのだろうか。

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 第一次世界大戦の記念碑を確認するために、シンガポールに行った。MRT東西線が延びて、終点ジョー・クーン駅から徒歩数分で行くことができるようになったシンガポール・ディスカバリー・センターにも行ってみた。シンガポール軍訓練施設の一角にある体験型テーマパークである。そう、戦争を体験するキッズ向けの「娯楽」施設である。小学低学年に臨場感あふれる戦場シーンを音と光で体験させ(敵は出てこない)、中学生は迷彩服に着替えて射撃のシミュレーション体験をしていた。男子は17歳で徴兵検査を受け、2年間徴兵される。いずれ、女子もといわれている。最近、MRTの地下駅でテロ爆発が起こり、幼い娘が血みどろになって両親を捜す生々しいシーンも加わった。小国シンガポールの国防教育がよくわかる施設だ。フィリピンでは、普通の女子学生がピストルを所持し、毎週射撃訓練に通っている。日本にもこのような施設が必要で国防教育を徹底しなければならない、自分自身と家族を守るために自衛しなければならない、という意識を日本人が高めなければならない状況にはしたくない。しかし、若者の友好交流を推進するためには、交流相手が日本人よりずっと戦争を身近に感じて、幼いころから教育され、訓練していることを知っておく必要はあるだろう。往きの便に、修学旅行の女子高校生が乗っていた。かの女たちのなかに、このことを知っている者がいるのだろうか。

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2011年10月25日

『「大東亜共栄圏」経済史研究』山本有造(名古屋大学出版会)

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 著者、山本有造が選んだ基本的な方法は、「数量経済史的方法」だった。20世紀半ばの経済史で、この方法をとることに疑問をもつ者はいないだろうが、扱う時期が戦争中で、しかも「大東亜共栄圏」と組み合わせるとなれば、話は別である。「大東亜共栄圏」に組み込まれた東南アジアの経済史研究では、これまで数量経済史的方法だけでは充分に把握できず、社会的理解が必要であるとして、社会経済史的方法がとられてきた。「大東亜戦争」期はさらに困難がともない、ましてや広域的な把握となれば、あきらめざるをえないというのが実情だっただろう。この困難さをもっともよくわかっているのは著者自身で、まず「政策史ではなく数量経済史的実証分析」に挑戦した著者に敬意を表したい。そして、「この道はいまようやくその出発点に立っている」という著者とともに、出発点に立てることを喜びたい。

 本書は、「著者の日本植民地帝国研究に関する第3論集に当たる。第1論集『日本植民地経済史研究』は日本帝国の「公式植民地」を取り扱い、第2論集『「満洲国」経済史研究』は「満洲国」を主題とした。そして本書では主に「大東亜共栄圏」をテーマとする」。これらの3論集を通じて、著者が目指したのは、「広義の「日本植民地帝国」における植民地支配の態様を実証的に明らかにすることであった。日本と「植民地・支配地・占領地」の間の支配と被支配の関係、およびその結果としての植民地経済の実態をできるだけ数量データに基づいて描き出すことにあった」。

 本書は、3部全9章からなる。「第Ⅰ部「日本植民地帝国」論は、1895(明治28)年4月下関条約調印から1945(昭和20)年8月ポツダム宣言受諾まで、約50年にわたる「近代植民地帝国」としての「日本帝国」の構造と特質を概観しようとする」。「第Ⅱ部「大東亜共栄圏」論は、「大東亜共栄圏」という概念の形成過程を追った総論的な第4章「「大東亜共栄圏」構想とその構造」を除いて、戦時期「大東亜共栄圏」に関する「国際収支」分析である」。「第Ⅲ部「南方共栄圏」論は「南方圏」に関わるやや補完的な2論文を収める」。

 著者は、「厳しい国家統制の下にありながらハイパー・インフレーションは亢進する戦時経済の実態を明らかにするに当たって、どのような数量データに依存することができるであろうか。「大日本帝国」を中核とし、「満洲国」および中国関内を含む「北方圏」と、ほぼ東南アジア全域を含む「南方圏」とを包含する「大東亜共栄圏」の経済関係を知るためには、どのような数量データを利用するのが良いのであろうか」と問い、つぎのようなことを明らかにした。「国民所得推計の試みも、国際収支推計の資料もなかったわけではない。しかし結局のところ、現在われわれがとりあえず安心して依拠しうる最大の資料は、金額ベースではなく物量ベースの貿易統計ということになった。「大東亜共栄圏」の数量経済史的分析はいまようやく始まり、前途は正しく遼遠というのが実感である」。

 本書は、数量経済史的実証分析に終始しているわけではない。むしろ、その前提となる基礎的研究に力を注いでいる。著者は、第一次世界大戦後、1920年代に一応の完成をみた「公式の日本植民地帝国」が、なぜ「満洲国」で止まらず、「南に肥大した日本帝国」となっていったのかを問い、「「大東亜共栄圏」なるものは、日、満、蒙疆、北支を覆う「自存圏」と、中南支および東南アジアに広がる南方圏の「資源圏」から構成された」と結論した。

 そして、その資源を収奪し、内地へ還送する計画が立てられるが、つぎのようなことも重々承知のうえで、残された数量データを分析することになった。「こうした「計画」が机上の空論からはじき出されたものであること、そして現地での開発と還送に携わる軍に「計画」遂行の意思がなかったことは、その後の多くの証言に明らかである。「彼等は占領地に到る処で手当り次第物資を捕獲した。そして現地で使えるものはくすね、残りを誇らしげに戦利品として還送したのだった。しかもAB船に積まれた物資は宇品や横須賀に揚陸され、治外法権のうちに再び隠匿されその残滓が物動の実績となって企画院に通達されたのである」」。

 それでも、著者は愚直に自分の方法である「まず基礎資料を見つけ出すこと、基礎資料を必要に応じて加工すること、それら資料を最も適当な形で分析すること」を本書でもおこない、「基礎データに何を用いるか、その選択に苦労した」。具体的には、「「国民経済計算」的な枠組みによりつつ、主に国民所得、マクロの生産指数、国際収支に関する数量データを整備し、その解析を行おう」とした。

 これらの作業を通じて、問題点がつぎつぎに出てきたことは、「あとがき」のつぎの文章からもわかる。「本書の骨格が虚弱であることは、すでに「はしがき」でも述べた。前2著の主要な部分をなした「推計作業」の部あるいは「統計資料解題」の部を本書に加えることができなかった。本書第9章を含めた「資料解題」篇が作れなかったことが心残りである。残された時間の問題もあった。しかし、そもそも華中・華南からフィリピン、タイ、ベトナム、マレイ、インドネシアさらにビルマ(ミャンマー)までをも含む「大東亜共栄圏」期の「戦時経済」の実態を数量実証的に把握する最も適切な方法は何か。実のところ、この根幹がまだ分かっていないのかもしれない」。

 本書の特徴は、これまで台湾、朝鮮など「公式植民地」、満洲など「傀儡政権支配地」中心であった日本帝国経済史研究を、戦時の「日本軍占領地」にまで視野を広げたことである。著者が直面した問題が解決できない理由のひとつは、広げた先の東南アジア側の研究が充分であるとはいえないからだ。日本人東南アジア史研究者で、東アジアまで視野を広げて研究できる者は少なく、東南アジア全体と日本との関係だけでも理解が充分であるといえないかもしれない。また、東南アジアの研究者で、日本語文献を読むことができる者はひじょうに限られる。今後の研究の発展は、まず本書をよく理解した日本人東南アジア史研究者が、東南アジアを相対化して研究をすすめ、英語など東南アジアの研究者が理解しやすいように成果を発表することだろう。

 本書を読んで、著者のように実績のある研究者でも、このテーマをひとりで扱うことは難しいことがよくわかった。本書のお蔭で「出発点に立てた」ことに感謝しつつ、いろいろな角度から研究をすすめ、「大東亜共栄圏」とはなんであったかを経済史的に理解したうえで、その影響が東南アジアの人びとやその後の国家建設にどのように及んだのかを考察することが、今後の東南アジア社会経済史研究の発展につながると思った。

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2011年10月18日

『イスラームから見た「世界史」』タミム・アンサーリー著、小沢千重子訳(紀伊國屋書店)

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 著者は、「アフガニスタン出身、サンフランシスコ在住の作家」、「アメリカにおける複数の世界史の教科書の主要執筆者である」。著者は大人になってから気づくのだが、「驚くほどヨーロッパ中心的な歴史叙述で、無神経な人種差別に満ち満ちた」本を最初の愛読書として育ち、10歳のころ住んでいた小さな町を通りかかったトインビーと同席する機会を得、本をプレゼントされるという希有な体験をもつ。

 著者は、本書をつぎのようなものだという。「本書は教科書でも学術書でもない。いうなれば、喫茶店で談笑中に「もう一つ(パラレル)の世界史ってどういうこと?」と聞かれたときに、日常的な言葉で答えたようなものだ」。そして、著者がめざしたのは、「「実際に生じた」出来事を掘り起こすこと」ではなく、「実際に生じたとムスリムたちが思っている出来事を読者に伝えること」だった。「なぜなら、それこそが、ムスリムをこれまで動かしてきた原動力であり、世界史における彼らの役割を理解する手立てとなるからだ」。

 著者は、これまでわたしたちが思ってきた「世界史」とはどういうものか、つぎのように述べた後、「もう一つの世界史」とはどういうものか、説明している。「世界史とは常に、いかにして「私たち」が「現状の状況」に到達したかを物語るものであるがゆえに、そのストーリーは必然的に「私たち」とは誰か、「現在の状況」とは何を意味するのか、によって変わってくる。西洋版の世界史は伝統的に、「現在の状況」を民主的で工業化した(ないしは脱工業化した)文明社会と規定している。アメリカではさらに、世界史は自由と平等という建国の理想の実現に向かい、その結果アメリカが地球を未来に導く超大国(スーパーパワー)として興隆する、と想定されている」。

 それにたいして、「イスラームの歴史には時の流れ全体を「以前」と「以後」に画然と分かつ独自の境界、西洋世界とは異なる境界が存在するからだ。ムスリムにとっての紀元元年は、預言者ムハンマドがマッカからマディーナに移住し、それによってムスリムの共同体が生まれたヒジュラ〔聖遷〕の年である。この共同体は「文明化」という概念を体現するものであり、かかる理想的な共同体を完璧に実現することこそが、歴史を形づくり、その方向を定めてきた原動力だったように思えるのだ」。「ところが、過去数世紀のあいだ、ムスリムは歴史の流れがどこかでねじれてしまったと感じてきた。ムスリム共同体はもはや拡大することはなく、混乱の度を深め、本来進むべき歴史の方向に抗う破壊的な逆流にいつしか呑みこまれてしまった。ムスリムの伝統の継承者として、私たちは勝利ではなく敗北の中に歴史の意味を探ることを余儀なくされ、二つの衝動のあいだで葛藤してきた。歴史の流れに合わせてムスリム独自の「文明化」の概念を変えるべきか、あるいは、それに歴史の流れに合わせるために闘うべきか、と」。「現在、イスラーム社会はムスリム共同体の理想から遠くかけ離れた停滞した状態に置かれている」。

 著者が、現状を充分に認識したうえで「世界史」を物語ろうとしていることは、「後記-日本の読者へ」で2011年5月8日までの状況を把握していることからもよくわかる。否、著者は、現状をよりよく理解するために、「世界史」を物語ろうとしているのかもしれない。現状のイスラームの位置づけを、つぎのように述べている。「西洋が拡大したために、非西洋社会は突然侵入してきた外来の文化に適応することを余儀なくされ、それに伴って世界各地で軋轢(あつれき)と反発が生じた。今日では東洋世界と西世界洋(ママ)[西洋世界]の勢力はほぼ拮抗しつつあり、成長著しい中国は日本と肩を並べる世界有数の強国となった。韓国などの東アジア諸国も急激な発展を遂げて国際経済を牽引している。これは東アジアが西洋化したというより、「西洋」が先導した科学技術の飛躍的な進歩を東アジア社会がその文化的枠組みに取りこんだということだろう。その結果、東洋世界と西洋世界はますます結びつきを深めており、その相互作用の中から両者をともに包摂する世界史の物語が生まれでようとしている」。「とはいえ、世界は西洋と東洋だけで成り立っているのではない。中国とヨーロッパのあいだには、インド北部から中央アジアのステップ地帯にまで広がるミドルワールドが存在している。私たちがイスラーム世界というとき、それはこの広大な地域を指しているのだ。この地域に居住する一群の社会集団は今日にいたるまで西洋流の近代性に異議を申し立て、西洋そのものに敵対してきた」。

 本書で、イスラームの発展の特徴を最もよくあらわしているのは、つぎのようなところだろう。「アッバース朝の貴族たちはこれらの思想におおいに関心を抱いた。ギリシア語、サンスクリット語、中国語、あるいはペルシア語の書物をアラビア語に翻訳できる者は、誰もが高額の報酬で雇われた。プロの翻訳者が各地からバグダードにやって来た。彼らは首都や主要な都市の図書館に、さまざまな言語で著わされた古代の文献のアラビア語版を大量に提供した。いまやムスリムの知識人は史上初めて-たとえば、ギリシアとインドの数学および医学、ペルシアと中国の天文学、さまざまな文化圏の形而上学を-直接比較できるようになったのだ。彼らはこれら古代の思想について、いかにすればそれらを互いに、あるいはイスラームの啓示と調和させられるのか、霊性と理性を関連づけられるのか、宇宙全体を説明しうる単一の枠組みに天と地を組みこめるのか等々を探求しはじめた」。

 本書は、「イスラームから見た」ものであるが、イスラームを過度に美化しているわけではない。たとえば、ジハードについても、歴史的に冷静な目で、つぎのように見ている。「私はしばしばアメリカ在住のリベラルなムスリムが「ジハードとは単に『よい人間になるべく努力すること』を意味するに過ぎない」と述べ、この言葉を暴力と結びつけるのは反ムスリムの偏狭な人間だけだと主張するのを耳にする。だが、彼らは、預言者ムハンマド自身の生涯にまで遡る歴史の過程で、ムスリムにとってジハードが意味してきたものを無視している。ジハードは暴力と無関係だと主張する者は、最初期のムスリムが「ジハード」の名のもとに遂行した戦争について説明しなければならない。初期のムスリムは彼ら独特のジハード観をもっていたが、われわれ現代のムスリムはジハード(と、イスラームのそのほかの諸側面)を全面的に定義しなおせる、と主張したい者は、ムスリムが長い年月をかけて練り上げてきたイスラームの教義と正面から取り組まなければならない」。

 「もう一つの世界史」である本書は、西洋版を意識して書かれた。その本書が日本語に翻訳されると知って、著者は東洋があることに気づいたのだろうが、東洋版「世界史」については知らない。本書も、西洋版と同じく世界性をもった「世界史」ではない。イスラーム世界だけでも、本書で扱ったのはミドルワールドだけで、その全体像は描けていない。17世紀後半まで西洋世界とイスラーム世界のふたつの物語は、交差することはなかった、と著者はいうが、今日、もはやアメリカを含む西洋世界に対峙するだけでは、イスラーム世界は理解できなくなっている。本書の「イスラーム世界」のなかに入っていない東南アジアやサハラ以南のアフリカ、ロシア、中国などのことも考えなければならなくなっている。本書でいう「世界」は、地理的な地球規模という意味ではなく、自分たちの「世界」、自分たちとは違う「世界」の「世界」にすぎない。それを克服するために「世界史」ということばを使わず、「グローバル史」ということばを使う人たちがいる。「世界」ということばを使うのは難しい。

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2011年09月27日

『共生のイスラーム-ロシアの正教徒とムスリム』濱本真実(山川出版社)

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 「シャラポワ」「ラフマニノフ」「ツルゲーネフ」、これらロシアを代表する有名人の姓のなかに、ロシアのイスラーム史が隠されているという。これらの姓には、アラビア語、ペルシア語、テュルク語など、東方起源のことばが含まれている。ただし、このような姓をもつからといって、必ずしも東方の出自であるとは限らないところに、その歴史の複雑さがある。

 本書の目的は、「十九世紀末までのロシアにおけるムスリムと正教徒の、平和的な共生への道のりを明らかにしていく」ことにある。ただし、「本書で中心的にあつかうロシアのムスリムは、現在ロシア連邦に含まれるすべてのムスリム住民ではなく、十六世紀にロシアに併合された沿ヴォルガ・ウラル地方のムスリムに限定」される。この地方では、「宗教弾圧の時代をへながらも、現在にいたるまで、ムスリムとキリスト教徒が共生している」。

 この「ロシアのたった一地域のムスリムの歴史を知ることに何の意味があるのか、といぶかる人」にたいして、著者濱本真実は、つぎのように答えている。「イスラームの歴史全体からみると、四世紀近くにわたってキリスト教徒の支配下におかれた沿ヴォルガ・ウラル地方のムスリムの歴史は、かなり特殊な例なのである」。「このため、沿ヴォルガ・ウラル地方のムスリムの歴史からは、ムスリムとキリスト教徒との、共生に向けた多岐にわたる関係、さらには、キリスト教徒の支配下にあるイスラームの変容など、ほかのムスリム地域の歴史からはうかがい知ることの難しいイスラームの姿が浮かびあがってくる。その意味で、この地方の歴史は、キリスト教徒とムスリムの共生という問題を考えるうえで、格好の素材なのである」。

 そして、著者は第1章に入る前に、つぎのように結んでいる。「この本を読む方々に、筆者がこれまでの研究で感じてきたイスラームという宗教の根強さとロシア・ムスリムのしたたかさ、さらには、このようなムスリム臣民をかかえ込んだロシアの試行錯誤の歴史のおもしろさを味わっていただければ幸いである」。

 本書は、年代順につぎの5章からなる。
 第1章 草原のイスラーム化
 第2章 『カザン史』にみる正教徒とムスリム
 第3章 ムスリムの正教改宗
 第4章 タタール文化復興の時代
 第5章 ムスリム知識人の共生の思想

 「本書の冒頭に掲げた、正教徒支配のもとでのムスリムの正教化とイスラームの保持について」、著者は最後の「真の共生に向けて」で、つぎのように3つにまとめている。「(1)この地のムスリム支配層のかなりの部分が、ロシア政府の硬軟織りまぜた正教化政策のなかで正教徒となる一方で、支配層以外のムスリムの正教化はほとんど進まなかった、(2)このようなムスリム臣民の反応を受けて、ロシア政府はイスラームをロシア帝国の宗教として公的に認め、いったんはムスリムとの全面的な協力関係を築いた、(3)その結果、ムスリムはキリスト教徒の支配という条件を受け入れて、イスラームの教義を柔軟に解釈しながら、ムスリムとしてのアイデンティティを維持するとともに、ロシア帝国の臣民としての意識も涵養(かんよう)していった」。

 そして、本書で扱われなかった20世紀以降の歴史を概観し、「ソ連解体後の現在、多民族・多宗教国家を標榜しつつも、正教会が政治に相当の影響力を有するロシア連邦において、両者の真の共生があらためて問われている」と、結んでいる。

 本書を読んでいると、東中欧のユダヤ人と重なってきた。正教徒の都合のいいように「きたない」ことをやらされ、その結果、富と権力がムスリムに集中すると弾圧する、その繰り返しが、ロシアの正教徒とムスリムとのあいだでもみられた。ソ連解体後、独立をめざして戦っているチェチェンなどで起こっている弾圧も、その歴史的な流れのひとこまなのだろうか。

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2011年09月20日

『帝国崩壊とひとの再移動-引揚げ、送還、そして残留』蘭信三編(勉誠出版)

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 本書は、2つのシンポジウムがもとになっている。ひとつは2009年に北海道開拓記念館との共催で開催された「日本帝国崩壊と人口移動-引揚げ、送還、そして残留」で、もうひとつはその翌年に「引揚げ港・博多を考える集い」という福岡の民間団体とともに開催した「二〇一〇年、いま戦後引揚げを問う-帝国崩壊と戦後東アジア社会」である。後者は、前者のフロアーの樺太からの引揚者の発言「先生たちの研究の話もいいですが、私たち引揚者の話も聞いてください」に刺激されて、体験者の話を中心に編成された。

 本書は、また同じ編者の前著『日本帝国をめぐる人口移動の国際社会学』(不二出版、2008年)の続編でもある。前著が「帝国形成期のひとの移動と再移動を主な対象」としたのにたいして、本書は「帝国崩壊後のひとの移動とその後の社会統合を主な対象」としている。

 本書の概要は、表紙見返しに要領よく、つぎのようにまとめられている。「日本は近代化と同時に帝国化を推進していき、植民地や勢力圏にひとびとが排出されていった。同時に、勢力圏から多くのひとびとが内地に流入、さらに朝鮮から満洲へなど、勢力圏内でも人口の大移動が生じた」。「そして、敗戦による帝国の崩壊によって、劇的な逆流が生じた」。「そのような終戦直後の膨大なひとびとの移動は、単に帝国崩壊によって引き起こされただけでなく、戦後東アジアの地域秩序の形成によっても強く規定されていた」。「その過程で、日本国内における在日朝鮮人という存在がもたらされ、勢力圏に中国残留孤児をはじめとする「日本人残留者」が生み出された。そしてそれは、単にひとびとが「新たな国境」を越えて大量に動いた(あるいは残った)というだけではなく、移動したひとびとが戦後の当該社会にどのように包摂され、あるいは排除されていったのかという社会問題と深く関連していた」。「帝国日本をめぐる人口移動を、いまなお残された「東アジアの課題」として検証する」。

 しかし、編者蘭信三の視野は東アジアに留まらず、地域や時代を超えて、学問的普遍的課題として、帝国日本崩壊後の人口移動と社会の問題を、つぎのようにとらえている。「帝国であったフランスでもピエ・ノワールやアルジェリア引揚者の社会的適応問題はありましたし、近年の続く北アフリカからの移民の社会統合問題は依然として未解決です。また、イギリスにおいても旧植民地出身者の階層や逸脱問題が色濃く残っておりました。そして東西ドイツ統一後のアウスジードラーと呼ばれるロシア在住ドイツ人のドイツへの帰国(移住)後の適応問題は、トルコ人移民の社会統合問題以上に緊急のものとなっています。さらに、一九九〇年代のソ連(帝国)崩壊後の様々な人口移動(イスラエルへの大量移民など)に見られますように、帝国崩壊後の人口移動と社会統合、あるいは脱植民地化と人口移動、社会再編、そして社会統合の問題は、多くの帝国崩壊後の社会に見られるいわば普遍的な課題なのです。このように、グローバル化が進行する今日であっても、第二次世界大戦後や植民地戦争後の帝国の崩壊をめぐる人口移動とその後の社会統合問題は依然として大きな研究課題であるのです」。

 本書は、つぎの4部から構成されている:「朝鮮をめぐるひとの再移動の諸相」「満洲をめぐるひとの再移動の諸相」「沖縄、台湾、南洋をめぐるひとの再移動の諸相」「帝国崩壊後の様々な戦後」。本書でキーとなるのは、前著でも指摘された朝鮮人である。たとえば、第二部の「満洲」でも、日本人開拓団員の話をよく知っている日本人は少なからずいるが、旧満州に居住していた朝鮮人の話を知っている日本人はあまりいない。帝国日本の崩壊とともに、「満洲国臣民」であった朝鮮人は中国東北に定住して「中国朝鮮族」になるか、朝鮮半島へ帰還するかの選択を強いられた。前者は中国内の国民党と共産党との内戦に巻きこまれることを意味し、後者は朝鮮戦争の勃発で前者を巻きこんで複雑な様相を呈した。めまぐるしく変わる限られた情報のなかで、人びとは翻弄され続け、民族の祖国と現実の祖国、階級の祖国とのあいだで苦悩することになった。

 いっぽう、中国に残留した日本人のなかには、日本に居住することができるにもかかわらず、日本を選ばない人びとがいることが紹介されている。その理由は、「日本の年寄りの生活はつまらない、とても単調で、さびしい」ということだった。

 ひとの移動は、自発的なものから強制的なものまで、それぞれさまざまな状況のなかでおこなわれた。そして、その先に自分自身が身を置く社会がある。選びたい社会、選ばれたい社会とは、何なのか。好きで来たわけではないが、居心地をよくするにはどうしたらいいのか。個々の体験が重要な意味をもつことが、本書から伝わってくる。

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2011年09月06日

『「海の道」の三〇〇年-近現代日本の縮図瀬戸内海』武田尚子(河出ブックス)

「海の道」の三〇〇年-近現代日本の縮図瀬戸内海 →bookwebで購入

 本書は、2冊の専門書によって分析・考察、裏付けされたことに基づいて書かれているため、安心して読むことができた。しかも、20年近くに及ぶ地元との交流を背景に、地元目線で書かれているため、人びとの生活の息吹が感じられた。研究で得た成果を、一般書でわかりやすくし、調査で協力してくれた多くの人びとに還元することは、それほどたやすいことではない。著者武田尚子は、本書を執筆・出版して、肩の荷が軽くなった清々しい気分をあじわっているのではないだろうか。それが、さらなる研究への意欲、発展へとつながっていくことだろう。

 本書の内容は、表紙見返しに要領よく、つぎのようにまとめられている。「古来、日本の政治・経済・文化と深く関わり、歴史的蓄積が厚い「海の道」瀬戸内海。漁業、交易、エネルギー輸送……人とモノが活発に行き交い、時代とともに多様な産業が折り重なってゆくその歩みは、まさに日本の近代史・昭和史の縮図と言える。瀬戸内の主要航路に面したある小さな島にスポットをあて、内海での鯛網漁から、西海捕鯨へ、マニラ湾へ、南氷洋捕鯨へと拡がった海の労働の世界、海運・造船業の成長にともなう「海の道」の再編成に揺れる地域社会の姿も活写。丹念なフィールドワークの成果が随所に光る画期作である」。

 本書のねらいについて、著者は「はじめに」でつぎのように述べている。「日本の海の世界に焦点をあて、「海の道」と人々の生活の関わりを描くことである。近世から近現代までを見通した視点で、漁業、商業、工業を通して、人やモノの通り道がどのように作り出され、どのような変化が生じたのか、各産業の要素がどのように連鎖しているのか、近現代社会のどのような側面に海の世界の重層性を見出すことができるのかを描き出してみたい」。

 瀬戸内海は、古代から畿内と北九州、さらに朝鮮半島から中国大陸へとつながっていた。そして、近世の御朱印船は南洋日本人町へ、近代の漁民は領有した台湾や朝鮮だけでなく南洋の漁場へと出て行った。そこには、発展する陸域にあわせるように活躍の場を求めて移動する「海の民」の姿があった。しかし、その活動を封じ込める時代があった。それにたいする対応は、島ごと、集落ごとによって違い、漁民層の分解にはタイムラグが生じた。そして、原子力船の母港の誘致やLPG基地建設計画などがもちあがった。

 その反対運動を通して、著者は「海と島の「根の世界」」を見逃すことなく、「海に生きる集団の「知恵」」を理解した。反対の中心となった集落のひとつ、「箱崎では近世末以来、沿岸漁業集落として生産のしくみが大きく変わることがなかった。漁民集団は労働を通して強い結束力を維持し、先達の知恵を伝承してきた。たとえば、休漁の日は、浜の松林にすわって、年長の青年たちが網の繕い方を年少者に教えた。昼間の漁を終えたあと、夜に「青年クラブ」集会所前の空き地に集まって、網の梳き方を教えることもあった。労働にまつわる「うた」も伝承された。「箱崎大漁節」は、労働の場でも宴会でもうたわれ、みなが心を通わせる潤滑油だった。箱崎では、地域社会と労働が一体となり、労働に縁の深い場で技術や文化が伝承されてきた。そのような文化的資源・社会的資源の存続に深く関わっていたのが青年団である」。

 この「根の世界」の深さに驚嘆したことが、著者が瀬戸内海の小さな島にかかわり続けた理由だった。それを、「あとがき」でつぎのようにまとめている。「この島に起きた出来事は、近世・近現代の日本社会に起きた出来事を凝縮したような密度の濃いものであり、小さな島であるのに、スケールの大きな歴史を刻んできたことに、何度も不思議の念にうたれた。島の浜辺から水平線を見はるかすと、この島をよりどころにして、私の知的好奇心も大海へ広がってゆくように感じた。海の世界に生きた人々の軌跡を探求することの魅力を伝えるべく、三〇〇年を見通すこのような通史を著した」。

 日本の近現代社会が、もうひとつ別の角度から歴史的に浮かびあがってきた。

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2011年08月30日

『地図から消えた島々-幻の日本領と南洋探検隊たち』長谷川亮一(吉川弘文館)

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 本書では、「日本近海のまぼろしの島々について、その〝誕生〟から〝消滅〟までの経緯を追い、それを通して、近代日本の「南進」の一側面を見てゆく」。だが、著者、長谷川亮一は、「あとがき」で、「じつのところ、最初からこのような形でまとめることを意図していたわけではない。当初は、日本近海の幻の島列伝、といった形でまとめようとしたのだが、登場する人物や実在・架空の島々などが複雑に錯綜しているため、それぞれを切り離してしまうとかえってやりにくい。そのため、なるべく時間的な順序に沿う形で話をまとめてみたのである」と述べている。

 本書では、西洋史でいう「大航海時代」に「発見」された日本近海の島々の話からはじめ、近代国家日本が成立していく過程で、「一攫千金を夢見る冒険商人たち」を絡めながら、領域を画定していった様子を描いている。その概略は、つぎのように年代順にまとめられている。「北方の境界が日露和親条約(一八五五年)と樺太・千島交換条約(一八七五年)によりひとまず確定し、一八七六年(明治九)に小笠原群島が日本領となり、一八七九年(明治一二)に琉球国が解体されて沖縄県が設置されたのち、これらの無人島も相次いで日本領に編入されてゆく。一八八五年(明治一八)に北大東島・南大東島、一八九一年(明治二四)に北硫黄島(いおうとう)・硫黄島・南硫黄島、一八九五年(明治二八)に久場島(くばしま)・魚釣島(うおつりしま)(いわゆる尖閣(せんかく)諸島)、一八九八年(明治三一)に南鳥島、一九〇〇年(明治三三)に沖大東島、一九〇五年(明治三八)に竹島、一九三一年(昭和六)に沖ノ鳥島が、それぞれ編入されている」。

 「こうした小島嶼の編入に際しては、民間人の経済活動が大きな役割を果たしていた。「南進」の夢に駆られた民間人の中には、アホウドリの捕獲やリン鉱石の採取などによる一攫千金を狙い、日本近海で適当な無人島を捜して開拓をしようとした者もいる」。かれらの活動は、ハワイ諸島を含むポリネシア、ミクロネシア、メラネシア、さらには現在中国とASEAN諸国とのあいだで問題になっている南中国海の島々にまでおよんだ。

 本書を読むと、竹島や尖閣諸島の帰属問題も基本的なことがわかる。竹島は、日本の圧力が強まる一九〇五年という朝鮮側がなにも言えない状況のときに、日本領に編入された。尖閣諸島は、日本が編入した一八九五年に、国際的に主張できるだけの手続きを踏んでいないことがわかる。本書から、尖閣諸島にかんする経緯を抜き出すとつぎのようになる。

 「一八八〇年一〇月、旧琉球国の西半分、先島諸島(宮古列島と八重山列島)を清朝に割譲し、その代わりに日本は清朝から欧米諸国並みの通商権を得る、という「琉球分島条約案」がいったん妥結された。しかし、亡命琉球人たちは、先島諸島だけでは王国の再建は不可能だ、と激しく反発する。そのせいもあり、清朝側は土壇場になって正式な調印を中止し、この条約はそのまま立ち消えとなってしまった。以後、日清戦争までの間、琉球の帰属問題は、日清間の重大な未解決問題としてくすぶり続ける」。

 一八八五年一〇月、沖縄県は「「魚釣島」「久場島」「久米赤島」の調査を行った。ただし、このときは国標の設置は行われていない。というのも、この時点では、これらの島々が清朝側の冊封使録などにある「釣魚台」「黄尾嶼」「赤尾嶼」と同じものなのかどうかすらはっきりしておらず、仮に同じだとすれば(その通りなのだが)、清朝側が領有権を主張してくる、という可能性が懸念されたからである」。

 日清戦争の帰趨がみえてきた「一八九五年一月一四日になって、第二次伊藤博文内閣は「久場島」と「魚釣島」を沖縄県の所轄とし、標杭を建設することを閣議決定、一月二一日付で奈良原[沖縄県]知事に対して指示を発した」。「再三の沖縄県側からの要求にもかかわらず、日清戦争中のこの時期まで決定が先延ばしになった理由は明らかではない。また、この決定に基づいた標杭建設が行われた、という事実は確認されていない。それどころか、沖縄県が二島を編入することを何らかの形で公示した、という形跡もない。もちろん、他国に対する通告などは一切出されていない」。また、一八九六年三月五日付の勅令で、「尖閣諸島はこのとき八重山郡に編入されたといわれているが、直接そのことを示した文書は発見されていない」。さらに、一九四五年の日本敗戦後に、連合国に占領された日本のなかに「尖閣諸島」が含まれているという記述はなく、沖縄のアメリカ軍による軍政、日本への返還に際しても、「尖閣諸島」のことは明記されていない。

 では、中国側に領有権を主張するだけの充分な根拠があるかといえば、それもなさそうである。一九一二年の中華民国、四九年の中華人民共和国成立時に、なんらかの表明をした形跡はなく、「二〇〇海里経済水域の設置が問題になり、ごく小さな島にまで注目が集まるようになる」七一年になってから、「中国と台湾が、それぞれ公式に釣魚島(尖閣諸島)の領有権を主張しはじめている」。

 著者は、「あとがき」で「こうした問題を考えるにあたって、南鳥島や沖大東島、中ノ鳥島などの事例との比較はぜひとも必要ではないか」と述べている。至極もっともな見解である。また、本書から、存在することを証明するより、存在しないことを証明することのほうが、はるかに難しいことがわかった。地図からなかなか消せないのも、これまた至極もっともなことだと思った。

 領土問題だけでなく、「領土拡大をもくろむ帝国日本」を利用し、「一攫千金を夢見る冒険商人たち」にも注目したい。その冒険商人たちにまんまと騙される役人や政治家たち、その原因は事実確認をおろそかにしたり、できなかったことによる。今日の問題でも、本書のようにより広い視野で客観的に考えることができる基礎研究が、いかに大切かがわかる。事実確認をせずに、政府やマスコミに躍らされて思い込み、判断することだけは避けたい。

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2011年07月26日

『病気の日本近代史-幕末から平成まで』秦郁彦(文藝春秋)

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 軍事史を専門とする著者、秦郁彦の研究には、専門書はもちろんのこと、工具類にもたいへんお世話になった。軍事史を研究していて気になるのは戦場での病気であるが、多くの人文・社会科学系の研究者は、専門知識がないのでまともに扱ってこなかった。著者は、虫垂炎で入院したのをきっかけに、病気と医療の歴史に挑戦した。その結果は、「やや不慣れなジャンルの仕事だけに、多少の緊張と重圧はあったが、最終校正を終えて快い解放感を味わっている」というものだった。

 本書を読み終えて、著者の「快い解放感」の意味がわかった。これまで断片的でしかなかった知識が、まとまりをもって理解できたからである。それも、軍事史研究で確固たる基本ができているからだろう。軍事史からはみ出した部分も、著名人の病歴を語ることによって、より身近に読むことができた。

 本書に登場した主要人物は、医者ではシーボルト、ベルツ、スクリバ、華岡青洲、近藤次繁、森鷗外、高木兼寛、野口英世、青山胤通、北里柴三郎、斎藤茂吉、平山雄、森岡恭彦、大鐘稔彦・・・、患者では明治天皇、和宮、秋山真之、夏目漱石、樋口一葉、島村抱月、松井須磨子、竹久夢二、堀辰雄、大岡昇平、太宰治、城山三郎、吉村昭、芦原将軍、大川周明・・・である。

 第六章までは、近代日本が制圧に挑んだ脚気、伝染病、結核、ガンなどの難病克服の総力戦の軌跡が述べられ、「病魔に立ち向った医師たち、空しく倒れていった病者たちのヒューマン・ドラマに溢れて」いた。医学の偉大さもわかった。だが、最後の「第七章 肺ガンとタバコ」は趣が違った。著者は、喫煙率と肺ガン死亡率の関係をチャート化してみて、「この半世紀ばかり一貫して前者がゆるいカーブで下降しているのに、後者は六〇倍もの急角度で激増している」ことに気づいた。「喫煙率が減れば、肺ガンは減るはずなのになぜ、という疑問に誰も答えてくれない。しかたなく自力で究明して」みた結果が、これまでの理論の虚構性を立証することになった。

 歴史研究者は、結果を知って研究するずるさがある。結果がわかっている第六章までと違って、第七章は著者にとって未知な体験だったのだろう。立証したことで、「アマチュアでも着眼しだいで医学上の争点に寄与しえるとわかった時は、小躍りする思い」をした。「健康過敏症と呼べそうな気分」が広がっている現在、不確かな情報に躍らされる現代人の悲哀も感じる章だった。

 著者が取り組み、7つに絞り込んだ「日本近代史の一角をいろどる大型で手ごわい病気」は、以下の通り各章で議論されている。
 第一章 黎明期の外科手術  本邦初の乳ガン摘出・虫垂切除は?
 第二章 脚気論争と森鷗外  脚気菌から栄養障害説まで
 第三章 伝染病との戦い   黄熱病と野口英世など
 第四章 結核との長期戦   死因第一位から二十七位へ
 第五章 戦病の大量死とマラリア  新顔の栄養失調症
 第六章 狂聖たちの列伝   芦原将軍から大川周明まで
 第七章 肺ガンとタバコ   非喫煙者のガンが増えている

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2011年07月19日

『最後の戦犯死刑囚-西村琢磨中将とある教誨師の記録』中田整一(平凡社新書)

最後の戦犯死刑囚-西村琢磨中将とある教誨師の記録 →bookwebで購入

 1951年6月、赤道直下の現パプアニューギニアのマヌス島で、元近衛師団長の西村琢磨中将は、最後の戦犯死刑囚として絞首刑にされた。身に覚えのない罪状にもかかわらず、「一人でも多くの部下を救うべく」オーストラリアによるBC級戦犯裁判の判決を指揮官として受け入れた。

 本書は、作家角田房子から託された教誨師の手記を軸に、「オーストラリアによる国内世論に配慮した政治的な報復裁判」の不当性を訴えた「鎮魂の書」だ。戦争中に起こった「違法行為」を裁く裁判は、合法的に敗軍の将を処刑する。その異常さを真に知るのは、死刑宣告を受けた戦犯と、その最期を見届けた教誨師だけかもしれない。

 戦争については、時代や社会の要請に従って、さまざまな立場から「正しい歴史」が語られる。敗戦国日本が復興に向けて自信をもつためには、戦争裁判の不当性を訴え、無実の罪で処刑された軍人の潔さを語ることが必要であったように。

 NHKで制作に携わった番組や退局後に執筆した著作で数々の賞を受けた著者は、戦後の世論を率いたひとりといってもいい。本書では、講和を目前にして処刑が行われた背景に、戦後の関係国・人びとの思惑があったことを探り出している。しかし、それを踏まえてなお、戦犯容疑となった事件が東南アジアで起き、大きな傷を残したことは忘れてはならない。

 当時日本が捕虜待遇に関する国際条約を批准していなかったとはいえ、日本軍が無抵抗の捕虜を組織的に殺害したことにたいするオーストラリア人の怒りを受けとめることや、日本軍が東南アジアの華僑を敵性外国人とみなして大量虐殺したことを現地の人びとがどう見ていたのかを理解することも、戦争を知らない世代が諸外国との友好関係を考えるうえで必要である。未来に向けて、日本人にしか通用しない戦争認識から脱却する時期にきている。


 共同通信社の依頼を受けて、以上のような書評を書いた。本書を読みはじめてすぐに、とくに戦争を知らない世代に推薦できるような本ではないと思った。本書は、だれを読者対象として書かれたのだろうか。著者は、NHKに1966年に入局して以来、一貫して同じ視聴者、読者を想定しているのだろうか。「著者紹介」をみると、多数の受賞作が並んでいる。審査員も、著者が想定した視聴者、読者目線で評価したのだろうか。

 東南アジア史を専門に研究している者にとって、戦犯容疑となった事件が東南アジアで起こっているにもかかわらず、戦場とした人びとのことがまったく書かれていないことが不思議でならない。オーストラリアの報復裁判であることが強調され、不当性が訴えられているが、被告となった者が見当外れであったとしても、日本人のだれかを裁かなければ納得がいかないオーストラリア人や東南アジアの人びとがいたことに、思い至らなかったのだろうか。

 いまの学生の戦争認識は、原爆、空襲、沖縄戦といった被害者としてのイメージが強い。戦った相手はアメリカ、中国で、東南アジアが戦場であったという認識はない。それどころか、東南アジアのそれぞれの国の位置や特徴、日本との関係がわかっていない。高校の修学旅行でシンガポールやマレーシアに行っても、英語の語学研修でフィリピンに行っても、戦争のことはまったく知らない。本書で語られている反日感情もまったく知らず、オーストラリア人は親日的だと思っている。そんな戦争を知らない世代が本書を読めば、不当性を訴えるオーストラリア人に不信感を抱き、日本軍人の潔さに共感するだろう。

 本書は、このような若者たちがもつ戦争認識について、まったく念頭になく書かれている。戦争責任も戦後責任もまともにとれなかった世代の知識人が、いまだにこのような「戦記もの」を書くことの意味がわからないのだろうか。過去を検証する自己満足では、戦争の問題を後世に先送りするだけになる。それが、現代の若者をわけもわからずに苦しめることになる。オーストラリア人や東南アジアの人びとは、本書をけっして受け入れないだろう。加害者としての日本を知っているこれらの国や地域の若者とも、対話できない。いま必要なのは、勝ち負けを乗り越えて共通に語ることができる戦争認識である。そのためには、まず日本軍によって被害を受けた人びとのことを念頭におくべきだ。

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2011年06月28日

『インドネシアと日本-桐島正也回想録』倉沢愛子(論創社)

インドネシアと日本-桐島正也回想録 →bookwebで購入

 1960年代のインドネシアと日本との関係といえば、賠償ビジネスをめぐって汚職の噂が飛びかい、かかわった人びとが謎の死を遂げたり、心身に異常をきたしたりしたことが語られ、深田祐介の小説『神鷲(ガルーダ)商人』(新潮社、1986年)の題材にもなった。その主人公富永のモデルとなったのが、本書で回想を語る桐島正也で、深田の暁星小学校の同級生でもある。

 本書は、インドネシア現代史を専門とする著者、倉沢愛子が、1995年以来桐島氏を何度も訪ね、聞き書きしてまとめたものである。著者は、「まえがき」で「この回想録はサクセス・ストーリーではない。かといって苦労を重ねた日本人の苦労話などでは毛頭ない」と述べ、「桐島氏はその人生を気負いもなく淡々と語る」「その何でもない語りの一つひとつに日本とインドネシアの過去五〇年の歴史が生き生きと刻み込まれていて、われわれ歴史を追うものとして興奮を禁じえない」と、その重要性を強調している。

 著者の興奮は、多少なりとも1960年代のインドネシア、そして日本との関係を知っている者にとって、よく理解できる。なぜ、東日貿易や木下商店のような、一般には知られていない小さな商社が賠償ビジネスにからんだのか、東日貿易がジャカルタの独立記念塔の建設や巡礼船の手配などを受注することができたのか、不思議に思う人がいるかもしれない。そして、本書を読んだ人のなかには、「まともな」ビジネスではない、と嫌悪を感じた人がいるかもしれない。いっぽうで、日本の一流商社や企業が、なぜ自分たちで直接せずに、桐島氏を通じてインドネシアで事業を展開したのか疑問に思ったかもしれない。すべて、桐島氏が活躍する1960年からのインドネシアの歴史と、その背景にある社会や文化の理解抜きには、語れないことである。まさに著者は、この回想録をまとめるにあたって最適任者であり、本書がわかりやすいものになったのも著者の力量があってのことだといえる。

 それでも、本書を誤解して読む人がいるだろう。賄賂とコネがないとはじまらないインドネシアという国の「後進性」に嫌気を感じた人もいるだろう。だが、50年にわたってインドネシアの日本人を見てきた桐島氏は、「日本では常識で判断できることを、インドネシアでも常識を持って判断していただけたら幸いである」、「本書は別にインドネシアを一方的に擁護しているわけではない。長年にわたって私が見聞してきた真実だけを」語っているにすぎないという。つまり、インドネシアにはインドネシアの社会的ルールがあり、自分はそのルールに従って、インドネシアに骨を埋める覚悟でインドネシアのためにビジネスを展開してきた、本社での出世を夢見て腰掛けで来ている商社マンとは違う、といいたいのだろう。

 それが、昨今はそのインドネシアの社会的ルールが違ってきていると、つぎのように語っている。「私は半世紀をこの国で生きてきた。スカルノ大統領の時代、スハルト大統領の時代も、そしてその後の時代もすべて見てきた者として言うのだが、今のインドネシアはこれまでで一番ひどいと感じる。経済は一見好景気に見えるが、一皮むけば銀行なども、どれほど大量の不良債権を抱えているか知れたものではない。物価はどんどん上昇する。毎日の食に困る人がたくさんいる一方で、すさまじい腐敗や汚職疑惑が連日のように報道される」。

 そして、昔インドネシアの知人に言われたつぎのことばを、自分が乗り越えることができたかどうか、この回想録を通じて振り返っている。「日本人は、例えればインドネシアという川の底にある砂利だ。それに対し、中国人は苔、白人は岩だ。嵐がくれば、小砂利は全部なくなる。しかし岩と苔は、残る」。「今日、日本とインドネシアの関係は太く、強いものとなり、日本人・インドネシア人を問わず両国の間に立って日々活躍しておられる方々は数知れない。しかしだからこそ、自分たちの関係が互いにとって、嵐の後になお残る苔むす岩になったのか、改めて省みることも無駄ではあるまい」。

 この回想録で何気なく話されていることから、著者は「興奮を禁じえない」ものを感じた。それは、この回想録で語られなかったことを思い浮かべたからだろう。回想者の意図かどうかはわからないが、たとえば日本の政治家の名前は登場しない。それは、まだ日本人としての「自覚」が残っているためかもしれない、あるいは、かつて週刊誌で「スキャンダル」として取りあげられたことに懲りたためかもしれない。いずれにせよ、この回想録から、インドネシアと日本の「常識」が交差した1960年以降の関係を読み取った者は、これまで気にかかっていた「なぞ」が解けて、興奮を禁じえなかったことだろう。

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2011年06月07日

『接続された歴史-インドとヨーロッパ』S・スブラフマニヤム著、三田昌彦・太田信宏訳(名古屋大学出版会)

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 本書は、決して読みやすい本ではない。それをここまで日本人読者のために翻訳し、訳注を付し、「訳者あとがき」を書いてくれたふたりの訳者に、まず感謝したい。

 本書は、「第1章 序論」を含む7章と短い「終章」からなる。それぞれの章は、1冊にまとめられることを想定して書かれたわけではないため、つながりは希薄であるが、これまで別々の視点で書かれた歴史をつなぐという意味で共通している。原題を直訳すると、『接続された歴史の探究-ムガル人とフランク人』で、フランク人Franksは西欧人一般をさしている。

 「第1章 序論-抑制された摩擦の時代のムガルと西欧」を読むと、著者の目的がわかるはずであるが、そう簡単ではない。その理由は、近世インド史を理解するためには、インド亜大陸はもちろんのこと、ムガルと密接な関係にあったペルシャ、新たに進出してきたポルトガルなどの西欧勢力のことも理解しておかなければならない、というだけでもなさそうである。インド史の基礎知識がないうえに、著者特有の難解な言い回しに遭遇すると、頭のなかがさっぱり整理できないまま読み進むことになる。各章の終わりに、「結論」など、まとめがあるのが救いだが、これがまたわかるとは限らない。

 とりあえず、「序論」で著者の目的を記述した部分の一部を抜き出すと、つぎのようになる。

 「私が論じようとしているのは、ある種の東洋的専制のイメージが、「東洋的専制」という用語が生まれる前に、ポルトガルの観察者たちによってつくられ、グジャラート王国、ビジャープル王国、アフマドナガル王国、またのちのムガル朝といったインドのスルタン朝国家に当てはめられていったということである」。

 「本書が概観するいくつかの図式の背景にあるものは、インド洋西部(スィンドとグジャラート)とベンガル湾両方のコンテクストにおけるムガル朝、地域的スルタン朝諸国家、ポルトガル、オランダ、イギリス、フランスの諸関係の展開である」。

 「私が言いたいことは、「事件」の歴史はより大きな「心性」の歴史を対象とする研究において、無視されてはならないということであり、本書で主張したい方法論に関わる論点は、ひとつには、認識がもつ構造的対立と諸形態は、事件という良質の種籾からのみ読み取ることができるということである」。

 「この短い序論を結論づければ、私が論じようとしてきたことは、今日では解釈上の戦略が数多く存在し、そうであるからこそ、本書冒頭で軽く風刺した「斜め読み」の技法の落とし穴をさけつつ、その一方で、著者が表向きは描こうとしている対象に焦点をあてるのではなく、もっぱら著者自身に焦点をあてるたぐいのテクスト分析という罠にもはまらないことは、可能なのだということである」。

 この「序論」を理解しても、以下の章の各論とどう具体的に結びつくのかがよくわからなかったときは、「訳者あとがき」が助けてくれる。まず、著者サンジャイ・スブラフマニヤムの紹介がある。「インド・デリーで生まれた歴史学者」で、「最初の研究課題は、ポルトガルをはじめとする西ヨーロッパ勢力のインド進出と現地インド社会との関係を、もっぱら経済史的視角から分析することであった」。従来の研究の主役がポルトガルであったのにたいして、著者が主役としたのは南インドの政治経済であった。その後、著者の「関心の中心はポルトガルを含む西ヨーロッパ勢力とインドとの交渉の文化的側面へと移行」した。

 本書で、もっとも興味深かったのは、歴史を接続することによって、新たな「近世」像が浮かび上がってきたことである。訳者は、つぎのように説明してくれている。「スブラフマニヤム氏にとって「近世」(一四五〇年頃から一八世紀半ばまで)とは、「様々な地域に住む人々が、相互に隔てられているにもかかわらず、実際に世界規模で生じる出来事の存在を初めて考えられるようになった」(略)時代であった。ユーラシア規模の地域間の影響や相互連関が「近世」以前にはなかったと言っているのではなく、そうした「世界規模の出来事」が明確に人々の意識にのぼるようになったのが、この時代の特質だと考えているのである。だからこそ、氏の近世世界把握においては、地域間交流や「世界規模の出来事」そのもの以上に、それに関わる人々の意識(世界や異文化に対する認識、さらにそこに関わっていこうとする動機や思惑)が問題とされるのであり、そうした人々の意識がまた「世界規模の出来事」を作っていくというのが、著者の考える「近世」の時代的特徴ということになる」。

 インドは、歴史的に西アジア、東南アジア、中央アジア、中国と深く関わっていた。そこにヨーロッパが直接加わって、「近世」世界を作り出したということだろう。そして、中南米から唐辛子が伝わって、今日のインドカレーになった。たしかに、この議論をするのに、インドを中心とするとわかりやすい。ヨーロッパ中心史観をしりぞけ、東南アジアを専門とするリーバーマンやリードが展開する議論を、「近世世界の「地球規模の接続的な性格」を軽視している」、あるいは「東南アジアが「固有の領域」であり「自律性」をもつという点を強調し過ぎている」と批判するのも、うなずける。本書によって、「近世」という時代がますます興味深くなってきたが、ますます勉強しなければならないこともわかった。本書を読むと、わかりやすくしないことも、アバウトな「近世」という時代の研究の一手法だと思えてきた。

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2011年05月24日

『日本の迷走はいつから始まったのか-近代史からみた日本の弱点』小林英夫(小学館新書)

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 歴史叙述は、なんのために語るかによって、その時間と空間の設定が変わってくる。当然、歴史学の研究者は、あるゆる時間と空間の組み合わせを考えたうえで、もっとも効果的に語ることのできるものを選ばなければならない。しかし、現実には、そのようなことができる研究者はいないので、専門とする分野の時間と空間を拡げたり狭めたりして語ることになる。ところが、狭めるのはさほど問題がないのだが、すこし拡げただけで狭い範囲でしか歴史を語ることのできない研究者から、総攻撃を受けることになる。

 専門外に視野を拡げれば、原史料を読むこともなく他人の研究成果に頼ることになり、その参考文献もすべてを読むことはできず、信頼できると思った代表的なものにも正しくない記述があったりする。その結果、わずかな事実の間違いや誤解を招く表現からすべてが信用できないと評価され、こんなことも知らないのかと勉強不足を指摘されて「書く資格がない」と非難される。また、幅広く考えるためにいろいろな見解を紹介すると、主義主張がなく、危険な歴史修正主義者だとまでいわれる。指摘はごもっともなことが多く反論しにくいが、ちょっと考えれば短所より長所のほうが大きいことに、良識ある研究者なら気づくだろう。ましてや、研究者がすくなく、あまり書かれることのない時間と空間の設定で書かれたものは、書くこと自体冒険で、たとえ捨て石になっても、その意義は大きい。

 著者の小林英夫は、そのあたりのことを充分に認識しているので、「おわりに」でつぎのように述べている。「先の見えない現在の状況に対して、文学者や哲学者、文化人類学者などからの発言はあっても、歴史家の発言が見られないのはいかがなものかと思う。昔は「歴史家」がいたが、今は「歴史研究者」しかいないのだろうか。「ほかにできる人はいないでしょう」と言われ、おだてと知りつつも重い腰をあげて執筆に取り掛かったという次第である」。歴史家の「冒険」を妨げている一因は、視野の狭い「歴史研究者」にある。

 本書は、「迷走」する日本の姿を憂い、日本再浮上のカギを日本近現代史のなかに見いだそうと、つぎのように述べている。「現在の未曾有(みぞう)の危機を切り拓く知恵は、日本がこれまで歩んできた近現代の歴史そのもののなかにある。過去の教訓から学んで未来を見つめる、というこの普遍的とも言える解決策以外に、この迷走を離脱する解は見当たらない。本書は、そのために日本近代の歴史を見直そうというものである。しかし、ただ見直すのではなく、現状の国難を克服する方策を求めるには、それなりの方法が必要である」。

 そして、4つの方法を具体的にあげている。「まず第一にそれは、通史であるべきだ。たしかにある特定の問題に関して詳細な研究史はしばしばお目にかかる。しかしここ一〇〇年、二〇〇年を通した歴史書にお目にかかることはまれである。...数人の共著者で描く通史や数冊の連続書で通史というのは、本当の意味で通史ではない。一人の著者がある特定の歴史観に基づいて描いてこそ、初めて通史の名に値するのである」。「第二には世界ルールの推移に焦点を当てる必要があると考える。個別の事象にとらわれてそれに埋没するのではなく、歴史を動かしてきた力を考えるべきだと言い換えてもよい」。「第三は、日本の国家戦略を描き、その強さと弱さを浮き彫りにすることである。明治以来の日本の戦略の基本的特徴は、前述した世界ルールをすばやくキャッチし、時の最強国と結んでその同盟国として東アジアの覇権を確立・拡大していくことだった」。「第四に、二一世紀をいかに生き抜くかを提示することである。国家としては、ハードパワーよりはソフトパワーを重視して複眼的な外交を駆使して世界に貢献していく道を考えていく。人類的課題としては、戦争ではなく共生を基調とした平和を実現するための考え方と筋道を示したい」。

 さらに、本書をわかりやすくするために、つぎのような工夫をしている。「各章の構成は、最初に「この章のねらい」として、その章で何を論じるかを提示した上で、以下の二つに分けて論述した」。「まず、その時代に何があったかを記述するとともに、日本と日本人がどういう選択をしてきたかを述べてその時期の歴史を通覧する。次にそれを前提に、Q&A方式で先に示した本書の課題に即して、現代と未来につながる論点について考察する。これによって、論点を明確にすることができ、未来を切り拓く指針を示すことができたと思う」。

 著者が、「日本再浮上のカギ」としたもののキーワードは、「終章 地球規模の問題に、日本はどう取り組むのか?」の4つの節のタイトルとそれぞれの見出しにあらわれている。「一、世界ルールの動揺と日本の迷走」「世界ルールの現状」「グローバル経済とネットワーク型社会」「取り残される日本」「政治改革の必要性」;「二、地球環境と経済成長」「持続可能な経済成長策を求めて」「環境問題と先進的な日本の施策」「環境対策を通じたアジアへの寄与」;「三、貧困解決の道」「労働の規制緩和が後押ししたワーキング・プアの急増」「子どもの貧困と教育問題」「物づくりの国復活が貧困解決のカギ」「世代力で少子高齢化を乗り切る」;「四、望ましい未来のために」「紛争の危険はどこにあるのか」「攻めないため、攻められないために何が必要か」「二一世紀を生き抜くためのソフトパワー」。

 本書を通読して、近現代日本は、けっこううまくやってきたようにも思ったが、うまくやったと思った後がまずかったとも思った。何度かの危機を乗り越え、繁栄と平和を手に入れたが、それを維持するためには、余裕のあるときにつぎに備えなければならなかった。だが、「過去の成功体験にとらわれ」妙な自信をもって、新たな「世界ルール」にたいして後手後手になっていった。かつての危機は国家として乗り切ることができたが、今日は地球規模で、とくに近隣諸国との共生のなかで問題を克服していかなければならない。そのためには、ソフトパワーを維持・発展させていける人材を、いかに日本が多く育てるかだろう。それは、もう日本人とは限らなくなっている。

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2011年05月10日

『国旗・国歌・国慶-ナショナリズムとシンボルの中国近代史』小野寺史郎(東京大学出版会)

国旗・国歌・国慶-ナショナリズムとシンボルの中国近代史 →bookwebで購入

 ナショナリズムとシンボルとの関係を理解することは、各国の近代国民国家の形成を考察するための基本のひとつであり、どの国でも研究され、その成果は歴史教科書にも載っている。著者、小野寺史郎は、終章をつぎのように書き出している。「近代中国においては、政権の交代ごとにナショナル・シンボルが何度も変更された。したがってナショナル・シンボルの歴史を追うことは、そのまま近代中国の歴史を追うことになる」。しかし、それがこと中国となると、そう容易くないだろう。巨大な土地にさまざまな民族が暮らし、歴史的に中央政権との支配・被支配の関係もさまざまで、建前の支配と実効支配が一致しないこともめずらしいことではなかった。そういうなかで、漢・満・蒙・回・蔵の「五族共和」といっても、同列に統合できるわけがなかった。

 著者は、その困難さを充分に理解しているので、「序章 ナショナリズム研究とシンボルの歴史学」で、用意周到にこれまでの研究状況を説明したうえで、本書の課題についてつぎのように述べている。「近代中国の各時期の政府・政党・知識人などが、ナショナリズムの喚起に儀式やシンボルをどのように利用しようとしたのか。それは具体的にはどのような政策や運動として実行されたのか。人々はそれをどのように認識し、行動したのか」。そして、この10年で個別研究が飛躍的に進歩したにもかかわらず、近代中国のシンボルや儀式をめぐって、包括的な見取り図や枠組みの提示は充分でないとし、「社会文化史に加え、政治史や思想史からの把握を試みる。また、シンボル操作のプロセスに具体的に関与した主体の問題についても重点的に分析を加える」としている。

 本書で扱われたのは、国旗、国歌、国慶日を中心とする記念日体系という限られた対象であったが、考察・分析の結果、近代中国のナショナリズムのいくつかの特徴が浮かび上がり、「終章 ナショナル・シンボルの中国近代史」「第三節 結論」で、つぎのようにまとめられた。まず、「清末の立憲派・革命派を問わず、ことナショナル・シンボルの問題に関してはモデルとされたのは一貫して共和国であるアメリカとフランスであった。民国初年において国旗や革命記念日が非常に重視され、また「共和」や「文明」といった価値が強調されたのはそのためである」。

 つぎに、「政権の交代に際しては、前政権に強固に結びつけられたナショナル・シンボルは廃さざるを得なく」、しかし、かといって「新政権が作り出した新しいナショナル・シンボルも、やはり「伝統」の力を借りて正統化することは」できなかった。「したがってそのナショナル・シンボルを正統化するためには、それを新しい政権の歴史と結びつける言説が再び大量に生産されることとなる。これが近代中国のナショナル・シンボルの政治の特徴と言える」。その言説を展開した知識人たちに共通する特徴として、「彼らが総じて極めて論理的だったという」ことがあげられ、著者はつぎのような見解を述べている。「シンボリズムの政治は本来、論理的な合理性よりもむしろそれが人々の情緒に訴えかけるものであるところにその特徴と影響力の大きさの所以がある」。「しかし、近代中国の知識人たちには、一貫して、個々人の情念に訴えかけるような物語を作り上げるよりも、論理的な説得によって国民に国家を愛させようとする傾向があったように思われる」。

 さらに、近代中国にとって、国家は党と切り離して考えることができないという問題があった。その関係を著者はつぎのように述べている。「北京政府期は言うに及ばず、南京国民政府期においてさえ、党や国家がナショナル・シンボルの解釈を完全に独占することはできなかったということである。党と国家の一体化がその特徴とされる国民政府の下においても、党と国家のシンボルは分離すべきだという議論は一貫して伏在した」。

 そして、つぎのように問いかけて、「終章」を閉じている。「国歌を斉唱することで国家との一体感を得、「国恥」を自らの恥と感じ、国家の象徴する国旗のために死に、それを追悼し記念することでまた別の国民の国家のために死ぬという感情を掻き立てる。近代中国の知識人たちはある意味でこのような国民国家の理念をあまりに生真面目に追求しすぎたとも言える。彼らの「民族教育的FIRST STEP」の行きついた先は、どこだったのだろうか」。

 中国人は、国恥記念日を、たとえば満洲事変は九一八、廬溝橋事件は七七というように、月日で記憶し、その日が近づくと微妙に反応する。その国恥記念日に、日本と関係するものが多い。国旗、国歌についても、日本と無縁ではない。そう考えると、近代中国のナショナル・シンボルの歴史を知ることは、日本人にとって重要なことになる。「反日」の原点を知ることによって、今後の友好関係にいかせるからである。また、現在まで続く中国・台湾のナショナル・シンボルの問題は、「ひとつの中国」を考える基本でもある。

 本書を読んで、いかに「包括的な見取り図や枠組を提示」することが難しいテーマであるかがわかったが、もうすこしわかりやすく整理してくれると理解しやすくなっただろう。

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2011年05月03日

『「昭和」を生きた台湾青年-日本に亡命した台湾独立運動者の回想1924▶1949』王育徳(草思社)

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 「日本は台湾住民の生活水準を本国と同程度に引き上げ、いずれは同化することを目的として、世界のどこよりも良い植民地経営を目指したのである。このため、台湾は行政体制から経済、治安、衛生、教育のあらゆる面で近代化の恩恵を受けることとなった」。著者の次女で編集協力者である近藤明理は、自伝に先立つ「「昭和」以前の台湾」の説明の最後で、このように書いている。この「親日」一家の想いを、わたしたち日本人は大切にしなければならない。だが、現実は違っていただろう。もし、仮に「世界のどこよりも良い植民地経営」を日本が目指したのであれば、それは日本人に帰するものではなく、台湾の人びとの犠牲と努力に帰するものだろう。

 日清戦争後の1895年の下関条約で台湾は日本に割譲されたが、それを阻止する運動が台湾民主国樹立など各地で展開され、多くの犠牲者を出した。台湾民主国は数ヶ月で消滅したが、その後も抗日運動は続き、日本軍側にも多くの犠牲者が出たことから、日本は旧慣尊重政策をとらざるをえなかった。中国大陸進出への足がかりとしての朝鮮半島とは違い、その先のフィリピンなど南方への進出が具体的にならなかっただけに、台湾では「寛大な」植民地経営がおこなわれた。そして、戦後の1945年10月に進駐してきた中国兵は、大陸での混乱が続くなかで、まともに台湾を統治するだけの体制がとれなかった。中国国民党への期待が大きかっただけに、台湾の人びとの失望も大きかった。また、フィリピンと沖縄が戦場となって多くの犠牲者を出したのにたいして、そのあいだにあった台湾は直接戦場にはならず、日本が負けたという印象もそれほど強くなかった。植民地支配50年を経た台湾では、初期の抗日を知る者も少なくなり、「親日」になる条件が揃っていた。

 本書は、日本の植民地統治がはじまって30年近くになって、「台南市に生まれ、日本教育を受けて育った台湾人である」王育徳(1924-85)の回想記である。当時「台南では日本の社会制度のなかに、清(しん)朝風の文化、風俗がまだ色濃く残っていた。その様子を、自分の体験をとおして書き残しておこうと、著者が四十一歳の頃に書いたのが、この回想記である。著者の幼少期から台湾を脱出する二十五歳までの回想であるが、当時の台湾独特の文化が詳しく描かれ、一つの貴重な記録ともなっている」。

 この回想記は、「著者が他界した数年後、東京外国語大学アジアアフリカ言語文化研究所に「王育徳文庫」が設置されることになり、そのために蔵書と遺稿を整理していた際に発見された」。日本語の原著より先に、中文に翻訳され、2002年に台湾で出版された王育徳全集第15巻に『王育徳自伝』としておさめられた。

 台湾独立派の著者は、進駐してきた中国兵のことを、つぎのように書いているが、それを読んで、わたしは1942年初にアメリカ合州国の植民地であったフィリピンのマニラに進駐してきた日本兵のことを思い出していた。「いずれも、よれよれの軍服を着て、その軍服も色や型がまちまちであった。老兵もいれば少年兵もいた。日本軍も戦争末期になると、兵隊の体格は貧弱になったが、中国軍はそれ以上に貧弱であった」。「大正公園の天主教会堂の白壁は、奈良の古寺を思わせる情緒のある壁だと感心して見ていたのだが、そこに一文字が一メートル四方もある大きな字で、スローガンが書かれたのには驚いた。この人たちは、文化ということが何もわからないのだなと思った」。「そのうち、中国兵があちこちで物を強奪する、台北では中国兵による強姦が頻発しているらしいという噂がささやかれるようになった」。フィリピン人は、スペイン人やアメリカ人より日本兵を「貧弱」と見、文化的教養がないと思った。そのことが日本占領期のフィリピンでの抵抗運動に結びつき、そのように見られた日本兵による虐殺事件へとつながっていった。

 国民党政府の軍隊によって3万人が虐殺されたといわれる1947年の二二八事件あるいは「三月大虐殺」で、最愛の兄を失った著者は、49年に日本に亡命し、翌年東京大学に再入学(最初の入学は1943年)して研究者の道を進むとともに、台湾独立運動に尽力し、また台湾人元日本兵士の戦後補償問題の解決に奔走した。後者は2万8000人の台湾人が200万円の弔慰金を受け取ることで実現したが、前者の台湾独立はいまだに達成されていない。編集協力者は、「なぜ植民地統治されたのに、台湾には親日的な人が多いの?」、「台湾は中国の一部じゃないって本当?」と、「よく聞かれるそういう疑問に対する答えも、読後に感じとっていただけること」を願っている。

 学問的には、本書を東アジア世界や帝国日本のなかで、どのように読むかが課題だろう。台湾の近現代史は、日本や中国本土だけでなく、朝鮮半島や南洋とよばれた東南アジアなどともかかわっている。台湾で視野を広げた研究が進むと、日本や中国との関係史もまた新たな視点が生まれてくるだろう。

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2011年04月26日

『表象の傷-第一次世界大戦からみるフランス文学史』久保昭博(人文書院)

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 音楽史、美術史とみてきて、著者、久保昭博の文学史の見方も変わってきた。それは、本シリーズ「レクチャー 第一次世界大戦を考える」の既刊だけではなく、2007年から4年間にわたって、月2回ペースで研究会を続けている共同研究の成果でもある。どのように変わったか、著者は、「あとがき」で以下のように述べている。

 「最初はひとつの世代のタブローを描こう」とし、それによって「大戦が生み出したとされる「現代性」にアプローチすることができ」、「ひいては通常ほとんど一緒に論じられることのない作家を関連づけることによって、二〇世紀のフランス文学史を新たな角度から理解する視座を得ることができるのではないか」と目論んだ。

 しかし、研究会で議論を重ねていくうちに、その目論見に疑問を抱くようになったことを、つぎのように吐露している。「私の見方はあまりに「戦後」を意識したものであり、怒れる若者とか科学と進歩への幻滅とか不信の時代のニヒリズムとかいった、いわゆるロスト・ジェネレーション的な紋切り型に影響されすぎているのではないか。これではかえって大戦の実態を見失いかねない。あるいは大戦が作家たちの精神に深い刻印を残したとして、その影響は、必ずしも戦争を主題にした作品のなかにのみ現れるわけではない。ほんとうに重要なことは、作家が戦時の経験を内面化したあとで、一見それとわからないようなかたちで現れるのではないか。考えてみれば当たり前のことかもしれないが、音楽史や美術史同様、文学史においても、重要な出来事は戦争の前か後に起きているのである。芸術史において大戦を扱うことが難しい理由の一端はそこにある」。

 「ではいったい、文学史において大戦はどこにあるのだろうか。それを理解するためには、まずはやはり、芸術的には不毛の時代と言われる戦時中の状況に正面から向き合い、そのとき何が起こっていたのかを明らかにする必要があるだろう。そう考えて本書の構成を練り直した。ただし、いわゆる戦争文学論にはしたくなかった。あくまで文学的な感性や、文学をとりまく社会的な条件が、戦争によってどのような変化を被り、その状況に作家たちはどのように向き合ったのかという点に狙いを定めたかったからだ。別の言い方をすれば、文学にとって大戦とは何だったのかという問いと、大戦にとって文学とは何だったのかという問いが交差する点に焦点を当てたかった。このように当初の目論見を軌道修正してゆくなかで出会ったのが、歴史学で提唱された「戦争文化」という考え方であり、それを自分なりに解釈して書かれたのが本書である」。

 20世紀のフランス文学史では、同時代のフランス人作家たちは、第一次世界大戦を「断絶」の経験として受けとめ、新たな時代の決定的な刻印を見いだした、と理解されてきた。しかし、著者は、「開戦から百年となる年を数年後に控え、大戦の歴史的な意義について考えようとしている私たちが、この「断絶」を振り返り、そこに二〇世紀文学の決定的な出発点を認めることはできない」という。それは、つぎのような理由による。「政治史や社会史の観点からは、一九世紀の延長線上にあるベル・エポックに暴力的な終止符を打ち、新たな時代を開いた出来事と考えられる大戦も、文学史においては、その数年前から始まっていた芸術的革新の「疾風怒濤の時代」を終わらせ、芸術の流れを一転して退行に向かわせた出来事となる。...(略)...。事実、大戦に先立つ数年間の芸術的成果には目覚ましいものがある」。そして、その概念は、「外交史、軍事史に重点がおかれた従来の大戦研究を見直し、文化史の観点から、戦争の時代を生きた人々の心性に迫ろうとした歴史研究者たちによって、一九九〇年代に提唱された」ものであった。

 本書は6章からなる。「第1章 戦争への期待-大戦前夜の文学状況から」では、戦争待望論と結びついた戦争文化の予兆を論じ、「第2章 総動員体制下の文学」では「開戦当初に吹き荒れた愛国主義的風潮について概観する」。そして、「戦場を経験した作家によって書かれたルポルタージュ的な戦争文学」から戦時中の文学状況を、「第3章 戦争を書く-アンリ・バルビュス『砲火』をめぐって」「第4章 モダニズムの試練」で考察する。さらに、「第5章 文学の動員解除」で、「戦争直後の文学者や知識人たちが直面せねばならなかった」「動員された文化の状態をどのように解消し、戦争文化を終わらせるかという問題」を扱う。最後に、「第6章 言語の不信-ブリス・パラン『人間の悲惨についての試論』をめぐって」で、「それまでの議論を踏まえた上で、戦争と戦争文化が文学にもたらしたものについて考察する」。

 この共同研究「第一次世界大戦の総合的研究」のように開かれた研究会は、そのときどきの報告者やテーマによって、出席者の顔ぶれが大きく変わる。しかし、そこにはほぼ皆勤のコアとなるメンバーがいる。著者は、そのメンバーのひとりである。「総合的研究」とは、たんなる個々の研究者の成果の寄せ集めではない。個々の研究者が総合的にひとつのテーマを理解したうえで、自分自身の研究を相対化して、そのテーマのなかに位置づけ、議論のなかでその位置を確認しながら、研究をすすめていく、そういうことだろう。したがって、その成果は、多様でありながら、なにかしら統一されたものを感じさせるものになる。はじめ自分の専門であるフランス文学史を深めるために共同研究を手がかりにしようと目論んだ著者は、やがて個々の研究にとって共同研究とはなにか、共同研究にとって個々の研究とはなにかという問いが交差する点に焦点を当てて、自分の研究を考えるようになったのだろう。さらに、見直した外交史や軍事史、政治史や社会史の観点とどう交差させるかが、今後の課題となろう。本書から、2014年に世に問う共同研究の最終的な成果の一端がみえてきたような気がした。

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2011年04月19日

『葛藤する形態-第一次世界大戦と美術』河本真理(人文書院)

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 本書を読んで、あらためて芸術のもつ奥深さを感じた。だが、時間も空間も、あらゆるものを超えて、作品に込められたメッセージを読むことは、それほど簡単ではない。それだけに、著者のような優れた「翻訳者」がいると助かる。

 著者が本書で語ろうとしていることは、「はじめに」の終わりで、つぎのようにまとめられている。「本書では、第一次大戦と美術の関わりを論じるにあたって、直接的な戦争画だけではなく、第一次大戦前後の美術の諸相とその背景をも含めて幅広く考察していきたい。というのも、往々にして、戦争の破壊が絵画や言語の統一性やシンタックス(構文・構造)を解体した、あるいは既成の美術の概念を揺さぶったと言われることが多いが、そうした傾向はすでに戦前のモダニズム(キュビスム・未来派・表現主義……)に現われていたからである。戦前からの継続と断絶が交錯する第一次大戦期は、「~イズム(~主義、~派)」の次は「~イズム」といった線状の歴史ではなく、前線と銃後で、相反する様々な美術の傾向が同時に噴出した時代であった」。

 「全体戦争である第一次大戦は、同時に世界の経験を断片化していくものでもあり、「断片化」による喪失を埋め合わせる「綜合芸術作品(略)」の理念が重要となっていく」。「そういう訳で、本書では、断片化と綜合という、相反する極の間を絶え間なく揺れ動く、第一次大戦前後の美術の諸相を照射することによって、第一次大戦が美術に対して持ち得た意味を探っていきたい」。

 本書は、それぞれ10頁ほどの短い2章(「第1章 モダニズムと来(きた)る戦争」「第2章 視角媒体(メディア)とプロパガンダ」)の後、長い2章の「第3章 芸術家と戦場体験」(66頁)と「第4章 戦中戦後の美術の万華鏡(カレイドスコープ)」(50頁)へと続く。

 第3章では、「戦場体験が芸術家たちにどのような影響を与えてきたのか、芸術家たちはそうした体験を踏まえ、戦争をどのように表象してきたのかを、個々の事例に沿って」みている。その結果、「戦争を瞬時に記録することのできる媒体として登場した写真」にたいして、著者は「絵画(または彫刻)の場合、写真と異なるのは、(一)時間性-戦場体験を内的に咀嚼するためにある程度の時間が必要とされる、(二)造形的綜合-戦争画は、単に戦場の光景を写した「逸話」や「記録」ではなく、「解釈」によって「綜合」されたものである、という点である」とまとめている。

 そして、第4章では、「戦中戦後に同時に噴出した様々な美術の動向-「秩序への回帰」・ダダ・抽象美術・「綜合芸術作品」-を見ていく」。その結果、「こうした多岐にわたる「綜合芸術作品」には、二つの起源があると考えられる」とした。「一つは、フランス革命とドイツ・ロマン主義以降、芸術家が社会から切り離されることと引き換えに得られた、芸術の自律性である。芸術家は、教会や国家の庇護から離れて自由な個人に還元され、この結果、芸術がそれぞれの分野に細分化・特殊化されることになった。しかし、この自由の代償は大きく、芸術家はもはや世界を全体的に把握することができなくなったのである」。「第二の起源は、ギリシア悲劇で」、「神話的形象に民族ごと一体化することによって、民族としてのアイデンティティを確立した」。

 そして、本書全体を「おわりに」の冒頭で、つぎのようにまとめている。「戦争に明け暮れていたにもかかわらず、この時期は美術にとって決して不毛な時代ではなく、前線と銃後で、相反する様々な美術の傾向が同時に噴出したのである。その中には、戦前のモダニズムから継続していたものもあれば、この大戦によって文字通り絶たれ、断絶を余儀なくされたものも少なくない。いずれにせよ、大量の破壊と殺戮をもたらした第一次大戦が、人間の文明に対して突きつけた根本的な不信は、意識するとせざるとにかかわらず、その後の美術の底流をなすようになったように思われる」。

 本書が簡単に書けたわけではないことは、門外漢のわたしのもよくわかった。「はじめに」は、「第一次世界大戦のただ中に描いた」ドイツ人画家ベックマンの看護師としての自画像の説明からはじまる。表紙になっているカラーの油彩画を見ながら読むと、「ベックマンの左耳が、ハイライトを施されてくっきりと描かれていることから、画面の外で起こっている何かに耳を澄ましているようにも見える」という説明が理解できた。しかし、前の頁にある白黒の自画像をみても、その説明はわからなかった。その後、白黒で縮小された絵画から、著者の苦心の説明にもかかわらず、イメージしやすい専門家ならわかるのだろうが、わたしにはよくわからないことがあった。美術の専門書ではなく、また限られた枚数のなかで、わたしのような者にわからせることは並大抵ではない。

 本書で取りあげた画家が激動の時代の前後になにを描こうとしていたのか、それは新しい媒体として写真と映画が登場したことと無縁ではない。「現代戦争をいかに表象するか、あるいは現代戦争はなお表象可能なのかという先鋭な問題が、芸術家に突きつけられ」、「古い」媒体としての絵画を通して、芸術家はそれに答えなければならなかったのだ。新しい時代の到来に悩み、活路を見いだそうとしていた芸術家の姿が、わたしにもすこし見えてきた。

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2011年04月12日

『東京裁判-性暴力関係資料』吉見義明監修、内海愛子・宇田川幸大・高橋茂人・土野瑞穂編(現代史料出版)

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 「本資料集は、極東国際軍事裁判(以下東京裁判と称す)において、国際検察局(International Prosecution Section, IPS と略)が、日本軍の戦争犯罪を立証するために準備した証拠書類(公文書、宣誓供述書、尋問調書、未提出証拠)中から、性暴力関係の事項を含む関係資料を収集し、編集したものである」。監修者同様、まず「本当に根気のいるこの仕事」をおこなった4人の編者の「多大なご努力に感謝したい」。

 本資料は、2000年12月に東京で開催された「日本軍性奴隷制」を裁く「女性国際戦犯法廷」をきっかけに集められた。この「法的拘束力をもたない市民による「法廷」」は、「裁きによる被害者の尊厳回復」「裁きなくして和解なし」の理念のもとに開かれ、被害者をはじめ世界から多くの市民が参加した。だが、編者のひとりである内海愛子は、「「法廷」を準備する過程で、東京裁判・BC級戦犯裁判が性暴力をどのように裁いたのか、先行研究を渉猟したがほとんど研究」がないことに気づいた。

 「女性国際戦犯法廷」の冒頭で、検事役を務めたセラーズは、「この「法廷」は東京裁判の再審理である」と述べた。そのため、東京裁判で「性暴力にかんする審理過程の調査を行わなければ」ならなくなり、東京裁判の「『速記録』を読み、書証を調べ、資料リストの作成に取り組みはじめた」。しかし、そのリストは「法廷」に間にあわなかった。そして、10年後「改めて東京裁判が性暴力をどのように裁いたのか、法廷に提出された書証と証言をまとめた」のが、本資料集である。

 資料集の問題として、内海は「あとがきにかえて」で、つぎのように述べている。「中国やフィリピンの検事は、自国民への戦争犯罪の追求に力を注ぎ、住民虐殺や性暴力に関連した多くの書証を提出している。オランダやオーストラリアやイギリスやフランスの検事も、捕虜や民間抑留者など、自国民への戦争犯罪を追求していた。法廷審理の東南アジア段階では欧米植民地統治下の住民にたいする日本軍の戦争犯罪の書証も数は多くはないが、提出されている。だが、検察が追求しきれなかった戦争犯罪も多い。性暴力に関連する書証はリストにあるように中国、フィリピン段階に比して東南アジア段階の証拠数は少ない。これはフィリピン以外の東南アジアで性暴力が少なかったことではない。検察が追求しきれなかった、あるいは十分に取りあげきれなかった戦争犯罪の一つに、これら植民地住民の被害があったのではないのか。「慰安所制度」についてもオランダ人女性が被害を受けた「スマラン慰安所」事件などの書証は提出されているが、インドネシア人女性が被害を受けた事件についてはほとんど取りあげられていない。また、朝鮮人女性がいた「慰安所」に関する書証はまったくない。植民地支配が審理の対象からはずされたこととも関連して、朝鮮人、台湾人女性への性暴力は、東京裁判では審理されていない。資料リストはそのことを示している」。

 本資料集には、編者4名による「東京裁判と性暴力-解説にかえて-」が付されている。その目的は、つぎのように説明された。「先行研究の問題点をふまえ①弁護側文書に含まれる性暴力関係記述も含めて審理過程の検討を行うこと、②東京裁判の全審理過程を検討対象とし、法廷が日本軍の性暴力をどこまで裁いたのかを明確化すること、③性暴力関係事件を残虐行為に関する証拠全体の中に位置づけ検討することの三つを重視しつつ、日本軍の性暴力が東京裁判において如何に認識され、裁定を下されたのかを明らかにすることとした」。

 そして、つぎのように結んだ。「元日本軍「慰安婦」による告発と責任者処罰の動きを受けて、性暴力が東京裁判でどのように審理されたのか、「法廷」を準備の過程で検証する試みが始まった。本資料集の作成もこの「法廷」準備の過程で始まった作業である。それまで「東京裁判と性暴力」が研究課題とならなかった背景として、戦争責任研究におけるジェンダー視点の弱さも指摘された。現在、こうした視点からの戦争犯罪研究も進んでいる。戦時性暴力の実態解明、なかでも日本軍「慰安婦」問題に関するものでは、日本軍「慰安婦」の歴史的展開過程や政策としての日本軍「慰安婦」制度の構築・展開における日本国家の指揮命令系統、また植民地や占領地での日本軍「慰安婦」制度の実態、軍隊の構造と兵士の男性性に着目した、「軍隊と性暴力」に関する研究などがある。また、「戦犯裁判と性暴力」の視点からは、ニュルンベルク裁判など各戦犯裁判における性暴力の位置付けが明らかにされた。近年、研究はさらに進み、現代の軍隊と性暴力、特に朝鮮半島における性暴力に関する共同研究も行われている。ここに紹介しきれない多岐にわたる研究が、研究者だけでなく活動家、弁護士、ジャーナリストらによっても取り組まれている。本資料集も、日本軍「慰安婦」問題が提起した新たな視点のもとで、東京裁判を問い直す試みの一環として編さんされたものである」。

 関係者がつぎつぎと他界していくなか、東京裁判自体が裁かれる対象になってきている。そこで裁かれるのは、日本の戦争犯罪だけでなく、近代の戦争そのものであろう。その近代の男性性に眼を向ければ、ジェンダーが近代の戦争犯罪を裁く有効な視点になる。だが、近代は女性を一人前の「人間」として扱わなかったがために、残された資料は少ない。それだけに、本資料集はひじょうに重要なものになる。改めて、利用しやすくまとめてくれたことに感謝したい。

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2011年04月05日

『歴史語りの人類学-複数の過去を生きるインドネシア東部の小地域社会』山口裕子(世界思想社)

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 実証的文献史学を中心とする近代歴史学は、国民国家の制度や文化の形成・発展に寄与し、国民意識を高めるのに貢献した。つまり、近代の歴史叙述は、おもに国民を読者対象とした。したがって、世界史は各国史の寄せ集めで、たとえば山川出版社の「世界各国史」(32巻、1954-92年;新版28巻、1998-2009年)は、「政治史を軸に、社会・経済・文化にも着目した」。しかし、このような時代遅れのシリーズの考えでは、「世界を知ろう 21世紀へ」という謳い文句とは真逆に、21世紀の世界に対応できなくなっている(ただし、各巻においては、21世紀に立派に通用する優れたものが多々ある)。

 このような近代の歴史観から解放されるためには、文献ではわからない歴史観を知る必要がある。それを教えてくれるのは、歴史学だけでなく人類学や社会学、表現文化学、地域研究など、人びとの営みを主体に研究している人たちである。本書もそのひとつで、実証的文献史学ではけっしてわからない歴史と人びとのつながりを教えてくれる。そして、そのことは国民国家形成の邪魔をするような歴史を語ることが憚られた時代から解放されて、人びとが国民以外のさまざまな読者を対象として歴史を語り出したことを示している。

 本書の研究対象の中心であるブトン島は、インドネシア東部スラウェシ島南東沖にある。著者、山口裕子は、インドネシア国史のなかでもほとんど語られることのない、この島や王国に関心をもった理由を、つぎのように語っている。「今日のブトン社会に赴き、一歩踏み込んで人々の暮らしを見れば、そこには人々の生活に「歴史」が実に多様な形で織り込まれている。その意味でブトンは「歴史の豊かな」島である。人々は「歴史」を語り、さまざまに表象するのみではない。その「歴史」は人々の社会生活に浸透しており、人々はむしろ「歴史を日常的に生きている」」。

 「本書は、人々が語る「歴史」と、それを語る人々の「現在」の双方に着目し、そのいずれもが対照的なブトン島の二つの村落社会を対象に、日常、非日常の社会生活と不可分な「歴史語り」を社会人類学的に記述、分析する民族誌である。そのうえで、「歴史語り」と、外部の一次資料にもとづくブトン王国史を比較考察するとともに、語り手の現在のアイデンティティの政治をブトン地域の近現代の政治史と関連させて探求する。それにより、実証主義対相対主義という、歴史をめぐる近年の理論的な対立を昇華する方法を提示し、さらに実証主義でも相対主義でも十分に説明できない、人々が現に生きる社会生活において、「歴史」を語り表現することの多元的な意味を明らかにしようとするものである」。

 本書は、「歴史語りの人類学」を目指す民族誌であり、そのためにつぎのような考察と分析をおこなっている。「ブトン社会における歴史語りを、語られた出来事が属する「過去」と、それを語る人々の「現在」のいずれか一方に還元することなく、時間的にも空間的にも決して一元的ではないコンテクストにできる限り適切に位置づけながら考察していく。その結果として、本書で援用する方法は、よく整理された方法論の観点からは、折衷的で不十分に見えるかもしれない。だがそれは、理論的思考を優先させるのではなく、歴史語りの資料がしめす多元的で複合的な、なおかつ微細なほころびにできる限り忠実に、それぞれにふさわしいと思われる方法を模索した結果である。これらの考察によって全体として、今日の[ブトンの]ウォリオ人とワブラ人の生そのもの、多元的で豊かな歴史語りの実践をその一部とする人々の生そのものを記述し分析する」。

 著者は、「もっとも重要なことと、真実は書かれる必要がない」という歴史語りと、欧文の一次史料を中心とする外部資料との間のほころびに注目し、「西洋近代的な「歴史学」が想定するのとは完全に一致しない別の「真実」の在り方が存在すること」を示した。そして、つぎのように結論づけた。「ウォリオ社会においてもワブラ社会においても、歴史語りは、不変の過去の歴史の単なる再現(表象)ではない。また語り手による完全にフリーハンドの創造物や単なるメッセージの乗り物であるだけでもない。本書では、その出発点においては人類学的歴史研究を援用してきた。だがそれによって到達したのは、「洗練された実証主義」でも「より相対主義的な分析」でも十分には説明できない、「歴史」が単に生活のなかで語られるというよりは、「歴史語り」が人々の生活の時空間のなかで生きられているともいえる、彼らの生の在り方そのものであった。本書で試みてきたのは、そのような「歴史」と「歴史語り」を一部とする、ウォリオとワブラという小規模社会の社会生活の記述と分析の民族誌、つまり「歴史語りの人類学」の実践である」。

 日本でも、地方の伝承に基づく「歴史語り」による町おこしや歴史大河ドラマなどの時代劇に、実証主義的な史実を求めたりはしない。山に入ると、前近代の立派な石垣や古墳群の出現に驚かされることがある。それらは、現代の生の在り方と、どう結びついているのだろうか。著者は、日本ではあまりみられない、「歴史語り」と地方社会との関係、さらに国家、時代との関係を探ろうとしている。歴史学が注目してこなかった視点に立って、歴史が人びとの日常生活のなかに、どのように潜り込んでいるかを考察・分析している。本書のような新たな見方から学ぶことによって、歴史学は近代から解放され、人びとの生活にとっての歴史の存在意味がわかってくるのだが、・・・。

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2011年04月01日

『都市の歴史的形成と文化創造力』大阪市立大学都市文化研究センター編(清文堂)

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 今日は、4月1日である。多少のおふざけは許されるようだが、悪い冗談はやめたほうがいい。これから書くことは冗談ではないのだが、人によっては「悪い冗談はやめてくれ!」と歴史教育に不信を感じる人がいるかもしれない。すくなくとも、教科書に書かれていることを「真実の歴史」と信じて疑わずに勉強している生徒には知られたくない、と思う高等学校の先生はいるだろう。

 本書には、拙稿「イギリス東インド会社「マカッサル商館文書」(1613-67年)の読み方」が含まれている。拙稿は、別に報告書として出した同商館文書の翻刻(Trial Edition)の解説でもある。マカッサルは、現在のインドネシア共和国スラウェシ(セレベス)島南部の中心都市で、東には現地でマルク諸島とよばれる香料諸島(モルッカ諸島)を含む多島海がある。昨年も今年も大学入試センター試験に、1623年に香料諸島でおこったアンボン事件(アンボイナ事件)にかんする問題が出題された。解答の正誤に直接関係はなかったが、日本の高等学校世界史教科書、事典・辞典、通史、講座など、この事件にかんしては、ことごとく正しい記述がなされていないことが、この商館文書を読むことによって明らかになった。しかも、それは日本で正確に理解されていないだけで、イギリスの歴史研究者などは正しく理解していることであった。

 日本の高等学校世界史教科書で、受験用にもっとも多く使われている『詳説 世界史』(山川出版社、2010年)では「アンボイナ事件を転機にイギリスの勢力をインドネシアからしめだして、・・・」とあり、『山川 世界史小辞典(改訂新版)』(山川出版社、第1版第2刷、2007年)の「アンボイナ事件」の項目は、つぎのように書かれている。「アンボン事件ともいう。モルッカ諸島のアンボン島で1623年に発生したオランダとイギリスとの紛争事件。イギリス商館の日本人傭兵の様子に不審を抱いたオランダ商館長が、オランダ商館襲撃を企てたとみなし、イギリス商館長以下全員を処刑。この事件以降、イギリスは香辛料産地のインドネシア東部から撤退し、インド進出に専念した」。『岩波講座 東南アジア史5』でも、「イギリスは一六二三年、モルッカ諸島のアンボン島で起こったオランダによるイギリス人商館員虐殺事件「アンボイナ虐殺事件」を契機として東南アジア地域の貿易から全面的に撤退を余儀なくさせられた。その後、約一五〇年あまりにわたってイギリスはもっぱらインド植民地の経営に専念した」と、わざわざ強調している。

 この事件以前に、イギリスのバタビア管区長は、利益があがらないことを理由に、すでにマルク諸島からの撤退を決めていた。そのことは、香料貿易からの撤退を意味しない。16世紀初めのポルトガルやスペインのマルク諸島への進出以来、ヨーロッパ各国は砦を築いて商館を維持し、香料貿易を有利に進めようとしたが、1世紀がたって香料の価格が下落し、要塞化した商館の維持に多大の費用がかかっていたため、イギリスはムラユ(マレー)系商人やポルトガル私貿易商人などによってマカッサルにもたらされる香料を手に入れるほうが効率的だと考えるようになっていた。事実、イギリスのマルク諸島からの貿易量は、1623年以降大幅に増加し、1667年までマカッサル商館を中心に香料貿易を継続し、年によってはオランダより貿易量が多いときもあった。また、すくなくとも17世紀半ばまで、イギリス東インド会社の中心はジャワ島にあり、インドを中心とするようになるのは後半になってからである。

 なぜ、このような間違いが起こったのだろうか。原因は、容易に想像できた。日本人研究者のだれも、まともに17世紀のイギリス東インド会社商館文書を読んでいなかったからである。アンボン事件にかんする記述だけでなく、これもどの高等学校世界史教科書にも載っている17世紀のヨーロッパの植民支配を示した地図など、原史料をもとに確認した者はだれもいないだろう。商館があるだけのところを、周辺を含めて支配したとしている。ならば、長崎の出島にオランダ商館のあった日本も、オランダの植民地になったことになる。だれもまともに研究している者がいないにもかかわらず、確認もしないで教科書に掲載し続けてきたのである。

 歴史学だけでなく、多くの研究分野には偏りがある。もう新しい史料の出現など、ほとんど望めないにもかかわらず、多くの研究者のいる分野もあれば、手っ取り早く研究成果が望めないために新たに研究しようとする者が現れない分野もある。それでも、社会のニーズがあれば、研究助成金がつきやすく、新たな分野の開拓が期待できるが、歴史研究者の多くが、現実の問題と無縁に趣味や教養のためにおこなっているために、社会的働きかけができない。だから、数年前に、高等学校の必修科目である世界史の未履修問題が起こったときに不要論で出ても、それにたいして多くの歴史研究者や教育者は充分な反論ができなかった。

 趣味や教養としてではなく、なぜいまの時代・社会に、アンボン事件の正しい歴史理解が必要なのかを、説明しなければならない。まず、アンボンを含む香料諸島が、流動性の激しい海域世界に属していたことを、理解しなければならない。近代の歴史学は、陸域の温帯定着農耕民の成人男性中心の閉鎖的な中央集権社会の発想で、実証的文献史学を基本に発展した。最近流行だという「海域史」研究も、多くが陸域の発想で陸から海を観る近代歴史学の延長でおこなっている。しかし、いま歴史学に必要なのは、流動性の激しいグローバル化時代に対応するために、海洋民や遊牧民社会の歴史や文化から学ぶことである。定着農耕民の発想ではなく、制度や組織より個々の対人関係を重視する海洋民や遊牧民を主体とし、海や沙漠をひとつの歴史空間として捉えることである。最大の問題のひとつは、海洋民や遊牧民が前例を重んじることなく、その場その場で状況の異なる事態に対応したため、文書記録を残していないことである。「重要なことは口頭で」を基本とし、口承伝承のなかには実証的なものと相容れないものが含まれていて、近代歴史学では無視されるか軽視されてきた。だが、いま海洋民や遊牧民の社会や文化を理解したうえで、定着農耕民の発想で書かれた文書を読み直すと、新たな歴史像が現れてくる。手書きで書かれた「マカッサル商館文書」の翻刻は、そのための第一歩である。

 その「マカッサル商館文書」から、海域世界の特徴として、つぎのふたつのことがわかった。ひとつは、17世紀にヨーロッパ諸国と東南アジアの諸王国とが取り交わした文書は、同じ内容ではないか、守られなかったことである。もうひとつは、王個人と結んだため、王が代わるたびに結び直す必要があり、また王の求心力が弱まると、王に従わない王族や影響下にあった周辺諸王、ひとりひとりと協定を結ばなければならなかったことである。これらふたつのことから、これまでヨーロッパ諸語で書かれた文書のみに基づいて書かれた歴史叙述については、再考する必要があることがわかる。まず、条約などでヨーロッパ諸語で書かれたものに対応する現地語で書かれたものがあるなら、内容が同じであるかどうかを確認する必要がある。しかし、文書を重視しない海域世界では、「海に棄てた」というような話も伝わっており、多くが残されていない。もし、ヨーロッパ諸語で書かれたものしか現存しないなら、その内容がどの程度、どのように実行されたかを検証する必要がある。オランダとマカッサルとの協定も、何度も改定された。つまり、守られなかったのである。

 つぎに、世界史の理解が必要である。1623年のアンボン事件後も、イギリスは香料諸島南部のバンダ諸島西部ルン島に根拠地を設けようとし、第2次英蘭戦争後の67年7月のブレダ協定でルン島は公式にイギリス領と認められた後、北アメリカ東岸のオランダ領マンハッタン島(現ニューヨーク市)と交換された。このように17世紀の歴史は、もはや世界史の理解なしでは、個別地域の歴史の理解が困難になっている。いま必要なのは、地域や国に分断された近代の見方による歴史の寄せ集めではなく、外に開き、つながる世界史像である。それも、海洋民や遊牧民の歴史から考えることができる。

 この「マカッサル商館文書」を通してだけでも、今日の歴史学・歴史教育の問題が明らかになった。いま歴史学・歴史教育にとって大切なことは、だれのため、なんのために必要なのかを明らかにして、研究・教育することだろう。歴史リテラシーともいうべき、「理解・整理し、活用する能力」が、歴史学・歴史教育にも必要だ。

 蛇足だが、文献史学は文献からわかる歴史について研究する学問であって、「真実の歴史」を追求するひとつの方法にすぎない。したがって、史料となる文献がいかに信用できるかを研究する考証学も重要になる。また、大学入試センター試験は、高等学校世界史教科書をどれだけ理解したかを試験しているだけで、その教科書の内容がたとえ間違っていたり偏ったりしていても、試験自体には影響がない。したがって、数年前に「強制連行」にかんする出題が問題になったが、教科書記述に基づいているかぎり、大学入試センターや出題委員に責任はない。

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2011年03月23日

『日本帝国をめぐる人口移動の国際社会学』蘭信三編著(不二出版)

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 時代は確実に変わってきている、まずそう思った。「二〇世紀前半に主として日本帝国の形成と崩壊に伴って生じた人口移動の様々な動きを理解することは、一筋縄ではいかない企てである」。それを可能にしたのは、編著者である蘭信三の実力とリーダーシップ、人柄であることは言うまでもないが、東アジアをひとつの歴史空間として理解しようとする時代背景があるからだろう。

 一筋縄ではいかないことを、編著者は、「序」でつぎのように述べている。「そこでの人口移動のベクトルは、...(略)...内地から外地や勢力圏への一方向的なものではなく双方向的なものであったし、もちろん植民地間の移動や植民地と勢力圏間の人口移動も存在していたからだ。またそれは、移民や植民や避難民だけでなく、引揚げや送還や「残留」そして「密入国」という複雑な人口移動の形態をとっており、さらには、人口還流、その後の再移動も展開されていたのである。したがって、それらの様々な要因、様々なベクトルをもつ人口移動が互いにどのように連関しているのかを総体として捉えることは、まさに至難の業なのである」。

 本書は、2005年3月に開催された日本移民学会ワークショップの報告書が基になっている。その後、本書を具体的に構想したときに、つぎの問題が明らかになった。「満洲と台湾に関してはある程度の水準を維持していましたが、朝鮮、樺太、そして南洋が十分ではない状況でした。しかも、この領域を勉強するなかで、近現代東アジアにとって清朝の衰退とロシア帝国の進出と崩壊、何よりも日本帝国の形成、膨張そして崩壊という三つの帝国の盛衰が大きなポイントとなっており、近現代東アジアにおける人口移動はまさにそれらに規定されていたことをはっきりと理解しました。その象徴的存在が、朝鮮人の人口移動であり、かつ朝鮮をめぐる人口移動である、と考えるようになりました。そして、その矛盾は済州島「四・三事件」と日本への「密航」に集約されていること、また満洲への朝鮮人の大きな流れにも見られることを知りました」。

 「他方で、内地を見てみれば、ハワイ移民、北米移民、南米移民そして台湾、南洋さらには満洲への移民という日本近代の移民・植民政策は沖縄(琉球)からの出移民・出稼ぎに集約されており、そこから近代日本の人口移動がより鮮明に照射されることを理解しました。とりわけ、本書では沖縄(琉球)と台湾間の移動、沖縄(琉球)から南洋への移動は、ある意味で内国植民地であった沖縄(琉球)と新たな植民地・勢力圏との多方向的な移動であることを明らかにしています」。「このことは、日本帝国をめぐる人口移動が、勢力圏の膨張に伴う内地から外地への人口移動(植民)や、東京や大阪という帝国の中心への植民地からの人口移動だけが生起したのではなく、朝鮮から満洲、沖縄と台湾間の移動、沖縄南洋間の移動といういわば周辺間における人口移動も含めて多様な様相が展開されていたことを示しています」。

 編著者の努力によって、ワークショップの報告書で「決定的に欠けて」いた部分、とくに朝鮮関係は補うことができた。しかし、編著者自身が「序」の「6 おわりに-残された課題」で指摘しているように、「研究は始まったばかりで、多くの課題が残されたままである」。そして、この領域の研究は、「日本ばかりでなく、韓国、中国、台湾においても同様の問題意識で研究プロジェクトが活動している」。日本とは違った視点での成果が出てくると、東アジアのなかの日本の姿も、また違って見えてくるだろう。残念なことは、南洋、樺太の現地からの視点の研究が充分でないことだ。とくに東南アジア各国は、経済力が上がってきているにもかかわらず、日本との関係史の研究はあまり進展していない。中国、韓国ばかりでなく、東南アジアからの留学生が増えると、この分野の研究も進展があるかもしれない。事実、中国や韓国からの留学生で、日本との関係史を研究テーマに選ぶ者は少なくない。

 本書は、多様な地域だけでなく、歴史学、地理学、人類学、社会学といった多分野の、多数の研究者が活発な討論を繰り広げた成果である。本書を読むと、国より小さな地域や国境を越えた地域間の人口移動が、より具体的に明らかになったことがわかる。だが、マクロなレベルでの理解は、編著者ほか執筆者の少数に留まっているように感じた。ミクロとマクロが絡みあってシンクロしていくには、まだすこし時間がかかりそうだ。また、本書のタイトルにある「国際社会学」の「国際」が、本書にはあわないと感じた。「国際」という考え自体、近代の遺物となろうとしているなかで、本書執筆者の多くが、国とは別次元で、人びとのいとなみを理解しようとしていると感じたからである。

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2011年03月15日

『街道の日本史49 壱岐・対馬と松浦半島』佐伯弘次編(吉川弘文館)

街道の日本史49 壱岐・対馬と松浦半島 →bookwebで購入

 本書の「あとがき」は、「日本国内をくまなく歩いた民俗学者宮本常一」の「かつて僻地には想像以上に文化が定着していた」ということばではじまる。本書で取りあげた「壱岐・対馬と松浦半島」は、僻地ということなのか。この地方の人口は昭和30年代がピークで、その後急速に過疎化と高齢化が進行し、衰退したことから僻地ということばがふさわしいのかもしれない。しかし、「都会から遠く、辺鄙な土地」である僻地は、文化果てるところどころか、時代や社会によっては文化の最先端の地でもあった。

 近代のように閉鎖的中央集権的な国家の時代にあっては、国境地域は僻地としてさびれるが、開放的な時代にあっては新たな文化を受け入れる窓口として繁栄する。壱岐・対馬と松浦半島が栄えたのは、戦争を含め朝鮮半島や中国など大陸との交流が活発な時代であった。そこは、国境を越えた海民の活躍する場でもあった。換言すれば、陸を制度的に支配し安定させようとする農耕民社会と、海を自由に動き回りヒトもモノも流動性をもった活性化する社会をつくろうとする海民社会とのせめぎ合いが、この地で展開されたということだろう。

 この地をあらわす典型的なことばとして、「市糴(してき)」がある。「三世紀に書かれた中国の歴史書『三国志』のうち『魏書』「東夷伝・倭人」(『魏志』倭人伝)」には、対馬について、「良田なく海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴す」と書かれている。「市糴」とは、「米(穀類)を買うこと」である。したがって、この地の住民にとって、米(穀類)を買ってくる行動の自由が制限されると死活問題になる。その危機は何度もあった。

 最大の危機のひとつは、豊臣秀吉による朝鮮出兵である(文禄・慶長の役、朝鮮では壬辰・丁酉倭乱1592~98年)。小西幸長とともに先陣を指令された対馬島主宗義智(そうよしとし)は、終戦の翌年から和平の使者を朝鮮に送り、修好、貿易再開を期した。しかし、「「不倶戴天の敵」の国からの使者は、はじめのうちは抑留されて一人として帰島する者はなかった。それでも義智は諦めず、戦役で日本に拉致されてきた朝鮮人を送還する懐柔策もとりながら、粘り強く交渉をつづけた結果、日本に対する憎悪に満ちた朝鮮側の態度も漸次軟化を見せはじめた」。そして、徳川家康の時代になり、朝鮮出兵が終わって9年後の1607年に第1回朝鮮通信使を迎えることができた。

 それでも、江戸時代に繁栄を取り戻すことはできなかった。海外貿易を幕府が独占するために長崎の出島でのみおこない、住民は「平戸藩・対馬藩・五島藩・佐賀藩・唐津藩などに分割統治され、かつての行動力は失われて藩支配の枠に押し込められることになった」ためである。ちなみに、「現在、江戸時代の大名領を私たちは藩と呼んでいるが、実は江戸期に藩と呼んだことはなかった。明治二年、新政府が旧来の大名領を藩と名づけたのであって、厳密にいえば、唐津藩・平戸藩などの藩が存在したのは、明治二年から廃藩置県の同四年までの短い期間であった」という。

 編者の佐伯弘次は、この地域が「近代化や高度成長によって衰退した力を復興する」かどうか見守りたいという。その鍵は、この地で育まれた歴史や文化を、地域住民がいかに理解するかにかかっているように思える。「市糴」を定着農耕民の発想でマイナスに捉えるのではなく、流動性をともなうグローバル化時代にふさわしいものと捉えると、また違った見方ができる。

      *      *      *

 その歴史と文化を展示した博物館が、2010年3月14日に壱岐にオープンした。その壱岐市立一支(いき)国博物館は、「魏志」倭人伝に記された王都と特定された原の辻(はるのつじ)遺跡を見下ろす丘の上に建てられた。風土記の丘には、2011年2月に古墳館がリニューアルした。島には、神功皇后の三韓出兵から元寇、秀吉の朝鮮出兵、昭和3年に日本軍が築いた黒崎砲台まで、各地に朝鮮半島・大陸との戦争の遺跡がある。いっぽうで、朝鮮通信使迎接所跡のような友好関係を示すものも遺されている。しかし、古代のロマンが強調されて、この豊かな正負の交流を今後に活かそうというものは、あまり感じられなかった。

 この正負の交流を活かそうとする博物館が、壱岐をよく展望できる九州本土にある佐賀県立名護屋城博物館である。大坂城に匹敵する城跡と周囲の大名百数十箇所の陣屋跡は、朝鮮出兵が紛れもなく総動員の侵略戦争であったことを物語っている。そして、京・大坂に劣らぬ文化があったことがわかる。展示は、朝鮮の視点でもおこなわれ、韓国の歴史教科書も和訳されている。博物館のリーフレットには、「原始・古代から続いてきた交流の歴史と、その中での不幸な戦争の意味を知ることによって、将来の交流・友好の指針を見いだしていただければ幸いです」と書かれている。1993年のオープン以来、博物館でも地域でも、韓国との交流に力を入れている。

 島や地方に立派な博物館があることは、すばらしいことだと思う。しかし、訪ねてみると、展示室の鍵をあけてくれたり、電気をつけてくれたり、冷暖房のスイッチを入れてくれたりすることがある。ありがたいが、宝の持ち腐れのように感じる。壱岐は長崎県に属するが、長崎県本土の港からの船はなく、福岡県博多港から超高速船で片道4900円、フェリーで2400円、佐賀県唐津港からフェリーで1850円かかる。名護屋城博物館は唐津市内からバスで通常片道820円、博多に行くのと料金はあまり変わらない。

 ちょっとした工夫で一躍有名になった北海道旭川市旭山動物園の例がある。博物館が多くの人びとが訪れる場所になり、そこから人びとの交流が発展する試みが各地で行われているが、その成果はまだあまり目に見えてこない。古代のロマンや戦国時代に焦点をあてたマニアの人気取りでは、長期的に多くの来館者を期待できないだろう。近現代に焦点をあてると、朝鮮・中国との関係ではいろいろな意見があって、展示を避けている博物館もある。博物館での町おこしは、それほど簡単ではない。

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2011年03月08日

『パル判事-インド・ナショナリズムと東京裁判』中里成章(岩波新書)

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 著者、中里成章は、ベンガル史研究者である。日本と縁の深い3人のインド人(ラシュ・ビハリ・ボース、スバス・チャンドラ・ボース、ラダビノド・パル)はいずれもベンガル人で、「三人とも日本の右寄りの論者のお気に入りの人物であり、彼らに関して日本で行われている研究に問題がないとは言えない」という。

 パル判事は、「東京裁判でインド代表判事を務め、A級戦犯の被告全員が無罪であるとする反対意見書を提出した人として知られる」。そのパル判事を、「日本の右寄りの論者」はつぎのように語ってきた、と著者はいう。「東京裁判論争が続くなかで、全員無罪のパル意見書は、東京裁判批判あるいは東京裁判史観批判に恰好の論拠を与えるものとして利用されてきた。いまではラダビノド・パルという一人のインド人法律家は、東京裁判論争ひいては歴史認識をめぐる論争において、一方の側を代表するシンボル的存在に祭り上げられるにいたっている。パルはそうされるに足る見識をもつ高潔な人間として描かれ、時にはガンディーやネルーと並べて語られることさえある」。

 著者は、「パル意見書は裁判の意見書の形式で書かれてはいるが、実は政治性を強く帯びた文書」で、「何故パルは政治的なのか、いかなる意味で政治的なのかが問題である」という。そして、「それに答えるには、インド・ナショナリズムの思想と運動、政党政治の駆け引き、大学の学内政治、インド法曹界の人脈等々に対して、パルという人物がどういう位置にあったのかを解明しなければならない」と、インド近現代史、とくにベンガルの知識が必要だという。そのパルの「実像」を追求するために、著者は「インド近現代史研究者が一般的に使っている実証史学の手法」、つまり「インタビュー(聞き取り調査)、文書館での公文書や私文書の調査、現地語資料の調査、新聞・雑誌記事の調査などを愚直に積み重ねた」。

 本書は、「序章」、5章、「おわりに」からなる。第1~4章では、パルの生涯を丁寧にインド近現代史のなかで辿っている。そして、第5章「パル神話の形成」で、「なぜ「実像」から懸け離れた「神話」が創造され、流通することになったのか」を明らかにしようとした。

 その結果、伝記的部分については、「おわりに-神話化を超えて」で、つぎのようにまとめた。「パルはある哲学や思想を信奉して人生の指針としたり、ある特定のイデオロギーや政党の支持者となって世の中に働きかけようとするタイプの人間ではなかった。パルはガンディー主義者ではなかったし、主要なインド独立運動のいずれにも参加したことはなく、政党の党員になったこともなかった。しかしそのことは、パルが政治や思想と無縁の人間だったことを意味するものではない。パルは広い意味でのナショナリストであり、多様なインド・ナショナリズムの潮流のなかでは、保守ないし右寄りの立場に共感を抱いていた。具体的に言えば、パルの経歴を検討してみて分かるのは、右翼のヒンドゥー大協会、保守本流の会議派右派、それからファシズムとコミュニズムの間で揺れるチャンドラ・ボースに近い立ち位置をとっていたことである。インドの独立前はヒンドゥー大協会とチャンドラ・ボースの周辺に位置し、独立後は会議派右派の周縁部に立場をシフトさせていった」。

 神話化にかんしては、第5章冒頭で、「現時点で言えるのはだいたい次のようなことである」と結論した。「意見書の内容は初めの頃はあまり世に知られることがなく、一群の人たちの意識的な活動があって初めて、日本社会に浸透していった。彼らは意見書を出版し、あるいは、パル本人を日本に招いて、意見書の浸透を図った。東京裁判批判を目的とする出版と招聘、これら二つの活動に関わった人たちが、その過程でパル神話を創り出していったと考えられる。そこには意識的なイメージ作りもあり、無意識の誤解や誤りもあった」。「彼らの動きは早くも東京裁判の直後に始まった。一九五〇年前後の頃は彼らは少人数で、A級戦犯本人、その弁護人及び元大アジア主義者からなり、周辺に元ファシストの姿もあった。六〇年代になると、元軍人、国際法学者(大学教授)、昭和史研究者、法務省の官僚などが加わり、日本のエスタブリッシュメントも巻き込んだ人的ネットワークが形成されるようになった。両時期を通じて、新聞記者などジャーナリストが果たした役割にも無視できないものがあった。ネットワーク拡大の背後には、A級戦犯など元戦争指導者の復権という現実があった」。

 パルの神話化は、1966年10月に訪日し勳1等瑞宝章を受章した翌年、67年1月の死後も続いた。早くも亡くなった年の10月には、1952年と53年の2度、パルを日本に招いた中心人物の下中彌三郎(平凡社創業者、1878-1961)とともに、2人の生涯を記念する碑が箱根芦ノ湖畔に建てられ、そのそばに1975年に「パール下中記念館」がオープンした。1997年にはインド独立50周年を記念して京都霊山護国神社に「パール博士顕彰碑」(「パール博士顕彰碑建立委員会」委員長、瀬島龍三)、2005年には靖国神社に「パール博士顕彰碑」が建立された。そのほか、愛国顕彰ホームページ(http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/0815-pal.htm)によると、富山県護国神社に「パール判事の碑」、広島市の本照寺に「パール博士 大亜細亜悲願之碑」がある。それぞれの碑文は、以下の通りである。

 これら直後、1960年代、近年、それぞれの時期の「右寄り」の動きは、アジア太平洋戦争にかんして、いろいろな意味で共通にみられ、多くの日本人はそれに関心を示さず、結果として容認してきたがゆえに、今日「歴史認識問題」として残されることになった。また、2国間関係史は、近代において、それぞれ当事国のナショナル・ヒストリーに利用されるかたちで語られてきた。その「神話」が、現代に通用しないことが明らかになってきて、反動的な動きもみられる。著者は、これからの国際社会を見すえて、「おわりに」をつぎのように結んでいる。「日本で行われてきた東京裁判をめぐる議論を国際社会に向かって開き、平和構築のための国際的な協同作業に繋げてゆくことを考えるべきときが来ているのではなかろうか」。

 本書にたいして、さまざまな意見があるだろう。まずは、「愚直に積み重ねた結果の報告」である本書を、主義主張を超えて、インド近現代史と日本近現代史の文脈で、著者目線で理解することからはじめたい。つぎに、東京裁判のもつ歴史性、国際性に注目したい。そして、平和構築のために「神話」からの解放について考えたい。そのことは、「あとがき」にあるパル判事の息子が、著者のインタビューにたいして、互いの見解が違うにもかかわらず、「ひとたび心を許すと、率直に思い出を語り貴重な資料を提供してくれた」こととおおいに関係している。見解や意見の違いを乗り越えて、真摯に歴史と向き合うことが、平和構築につながるという思いを、パル判事の息子は著者と共有していることを感じとったのだろう。

       *       *       *

○靖國神社(東京都千代田区)「パール博士顕彰碑」
碑文
時が熱狂と偏見とをやわらげた暁には また理性が虚偽からその仮面を剥ぎ取った暁には
その時こそ正義の女神はその秤を平衡に保ちながら 過去の賞罰の多くに
そのところを変えることを要求するであろう

○京都霊山護國神社(京都府京都市東山区)「パール博士顕彰碑」
碑文
当時カルカッタ大学の総長であったラダ・ビノード・パール博士は、十九四六年、東京に於いて開廷された「極東軍事裁判」にインド代表判事として着任致しました。既に世界的な国際法学者であったパール博士は、法の心理と、研鑚探求した歴史的事実に基づき、この裁判が法に違反するものであり、戦勝国の敗戦国に対する復讐劇に過ぎないと主張し、連合国側の判事でありながら、ただ一人、被告全員の無罪を判決されたのであります。今やこの判決は世界の国際法学会の輿論となり、独立したインドの対日外交の基本となっております。パール博士は、その後国連の国際法委員長を務めるなど活躍されましたが、日本にも度々来訪されて日本国民を激励されました。インド独立五十年を慶祝し、日印両国の友好発展を祈念する年にあたり、私共日本国民は有志相携え、茲に、パール博士の法の正義を守った勇気と、アジアを愛し、正しい世界の平和を希われた遺徳を顕彰し、生前愛された京都の聖地にこの碑を建立し、その芳徳を千古に伝えるものであります。

○富山縣護國神社(富山県富山市)「パール判事の碑」
碑文
不正なる裁判の害悪は原子爆弾の被害よりも著しい

○本照寺 (広島県広島市中区)「パール博士 大亜細亜悲願之碑」
経緯
昭和25年11月、広島を訪れたパール博士は広島平和記念公園にある原爆死没者慰霊碑に刻まれた碑文「過ちは繰り返しませぬ」を見て驚きかつ激怒した。碑文の責任者である広島市長と対談を行うなどした後、本照寺の住職・筧 義章に請われ一編の詩を執筆、その詩は後に本照寺に建立された「大亜細亜悲願之碑」に刻まれた。
碑文
激動し 変転する歴史の流れの中に 道一筋につらなる幾多の人達が万斛の想いを抱いて死んでいった
しかし大地深く打ちこまれた悲願は消えない
抑圧されたアジア解放のため その厳粛なる誓いにいのち捧げた魂の上に幸あれ
ああ 真理よ!
あなたはわが心の中にある その啓示に従って われは進む

○パール下中記念館(神奈川県足柄下郡箱根町)「パール博士顕彰碑」
碑文
すべてのものをこえて 人間こそは真実である このうえのものはない

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2011年03月01日

『歩いて見た太平洋戦争の島々』安島太佳由著、吉田裕監修(岩波ジュニア新書)

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 本書は、岩波ジュニア新書『日本の戦跡を見る』(2003年)の続編である。同時に出版された写真集『消滅する戦跡-太平洋戦争激戦の島々』(窓社)をあわせて見ると、よりリアルに著者、安島太佳由の言わんとすることが伝わってくる。著者は、2010年よりプロジェクト「若い世代に語り継ぐ戦争の記憶」を立ち上げた。

 プロジェクトを立ち上げた理由を、著者はつぎのように「あとがき」で語っている。「感受性が強く、知識を学び取ろうとする意欲がある一〇代のときに、生きた歴史を学ぶことは、とても大切だと私は考えます。そのとき脳に記憶されたものは、後のちになって何かのきっかけでよみがえってくることがあるのです。実際に私自身がそうでした。小学生のときに先生から聞いた太平洋戦争やベトナム戦争の話が、現在の活動にいろいろなかたちで活かされています。私はそこで受け継いだ記憶や感じた気持ちを大切にしながら、書籍の出版や写真展、講演会などを通して若い世代に「戦争の記憶」を語り継いでいきたいと思っています」。

 「一九九五年、戦後五〇年の年から始めた」著者の「ライフワーク「日本の戦争」は、東京に残る戦跡を振り出しに、四七都道府県の戦跡を訪ね歩くに至りました。そして日本の戦跡の取材に一区切りつけ、今回の太平洋戦争で激戦地となった島々の取材に入りました。取材を通して、改めて戦跡を歩いて見る大切さを実感しました」。「次なる旅は、中国、台湾、朝鮮半島などのアジア諸国に移っていきます」。

 著者に「日本の戦争を知る旅はまだまだ終わりません」と言わせるのは、日本の戦後がまだまだ終わらず、その悪影響が子や孫どころか、曾孫まで及びかねないからである。そのことを著者は、つぎの旅でさらに具体的に知ることになるだろう。

 本書は、第1部「硫黄島」の後、第2部「南太平洋の激戦の島々」ガダルカナル島、ラバウル、ニューギニア東部、ビアク島、トラック諸島、マリアナ諸島、パラオ諸島-ペリリュー島、フィリピンと続く。第1部では、小笠原諸島の父島、母島の中学生たちが、「硫黄島移動教室」という課外学習として、慰霊祭に参加している様子を伝えている。そこでおこったハプニングが、参加した中学生に戦争を実感させた。「午前中の慰霊祭が滞りなく終わり、お昼休みになりました。昼食を終えた中学生の一人が、草むらで何か鉄のかたまりを見つけだし、それを放り投げて遊んでいたのです」。「その鉄のかたまりが小さな不発弾だったから周りは大騒ぎになりました。すぐさま、不発弾処理のために自衛官がきて対応し大事にはいたりませんでしたが、突然起こった騒ぎに一番驚いたのは当の本人だったでしょう。先生から怒られていた中学生のしょんぼりした顔を、私は今でも忘れられません」。

 沖縄では、いまでも那覇の繁華街でさえ不発弾などが見つかることがある。沖縄に住む人びとにとって、日常生活でも戦後は続いている。この小笠原の中学生や沖縄の人びとが日々体験していることを、ほかの人びとがどう共有するかが大きな課題だ。本書でも、日本人観光客が多く訪れるグアムやサイパンで、戦跡を訪れる観光客は少なく、トーチカや大砲があるのにも気づいていない様子が書かれている。トラック諸島は、日本軍の沈没艦船が多いことから、世界中のダイバーの人気スポットになっているが、日本人は少ない。「三〇を超える沈没船や墜落機が眠っており、さながら世界最大の「海底博物館」」になっているのに、戦争関連となると日本人は避けて興味を示さない。

 若い世代が戦争の話をすると、「右翼」だと思われ、会話が途切れるという。反戦のために戦争について考えようとしても、いろいろな考え方があって、なかにはほかの意見を攻撃するものもあるため、なにがなんだかわからなくなって、興味をなくす者もいる。いま大切なのは、まず興味をもち、戦争について自由に話すことができるような環境をつくることだろう。戦争については、思い込みから曲解したり、勘違いをしたり、なかには意図的に事実をねじ曲げて自分勝手な主張をしたりする者がいる。そういう人びとがいても、それを糺す環境があれば、戦争を語ることが平和な社会を目指すという共通の目標に向かっていることが確認でき、建設的な話になっていくだろう。そういう環境づくりのためにも、著者の「若い世代に語り継ぐ戦争の記憶」プロジェクトに期待したい。

 著者は、「私の役割は、一人でも多くの中学・高校生たちに、戦争について知ってもらうために活動することです」という。見て読むことで、関心は高まる。小学生の読書量が増えているのに、中学・高校生の読書量は減っている。中学・高校生が読書をする習慣を身につけることが、戦争についてだけでなく、若者を社会と結びつけるきっかけとなる。

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2011年02月22日

『日本軍の治安戦-日中戦争の実相』笠原十九司(岩波書店)

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 本書は、「プロローグ」の最後に目的が書かれ、「あとがき」では明らかにしたことを3つにまとめ、2つの問題を指摘していてわかりやすい。

 目的は、つぎのように書かれている。「日本軍が華北を中心に展開した治安戦においてどのようなことをおこなったのか、日本軍の占領統治の安定確保を目的とした治安戦が、どのようにして中国側で三光作戦といわれるものになったのか、そして日本軍の意図とは逆に多くの農民を中国共産党・八路軍の方へ追いやり、抗日戦争を激化させる結果になったのはなぜか、それらの実態と全体像を明らかにすることなくして、日中戦争の実相に迫ることはできないであろう。本書では、治安戦を「おこなった側」の加害者・日本兵の論理と、「された側」の被害者・中国民衆の記憶とを照合させながら、日中戦争の実相に迫っていきたい」。

 その結果、著者、笠原十九司は、「第一に、日中戦争(一九三七年七月-四五年八月)における日本軍の治安戦の全体像を、日中戦争全体の展開に位置づけて明らかにした」。「第二に、中国では三光作戦(三光政策)といわれる治安戦について、華北の山西省における燼滅掃蕩と収奪作戦、河北省における無住地帯化と経済封鎖作戦、山東省における細菌戦を事例に取り上げて、加害者の日本軍の論理と被害者の中国農民の記憶の両側面から事件を照射する方法をとおして、実相に迫る叙述をおこなった」。「第三に、読者の方々はお気づきであろうと思うが、本書には治安戦に加えてサブ・ストーリーがある。それは、「天皇制集団無責任体制」にもとづく、無謀でデタラメともいえる戦争指導体制についての批判と、これまで論じられることのなかった日中戦争における海軍の戦争責任の追及である」。

 そして、著者が問題として指摘しているのは、「一つは、治安戦という作戦用語をつかって戦闘をおこなった日本軍兵士の意識と経験について」であり、「もう一つは、治安戦は過去のことではなく、現代の戦争であるということである」。

 「天皇制集団無責任体制」については、つぎのように説明している。「日本の戦争指導体制は、政府と軍中央が対立、軍中央も参謀本部と陸軍省の対立があり、前述のように陸軍に対抗して海軍拡張を目論んだ海軍が日中戦争を華中、華南に拡大させるのに積極的役割を果たしたのである。陸軍は陸軍で、軍中央と現地軍との対立、齟齬(そご)があり、現地軍が軍中央の統制を無視して作戦を独断専行する下克上の風潮が強かったことは、本章[第1章 日中戦争のなかの治安戦]において上海戦、南京攻略戦を事例に述べたとおりである」。

 このほかにも、本書から学ぶ基本的なことが多々あった。たとえば、なにかと問題にされる「数」であるが、中国と日本とでは、観念が違うことをつぎのように説明している。「中国の文献には「初歩的な統計によれば」「不完全な統計によれば」「ある統計によれば」ときには「不確かな統計によれば」とまで断ったうえで細かい統計数字が記されている。中国の学会や集会、会議などでの報告をきいていると、中国人は数字を形容詞としてつかっているのだと筆者は思う。事件や事柄の規模や程度をイメージさせるのに統計数字がつかわれるのであって、そうわりきって聞けばなるほど効果的な表現方法である。統計というと調査方法や厳密性、信頼性を問う日本人とは感覚が異なっている」。

 また、個々人の回想録にかんしても、それぞれの立場から信頼できる部分と限界があることを、つぎのように説明している。「鈴木[啓久]の回想録が貴重であるのは、第二七歩兵団長という上級指揮官の立場、それも師団長とは違って作戦現場、工作現場で直接指揮する立場にあったことである。下級指揮官や兵卒の回想録や証言には、軍隊組織の特色から彼らは部隊の作戦について全体を知る立場になかったという限界がある。戦場体験記として貴重であるが、彼らは鈴木啓久のように作戦の目的や展開過程、結果について的確に知ることができる立場にはなかったのである」。

 それにしても、本書からわかる日本軍のおこなったことは残虐性だけでなく、その後遺症の大きさである。日本軍がおこなった細菌戦については、「被害者の家族・親戚やその周囲の人々もペストによって死亡したのは日本軍の細菌戦が原因とは分からず、罹病者とその家族がペスト流行の元凶として悪魔であるかのように差別され、迫害されつづけてきた」。「華北の抗日根拠地において、平均して五〇人に一人以上の割合で日本軍に強姦され、そして性病をうつされた」。軟禁されて強姦され続けた女性のひとりは、戦後「「かつて日本兵とあまりに長く一緒にいた。おまけに日本兵のために子どもまで産んでやった」という理由で「歴史的反革命」という罪に問われ、三年間牢獄に送られるという処分まで受け」、「「村の恥」として非難され迫害された」あげくに、「文化大革命がもっとも激しかった一九六七年、彼女は首を吊って自死するという悲惨な最期をとげた」。

 対日協力者は「漢奸」「売国賊」として、「抗日戦勝利後、国民政府側においても、中華人民共和国側においても厳しい漢奸裁判がおこなわれ、日本軍人や日本人よりはるかに多くの中国人が処刑された。国民政府司法行政部の報告によると、各地で行われた漢奸裁判の結果、三万一四〇八人が起訴され、有罪が一万四九三二人(うち死刑三六九人)、無罪五八二二人、その他一万六五四人となっている。これにたいして、日本の法務省の調査資料によれば、中国国民政府によって裁かれた日本人BC級戦犯裁判において、八八三人が起訴され、有罪が五〇四人(うち死刑一四九人)、無罪三五〇人、その他二九人となっている。中華人民共和国政府がおこなった撫順戦犯裁判と太原戦犯裁判においては、死刑判決は一人もなく、四五人が戦犯として起訴され、有罪判決を受けた以外は全員が起訴免除となり、一九五六年に帰国を許された。最高刑の禁固二〇年を受けた者も、一九六四年を最後に全員が満期前に帰国をゆるされた。これらの数字からも、漢奸裁判が日本人戦犯裁判よりもはるかに厳しくおこなわれたことがうかがえよう」。

 このような中国側の日本人戦犯にたいする寛大さは、つぎのように説明されている。「周恩来総理の、日本人戦犯を一人も死刑にしないで、粘り強く長期にわたって「認罪学習」をさせ、「侵略戦争で罪行を犯した人が十分に反省し、その体験を日本の人々に話す。我々中国共産党が話すよりも効力があると思わないかね。日本の人民もきっと納得する」という指示にしたがって、金源管理所長以下、関係者たちの忍耐づよい努力の結果、戦犯たちは供述書を書くようになったのであった」。

 周恩来の思惑は外れ、日本人戦犯が帰国後、日本人に話すことはあまりなかった。そのため、本書に書かれているような具体的な話を、戦場を体験していない日本人はほとんど知らない。それどころか、信じようとせず、嫌悪感を抱き、本書の「プロローグ」の事例を読み終えることもないだろう。とくに日本の若者へは、実相を知らせる前に史実を受け入れる準備をしてもらうにはどうしたらいいのかを考える必要がある。戦後責任をまともに考えてこなかったツケが、いま日本の若者に降りかかろうとしている。東アジア社会のなかで日本人が暮らしていくのに、戦争認識の問題が大きな足枷になり、それがますます大きな問題になる可能性がある。昨今の中国などの反日運動を、歴史的に考えることによって、道は開けるのだが、・・・。

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2011年02月15日

『複合戦争と総力戦の断層-日本にとっての第一次世界大戦』山室信一(人文書院)

複合戦争と総力戦の断層-日本にとっての第一次世界大戦 →bookwebで購入

 本書で、著者、山室信一は新たな一歩を踏み出そうとしている。京都大学人文科学研究所の共同研究「第一次世界大戦の総合的研究に向けて」は、開戦100周年にあたる2014年に最終的な成果を世に問うことを目標として、2007年にスタートした。著者にとっては、個人的にもうひとつの意味がある。京都大学での最後の共同研究という意味である。その意味で、なんらかのまとまりをつけようとしているのかと思ったら、とんでもない間違いである。

 「あとがき」で、著者は、本書をつぎのように自分自身の研究のなかに位置づけていることを述べている。「何よりも私自身が次の課題としている第一次世界大戦における「世界性」と「総体性」とは果たして何であったのか、という問題へ向けて進むに際して、立ちはだかっている壁に挑むために不可欠な、足元の地固め作業でもあった。その意味で「日本にとっての第一次世界大戦」を「戦争と平和の世界史の文脈に配置する」という私自身の最終課題に向けた歩みは、今ここから始まる。本書は、その意味でけっして結論ではなく、あくまでもスタートラインを画したものにすぎない」。

 本書やつぎの課題、最終課題は、これまでの著書、とくに最近著の『日露戦争の世紀-連鎖視点から見る日本と世界』(岩波新書、2005年)や『憲法9条の思想水脈』(朝日選書、2007年)で、著者が明らかにし、課題としたものを考えると、よりいっそう理解できる。たとえば、第一次世界大戦後に戦争違法化を目指して制定され、日本を含む世界63ヶ国が参加した1928年の不戦条約を、真っ先に無視して「防衛」を理由に1931年に満洲事変をおこし、その後も「事変・事件」の名の下に「防衛」のための日中戦争・「大東亜戦争」を展開した日本の原点のひとつが、第一次世界大戦にあったことを想定していることが感じられる。それは、「遠き戦火」であったがために、現実味を帯びなかったからなのだろうか。

 著者は、「はじめに」で、本書では「何よりもまず日本にとっての第一次世界大戦とは何であったのか、を明らかにすることを課題としたい」と述べ、「日本にとっての第一次世界大戦とは、対独戦争、シベリア戦争という戦火を交えた二つの戦争と、日英間、日中間、日米間の三つの外交戦からなる複合戦争として存在していたと捉え直すべきではないか」と提起している。

 さらに、つぎのように自身への課題を明確にしている。「第一次世界大戦を複合戦争として捉えることが可能であるとするなら、その期間は一九一四年八月の対独戦争参戦からシベリア戦争時に占領した北樺太から撤退を終えた一九二五年五月まで、断続的であったとはいえ一〇年九カ月にもおよび、大正時代一五年の大半は第一次世界大戦期であったといえることになる。それはヨーロッパにおける第一次世界大戦の期間である四年三カ月の二・五倍余に達するのである。その決して短期の戦争とは言えないはずの日本にとっての第一次世界大戦の実相とは、果たしていかなるものとしてあったのだろうか。さらに第一次世界大戦の世界史的重要性については戦争形態が総力戦へと転換していったことに求められてきたが、日本ではそれをいかに意識して対応し、それは日本社会をどのように変容させていくことになったのか-その問いに答えるための歩みをここから踏み出してみたい」。

 本書の結論は「はじめに」に記しているとおりなく、スタートラインとして「おわりに-「非総力戦」体験と総力戦への対応」で論点を整理している。その前に、「日本にとっての第一次世界大戦は二つの実戦と三つの外交戦の複合戦争としてあった」ことを、つぎのようにまとめている。「二つの実戦は、重砲や機関銃、無線通信や飛行機などの新兵器を試用したとはいえ日露戦争と同じ戦争形態の延長上にあり、三つの外交戦は「力こそ正義Might is right」という認識を基盤に、権益配分を秘密外交と威嚇外交によって競う旧外交の手法を用いて争われた。すなわち、日本にとっての第一次世界大戦体験とは、実質的に非総力戦であったと言うことができる。しかし、けっして総力戦という戦争形態の変化に全く無関心でありえたわけではなかった。そうした非総力戦と総力戦との接続と断絶の諸層については別稿を期すとして、今は論点だけをまとめておきたい」。

 ヨーロッパでは、第一次と第二次の連続性が重視されて、1914~45年の「30年戦争」として理解されることがあるのにたいして、日本では「アジア・太平洋戦争」をせいぜい「15年戦争」として捉えている。著者は「あとがき」で、日本にとっての第一次世界大戦のつかみ所のなさの理由をつぎのように述べて、その歴史観に警告を発している。「第一次世界大戦を日独戦争の局面でのみ捉えて、そこで生じたイギリスや中国そしてアメリカ、ロシア(ソ連)との外交関係を全く異なった次元の問題として議論し、さらに第一次世界大戦の重要な一環であったはずのシベリア戦争を反革命干渉戦争という次元でのみ語ってしまってきたこと、そこに第一次世界大戦に関する意識の希薄化と歴史認識の空白を招いてしまった大きな原因があるのではないか、という想いが日々強まってきた。もし、そうした憶測が的外れでないとするなら、「見えない戦争」、「隠された戦争」という位相をも組み込んで初めて「総体としての日本にとっての第一次世界大戦」が朧気ながらでも姿をみせてくるのではないか……。そして、その無意識化の背後で着々と進んでいた国際環境と総力戦体制への地層での変容を捉えることなしに、単に一九三〇年代以降の表層的言説をもって日本がアジア・太平洋戦争(第二次世界大戦)に不可避的に踏み込まざるをえなかったと説く昨今の歴史論議は根底において危ういのではないか……」。

 本書は、著者が「あとがき」の冒頭で述べているように、この「レクチャー」シリーズの本来の目的である「広く一般の読者に対し、第一次世界大戦をめぐって問題化されるさまざまなテーマを平易に概説する」ものからは外れ、自身への課題を中心としたものになっている。それだけに、「総力戦」である共同研究のそれぞれのメンバーのなすべきこと-著者の課題との絡みと課題から抜け落ちていること-が、本書から明らかになったように思える。著者は、「おわりに」で、「一般には総力戦については軍事力とともに経済力、科学力、精神力などを結集しつつ、ひたすら消尽つ続ける物量戦となるために、持久消耗戦となる」と述べている。いましばらく著者とともに、共同研究は「持久消耗戦」が続く。その成果として期待される「第一次世界大戦における「世界性」と「総体性」」は、これまでの歴史観を覆す可能性をもつとともに、現在直面している問題を考えることにも通じている。

 「おわりに」は、つぎのことばで終わっている。「現在、第一次世界大戦からほぼ一世紀を経て、日本と中国とアメリカとの三者関係をめぐる軋轢のなかで、いかなる外交交渉をもって環太平洋世界における安定的地域秩序を形成していくのかという難問(アポリア)に、私たちは改めて直面している」。「そして、日本が第一次世界大戦から歩み始めた東アジア世界そして国際社会でのあり方に批判的に対峙した中国に、今ほど、その批判した前車の覆った事実を後車の戒めとする叡智が求められている時はないのかもしれない」。

 近代的価値観で近代史を総括するのではなく、現在そして未来へとつながる「世界性」「総体性」をもった東アジアの地域秩序、さらに世界秩序を考えるための歴史観が、「第一次世界大戦の総合的研究に向けて」から生まれようとしている。

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2011年02月08日

『カブラの冬-第一次世界大戦期ドイツの飢饉と民衆』藤原辰史(人文書院)

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 著者、藤原辰史は悩む。世界全体で飢餓人口9億2500万と試算される現状のなかで、「ヨーロッパの一国が一時期体験したにすぎない飢餓の事実は読者の目にあまりに小さく映るのではないか」。「経済大国ドイツの飢餓の状況を経済大国日本で紹介することにどれほどの意味があるのか」。「結局は、「先進国」中心主義的な見方を補強することになりはしないか」。この著者の真摯な悩みを、本書のもととなった講義の受講生や講演会の聴衆は、しっかり受けとめた。その理由は、本書を読めばわかる。

 第一次世界大戦がはじまった翌年の1915年から休戦協定が成立した18年までのドイツの餓死者は、76万2796人であった。ここには兵士は含まれない。食料輸入大国ドイツは、生命線としての輸送網を、イギリスの海上封鎖などによって断たれ、「兵糧攻め」にあった。その結果、1915年の「豚殺し」と1916年から17年にかけての「カブラの冬」がおこった。「豚殺し」は、家畜の飼料用穀物やジャガイモを人間の食料に回すためにおこり、その標的はとくに消費量の多い豚に向けられた。いっぽう、輸入に頼る必要のなかったジャガイモは1916年の凶作で収穫高が激減し、都市下層民の主食は味の悪いルタバカ(スウェーデンカブ)になった。ともに政策の失敗もあって、食糧危機を深刻なものにした。この食糧難を、ドイツ史研究者は「カブラの冬」と呼んできた。

 本書の目的は、「はじめに」で「この飢饉の内実を紹介し、さらにこの歴史的意義を考察することである」と述べられている。そして、「結論」がつぎのように続いている。「第1章以降に述べていくように、飢饉は、平時に沈潜していた社会の矛盾、農業生産構造や食料配分システムの脆弱性、そして飢える民衆の声を議会に反映できない政治システムを可視化させた。これまで遠い存在でしかなかった国家が身近な存在になった。戦時中に広がった低所得者層と高所得者層の食の不平等は、そもそも戦前から存在していた。つまり、大戦期の食糧問題を知ることは、「生命の保障」、そのために必要な「食の配分」、さらに配分の公平さを担保する「代表」という三つの根源的政治問題を見つめ直すことにつながるのである。ドイツ革命が、戦争の終結を訴えるばかりでなく、生命基盤を提供できない政府の無能に対し不信を突きつけたように。ここでは、食べものという人間の根源から、政治の原型ともいうべき「生命」を軸に「配分」と「代表」という問題が日常のなかで自然にかつ直接的に現れてくる過程を描いていきたい。そして結論を先取りしていえば、こうした大戦中の政治の原点回帰の経験が、生命活動の維持と拡大に政治を集中させていくようなナチズムを生みだす土壌になったのである。ナチスは飢饉から多くを学び、食糧政策に反映させ、自給自足を唱えたのである」。

 著者は、以上の視角から、「日本の読者にはまだ馴染みの薄い大戦期ドイツの飢饉の事実を、当時の新聞や文献あるいは欧米や日本での研究の成果に依拠しつつ紹介・整理し」、「まず、ドイツで発生した飢饉の原因(第1章)と実態(第2章と第3章)、つぎに、民衆のプロテスト(第4章)、さらにはその後の時代への影響(第5章)」と、章ごとに具体的に説明し、食糧を通じて、第一次世界大戦から第二次世界大戦への連続性を明らかにしている。

 「おわりに-ドイツの飢饉の歴史的位置」では、「1 交戦国の食糧状況概観」後、著者は「2 「カブラの冬」の遺産」について「ドイツの飢饉の歴史的布置、とくに後史との関係」として、つぎのように考えを述べている。「第一に、七六万人の餓死者が出たにもかかわらず、また、あれほど頻繁に暴動が発生したにもかかわらず、ロシアのような社会主義革命が成立しなかったことが重要である」。「第二に、ドイツがイギリスを海上封鎖できなかったこと、同盟国の海軍力が連合国よりも弱かったことが大戦とその後史において決定的だった、ということの重要性はあらためて確認されるべきだろう」。「第三の歴史的意味は、飢饉の記憶と封鎖シンドロームが、戦後ドイツのナチズムに至る迷走に大きく影響を及ぼしたことである」。

 そして、つぎのように本書を結んでいる。「休戦協定によって戦闘は終わり、講和条約によって戦争は終わった。しかし、戦争と飢饉がもたらした不信や憎悪や亀裂は簡単には消えなかった。フランスのドイツに対する莫大な賠償金がナチスをもたらした、ということはしばしば指摘される。これが、大戦が不時着した理由の一つであることは疑いをえない。しかしながら、大戦が終わり損ねた原因としてより重要だと思われるのは、ドイツ民衆の「食べものの恨み」がもたらした無数の亀裂である。これが、ほとんど修復されぬまま経済的復興を遂げたことが、戦間期ドイツの歩みを、徐々にナチズムへと向かわせたのである」。

 しかし、著者がもっとも気にしていたのは、このような学問的歴史的な位置づけではないだろう。「はじめに」で述べている「ある少年は、親のパンを盗み食いし、しかられるのが嫌で首を吊る」ということが、書きながら頭から離れなかったのだろう。まず表紙に、ケーテ・コルヴィッツの「夫の戦死を知った妻の絶望が描かれている」画を選び、「銃後に残された多くの妻やその子どもたちが、飢餓に苦しめられた」ことを想像させる。第3章「日常生活の崩壊過程」の扉は、「ドイツの子どもたちが飢えている!」画であり、「5 子どもたち-犯罪と病気」では、最大の犠牲者が子どもであったことを具体的に述べている。そして、第5章「飢饉からナチズムへ」でも、「僕たちを飢えさせないで!」と書かれ、子どもがパンを抱えながら食べているポスターを掲載している。講義の受講生や講演会の聴衆が真剣に聞き入った理由が、ここにある。著者の悩みは、二度と「ある少年」のような少年がでないために、自分になにができるか、である。

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2011年02月01日

『ベトナム女性史-フランス植民地時代からベトナム戦争まで』レ・ティ・ニャム・トゥエット著、藤目ゆき監修、片山須美子編訳(明石書店)

ベトナム女性史-フランス植民地時代からベトナム戦争まで →bookwebで購入

 本格的な総力戦となった第一次世界大戦中に、軍需工業などにも女性が動員され、戦後女性の社会進出が顕著になった。ベトナムの対フランス、対アメリカの戦争は、第一次世界大戦時にヨーロッパが体験した総力戦の比ではなかった。それだけ、女性が担った役割は大きかった。悲しいことに、ベトナム女性の「活躍」の背景には、悲惨な戦争があったことを、まず心得ておかなければならないだろう。

 しかし、それだけではないことを、著者は「日本語版への序」で、つぎのように説明している。「ベトナム社会の歴史のすべての段階におけるジェンダーの特徴を分析した資料から、ベトナムは東南アジアの各文化と同様に、世界の他の多くの地域と比べて明らかな相違があるということができます。それは女性の相対的に高い地位です。この相違点の文化的な特徴は、対立性よりも相補性があることで、権力はジェンダー関係よりも、社会や家庭や年齢のヒエラルキー関係に基礎をおいています」。

 「ベトナムの女性の、社会と家庭での地位を決定する要素は、まさに女性の重要な役割にあります。女性たちは、文化のすべての様式-精神文化、物質文化、社会と家庭の文化-を含む民族文化を守り、発展させた人々です」。「この相違点は以下に述べるいくつもの原因から生じています」。「第一に、外国の侵略、とりわけ同化に対抗しようとする民族の抵抗が、死守といえるような状況を、特に村単位で作り出したことです。したがって、母権制の時期から女性が建設してきた最初の貴重な伝統が、ベトナムでは他の多くの場所におけるように除去されることがなく、絶えることのない伝統になったのです」。

 さらに、第二、第三、第四の原因を説明した後、つぎのようにまとめている。「このようにして、生産労働、社会的闘争、家庭の建設、民族文化の創造と発展における伝統的役割に応じて、ベトナムの女性のイメージは、勤労者、主婦、戦士、芸術家となり、政治家のような他のイメージは、より曖昧であったり、その役割に同化していたり、あるいは切り離されていたりするのがわかります。それはまた、ベトナムのジェンダー関係のイメージでもあるのです」。

 本書は、「歴史の異なる段階にそって、ベトナムの女性についての多くの豊富な面を総合的に述べようと試みたものです。最初の部分と結論の部分を除いて、本書は六章から成り、歴史的時間の順序にしたがって書かれています」。「各章の内容は、昔のすばらしい伝統が継承され、発揮され続けていることを証明し、今日の社会におけるベトナムの女性の、現代的な心理と徳性についてのいくつかの主な特徴を発見したものです」。

本書の6章は、大部の原著(日本語訳『各時代を通してのベトナムの女性』)のうち「近現代史の部分である第四章から第六章まで、および再版の序文、初版の序文、結論を訳したものである」。「原著はベトナム戦争の最中の一九六七年から六九年にかけて執筆された。初版はベトナム戦争終結前の一九七三年に出版され、多数の読者の反響を得て、一九七五年に第二版が出版された」。

 本書の各章の内容は、編訳者による「解説」で訳出されなかった部分を含めて紹介され、最後の「結論」はつぎのような要約になっている。「著者はベトナムの女性についての理論的考察を試みる。一人のベトナムの女性の中に、勤労者と主婦と戦士の三人の女性が混在することを、ベトナムの女性の伝統と品格として挙げる。ここで主婦とは家庭の主人という意味である。その品格を作り出した歴史的文化的背景を考察し、著者はふたたび原始時代の母権制からの歴史をふりかえる」。

 一九七五年の再版(第二版)にさいして、著者は執筆中の一九六八年からの大きな変化が、多くの場合突然に起こったことを感じ、その変化に合わせて本書を修正し補足したいと考えていたが、実現できなかったことを悔やんでいる。編訳者は、さらに「再版が出版された一九七五年以降も、ベトナムの人々はさらなる歴史の流れに翻弄され続けた」として、「解説」で時系列的にその後の変化を概観している。

 そして、「解説」をつぎのように結んでいる。「今日私たちが本書を読むとき、ベトナム近現代の女性運動、とりわけベトナム戦争当時の資料としての貴重な面にも注意すべきであるが、どんな状況においても創意工夫をこらして生きてきた女性たちの知恵と力、助けあい励ましあってきたその情愛に胸を打たれる。本書に絶えず現れる党の指導のもとに云々といった表現にうんざりする読者も多いであろうが、ベトナムで活動を続けるための合言葉と割り切って、著者が本当に伝えたかった女性たちの姿を読み取っていただければと思う」。

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2011年01月25日

『泰緬鉄道-機密文書が明かすアジア太平洋戦争(再版)』吉川利治(雄山閣)

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 本書が、再版されるのに際して、以下のような「解説」を書いた。

 本書は、再版ではなく、新版になるはずだった。二〇〇九年五月七日の日付の入った「まえがき」に、そのことが記され、「なるべく現地の立場から泰緬鉄道像を眺めてみよう」と、副題を「現地からの報告」としていた。タイの歴史を専門とした研究者として、日本がかかわったことをタイ側の視点で書き直そうとしていたのである。しかし、それは未完に終わった。二〇〇九年暮れ、著者の吉川利治先生はアユタヤのホテルで急逝された。

 残された原稿は、「まえがき」の後、「かつての泰緬国境」という見出しの短い文章があり、「泰緬鉄道の建設」「タイ政府と日本軍」というふたつの見出しの旧版を書き直した文章が続いていた。その後は、一九九四年の初版後に発行された出版物を中心とした抜き書きがあり、それに基づいたメモがあった。

 生前の著者が、近年気にしていたことのひとつが、日本の研究者やマスコミによる「日本占領下の東南アジア」という表現だった。アジア太平洋戦争中もタイは独立を維持し、日本とは同盟関係にあった。タイ国立公文書館に日本語の史料が残されていることが、日本とタイとの間で外交関係があった証拠で、当然のことながら日本が占領したほかの東南アジア諸国には、このような文書は存在しない。戦況が悪化するなかで、一九四三年に日本によって独立が許されたビルマ(現ミャンマー)にもフィリピンにも、このような対等な関係を示す外交文書は存在しない。したがって、同盟国タイを根拠地として建設されたタイ(泰)とビルマ(緬甸)を結ぶ泰緬鉄道であるからこそ、これらの史料を使って実態が明らかにされたのである。

 しかし、その後、同じ史料を使った村嶋英治氏から問題点が指摘された(「日タイ同盟とタイ華僑」『アジア太平洋研究』(成蹊大学)一三号、一九九六年、註六九)。また、タイの鉄道史のなかで泰緬鉄道を位置づけた柿崎一郎氏の本が二冊出版された(『鉄道と道路の政治経済学 タイの交通政策と商品流通1935-1975年』京都大学学術出版会、二〇〇九年;『王国の鉄路 タイ鉄道の歴史』京都大学学術出版会、二〇一〇年)。あわせて読むと、本書の理解も深まることだろう。

 筆者自身も気になることがいくつかあったが、訂正することは差し控えた。たとえば、「南方軍」は総軍のひとつとして一九四一年一一月に編制され、「南方総軍」とも呼ばれることはあったが、その略称ではない。泰緬鉄道建設第三代司令官は、遺稿集にあるとおり石田榮熊であるが、「石田英熊」になっている。タイ駐屯軍司令官中村明人などが「英熊」と書いているからかもしれない。左近允(さこんじよう)尚正海軍少将は、本書では「左近允正」になっている。原史料どおりかもしれない。原典の数値の合計が一致しないことはままみられるが、確かめることができないので、そのままにせざるをえなかった。そのほかにも、明らかな間違いであると思われるものがあるが、確認が困難なため、また、ほかの研究者が出版したものを中途半端なかたちで訂正することができないため、そのままにしたことをお断りし、お詫びを申しあげる。

 タイ国立公文書館の文書を、著者は丁寧に筆写しているが、日本語とタイ語で表記が違っていたり、手書きの日本語文書は旧字体であったり新字体であったり、タイの地名が正確に書かれていなかったりで、出版に際して限られた時間内で表記を統一することはできなかった。本書の不充分さをもっともよくわかっているのは、著者本人であろう。だからこそ、今後の研究の礎として本書を出版し、もう一度力を振り絞って改訂版を書こうとしていた。しかし、それにも限界があることを感じておられたのであろう。二〇〇七年にタイ語で出版された『同盟国タイと駐屯日本軍―「大東亜戦争」期の知られざる国際関係』(日本語版、雄山閣、二〇一〇年)の著者「まえがき」は、つぎのことばで終わっている。「タイ国立公文書館の公文書は、タイの現代史を知る資料としての重要さはもちろんであるが、当時の日本や日本軍を知る歴史資料としてもまだまだ探ることができる貴重な資料である。私にはもうその機会はなさそうであるが、若い研究者に今後を期待したい」。

 最後に、新版に向けて書かれた「まえがき」と書き出しの部分、追加文献目録を載せることにする。「まえがき」に出てくる「日本の学者仲間」とは、倉沢愛子氏(慶応大学)、山室信一氏(京都大学)と筆者のことで、二〇〇四年七月二四日~二五日にタイ側の泰緬鉄道、三〇日~三一日にクラ地峡横断鉄道、翌二〇〇五年二月二三日にミャンマー側の泰緬鉄道、それぞれの跡地を訪ねた。詳しくは、拙著『戦争の記憶を歩く 東南アジアのいま』(岩波書店、二〇〇七年)を参照していただきたい。泰緬鉄道に関する記述は、文字通り生き字引であられた著者から学んだことである。なお、著者の遺稿は草稿であるため、誤字などを改めたことをお断りしておく。

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2011年01月11日

『ワークショップ社会経済史-現代人のための歴史ナビゲーション』川越修・脇村孝平・友部謙一・花島誠人(ナカニシヤ出版)

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 本など、まともに読んだことはない。辞典・事典で調べるために、図書館に行くこともない。レポートは、インターネットで検索して、コピペして終わり。そんな学生を、日々相手にしていると、こんな本の必要性が浮かんでくる。

 本書は、4部50章からなり、最初の3部はそれぞれ近世から現代に至る時代順に、ヨーロッパ、インド、日本のテーマ15ずつを並べている。最後の「第Ⅳ部 21世紀の歴史情報リテラシー」だけが5章からなり、「歴史を学ぶ皆さんがインターネットやデジタル情報を利用する際に、心にとめておいてほしいことがらをまとめ」ている。「各章では、それぞれの時代やテーマの特徴を1頁で概観し、それに関連するデータ(統計図表・文字資料・図版資料など)を2頁にわたって提示した後、その時代を特徴づけているトピックについて詳述するという共通のスタイルをとって」いる。

 4人の著者が、本書を通じて伝えたかったことは、「はじめに」の最後で、つぎのように述べられている。「歴史は動くということ、そしてそれを動かすのは、経済や社会を形作っている私たちひとりひとりの日々の暮らしに他ならないということです。本書が、歴史を通じて今という時代における生き方を考えるナビゲーターとして役だってほしいと願っています」。

 最初の3人の著者が、それぞれの部15章を、ひとつひとつ15回にわたって、授業をしている姿が目に浮かぶ。しかし、その講義を聴いていない読者が、この本だけで理解するのはそれほど簡単ではない。かつて、物理学の大家が、高等学校の物理の教科書を見て、「あまりにも簡略化しすぎて、わたしでもわからない」と言うのを聞いたことがある。自習用としては、よくないかもしれないが、要点を押さえる、あるいは確認するためには、いいかもしれない。

 最後の「50 コピペよ、さらば-WEB情報の信頼性リスク-」を理解すれば、図書館に行って参考図書を探し、事典で調べるようになるだろう。「結局のところ、紙媒体の資料であれWEBサイトの情報であれ、自分で「裏がとれない」情報は、どれほど魅力的に見えても使うべきではないのです」。これが、わかるようになるために、どれだけの本を読まなければならないか。本を読まない者には、その危険性がわからない。

 最後のトピック「クラウド・コンピューティング時代の歴史研究」で、歴史を学ぶ者にたいして、つぎのように問題点を指摘している。「歴史の分野では、こうした取り組み[世界中に散在している膨大な歴史情報を共有化して、一つのデータベースであるかのようにインターネット上のどこからでも自由にアクセスできるようにする]が遅れているのが実情です。歴史研究者の間でこうした技術に対する関心が低いことが大きな原因になっていることは明らかです。クラウド時代の歴史研究者に求められているのは、他分野の研究者と手を携えて、人類の貴重な財産である歴史情報の共有化を成し遂げることかもしれません」。

 本書のような試みが、成功するかどうかは、つぎの3点にかかっているように思える。まず、文献史学の基本である地道な原史料を読むという作業を経験し、その重要性を理解しているかどうかである。理解していれば、時間をかけて読まなければならないものと、そうでないものとがあり、そうでないものの理解には便利なものになるだろう。つぎに、テーマによっては、文献以外の史料がより重要になることもあるということである。文献以外のデータベースのほうがつくりやすいかもしれない。その場合、逆説的に文献史料からわかることとの関連から、文献講読の重要性がますます高まることになるだろう。最後に、研究が進んでいる分野のほうが安直に入りやすくなり、そうでない分野との格差がますます拡がる危険性がある。逆に、歴史情報の共有により、研究が進んでいない分野が飛躍的に発展するかもしれない。いずれにせよ、偏りのない「世界史」の理解に役立つことを期待したい。

 本書を理解してから深く入っていくか、一通り勉強した後本書で基本を確かなものにするか、後先どちらでもいいが、そうとう勉強しなければならないことは確かだ。

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2010年12月21日

『商人と宣教師 南蛮貿易の世界』岡美穂子(東京大学出版会)

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 東アジア海域を舞台として、近世世界史がようやく見えはじめてきている。本書を読み終えて、最初にそう思った。西欧中心史観としての「大航海時代」と日本のナショナル・ヒストリーとしての「南蛮貿易」は、それぞれそれなりに研究蓄積がありながら、「世界史」がなかなか見えてこなかった。その謎を解く鍵が、本書から垣間見えた。

 本書は8章からなり、多くの章はもととなる論文があるが、論文集ではない。「序章 世界史における南蛮貿易の位置」と「終章 聖と俗が交錯する南蛮貿易の終点」が新たに書き加えられることによって、ひとつのまとまりのある単行本になっている。最近の博士論文のなかには、序章も終章もなく、脈略のわからない論文が数本ならんだだけというものがあるが、単行本として出版されるときは、こうあってほしい。

 本書の目的は、「序章」冒頭で、つぎのように述べられている。「一六世紀後半から一七世紀前半にかけてのポルトガル人の東アジア海域における活動を、「ヨーロッパの拡張」という視点からいったん切り離し、「東アジア海域世界」に参入してきた一勢力として観察することで、彼らがこの海域でどのような影響を受けて変容し、また彼らの存在によってこの海域にいかなる変化が生じたのかを探ることにある」。

 著者、岡美穂子は、「序章」「第一節 問題提起-「南蛮人」の帰属意識」で、まずスペインとポルトガルを「イベリア両国」という語で、十把一絡げにするなという。スペインは最初から領土拡張を重視し、ポルトガルは貿易を重視して、それぞれが根拠地としたマニラとマカオはまったく異なる存在形態であった。また、最新の研究成果から、アジア間貿易の担い手であったポルトガル人の多くは改宗ユダヤ人で、血縁に基づく商業ネットワークを築いていたと指摘している。すなわち国を追われたこれらのポルトガル人に、国家を背負っているという意識はそれほどなかった。

 つぎに、「第二節 本書の構成と諸課題」で、南蛮貿易の研究は、ヨーロッパから極東アジアまでの広大な地域の歴史認識と、経済史、キリスト教史などの諸々の幅広い知識が要求されることを前提として、「東アジアという環境のなかで日本=マカオ間の貿易関係の再構築」を試みる研究が必要だと述べる。そして、東アジアで活動した海賊、商人、宣教師の区別は、それほどなかったことを指摘する。近世であるから曖昧であるのが当然であるにもかかわらず、排他的な近代の国民国家のイメージで、これまで捉えてきたからだろう。著者は、「実際には東アジア海域ではそのような「公的関係」よりもむしろ、商人と宣教師たちが互いの利害関係にもとづいて、相乗的に活動を展開したことこそが注目に値する」とし、「国籍上の分類ではポルトガル人であったとしても、その帰属意識は多種多様であった点にも注意を要する」という。つまり、これまでの研究は、「「ポルトガル」という国家の名称と「ポルトガル人」というエスニシティが混同され」、「マラッカ以東で活動したポルトガル人の私貿易集団や国家への帰属意識の薄い個人の活動も、安易に」「ポルトガルという「国家」のアジア進出」のなかに包摂してきたのである。

 本書は、3部8章(「第Ⅰ部 一六世紀の東アジア海域とポルトガル人」3章、「第Ⅱ部 南蛮貿易の資本」2章、「第Ⅲ部 商人と宣教師」3章)からなる。それぞれの章には「はじめに」と「おわりに」があり、章の目的・課題が明記され、それに対応した結論・まとめがあってわかりやすい。ポルトガル、スペイン、イタリア、インドの文書館に所蔵されている南欧語の原史料に基づいた考察は、説得力がある。惜しむらくは、巻末に史料一覧、参考文献目録がなく、地図が1枚もないことだろう。

 本書によって、西欧中心史観やナショナル・ヒストリーという先入観から解放された近世東アジア海域史が、見えてきた。しかし、まだ文献からわかることから歴史像を構築しようとする基本は変わっていない。つぎの課題は、文献だけからではわからない海域史はなにかを考えることだろう。本書から垣間見えたように、東アジア海域で商業活動していたのは、ヨーロッパ人、中国人、日本人だけではない。しかも、「公的関係」だけではなく、さまざまな帰属意識をもつ人びとがいた。それぞれの海域で主導権を握っていたのは、これら陸域に活動の拠点をもっていた人たちばかりではなかった。「倭寇」だけではない海賊とも海商とも区別のつかない国籍不明あるいは無頓着な人びとが、南中国海にもインド洋にも、東南アジアの多島海にもいた。南蛮貿易は、西欧と極東アジアを結ぶさまざまな人びとによって担われていた。これらの「見えない」人びとの存在を意識することによって、新たな世界史像があらわれてくることだろう。

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2010年12月07日

『イギリス文化史』井野瀬久美惠編(昭和堂)

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 本書の英文タイトルは、British cultural history。日本では、国名として「イギリス」が一般的だが、正式名称は「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国(United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)」。ロンドンに手紙を出すとき、EnglandなのかGreat Britainなのか、はたまたUKなのか、よくわからなくなる。オリンピックは「イギリス」だが、ワールドカップなどはイングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドと別々に出場している。

 国名だけではない。「イギリス」という国は、よくわからなくなることがある。EUに加盟しても共通通貨のユーロを使用しない、傘は持っているのにささない、野菜はゆでる、・・・。そんな数々の疑問が、解けるのではないかと思い、本書を開いた。

 まず、「はじめに」で、「文化史」の重要性が「対象としての文化史」と「方法としての文化史」で説明され、続いて「イギリス文化を考える四つの時空間」がとりあげられる。「四つの時空間」とは、「連合王国としてのイギリス」「ヨーロッパ史という時空間」「環大西洋世界という時空間」「大英帝国という時空間」で、「「イギリス文化」とは、こうした四つの時空間が、共時的に、あるいは時間的なずれをともなって、多層的に組み合わさり、絡み合うなかで創造され、変化し、再創造されてきた」ものだという。

 さらに、つぎのように説明している。「それぞれの空間軸と時間軸が重なったところには、さまざまな力学が働く。階級、エスニシティ、人種、ジェンダーなどはその力学を生む代表的な要素であろう。それらが組み合わさるなかで、またそうした諸要素が醸し出す緊張感のなかで、イギリス文化が創造されるとともに、それを収める(あるいは規制する)制度もつくられた。その具体的な様子を動態的に検証していくことが、本書全体を貫くテーマである」。

 そして、「本書の構成」へと続く。本書は3部(「制度と文化」「「イギリスらしさ」を読み解く」「「悩めるイギリス」の文化的起源」)14章からなる。最後に、[エピローグ]「揺らぐアイデンティティ-「イギリス人」のゆくえ」がある。14章のなかには、「イギリス料理はなぜまずいか?」「イギリス人はなぜ傘をささないのか?」「なぜイギリス人はサヴォイ・オペラが好きなのか?」も含まれている。

 本書は、「読者に知のワクワク感をきちんと届けるために」、「文化というものを、表面的な現象のみならず、その奥にある構造的なものにまで踏み込んで議論」しようとしたものである。その編者のおもいに、それぞれの執筆者が応えている。たとえば、イギリス人がサラダを食べなくなったのは、議会囲い込みによって、農民の共有地がなくなり、「在地食材の利用可能性が大幅に低下した」結果、「どこの誰が作ったかわからず、それゆえ家畜・家禽の糞尿がかかっているかもしれない生野菜は生食可能なものではなくなった」ためだと説明されている。

 「イギリス国民の傘に対する思いは、ステイタス・シンボルとしての過去への懐旧の情から反発までの振幅を内に秘めたまま、結局持つも持たぬも、さすもささぬむ、個人の自由という落としどころを見いだす」となる。そして、19世紀後半のイギリスで生まれたサヴォイ・オペラは、「歌劇としても演劇としても二流、三流の扱いしか」受けないのに、「英米を結ぶアングロサクソン礼賛の賜物」として、アメリカでも人気を保っている。

 編者の「はじめに」を念頭において読むと、それぞれの章がよりわかりやすくなり、最後の[エピローグ]でイギリスの未来を見すえて、いまの問題が語られている。「はじめに」と[エピローグ]をつなぐ14の章が、「「イギリス文化史」という知のタペストリー」となって編みあがっている。

 だが、「イギリス文化」は、もはや「国民文化」でもなければ「民族文化」でもない。「文化」で語るということは、「政治」や「経済」で語ることとは違う「越境」があるはずだ。4つの時空間に含まれない日本の研究者が、イギリスの「魅力」をこのように語ることができるということは、第5の時空間のなかで「イギリス文化史」が語れるのではないか、とふと思った。

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2010年11月30日

『同盟国タイと駐屯日本軍-「大東亜戦争」期の知られざる国際関係』吉川利治(雄山閣)

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 本書は、2009年暮れにタイのアユタヤで急逝した著者、吉川利治の遺稿である。すでに2007年にタイ語で出版され、日本語版の出版に向けての改稿も終わりに近づいていた。

 本書をタイ語で出版するきっかけになったのは、著者がタイの大学に提出されたタイ人の博士論文の審査に加わったことだった。論文のなかに「日本占領下のタイ」という記述が何度もでてきたことに、驚いたのだ。タイでは、「大東亜戦争」という言い方がよくされるが、タイはその戦争の初期に日本と同盟を結んでイギリス・アメリカに宣戦布告した。ところが、戦後のタイでは、抗日運動を担った自由タイの功績が強調され、タイは外交力を発揮して敗戦国になることを免れ、1946年に国連に加盟することに成功した。

 さらに、アカデミー賞7部門で受賞した映画「戦場にかける橋」(1957年)で、戦争中に建設されたタイ(泰)とビルマ(緬甸、現ミャンマー)を結ぶ泰緬鉄道が「死の鉄道」として有名になると、建設に従事させられたイギリス人やオーストラリア人などの捕虜の関係者だけでなく、世界中から観光客が「死の橋」や連合国軍墓地のあるカーンチャナブリーなどを訪れるようになった。

 泰緬鉄道という戦争遺跡は、タイにとって重要な観光資源になるとともに、連合国との友好に一役買った。また、ASEANとしてのまとまりが強化されていくなかで、タイもほかの東南アジア諸国と同様の戦争体験をしたかのように錯覚し、さらに近年の中国との関係の深まりから中国の「反日」の影響を受ける者もでてきている。このような背景から、「日本占領下のタイ」という表現が博士論文にもでてきたものと思われるが、著者にとっては見過ごすことができないことであった。

 いっぽう、日本では「日本占領下の東南アジア」という表現が、研究者のあいだでもよく使われ、タイが独立国でアジアで唯一の日本の同盟国であったことを無視するような記述がまま見られる。たとえ、日本側でもタイ側でも、事実上、タイは日本の占領下にあったようなものであったと感じていた者がいたとしても、日本政府や日本軍はほかの東南アジア諸国・地域と同じようにはできなかったはずだ。その著者のおもいは、本書のつぎの最後の文章にあらわれている。「日タイ同盟を結んだ以上、日本軍もまたタイの主権を軽々に蹂躙することができなくなった。他の東南アジア諸国と同様の調子で、“日本占領下のタイ”という表現を、外国や日本の専門家が安易に用いているのを読むとき、果たして正鵠を射た表現であろうか、という疑問を禁じ得ない」。

 そして、タイが独立国で、日本と外交関係があったからこそ、タイ国立公文書館には、タイ語文書だけでなく、日本が提出した日本語の文書が残されている。その両国の資料を駆使することによって、本書は書かれた。

 タイ語版は、タイで高く評価された。そのことは、日本語版にその訳が掲載されたタンマサート大学元学長チャーンウィット・カセートシリの、つぎの「推薦文」からも明らかである。「本書は四章からなり、日本がタイを同盟国として関係を取り結ばねばならなかった理由や必要性について言及し、この同盟関係が日本側の政策に合致していたのかどうか、合致していればどのように合致していたのか、また五万の兵力の日本軍がタイに駐留していたときに日本は条約や協定に従ってなにをタイに要求したのか、タイはそれに応じたのか、独立と国家の威信を維持するためにどのような「策略」をとったのか、などを明らかにしている」。「本書で考察されているこれらの点は、第二次世界大戦期の知られざる本質であり、…第二次世界大戦期のタイ日関係を再検討するうえで学術的で非常に高い価値を有するもので、この時期の両国関係の要点の理解を促すものである」。

 アジア太平洋戦争について書かれた日本語の書籍の多くは、外国人が読むことができない。もし、これらの日本語の書籍が日本人だけに通用する論理で書かれているなら、歴史認識を共有することは不可能である。本書のように、日本語とタイ語で出版することによって、共通の基盤のうえに歴史を語ることができるようになる。著者は、歴史的事実は事実として理解することで、タイと日本の友好関係が深まると信じていた。そのおもいを、行間からぜひ読みとってほしい。

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2010年11月16日

『岩波講座 東アジア近現代通史』和田春樹・後藤乾一・木畑洋一・山室信一・趙景達・中野聡・川島真編集委員(岩波書店)

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 1992年に、「国籍の異なる12名のヨーロッパ人歴史家たちが何度も討議を重ね、その上で共同執筆されたヨーロッパ史の教科書」が、EU(ヨーロッパ連合)加盟国の各国語で同時に刊行された(日本語訳:木村尚三郎監修『ヨーロッパの歴史』東京書籍、1994年)。その「フランス語版へのまえがき」には、つぎのような「注意書き」がある。「しかし、誤解しないで下さい! 本書の執筆者も刊行者も、地域史・各国史をおとしめる意図など毛頭ありません。それらの歴史は異論の余地なく一定の場を占めています。また、現代世界を理解するのに必要不可欠な、世界史とヨーロッパ以外の大陸の歴史を無視するつもりもありません。私たちの目的は補完的なものです-それはヨーロッパの行為なるものを、私たちの地域的過去や私たちの民族的現実、そして全人類の冒険と、つき合わせて考えてみる一助とすることです」。

 東南アジアを含む東アジア共同体が論議されている今日、わたしたちはこのような地域の共通教科書として、「東アジアの歴史」を書けるだろうか。今日使われている東アジア各国の教科書を見る限り、答えは「NO」である。とくに、近現代史は1国史中心で、近隣諸国の歴史とのかかわりはほとんど書かれていない。そのおもな原因は、日本にある。侵出してくる日本にたいして、いかに対応したかが近現代史の中心で、ほかの近隣諸国・地域との関係や世界のなかでの歴史を考える余裕がないからである。その意味で、本講座を日本で出版する意義は大きい。しかし、細心の注意も必要だ。本講座が成功すれば、東アジア共通の歴史認識として、東アジアの各国語に翻訳されることも期待される。ほかの東アジアの国ぐにでは、このような講座は無理だろう。

 本講座の特色として、つぎの4つが掲げられている。「東アジア史のアカデミック・スタンダードを提示」「複眼的視野からアジア史のリアリティに迫る」「ナショナル・ヒストリーの枠を超える歴史分析」「諸帝国が折り重なる場として「アジア」を問いなおす」。全体をあらわすものとしては、つぎの2番目に掲げられたものの説明が、いちばんわかりやすいだろう。「グローバル(世界)-リージョナル(広域圏)-ナショナル(国家)-ローカル(地方)の四層から、アジアの近現代の動態と動因を探る」。

 本講座は、第1巻の「東アジア世界の近代 一九世紀」にはじまり、第2巻以降20世紀をおおよそ10~15年ごとに区切って一括りにしている。別巻「アジア研究の来歴と展望」には、「アジア研究の泰斗10人へのインタビュー」と「10のテーマからアジアを通時的に捉える「アジア研究のフロンティア」が収録される。各巻は、「通史/通空間論題/個別史・地域史の3部だての16論文と、10のトピックコラム、人物コラム」から構成されている。

 講座が刊行されること自体、いまが時代の転換点であることを示している。これまでの学問の成果を回顧し、新たな時代に備えるのが目的のひとつだからだ。本講座の「編集にあたって」でも、「本講座が、未来に向けた歴史認識と国境や民族を超えた対話の可能性を切り開く出発点となることを願っている」と結んでいる。その背景として、「各国の歴史学は自国史の枠組みにとらわれ、「和解と協力の未来」を構想し得るような歴史認識を構築することは、依然として困難な課題であり続けている」ということがある。「グローバリゼーションの進展が、皮肉にも「閉ざす力」として機能し、ナショナリズムを鼓吹している状況もある」。

 近代国民国家の歴史教育は国民を