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2014年02月18日

『ラオスを知るための60章』菊池陽子・鈴木玲子・阿部健一編著(明石書店)

ラオスを知るための60章 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 「エリア・スタディーズ」シリーズも、2013年に126冊になった。とりあげる国や地域は、「現代」を冠したものもあり、その目的や読者対象がさまざまで一律ではない。本書は、日本で「ニュースになる機会は多くない」「ラオスを知るための60章」である。

 編者一同は、つぎのような目的で本書を編んでいる。「今日の世界の大きな強い流れに身を置いていると、ゆったりと生きている小さな国の人々のことには、なかなか関心がいかない。しかし小さなことのなかにこそ大切なものがある。本書の以下のさまざまな話題から、ラオスにはそれがあふれていることを実感してもらえるのではないか」。「時間の流れがゆったりとしており、メコン河の向こうに沈む夕日をながめていると、この世の喧噪を忘れさせてくれる。ラオスには目に見えない豊かさがある。それこそがラオスに人々が魅了される所以であろう」。「ラオスは目立たない小さな国であるが、いくつも素晴らしい点がある」。

 本書を通読すると、それぞれの執筆者が、ラオスに魅了されていることがわかる。本書を手にとって、現実のラオスを見に行きたくなった読者も多いことだろう。そのような読者のために、本書は9部「自然」「生活と生業」「環境と開発」「歴史」「経済」「政治と外交」「宗教と儀礼」「言語と文学」「文化」、さらに60章にわけて、魅了される旅に誘ってくれる。最初の2部14章では、「素晴らしい点」として、まず自然についてとりあげ、「はじめに」でつぎのように紹介している。「他の多くの国々では失われてしまった森林や汚れていない豊かな河川、さらに自然と調和した生活が今日もいたるところに見られる。本書の第Ⅰ部では、その豊かな「自然」について、そして第Ⅱ部では、その自然を賢く利用する人々の「生活と生業」について、主に自然科学者が執筆している。出自も言語も文化も歴史も違う多様な民族が、さまざまな自然環境のなかで、上手に棲み分け共存している点は、多くの執筆者が指摘している点だ」。

 このようないくつも素晴らしい点があることはわかったが、本格的にラオスのことを学びたいと思う読者には、少々物足りない面もあるだろう。ラオスには、2つの世界遺産がある。1995年に街ごと認定されたルアンパバーンは、14世紀にランサン王朝の都となって以来、王宮文化が栄えた街である。「東南アジアの伝統的都市形態であるムアンの形を残していることでも貴重な存在で、王権を中心とした構造、さらにはそれを支えるバーンという、寺を中心とした村組織の形を見てとることができる」。その都が、1945年に「独立を求める動きが表面化してから」「30年に及ぶ闘争の歴史」の中心のひとつになった。「アメリカの支援を受けた右派、ベトナムやソ連の支援を受けた左派、両者の間で揺れ動いた中立派と3派に分かれたラオス人同士が戦いを繰り広げる内戦」が、人口わずか数百万の国で起こったのはなぜか。75年にラオス人民民主共和国成立後、その内戦の後遺症はないのか。本書では、多く語られていない。本書で語られている「ほんわか」した感じのラオスだけではないはずだ。

 もうひとつの世界遺産チャムパーサック遺跡群は、2001年に登録された。カンボジアのアンコール遺跡と関連すると考えられている10~12世紀の遺跡群は、「遺跡と自然の2要素が組み合わされ、それが文化的景観として統合されている点」に特徴がある。だが、この遺跡を遺した人びとのその後について、よくわからない。ラオスという枠組みだけではわからないことは、本書のほかの多くの章についてもいえるだろう。ラオスという小さな国をダイナミックに語ることによって、「小さなことのなかにこそ大切なものがある」ことが、もっと伝わるのではないか。たんなる観光地として魅了される以上のものが、この小さな国にはあるはずだから。

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2013年12月24日

『ビルマ・ハイウェイ-中国とインドをつなぐ十字路』タンミンウー著、秋元由紀訳(白水社)

ビルマ・ハイウェイ-中国とインドをつなぐ十字路 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 こんな本が、東南アジア各国・地域の人、あるいは東南アジア出身の人によってもっとたくさん書かれれば、東南アジアのことがもっとよく理解してもらえるのに、とまず思った。つぎに、こんな本を書いてみたいとも思ったが、外国人研究者には書けないと思い直した。むしろ、外国人研究者だからこそ書けるものを考えるべきだと思った。

 まず、現在のビルマのことがわかると思って、本書を開いて不思議に思った。目次の後に、4葉(4頁)の地図があった。それぞれのタイトルが、「紀元前1世紀の中国、ビルマ、インド」「紀元前1世紀のビルマと近隣国」「17世紀のビルマと近隣国」「2011年のビルマと近隣国」だった。いったい、なんの本だ?、と思った。

 本書は、プロローグ、3部、エピローグからなる。第1部「裏口から入るアジア」では、ビルマの現状を、歴史と文化を踏まえて語っている。第2部「未開の南西部」では中国、第3部「インド世界のはずれ」ではインドを、それぞれビルマとの関係、歴史と文化を背景として語り、現在直面している問題の根底にあるものを探っている。

 本書の帯では、つぎのようにまとめている。「東は雲南(中国)、西はナガランド(インド)と国境を接するかつての「辺境」が今、空前の活況を呈している-。気鋭のビルマ史家が二大文明に挟まれた小国の歴史をたどり、自ら旅して「アジア最後のフロンティア」の実像に迫る」。

 著者タンミンウーは、つぎのように紹介されている。「歴史家。一九六六年生まれ。ハーバード大学卒業、ジョンズ・ホプキンス大学高等国際関係大学院修了。ケンブリッジ大学にて博士号(歴史)取得。カンボジアや旧ユーゴスラビアの国連平和維持団や国連本部での勤務を経て、現在はヤンゴン・ヘリテージ・トラストの会長として歴史的建造物の保存に取り組むほか、ミャンマー大統領の国家経済社会諮問評議会の評議員や、ミャンマー平和センターの特別顧問なども務める。元国連事務総長のウー・タン(ウ・タント)は祖父にあたる」。

 訳者秋元由紀は、本書の大前提をつぎのようにおさえ、「訳者あとがき」で述べている。「中国とインドというアジアの二大文明に挟まれているその位置こそが、ビルマにとって最大の資産である。ビルマは、南アジアと東アジアをつなぐ活発な交差点として、自国だけでなく中国やインドの人びとにも恩恵をもたらす可能性を秘めている」。

 つぎに、帯に大書されている「アジアの「裏口」ミャンマー(ビルマ)を知るための必読書」の「裏口」に引っかかった。著者は、第1部のタイトルを「裏口から入るアジア」としていることから、「裏口」にしたのだろうと思った。日本人にとっても、いちばん西の遠い東南アジアということで、わかりやすいだろうとも思った。しかし、アメリカで育ち、生活した著者にとって、「裏口」でもないだろうと思った。本書を読むと、著者は「イギリスは当初、ビルマが中国への裏口となることを期待していた」ということから、「裏口」という表現を使ったことがわかった。それでも、著者にとっては、「アジアへの入り口」だった。著者は、8歳のとき国連事務総長だった祖父の葬儀のために、初めてラングーンを訪れ、それからほぼ毎年ビルマに行くようになった。

 著者が歴史にこだわるのは、現在のビルマの国境が過去のものとはまったく違うことが、今日のミャンマーの問題の根底にあり、中国やインドとの関係にもそのことが大きく影響していると考えているからだ。著者は、つぎのように説明している。「今日、地図上ではインドとビルマ、中国は国境を接している。しかしイギリス支配が始まるまで、インドと中国それぞれの権力中枢の間に広がる高地地方はどの国の支配下にも入ったことがなかった。ビルマの王国も小さく、その周りには数千キロにわたり、どの国にも属さない民族が暮らす土地が広がっていた。それらは小さな領主国や部族で、上位の権力に忠誠を誓ってなどいなかった」。

 「イギリスはビルマで二つの対照的な統治方法を用いた。低地地方である「ビルマ本土(プロパー)」、つまりイラワディ川流域やそれに続く沿岸部では、イギリスは直接統治を行った。王政を廃止し、貴族や各地の有力一族を排除して、代わりにイギリス政府の公務員と現地採用の事務員を置いた」。

 「高地地方の扱いはまったく異なるものだった。イギリスはもとからいた世襲の藩主の一部(植民支配を拒否した者)を排除したが、ほかは残し、一部の藩主の権力を強化した。またビルマ以外の植民地と同様、地元の長や役人が仕切っていたやや秩序に欠ける行政を合理化し、体系化した。二十世紀には、シャン侯国は三四人の「ソーブワー」のもとに組織されていて、そのソーブワーたちは厳格な「優先順位」に従って序列が決まっていた。また山岳部には東のワや北のカチンなど、山奥の部族の長がいた。彼らはソーブワーより位が低かったが、イギリスは(忠誠と、歳入の一部と引き換えに)彼らの権力保持を認めたので、彼らの多くは以前と同じように営みを続けることができた」。「ビルマの低地地方が左翼政治やナショナリズムが渦巻いて騒然とした状態だったのに対し、高地地方はほぼ全域が平和だった」。

 その高地地域にたいして、ビルマ軍指導部は、「統合のゆるい連合国家の一部として少数民族居住地域に自治を認める連邦制という国のあり方自体にたいへんな嫌悪感を抱いていた。軍人として訓練されてきた彼らにとって、ビルマが民族ごとに分裂することは現実の脅威であり、考えられる最悪の悪夢だった」。

 このように考える裏には、長い歴史があることを、著者はつぎのように説明している。「ビルマ語は、もともと話されていたイラワディ川中流域から、セイロンの非常に保守的な上座部仏教に由来するビルマ仏教の流派とともに、数世紀かけて広がった。古い年代記に出てくるカンヤン人やピュー人、テッ人などは、進化するビルマ民族文化に吸収されていき、もはや存在しない。十八世紀にビルマ王国は、ラングーン周辺の古いモン語王国を併合し、モン人も縮小を続ける少数民族となった。ビルマ文化の辺境というものがあり、軍事政権はこの辺境を国のいちばん端まで広げたいと望んでいた」。

 現在、国境周辺に住む人びとの中には、つぎのような人がいることを、著者は紹介している。「公式の書類を持っていなくても問題なく国境を越え、中国国内を移動できた。またビルマ語とシャン語の名前に加え、中国語の名前さえ持つようになってもいた。「マンダレーではロンジーを着け、ビルマの音楽を聴いてくつろげる。シーボーではシャン人の友人に会い、シャン語でしゃべる。中国では、中国人は私のことを純粋な中国人だと思っている」。

このような人びとの暮らす地域は、ミャンマー側だけでなく、中国側にもインド側にも広がっている。そして、このような地域の平和と安定が保たれるかどうかによって、両極端の筋書きが考えられる。著者は、その鍵となる条件をつぎのように述べている。「ビルマが持つさらに重要な財産は、中国とインドの間にあるというその戦略的な位置で、まさにこれこそが今後、国全体にとって途方もなく有意義な機会をもたらす可能性がある。しかしその機会を活用して一般市民に恩恵をもたらすには、根本的な転換が必要だ。つまり、数十年続いた武力紛争を終わらせること。支配者層が、ビルマの民族的そして文化的な多様性を、単に対処するべき問題として扱うではなく、国にとって好ましいものとして見ようとすること、数世代にわたってビルマの政策を決定してきた排外主義に代わり、コスモポリタン精神が生まれること。そしておそらくもっとも重要なものとして、国民からの信用と信頼を受ける強く効果的な政府ができること」。

 長いタイムスパンと地域の特色をよくつかんだうえで展開される、ナショナルヒストリーを超えたビルマ史を堪能することができた。自分自身の足で現地を訪ね、未来を見据えて語られるだけに説得力があった。このような歴史が数多く語られ、地域も時代も重層することによって、地域史としての東南アジア史やインド史、中国史を叙述することが可能になるだろう。だが、本書に匹敵するものを、ほかの国や地域に求めることは容易いことではない。それだけに、本書は「ミャンマーを知るため」だけの必読書ではない。

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2013年12月17日

『民主化のパラドックス-インドネシアにみるアジア政治の深層』本名純(岩波書店)

民主化のパラドックス-インドネシアにみるアジア政治の深層 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 著者、本名純の専門は、「インドネシア政治・東南アジア地域研究・比較政治学」である。欧米をモデルとした近代政治学ではない。著者は、終章「民主化のパラドックス-アジア政治の深層をみる目」をつぎのことばで結んでいる。「グローバル政治経済の大きな力学に阻まれ、ひ弱な改革勢力が骨抜きになっていく事態はみたくない。そのためには、民主主義の現場で何が起きていて、権力と利権をめぐる政治がどう運営されているのかをローカルな立場から発信し、安易な民主化評価に警鐘を鳴らすことが大事である。それがグローバル化時代に生きる地域研究者の存在意義のような気もする」。「本書を通じて、その思いが読者の皆さんに伝わることを祈りつつ、この終章を締めくくりたい」。

 本書の目的は、「民主化が孕むパラドックスの実態を描く」ことである。その例として、インドネシアを取り上げる。著者は、「スハルト体制崩壊から一五年が過ぎ、「民主主義の一五年」を振り返る催しが盛んな今、民主化に潜むウィルスの進行を冷静かつ正確に観察することは、地域研究にとって重要な仕事ではないだろうか」と問いかける。

 著者は、その目的を達成するために、「六つの政治局面を観察」し、それぞれ1章をあてて論じている。まず、第1章「デモクラシーのグローバル化とスハルト体制の崩壊」では、「スハルト後」の理解に決定的に重要な意味をもっている「スハルト体制の「終わり方」について、「民主化運動はいかに発生したのか。そして政治エリートたちは、どのような思惑でスハルト退陣劇を演出したのか」を議論する。

 第2章「ポスト・スハルト時代の政治改革」では、「「スハルト後」の民主改革の発展をみる。改革の軸は大きく二つあり、一つは市民の政治的自由の拡大、もう一つは国家の権威主義体質からの脱却である。どのような改革が、どのような目的で実施され、それによって政治はいかに変化したか」を議論する。

 第3章「民主化移行期の混迷する権力闘争」では、「レフォルマシ[改革]が最も盛んに叫ばれた時期、すなわちスハルト退陣からハビビ政権、ワヒド政権、そしてメガワティ政権における政治エリートの権力闘争を考察する」。

 第4章「民主化定着期の劇場政治-ユドヨノ政権の権力闘争」では、「二〇〇四年からの「民主化定着期」を考察する。同年の議会選挙と大統領選挙は、大きな混乱もなく行われ」、ユドヨノ政権が誕生した。「民主的な選挙が定着し、有権者の意志が直接的に政治に大きな影響力を持つ時代になり、「人気者」を担ぎ上げる政治ゲームが盛んになっていく。「人気者」はどう創られるのか。この劇場政治の舵を取る政治エリートたちの権力闘争に迫る」。

 第5章「分離独立運動・テロ・住民紛争-治安維持の政治」では、「治安に焦点を当てる。民主化は時に暴力を生み治安が不安定になる。これをどう抑えるか。これが治安の統治である。民主化で国家の治安の統治メカニズムはどう変わったのか。その問いに多角的に迫るために、分離独立運動、テロリズム、住民紛争という三つの性格の異なる治安問題を考察する」。

 第6章「民主化とアンダーグラウンドの力学」では、「「裏社会」の変化にスポットライトを当てる」。「政治の民主化によって、裏社会はどう変容しているのか。どのようなアウトローたちが衰退し、どのような新興勢力が台頭しているのか。利権のパイが一番大きい首都ジャカルタにおける裏社会の秩序再編と、そのインパクトを分析する」。

 そして、終章では、「これまでの考察を踏まえて、民主化のパラドックスとは何を指すのかを定めた上で、その力学が他国でも存在しうることを論じる。また今の国際環境が、それを助長している実態を明らかにする。今、アジアを含めた世界各地で進行しつつある「民主化ドミノ」と、その促進を意図した国際的な民主化支援に関する課題も浮き彫りになろう。パラドックスのジレンマを乗り越えることはできるのか」を考える。

 その終章で、著者は、つぎのように問うている。「一方で国際社会のリーダーたちや、経済をみている多くの人たちからは、インドネシアの民主化の定着と安定が高く評価され、他方で批判的な人たちからは汚職や暴力や権力乱用が問題視される。結局、民主化は成功なのか、それとも問題なのか。その答えはどこにあるのか」。

 その問いにたいして、著者は、つぎのように答えている。「本書を通じてみえてくるのは、「両方とも正しい」という答えである。言ってみれば、問題が温存されているから安定しているのである。つまり、旧体制からの既得権益が持つ政治エリートたちが、それなりに今の民主主義の政治ゲームを謳歌できているからこそ、それを壊そうという動機を持ちにくく、その結果、今のシステム(すなわち民主主義)が持続して安定しているのである。国軍であれ警察であれ、国会議員であれ地方首長であれ、汚職官僚であれ実業家であれ、皆がそれぞれ、ある程度の権力と利権の分配に組み込まれている今の状況は、システム全体をひっくり返そうという政治勢力を生み出さない。だから安定しているのである」。「旧体制下で影響力を持っていた「非民主的」な勢力の権力と特権を温存できているからこそ、「民主主義」が定着して安定する。これがインドネシアにみる民主化のパラドックスである」。

 けっして健全ではないこのような「民主主義」を批判することは、難しいことではない。しかし、その「民主主義」をたんに否定するのではなく、健全な方向に向かうよう「ローカルな立場から発信し、安易な民主化評価に警鐘を鳴らすこと」が地域研究者としての役割だろう。著者は、外国人地域研究者としての「礼儀」を、つぎのように述べている。「忘れるべきでないのは、今の質の悪い民主主義の実践を変えていこうと日々頑張っている人たちが、政府のなかにも政党のなかにも市民社会のなかにもいるという事実である。そういう勢力の努力をサポートすれども邪魔はしないということが、外国人である私たちにとって重要なのではないだろうか。問題まみれの政治の実態を、「民主主義の運営が安定している、定着している」と高く評価し、国際投資のチャンスだと宣伝するグローバル経済のアクターたちや、中東での外交政策の失敗をカモフラージュするかのごとく、アジアの民主主義を賛美する欧米の政策決定者たちに無批判でいることは、質の悪い民主主義を謳歌している権力エリートたちを喜ばすことはあっても改革勢力の助けにはならないし、むしろ妨害にさえなりかねない」。

 近代政治学で理解できないことを、アジア政治の未熟さや腐敗などのせいにするのではなく、アジアをモデルとする現代政治学があってもいい。本書でも、書けないこと、書けても理解してもらえないことが多々あることを背景として読まなければならないだろう。とくに東南アジアは、流動性があり、地域差が大きいために、1国単位で語る場合にも統一性を欠く議論になることがある。本書で議論されたことが、ほかのアジア、とくに東南アジアの国ぐにでどれだけ適応できるのか、それぞれの国・地域の文脈で考える必要があるだろう。本書を手がかりとして、アジアにとってふさわしい「民主主義」とはなにか、過渡期としてなにが許されなにが許されないのか、考えるきっかけになりそうだ。

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2013年07月30日

『一つの太陽-オールウエイズ』桜井由躬雄(めこん)

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 「大緊張をもって読ませていただきました。最も強く感じた事は、結局、貴君だけが、まともに地域学をやったのだ、ということです」。本書は、タイ国日本人会の会報紙『クルンテープ』2010年11月号~2012年11月号に連載された「一つの太陽-オールウエイズ」をまとめたもので、読み終えた高谷好一先生が11月19日付け書簡冒頭で、このように述べている。それから1ヶ月もしない12月17日に、著者桜井由躬雄は急逝した。67歳。

 連載のきっかけは、著者が師とする石井米雄先生(1929-2010)を亡くしたことで、本書「はじめに」はつぎの文章ではじまっている。「二〇一〇年二月一二日の石井先生の死は、戦後の日本で生まれ育った東南アジア研究の、太陽の早すぎる落日であった。そのとき、この落日が東南アジア研究の死に至らないかという不安を持った。このエッセイは、結局、その不安の分析にあてられるかもしれない。それは先生がもっとも悲しむことである。先生の死を乗り越えて、世界一を誇る日本の東南アジア研究をさらに輝かせる。それが私たちの、若い世代への新たなマニフェストのはずだ」。「そのために、ここで石井先生の死に至るまでの日本の東南アジア研究が歩んだ道について語ることにした」。

 強気で他者の発言を封じるように、大声で威圧して自己主張する著者の生前の姿を知っている者は、その姿そのままの文章のなかに、著者の「本音」を聞き、著者の魅力を思い起こしているかもしれない。強気のなかに「弱さ」があって、その「弱さ」を打ち消すために、大声で「虚勢」を張る。その「魅力」に、多くのベトナム人も学生も虜になった。

 ベトナム人は、2009年第1回国際ベトナム学賞に、著者を選んだ。その受賞演説は、つぎのことばで終わり、満場総立ちで万雷の拍手を得たという。「現在、私は地域学者であります。地域学とはなんでしょうか。私の最初の答えはこうです。地域学は、地域を敬愛する心の表現である。私が死んだら、ぜひ天上でホーチミン氏に会いたいと思っています。私はホーチミン氏に報告します。『私は日本人です。それでも私の人生と私の科学的事業のすべてをベトナム地域研究に捧げてきました。この四四年間の私の研究の結論は、以下のとおりです。私はこよなくベトナムの大地を敬愛しています、私はこのうえなくベトナム人が好きです』。ベトナム、ありがとう。皆さん、ありがとう。」

 その翌年、重篤の心不全に陥った著者のベッドには、内外の学生が折った千羽鶴1500羽が飾られ、旧友に「桜井さんのまわりをご家族と学生さんが、固い輪を作って守っている」と手紙に書かせた。その死の生還時に描いた3つの残業(バックコックムラ調査報告書出版、『ベトナム概説』出版、ハノイの歴史の再構成)を、生きてかたづけることはできなかった。できていれば、もっと大きな顔をして天上に行くことができたと、悔しがっていることだろう。

 本書(連載)は、つぎのことばで終わっている。「長い、長いこの連載、この回で終わる。「オールウエイズ」、また「一つの太陽」というタイトル、いかにも評判の映画のもじりに見えて安っぽい。しかし、この題名で伝えたいことは、映画の「昭和伝説」とは関係ない」。「この六七年間、人並みに挫折もし、鬱にもかかった。失業もし、貧乏に苦しみ、逮捕拘禁もされた。大学の職を失いかけた夜、妻と子供たちの寝顔を見ながら、一家心中というのはこういうときにするのだな、としみじみ思ったこともある。人間関係に深く傷ついて押し入れの中で呻吟したこともある。その度に、内にあってはよき親、よき兄姉、よき妻、よき子、外にあってはよき師、よき友、よき学生に引っ張り上げてもらった。海外でなにごとかあれば、必ずよきサマリア人が現れた。人生は人々の恩愛で、満ちあふれている。そして私自身の上空には、いつも「地域学」という一つの太陽があった」。「オールウエイズ(いつもいつも)」、浪高しといえど、天気は晴朗である。今は漕ぎ出でん」。いつもなにか大きなものに頼りながら「自信」をつけた言動に、助けざるを得ない雰囲気をつくっていた。

 二人三脚で東南アジア研究をリードしたふたりの「巨人」(石井・桜井)の死は、ひとつの時代の東南アジア研究の終わりであろう。それが、新たな時代の始まりになるのか、死に絶えるのか。著者は、東南アジア史学会から東南アジア学会に2006年に名称を変更したことで、「東南アジア学の中の東南アジア史、地域学の一部としての東南アジア歴史研究が日の目を見た」とし、「東南アジア研究再興の連合拠点ができた」と自負している。歴史空間としての東南アジアを大切にし、地域研究としての東南アジアは井の中の蛙やお山の大将になることなく、もっと広い場で議論すべきだという意見に聞く耳を持たず、リーダーシップをとる気もその実力もないと自覚している歴史研究者を批判し、「歴史学者のおごり」と曲解した。名称変更という安易な手段をとり、新しい学会をつくるという産みの苦しみを経なかったことで、地域研究学会としての東南アジア学会は、著者が考えたような「東南アジア研究のすべての領域をカバーし、吸収し、発展させるもの」にスムーズに移行できたか、天上から石井先生とホーチミンと見ていることだろう。合掌。

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2013年07月23日

『パプア-森と海と人びと』村井吉敬(めこん)

パプア-森と海と人びと →紀伊國屋ウェブストアで購入

 今年、白木蓮が散りはじめた3月23日、家族らが見守るなか、著者の村井吉敬は息を引き取った。69歳。その1ヶ月前の2月22日に、著者はカトリックの洗礼を受け、洗礼名フランシスコ・ザビエルを選んだ。4月8日、葬儀ミサ・お別れ会がおこなわれた聖イグナチオ教会主聖堂は、著者の死を悼む「仲間」で埋め尽くされた。本書最後のページに略歴が載っている。しかし、1ページではとても書ききれない活動の広がりと奥深さは、参列した人びとの数と多様さが物語っていた。

 本書に挿入された「「小さな民」とイワシ研究」によると、1月末に膵臓がんの転移と余命宣言を受けたと聞いた「仲間」は、著者が1993年以来20回にわたって訪問したパプアの友人に、「噛めば癌細胞が消えるという木の皮」を求めた。「癌細胞を溶かして体外に出す効果のある」薬草は、つぎのメッセージ(2月8日付)とともに送られてきた。「・・・わたしたちパプアの友人は、村井さんを尊敬し愛しています わたしたちの闘いはまだ終わっていません わたしたちの望み、夢はすべて、村井さんの勇気から生まれました 村井さんは、わたしたちパプアと日本をつないでくれました わたしたちは、村井さんの思想、村井さんの行動を忘れることがないでしょう パプアは村井さんの家です 村井さんが元気になり、パプアに戻ってきてくれるのを祈っています」。

 そんなパプアの人びとと著者の関わりが、多数の写真とともに紹介されているのが本書である。「はじめに-トリバネアゲハ、ビンロウジ、パペダ、OPM」は、つぎの文章で終わっている(トリバネアゲハは蝶愛好家が垂涎の絢爛豪華な蝶、ビンロウジは椰子の一種でコショウ科の植物キンマの葉や房と石灰と一緒に噛む、パペダは主食のサゴヤシの料理、OPMは独立のためのゲリラ組織である自由パプア運動である)。「パプアにはさまざまな切り口、見方がある。わたしは二〇年ほどパプアを行き来してきた。パプアのとりこになったからである。日本より広いパプアだからまだ行っていないところもたくさんある。しかしこのあたりでわたしの見た、わたしをとりこにしたパプアを写真とともにここに報告しておきたい。写真はすべてわたしの撮った写真で、二〇〇二年以後はほとんどがデジカメの写真である」。

 著者をとりこにした理由は、「学ぶ」ことにあった。そのことを「あとがき」で、つぎのように述べている。「パプアの大きな自然はちっぽけなわたしたちの近代科学観すら簡単に凌駕してしまうような気がする。パプアに二〇回ほど出かけながら「学ぶ」というのはこういうことなのかと思う」。「パプアでわたしが行きついた問題もアイデンティティや国民国家の問題ではあるが、それ以上に人を取り巻く自然の問題がそこにはある。ややこしいことではない。パプアにいるといつも自然に囲まれ、その雄大さ、その厳しさ、その優しさ、美しさを感じざるを得なくなる。わたしは世界の大都会近郊にいるのでその思いはひときわ強い。人びとの基礎にもこの自然があるように思える」。

 そんな自然を日本軍が破壊した痕跡が、ここかしこにあることも、本書は伝えている。著者は、つぎのような感想を述べている。「日本軍や米軍の犠牲者についてはある程度の数がわかるが、パプアの人の犠牲の実態はほとんど何もわからない。日本の慰霊団の人びとの慰霊ツアーに「文句」を言うつもりは毛頭ないが、まずパプアの人の犠牲に思いをはせるべきではないだろうか」。

 著者のまなざしは、つねに「小さな民」にあった。その「小さな民」のすごさについて、つぎのように語り、それを理解していない開発を嘆いている一節があった。「パプアの山の人びとが、どれほどかサツマイモの栽培に長けているか、狩猟民のマリン(Marind)の人びとの鹿笛を使った猟がいかに優れているのか、タブラヌスの刳(く)り舟に彫られた彫刻がどんなにか抽象図案を巧みに使うか、こうしたことはほとんど伝わっていない。暮らしの知恵や技術、そして芸術性をいかに持ちあわせようとも、パプアは「未開」で、開発の対象でしかない」。

 学ぶ姿勢を持っている者から、学ぶことは多い。とりわけ著者のように、「小さな民」とともに学ぶという発想のある者は、全身で学ぶことができる。本書は、題名の通り、著者がパプアの森から、海から、人びとから学んだ報告である。「そんなパプアにまだ何度も行きたいと思っている」願いは、パプアから届いた「泥臭く苦いタブラヌスの「秘薬」をしかめ面で、しかしうれしそうに飲んで」も叶わなかった。

 本書「あとがき」は、つぎのことばで締めくくられている。「多くのパプアの友人たちに助けられてわたしのパプア浸りが成り立っている。この人たちがみないつまでも元気でいることを願って本書の幕を引くことにする」。著者の人生の幕は引かれたが、その「まなざし」は葬儀に参列した人びとはじめ多くの人びとに受け継がれている。合掌。

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2013年03月19日

『共在の論理と倫理-家族・民・まなざしの人類学』風間計博・中野麻衣子・山口裕子・吉田匡興共編著(はる書房)

共在の論理と倫理-家族・民・まなざしの人類学 →bookwebで購入

 「本書は、清水昭俊先生から教えを受けた学生有志によって編まれた文化人類学の論文集である」。本書を読み終えて、個人的にはまったく存じあげない清水昭俊先生が、いかに優れた研究者であり、教育者であったかがわかった。さまざまな地域や分野、関心をもつ論文をひとつにしたとき、いくら編者がうまく説明しても、バラバラ感はぬぐえないのが通常であるが、本書にはなにかしら一体感があった。それは、各論稿が、「清水への言及を結節点としながら互いに関係しあうことに」なったからにほかならない。

 その編者のうまい説明は、「まえがき」でつぎのように記されている。「本書は、さまざま[な]地域や分野を対象とし各自の関心を異にしつつも、この願いを共有する文化人類学者が、それぞれの研究を持ち寄り、「地域研究」「個別分野の研究」を超えた広がりの中に自らの探求や思考を位置づけ、特定の「地域」や「分野」(研究)の背後に控える「人類」(学)の在りようを浮かび上がらせようとする企てである。そのために、本書では、対象地域や分野が多岐に渡るにもかかわらず、各執筆者の間で共通する一点、すなわち、それぞれの学的基盤の形成過程で清水から少なからず影響を受けた事実に注目し、清水のこれまでの仕事のいずれかに言及することを執筆の条件とした」。そして、「共在」、つまり、「人と人が共に在り、関係することが、いかなる影響を当の人びとに与え得るのかという問いへと読者を」誘っている。

 本書は4部16章と、清水昭俊寄稿「民の自己決定-先住民と国家の国際法」と中国人の教え子の随想「清水先生に見守られてきた私と中国の人類学」からなる。

 第1部「人のつながり」の1、2、3章は、「清水が提示した家族・親族、そして集団的紐帯をめぐる理論的枠組みと各自のフィールドにおける民族誌事例とを対話させつつ、清水の枠組みと民族誌的資料双方の含意を汲み取ろうとする試みである。4、5章もこの点は同様であるが、この二つの章は、家族・親族理論以降の清水の関心とも共鳴している。4章は家族という事象の「力関係」をめぐる側面を照らし出し、5章は近代以降の「文化接触」を対象にしながら、清水の家族・親族理論の読み直しを行い、既存の人類学的韓国社会研究の限界を乗り越えるための方策の提示を試みている」。

 「第2部「抑圧と周辺性の諸相」は、家族・親族研究以降に清水が関心を寄せた「周辺民族」、あるいは「先住の『民(族)』」に関わる問題を対象とした5本の論稿から成る。いずれも、「周辺性」あるいは「先住の『民』であること」が、当の人びとにとってどのようなものとして具体的に経験されているのかを描き、論じる」。

 「第3部「まなざしの交差する場」は、特に人びとに向けられる他者からの視線、また対象となっている人びとが自らに向ける視線の現在を主題として、フィールドの「いま現在」の「進行中の事象」に焦点を絞った4本の論稿から成る。言うまでもなく、人類学は、人類学者が人びとに向ける視線の一類型である。いまや人類学者の視線は現地の人びとが自らに向ける視線、あるいはその隣人たちが人びとに向ける視線に対して「客観性」に基づく優位性を主張できなくなっている。人類学が対象とする人びとが置かれている視線をめぐる「現在」を知ることで、人類学は自らを省みることができる」。  「第4部「人類学の再構想」は、人類学が社会の中で果たし得る役割についての考察を促す2本の論稿から成る。「永遠の未開文化」の探求をもっぱらとする人類学が、「いま現在」の「現場で進行中の事象」に向かい合ったとき、現に生きている学的対象たる人びとと人類学者との関係の再考が迫られ、人類学の社会的再定義が求められることになる。清水が人類学の限界を乗り越える契機として再び呼び起こしたマリノフスキーは、植民地統治改革のために実用人類学を唱えるマリノフスキーであった」。

 本書を読み終えて、なにか得した気分になった。いままで、当然のように一方的に語られてきた視線から解放されて、もうひとつの視線があることを気づかせるものが随所にあったからである。たとえば、カナダ先住民の長老に、「あなたは私とあなたがカナダという国から平等に扱われていると思うか」と問われた中国系カナダ人が、「そう思う」と答えたのにたいして、長老はつぎのように答えている。

 「それは違う。我々はあなたたちのような自由を持っていない。我々の住んでいる土地は、我々個人の財産にはならない。私は、祖父や父がやっていた方法でサケを捕ることも禁じられている。もしもあなたが中国にいる時に誰かがやって来て、今日から中国語を話してはならない、中国式のお祭りも結婚式も葬式もやってはならないと言われたらどう思うか。そんなことをした人たちの言うことを信用できるか。そんな人たちが作った国を自分の国だと思えるか。あなたたちはここに来て幸せに暮している。子供たちが自分たちの言葉を話せなくなっているのを何も感じないかもしれない。でも、我々はイギリス人が我々にしたことを決して忘れない。第一、この国がカナダになるずっと前から我々はここにいるのだ」。

 このことは、近代に語らなかった人びとが語り始めたことを意味し、近代に「奉仕」した人類学からの解放をも意味している。人類学者だけではない。いまわたしたちは、近代に語る術を持たなかった人びと、口を閉ざさせられた人びとの視線で、現代、そして未来を見つめる必要がある。そんな視線を理解している論稿が並んでいるような印象を受けた。

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2012年10月16日

『中国は東アジアをどう変えるか-21世紀の新地域システム』白石隆、ハウ・カロライン(中公新書)

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 中国の台頭にたいして、ひじょうに危機感をもつ必要があるというものと、それほど心配する必要はないとするものが、入り乱れて報道されているため、いったいどっちに基づいて考え、対応すればいいのかわからなくなる。本書は、後者のようだ。

 本書は、「はじめに」で目的が述べられ、章の終わりに「まとめ」、最後に「結語に代えて」があるため、わかりやすい。目的は、つぎのように書かれている。「中国の台頭にともなって東アジアは確かに変わりつつある。しかし、それがどのような変化かと問えば、それは非常に複雑で、錯綜(さくそう)し、多方向で、多義的である、というほかない。本書の目的は、そうした変化の大要を、東アジア地域システム、中国周辺の国々の行動、中国の経済協力、東南アジアのチャイニーズ(華人)の変容に注目しつつ検討し、いま中国の台頭によって東アジアがどう変化しつつあるか、それを素描するとともに、それを理解するために、なにをどう検討すればよいか、その一つの試みを提示することにある」。

 「第一章 東アジア地域秩序の変容」では、つぎのようにまとめている。「東アジアの地域システムは安全保障システムと通商システムの間に構造的緊張がある。しかし、このシステムは、機能別、ネットワーク型に構築され、きわめて柔軟でもある。中国の台頭によって、東アジアの地域システムが中国中心に再編成されるといったことは、まったくおこっていない。おこっているのは、中国をこのシステムに取り込み、それがもたらす構造的緊張を管理するということである」。

 「第二章 周辺諸国の行動」では、東南アジアのタイ、インドネシア、ヴェトナム、ミャンマーの4ヶ国をとりあげ、つぎのようにまとめている。「中国の台頭にともない、東南アジアの国々が次々と中国になびく、といった情勢にないことは明らかだろう。どの国も、国内体制の維持が最大の課題である。そのためには、いかなる国にもあまりに依存することのないよう、使えるものはなんでも使って、行動の自由をなんとか守り、できることなら少しでも拡大しようとする」。

 「第三章 中国の経済協力」では、冒頭で「中国の台頭とともに、中国の市場が成長し、中国と近隣諸国の貿易が増え、中国からますます多くのヒト、モノ、カネ、企業が、国境を越えて周辺の国々に溢れ出している。これは東アジアをさまざまのかたちで変えつつある」と述べ、事例としてミャンマー、ラオス、インドネシアの3ヶ国を検討して、つぎのようにまとめている。「中国の経済協力のトランスナショナルな効果は、国によってずいぶん違う。中国の周辺、ミャンマー、ラオスにおいては、中国のヒトとモノとカネと企業は、ときにはタイの政府、企業と連携しつつ、事実上、この地域を「中国化」しつつある」。「しかし、それによって、大陸部東南アジア、さらには東南アジア全体が「中国化」されるとは考えられないし、そもそもその前に、「中国化」とはなにか、その意義はなにか、あらためて検討する必要がある」。

 「第四章 歴史比較のために」は、「第一-三章が二〇-三〇年、第五章が一〇〇-一五〇年程度の時間の幅で中国と東アジアを考察しようとしていることに鑑み、超長期の観点から比較史的に、同じ問題を考えること」を試みている。そして、この章だけ「まとめ」がなく、最後の「比較史的考察から」で、つぎの3点を指摘している。「第一に、中国がいかに台頭しても、中国がかつてのように圧倒的な力をもつことは、まずありえない」。「第二は、海のアジアと陸のアジアの勢力配置の変化である」。「そして第三に、現代の国際秩序においては、かつての朝貢システムの時代とは違って、国際関係においても、それ以外のきわめて広範な政治、経済、社会、文化の領域においても、形式的平等と自由と公平と透明性の原則が、ごくあたりまえのこととして受け入れられている」。「中国の台頭によって、世界的にはもちろん、東アジアにおいても、この秩序がラディカルに変わり、形式的不平等と序列(ヒエラルキー)を一般原則とする二一世紀型朝貢システムが復活するとは考えられない」。

 そして、「第五章 アングロ・チャイニーズの世界」では、「中国の外、特に東南アジアにおいて、いま、どのようなチャイニーズが主流となりつつあるのか。それは中国の台頭とともに変容する東アジアにとって、政治、経済、社会、文化的に、どのような意味をもっているのか」と問い、「まとめ」で、まずつぎのように述べている。「中国=チャイナとはなにか、チャイニーズとはだれか、チャイニーズをチャイニーズたらしめるものはなにか、だれがそれを決めるのか、こういう問いに答えはない」。そして、第四章をうけて、「大陸ではチャイニーズであることがしばしば自明のことと受けとめられるのに対し、その外、特に東南アジアでは、チャイニーズは常に商業/資本と同一視され、また一九世紀末以降、海のアジアにおけるイギリス、そしてアメリカのヘゲモニーの下、アングロ・チャイニーズとなりつつあるということである」と述べて、つぎのように本章を結んでいる。「中国(中華人民共和国)の経済的台頭とともに、おそらく中国語(普通語)を学ぶ人は増え、簡体字の新聞が普及し、中国のポピュラー文化、特に歴史ドラマがますます人気を博するようになるかもしれない。しかし、それとまさに同時的なプロセスとして、大陸のチャイニーズも変わりつつある。中国(中華人民共和国)の台頭とともに、中国=チャイナとチャイニーズの意味も変わる。そして、そこで重要なことは、そうした変化はリニアなものではなく、その表象のプロセス、そこに作用する力、その可能性と限界がどう変わりつつあるか、常に考え、観察しておくことである」。

 最後の「結語に代えて」では、つぎの3点「第一は、中国の台頭と東アジアの地域システムの変容」「第二は、近年の東アジア諸国の行動」「第三は、中国から国境を越えてヒト、モノ、カネ、企業等が東アジアに溢れ出す、そのトランスナショナルな効果」にまとめ、これまで述べてきたことを繰り返して、今後を展望している。

 東南アジア各国は、それぞれ欧米列強が侵出してきたとき、それを利用するかたちで、近世においては近世国家を、近代においては近代国民国家を形成した。いま、中国の台頭を利用して、現代に通用する国家、社会に再編しようとしているようにみえる。その中心が、つぎの特徴をもつエリートである。「多くはバイリンガル(略)、トリリンガル(略)の高等教育を受けたビジネスマン、行政官、医者、会計士、法律家、大学教師等のプロフェッショナル(専門職業者)で、米国、オーストラリア、英国などに留学したことのある人たちも少なくなく、国境を越えた人的ネットワークをもち、アングロ・サクソン的なものの考え方、ビジネスのやり方をよく理解しているということである」。東南アジアだけでなく、中国や韓国でもおこっているこの現象がおこっていないのは、日本だけである。日本人、とくに若者は、国際的にだけでなく、東アジアのなかだけでも取り残されていっているが、本人たちにその危機感はない。それを教え、どう対応するのかをともに考えるのが、いまの日本の喫緊の教育課題のひとつだろう。優秀な若者を海外に出すときは、帰国したときのポジションを用意することも忘れてはならない。

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2012年06月05日

『マイノリティと国民国家-フィリピンのムスリム』川島緑(山川出版社)

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 本書全体を通して、どうしても武力をともなう紛争がイメージとしてつきまとう。著者、川島緑はそれだけではないことを伝えようとしているが、それも紛争抜きには語ることができない。

 著者は、「差別、抑圧、搾取、不平等など、国民国家の構造とそこにおける周辺化(マイノリティ化)と、それに対するマイノリティ側の対応という枠組みで説明されることが多い」「国民国家とマイノリティに関する問題」に、「イスラーム運動という視点を取り入れ、それとの関係に注目しながら、二十世紀のフィリピンで、ムスリムが展開してきたさまざまな宗教・政治・社会運動を理解しようと努めてきた」。そのイスラーム運動について、著者はつぎのように説明している。「ムスリムの宗教・政治・社会運動を考えるとき、基本的に国家に対して自律的で、それ自身のダイナミズムをもち、国家をこえた広がりをもつ、イスラーム運動というとらえ方が必要であろう。イスラーム運動の指導者や参加者にとって、国民国家がどのような存在であり、それに対してどのような態度をとり、それをイスラームのなかにどのように位置づけようとしたか、すなわち、イスラーム運動の側から国民国家をみるという視点が重要と思われる」。

 しかし、イスラーム運動の側からといっても、従来は欧米の言語中心に研究がおこなわれきたため、結局は国民国家の側からしかみることができなかった。そこで著者は、「現地の人びとの協力をえて、マラナオ語やタウスグ語などの現地語資料や、マレー語、アラビア語などの文書を少しずつ集め、各分野の専門家との共同作業によって読み進めてきた」。本書は、「その成果も取り入れて、この一〇〇年ほどのあいだに、フィリピンのムスリムがおこなってきたさまざまな宗教・政治・社会運動の全体像を描き、そのなかにモロ民族独立運動を位置づけ、それをつうじてマイノリティ・ムスリムと国民国家の関係を多面的・動態的に理解しようとするものである」。そして、「具体的には、一九六〇年代末に開始されたモロ民族独立運動に焦点をあて、その運動の展開過程と指導者の政治思想、社会的基盤をわかりやすく説明し、それ以前の諸運動や、近年の新しい動きとの関連を考えてみたい」という。

 本書は、5章からなり、最後の「第5章 新局面のムスリム政治・社会運動」では、「フィリピンで民主的政治制度が復活した一九八〇年代後半以降、参加民主主義、地方分権、グローバル化という新しい状況下で、ムスリムの政治・社会運動がどのように展開し、どこに向かおうとしているかをみていく」。この章では、まず「漸進的イスラーム政治運動 オンピア党」「イスラーム過激派」「フィリピン左翼とムスリム」について述べた後、「イスラーム教育の新展開」をみる。まず、これまでフィリピン公教育とイスラーム学校教育は別々におこなわれてきたが、「英語やフィリピンの公教育科目を取り入れて、政府の認可を受けた「統合イスラーム学校」の設立を推進し、それに対する政府の支援を求めるようになった」ことを説明する。つぎに、「女性のイスラーム教育への参加」をみて、「今日では、全生徒の過半数を女子が占めているマドラサ[イスラーム学校]が多く、経営者も教員も全員女性という学校もある」ことを伝えている。「こうした歩みは、分離独立運動などのような派手な活動ではないので、社会的に注目をあびることは少ないが、このような地道な取り組みは、フィリピン・ムスリム社会に大きな変化をもたらす可能性をもっている」。基礎研究を地道におこなっている著者らしい結論である。

 そして、つぎのように本書を結んでいる。「モロ民族独立運動の源流となった諸運動、すなわち、イスラーム教育改革運動、防衛ジハード運動、リベラルな改革運動、左翼政治社会運動などは、今日、新しい状況のなかで活発に展開されている。それらにおいては、モロ民族独立運動のなかでつくり出され、広められた「モロ民族」という観念が、さまざまに再解釈されつつ、運動の拠り所とされている。モロ民族独立運動は、モロ民族国家の分離独立という政治的目標の達成には成功していない。しかしそれは、モロ民族としての主体性の確立に貢献し、その後のムスリムの政治運動、社会運動の発展の基盤を築いたのである」。

 ムスリムといっても、地域、社会、家族、個人などによって、そのとらえ方はさまざまである。「フィリピンのムスリム」は、ムスリムとしての自覚が強いいっぽうで、フィリピン共和国という国民国家の一員としての自覚もあることが、本書からわかる。アラブや近隣のインドネシアなどのイスラーム運動の影響を受けながらも、独自の価値観をもって運動している。したがって、紛争の解決にも、まずはフィリピン共和国政府との対話からはじめなければならないことが理解できる。

 長年地元の人びとの協力を得ながら、調査をつづけている著者だけあって、紛争から解放されたい人びとの気持ちが伝わってくる。いっぽうで、紛争が常態化しているなかで生まれ、育つ子どもたちのことが気がかりなのだろう。最後は、教育、とくに女性の教育に期待をかけて本書を結んでいる。平和な日が訪れることを願いたい。

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2012年05月22日

『変わりゆく東南アジアの地方自治』船津鶴代・永井史男編(アジア経済研究所)

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 まず、本書冒頭で、「東南アジア諸国に地方分権改革の波が訪れてから10~20年以上が経過し、東南アジアの地方分権化は常態化したといってよい」と述べ、この事実を踏まえて、本書ではこの10年間余に大きく変わった東南アジアの主要民主主義国の分権化の状況を把握しようとしている。その必要性は、つぎのように理由づけられた。「分権化当初にみられた政治的混乱が収まり、民主的な地方選挙と地方自治が定着するにつれ、先進国を模した分権化の理想や制度をめざすより、東南アジア各国の社会経済的実態に見合った制度が模索されるようになったからである」。

 それは、公共サービスに対する関心が、サービスがカバーする内容ばかりでなく質の問題にも向けられるようになってきたからである。「本書が着目するのは、まさに東南アジアの主要民主主義国の地方で起きつつあるこうした公共サービスの決定や配布方法の変化(「誰の資源を用いて、誰が公共サービスの中身を決め、それをいかに配布するか」)であり、そこから生じる政治過程である。すなわち、各国の公共サービスの決定や配布方法という具体的制度の分析を手掛かりに、分権化にともなう地方自治制度と政治の変化を描こうと意図している」のである。

 本書のキーワードに、「ガバメント」と「ガバナンス」がある。「ガバメント」は「原義として政府を意味する英語であり」、「ガバナンス」は「1990年代頃から現代統治におけるさまざまな文脈で使われるようになった」が、「公共部門の分析で用いられてきたガバナンスの意味がきわめて多義的」であるため注意を要するという。これらの抽象的な概念を理解するためには、具体例をあげるのがわかりやすいということで、「日常的に実施するサービスである小規模河川の水質保全・清掃事業」を例に説明している。それでもわかりにくい「ガバナンス」について、本書では「あくまで自発的な意思を主体にした、民主的状況のもとでの参加を」よぶことにしている。「共治」や「協治」と訳されることもあるという。

 そして、「「ガバメント」と「ガバナンス」の関係は単純ではなく、「ガバナンス」の意味も多様」であり、1970年代に脚光を浴びるようになった先進国と東南アジアでは事情が違うことから、先進国における議論を踏まえたうえで、東南アジア各国における議論を展開している。そういう議論を経て、「変わりゆく東南アジアの地方のこれからは、分権化の浸透によって、中央と地方の政治行政がいかに変わり、住民は何を中央・地方政府から実質的に得るのか、という公共サービス分配をめぐるさらなる民主化と公平の問題に、課題のひとつをみいだすこと」を、本書の執筆者たちは期待している。

 本書は、全体像を示した3人の執筆者による第1章(本書の表題とまったく同じ表題)の後、インドネシア、タイ、フィリピンの3国を2章ずつ、それぞれマクロとミクロの視点から論じ、最後の第8章でマレーシアをとりあげている。その第8章の表題「多民族社会マレーシアの地方行政-一党優位体制下における安定した行政-」が示すとおり、マレーシアは政権与党が建国以来半世紀以上も変わらないことから、本書での位置づけが若干異なっている。

 本書では、歴史的背景を、つぎのように説明している。「東南アジアの主要民主主義国は、いずれも1970~1980年代まで中央集権的性格の強い行政をその基本的特徴としてきた。それは、これら東南アジア諸国の行政が植民地統治または王制に起源をもち、第二次世界大戦後の独立期に国民国家建設のために中央集権的行政を確立した初期条件を共有すること、さらに1950~1960年代の「開発主義の時代」(略)以降も、国家と社会が成長イデオロギーを共有して国家主導の経済開発を展開し、都市から農村に至るいっそうの中央集権化を進めた時代背景を共有してきたため、である」。

 本書の枠組みを「東南アジアの主要民主主義国」としたことの説明のひとつであるが、もうすこし歴史的内容に踏み込むと、「先進国を模した分権化の理想や制度をめざすより、東南アジア各国の社会経済的実態に見合った制度が模索されるようになった」背景がわかってくるだろう。東南アジア各国・地域は、近代化にあたっても、ただたんに欧米先進国を模しただけでなく、自分たちに見合った制度を模索した。いま同じことが、地方自治でおこなわれているのではないだろうか。そうならば、近代国民国家形成時に、どのような地方自治制度ができたのかを各国別ではなく、東南アジア全体のなかで説明してほしかった。「第1章」を「序章」とし、「終章」で本書で得られた成果をまとめると、世界的にグローバル化のなかで地方自治が問われているにもかかわらず、東南アジアに限定した意味がはっきりしただろう。とくに近隣の東アジアや南アジアを扱わなかった理由が、より明確になったことだろう。そうすることによって、東南アジアの特性をより語ることができたはずである。

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2012年05月15日

『ビルマ独立への道-バモオ博士とアウンサン将軍』根本敬(彩流社)

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 著者の本書への思いは、「エピローグ-この本を読んだあとに」の冒頭のつぎの文章によくあらわれている。「本書を読み終えたいま、皆さんはどのような印象を持ったでしょうか。バモオ博士とアウンサン将軍の人生をたどり、関連してアウンサンを暗殺したウー・ソオの事情を知り、さらに戦後のビルマと日本との関係を知ることによって、両国がここまで深い関係を持っていたことに驚いたり、新鮮に感じたりしたのではないでしょうか。少しだけ触れたアウンサンスーチーの思想に感銘を受けた人も多いでしょう」。「そうした驚きや新鮮な感情、感銘を大切にして、これからもビルマのことに関心を持ち続けてください。そして、この本を通じて得た知識を基に、自分なりの「問いかけ」を持ってもらえればと思います。ビルマと日本とのより良い未来の関係を築くために、どのようなことをすれば良いのか、どのようなことができるのか、ぜひ考えてみてください」。

 といわれても、本書の主人公であるふたりが何者であるかがわからない人には、ピンとこないだろう。ふたりの略歴は、それぞれ表紙の返しにつぎのように説明されている。「バモオ ビルマ独立運動と深く関わった知識人政治家(1893~1977年)。英領植民地期に英国とフランスに留学、ビルマ人初の哲学博士となる。1937年英領ビルマ初代首相に就任、42年6月、日本軍によるビルマ占領がはじまると中央行政府長官を経て翌年「独立ビルマ」の国家元首となる。日本軍敗退後、亡命して新潟県石打の寺院にかくまわれるが、46年1月GHQに自首。同年8月、英国政府の恩赦でビルマに戻る。独立後は政界復帰することなく、1960年後半には政治囚として刑務所に収監されるなど、死ぬまで不遇の日々を送る」。

 「アウンサン ビルマ独立運動の指導者(1915~1947年)。アウンサンスーチーの父。1936年ラングーン大学学生ストライキを指導、38年反英民族団体タキン党に入党、40年鈴木敬司陸軍大佐の画策で対ビルマ工作をおこなう南機関に参加、仲間と共に日本軍の軍事訓練を受ける。41年12月に日本が米英と開戦するとビルマ独立義勇軍を率いて祖国に進軍。日本軍占領下では対日協力に立つバモオ政府に加わり国防大臣を務める。44年8月ひそかに地下抗日組織を結成、翌年3月、バモオ政府と袂を分かち抗日蜂起に転じる。戦後は英国と地道に交渉を重ね独立への道筋を確定させるが、47年7月政敵によって暗殺されてしまう」。

 本書は、同著者の『抵抗と協力のはざま-近代ビルマ史のなかのイギリスと日本』(岩波書店、2010年)を基に、「15歳からの「伝記で知るアジアの近現代史」シリーズ」の1冊として書かれた。「しかし、構成を含め、大幅に内容を書き換え、一部重複するとはいえ、別個の中身を持つ本」になったという。

 本シリーズは、「抗日派だけではなく、「親日」とみなされてきた人々も積極的に取り上げる」としているが、著者は「抗日」「親日」という二項対立的にとらえるのではなく、ひとりの人物が状況により「抗日」にもなれば「反日」にもなったことを、これらふたりのビルマ人を通じて明らかにしている。とくに、独立後のビルマで、高く評価されたアウンサン将軍にたいして、低い評価しか与えられなかったバモオ博士の再評価をしている。

 32歳の若さで暗殺されたアウンサン将軍にたいして、バモオ博士は1937年に44歳でイギリス領ビルマの初代首相に就任し、43年には日本軍によるビルマ占領下の「独立ビルマ」の国家元首になった。ともに主権を制約されたなかで、「協力姿勢を基盤にして相手の信頼を獲得し、そのうえで可能な範囲で自己主張や抵抗を行う」という難しい対応を迫られた。しかも、多数派の政治勢力に属しておらず、ビルマ人の政敵からも激しい批判を浴びながらの政治的判断をしなければならなかった。

 このふたりの関係は、フィリピンの第一の国民的英雄ホセ・リサール(1861-96)とフィリピン共和国初代大統領(1899-1901)アギナルド(1869-1964)との関係に似ている。実際に政務を執ることなく若くして死んだ者と、長く生きて失政もおかした者の、後世の対照的な評価という点においてである。坂本龍馬(1836-97)も、理念だけがもてはやされ、実行力が問われる前に暗殺された。本書のバモオ博士のように、しっかりとした学問的成果を基に再評価すべき人物は、どこの国にもいるだろう。

 また、日本占領下の「抵抗と協力のはざま」は、フィリピンでも同じことが起こっており、バモオ博士が1943年11月に東京で開催された大東亜会議に出席したときに同席したフィリピン共和国大統領ラウレルも、同じ姿勢で日本占領下で耐える日々を送っていた。フィリピンは、ビルマより2ヶ月半ほど遅れた43年10月14日に日本軍から「独立」を与えられた。

 日本軍の将兵にたいするビルマ人の怒りの原因についてのつぎの説明も、フィリピン人と共通のものであった。「日本軍の将兵らが基地の外でビルマ民衆に平手打ち(ビンタ)を行うことがあったため、ビルマ人の怒りを買いました。ビルマの文化では、人前で平手打ちをされることは、その理由を問わず許されない屈辱として受け止められています。言葉による意思疎通ができないとすぐに怒って平手打ちをする一部の日本軍将兵は、憎しみと軽蔑の対象となりました。さらに、人前で裸を見せることを極端に嫌うビルマ人の文化を無視して、兵士らが平気で彼らの前で全裸になって水浴びをしたことも、日本軍への反感を生じさせました。ビルマの人々は水浴びの時もふつう全裸にはなりません」。

 このように、ビルマなどそれぞれの国・地域を東南アジア史のなかで相対化することによって、それぞれの国・地域の独自性と、日本軍政の共通性、さらに世界性・時代性といったものがみえてくる。そして、東南アジアのそれぞれの国・地域と日本との深い関係がみえてきて、その関係を大切にしなければならないことがわかってくる。

 そして、この書評で引用した冒頭の文章につづけて、著者は「エピローグ」で「少数民族の立場」「経済発展と人権」「歴史を知ることの大切さ」の3つの項目を設けて、ビルマへの理解を深めてもらおうとしている。これも、東南アジアのほかの国ぐにに共通することだろう。本書をきっかけに、ビルマからさらにほかの東南アジアの国ぐにへの関心が高まることを期待したい。そうすることによって、ビルマをもっと深く理解できるようになるだろう。

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2012年03月27日

『経済大国インドネシア-21世紀の成長条件』佐藤百合(中公新書)

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 タイトルから当然インドネシアのことが書いてあると思っていても、帯にある「アジアの臥龍が いま、目覚める」とは、いったいどこのことだろう、と思った人がいるかもしれない。背には「中国、インドのあとを追え」とあり、帯の裏には「豊富な人口と資源を武器にアジア第三の大国へ」とあるが、インドネシアを「大国」といわれてもピンとこないかもしれない。このあいだまで、インドネシアといえば、「暴動、紛争、自爆テロ、地震・津波、鳥インフルエンザ」と、「混乱と停滞」のイメージがあった。

 そんな人も、帯の裏の的確なつぎの要約を読めば、本書で語ろうとしていることに、興味がわくことだろう。「リーマンショック後の二〇〇九年秋、欧米の格付け会社が、インドネシアの持続的成長能力と財政的安定を評価し、国債の格付けを引き上げた。以来、インドネシアの有望性は世界が注目するところとなる。二億四〇〇〇万近い人口と豊富な資源を背景とした潜在的な国力は、二〇〇四年、ユドヨノ政権になって以降の政治的安定によって、さらに強固な成長要因となっている。中国、インドに続く、〝アジアの大国〟のこれからを展望する」。

 中国、インドに続く大国ということは、東南アジア一の大国ということになる。東南アジアなら経済的にはタイのほうが上であろう、将来性ならベトナムのほうが上であろう、と思う人がいるかもしれない。インドネシアの2009年の名目GDPは、49兆円である。それにたいして、タイは24兆円、ベトナムは9兆円しかない。今後5年間の増加額の予想は、インドネシア50兆円にたいして、タイは14兆円、ベトナムは8兆円である。これらの数字から、著者佐藤百合は、「「タイ、ベトナムと、インドネシアとは何が違うのか」という問いに対する一つの答えは、「規模が違う」ということになる」と答えている。

 さらに、インドネシアは「人口ボーナス」という点で、タイやベトナムより将来性があるという。「人口ボーナス」とは、「生産年齢人口が総人口に占める割合(生産年齢人口比率)が上昇していく局面」のことで、インドネシアはタイやベトナムより長く続くことが予想されている。日本はもちろん、中国なども少子高齢化で、生産人口の割合は減っていく。つまり、インドネシアは生産力が向上し、経済成長が長く続くということである。

 そして、1998年のスハルト政権崩壊後、インドネシアは民主化が進み、大きく変わってきている。ひとつは、汚職が「文化」から「犯罪」になったことである。たしかに「汚職との闘いは、今後も多難が予想される」。「だが重要なことは、「汚職は犯罪」というパラダイムはもはや変わらない、ということである。汚職にペナルティを科する法制度も、メディアやNGOや国民による監視の目も、もう後戻りすることはない。その意味でインドネシアは、間違いなく新しい時代に入った」。

 中央と地方の関係も新しい時代に入ったことは、つぎのように説明されている。「スハルト政権崩壊後、地方分権化へと時代は変わった。鉱業、林業、水産業などの資源収入はその八〇%を地元に還元するという方針が、一九九九年中央・地方財政均等法で定められ、二〇〇一年一月から施行された。中央政府にとって重要な財源である原油と天然ガスについては地元への還元比率がそれぞれ一五%と三〇%に抑えられたが、それでも地方の政府と社会にとってインパクトは絶大である」。  華人の政界進出も、新たな現象である。「国会議員五六〇人のうち、華人議員は一四人になった。華人系住民の多い西カリマンタンとブリトゥン島では、直接選挙によって華人の市長と県知事が誕生した。政治はプリブミ[先住マレー系住民]、経済は華人という分断の構図は、華人の側からも少しずつ変わり始めている」。

 このように変わりはじめているインドネシアを見る目を、日本も認識しなければならない、と著者は説く。「インドネシアが変わり始めている証左の一つに、すでにみた援助依存からの訣別がある。日本からの援助残高はまだ例外的に大きいが、毎年の支出純額でみれば二〇〇六年から連続してマイナスを記録している。つまり、援助供与額より返済額の方が上回っている」。「日本のソフトパワーをインドネシア人に理解してもらうのと同じように、日本人もインドネシアのソフトパワーを理解しようとすることが大切である」。

 そのためにも、インドネシア人の日本観を知ることが必要であり、インドネシア人研究者がその変遷をつぎの六段階に分けて考察したことを紹介している。「①占領者としての日本、②従軍慰安婦を強いた日本、③開発資金提供者としての日本、④先進国としての日本、⑤ハイテク国の日本、⑥ポップ文化の日本、である」。「①と②が区別されているのは、従軍慰安婦問題の責任と補償が今なお未解決の問題として認識されているからである。①②における「野蛮で残虐」な日本観は、③を資源獲得のための経済的侵略とみる見方に姿を変えて一九七〇年代半ばまで色濃く残っていたという。その後④⑤⑥を経て、憧れの日本観が前面に出てきた現在においても、インドネシアのすべての生徒たちは①②の歴史を小学六年と中学二年で必ず学ぶのである」。

 本書で伝えたかったことを、著者は「終章 21世紀の経済大国を目指して」の冒頭で、つぎのようにまとめている。「二〇〇四年に民主主義を確立したインドネシアは、政治体制の安定を確保した。これから二〇三〇年にかけて、インドネシアは人口ボーナスの効果が最も大きくなる時期に差しかかる。この二つの条件を得た今、人口、資源、国土からみたインドネシアの潜在的大国性が活かされる局面に入った。インドネシアはこれから、まととない持続的成長のチャンスを迎える。これこそが、この本で私が伝えたかったインドネシア像である」。

 AKB48に「はまる」プチンタ・ジュパンとよばれる「日本愛好者」があらわれ、姉妹グループのJKT48が海外で初めて結成されたことと同時に、プチンタもメンバーも日本の負のイメージがつきまとう①②を学校教育で学んでいることを覚えておく必要があるだろう。日本人のメンバーもファンも、①②のことを知っていなければ、どこかで取り返しのつかない歪みが生じるかもしれない。このことは、若い世代の日本人だけに言えることではない。かつての「援助大国」日本のイメージでインドネシアと接していると、とんでもないしっぺ返しを「経済大国」インドネシアから食らうかもしれない。このことは対等な関係でつきあえるということを意味し、歓迎すべきことである。著者が、「日本こそが変わる時」と強調するのも、日本人が時代や世界から取り残されていっていることを肌で感じているからだろう。本書は、たんにインドネシアとの関係だけを問うているのではない。世界からこれからの日本・日本人が問われていることを伝えている。

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2012年02月28日

『新しいASEAN-地域共同体とアジアの中心性を目指して』山影進編(アジア経済研究所)

新しいASEAN-地域共同体とアジアの中心性を目指して →bookwebで購入

 半信半疑でミャンマーの「民主化」報道を見聞きしている者に、本書はそれを確信させるひとつの材料を提供してくれる。ミャンマーの「民主化」に、ASEANが大いにかかわっているのである。本書は、そのASEANが「一九六七年の設立から現在までの歴史を辿るとともに、どこへ向かおうとしているのかを多面的に展望する」概説書である。

  「民主化」の兆しが見えだしたミャンマーに、日本を含め各国が急速に接近している。豊富な天然資源に加えて、人口5000万の格安の人件費が魅力だ。どれだけ安いか比較してみよう。日本貿易振興機構の調べによる2011年8月時点の月給は、ミャンマー68ドル、ほかの東南アジアでは安い順からカンボジア82、ベトナム123、インドネシア205、フィリピン248、タイ286、マレーシア344、シンガポール1285である。隣国の中国306、インド280、そしてユニクロなどが進出しているバングラディシュが78である。

 いっぽうで、これだけ人件費に違いがあるASEAN各国が、なぜ近年結束を強めているのか、疑問にもつ人がいるだろう。本書「まえがき」では、つぎのように説明している。「ASEANに見られるアンバランスは、多種多様な東南アジアの国々をASEANという言葉で一括りにしてしまうことから生じている。実際、国土や人口や経済の規模はもちろんのこと、政治体制や産業構造、近年の歴史経験、さらには近隣諸国との関係でもASEAN内部のばらつきは甚だしく大きい。むしろ、これほどばらばらな国々がASEANとしてひとつにまとまっていることの方が、アンバランスの存在よりもはるかに驚くべきことなのである。そこには、まとめようとする力が働いており、将来に向けての共通の目標を作ろうとする力が働いている」。つまり、ASEANは未来志向で、まとまっているのである。

 本書の内容、目的については、同じく「まえがき」でつぎのように述べている。「本書は、いままであまり注目されてこなかった制度としてのASEANに焦点を当てて、東南アジアの秩序の形成や東アジアの政治経済の枠組み作りで重要な役割を果たしている現実を紹介するものである。言い換えれば、いわゆるASEAN経済の可能性を強調するのでもなく、ASEAN諸国の国際関係や国内政治を批判するのでもなく、「ASEANそのもの」を総合的に描くことが本書の目的である。この意味で、一部の研究者が議論してきた「ASEANそのもの」について、東南アジアはもちろんのこと、東アジアの政治経済に関心を持つ人々やグローバル化する世界のなかの地域化・地域主義に関心を持つ人々が思いを馳せる機会を本書が提供できれば望外の喜びである」。

 そして、各章の内容を、つぎのようにまとめている。「まず、第一章では、発足からはや半世紀にならんとするASEANの大きな流れを紹介する。続けて、いま、変わりつつあるASEANの全体像を描く。具体的には二〇一五年に向けてのASEAN共同体創設の動き、それと連動する広域制度構築、そして二〇〇八年に発効したASEAN憲章をふまえたASEANの変革について論じる。ASEAN共同体は三本柱から成る。第二章から第四章までは、それぞれについての概説と課題を論じる。すなわち、第二章は政治安全保障共同体を、第三章は経済共同体を、第四章は社会文化共同体を扱う。第五章は、広域秩序の中心としてのASEANが果たしている役割を議論する。第六章と第七章は、ASEAN憲章を題材にして、変わりつつある姿を論じる。第六章は組織改革を、第七章は規範変容を扱う」。

 「貿易自由化でも地域共同体形成でも常に東アジアの動きを一歩リードしてきた」ASEANが、いま大きく変わろうとしていることを、第一章では、つぎのように説明している。「二〇一一年、議長国インドネシアのイニシアティブで、ASEANは「グローバルな国際共同体のなかのASEAN共同体」をメインメッセージとして掲げることを決めた。これは、二〇一五年にASEAN共同体ができるのを見越して、さらにその先の目標を打ち出そうとしたものである。すなわち、二〇二二年(ASEAN創設五五周年)までに、ASEAN共同体をさらに強化し、地球規模の問題にASEANが関与するような制度構築を目指そうとする決定である。具体化(宣言の起草)は、外相会議に委ねられたが、東アジアあるいはアジア太平洋におけるASEANではなく、グローバルな世界のなかにASEANを位置づけようとする新たな試みが始まったようである」。

 ASEAN共同体の特徴は、政治、経済と並んで三本目の柱になっている「社会文化共同体」を目指していることだろう。二〇〇九年の首脳会議で採択された青写真で示された社会文化共同体の主要な目標は、「民衆志向で共通のアイデンティティと持続的な連帯感を持ち、「思いやりと分かち合いのある社会(a caring and sharing society)」を構築すること」だとされ、その目標に向けた課題として、「人間開発、社会的厚生、社会正義と権利保障、環境の持続性、ASEANアイデンティティの構築、およびASEAN原加盟国と新規加盟国との格差是正」の6つがあげられた。中央集権的に考えられる政治や経済と違い、社会文化は東南アジアの多様性、とくに中央と地方を意識して考慮したものだろう。

 ASEANがこれまで結束できたのは、「自分たちの国が抱えている脆弱性に対する強い危機感」があり、「利害対立や意見の相違を抱えながら、「小異を残して大同につく」ことを実践してきた」からである。いい意味のアバウトさをもっていることで、これまでも数々の分裂の危機を回避することができたのである。国際的に非難されたミャンマーの人権と民主化の問題も、「一九九九年以降ASEANは国際社会において基本的にミャンマーを擁護する姿勢を継続させ」、「厳しく非難したり孤立させたりせずにあくまで穏健な路線を保ち続けること」で、「建設的関与」の有用さを示めそうとした。その結果が、今日の民主化への動きにつながった。これまで何度も期待を裏切られてきたため、ミャンマーの民主化が本物であるのかどうか、まだ半信半疑である。しかし、本書を読むと、いままでと違いASEANの力が働いていることがわかる。本物になることを切に願いたい。

 本書では、ASEANの結束を未来を見据えているからだとしているが、歴史的文化的にも共有するものがあるからだろう。近代国民国家の成立とともに首都を中心とした領域ができたが、中央集権化された国家機構とは無縁な自立した社会が山間部や離島だけでなく、首都のすぐ近くや都市のなかの新たなコミュニティにも存在している。国境を無視したヒトやモノの往き来も、厳しく取り締まられていないところがある。ASEANはそういった厳密さを欠く社会秩序を受け継いでいるからこそ、「結束」できているのではないだろうか。ほかの先進国主導の地域共同体とは違うあり方が、ASEANにはある。東南アジアが、近代に成立・発展したディシプリンでは充分に研究できず、地域研究という新たな手法が必要であったのも、その基層社会の理解が必要であったからだろう。

 最後に蛇足であるが、本書のような優れた概説書の製本としては、ひどすぎる。奥付きの「印刷」を見て納得したが、何度も議論を重ねた共同研究の成果にたいしてふさわしくない。

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2011年09月13日

『4億の少数派-南アジアのイスラーム』山根聡(山川出版社)

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 「4億の少数派」ということばを、いまわたしたちはどうとらえたらいいのだろうか。まとまれば、なんでもできる数のように思える。この「少数派」ということの意味と、「少数派」の帰趨がわかれば、南アジアだけでなく、イスラーム世界、全世界の未来もみえてくるような気がした。

 著者山根聡は、まず「少数派」の意味を、つぎのようにまとめている。「南アジアが非アラブ圏にあるために、イスラーム世界で南アジアは周縁的存在となっている。さらに、四億人にも達する南アジアのムスリムは、九億人近いヒンドゥー教徒の前では少数派となり、「南アジア」の枠組みでも周縁に位置づけられる」。

 そして、この歴史的にも重要な「二重の周縁性」が、今日さらに重要になってきていることを、つぎのように説明している。「南アジアという地域のイメージで浮かぶ、多宗教、タージマハル、都市の壮麗な城塞、細密画(ミニアチユール)といった文化的な事柄が南アジアのイスラーム文化の一端を示しており、頻発するテロやターリバーン運動、あるいはカシュミール問題などの現代的問題もまた南アジアのムスリムの一部がかかわり、彼ら自身がかかえる問題でもある。すなわち、この地域の歴史、政治、経済、社会、文化のあらゆる場面でイスラーム的な要素が南アジアに与えた影響の大きさがわかる。これを正面からとらえなおすことは、南アジア研究のさらなる深化をもたらし、南アジアにかんする知識をより多角的に構築できるといえよう」。

 本書では、イスラームがはじまったほぼ1世紀後からはじまる南アジアのイスラームの歴史を、年代順につぎの5章に分けて紹介している。
 第1章 インド・イスラーム文化
 第2章 西欧的近代との出会い
 第3章 イスラームの政治運動化
 第4章 イスラームと国家の関係
 第5章 世界情勢と南アジアのイスラーム

 南アジアのイスラーム教徒は、確実にアラブ世界と繋がり、近代ではオスマン帝国を介してヨーロッパ世界とも繋がっていた。露土戦争(1877-78年)のときにはオスマン帝国に義捐金を提供し、第一次世界大戦後にはカリフ制の廃止にともない反イギリスに転じた。もちろん、アラブ世界の原理主義運動とも、さまざまなかたちで繋がっていた。

 また、同じイスラーム世界の「周縁」に位置づけられた欧米、アフリカ、東南アジアなどとも、直接繋がっていた。とくに東南アジアとは歴史的に深く、南アジアでイスラーム諸学を学んだ東南アジアからの指導者もおり、南アジア系のイスラーム教徒のコミュニティが東南アジア各地で形成された。このように世界各地に、数百万の南アジア系のイスラーム教徒がいることを忘れてはならないだろう。

 国や地域、時代を越えて全世界のイスラーム教徒と繋がるいっぽう、南アジアの多宗教社会のなかで共存しているようすが、つぎのように紹介されている。「アジメールのムイーヌッディウーン・チシュティー廟やラクナウー郊外にあるバハラーイチなどには、宗教、宗派を問わず多くの参詣者が訪れる。ベンガルの民俗芸能バウルの担い手で宗教詩人フォキル・ラロン・シャハ(一七七四?~一八九〇)もまた、宗教をこえた聖者として現在も支持を集めており、南アジアの大衆にとっての「宗教」が、教義にとらわれない民間信仰や芸能のかたちで広く浸透し、続いていることを忘れてはならないだろう」。

 インドを代表する墓廟、タージマハルは、インド・イスラーム文化を象徴するものといえるが、「ヒンドゥーは例外を除いて、墓を造らない宗教文化をもつことから、墓廟の文化はアジアのイスラームの特徴といえる。聖者廟やモスク周辺には宿泊施設などが建設され、周辺地区が発展した。聖者廟にはムスリムのみならず、ヒンドゥーやスィクなど、宗教、宗派を問わず多くの参詣者が集まった」。「これらインド・イスラーム文化とは、宮廷や都市部で発展した建築や細密画などの美術、あるいは文学などであって、農村部ではヒンドゥーなど土着の宗教文化や民族文化とまじりあった文化が広がっていた」。

 そして、「異なる宗教集団が対立と共存を繰り返してきた」「政治的・経済的な動きと離れた日常では、宗教、宗派を問わずしてまじり合った宗教文化もみられ」、「これら集合的な習俗を内省的に改革してイスラーム本来の教えにもどろうとする動きが、イスラーム世界で先駆的に起こったのも、南アジアなのである」と、イスラーム世界のなかでの南アジアを特徴づけ、つぎのように本書を結んでいる。「これからも四億の人びとは、世界各地の移民とのネットワークを保ちつつ、南アジア世界のみならず、イスラーム世界全体、ひいては世界情勢にも影響を与え続けるであろう。だからこそ、南アジアのイスラームと四億の少数派について、知識を深める必要がある」。

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2011年06月21日

『ミャンマー概説』伊東利勝編(めこん)

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 画期的な本である。いままで靄がかかってすっきりしなかったミャンマーが、ところどころ一気に澄み渡ってくっきり見えるようになった感じがした。まず、数々の苦悩の末に「強権的に介入」をして、1冊にまとめた編者の伊東利勝に、お礼を述べたい。そして、このような貴重だが手にとりやすいとはいえない本を、この価格で出版した出版社のめこんの英断に敬意を表したい。

 なぜ画期的なのか。まず、「文化や世界に優劣はないという理解のもとに」、人口の6割を占めているといわれるビルマ人の世界と、同じスペースを主要7民族・世界に割り当てていることだ。その7民族・世界が単独で語るにふさわしい豊かな独自の歴史と特有の文化もっていることを、本書はよく表している。つぎに、自由に研究ができない現在のミャンマーの国状を考えれば、日本人で適当な執筆者がみつからない分野を、第一線のミャンマー人研究者が執筆していることは、奇跡に近いことかもしれないことだ。日本人研究者の視点だけでなく、現地の研究者の視点で書かれたものが半分以上を占めていることの意味は、普通の日本人では想像できない大きなものだろう。

 本書は、「序章 ミャンマー的国民国家の枠組」と「終章 官製民族世界の形成」と、そのあいだの「ビルマ世界」「モン世界」「カレン世界」「カヤー(カレンニー)世界」「シャン(タイ)世界」「カチン世界」「チン世界」「ヤカイン世界」の8章からなっている。それぞれの世界は、教科書的に多くの人が納得するように書かれているわけではない。それが当然だと、編者はつぎのように説明している。「ビルマ世界とかカレン世界としているが、そこに描かれている事柄でこれを説明しようという意図はない。つまりビルマ文化の一般的形態とか、カレン文化の本質とかがここに描かれていると思ってもらっては困る。そういう要素が観察される、もしくは見ようによってはそういう姿も浮かび上がるといったことが示されているにすぎない。だからといってこれらの論考が、まだ完成途中で、全体像を描ききっていないということでもない。そもそも文化の本質なるものが存在するとは考えないからである」。

 では、どのように読めばいいのか。編者は、つぎのように読者に期待する。「当然執筆者の視点はさまざまである。相互に歴史観が食い違っていたり、特に当事者による叙述は、標準的な「歴史」に照らせば、明らかに矛盾するような「史実」も含んだりしている。あるいは専門的な訓練を受けていないなどの批判もあろう。しかし、それはそれとして当事者を取り巻く世界には受け入れられているのであり、部外者が、実証性に乏しい、学会の動向を押さえていない、古い学説をそのまま採用しているとして、これを頭ごなしに否定してもあまり意味がない。読者は、そうした状況が作り出されている政治的事情も考えつつ、当事者がなぜそのような見解を採用しているのかを読み取ってほしい」。

 本書が、ミャンマー研究者にとって、第一歩となり、通過点となり、終着点となる大きな指針になることは、間違いないだろう。それは、同時に本書が「完成」しえないものを扱っていることとも関係している。カレン人の人口420万人のところが4200万人になっていたり、○○民族、○○族、○○人などの表記の不統一など、ケチを付けだしたら切りがないが、それは執筆者や編者の責任ではない。元の資料で信頼できる最新のものが手に入らない、研究・調査自体がされていない、あるいは理屈ではなくそう書かざるを得ない、といったことなどにもよるからである。このあたりのことがわかると、編者が「この本のねらい」や「あとがき」などで書いていることが、さらによくわかる。

 ミャンマー研究者以外の者にとっては、「多文化共生社会」や「異文化交流」といったことばが軽々しく使えない現実を知ることになるだろう。編者は、「終章」の最後で、つぎのようにまとめている。「民族性はこの連邦民族村に表れるごとく、ミャンマーの観光資源として利用されるだけではない。ミャンマーが文化で統合される過程では、その独自性を確認するために、異文化の存在が必要である。国民統合の中心となるマジョリティの結束を確かにせんとする動きは、異文化の存在によって担保されなければならない。ミャンマーがミャンマーとして自己の姿を作る動きを正統化するためには、異文化の存在がどうしても必要であり、これはその外側だけでなく、内側にも絶えず生み出してゆく必要がある。多元一体社会、多文化共生社会などという戦略の本質が、そこにあるように思えてならない。民族を実体化しない異文化交流とはどのようなものであるか、今このことが世界的に問われている」。

 そして、ミャンマーと言えば、今日国際社会が「民主化」を求めていることで知られているが、そんななかでつぎのことばは、「詭弁にすぎない」と感じるかもしれない。「日本人には理解できないかもしれないが、ミャンマーにはたくさんの民族がいる。そういう中で、軍が政治に関わっていかないと国が維持できないんですよ」。先週も、ミャンマー北部の国境付近で、政府軍と少数民族の「独立軍」との戦闘があって、死者が出たことが伝えられた。「民主化」と正義を唱えることは大切だが、無理をすれば多数の死者が出る。本書の執筆者たちは、そのことも充分にわきまえたうえで書いている。その意味でも、本書は心して読みたい。本書の執筆や翻訳を通して、日本のミャンマー研究者の力量が問われているだけでなく、日本人の読者の良識が問われている。

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2010年06月08日

『ナマコを歩く-現場から考える生物多様性と文化多様性』赤嶺淳(新泉社)

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 今年10月に名古屋で、生物多様性条約第10回締約国会議が開催される。「ラムサール条約やワシントン条約などの特定の地域、種の保全の取組みだけでは生物多様性の保全を図ることができないとの認識から、新たな包括的な枠組みとして提案」された「生物の多様性に関する条約」は、1992年に採択され、翌年発効して、2009年末現在、193の国と地域が締結している。その3つの目的は、「地球上の多様な生物をその生息環境とともに保全すること」、「生物資源を持続可能であるように利用すること」、「遺伝資源の利用から生ずる利益を公正かつ衡平に配分すること」である。

 本書の副題には、この「生物多様性」とともに「文化多様性」があり、著者、赤嶺淳は、その関係性について「終章 生物多様性の危機と文化多様性の保全」の最後の節で、つぎのように私見を述べている。「人間の営為を再評価することにより、圧倒的な存在感を誇る熱帯雨林も、都会の片隅に追いやられている里山も、貴賤なく、平等に人類の遺産となりうる」。もうひとつの副題のキーワード「現場から考える」は、地球環境主義の下に開催される国際会議で、あまりに現場を無視した(知らない)議論が展開されていることへの著者の怒りが表れている。著者は、「生活しているという現実をかえりみるとき、たんなる科学的な見地から環境問題を論じるのは無責任にすぎる、とする立場にある」。

 本書でもうひとつ重要なキーワードは、「保全」である。著者は、このことばに関連してつぎのように説明している。「日本語の「保護」には、保全(conservation)と保存(preservation)のふたつの意味が混在している[略]。後者はともかく、前者は日常生活で耳にすることの少ないことばだし、両者を区別していない日本語辞書もあるが、両者には人間の介在度において決定的な差異がある。保全は動詞としてconserve water(水を節約しましょう)やconserve energy(省エネしましょう)などと使用されるように、人間による利用を前提とし、「無駄なく利用」することを含意している。他方、保存は食品保存料(preservative)と同幹のpreserveからの派生語で、preserve historic landmarks(史跡を保存する)というように、なにかに壊されたり、傷つけられたりしないように原型を維持することを意味する。つまり、人間の介在をできるだけ排除することが前提とされているのである」。問題は、この人間の介在度が、人によって、状況によってさまざまで、なにを共通の前提として議論すればいいのかわからないことである。

 著者は、「本書では、自然と人間、あるいはグローバル・コモンズと地域社会の関係を考える一事例として、中国食文化圏で少なくとも四〇〇年にわたり珍重されてきた「ナマコ」を取り上げ、野生生物の利用と管理の問題点を検討してみたい」といい、ナマコに着目する4つの理由を述べている。さらに、具体的につぎのように希望している。「本書では、ナマコという野生動物をめぐって、資源利用者の漁民、資源管理の枠組みづくりの主体としての国家や国際機関、さらには豊富な活動資金のもとボーダーレスに環境保護運動を推進する環境NGOらが、さまざまに入りみだれて関係しあう動態を「エコ・ポリティクス」とよび、ワシントン条約という野生生物の国際貿易を規制する条約を舞台として展開されるエコ・ポリティクスの様相を検討してみたい。同時に野生動物の保全は、資源利用を含んだ地域社会と食文化の歴史性をふまえ、生産者のみならず流通業者など、さまざまな関係者を巻き込んだ、外部にひらかれた体制が望ましいことを提示したい」。

 1997年以来、ナマコ調査のために世界を飛びまわった著者の成長ぶりは、「終章」で語られている。「好事家的な事象ばかりに眼を向け、グローバルな視野をもとうとしなかった自分の研究姿勢」に変化をもたらしたのは、ある研究会で「文系の研究発表は、なるほどなぁ、と問題の分析視覚に驚かされるし、勉強にもなる。しかし、そのような分析をもとに、どのような助言を漁業者におこなえばよいのでしょうか」と質問されたことだった。それから、著者は、「ナマコ調査の際に漁業者や加工業者から一方的に情報を得るだけではなく、わたしが手持ちの情報を意識的に提供し、調査を情報交換の場としてきた」。

 著者は、20年前に『ナマコの眼』という名著を著した鶴見良行のアジア学を継承するひとりで、「ナマコという商品に着目して、過去四〇〇年ほどのアジア史のダイナミクスをとらえなおすことが、わたしの目下の研究課題であり、本書も、その作業の一環である」と、「未完のアジア学を継ぐ」スケールの大きな課題に挑戦している。

 鶴見良行のアジア学は、歴史学など東南アジアの基礎研究の発達と無縁ではなかった。欧米などの文書館での原史料の読解に基づく研究成果が出てくるようになり、1970年代には日本人研究者によって書かれた東南アジアの通史が読めるようになった。しかし、これらの机上の研究者が東南アジア現地を訪れ、調査するための研究費も時間的余裕もなかった。したがって、長期間現地を歩き、肌で感じたさまざまな問題を論じた鶴見の著作は、けっして机上の学問ではわからない人類の将来の問題を含めて、臨場感をもって伝え、魅力にあふれていた。しかし、根拠をあげることなく語られる「物語」は、大枠では正しいのであろうが、個々には基礎的間違いがあり、疑問も呈された。

 著者もその鶴見のアジア学の魅力にとりつかれたひとりで、本書はその長所を活かし、欠点を克服しようとした成果である。その試みはみごとに成功し、それを祝福するかのように門田修の写真が本書を飾っている。だが、ひとつ危惧がある。鶴見が基礎研究の成果を利用することによって、基礎研究では語れないことに挑戦したように、本書のような現場から考える研究は、基礎研究との相乗効果によって発展する。その基礎研究が、いまの日本の東南アジア研究では充分でないように思える。文献史学のような基礎研究は、考証した原史料を丹念に読んで、その背後にある時代や社会を理解したうえで、虚実ない交ぜの記述を考察・分析する。関係する史料の一部だけを取り出して、都合よく自分の論旨にあてはめるようなことはしない。「未完のアジア学を継ぐ」ためにも、基礎研究の発展は不可欠だろう。

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2010年05月04日

『イスラーム 知の営み』佐藤次高(山川出版社)

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 本書は、全国的な共同研究「NIHU(人間文化研究機構)プログラム イスラーム地域研究」の成果を、できるだけわかりやすくした「イスラームを知る」シリーズの最初の1冊である。それだけに、イスラームの基本中の基本が要領よくまとめられている。

 このシリーズが出版された背景については、表紙見返しでつぎのように説明されている。「イスラーム教徒の考え方や行動の様式は、日本人の場合とはかなり異なっている。そこにイスラーム理解の難しさもあるし、同時にイスラームを知る意義もあるといえよう。現代の私たちは、グローバル化したイスラームの宗教や文明に向き合い、これをさらに深く理解する必要に迫られている」。

 著者、佐藤次高は、「イスラームの誕生から現代にいたるまでの「ムスリムによる知の営み」の諸相をたどってみることにしたい。歴史的な考察の仕方を活用することによって、「イスラームとは何か」をわかりやすく解き明かすことが本書のねらいである」としている。その前提として、グローバル化が進んだ現在において、「イスラームを統一性の面だけから考えるとすれば、その理解は著しくバランスを欠くことにもなりかねない。イスラームは、地域の枠をこえて拡大していったが、その過程で各地域の伝統や文化と融合し、さまざまに変容をかさねていったからである。したがってイスラームを正しく理解するためには、地域の個性を考慮に入れながら、統一性と多様性の両面からアプローチすることがぜひ必要である」と考えている。

 たしかに、「第1章 イスラームの誕生」から、時代順に「第2章 イスラームとは何か」「第3章 歴史のなかのイスラーム」「第4章 イスラームの知と文明」「第5章 イスラーム変革の努力」と、わかりやすい説明がつづく。クルアーン(コーラン)は、「元来は「声を出して読むもの」を意味していた」、「イスラームへの改宗の手続きは簡単である。二人以上のムスリムの証人を前にして、「アッラーフ以外に神はなく、ムハンマドは神の使徒であることをわたしは証言します」といえば、それでムスリムになることができる」、アラビア語は金貨・銀貨に刻まれた文字であり、帝国の行政語、商取引の共通語、そして学問の言語でもあった、というふうにイスラームを理解する基本が語られている。また、「イスラームは異教徒であれば、だれでも殺してよいと主張している」とか、「コーランか、剣か」とかいう俗説を改める必要を説いている。さらに、これほど栄えたイスラーム文明が、ヨーロッパ文明に追い抜かれた理由を、「ヨーロッパがイスラーム文明の成果を積極的に吸収しようとしているあいだに、西アジアのムスリムたちはヨーロッパ文明にはほとんど興味を示さなかった」からだとしている。

 最後に、著者はイスラーム世界の現状を、つぎのように説明して、結んでいる。「急進派から穏健派まで、その組織と活動は複雑多様であるが、まずは穏健なムスリムが圧倒的多数を占める現実を踏まえたうえで、これらの多様なムスリムが発するメッセージと彼らの行動の原理を偏見なく解き明かすことが必要であろう」。

 読み終えて、なにか物足りないと感じた。歴史的な流れはわかったのだが、それぞれの時代、それぞれの社会が、今日とどう結びついているのかがよくわからなかったためだ。「その組織と活動は複雑多様である」のは、それぞれがどこかの時代、どこかの社会と深く結びついているからで、それがわかれば、より「多様なムスリムが発するメッセージと彼らの行動の原理を偏見なく解き明かすことが」できるのではないだろうか。

 それにしても、100頁にも満たない本が、本体1200円もする。歴史を学ぶのに、これほど金がかかるのか。自分で購入した本は書き込みができ、頭に入りやすくなる。本は消耗品である。できるだけわかりやすくした本シリーズも、書き込みもできない、折り曲げてもいけない図書館の備品として読むと、わかりやすいものもわからないものになってしまう。本の値段を安く買えるようにすることは、人材育成にとって大切なことだと思う。高いから買わない、買わないから高くなる、買わないから読まない、読まないから本の価値がわからないから買わない、の悪循環に陥っている。とくに人文・社会科学系の学生・大学院生が、本をただで買えるための制度を設けることはできないのだろうか。

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2009年12月22日

『変わるバリ 変わらないバリ』倉沢愛子・吉原直樹編(勉誠出版)

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 「本書は、グローバル・ツーリズムの中で大きく変容し、さらに多様化しつつあるバリを、新しい視点で捉えなおしてみようという発想から始まった」と、「はじめに」の冒頭で書かれている。そして、わたしは本書から、今日のバリの姿は、グローバル化の波にもまれ多様化するバリが、外からの開発にたいして「文化」で対抗し、世界の平準化・国民国家形成下のインドネシア化のなかで、「バリ化」を推し進めた結果であると読んだ。しかし、その「文化」「バリ化」が、これからも自主性をもって進めていくことができるのかどうか、不安も感じた。

 本書は、6つの視点をもって編集されたことが「はじめに」で書かれている。「第一の重要な視点は、バリの多様性である」。「第二に、掲載されたいずれの論文においても共通して提示されているもうひとつの視点は、常に変容しさらにいっそう多様化するバリを描く事である」。これら、「「変化」と「多様性」という前記のふたつの軸を論ずるにあたって第三に、その論議の前提になる問題が」「「伝統」そのものも捉えなおさねばならないということである」。「バリ人のバリ人たるゆえんの根幹になっているヒンドゥー教も、今のように教義が整備され、信仰形態も画一化されてきたのは、ようやく一九六〇年代のことである」。「第四に、既存の研究で余り表面だって論じられる機会が少なかった視点として、インドネシアという国家の中で、どのようにバリを位置付けるかという問題」である。「以上の点とも関連して第五の視点は、バリの独自性、あるいはバリとしてのアイデンティティーを、バリ人自身がどのように意識し、どのように表現し発信しているかという問題である」。「第六の視点は、「調和と平安に満ちた神々の住む島」という楽園イメージに対する再検証である」。そして、「以上のような様々な視点を基調に本書は、「外に広がっていくベクトル」と「内に閉じていくベクトル」とがせめぎあう、「混沌」と「自己確認」のなかのバリを描こうとしている」という。

 このような視点をもって、それぞれの執筆者が、「多面的な光をあてながら、そこから「いくつもの姿態」を描き出すことに腐心し」「「いくつものバリ」を浮かび上がらせ」ようとした試みは、かなり成功したといっていいだろう。その成功には、「バリといえば文化人類学者の金城湯池」という背景がある。そのことは、「むすびにかえて」の冒頭でつぎのように説明されている。「実際、夥しい数のモノグラフが累積されており、しかもどれをとっても後発の研究者にとっては燦然と輝くものばかりである。当然のことながら、そうした研究集積の結果、バリについて何らかの定型化された像ができあがっているとしても不思議ではない。この定型化された像は、いうまでもなく一朝一夕にしてできあがったものではない。長年にわたる博捜な資料解析と地を這うフィールドワークが幾重にも積み重ねられて織りなされたものである」。

 本書は、たんなるバリ紹介本ではない。本書の基層をなしているのは、現在社会科学においてもっとも大きな争点となっている「グローバルとローカル」という問題である。「グローバルな世界におけるバリの立ち位置が問われ、またその中でバリ的世界の出自と変容の位相が問い込まれ」、バリから世界や日本、ジャワが見えてくる。また、植民地支配を経験したバリにとって、「コロニアルとポストコロニアル」という問題も重要であった。「旧宗主国の植民地経営がジャワとは異なった社会文化構造をこの地に埋め込」み、「それは独立後のバリにも基底部分として引き継がれ、暴力的なまでの集権化をうながした開発独裁体制下でもしたたかに生き残った。そしてポスト・オルデバルの地方分権と民主化過程においても形を変えながら持続しているようにみえる」という。オルデバルとは、スハルト体制下の「新秩序」のことである。

 人類学者、社会学者を中心とする十数名の執筆者が、自分の専門性をいかして、現在のバリに切り込んで「変わるバリ」と「変わらないバリ」を考察した本書は、確かな分析視座の下にフィールドワークに基づく具体的な事実が語られており、読んでいて楽しかった。ただ、2点、気になることがあった。1点は、地図がまったくないことだ。バリ島と周辺の島々、行政区画が示してあるバリ島全図、とくに観光産業が盛んな地域と、すくなくとも3枚の地図がほしかった。

 もう1点は、さらに深刻な問題である。「はじめに」のおわりのほうに、つぎの記述がある。「いわゆる「癒し」の場として語られることが多かった。このイメージは、まず一九三〇年代にバリに長期滞在した欧米人によってつくられ、その後現代にいたるまで、「癒しの旅」を求めるよそもの達によって絶えず再確認されてきた」。「しかし歴史をみていくと、水平的には王国間の争い、垂直的にはカスト間の対立が絶えず、またインドネシア独立のための闘いの時期や、その後の国民国家形成の時代をみても、血みどろの争いがバリ人の社会内部で常にみられた」。そして、「むすびにかえて」で「コロニアルとポストコロニアル」が議論されている。にもかかわらず、本書は1942年の日本軍のインドネシア侵攻ではじまっている。

 19世紀はじめに存在した8つないし9つのヒンドゥー王国の成り立ち、1840年代の3度にわたるオランダとの戦争(バリ戦争)、そして20世紀に入ってオランダ植民地軍の力による植民地化、それにたいして「死への厳粛な行進」で対抗した王・貴族・女性や子どもを含む人びと、1908年にバリ島全島を植民地化したとはいえ、旧王国の領域ごとに行政区画をつくり、自治を与えざるを得なかったオランダ植民地政府、これらのことがわかってはじめて、「変わるバリ」「変わらないバリ」の本質がわかるのではないか。このグローバル化の時代にバリの歴史を本格的に語ることができる日本人歴史研究者がいなければ、どんなバリ研究をしても無駄だとはいわないが、これだけの日本人バリ研究者がいながら、その研究を支える基礎研究の歴史研究者がいないというのは、なんとも残念なことだ。

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2009年11月17日

『フィリピン社会経済史-都市と農村の織り成す生活世界』千葉芳広(北海道大学出版会)

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 「本書は、情報、生産物商品、資本、労働力の連鎖がその範囲を拡大して強化されると同時に、植民地支配とそれへの対応がせめぎあうという世界史的状況に置かれた一社会を分析することを課題とする」。その一社会とは「マニラ地域経済圏」で、「マニラを中心とする都市部とその周辺の農村部となる中部ルソン平野の双方が埋め込まれた社会経済空間を意味する」。

 著者、千葉芳広は、この空間をつぎの3つの視点で理解しようとしている。「第一には、地域のまとまりの基礎的単位をどのようにして認識するのかという問題」、「第二に、上述の社会関係としてのまとまりを異にする各地域が、ネットワークによりさらに大きな地域的まとまりを形成するとの見方」、「第三に、地域的特性としての文化が伝播して、同質的な文化的まとまりとなる地域の範囲が拡張するという見方」である。

 本書は、「序章」、3部6章、「終章」からなる。はじめから1冊の本として構想されたわけではなく、ここ10年ほどのあいだに書いたものを、「序章」と「終章」で意味づけた論文集である。著者は、「まえがき」で各部の内容を、つぎのように要約している。「第1部では、人口成長の動向を踏まえながら、マニラ地域経済圏における労働力移動やエスニシティ・性ごとの労働力編成をみる」。「第2部では、マニラと中部ルソン平野の生産労働を分析する。すなわち、マニラ地域経済圏における労働力移動の背景にある、都市と農村の両地域における労働諸関係の考察を行なう」。「第3部では、マニラ地域経済圏における流通取引の展開を、とくに米の取引およびその市場の展開に焦点を当てて議論する」。

 そして、各部各章での議論を踏まえて、「終章 近代におけるマニラ地域経済圏の変容」では、「2つの視点からみた地域社会」「都市、農村双方における社会的結びつき」「マニラ地域経済圏の時期区分」の3つに整理して、まとめている。

 それなりによく勉強して数々の問題点をあげ、本書で取り扱った事例をそれぞれの問題の解決のために、あてはめようとしていることがわかる。しかし、それがいまひとつ、フィリピン研究や社会経済史研究を深めていくためのものを提供しているようには思えなかった。その理由は、それぞれの研究の核心であるフィリピン革命とその後のアメリカ植民統治や社会不安の温床となった中部ルソン地方の農村社会の考察へと収斂していかなかったためだろう。具体的に、これらの研究の核心に迫っていくと、事例がいっそう生きたことだろう。

 著者が、「あとがき」で嘆いているように、「北海道で東南アジアを研究することの難しさ」が影響したこともあるだろう。「北海道の地で東南アジアを研究することにいったいどのような意味があるのか」、「フィリピン経済史を研究することは孤独との戦いでもあった」という著者が、本書を出版したことを心から喜びたい。本書の出版は、同じように「孤独と戦い」ながら「マイナーな分野」の研究を続けている人びとに励ましを与えることになるだろう。また、「マイナーな分野」の研究は軽視されがちだが、「メジャーな分野」の研究にも少なからず影響を与えていることを力説したい。「メジャーな分野」で当たり前とされていることも、「マイナーな分野」からの素朴な疑問から、見直しのきっかけになることがある。本人は気づかなかっただろうが、著者が「フィリピン研究を曲がりなりにも続けてくることができた」のが、「多くの人々の支えがあってこそ」ならば、著者自身もその多くの人びとを支えてきたことを誇りに思っていいだろう。本書の出版を機に、著者自身の研究の発展とともに、北海道の地で東南アジア研究が発展することを期待したい。

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2009年10月27日

『ドイモイの誕生-ベトナムにおける改革路線の形成過程』古田元夫(青木書店)

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 まず、「お帰りなさい」と言いたい。ここ数年間、研究科長・学部長、副学長、附属図書館長を歴任し、校務多忙だった著者、古田元夫が「注がついた本」を出版したことを心から喜びたい。もう何人、研究への未練を残しながら、管理職について研究の現場に戻ってこなかった諸先輩方をみたことか。研究者の多い分野ならともかく、東南アジア研究のように研究者の数自体が少なく、なかなか研究成果を本というかたちで出せない分野にとって、著者のように「注がついた本」が書ける人が研究の現場に戻ってきたことは、ほんとうに心強い。

 本書でもっとも知りたかったことは、なぜベトナムが北朝鮮やミャンマーのようにならず、ドイモイ(刷新)を誕生することができたかである。直接の回答はなかったが、ソ連のペレストロイカの影響、および、なぜ本書がシリーズ「民族を問う」の1冊として執筆されたかを説明した「序章」のつぎの1節から、疑問のいったんは解けた。「ベトナムのドイモイ路線の形成にソ連のペレストロイカが影響を与えていることは事実である。しかし、それをドイモイ路線形成の主たる要因として扱うことは問題である。著者は、ドイモイ路線形成には、まずベトナムの一般の人びとや、地方の下級の共産党組織による「下からのイニシアティブ」が重要な役割を果たし、これを受けて共産党の最高指導者のなかに生まれたチュオン・チンを中心とする改革推進勢力が、より保守的な、あるいはより慎重な他の指導者を、ある時には説得し、ある時にはその反対を押し切って、ドイモイ路線の形成にいたった、という国内の政治過程が決定的に重要な意味をもち、ペレストロイカの影響も、それに先立つベトナム国内での土壌づくりがあって、初めて意味をもったと考えている。ドイモイ路線形成の過程を、ベトナム国内での「地方の実験」と、共産党指導部内での論争を通じて描く本書が、「民族を問う」というシリーズの一環をなす、第一の理由はこの点にある」。「さらに、ベトナムのドイモイ路線の形成は、単に危機状態にあったベトナム経済を救ったという意義だけでなく、基本的に社会主義というのは、国際的な「普遍モデル」に沿って建設されるべきである、というベトナム共産党の社会主義観を大きく転換し、ベトナムにおける社会主義の「民族化」の道を切り開くものだった。このように、ドイモイ路線の形成は、社会主義と民族という問題が交差する性格をもっていると考えられる。これが、本書を「民族を問う」というシリーズの一環として執筆した、第二の理由である」。

 著者は、本書の課題を、「貧しさを分かちあう社会主義」が、1970年代末以降「どのように克服され、八六年のドイモイの提唱にいたったのかを検討することにある」としている。2000年には、すでに「それなりにまとまった構想をもち、材料もある程度はそろった状態にあった」にもかかわらず、「今回の出版にこぎつけるのに一〇年近くの時間」を費やすことになったのは、多忙な校務だけではなかった。「路線形成過程での党内論争、共産党の政策決定過程といった政治過程に関する研究は、ベトナムに関するかぎり、資料的な制約から、まだきわめて遅れているといわざるをえない」状況があった。「しかし近年、この資料的制約をある程度克服しうる状況が生まれてきた」。まず、「一九九八年からはじまった、ベトナム共産党刊行の公式の文献集である『党文献全集』」が出版され、「本書で主に検討する七九年から八六年の分はすでに公刊されており、本書の課題にとっての最も基本的な資料が、外国人研究者にも入手可能」になった。また、「ベトナムで回想録や個人に関する研究書の刊行が盛ん」になり、チュオン・チンについての公式回想録集なども出版された。いずれも、「公式」というのが気にかかるが、議論の基本となる資料があることで、著者に自信をもたせたことだろう。

 本書から、「ドイモイ提唱の三年前のベトナムには、改革とはまったく縁遠い空気が存在していた」にもかかわらず、また強い独裁的権力をもっていたわけではない改革派に転進したチュオン・チンが提唱、主導したドイモイが、「地方の実験」や「下からの力」に支えられて改革路線が形成されていった過程が理解できた。それにしても、綱渡りの連続で、なんらかのきっかけで、保守に逆戻りする危険性が何度もあったこともわかった。そう考えると、ソ連共産党が1986年3月1日に採択した新綱領で、「生産効率を引き上げ、分配、交換および消費を改善するためには、社会主義に固有な新しい内容をもった商品-貨幣関係をさらに完全に利用することが重要である」とした、ゴルバチョフの進める改革が「追い風」となったことが決定的だったように思えるが、著者はそれをつぎのように批判している。「[チュオン・チンの「研究グループ」のひとりであったヒエップ氏は]ベトナムのドイモイの過程では、ソ連、東欧、中国の改革を参考にしているが、模倣はしていないのが特徴だとしている。本書でも、ドイモイをソ連のペレストロイカの影響とする見方を批判し、一九七九年から八六年までの時期に関しては、ソ連との関係は改革促進的にも改革抑制的にも作用していたこと、ベトナムの第六回党大会直前のゴルバチョフによるチュオン・チンの政治報告案への賛意表明と署名は、重要な意味をもったが、それはベトナムのドイモイがソ連の押し付けだったことの証明ということではなく、ベトナムへの援助に大きな権限をもっていたソ連の保守的な経済官僚への牽制という意味があったとした。私も、ベトナムのドイモイ路線の形成に対する、外国の影響を否定するつもりはないが、それを過大評価することは、ドイモイが、社会主義の「民族化」であるという側面を看過することにつながり、誤りであると考える」と、著者は明言している。ドイモイは、あくまでもベトナム民族の勝利の結果なのである。

 NHKBS1のベトナムニュースを見ていると、ドイモイの成果を強調するような経済開発や観光産業の発展に加えて、歴史や伝統文化の紹介が多く、著者のいう「民族化」が現在も続いているような印象を受ける。いっぽう、「公式」なニュースしか報道されていないような印象も受ける。「二一世紀に入って急速に進んだ資料の公開、研究の発表」によって、本書の執筆は可能になったが、「公式」でない資料に基づくベトナムの過去・現在はよくわからない面がある。本書もまた、新たな資料の出現によって、書き直されるのだろうか。今後、経済や観光だけでなく、いろいろな面で交流が深まっていくであろうベトナムについて、もっと知りたいと思った。その意味でも、研究の現場に戻ってきた著者の今後の活躍に期待したい。

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2009年09月29日

『ヤシガラ椀の外へ』ベネディクト・アンダーソン著、加藤剛訳(NTT出版)

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 まず、訳者加藤剛はじめ、著者アンダーソンのコーネル大学での日本人の教え子たちに感謝したい。著者自身が「必ずしも積極的でなかった」本書の執筆を引き受けた背景には、「本書を日本の若い人-研究者を志し大学や大学院で勉強している人、教職・研究職にある若い大学人のために書いてほしい」という編集者のことばに、かつて自身が指導した日本人学生の姿があったからだろう。日本語出版のためだけに書かれ、イギリス語での出版予定のない本書を読む幸運に恵まれたことに感謝したい。

 『想像の共同体』で知られる著者は、本書の主題として「私の幸運」を考えた。本書を読むと、たしかに幸運だったことがわかるが、それを幸運だと思うこと自体、著者の能力だろう。著者自身も、最後のほうで、たんなる幸運だけではないことをつぎのように説明している。「幸運は、学問の場においても日常生活においても、説明することができない。これが、研究者ならびに知識人としての自分の人生を語るに当たって、私が一連の幸運をことさらに強調した理由だ。私の生まれた時代と場所、私の両親と祖先、私の言語と教育、私のアメリカへの移動、そして私の東南アジアでの経験」。「好機というのは、しばしば予期せぬ偶然としてやって来るものであり、それがさっと目の前を通り過ぎる前に、勇敢にあるいは無謀に、これを捕まえなければならない。思うに、冒険精神ほど、本当に生産的な学問生活にとって決定的に重要なものはないだろう」。

 本書のタイトルとなった「ヤシガラ椀の外へ」は、「井の中の蛙」になりがちな「日本の若い読者へのメッセージの意味を込めて」決まった。言語学上まったく別の語族に属するインドネシア語でもタイ語でもある「ヤシガラ椀の下のカエル」「ヤシガラ椀の中のカエル」という意味の慣用句がもとになっている。「これが言わんとするのは、独りよがりの地方気質(プロヴィンシヤリズム)だ。ヤシガラ椀の下のカエルは、椀から這い出すことが叶わず、やがてカエルは、頭上にある椀の天井が天空だと思い込むようになる」。

 本書では、「ヤシガラ椀の外へ」出ることの意味や方法が、具体的に語られている。まずもって、「ディシプリン的近視眼と国粋的な自己中心主義の組み合わせほど、学生が創造的に考えることを妨げるものはない」という。したがって、著者は「ディシプリンの壁を崩す」必要性を述べるが、その解決策のひとつである「学際的(インターディシプリナリー)であるためには、まずディシプリンが存在しなければならない」という。また、「歴史学は時代と国によって分けられたが、この二つのカテゴリーに科学的な根拠は存在しない」と言い切る。そして、著者は、「第五章 ディシプリンと学際的研究をめぐって」を、「学際的研究の意味も、最終的には、この創造性と革新性にいかに貢献できるかとの関係で問われなければならない」と結んでいる。

 本書は、「著者と訳者の私たち二人の共同で仕事をする」ことの成果であり、日本の若い読者を想定したことから、訳者による補足説明が本文に挿入されている。そのひとつがアメリカと日本の教育研究機関における地域研究の位置づけの違いで、訳者はつぎのように説明している。「アメリカでは、東南アジア研究にしろ、どの地域の研究にしろ、地域研究は教育と不可分に結びついている。地域研究の創生からして、目的は当該地域の研究を促進すると同時に、その地域について専門知識を身に付けた人材を養成することにあった。しかし、日本の地域研究的な機関の嚆矢(こうし)であり現在でも代表的機関・・・においては、少なくとも当初の創設の目的は、大きな財団が存在しなかったこともあって公的資金に依存した研究組織の設置であり、学生の教育は含まれていなかった。共同研究が強調されるのも、アメリカとは異なる伝統である」。

 このことは、アメリカでは若い研究者を教育者として育てることが重視されたことを意味し、著者は自身の体験からつぎのように説明している。「若手教師が、東南アジアとは何の関係もない学部授業をたくさん担当するように仕向けることだった(私の場合でいうと、「社会主義の伝統」「イギリス連邦の政治」「軍の政治的役割」「政治と文学」といった授業を担当した)。これは、若手教師にとっては多くの負担を意味したが、東南アジア・プログラムが学内で孤立することや、オリエンタリズム的視野狭窄に陥ることを防ぐ役割を果たした。何よりも重要だったのは、プログラムの全ての教授陣がディシプリンに確固とした足場を持ち、単なる「東南アジア」以上のことを教授できることだった」。

 「比較」においては、なんでもかんでも比較すれば、それなりの結果が得られるとは限らないことが、「第四章 比較の枠組み」からわかる。まず、著者たちが学んだ「比較は、主として西ヨーロッパの比較」で、それが「容易であり、かつ妥当でもあった」ことが、つぎのように説明されている。「ヨーロッパ諸国の間には何世紀にもわたる相互交渉や相互学習があり、さらには相互競争があった。それも、これら諸国は、ギリシャ=ローマの古典古代(アンティクウィティ)とユダヤ=キリスト教に基づく文明をお互いに共有していると信じていた」。

 そして、第四章の最後に「比較とは何だろうか?」と自問し、つぎのように答え、さらに3つの留意点を挙げている。「それは、基本的には方法(メソツド)ではなく、学問的テクニックでさえないと認識することが重要である。むしろ、それは、語りのための戦略、どのように問題を設定しそれを語るかの戦略だ。比較を行なうに当たっては、この戦略をどのように用いるかをめぐりいくつか留意すべき事項が存在する」。「まず、第一に、どのような研究においても主として類似点を追求するのか、それとも相違点を追求するのかを決めなければならない」。「二番目の留意点は、最も啓発的な比較(類似、相違のいずれの比較であるかにかかわらず)は、「妥当な議論が展開できる範囲内で」との条件つきだが、意外性や驚きのある比較だということだ」。「三番目の留意点は、同一の国を長い歴史の中で見る時間軸(ロンジテユーディナル)の比較は、少なくとも複数ネーションを横切る形の空間軸(ラティテユーディナル)の比較と同じほど重要だということだ。その理由のひとつは、教科書風のある種の国民の歴史(ナシヨナル・ヒストリー)が持つ力である。それは神話を厭(いと)うことがなく、ネーションの永続性と往古に遡る「ナショナル・アイデンティティ」に既得権益を見出すような歴史である」。

 これらのほかにも、数々の成果を発表してきた著者だけに、「ヤシガラ椀の外へ」出ることが、どういう意味をもち、学問の発達に通ずるのかが、具体的事例とともに語られ、説得力をもつ。「フィールドワークに内在する根源的な意味に気づき始めた」著者は、「自分の「調査プロジェクト」にだけ集中するのは無益」で、「むしろ全てに対して不断の好奇心を持ち、自らの目と耳を研ぎ澄ませ、そして何についてであれ、それこそあらゆることについて書き留めておくべきだ。そうすることによってこそ、フィールドワークから大きな恵みがもたらされることになる。何か違う、何かが変だという経験は、私たちの五感を普段よりも鋭くし、そして比較への思いを深めてくれる」ということが、わかるようになった。

 そして、つぎのような方法で、書きとめていった。「当時ラップトップのコンピューターはなく、電動タイプライターさえなかった。フィールドワークにテープレコーダーを持って行ったとしても、それを使うことは率直さや寛(くつろ)いだ場の雰囲気を壊すことに繋がりかねない。私自身はテープレコーダーを使うことはまったくなかった。したがって、二つのことをしなければならなかった。インタビューの内容を全て記憶することと、終わった後は「自分の家」にすぐさま戻り、手動タイプライターないし手書きでそれを記録することだ。記憶と記録のために工夫したことは、尋ねることをトピックごとに事前に考え、聞いたことの簡単なメモをインタビュー中にさりげなく手帳に書き留めることだった。例えばオランダ人の習慣、善良な日本人、金銭、武器、ラジオ、汚職等々である。耳と記憶の訓練に、これほど優れもののやり方はなかった」。

 本書を読めば、「ヤシガラ椀」のなかにいることに気づいていなかった人にそれを気づかせ、「ヤシガラ椀」のなかにいることに気づいていながら、それに安住しそこから脱出できない者に、脱出するきっかけを与えるだろう。これまで著者が書いてきたものが難しく、理解できなかった者は、本書を読むことによって著作の背景がわかり、理解しやすくなったことだろう。なにより、学問をするということが、どういう意味なのかがわかったことだろう。本書を読んだ後、著者が書いたものを、また読みたくなった。でも、「アンダーソン語」で書かれた原書を読むのは、まだまだしんどいだろうが・・・。

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2009年08月31日

『タイ 中進国の模索』末廣昭(岩波新書)

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 本書は、日本のタイ研究の高水準を示す誇るべき成果である。タイの現状を、これだけ詳細に深く、そしてわかりやすく書いたものは、タイ本国にもどこにもないだろう。本書のなかでは、ほかの日本人研究者によるいくつかの文献がしばしば参照されている。したがって、本書は著者個人の成果というより、これらの参照文献の著者たちとの共同研究の成果といってもいいだろう。そして、それらの共同研究をリードしたのが、著者の末廣昭であった。

 2004-05年に、『戦争の記憶を歩く 東南アジアのいま』(岩波書店、2007年)を執筆するためにタイを広く歩いた。そのときは、2005年2月に実施された総選挙でタックシン首相率いる政党が全議席の75%を占める圧勝をしたように、素人目にはますます政権は安定するかにみえた。翌2006年9月にクーデタがおこり、あっけなく政権が崩壊するなどとは夢想だにしなかった。

 著者は、本書執筆にあたって、いろいろ整理をしていることが、「はじめに」でわかる。まず、テレビ報道で映し出されるような「黄色のシャツ」と「赤色のシャツ」の対立というような単純なものではないことを、4つに分けて説明する(「第一に、国民の大多数は、「黄色のシャツ」であれ「赤色のシャツ」であれ、彼らのなりふりかまわない実力行使にうんざりしている」「第二に、「黄色のシャツ」を民主化の推進勢力と捉える議論には賛同できない」「第三に、「黄色のシャツ」(PAD)は王室擁護派、「赤色のシャツ」(UDD)は王室ないがしろ派と区分することもできない」「第四に、「黄色のシャツ」の活動を都市中間層、「赤色のシャツ」の活動を農村貧困層に代表させる見方にも疑問が残る」)。

 つぎに、2つの切り口、2つの課題をあげる。2つの切り口とは「政治の民主化」と「タイの中進国化」で、キーワードとして「民主化、現代化、そして王制」を選んでいる。2つの課題とは、「ひとつは、民主主義をどのように発展させ、王制との調和をどのように図るのかという政治的な課題である。もうひとつは、グローバル化時代の世界にどのように対応するのか、いいかえれば、グローバル化の流れの中でどのように「タイらしさ」(Thainess)を維持するのかという経済社会的な課題である」。これら「二つの課題は将来のタイ社会をどのように構想するか、その違いによって、それぞれいくつかの選択肢に分けることができる」という。

 本書は、前著『タイ 開発と民主主義』(岩波新書、1993年)の続編にあたるため、1992年から再開するのが筋であるが、著者はつぎの2つの理由から1988年を起点とした。「第一の理由は、一九八八年がタイにとって経済ブームの出発の年になったことにもとづく。その後の経済拡大や社会変化はすべてここから始まった。経済拡大はバブルを引き起こし、バブルの崩壊は通貨危機に発展する。そして、この通貨危機が、一方では「国の開発」より「国民の幸福」を重視する開発計画の転機となり、他方ではタックシン首相の「国の改造」の発想の源となった」。「第二の理由は、一九八八年が政党政治の本格的な開始年になったことによる。ただし、政党政治の開始は政治の腐敗のさらなる増殖でもあった。そのため、クーデタが勃発し、五月流血事件、憲法改正運動をへて、一九九七年憲法へと帰結する。ところが、「人民の憲法」と賞賛されたこの憲法は、タックシンという「強い首相」を創り出した。そして、二〇〇六年のクーデタ以後の政治は、タックシン体制の根絶か、それともその復活かを軸に、先行き不透明な政治抗争を繰り返している」。

 この政治抗争の根源は、2009年3月末にタックシン元首相が支持者の集会で、ビデオを通じて述べた「今回のクーデタの首謀者はプレーム枢密院議長とスラユット枢密顧問官である」という爆弾声明につきるかもしれない。王室に絶大なる影響力をもつこれら2人を中心とする勢力が、反タックシン運動の黒幕だというのだ。しかし、著者は、そのような表面的な対立構造だけではなく、タイの基層社会・文化のなかで現在の状況を理解しようとし、タイの現状をつぎのように総括している。「「黄色のシャツ」と「赤色のシャツ」の衝突は、一面ではタックシン元首相の政界復帰をめぐる対立の側面をもっているものの、両者が過激な実力行使に走る背景には、間違いなくタイ経済の悪化、失業者の増加、将来への見通しへの不安が存在した。経済の不安定が政治の不安定を増幅させ、政治の不安定が経済の建て直しの足をひっぱるという悪循環に、タイは陥っている」。

 著者は、今後の大きな課題として「王位の継承と今後の王制の在り方」をあげ、終章を「タイ社会と王制の未来」とした。日本の皇室とは違い、タイの王室は社会に影響を与えうるだけの内帑金(君主の所有に属する財貨)をもって経済開発や社会福祉事業などを行っている。日本の皇室やイギリスなどのヨーロッパの王室がおこなう政府とは別次元の外交などと違い、政府の政策と矛盾し対立することもある。今日の混乱の原因のひとつは、タックシンの「国の改造」政策が王室が目指した「足るを知る経済」と衝突したためである。そして、著者は、つぎのようにこの終章をむすんでいる。「結局のところ、中進国タイには二つの道があると言ったが、ありうる選択は「現代化への道」と「社会的公正の道」を折衷したものに行き着く。ただし、それは時代の流れに柔軟に対応し、バランス感覚を大切にするタイのひとびとにとっては、もっとも現実的な道と思えるが、どうであろうか」。

 たしかに、この20年間にタイ社会を取り巻く環境は大きな変貌を遂げた。にもかかわらず著者は、前著と同じくつねに「タイらしさ(Thainess)」を考えながら、本書を書いている。読者であるわたしも、ぶれない視点で本書を読むことができ、数々の疑問が解けた。しかし、わかりにくいことも多々ある。空港を占拠したり国際会議を妨害したりしても、本気で再発を防ぐ方策はとられていないようにみえる。しばしば変わる憲法に基づいた憲法裁判所による、もっともとも思えないような理由での首相解任や党の解散命令を、なぜ当事者たちがすんなり受け入れたのか。タイ人のいう「民主主義」とはどういうもので、あきらかに国益を損なうことがなぜ繰り返されるのか、そして「タイらしさ」とはなになのか。タイ人自身によるタイ研究の飛躍的な進歩に連動する日本人のタイ研究者の考察・分析に注目し、著者のいう3つのキーワード「民主化、現代化、そして王制」とともに、今後のタイの情勢をみていきたい。タイ人が微笑みを取り戻すことを願いつつ・・・。

(ロンドン行きの飛行機のなかで本書を読みはじめ、時差ぼけで眠れない「早朝」に書評を書いた。)

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2009年02月03日

『イスラーム金融』櫻井秀子(新評論)

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 石油が高騰し、オイルマネーが日本経済にもあちこちで少なからぬ影響を与えるようになってくると、安直にイスラーム経済について知りたくなる。しかし、本書は、その期待を見事に裏切っている。著者、櫻井秀子は、「はじめに」で、つぎのように上手にイスラームとつきあうことは、そう容易いことではないことを説明している。

 「イスラーム市場に参入する際に、イスラーム的ビジネスのテクニックにとどまらず、その体系の根底にある文化と思想、さらにはその基層にある世界観や存在論までの理解をもてば、まさに鬼に金棒である。別段これは、イスラーム圏の市場に参入する際に限られたことではない。中国やインドなどの非欧米地域の市場への参入にも、同様の姿勢が重要である」。「日本企業はかつて欧米市場に参入する際に、多くの人材を欧米諸国に留学させ、西欧思想を筆頭に、歴史、経済、政治、法、文化にいたる幅広い知識を習得させ、さらに人脈づくりを奨励した」。

 日本は、いまイスラームについて、本気で知ろうとしているのだろうか。著者は、その現実を知っているから、つぎのように警告する。「日本の生命線といってもよいエネルギーに対しては、市場を介せばいつでも調達できるという安易な考えが、いまだに優勢である。資源獲得競争が激化している現在、日本は資源供給地域に対して、経済的要素の他に深い理解を示し、文化・社会的な関係を構築することがきわめて重要であることを再認識する必要がある」。

 こういう風に言っても、それを納得できる日本人は少ないだろう。著者は、その理由を、日本が「近代化の過程においてオリエンタリズムの強い影響を受けてきた」ことに求め、「<脱オリエンタリズム>をめざすためには、欧米文化の鏡ばかりでなく、他の異文化の鏡に自文化の社会を照らすことは欠かせない」と主張する。

 いま日本は、かつて欧米から学んだように、まずとくに経済的関係が深まってきた東南アジア、インド、イスラーム諸国に学ぶ姿勢をもつことからはじめなければならないだろう。その意味を理解するためには、教育の現場で、欧米だけでなく、非欧米諸国・地域のことがわかる人材を配するべきだ。小学校でも、中学校でも、高等学校でも、もちろん大学でも、たとえばイスラームを理解する先生がひとりでもいれば、社会に出てイスラームとの接し方は違ってくる。安直に理解しようとする発想ははじめからなく、本書に書かれているような基本から学ぶのが当たり前だという認識をもつだろう。残念ながら、本書を充分に理解できる日本人は、それほど多くない。

 本書は、出版時期が時期だけに、サブプライムローン問題をきっかけに起こった現在の金融危機をかなり意識して書かれている。したがって、歯止めがかからなかったキリスト教徒の資本主義社会に対して、イスラーム金融の長所が存分に述べられている。たとえば、「ビジネスと倫理」にかんしては、「聖俗二元論にもとづくキリスト教世界と好対照をなしている。米国社会では、「ビジネスと倫理は、両立しない」「ビジネスマンは天国にいかない」といった、<ビジネスの非道徳性の神話>があると指摘されている」。それにたいして、イスラーム世界のビジネスは、シャリーア・コンプライアンスによって倫理が守られているという。

 シャリーアとは、イスラーム法を指すアラビア語で、欧米の近代法と区別される。利子を取らないことで代表されるシャリーア・コンプライアンスは、つい最近まで、「時代遅れで改革すべき対象とされてきた」。それがいまでは、「世界のいたるところで実体経済の箍がはずれたことにより、規制なき市場と経済が社会に対して破壊的に襲いかかりつつあることを考慮するならば、実体性を堅持することの社会的合理性をいま一度再考すべきであろう」というのも、容易に納得できる。具体例として、「土地の所有については、特に社会的責任が大きく問われることから、適切な活用がなされていなければ、その所有は認められない。たとえば地主が不在で死地となって活用されない土地は国家によって没収される。また土地ころがしのように土地そのものを商品化し売買したり、仲介手数料を得ることなども禁じられている」といわれれば、いますぐにでもイスラームのビジネス・エートスを導入したくなる。しかし、そう単純ではないだろう。

 サブプライムローンは結果を知っているだけに、なんで許されたのだろうと、不思議に思っている人が多いだろう。しかし、サブプライムローンのいいところを知っていれば、なぜやめられなかったのかもわかってくる。サブプライムローンによって家を持つことができた人びとがおり、その家を担保にお金を借りて消費財を購入するなど、経済活性化に大いに役立った。問題は、経済環境が悪化してローンが返せなくなり、住宅価格が下がって問題が表面化したときに、債券化していたために危機の実態が把握できなくなっていたことにある。問題を早期に発見し対処できるセイフティネットが構築されていれば、ここまで金融危機は深刻なものにならなかったはずだ。膨張を前提とする資本主義経済では、サブプライムローンはその膨張のための1手段としての架空経済だった。

 一方、その資本主義の膨張に抵抗してきたのが、シャリーア・コンプライアンスであった。膨張が宿命の資本主義経済をやめるのか、資本主義社会が共産主義・社会主義からセイフティネットを学んだように、イスラーム経済からセイフティネットを学ぶのか、グローバルな英知が求められている。その一方で、自分たちの身近な社会をどうするのか、コミュニティとしての自律も求められているように思う。

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2009年01月27日

『離陸したインド経済-開発の軌跡と展望』絵所秀紀(ミネルヴァ書房)

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 いつものように帯の宣伝文句を見て、表紙見返しの要約を読んで、「はしがき」「あとがき」と読み進んだ。この段階で、本書に期待していいのかどうか、よくわからなかった。

 帯には、「台頭するアジアの巨象の行方は? 独立からすでに離陸を完了しグローバル化する現在までの経済発展の軌跡を概観し今後を展望」とある。見返しの要約は、帯の文面と重なっているが、著者は「開発経済学、インド経済論の第一人者」であるという。そして、「はしがき」の出だしを読んで、読むのをやめようと思った。「もう一五年以上も前に」出版したという共著の発行年は、1995年だった。経済の本で、数字に無頓着なものは信用できない。

 しかし、それで読むのをやめなかったのは、同じ最初の頁の後半に中国との違いが書かれ、「あとがき」の最初に期待できることが書かれていたからだ。中国との違いは、言語政策にあることが、つぎのように書かれている。「インドの多様性がまず感じられるのは、言語である。連邦の公用語としてヒンディー語、準公用語としての英語が認められているが、その他現在では二〇にのぼる州政府が使用する地方公用語が認められている。独立後のインドは、文字文化を有する大言語を機軸として州編成を行った。いわゆる「言語州」の誕生である」。「公用語が別々なのに、インドが統一された国民国家として成り立っている」。世界史では、一般に国民国家の誕生・発展に大きな働きをしたのが国語の成立ではなかったか。中央集権化した強い国民国家を形成するために、国民教育が重視され、国語が重要な役割を担ったはずだが、インドでは違うのか。近年の経済成長と関連があるなら、読まなければならないと思った。

 「あとがき」の最初にも、読みたくなるようなことが書かれていた。「ここ数年、沢山のインド本が市場に出まわって食傷気味だった」「最近のインド・ブームに乗った手元にあるいくつかのインド本を手にすると、途端にげんなりしてしまう」、こういう風に書けるということは、本書を書き終えて、著者には自信があったのだろう。

 「はしがき」では、言語とともにインドが複合国家であることを特徴付ける宗教についての説明がある。まず人口の約8割を占めるヒンドゥー教について、理解する必要がある。その第1の特色は、「生まれながらの宗教」であるとし、つぎのように説明している。「キリスト教やイスラム教や仏教は、われわれが選ぶことのできる宗教である。通常は「洗礼」という形をとって、自由意志でわれわれはキリスト教徒にもイスラム教徒にも仏教徒にもなれる」。「これに対しヒンドゥー教の場合は、ヒンドゥー教の家に生まれない限り、ヒンドゥー教徒にはなれない」。「この宗教的性格がインドの社会と人々の考え方を大きく規定してきたように思われる」。

 このヒンドゥー教徒について知らなければならないことはもちろんだが、約1割を占めるイスラーム教徒やシク教徒、ジャイナ教徒、キリスト教徒、仏教徒、パールシー教徒のことも知っておかなければ、インドとつきあえないことは、本書を読み進むうちに、だんだんわかってきた。

 言語について、もうひとつ頭に入れておかなければならないのは、エリートの共通語としての英語だ。あの文章と文章のあいだに間がなく、よどみなく話す独特のインド人の英語は、インド全土を駆け巡るだけでなく、「そのまま世界中をも駆け巡っている」。「現在海外にいるインド人(いわゆる印僑)は二〇〇〇万人と言われている。このうち約二三〇万人がアメリカ在住のインド人であるが、彼らの大半はエリートである」。

 これだけの予備知識があれば、本書を理解することはそれほど難しくはない。本書での議論の要約は、最終章の「おわりに-二一世紀インド経済の展望」の冒頭で、つぎのようにまとめられている。「高度成長の恩恵は絶対的貧困層の比率を減らしており、また識字率も高まってきている。しかしそのスピードは、期待されるほど速くない。一方、情報通信産業の進展によって高度な教育を受けたエリート層(新中間層)の所得は飛躍的に伸びており、州間の所得格差も急速に拡大している」。

 「インドは何度も外国から攻められたことはあるが、外国に攻め入ったことはない」。しかし、近年のインド系企業の世界的規模での買収をみていると、経済的に攻めていることは確かだ。人口も、いずれ中国を抜くことが予想されている。インドの複合性はそれを乗り越えたとき、インド人が主体となって世界の複合性を超えることを意味する。世界の中心にインドが踊り出すことも予想されている。インドを理解することは、これからの社会を理解することにつながる。

 著者は本書を執筆するにあたって、つぎのような方針をもって書き始めた。「本書は、すでに離陸し急速にグローバル化が進展しているインド経済の現在を理解するための入門書である。普通ゼミの学生に話すように(つまり楽しみながら)、書こう」と。楽しみながら、本書を読むためには、もっとインドのことを知る必要がある。

 先週、このブログをアップした翌日、アルミ缶の買い取り価格は、1キロ55円から45円に下がった。いったいどこまで下がるのだろうか。

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2009年01月20日

『東南アジア経済史-不均一発展国家群の経済統合』桐山昇(有斐閣)

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 アジアの経済発展が、欧米の先進国に追随したものではないことが明らかになり、その経済発展の原動力を、歴史や文化に求めるようになってきた(ようやく!)。本書の目次を見てもそのことがわかる。

  第1章 東南アジアの現在
  第2章 東南アジアという地域世界
  第3章 支配からの離脱
  第4章 「国民経済」の追求
  第5章 脱植民地経済希求の転回点
  第6章 開発戦略の発見
  第7章 ASEAN経済の形成
  第8章 産業社会の確立とFTA

 帯に「現代東南アジア経済を読み直す」と大書してあり、その下につぎような本書の要約ある。「めざましい経済発展と地域統合の進展で注目を集める東南アジア。旧宗主国の史料解読や系統的な現地聞取り調査から、日本の企業活動とも関連深く、新たな国際分業体系を作り上げるなかで産業社会化が進むこの地域の経済発展を跡づけ、現段階をリアルに把握し、今後の方向を提示する」。

 著者、桐山昇は、「この地域の商業・経済活動がもつ歴史的属性への回帰の道」に注目し、「植民地時代はもとより前近代世界においても、域内各経済単位(たとえば港市)は連接する商業・経済活動の環であった。この地域にあって、地域国際分業体系こそが普遍的姿であったといってよいであろう」と、東南アジアの地域性を押さえてから、時系列的に地域経済を語っている。そして、東南アジア各国に目配りしながら、その時代を特徴付ける国を事例として丁寧に説明をしている。

 本書が、安心してアジア経済を学ぶ学生に、テキストとして紹介できる内容になっているのは、著者が教育大学出身で、これまでも『東南アジアの歴史』(共著、有斐閣、2003年)などのテキストを執筆した経験があるからだろう。また、「対象とした全事業所(現場)に直接出向くこと、製造業であれば面接に加えて製造ライン見学を旨とするヒアリング手法を基礎としている」のは、机上の動向分析が、「現場」で役に立たないことを知っているからだろう。「在外企業ヒアリングで訪ねた国は、ASEAN諸国を中心に関係国合計14ヵ国に及び、訪問した事業所数も160を超えるに至った」という。「東南アジアであるから労働コストが圧縮できる」と考えている日本の東南アジア進出企業があるなら、その企業の東南アジアでの未来はない。東南アジア社会はすでに成熟して、「3K職場を嫌う」ようになっている。東南アジア社会の発展のなかに日本企業を位置づけるビジョンがなければ、いずれ東南アジアから排除されることになるだろう。

 文献で歴史や社会を理解し、現場で現実を把握して、その現実を歴史や社会のなかで理解する。そのことが、読者に充分伝われば、「アジア経済を学ぶ学生はもとより、現地赴任もしくは現地体験をもつ企業人に、その体験を整理し、体系化する一助」となることは、間違いない。

 ところで、「3K職場を嫌う」ようになってきていることはわかるが、依然として産業廃棄物の取り扱いやリサイクルのための危険な作業が東南アジアや南アジアでおこなわれていることは事実だ。経済環境の悪化によって、このような危険な労働が、さらに過酷な状況にならないことを祈る。日本でも、わたしが通勤途中で見るアルミ缶の購入価格は、この数ヶ月で1キロあたり155円から85円に下がり、いまは55円になっている。空き缶収集日に早朝から集める人がいてうるさいと思ったこともあったが、これらの人びとはこれまでの2倍も3倍も集めなければ、これまでの収入が得られなくなっている。金融危機のしわ寄せは、このような人びとや経済的に弱い立場の国ぐにに集中する。セイフティネットの機能を充分に働かせなければ、国内的にも国際的にも社会はどんどん悪い方向に向かってしまう。

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2008年12月30日

『タイの開発・環境・災害-繋がりから読み解く防災社会』中須正(風響社)

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 「災害を天から降ってくる天災とせず、人災の部分に絞り込むことによって、抑止・コントロールし得る可能性を探る」という著者、中須正の立場に、まず賛同し拍手を送りたい。たしかに人間は無力で、神に祈るしかないときがある。しかし、あきらめからはなにも生まれない。できることを探し、英知を結集して、神の領域を減らすことによって、神との健全な関係が生まれる。

 著者が本書で明らかにしたことは、きわめて明確に「おわりに」で、つぎのようにまとめられている。「本書は、①タイの開発・環境・災害はそれぞれどのように繋がっているか、②タイの開発・環境・災害と社会は、どのように繋がっているのか、そして、③それらが、どう日本と繋がっているのか、を明らかにしてきた。具体的には、タイの開発・環境・災害の歴史を俯瞰し、そこからタイ社会との関係を見てきた。特にタイにおいて開発が本格的に始まった一九六〇年代から代表的な事例をいくつか取り上げながら、災害とは作り出されるもの、その社会を反映するものということを示した。さらに日本と比較し、その繋がりを考察した」。

 そして、著者は、「開発・環境・災害すべては繋がっている。そして人と人、国と国も必ず繋がっている。その意識から問題解決が始まる」、「言いたかったのはこの点につきるのである」と結んでいる。その前には、つぎのような文章がある。「開発が環境を改変し、災害へと繋がるプロセスは、まさしく天に唾を吐く行為と同じようにもみえる。これは世界共通で考えなければならない問題であろう。災害に弱いアジア、そして災害に弱いタイ。日本の公害輸出が以前騒がれたが、公害経験、災害経験の輸出こそが日本がまず取り組む優先課題ではないか」。

 本書のキーワードは、なんといっても「繋がる」だ。繋がることによってこれまでみえなかった問題が明らかになり、繋がることによって解決の糸口がみえてくる。そして、人と人、社会と社会、国と国が繋がることによって、具体的に解決へと向かっていく。だが、「繋がる」ことは、そう簡単なことではない。広い視野と展望が必要だし、心と時間の余裕がなければ「繋がる」きっかけは生まれない。著者がこのように考えることができるようになったのも、学部時代に理系で、4年間の会社員生活を経て、国際環境教育協力を学び、さらに環境社会学を専攻するようになった履歴と、ストレスから自分らしさを取り戻すことができたタイでのゆっくりとした生活と著者を支えた人びととの繋がりがあったからだろう。著者だけにしかできない発想と繋がりを、どう発展させるか、今後の課題となる。

 「開発→環境破壊→災害(公害)というサイクルに潜む人災」の「負の連鎖」を断ち切るためには、本書のような研究がますます発展し、人や社会や国を動かす原動力になっていかなければならない。「負の連鎖」をつくった力はあまりに巨大で、ひとりやふたりの研究だけではどうしようもないだろう。研究の「繋がり」が、この「負の連鎖」を断ち切る大きな武器になる。

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2008年05月20日

『インドのヒンドゥーとムスリム』中里成章(山川出版社)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 インドの経済成長が著しく、日本の経済界も遅ればせながら、インドに注目しはじめた。そのインドで心配なのが、宗教対立である。大規模な暴動や虐殺事件が続発し、多数の死者や難民の発生がたびたび報道されてきた。そんなインドと経済的な交流を深めて大丈夫なのだろうか。ここで思い出さなければならないのは、戦後共産主義化や強い反日感情のために失った東・東南アジアにかわって、日本が市場を求めたインドで、当時宗教ナショナリズムがピークに達していたことだ。対立だけではない共生という融和的な考えがインドにあるから、戦後の日本は市場を求めることができた。そんなとき(1949年9月24日)に来日したのが、インド象インディラだった。ネール首相が、「象をください」という日本の子どもの手紙に応えたのだ。象は戦時中に処分され、戦後の上野動物園には1頭もいなかった。インドは、戦後の日本経済を救っただけでなく、日本の子どもたちの心も救ったことを、日本人は忘れてはならないだろう。

 著者、中里成章は「インドの二大宗教であるヒンドゥー教とイスラーム教を取り上げ、両者の共生と対立の歴史を、共生に重点をおいてたどってみることにしたい」という。誤解を恐れず極端な話をすると、歴史家はどうにでも話をもっていくことができるストーリー・テラーだ。大切なのは、なぜいま歴史を語らなければならないのか、だれのため、なんのために語る必要があるのかを明確にすることだ。著者は、「対立」ではなく「共生」に重点をおいて語るという。宗教ナショナリズムが、「非常にデリケートでホットな現代の政治問題」であるだけに、表面的に流れがちな議論を、冷静に歴史的にたどっていこうというのである。インド社会の複雑さを熟知している著者だけに、「本書ではポイントを絞り込み、そのかわり、できるだけ丁寧に説明する方法」をとっている。これで、すこしはインドのことがわかるようになると期待して読みはじめたが、・・・。

 著者は、インドの複雑さを理解してもらうために、「文化の「サラダボール」」という比喩を用いて説明をはじめる。「サラダボール」の食材は「溶け合ってしまうわけではない」が、「混ぜ合わせるとそれなりにまとまった料理になる」。そのまとまりがなくなった歴史的起源を、つぎのように述べている。「一八五七年の大反乱(シパーヒーの反乱、・・・)や、ガンディーが指導した第一次非協力運動のときに、ヒンドゥーとムスリムが協力したことからわかるように、インドの宗教対立はそれほど古い歴史をもつものではない。十九世紀の末に、宗教がナショナリズムの政治と密接に結びついて以降、しだいに深刻化したにすぎないのである」。

 著者の目的は、「多様な個性が共存し、個が全体のなかで生かされる理想を、もう一度追求してみよう」というところにある。したがって、まず、「インドでヒンドゥーとムスリムの共生を可能にし、また、必要にしてきた条件を、歴史的条件と地理的条件とに分けて考察し、最後に共生のもっともわかりやすい例として習合の事例にふれる」という。インドでは、イスラームは数世紀もの長い時間をかけて、多様な径路を通じてすすんだため、ヒンドゥーとイスラームが複雑に入り組んだ空間を形成することになった。そのため、「共生する以外に選択肢がないような、切っても切れない関係」が生まれ、「少数派が平穏に暮しをいとなんでいるかぎり、多数派は少数派を保護しなければならないという暗黙の了解が」成立した。入り組んだのは、人口分布だけではなかった。信仰や社会制度などでも、それぞれが影響し合い、入り組んで分離不可能な習合がおこった。「「住分け」は、十九世紀末以降の宗派暴動や分離独立を契機に強化されてきた」。

 その「住分け」の直接の契機となったのが、1857年の大反乱の敗北だった。「イギリスが無敵であることを思い知らされ」、「イギリス植民地支配を前提として、その枠内で再生の道を探」らざるをえず、宗教を指標とする排他的なナショナリズムが生まれた。そして、植民地政府が実施した国勢調査が、「多様で流動的な社会集団を、明確な「境界」をもつ社会集団に切り分け」、固定していった。初期の国勢調査では、「ムスリムのバラモン」さえ存在していた共生社会が、しだいに「分離」され、やがて「対立」の構図が出現した。このように「十九世紀後半の宗教・社会改革運動のなかから生まれた宗教ナショナリズムは、植民地で<近代的な>政治制度のなかに根をおろし、二十世紀における成長の足場をかためた」。

 本書は、著者が「丁寧に説明」してくれているお蔭で、読んでいくうちにインドのことがすこしわかった気になる。すると、著者は「複雑」といって、そんなにインドは簡単にわかるものではない、としっぺ返しをして読者を突き放す。それは、西欧の近代的な論理やその比較からではわからないインドの歴史や文化、価値観を理解したうえで考えることを読者に求めているからだろう。最後の「結び」にあたる「宗教とナショナリズム」でも、「二十世紀のインドで展開するナショナリズムの政治を、どこまで説明できるのであろうか」と自問し、思想潮流の本質的な部分が「宗教ナショナリズムと別物である」と結論する。また、「インド・ナショナリズムの複雑で多面的な性格」をわかりやすく説明するために、「地域主義の問題」と「エリートと大衆の問題」をとりあげる。そして、「最後に、本書の冒頭で紹介したインド=「サラダボール」論」に戻って、「地域に根ざした政治と大衆の自律的な政治の世界に注目することによって、「サラダボール」的な共生の世界を回復する手がかりを見出すことはできないであろうか。現代のインドでは、そうした可能性を感じさせる動きもみえはじめているように思われる」と、結んでいる。

 結局、インドは「複雑」でわからない、ことがわかった。しかし、「排他的なナショナリズムから共和主義的で市民的なナショナリズムへ、頭を切り替え」、「多様な個性が共存し、個が全体になかで生かされる理想」を求めて、努力している人たちが歴史的にも現在もいることもわかった。そして、グローバル化する現在、インドに進出する日本の企業も不安に感じるだけでなく、その理想を実現するためにインド人とともに努力しなければならない。インドの「複雑」さは、ますます複雑になるであろうこれからの世界の縮図かもしれない。ならば、インドを理解することは、未来を展望することにつながる。

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2008年04月22日

『ビルマの民族表象-文化人類学の視座から』高谷紀夫(法蔵館)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 「脈絡」、本書で何十回と出てくるキーワードである。著者、高谷紀夫は直接説明していないが、この「脈絡」ということばの意味がわかれば、本書で著者が意図したことがより明確にわかってくる。

 1989年6月、現政権は国名をUnion of BurmaからUnion of Myanmarに変更した。国名として「ビルマ」を使うか「ミャンマー」を使うかは、研究者にとって本質を問う重要な問題だが、すでに20年近くがたち、ものごころがついたときから使っている学生には「ミャンマー」のほうがなじみがある。本書では、もうひとつUnion(連邦)のほうも重要な考察対象になっている。

 著者は、「最終章 結論」で、つぎのように説明している。「ビルマの民族表象を文化人類学的に問う本書は二つの軸を設定してきた。“シャンによる「シャン」の表象”と、“ビルマによる「シャン」の表象”である。その意図は、多民族国家ビルマ/ミャンマーの周辺を含むビルマ世界に関して民族間関係の脈絡における民族表象とその文化動態を考察するためには、二つの軸を「合わせ鏡」としてその構図を明らかにすることが動態論的に有効であると考えたからである。」

 ミャンマーでは1983年以来、国勢調査がおこなわれていないが、その25年前の調査で「ビルマ族が全国民の69%で、次いでシャンが8.3%、カレンが6.2%をそれぞれが占め」、「全民族数は135と報告」された。シャンが人口数で第一の「マイノリティ」であるが、著者はつづけて、なぜ「シャンをめぐる問題は、ビルマ世界を成り立たせている構造を考察する意味では特に重要と思われる」のか、5項目にわたって説明している。

 また、著者は、「本書で扱う事象は、19世紀後半の英領ビルマの成立期から、植民地当局の施策を経て、今日のビルマ(現ミャンマー)連邦政府による文化政策・民族政策の実施にいたるまで、持続的に進行してきた国民統合と国民形成の過程の中で生成する「民族」のマジョリティとマイノリティ双方の自己意識の形成過程ないしその現象に深く関わる。基本的にそれ以前の歴史に踏み込むことを意図しない」と限定している。

 冒頭に戻って、なぜ著者が、「脈絡」ということばを多用するのか。それは、「軍事政権下で非ビルマ文化に関する一次資料を収集する機会がほとんど認められなかったというきわめて現実的な問題が関係している」。「1990年代に入って、軍事政権側は、経済開放政策に転換し、研究者に対する門戸も次第に緩和され、シャン文化をめぐる事象を直接観察できるようになってきたが、多くの少数民族が恒常的な政情不安を抱える辺境地帯に居住している現状では、まだ制限が多い。その意味では、本書で扱うシャン文化は、部分的なものに留まっているかもしれない」と、著者は吐露するが、それが逆説的に資料にあふれた国民国家の枠にとらわれた研究では気づかない視座で考察することを可能にしている。それが、「脈絡」の多用になったと考えられる。

 著者は、限られた資料から最大限のものを導き出そうと、いろいろな「脈絡」から考察している。そのキーワードのふたつが、「ポリティクス」と「ポエティクス」。ミャンマーという国家の少数民族政策とそれに対応するシャンの「自治」活動、そしてそれぞれの立場からの「語り」を考察することによって、「シャンのビルマ化」「ビルマのビルマ化」「シャンのシャン化」がみえてくる。また、ミャンマーだけでなく、タイや中国領内にいる「シャン」とよばれる人びとや近年の「難民」の考察から、東南アジアの基層社会がみえてくる。

 著者の研究手法は、資料が豊富で現地調査を容易におこなうことができるテーマに傾きがちな「ずる賢い」学生・大学院生・若手研究者に、資料が乏しく現地調査が容易にできないテーマの研究からなにが得られるか、その重要性を教えてくれる。また、著者がどのようにして「四半世紀におよぶフィールドワークにより、仏教儀礼や精霊信仰、国家による民族政策、文化保存運動など、多岐にわたりビルマ世界の構図を解明」しようとしたのか、その軌跡をたどることによって、文化人類学者の苦悩と喜びを学ぶことができる。そして、著者自身がフィールドから得たものが計り知れないものであったことは、「序章」と「最終章」のことばからわかる。「フィールドで出逢ったすべての人々へ……」

 著者が研究で得た成果を、どのように大学の教室で還元しているのかがよくわかるものとして、高谷紀夫責任編集(広島大学大学院総合科学研究科編)『ライヴ人類学講義-文化の「見方」と「見せ方」』(丸善、2008年)も出版された。こういう教育工具は、専門書を執筆した研究者の手によるものだと、より説得力がある。

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2008年03月25日

『東南アジアの農村社会』斎藤照子(山川出版社)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 「多様性のなかの統一」ということばは、東南アジア社会を特徴づけることばとしてよく使われる。しかし、多様性を語ることは容易でも、統一性を語ることは至難である。本書のタイトルである「東南アジアの農村社会」を、著者、斎藤照子はどのようにして語ろうというのだろうか。すこし不安を感じながらも期待をもって、読みはじめた。そして、読み終えて、感心した。そこには、「多様性のなかの統一」がみごとに織りあわされていた。

 本書が成功したのは、著者個人の力だけではない。「①-東南アジア農村社会像の創出」が書けたのは、過去約100年間にわたって「西欧社会で発達した社会科学の理論をそのまま適用して東南アジア社会を把握するわけにはいかない」と考えた先達がいたからで、その欧米を中心とした研究者の動向を日本に伝え、それを超える成果を出していった日本の東南アジア社会経済史研究者がいたからである。しかも、「参考文献」一覧からわかる通り、東南アジア各国をそれぞれ概観できるだけの優れた研究があったからである。それでも、これらの研究成果を「東南アジア」というひとつの「歴史世界」のなかで理解し、今日のグローバル化のなかに位置づけることは容易いことではない。わたしが読み終えて、感心したのは、そのあたりにある。

 本書は、①で「特色ある東南アジア(農村)社会像を提示してきた代表的理論とそれをめぐる議論を紹介し、東南アジアの農村がいかに描かれてきたかを示し」た後、時代順に②「植民地時代以前の東南アジアの村落」、③「輸出向け農業と農村」、④「変わりつづける農村と農民の暮し」で、「前近代、植民地時代、そして独立後の開発の時代において東南アジア諸地域の農村社会がどのような変容をとげてきたかを」たどっている。そして、「最後に都市と農村の境界が溶融し、世界の経済や文化が直接農村部にも結びつくような近年の状況を考察し、東南アジアの農業と農民の暮しの行方を展望」している。

 著者は、それぞれにおいて、従来の研究を批判的に検討し、近年明らかになってきた東南アジア農村社会像を示している。①では、それぞれの理論が、時代を超えた妥当性をもたず、「内に絶えず変化の契機をはらみつつ動いている社会をとらえるという課題には、十分に届かなかった」とする。②においては、「東南アジアの村落は、その移動性の高さにもかかわらず、住民にとってたんなる居住地をこえたコミュニティであったと考えるのが自然である」と、基層社会の原理を示す。③では、従来の「輸出経済の根幹を支えて社会の中核となった農民の多くの部分が、植民地時代末期に、土地を失い無産化するという事態が広範に現出し」、「一九三〇年代に各地で生じた農民反乱の背景ともなり、興隆しつつある各国ナショナリズムに大きな影響を与えることにもなった」と確認したうえで、「輸出作物生産に特化せず、農民が多品種の農作物をつくりつづけ」自主性を保っていたことを指摘する。そして、④では、現在も東南アジアに広汎に広がっている農村風景の内実が大きく変化し、「外部世界から相対的に独立した閉じられた農村社会という像は、もはや現実を映しているとはいえない」という、著者自らの実証的研究にもとづいた現実を明らかにしている。

 最後に、つぎのようにわかりやすくまとめて、本書を締めくくっている。「植民地支配を受ける以前、東南アジアの村落は、明確な境界をもたず、人びとの流動性が高いという特色をもっていた。現在また人びとの流動性は高まり、村の境界もかつてなく低くなりつつある。境界が溶融し、人びとの移動性が高いという意味では、東南アジアの村落は、むしろその伝統的な姿に立ち返っているともいえる。しかし、現在生活の変化をもたらしている要因は、はるかに多様で複雑であり、変化のスピードも著しく早い。かつて植民地時代の激しい環境変化に積極的に対応し、東南アジア輸出経済を支える中核層となった農民は、経済グローバル化が進む現在、ふたたび世帯メンバーを動員して急激な変化に対応しつつ、生活を切り開いている。」

 著者が東南アジアの未来をけっして悲観的にみていないことは、最後の「生活を切り開いている」からわかる。それは、本書からも明らかなように、植民地化以降も東南アジア農村社会は自主性をもって時代に対応してきた歴史をもっているからであり、著者は今日の流動性や境界の低さにも充分に対応できるとみているからだろう。本書からは、東南アジアの力強さも伝わってくる。

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2007年12月04日

『東南アジア年代記の世界-黒タイの『クアム・トー・ムオン』樫永真佐夫(風響社)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 東南アジアを研究していると、一般の人から「そんな地域から、学ぶことはあるんですか?」という質問を受けることがある。本ブックレット《アジアを学ぼう》(読みっきり 学術最前線)は、「アジアの各地に留学し、現地の大学・研究機関で、或いは都市・農村での生活のなかで、さまざまなことを学び、考えてきた若い研究者が、その体験に根ざした最新の研究成果を広く日本の読書界に発信することをめざして発刊された」。本ブックレットを読んで、物質的な「豊かさ」だけが学ぶ基準ではなく、そこに生活する人びとの知恵や価値観に基づく心の「豊かさ」が、読者に伝われば、発刊は成功したことになるだろう。

 旧フランス領インドシナ各国から来た研究者に出会うと、世代によって研究用語がフランス語であったり、ロシア語であったり、英語であったりして戸惑うことがある。本書を読むと、学校教育においても、言語や文字において、混乱があったことがわかる。1895年以来、「ベトナム語と同じく声調言語である黒タイ語や白タイ語は」、仏領期に「ほぼ一貫してクオック・グー[ローマ字表記ベトナム語]に基づいて表記されようとしてきた。しかし、それが学校教育で採用されたのは、第一次インドシナ戦争(一九四六~一九五四)中の一九四八年から一九五四年にかけてである。この短い時期に、クオック・グーによるベトナム語教育は廃され、白タイ語ライチャウ方言のローマ字表記とフランス語教育が実施された」。フランス側の政治的意図がもたらした混乱であった。

 そのようななかで黒タイ文書は継承されたが、ターイ出身の学生でも、「言葉すら誰もまともに勉強しなかったし、本気になって文書を読もうという者」はいなかった。それが、本書の著者、樫永真佐夫が学び、黒タイ語とベトナム語による共著を出版したことによって、ターイ文字の学習がハノイ国家人文社会大学言語学部の必修にまでなったことは、本ブックレット「発刊の辞」にある「相互の信頼に支えられた人間的つながり」を「基盤としてはじめて可能になった」成果と言える。

 そして、著者が読破した年代記『クアム・トー・ムオン』、すなわち「ムオン(くに)を語る話」の分析結果は、従来とは違うものになった。著者は、『クアム・トー・ムオン』は、「首領をシンボルとしてその権威を最大限に活用し、巧妙に長老会が実権を維持するための政治的作品」であったと考え、平民階層である長老会が「支配階層の者たちの権力闘争をいわば高みの見物」をしていたからこそ、階層を問わず葬式で読誦されてきたのかもしれないと解釈した。従来の大国を中心とした王統年代記とは違い、少数民族の首領は絶対的権威に裏打ちされたものではなく、平民階層の支持があってこそ、その地位を保ち、平民階層もその首領の「弱み」を大いに利用していた様子がうかがえる。それは、盆地毎にムオン(くに)を築いていた東南アジア大陸部の山がちな生態系のなかで生まれたものかもしれない。本書で描かれた王統年代記からは、権力闘争に明け暮れた大国のものとは違い、人びとの生活に根付いた歴史認識が感じられる。

 本ブックレットの東南アジア関係では、井上さゆり『ビルマ古典歌謡の旋律を求めて 書承と口承から創作へ』が、すでに発行されている。本書とともに、博士論文が基盤になっている。このブックレットをきっかけに、読みごたえのある本格的な専門書が出版されることを期待したい。

 蛇足だが、東南アジアから学ぶということは、時間のかかることだ。本書の著者も、1971年生まれで、もうけっして若くはない。いま、日本の大学では、20歳代で博士論文を書くよう指導しようとしている。そんな性急な指導では、本書のようなその社会に根を張ったうえでの研究成果は出てこない。どのように段階的に論文を執筆し、本書のようなレベルの高い成果を出せるように指導するのか、日本の大学院教育のあり方を考える時期に来ている。

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2007年08月28日

『南の探検』蜂須賀正氏(平凡社ライブラリー)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 帯に「最後の殿様博物学者によるフィリピン探検記 60年ぶりに復刊!!貴重図版多数!!」とある。著者の蜂須賀の姓を見て、蜂須賀小六を思い浮かべた人が多いだろう。そう、著者は、阿波蜂須賀家第16代当主で侯爵、貴族院議員でもあった。

 本書は、著者が1929年2月11日にフィリピン諸島の最高峰アポ山(2954m)に初登頂するまでの記録を、一般向けに書いたものである。アフリカ、中南米など、世界各地を探検したにもかかわらず、一般向けに書いたものは本書しかない。ということで、本書には、ミンダナオ島のアポ山登頂に関係するものだけでなく、ほかの探検・調査や、欧米の生物学者との交流についても書かれている。

 わたしにとって、本書ははじめて読むものではない。しかし、改めて読み直して、学ぶ点がいくつかあった。まず、口絵Iの「フィリピン産太陽鳥及び花鳥の類(著者原図)」の5羽を見て、著者の観察力の鋭さに驚嘆した。そして、かねてより気になりながら、いまだに実現していないThe Birds of the Philippine Islands with Notes on Mammal Fauna, Parts I-IV (London: H. F. & G. Witherby Ltd, 1931-35)を見たくなった。学術的に貴重なだけでなく、噂に違わぬ美しいものだろう。フィールドワークをするには、なにかひとつ、技術的に「これは」というものを身につけておくべきだ、と改めて感じた。

 つぎに、本書の随所で語られている調査後の処置である。たとえば、このような記述がある。「一番広い私の部屋で、剥製に取りかかる。真夜中まで整理にかかったが、あまり身体が疲れたので、残りはホルマリン注射をして、長い一日をおえた。」どんなに疲れていても、その日の成果の整理をしっかりしている。その積み重ねが、後々ひじょうに大きな財産となることを、著者はよく知っている。調査前の準備と調査後の整理だけでなく、著者は、日ごろから基本的作業を続けていたことが、つぎの文章からもわかる。「数年前から日本で発表される鳥学に関する論文全部の抄録を私が書いてフィラデルフィアに送る約束になっており、それを向こうでは毎年出版される「抄録集」に載せることになっているのである。こんな仕事は学者の仕事というよりも秘書の仕事に等しくてつまらないが、どうしても年内にやってしまわないと良心が咎めるような気がする。」「つまらない」仕事を他人に任せず、自分自身で丁寧にすることが、鋭い観察力を培い、自分の研究を相対化できるようになったのだろう。

 そして、自分の力を過信することなく、見知らぬ土地ではその土地に通暁した人を見つけ、その人のアドバイスを素直に聞いて、無理をしないことを体得している。アポ山登頂では、わずか12、3歳のウバという名の少年がもつ、鳥獣にたいする並々ならぬ知識を見抜き、ことばもわからないのに連れて行くことを決めた。そして、「今までの学者の研究に間違いがあることを発見した。ミンダナオのような熱帯における採集にウバのような者を連れて行くことは絶対の必要条件である」と述べている。

 欧米の研究者との交流では、著者が侯爵の肩書きをもっていることが大いに役立っている。現在の皇族も、天皇はじめ研究者でもあり、皇室外交に役立っている。かつて、ヨーロッパの王侯・貴族が文化・芸術のパトロンであったことはよく知られているが、20世紀には自ら研究者となって調査をしている人たちがいたことがわかる。しかし、このような人びとの調査は、戦前では戦略的に使われたことも、忘れてはならないだろう。調査に随行した人びとや警護の軍人のなかに、諜報・工作活動に従事した人がいたとしても不思議ではない。日本でも、戦前、海外の民族学調査や探検に、巨額の資金が費やされたことは、そのことを如実に物語っている。

 ともあれ、本書は、現在、地域研究などでフィールドワークをおこなっている学生・大学院生、研究者に、調査の成果を報告書として残すためには、どのようなことをしなければならないか、多くのことを教えてくれる。

 蛇足だが、著者はBritish Museumを「英国博物館」と訳している。一体いつから「大英博物館」というようになったのだろうか。戦後だと、問題にしていいかもしれない。

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2007年06月19日

『ヨーロッパ文明批判序説-植民地・共和国・オリエンタリズム』工藤庸子(東京大学出版会)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 奥付を見て、初版が出版されて3ヶ月もたたないうちに、3刷になっていることに驚いた。本体価格7000円の専門書は、普通1000部も刷らないし、増刷りされることもそれほど多くない。しかも、「帯」の宣伝文句や簡単な「はしがき」「あとがき」から刺激的なものを感じはしたものの、3部11章からなる目次を見て、すぐに読みたくなるようなものは感じなかった。だから、しばらくはわたしの書棚で眠っていた。読みはじめても、なぜこの本が売れたのかわからなかった。しかし、読み終えて、なるほどと思った。著者の工藤庸子は、「はしがき」で書いたことの意味がほんとうにわかって、本書を書いたのだ。タイトルの「序説」は、その先にあるものが見えたからこそであり、その先にあるものは前人未踏であることもわかった。

 その「はしがき」には、つぎのようなことが書かれている。「この書物は、新しい学問共同体のなかで、今現在もつづけられている試みの、とりあえずの報告である。今日の大学に「文明論」という名の講座はめずらしくないけれど、これに対応するディシプリンは存在していない。したがって参照すべき先行論文や書誌、尊重すべき学問的な作法が定められているわけではない。伝統ある文学研究とは異なって、議論を展開するための先例もないのである。まことに茫漠としたテーマであり、可能性をさぐるという意味で多様な切り口を模索してみたが、その際の基本方針と全体の展望を略述しておきたい。」「考察の素材とするのは、近代フランスを中心とした小説作品や旅行記、歴史学・宗教史・民族誌などの領域の著作や論文、それに同時代の大辞典などである。」

 本書の構成、概略は、つぎの説明からよくわかる。「各章の論述は、かならずしも年代記的ではないが、三部構成は、大きな流れとしては時間的な順列に対応する。第Ⅰ部は、フランスの「古い植民地」である遠隔の島々を視野に入れ、十九世紀半ばの奴隷制廃止までを論じている。第Ⅱ部は、フランス革命以降、「国民」の名において、共和主義的な教育が徐々に浸透し、広範な読者層を獲得した歴史や文学が制度的にも立ち上げられ、これと並行してヨーロッパの内部で、近代的なネイションの意識が形成されてゆく過程を見る。第Ⅲ部は、地中海とアフリカ・アジア地域にかかわる「新しい植民地」の拡張期において、ヨーロッパ的価値の普遍性を証明するために、オリエントやイスラーム世界が、いかにして負の対蹠地として記述されるかを、歴史をふりかえりつつ問いなおす。」

 そして、つぎの「あとがき」の出だしから、著者は執筆を終えて、ある種の充足感を味わっていることが読みとれる。「たとえば歴史学との対話が可能になるような、開かれた文学研究をめざすこと-それはたしかに「制度改革」に促された課題だった。じっさいに足を踏み出してみれば、それは新天地への旅立ちにも似た経験だったように思われる。」

 「大学改革」が世間の注目を浴びるようになって、もう何年たっただろうか。大学の広告がやたら目につき、著名人を交えた公開講座や国際会議の宣伝が新聞紙上を賑わすようになった。新設の学部名なども、いかにも新しい時代に相応しいようなカタカナ表記のものが目立つ。しかし、「改革」にともなって日本の大学の研究や教育の水準は、向上したのだろうか。いちばん疑問に思っているのは、それに携わっている大学の教職員ではないだろうか。名前だけ新しいが、新しい学問のディシプリンもなければ、テキストもない。そんな無責任な教育をしていることに、後ろめたさを感じている大学の教員が少なからずいるのではないだろうか。だから、著者は、その「改革」の成果がすこしでも出せたことに、充足感を得ているのだろう。

 著者が、その成果を出すことができた原因は、「はしがき」から2つあることが読みとれる。まず、第1に、自分の専門領域である文学研究の基本を見つめ直したことだろう。著者は、「わたし個人の研究環境と適性から導かれた方針だが、基本的な作業は文献講読とその分析につきる」と断言し、「フランス研究、ドイツ研究といったネイションごとの枠組みを消去した制度のなかで、特定の外国語の文献を読むことの意義は何か」を問うた。フランスとイスラーム世界などとのかかわりを考察したのは、これまでの自分自身の研究を含む「ヨーロッパ文明」研究を相対化するためであった。あくまでも自分の「土俵」で、「改革」のために何をすればいいのかを考えたことが、成功の1要因だろう。このことは、ある特定のディシプリンの基礎力がないのに、目新しい学際的・学融合的領域に飛びつくことが、「学」なき学際研究、すなわち「際(きわもの)」研究になるおそれがあることを示している。

 つぎに、東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻という組織に、著者が属していることだろう。そこで、「日常的に交流をもつ同僚たちは、イスラームやアジアの研究者であったり、新約聖書学の専門家であったりする。フランス語系の学生たちにも、「国民文学」や「現代思想」だけでなく、「移民問題」や「カリブ文学」や「ベトナム植民地史」を専攻する者がいる。修士論文の審査では、『ドン・キホーテ』論からオスマン・トルコ研究にまで参加する」。その環境のなかで、著者は「自分と同じ文学好きの学生たちに向かい、文学研究をより広い学問の文脈に開いてゆこうと語りかけ」、そしてその見本を本書で示した。「改革」をともに実行することができるだけの同僚と学生・大学院生に恵まれるという環境は、どこの大学にでもあるというわけではない。

 本書が注目を集めた理由は、まず、フランス文学研究で優れた業績を発表している著者が、すこし変わったものに挑戦している、ということから興味を示したフランス文学研究者がいたことだろう。つぎに、「ヨーロッパ文明」ということで、「ヨーロッパのアイデンティティの淵源を問う」てきた研究者が飛びつき、「光輝くキリスト教文明と」対比された「暗闇としてのイスラーム世界?」研究者が興味を示したのではないだろうか。そして、わたしのように、地域文化研究専攻から出てくる学際的・学融合的な研究成果に関心をもっている者が、とりあえず読んでみようと思ったのではないだろうか。読むきっかけはさまざまであっても、読後感は「序説」に相応しく、自分自身の研究の「再出発」に役立つものであると感じた点で一致したのではないだろうか。「序説」から「本論」への道はかんたんではなく、長く険しいことも、共通に感じたことだろう。

 本書の読者が、それぞれ自分の「土俵」を見つめ直し、ほかの分野の研究者との対話を試みることによって、「改革」はさらに一歩前に進むことになるだろう。わたしも、その列に加わりたい。

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2007年05月22日

『海域世界の民族誌-フィリピン島嶼部における移動・生業・アイデンティティ』関恒樹(世界思想社)

海域世界の民族誌-フィリピン島嶼部における移動・生業・アイデンティティ →bookwebで購入



   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 本書を読み終えて最初に感じたことは、著者、関恒樹の真摯で謙虚な研究姿勢と、その人柄によって「海に生きる人びとの日常的実践を描く」「語り」の民族誌が可能になったのだろう、ということだった。

 「本書の基本的な目的」は、「東南アジア多島海域において、その生活世界がいかなる論理を持ち、そこに住む人々によってどのように組み立てられ、構成されているのか、その点を微視的なエスノグラフィーに基づいて明らかにすること」であった。「より具体的には、海域世界において人々はいかなる生計戦略を展開し、同時に地域社会の秩序を構築しつつ、その中での自己の位置、あるいはアイデンティティを見出そうとしているのか、その点を日常的実践という概念をキー・ワードとして明らかにしてゆくこと」を試みている。さらに、「島嶼部東南アジアの他地域に関して議論されてきたような伝統的王権や国家などの絶大な権力に結び付いたことがなく、壮麗な儀礼や体系的コスモロジーを伴うこともないような力の観念にあえて注目し、そのような一見「非真正」かつ「文化深度の浅い」観念が、実際には人々の活発な相互交渉や積極的な日常的実践を触発し、支え、そこから人々のアイデンティティが形成される状況を描くことが可能であることを示す。その意味で本研究は、「文化の真正さ」という言説には取り込まれない視点から民族誌を書くことの一つの可能性とその方向性を提示する試みともいえる」という。

 以上の著者の目的・試みから、近代という時代を超える民族誌を期待させる。この種のテーマでは、1968年生まれの著者と同世代にもっとも大きな影響を与えたであろう鶴見良行の著作は、参考文献一覧に見あたらず、著者と同世代の人類学者の成果が比較の対象としてあげられている。鶴見良行の業績は、ある意味で近代への異議申し立てであった。本書は、著者らの世代が、「近代」を意識しない新しい民族誌のあり方を問うた研究としても読むことができるだろう。

 「本書は第Ⅰ部と第Ⅱ部によって構成され、本研究が取り組む二つの問題が各部において論じられる。すなわち、第Ⅰ部においてはセブアノ漁民の生計戦略の実践としての島嶼間マイグレイションが論じられ、第Ⅱ部ではそのようなマイグレイションの過程で構築される人々のアイデンティティ構築のための日常的実践がビサヤ民俗社会における力の観念との関連において論じられる」。そして、結論は終章で3つの論点にまとめて提示する、と「序章」でつぎのように述べている。「第一点目は、本書第Ⅰ部において検討するセブアノ漁民の生計戦略の日常的実践が、従来の「移動ネットワーク社会」という島嶼部東南アジア社会を見る一つの枠組みに位置づけられた時に持つ意味についてである。第二点目は、本書第Ⅱ部において明確化するビサヤ民俗社会における力の観念とアイデンティティ構築の様態を、先に説明した「実践コミュニティ」という概念が内包する分析枠組みに位置づけて検討する。最後に、第三点目としてアイデンティティ構築の実践に従事する行為主体の性格を、近年の人文・社会科学において議論されるエイジェンシー論を援用することで明確化し、さらにその視点が従来のフィリピン低地キリスト教徒社会における社会関係の議論に対して新たな可能性を示唆しうることを指摘する。」

 本書は、2004年3月に提出した博士学位論文を加筆・修正したものであるだけに、整った形式のもとに議論がよく整理されている。通読して、「本書の基本的な目的」は、ひとまず達成されたことがわかる。しかし、課題も多く残されたようだ。まず、「フィリピン低地社会」と「ビサヤ海域社会」との「文化的差異」がよくわからなかった。また、その「差異」からなにを読み解き、どういう意味(だれのため、なにのため)をもつのかがわからなかった。たとえば、「サイド・ライン」とよばれる「漁場において漁獲が引き上げられる度に、漁師たちが各自持参したプラスチック・バッグに若干の魚を取り置く行為」は、「フィリピン低地社会」の農村での慣行である「落ち穂拾い」に似たものを感じる。「低地社会」や「海域社会」の基本的論理はなになのか、どの枠組みで議論するのかを明確にしないと、読者は混乱してしまう。

 つぎに、「グローバル、ナショナル、そしてローカルの様々なレベル」というが、ローカル以外のレベルは漠然としていて、具体的記述はなかった。グローバルな影響も、ナショナルな影響も、具体的なことはわからずじまいだった。ローカルのレベルも「語り」が中心で、地方政府の文書や地方新聞などは、あまり利用されていない。フィリピンの地方に異常に多いラジオ局の情報も、重要な資料となるだろう。NGOの活動が活発なフィリピンで、なにか資料的価値のあるものはなかったのだろうか。「語り」は、意図的に語らないこと、無意識に忘却したこと、客観的に理解できないことなど、虚実ない交ぜの「資料」である。そのような「資料」を使って、学問的議論へと昇華させることが、どれほどむつかしいことか。その重要性を知っていればいるほど、使いにくくなるのが現実である。まさに研究者の力量が問われるからである。著者も、そのことを充分に知っているからこそ、時間をかけてじっくり研究対象に向きあっている。

 新しい民族誌には、多くの困難がありそうだ。しかし、それを克服するだけの著者の地道な研究姿勢と、同世代の研究者の連帯があると感じられた。著者と著者の仲間の今後の研究に注目したい。

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2007年02月27日

『スータンを縫いながら-日本占領期を生きたフィリピン女性の回想』ペラジア・V・ソリヴェン(段々社)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 これまで「フィリピンはスペインの植民地になったことから、カトリックの強い影響を受けた」とか、「日本占領下のフィリピンでは、住民はひじょうに苦しい生活を強いられた」とか、何度も書き、授業などでも話してきた。しかし、その実態は、充分に読者や学生・聴衆に理解してもらえなかっただろう、ということを本書を読んで再認識させられた。実際の日常生活を通して語られる歴史は、まさに「生きた」歴史を感じさせる。しかし、それを語ることはたやすいことではない。本書でそれが可能になったのは、優れたジャーナリストとなった息子や娘の存在が大きい。そして、その事実上の「編者」たちと長年交流をもっている訳者の日本人の読者に伝えようとした力も大きい。

 本書は、帯にあるように「フィリピン知識階級の女性がありのままに綴る妻として母としての半生」を、「あふれる愛の心と生命力」を中心に描いたものである。日本人には不思議に思えるかもしれないが、フィリピン人はフィリピン人であることの満足度がひじょうに高い人びとである。日本と比べれば、経済的に弱く、政治的にもしばしば混乱し、治安もけっしてよくない国に住んでいながら、なぜ満足度が高いのか、本書を読めば、それがよくわかる。カトリックの信仰を軸に、互いに助け合う家族愛、郷土愛、隣人愛、そして人類愛があるからだ。いくら困難にぶつかっても、生きる希望と安らぎを見いだせる社会が、フィリピンにはある。それは、裏表紙にある1947年に撮られた写真のかの女の表情からよく伝わってくる。夫、父、末の息子を亡くし、9人の子どもを抱えて悲嘆に暮れるのではなく、前(未来)を見ていることが顔の表情からわかるだけでなく、腰にあてた手からは自信さえ読みとれる。原題にある「凛々しい」ということばに、ふさわしい人生がみえてくる。そして、日本語の題となった聖職者の服である「スータンを縫いながら」、愛のあふれる日常生活が浮かんでくる。

 そのかの女の「不幸」は、日本占領中におこった。解説者の後藤乾一氏が述べるように、「日本人としては、その筆の運びが抑制されたものであるだけに、なおさら考えさせられる」。それは、瓦礫の山と化したわが家を見たときのつぎの文章から、日本軍がフィリピン人の日常生活から奪い去ったものが、物質的なものだけではなかったことがわかる。「我が家の全財産、夫と私が何年も一生懸命に働いた実りが、私たちが倹約し貯金をして築いてきた生活の土台がすべて失われてしまったのです。さまざまな結婚祝いの贈り物も、家具類も、台所用品も、繊細な陶磁器の大皿も、飾り皿や服飾品も、戦争が始まる前に[夫の]ベニトがクリスマスに贈ってくれたドイツ製ピアノも、すべてが失われてしまっていたのです」。フィリピン人にとって、生活用品は愛の証なのです。だから、かの女はその光景を見たとき、「恥ずかしさも忘れて泣」き崩れたのでした。

 また、日本人にとってなんでもないことでも、フィリピン人にとっては耐えられないことがあった。それは、たとえば、つぎの文章からわかる。「子供でも容赦されないのです。それに加えて屈辱的なことは、許可証を見せるときにいちいち低くおじぎさせられたことです」。フィリピン人にとって、子どもはなにものにも代え難い大切な「愛」そのものなのです。だから、子どもでも容赦しない日本兵には、愛がないと感じてしまう。そして、日本兵にお辞儀させられたことは、自分たちの文化を否定されたと感じた。フィリピン人は、自分たちの文化や社会に誇りと自信をもっている。

 「朝鮮」という植民地に生まれ育った森崎和江さんは、「わたしたちの生活が、そのまま侵略なのである」と記している[『慶州は母の呼び声 わが原郷』新書版、洋泉社、2006年]。それが書けたのは、「朝鮮」人が日本人を見ていたという視線に気づいたからであろう。本書から、フィリピン人は「日本兵の存在そのものを、迷惑で不愉快なもの」として見ていたことがわかる。他者がどう見ていたかに気づくことによって、自己を相対化でき、新たな関係が生まれてくる。

 本書は、研究者が書いたフィリピンの歴史や文化、社会の本からはけっして伝わってこない、フィリピン人の日常性のなかに生きているものを伝えている。こういうフィリピン人の書いた回想録や小説などを読むことによって、机上の学問やインタビュー調査では見えてこない基層が姿を現してくる。訳者自身、著者の長女との長年のつきあいにもかかわらず、著者の「父や義兄の悲運」について知らなかった。そのことで、「どうしても訳して日本の人々に読んでいただきたいと考え」るようになった、と訳者は最後に述べている。日本の占領下のフィリピンについて、わたしたち日本人が知らなければならないことは、まだまだある。

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2007年01月02日

『アンコールの近代-植民地カンボジアにおける文化と政治』笹川秀夫(中央公論新社)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 本書を読んで、まず考えさせられたのは、文化遺産はなにに帰属するのだろうか、ということだった。アンコール、イコール、カンボジアというのは、フランス植民地期につくられ、独立後も共産主義勢力下でも、それが受け継がれたことが、本書で明らかになったからである。また、現在のタイの王宮には、アンコール・ワットの模型がある。カンボジアの王宮にもある。アンコール・ワットが存在しているシアム・リアプを含むアンコール地域が、シャム(1939年にタイに改称)からフランスに割譲され、フランス領インドシナの一部になったのが1907年のことであることを知っていれば、なぜバンコクの王宮にアンコール・ワットの模型があるのかも理解できるが、観光客のほとんどは知らないだろう。  東南アジア大陸部の文化遺産を見ていくと、現在の国境の枠組みではおさまりきらない歴史を感じざるをえない。バンコク周辺にも、モン人の遺跡があり、クメール(カンボジア)様式の寺院もある。漢籍に登場する扶南は、1~7世紀のクメール人の古代王国とされるが、ベトナムやタイの古代王国ともされる。近年、高句麗が中国の1地方政権か朝鮮人の王国かが、歴史問題として政治化したが、東南アジアの現在の国家の歴史を語るときにも、同じような大きな問題がある。文化遺跡は、それがある土地に帰属するのか、民族に帰属するのか、継承された王国・国家に帰属するのか、・・・。

 この問題をより複雑にしている1因に、王国の継承問題がある。アンコール朝とよく言われるが、多くが簒奪王によって続いたのであって、血縁的な繋がりはない。タイでもビルマ(現ミャンマー)でも、○○朝と呼ばれるが、連続性のない王国と考えたほうがいい。たとえば、13世紀なかごろに建国されたと推定されるスコータイ王国は、1351年ころ南方に勃興したアユタヤ王国に滅ばされたわけではなく、王国は存続し1438年に直系が絶えてアユタヤ王国に併合され、1地方勢力になったにすぎない。その後、1569~1630年には、スコータイ一族からアユタヤ王国の王を出している。スコータイ朝とかアユタヤ朝とか呼ばれるが、大小さまざまなタイ系の諸王国を代表していたにすぎなかった。

 このような東南アジア大陸部の社会や文化的な背景を理解していなければ、本書を満足に読むことはできないだろう。そして、本書は、一般に信じられている近代につくられた、画一的な東南アジア諸国のイメージから解放させてくれる基本的な研究書である。

 本書の内容は、箱の裏に書かれているつぎの要約でよくわかる:「いまやカンボジアの象徴とみなされるアンコール遺跡は、いかにして人びとに「発見」され、受容されてきたか。植民地化以前の語りにはじまり、植民地時代の教育雑誌や宮廷舞踊、さらには独立後のナショナリズムとの関連で、アンコールがどのように位置づけられてきたかを厖大な現地史料を駆使して検証する」。

 本書の目的も、つぎの3つの主題からよくわかる。第一の主題は「フランスが創り出したアンコール観を受容する際、カンボジアの人々がどのような取捨選択を行なったか」を論じることであり、第二の主題は「フランスとは無関係に、カンボジア独自の語りが存在したかどうか」、そして、第三の主題は「植民地時代に構築されたアンコール観が、遺跡そのものやアンコール史だけでなく、より広汎にわたる影響力を持っていたこと、そして現在でも影響力を保っていることを検討する」。そして、「序章」の最後で、「アンコールは、アンコール時代で完結した存在ではない」、「近代カンボジアにおけるアンコールの検証には、植民地時代に焦点を定め、アンコール研究ではなく、カンボジア研究としてアンコールを分析する視点が希求される」と結んでいる。著者笹川秀夫は、史料的に限界のある「アンコール研究」を越える研究の重要性を、力強く主張しているのである。

 著者は、このような問題意識・目的意識をもって考察した結果を、「終章」で「植民地の遺産としてのアンコール」と「多数のアンコール、多様なアンコール」の2説にわけて論じている。まず、「植民地化にともない、カンボジアに近代という時代が到来したことで、「伝統」を創出する条件や環境が生み出された。そして、アンコールこそが、フランスによる支配を正当化するために創られた「伝統」だったといえる。アンコール時代を「栄光」の時代、ポスト・アンコールを「衰退」の時代とする歴史観は、植民地支配を正当化する言説と結びついた。シャムとベトナムによってカンボジアの「領土」が蚕食されたとする歴史叙述は、フランスによるカンボジアの「保護」を正当化した。遺跡が崩壊の危機を迎えていることや、宮廷舞踊という「伝統」が「衰退」の危機に瀕していることを主張する言説は、フランスが遺跡を修復し、「伝統」を「保護」する根拠と見なされ、アンコールを中心とした文化政策を推進する力となった」と結論づけ、つぎに「近代は、アンコールに政治性という新たな要素を付加した。こうしたアンコールの政治性は、国家による管理を促す一方で、国家以外の主体がアンコールの複製作業に関与し、複製されたアンコールにも宗教性を付与するという現象を生み出した。アンコールは、その多様性を拡大し続けている」と、過去を明らかにする「アンコール史研究」とこれからのカンボジア社会を考える「カンボジア研究」の結合を唱えて、終わっている。

 本書は、博士論文に基づいている。東南アジア研究は、国語や植民地宗主国の言語という枠組みからスタートするため、ナショナル・スタディーズになる傾向がある。これを克服して完成度の高い論文を書くことは、限られた年数内では無理なことだ。まずは、「立派な」ナショナル・スタディーズの論文を書き、その限界を明らかにして、つぎに備えることだろう。その意味で、本書は「序章」「終章」から、つぎに期待できるものを感じた。国民国家という枠組みを前提とした近代科学では理解できない、東南アジア大陸部世界が出現する可能性である。そこには、現在国家をもたないモン人やチャム人なども、生き生きと登場することだろう。そのためにも、本書のような基本的な研究の積み重ねが必要だ。

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2006年11月21日

『カンボジア史再考』北川香子(連合出版)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 本書のタイトルの「再考」が、なんとも挑戦的だ。帯には、「アンコール文明もその後の歴史の変遷も、現在の国境を越えた東南アジア史の枠組みの中でこそダイナミックに捉えることができる。気鋭の歴史学者による知的刺激に満ちた研究」とある。期待をもって読みはじめた。

 本書で、著者の北川香子は、「カンボジア史の父」いわれる植民地学者のジョルジュ・セデスが、1960年代に確立したカンボジア史の枠組みを「再考」しようとしている。このフランス人の名前は、学生時代に頭痛薬と同じの名前であることとともに、とてつもなく偉大な歴史家であると教えられた。その印象があまりに強いためか、この大家の通説に挑む日本人歴史学者が出現したことにうれしくなり、誇りにさえ感じた。

 その通説とは、アンコール・ワットに代表される古代クメール文明の繁栄は、14世紀以降衰退するというものである。セデスに代表される植民地学者が確立したこの歴史観は、独立後のカンボジア人歴史学者にも引き継がれ、現在世界的でもっとも参照されている通史でも「ゆらいでいない」という。その通説を、著者の専門である衰退期のポスト・アンコール期の歴史的考察を通して、「再考」しようというのである。

 本書では、それほど多くない文字史料である碑文、漢文史料、王朝年代記、日本・フランス・オランダ・スペイン領フィリピンの史料などによる考察に加えて、自ら歩いて収集した口承伝承で裏付ける作業もしている。前半の古代の繁栄期については、それほど長くない各章で、「通説」「批判」が整理され、現在の研究の焦点が示されている。後半のポスト・アンコール期は、1991年の和平協定成立後に進展した考古学調査の成果を取り入れ、「現在のカンボジアという国家の基礎が形成された時代として、積極的な意味づけのもとに、研究されるようになってきた」ことを背景に、「新たな成果を受けて、従来の植民地史学にかわる、新たなカンボジア史を構築しよう」としている。その試みは、ひとまず成功したといっていいだろう。断片的だが、通史的に語られる最新の研究情報は、事典としても読むことができ、知的好奇心を大いに満たしてくれる。本書の出版によって、「ポスト・アンコール期」という歴史研究の空白が埋まったことの意義は、東南アジア史研究だけでなく、世界史やグローバル史を考える者にとっても大きなことである。

 だが、本書を読み終えて、ため息が出た。その理由は、本書第一章「二、「カンボジア史」の問題点」でとりあげられた「繁栄と衰退」「「被害者」の歴史意識」「史料および研究対象の偏重」「「一国史」研究の陥穽」「「地域史」の欠如」の「応え」が本文中の随所で書かれているが、本書全体として、どのように克服され、また課題として残されているのかをまとめたものがなかったからである。読者に、「序章」(本書では第一~三章)に戻って読み返せばわかる、というのは無理な話である。単行本1冊を書きあげた者ならわかることだが、冒頭であげた問題点は、本文で語っており、繰り返し書くのは、本文を書きあげて精根尽きた著者には、無駄のように思える。しかし、「序章」で書いたことを、著者自身がどう総括するのか、読者は「終章」に期待している。それがないと、本からなにかを学ぼうとしている読者は、読んで学んだことがわからなくなってしまう。

 東南アジア史研究では、単著・単行本が少ないだけに、本書の出版には心から拍手を送りたい。議論より、議論のための基礎的知識を必要としている分野だからだ。本1冊をまとめあげることには、多大のエネルギーを必要とする。単行本を書いたからこそ気づく「苦労」も「新たな課題」もある。それだからこそ、最後に著者自身がまとめる作業をしっかりすることが、つぎへとつながる。とくに、専門であるポスト・アンコール期の考察だけでなく、通史的理解のなかで、「現在の国境を越えた東南アジア史の枠組みの中で」、なにを得、新たな課題をつかんだのか、読者とともに考えることが大切である。本書のように研究蓄積のない分野での出版物は、容易に批判できる。それが新たな出版への弊害になってはいけない。しかし、ちょっと気の利いた助言をする人がいたら、本書の付加価値はひじょうに高まったものと思われる。個人的な話で申し訳ないが、本書を「見て」、改めて、わたしはいい編集者に巡り会ってきたと感謝したい気持ちになった。

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2006年09月26日

『新しい世界への旅立ち-シリーズ◎世界周航記 別巻』石原保徳・原田範行(岩波書店)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 新しい「航海・旅行記」シリーズがはじまるという。聞いただけでワクワクするいっぽう、なぜいま新しいシリーズがはじまるのか、という疑問が浮かんだ。その疑問にたいして、帯でつぎのような回答をしている。「未知の世界に挑んだヨーロッパはそこで何を発見したのか。前篇は、この問いに、旅人たちとの対話をとおして迫る。後篇は、航海の記述が拓いた新しい表現世界に注目し、その独特な魅力をさまざまな角度から解き明かす」。

 聞いただけでワクワクした理由は、簡単だ。そこにわたしにとっての「未知の世界」があるからだ。歴史学を研究している者にとって、原史料というものは、自分自身の知らない、想像もできない世界に誘ってくれる、しかも居ながらにして、もはや実際に観察することができない過去に臨場感をもって導いてくれる、重宝極まりないものなのだ。ただし、その過去は、現実であるのか、部分的にもフィクションであるのか、わからないという危険性がある。また、どういう意図で、どういう視点で記述されたのか、よくわからないことがある。本書では、そのあたりのことも、解説してくれるという。

 前篇と後篇の執筆者は、それぞれ特徴がある。前篇の石原保徳は1935年生まれ、近代精神史が専門である。ラス・カサスのインディアスにかんする研究などで知られている。後篇の原田範行は1963年生まれ、18世紀英文学・比較文化論が専門だ。読者にも視点をおいている。それぞれその専門性をいかし、それぞれの世代の研究の関心に照らして解説してくれる。原史料を読むときの楽しみが増え、より深く読むことのできる知恵を与えてくれる。

 前篇「問い直される発見航海者の眼差し」では、今回のシリーズの位置づけが、著者が編集部から、「シリーズの新しさ、それが発する今日的メッセージを読者に伝えてほしい」という無理な注文に応えるかたちで書かれている。それは、1965年からはじまった「大航海時代叢書」「アンソロジー・新世界の挑戦」「一七・一八世紀大旅行記叢書」「ユートピア旅行記叢書」全91冊の刊行の歴史であり、厳しい批判でもある。そして、著者はこれまでのシリーズに根本的な欠陥があることを看破する。それは、読者である日本人歴史研究者の構造的欠陥であり、いまだ克服されていないという。最初の「大航海時代叢書」の「趣旨」で、著者は「新しい世界史像を描いてゆくことの必要性を語る言葉をとおして」、「我が国においてもいまだ生きつづけているヨーロッパ中心の世界史像に挑んでゆこうとする」「気迫」を感じとった。さらに、「まずは、現代をどうとらえるか、今日的課題をなんとみるのかのちがいがはっきりしており、第二に、他ならぬその時代が生み出した記録を全体として読み解き、その中から地域や書き手を選び分け、それらが発する問題を受けとめながらコレクションをつくるという作業が求められているからである。それをふまえてはじめて、ヨーロッパ的世界史像からは見えてこない、それらが隠蔽していた転換期の内実を浮かび上がらせようとする「趣旨」の意図は実現されるはずである」と編集者の目論見を述べている。しかし、その目論見は実現されなかった。その理由は、「現代の諸問題について省察を深めてゆくことを重要な課題とはせず、転換期とはなにかを問おうとする姿勢とはあまり縁のない我が国の学問の伝統の力であった」としている。このことは、日本では学問としての歴史学が未成熟で、社会性のないことを示している。

 我が国の歴史研究の欠陥は、イギリスで発行されているハクルート叢書と比較すれば、より明らかになる。ハクルート協会が1847年以来、353冊の記録を刊行できた背景には、「協会の内部革新と、それを支持する会員や非会員読者あってのこと」であり、「研究の深化・発展に目くばりを忘れず、全地球上どこであれ、旅人の国籍や書かれた言葉にかかわりなく、しかも彼らが旅する時期も限定せず、入手しにくい貴重な記録を貪欲に蒐集し、抄訳を避け、それに詳細な訳注を加え、かつ改訂版にも積極的に取り組んでゆく」姿勢がある。つまり、歴史研究にとっての「基礎資料」を、時代や国・地域に限定されることなく、議論できる場として提供しているのである。時代や国・地域で分断し、歴史学や世界史の文脈で語ることができず、現代の問題に無関心な日本人歴史研究者には、「ヨーロッパ中心の世界史像に挑む」どころか、学問的にも、社会的にも歴史学の必要性を語ることすらできない現状が続いている。そして、その偏狭な歴史研究の成果に満足している「歴史好きの読者」によって、過去40年間、日本の歴史研究は「深化・発展」できなかったのである。それを克服できる「読者」の出現のためにも、この新しいシリーズは必要なのである。そして、このシリーズの現代的な読み方のヒントを与えてくれているのが、後篇である。

 後篇「かなたに何かある」は、前篇でも随所にとりあげられた航海記の読み方を、よりまとめて、具体的に、そして今日的方法で、教えてくれる。そこには、記録した航海家の目線で見ること、当時の社会的・時代的背景を充分に理解することといった基本の重要性を、航海技術・専門用語、表現、多重性・重層性、出版と読者など、さまざまな角度から気づかせてくれる。文章で書き表されていない事柄も、スケッチや同行した画家の作品からわかることがあることも示している。今日、臨地研究(フィールドワーク)が重視されているが、そのフィールド・ノートの作成方法のためにも、ひじょうに役に立つことが書かれている。事実はひとつではないし、虚構のなかにも事実が隠されている。近代という時代やヨーロッパという地域の常識がなにかも教えてくれる。それらは、前篇で議論された「近代ヨーロッパ中心史観」からの脱却のためのヒントを与えている。そして、「航海・旅行記」を読むことは、文献を重視しない臨地研究者の初歩的な訓練にもなる。原史料を読むことは、臨地研究の一手段であることもわかってくる。

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2006年08月29日

『インドネシア イスラームの覚醒』倉沢愛子(洋泉社)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 2003年春、学生を連れて神戸を歩いていた。モスク(イスラーム寺院)の前に来たので、ダメもとを承知で見学を申し出た。突然であったにもかかわらず、快く迎え入れてくれて、たまたまいた留学生が懇切丁寧に説明してくれた。モスクの前の食料雑貨店も、興味深いものだった。学生のなかには、9・11の衝撃が鮮明で、イスラーム教徒を怖いと思っている者がいたようだが、かれらの日常に接することで、モスクに入る前の緊張した顔が、モスクを出るときには穏やかな顔になっていた。わたしの大学の近くには、AOTS(海外技術者研修協会)関西研修センターがある。学生とランチをしに行くことがある。そこで、学生ははじめてハラール(イスラームの教えに照らし合わせて問題がない)料理を目にし、食べてみる。料理も食べているイスラーム教徒も違和感なく、食堂で自分たちと一緒に食事をしていることに気づく。

 本書の著者、倉沢愛子は、インドネシアのイスラーム教徒の日常に目を向ける。かの女をそうさせたのは、「ジャカルタに居を構えて15年」、「既存の理論からは到底理解できないような諸現象を目のあたりにして出てきたさまざまな疑問が」いざなったからである。著者が学んだ近代科学に基づく「近代化論では一般に、近代化が進むと信仰にあまりにも時間やお金やエネルギーをかけることは少なくなっていくと解釈されてきた。しかしインドネシア社会は、反対に近代化や経済開発が進んできたまさにその時期に、宗教色が強まってきたのである」。著者は、この現象を理解するために、「インドネシアに居を構え、そこで生活するなかで感じた数々の変化や戸惑いをひとつひとつ紹介しながら、研究者の目というよりは、一人の生活者の目で、変容しつつあるイスラーム社会を分析して」いる。著者は、自分自身を「イスラーム研究者ではないし、イスラームの狭義や歴史など奥深いところは何も知らない」と謙遜しているが、それこそが著者が近代の研究者から現代の研究者に飛躍しつつあることの証拠だろう。それは、著者が近代的な科学の手法を充分に身につけているからこそ気づいたことだろう。しかし、それは飛躍の第一歩にすぎず、まだまだ暗中模索であることを著者自身がよくわきまえているから、謙遜しているのである。

 本書では、イスラーム主義がインドネシアで急激に台頭してきたことを、出版などのマスメディア、服装、カリスマ説教師など、日常性のなかで具体的に紹介し、考察している。インドネシアといっても、日本の国土の5倍以上、東西5000キロを超え、時差も2時間ある。人口は2億人を超え、民族や言語はいくつあるかわからないような国で、本書のジャカルタの事例がどれだけほかの地域・社会で通用するのかわからないいっぽうで、この事例からいまという時代や社会を読みとることもできる。

 まず、イスラーム主義の台頭という現象は、イスラーム社会特有のものではないだろう。中国の愛国主義の台頭や日本の若者の右傾化も、同じ現代の現象といってもいいかもしれない。グローバル化が進み、社会の平準化が進むいっぽうで、自分たち自身の社会に目を向けるようになり、過度に守ろうという現象が起こっている。環境問題の解決のために、「グローバルに考え、身近なところで行動しようThink Globally, Act Locally」ということがいわれるが、これらの現象は「身近なところで考え、身近なところで行動しようThink Locally, Act Locally」とするものである。そして、イスラームという「身近なところで考え、グローバルに行動したThink Locally, Act Globally」結果が、国際テロ活動といえるかもしれない。身近であるだけに同調者はえられやすく、インターネットを通じて充分な議論と理解のないまま、拡がりエスカレートしていく。

 この「テロ」という本書でも頻出することばについても、考える必要があるだろう。イスラーム教徒は、ウンマという共同体のなかでシャリーア(イスラーム法)という秩序の下で暮らしている。近年、アメリカを中心とする資本主義経済と価値観が、グローバル化の進展とともにイスラーム社会に浸透し、共同体内でイスラームの秩序が守れなくなるという危機感が生まれた。それが、あまりに大きな力で急激であっただけに、イスラーム教徒を動揺させ、「テロ」行為へと走らせたということがいえるかもしれない。しかし、イスラーム教徒側は「アメリカこそがテロ国家」だと主張している。なぜだろうか。

 古い例では、ローマ法によって守られたローマの市民というものがあり、ローマ法が通用しない人びとを「賊」とよんだ。山賊、海賊とよばれる人びとは、自分たちとは違う法や秩序をもつ人びとということができる。逆に「賊」とよばれた人びとからローマ市民をみると、ローマ市民のほうが「賊」ということになる。いま使われている「テロ」ということばも、かつての「賊」と同じように使われているといってもいいかもしれない。ということは、われわれは違う秩序を認めあうということからスタートしなければ、互いを「賊」とか「テロリスト、テロ集団・国家」とか言って罵りあうだけで終わってしまう。かつては、「鎖国」したり「海禁」したり、万里の長城を築いたりして、自分たちだけの社会秩序を守ってきた。しかし、グローバル化しつつある現代では、それは非現実的なことだ。自分たちとは違う価値観や秩序をもつ人びとと、どう友好的に暮らしていくか、「賊」も「テロリスト」も存在しないことを前提にして考えていかなければならない。

 本書は、近代科学で理解できないジャカルタを中心に起こっている現象を、日常生活のなかで把握し、数々の問題提起をしている。その答えを出すのは、近代科学で教育を受けた著者の世代ではなく、異なる価値観や秩序が理解でき、多文化共生社会を生きることができるこれからの世代かもしれない。しかし、その世代のなかに、グローバルな視点でものが見えず、自己中心的な考え方を強めて、グローバルに行動する人たちがいる。地球規模のトラブルの原因になることは明らかだ。まずは、これからの社会に必要なものの考え方、行動のしかたを、平和な多文化共生社会の形成を目指して考えることから始める必要があるだろう。そして、グローバルに考え、地球共同体という広域社会と身近なコミュニティの両方で行動できるThink Globally, Act Glocally人材を、世界中で育てていかねばならない。

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2006年08月01日

『脱植民地化とナショナリズム-英領北ボルネオにおける民族形成』山本博之(東京大学出版会)

脱植民地化とナショナリズム-英領北ボルネオにおける民族形成 →bookwebで購入



   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 まずタイトルを見て、なぜグローバル化時代にナショナリズムをとりあげなければならないのか、なぜ英領北ボルネオというこれまで注目を浴びてこなかったし、これからも浴びそうにない地域の研究をしなければならないのか、と思った人は、近代という古い考え方に束縛されて、新しい時代が見えていない人です。近代は中央集権的な時代で、世界の中心であるかのように見えた「先進国」を中心に研究すればいい、国民国家が基本的枠組みで、その国民国家の中心の首都を研究すればいい、と考えられた。なぜなら、地方は首都をモデルし、「途上国」は「先進国」に追随して、「発展」していくのだと考えられたからである。過去の遺物となり、将来の展望が開けない研究は必要ない、と考えられても不思議ではない状況があった。しかし、もはや現在は近代ではない。

 本書の著者、山本博之は、近代の研究で見過ごされた問題から、現代さらにこれからの世界を見ようとしている。本書でとりあげる北ボルネオは、かつてマレー半島南部、サラワクとともにイギリス領であったことから、現在マレーシアという国民国家の一部になっているが、政治的にも文化的にも独自性を維持している。著者は、北ボルネオ(サバ)を事例に選んだことを、「はじめに」でつぎのように説明している。「サバは外来起源の思想や概念を、時に大きく変容させることで平和的に社会に取り込んできたのである。このように考えれば、サバは諸文明の共生という人類社会の課題への取り組みにおいて「最先端」の試みがなされているフロンティアであるとの見方も成り立つことになる」。だから、本書で「サバにおける外来の思想や概念の受容のされ方を検討する」という。すでに、国民国家を基本とする理論枠組みの限界が明らかになり、それに替わる新たな社会原理が模索されているなかで、著者はナショナリズムが対立や紛争というかたちで議論されてきたのにたいして、「「戦わないナショナリズム」を積極的に評価することを通じて民族アイデンティティが必要とされるしくみを解明」しようとしている。資料としては、表紙のデザインにもなっている、「1950年代末から60年代初めにかけてサバで発行されていた各言語の新聞」をおもに利用しているが、地域研究を専門に学んだ著者は、「文字資料に現れない人々の対応を浮かび上がらせることを試み」ている。

 本書で議論された北ボルネオ社会の3つの民族構成は、自明のものでもないし、民族間の明確な社会的亀裂があったわけでもない。にもかかわらず、北ボルネオには3つの民族が存在するという認識が生まれ、3つの民族政党が結成された。著者は、それを「脱植民地化による建国の過程」を通して検討した結果、つぎのような結論に達した。「サバには建国に際して多数決原理とともに資格としての民族原理がもたらされた。すなわち、ある社会において社会全体に関する意思決定の場に代表を派遣する資格を有すると認知された枠組として民族を捉える見方である。サバでは選挙制度と政党の導入に伴って5つの政党が組織され、これらが建国時に3つの政党に収斂した。そして、この3つの政党が代表する枠組としてカダサン人、ムスリム/マレー人、華人という3つの民族が存在するとの認識が定式化された」。しかし、この「3つの民族アイデンティティは建国の過程で得られた1つの均衡状態であり、固定化されたものとして捉えられない。3つの民族アイデンティティはいずれも明確な境界線を伴うものではなかった。サバでは各政党が厳密に排他的な党員資格を適用することができず、人々はしばしば政党間を移籍し、あるいは複数の政党に同時に登録し、そのためサバ連盟の構成政党どうしで支持獲得をめぐる争いが絶えなかった」。

 こんな「いいかげんな」地域の研究をしてなにになるのだ、とまだ感じている人がいるかもしれない。近代は、温帯の定着農耕民がリードした時代だった。いまグローバル化のなかで、社会の流動化が激しくなってきている。北ボルネオを含む熱帯の海域世界は流動性の激しい地域で、現代は流動的な海域世界の様相を呈してきているということができるだろう。だからこそ、著者は「結論」でつぎのように述べている。「「大国」に直接影響を与えない事例を一地方の特殊な事例にすぎないと見て切り捨てるのではなく、それぞれの地域社会で起こっていることを世界に結びつけて理解する努力を行い、その理解を1つ1つ積み上げていくことが必要だろう」。そして「「自信のない」ナショナリストの役割を積極的に評価することも必要となるだろう」と結んでいる。

 本書は、「第1章 学説史の整理」ではじまり、「第2章 歴史的・社会的背景」につづいて、第3~10章で、北ボルネオを事例に議論を展開し、その成果を踏まえて「結論」をまとめている。ひじょうにわかりやすい構成である。近代に研究が発展した国や地域の研究者にはとうてい理解できないだろうが、本書でもっとも執筆が困難であったと想像されるのは「第2章 歴史的・社会的背景」である。本書を読んで、理解しづらいところがあるとすれば、それもこの第2章が充分に理解できないからということになるだろう。研究蓄積があれば、「歴史的・社会的背景」は、既存の研究成果をまとめ、整理するだけで充分だ。しかし、本研究では、それがない。本来、歴史的背景だけで1冊、社会的背景だけでもう1冊、書いてからでないと、第3章以下が書けないというのが、この地域の研究の現状であろう。それは、北ボルネオだけに限らず、近代に「先進国」と言われた国を除けば、大なり小なり同じような問題に直面する。事例研究に付加価値を付ける「背景」の理解から研究を始めなければならないのだ。当然、このような研究には、時間と幅広い学識が必要となる。そのわりには、研究成果は評価されないのが現実である。いまグローバルな視点が必要だということは、さまざまな分野で主張されている。そのために必要な研究はどのようなものか。近代の延長線上にある研究より、近代を超えるための研究が必要であるにもかかわらず、「近代」にへばりついている人たちがいる。そして、「近代」にへばりついているほうが勉強しやすく、成果も出やすく、評価もされやすい。

 事例研究は、馬力と根気があればなんとかなる。理論研究は、勉強すれば多少はわかるようになる。しかし、「歴史的・社会的背景」は、ちょっとやそっとではわからない。著者は、そのことに気づいたことを「あとがき」でつぎのように書いている。「大学院に進んでサバで暮らすようになると、理念は抱きながらも現実の中でしたたかに生きている人々に出会った。その場しのぎに見える判断が予想外の解決の道筋を生み出す例を見るにつれて、一見理屈に合わないことでも、それが実際に人々によって選択され、それなりに機能していることの意味を考えるべきではないかと思うようになった。ある社会が複数の民族に分かれて国民としてのまとまりを欠くように見えるのであれば、人々がそのような社会を作って維持してきたことの意味を考えてみようと思うようになった」。問題の本質が見えてきたのだ。本書のような研究が、これからますます必要になる。そのためには、「歴史的・社会的背景」を充分に語るだけの事例研究が、まだまだ必要だ。この地域の研究だけでなく、この地域の研究に影響を与える、近代に見過ごされてきた地域や分野の研究が、まだまだ必要だ。

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2006年07月18日

『<民族起源>の精神史-ブルターニュとフランス近代』原聖(岩波書店)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 本書は、2002年に開催された審議会で、民営化されたフランスを代表するテレビ局TF1のルレー社長がブレイス語(ブルターニュ地方のケルト系の言語)で「前置き」をするところからはじまる。このブレイス語での「前置き」は、「公的な場所でのフランス語の使用を義務づける「トゥーボン法」に抵触する」。1994年に成立したこの法律は、フランスの国民統合の強化と国際語としてのフランス語の地位低下を食い止めるためとされるが、このような法律をもってしても世界的な地方分権化の波は防ぎようがなかったようだ。本書は、そのような時代や社会を背景として、近代の歴史観が通用しなくなった事実を、読者に思い知らしてくれる。

 本書は、「民族起源論がブルターニュの中世にいかにして生まれ、近代から現代へといかにして引き継がれてきたか」を、「知識人たちの精神史として描い」たものである。著者、原聖が当初目指した「「ケルト」概念の脱構築を歴史的に展開する」という「些末な問題」を扱った一地方史から、「ヨーロッパ知識人論」へと発展したのは、近現代史を専門とする著者が「前近代についてまともに論述」したからである。さらに、「日本においてヨーロッパの地方を研究対象」とする強みで、「社会学であれ民族学であれ、また言語学であれ、関係するいろいろな研究領域に踏み込まざるを」えなかったからである。本書を読んで、日本のヨーロッパ史研究者が、「「専門」の歴史家の禁欲さ」のために、狭い専門領域(時代、地域、分野)に束縛されて「些末な問題」ばかり扱って、いつのまにか時代に取り残され、新しい時代の歴史観の必要性に気づかなかったことから、ようやく解放されつつあることを感じた。こういう研究が出てくると、地域や時代を超えて歴史学として、さらに学際的研究として議論できる地場ができてくる。

 著者が、ブルターニュ地方を研究対象として選び、「些末な問題」から解放されることになったのは、偶然ではないだろう。それは、著者がこの地方のもつふたつの利点をつぎのように説明していることからもわかる。「ひとつ目は、地域としてのブルターニュの成立起源がブリテン島にかかわりをもち、英仏両国の民族起源論とリンクしている点である。ただたんに二国にまたがっている、というだけでなく、この二国がヨーロッパの大国であり、近代ヨーロッパの形成に関しても大きな役割を果たしていることも重要だろう」。「ふたつ目は、ブルターニュに関連する民族起源論が、九世紀という古い時代から存在するということである。それは英仏両国の王国(民族)起源史にも関係し、それと同一レベルで論じることができる。周縁的な一地方であるにもかかわらず、古くからの民族的精神史が書き継がれてきた例外的な地域といえる。・・・こうした周縁的地方での長期にわたる民族起源論は、大国の起源史を相対化する意義をもつだろう」。コナン伝説、トロイア伝説、アーサー王伝説、ガリアやケルトといったヨーロッパ世界でなじみのある伝説上の人びとやことば、土地がキーワードとして登場するブルターニュだからこそ、時代や国を超えた拡がりをもつ議論が可能になったのだろう。

 本書から、著者のいう「ヨーロッパ性」というものが、古代ローマの影響やキリスト教社会、王侯・貴族ネットワークだけでなく、共通の伝説や言語があると信じていることにもあることがわかった。そして、ナショナル・ヒストリー(公定史観)から解放されたことが、周縁から見た民族・国家の形成過程を研究することを可能にしたこともわかった。だが、その「ヨーロッパ性」そのものについては、わからなかった。ある地域やある時代だけを研究対象とすれば、その地域や時代が相対化できないから、なにが特殊かがわからないはずだ。ヨーロッパだけを対象にして、なぜ「ヨーロッパ性」ということがいえるのだろうか。日本人にとって、日本民族や日本という国家は自明のものであって、民族や国家が「形成」されるということはよくわからない。ましてや、意図的に「つくっていく」いくという「精神史」は、思考の範囲にないかもしれない。この「ヨーロッパ性」を世界史や歴史学の枠のなかで考えると、もっと奥深い「ヨーロッパ性」が見えてきそうだ。また、日本人に理解しやすいように、日本研究との比較をすれば、「ヨーロッパ性」が違ったかたちで見えてくるかもしれない。日本にも豊かな伝説・伝承の世界がある。

 古い時代の「些末な問題」の「西洋史」から解放されて、新しい時代・社会を念頭においた本書のような歴史の書き直しがおこなわれると、人びとは歴史研究の時代性と社会性に気づくことになるだろう。そして、フランス(ヨーロッパ)の「民族差別の起源」の一端もわかってくるかもしれない。

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2006年03月28日

『東南アジアの魚とる人びと』田和正孝(ナカニシヤ出版)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 近代になって、流動性の激しい海洋民や遊牧民の世界が侵されつづけている。行動範囲が狭まるだけでなく、生活そのものが成り立たなくなってきている。その変化を利用して、一部の者が一時的に富むことはあるようだが、全体的にはあまり展望は開けていないように思える。しかし、その実態はあまりわかっていない。

 著者の田和正孝は、「長さがあれば長さを測る、重さがあれば重さを量る、数があるなら数えてみる」という基本的な方法のもとに、「ここ十数年、毎年のように島嶼東南アジアの海辺を歩いてきた」。なぜ、歩く必要があるのか、著者はつぎのように語っている。「近年、東南アジアの各国において漁業統計類の整備が進み、漁業をとりまく情報量は格段に増してきている。しかし、小規模漁業を調査していると、統計には反映されない漁獲と取引が多いことに気づかされる。統計の分析だけでは明らかにできないことが非常に多い。したがって、フィールドワークを通じて聞き取りをしたり、人びとの活動を観察したり、様々な測定をおこなったりすることが沿岸漁業を理解するための重要な調査方法となる」。いまだ、近代に侵されていない海の世界の領域が存在しており、それを明らかにしようというのだ。

 本書の構成と内容の要約は、「まえがき」でつぎのように簡潔にまとめられている。「本書は序論とそれに続く三部から構成される。序論では、東南アジアの沿岸漁業を読みとくために「漁業環境」、「漁業地域」、「資源管理」、「漁業技術」などのキーワードについて考えておきたい。第Ⅰ部は資源管理にかかわる問題を扱う。マラッカ海峡における漁業の背後に潜む「越境」という問題、そして南タイを事例に漁業者の地域固有の知識に基づいた資源管理の実態について分析する。第Ⅱ部は水産物がグローバリゼーションとローカライゼーションのはざまでいかにして動いているのか、そのことを、近年ブームになっている活魚流通と、半島マレーシアの塩干魚生産を通じて考えてみる。第Ⅲ部は変わる東南アジアの海辺を、半島マレーシアの華人漁業地区とフィリピンの内海漁村の変容過程からながめてみたい」。

 「フィールドノートとボールペン、メジャーとばねばかりを携え」た著者とともに歩む「東南アジアの魚とる人びと」に出会う旅は、たんなる局地的なものの発見だけではない。地球規模の現代の問題が見える旅でもある。環境、資源、国境、グルメなど、プチブル的思考(今風に言えば、セレブ的嗜好か)で日常生活している者が気づかない問題が、つぎつぎに目の前に展開される。そして、それらにたいする「漁業者の知恵」に驚かされる。しかし、それも市場論理や資源開発の前に、押しつぶされていく。「これまで調査した沿岸漁業地域の実情を報告した」本書から、著者はつぎのような結論を導き出している。「生産者と消費者との関係を一本の川にたとえてみた時、川下で消費生活をしている人びとと川上で生産をになう人びととは互いに影響を及ぼしあうはずである。そのことを認識し、川下の者が生産に直接関わる人びとの社会や生活様式を知ることは、地域を理解する糸口となる。それのみならず、様々なポジションで漁業に関わる人びとが、漁業に対して責任ある行動をおこすことにもつながるはずである」。

 「漁師と一緒に汗をかいてみないか」という生産者の求めに、著者はいまだ応じていないが、机上の学問を越えた生産者の声が聞こえてきたことは確かである。その声がどこまで消費者に届くか、どこまで先進国の消費者が日常生活を越えて考えることができるかが、問われている。

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2006年03月21日

『貧困の民族誌-フィリピン・ダバオ市のサマの生活』青山和佳(東京大学出版会)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 かつての人文・社会科学系の研究者は、「読むこと」を中心に研究した。それが、メディアの発達、交通の発達、研究費の増加などによって、研究手法に「観ること」が加わり、文献資料のすくない途上国を中心に臨地研究(フィールドワーク)が発達してきた。しかし、その臨地研究の手法が充分に確立しないうちに、つぎの「共に生きること」を研究の前提としなければならない時代に突入してしまった。

 かつて民族誌のための人類学的調査は、調査者の生活とは無縁の異文化を客観的に観察し、考察・分析すればよかった。それが、本書では、驚くべきことが、つぎのようにスラリと書かれている。出産後に出血が止まらず母親を亡くした赤ん坊が、乳のないままに「極端に痩せて明らかに脱水症状」に陥っていた。「調査助手やサマの近隣の人びとがあれこれと相談しているのを眺めているうちに-おそらく福祉に任せるのだろうと思いながら-、どういうわけか、わたしたちが預かって育てることに決まってしまった。断りようもなく、結局、半年間ほど-あらゆる友人と隣人に協力してもらいながら-赤ん坊が死んでしまわないように手を尽くすしかなかった」。

 このグローバル化の時代に、もはや自分の生活とまったく無縁な世界は存在しない。世界中のあらゆる人びとの日常生活が、なんらかのかたちで自分の日常生活と結びついている。著者の青山和佳は、調査対象としての社会ではなく、「共に生きること」を前提として調査しているからこそ、赤ん坊をひきとって育てるということも、戸惑いながらも実行し、書くこともできたのだろう。この書評ブログでは、わたしにはとてもできない研究手法で調査している若い人たちを、積極的にとりあげて、応援したいと思っている。それは、第一にわたし自身が学ぶことが多いからである。

 本書の目的は、「はじめに」の冒頭でつぎのように書かれている。「本書では、経済的な意味での「貧困」が人びとの暮らしぶり-「生きる営みの総体」、つまり文化(略)-に、どのように関わっているのかという問題について、いま一度、現場に身を置き、人びとの話をききながら論考した成果を伝えたい。研究の主題は、この作業を通じて、貧困の実体的理解に資する見方を探すことである」と。そして、「日々の暮らしのなかにおいて、他者との関わりのなかで絶えず生成、変化するエスニック・アイデンティティ(略)をひとつの鍵概念」とする「テーマにより、既存の開発経済学的な枠組みではとらえきれない、「貧困」を生きる人びとの「生活の質」を可能な限り包括的に把握することをめざす。同時に、その暮らしぶりをマイノリティと他者との関係-包囲社会を構成するさまざまなエスニック集団との非対称な経済的・政治的関係-の下に、より深く理解しようと試みることも本書の目的である」とし、さらに、著者は「貧困者を個別社会の価値観や文化を担った主体としてとらえることの必要性を訴え」、「開発経済学における貧困研究と人類学的な民族誌の手法とを橋渡ししよう」という大きな目的意識ももっている。

 著者は、「結果的には、価値前提を含む分析の枠組みが揺れ続けたことと、途中から一次資料の分析に没入してしまったことから、文献渉猟とそれに基づく論考が不徹底になってしまった。それぞれのディシプリンの可能性と限界を踏まえた上での学融合的な研究には到底至ることはかなわなかった」と反省するが、著者の何よりの強みは、調査対象者との人間関係のなかで収集した豊富な基礎データをもっていることだ。巻末の付録だけでも、本書が優れた研究書であることを証明している。ただし、このデータを研究にほんとうにいかせるのは、収集し整理してまとめた著者本人しかいないだろう。

 著者が本書冒頭であげた目的は、ひとまず達成されたと言っていいだろう。開発経済学のように、普遍化するだけの合理的な論旨がなく、課題が多く残されているが、それが本研究の特色でもある。こういう学融合的研究で、従来のディシプリンをもちだして、不備を指摘することは生産的な議論にならない。この研究成果をどう発展させていくかを、考えていくべきだ。そういうことを踏まえて本書の難点をあげるとすれば、地図がフィリピン全体とミンダナオ島の大まかなものしかないことだ。本書を読むと、調査対象としたダバオ市のサマについて、マクロ的にもミクロ的にも、その行動範囲と人間関係が、もうひとつの鍵概念になるように思える。マクロ的には、フィリピンという国民国家を越えた枠組みがあると同時に、国民国家の枠内でしか考察できない課題もある。ミクロ的には、教会や市場・商店など日常生活に深くかかわる施設との位置関係、5つのグループの住み分けなど、プライバシーを考慮するならデフォルメしたかたちでも、図式化するとわかりやすかっただろう。ほかの研究者が、議論に参加できる「設定」がほしかった。これも指摘するのは簡単だが、自分自身がからだ全体で理解したことを、他人に説明することは容易いことではない。そして、自分自身の調査対象社会での位置づけと、調査者が入ったことの影響についても。

 それにしても、「謝辞」をみると、調査のために多くの研究助成金を得ていることがわかる。受賞もあり、研究成果を刊行するための助成金も得ている。それだけ本研究が、期待され、評価され続けてきた、ということができるだろう。研究環境がよくなってきたことが、本書のような斬新な研究を後押ししたことも事実だ。しかし、著者と同じような調査が、だれにでもできるかというと、それは無理だろう。また、著者自身も、今後調査対象を拡大したいと述べているが、同じ手法でうまくいくとは限らないだろう。調査者自身も調査対象も、絶えず変化している。ミクロなレベルでは、その変化も激しく、急速なことがある。「共に生きること」を前提とした研究には、まだまだ多くの課題がある。その克服のためには、問題を整理し、本書のような優れた事例をたくさん公開することだ。著者と同じように多くの研究費を得ながら、研究手法や成果の公表のしかたが充分に確立していないために、まとまったかたちで発表できないままでいる若手研究者はすくなくない。それだけに、本書は光る。

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2005年12月13日

『比較の亡霊-ナショナリズム・東南アジア・世界』ベネディクト・アンダーソン(作品社)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 東南アジア史研究が、世界に誇れる研究がすくなくともふたつある。ひとつが、アンソニー・リード『商業の時代』で、西洋史でいう「大航海時代」や日本史でいう「朱印船貿易」を世界史の枠組みで考察し、「大航海時代」も「朱印船貿易」も香料貿易など東南アジアを中心に発展した「商業の時代(1450-1680年)」に遅れて参入した一部にすぎないことを明らかにした(日本語訳の『大航海時代の東南アジア』(法政大学出版局、1997-2002年、2巻)は、本書の内容を台無しにした誤訳タイトル)。もうひとつが、本書の著者であるベネディクト・アンダーソン著の『想像の共同体-ナショナリズムの起源と流行』(増補、NTT出版、1997年)である。インドネシアなどを事例として考察した「想像の共同体」としての国民国家の成立過程は、東南アジアのナショナリズム研究だけでなく、世界各国の研究モデルになり、多くの読者を得た。しかし、この近代史研究の「新古典」も、グローバリゼーションが進行するポストモダンの時代にあっては、もはや分析枠組みとして参考にならないという声も聞かれるようになった。その著者が、初版の発行された1983年以降に書いた論文を集めたのが、本書である。著者は、新たな時代に向かって、研究をどのように進化・発展させたのだろうか。

 タイトルの「比較」自体が、近代的な考えである。欧米を中心に発展した近代は、画一化した価値観で合理的にものごとを考える傾向があった。だから、比較することにも意味があった。しかし、社会にはいろいろな価値観があり、それぞれの歴史を踏まえた文化を尊重する多文化社会の到来とともに、単純に比較すること自体が時代遅れになってしまった。その比較の「亡霊」が、今日でも現れるという。期待をもって、読みはじめた。

 本書では、インドネシア、フィリピン、タイの3ヶ国を基本とし、この3ヶ国同士の比較だけでなく、ときに世界のなかで、東南アジアのなかで、そして旧植民地宗主国やアメリカとの比較を通して、3ヶ国のそれぞれの特色が明らかになっていった。比較は、1ヶ国の自分自身の研究を基盤に、ほかの国を考察対象としたほかの研究者の成果を援用するのが通常である。本書は、著者自身がそれぞれオリジナルな資料を基に考察・分析した成果を使っている。それだけでも、驚異である。いったい、いくつの言葉をマスターすればいいのか、考えただけでもゾッとする。そして、多くの章でそれぞれの歴史や文化を踏まえた近現代史や時事問題を扱っているが、それぞれの国にたいする批判がまことに手厳しい。しかし、著者がもっとも批判しているのは、これらの国にたいするアメリカの政策かもしれない。長年入国を禁止されていたインドネシアで、1998年のスハルト政権崩壊後に大学生に向かって挑発的な演説をしたのも、著者の愛情の表れだろう。

 本書は、「第一部 ナショナリズムの長い弧」の「三つの「理論的」論文」で、「ナショナリズム一般の起源、性質、将来という問題を深くふみこんで探ろうとしている」以外は、好き勝手に言いたいことを言っているだけのように思える。博識で、だれにも真似のできない「比較」が、著者を冗舌にさせたようだ。その比較のなかで、おもしろいのは、「どうして資本主義国家の最強国」アメリカの植民地であったフィリピンが、「東南アジアの共産主義ブロック以外の独立国のなかで最も貧しい国になったのだろうか」、フィリピン革命時(1896-1902年)の「あの英雄たちに比肩するような人物が二度と現れないのだろうか」というあたりや、また「植民地化されなかったタイが、アメリカ領フィリピンやオランダ領東インドよりずっとあとになって選挙を実施しはじめたにもかかわらず、西洋式のブルジョワ民主政治に最も近いものを今日保有しているというのは、すくなくとも表面的には皮肉なことである」というあたりだろう。

 「プチブル」という表現も、何度か出てきた。そのことばを忘れたふりをしている世代や、まったく知らず意識しない世代へのメッセージだろうか。この忘れ去られようとしていることばは、東南アジアでも、世界でも、そして日本でも、貧富の差が拡大している現実を思い出させてくれるキーワードになるかもしれない。ちなみに、「プチブル」とは「プチ・ブルジョア」の略で、『広辞苑』(岩波書店)には「中産階級に属する者。ブルジョワジーとプロレタリアートの中間に位する階層。小市民」とある。

 まだまだ皮肉たっぷりに、だが愛情をこめて辛辣な東南アジア論を展開していくのだろう。楽しみにしたい。

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2005年11月08日

『ナショナリズムと宗教-現代インドのヒンドゥー・ナショナリズム運動』中島岳志(春風社)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 ここに新しい時代の研究がある、そう感じた。著者、中島岳志の専門は、「南アジア地域研究」の枠にはおさまらないだろう。著者の新しさは、なによりも生身の人間と社会が大好きで、にもかかわらずその世界に埋没することなく、客観視することに努めていることだろう。途上国大好き人間のなかには、圧倒的な経済力を背景としていることを忘れ、「なにかしてあげましょう」という善意の安売りや「かわいそう」という同情の目で見て、対等な人間関係を失い、優越感に浸っていることにも気づかず、はまってリピーターになっている者がいる。また、研究者のなかには、生身に触れることを恐れ、人間と社会を研究対象としてしか見ていない者がいる。両者のバランスをとるのはほんとうに難しく、そのことに気づいても、どちらかに偏っていることを認識して、割り切って自分の「スタンス」とするのがせいぜいだろう。わたしも、そんなひとりでしょう。

 著者は、「「文字化された対象」のみを研究の俎上に載せ」、「表舞台に現れる政治権力闘争やアイデンティティ・ポリティクスの側面のみが強調され、末端の民衆の生活戦略や宗教復興的心性などの主体性は完全に等閑視されてきた」先行研究を乗り越えるために、「ヒンドゥー・ナショナリズム運動が展開されている具体的な活動の場に注目し、末端活動員や民衆の主体をとり上げ」、その「多様な主体の多様な欲求が複合的に重なり合いながら運動を展開している」実態を描き出そうとしている。

 本書は、考察の対象とする「現代インドのヒンドゥー・ナショナリズムを捉えるための理論的枠組みを提示する」ことからはじめ、つぎに「ヒンドゥー・ナショナリズムの歩みを近現代インド史のなかに位置づけることを試みる」。この多少「重く、鈍い」2章の後、著者のフィールドワークの成果が存分に活かされた「軽快な」4章がつづく。多様な「インド」を「ヒンドゥーであること」で一元化を図る試みも、現実のなかではいかに難しいかが、「末端の民衆の生活戦略や宗教復興的心性などの主体性」を具体的に語ることによって見えてくる。そして、「過激なヒンドゥー・ナショナリスト」の姿は、メディアという媒体との相互関係によって生成され、固定化されていっていることを指摘する。

 読後感は、まずインドの「奥深さ、巨大さ、複雑さ」に圧倒されたことだ。著者は、それに怖じけず、怯まず、真っ正面から向きあっている。それでも、なにか物足りなさを感じたのは、最初の「重く、鈍い」2章と後の「軽快な」4章が、最後で充分に結びつかなかったことだろうか。あるいは、「自己の為すべき役割り(ダルマ)を果たす」という思いが、いま経済発展で世界の注目を集めるインドで、これからも有効に機能するのだろうか、わたし自身が不安に思っているからなのだろうか。楽観的になれないものが残った。  もうひとつ疑問に思ったのは、4月に出版されたばかりの同著者の『中村屋のボース-インド独立運動と近代日本のアジア主義』(白水社)とどういうつながりがあるのだろうか、ということだった。これがつながると、インドとはなにかが、もうすこし見えてくるような気がした。第2章の近現代史のなかの位置づけを、別の角度から見ることによって、新たな「発見」もあるだろう。

 「ときに激しく共感し大声で笑い合い、ときに激しい憤りを覚えながら、私は必死になってインドの人々と格闘してきた」という著者だけに、今後もインドの平和に貢献する執筆活動をつづけていくことだろう。あまりにも楽観的に「国際交流」する「インド好き」や机上の学問に満足している研究者に、刺激を与えるものを期待したい。

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2005年10月25日

『アンコール・王たちの物語-碑文・発掘成果から読み解く』石澤良昭(NHKブックス)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 「今は遺跡どころではない。食糧供給が先だ」と言われた1980年代初期の疲弊したカンボジアで、著者、石澤良昭は「食糧は近隣の米産国からいくらでも手に入るが、アンコール・ワットが崩れ落ちたら二度と元の姿には戻せない」、「遺跡も人も大切だ」と主張しつづけた。「なぜこうまでもアンコールに執着」するのか、よく訊かれる質問に、著者は「なかなか明快にその理由を説明できないが、アンコール・ワットの大伽藍に魅せられて楽しんでいるのではないことだけは確かである」と答えている。その答えの一端は、著者の「カンボジア人による、カンボジアのための、カンボジアの遺跡保存修復」という国際協力の哲学からみえてくる。著者が半世紀にわたって守ろうとしてきたものは、一言で言えば「カンボジアの至宝」だろう。しかし、その「至宝」の意味をほんとうに理解できるのは、カンボジア人以外にいない。そのことがわかっているだけに、カンボジア人ではない著者には「明快にその理由を説明できない」もどかしさがあるのだろう。著者のカンボジア史研究は、カンボジア人のもっている手の届かない尊厳さに一歩でも近づくことではなかったのだろうか。

 そのカンボジア史研究は、容易ではなかった。本書を読んでも、その拠り所は依然として碑文、『真臘風土記』などの漢籍史料、ヨーロッパ人の旅行記などの文字史料を基本に、近年すすんできた考古学、美術・建築学などの研究成果を取りいれているにすぎない。そして、「今後地道な考古発掘が必要であり、遺跡地質学、熱帯農学、水文科学など、関連の科学を総動員する必要がある」と訴えている。近代歴史学は、国民国家を中心にすすめられてきたため、強い国家が成立しなかった民族の歴史はあまり発達しなかった。ましてや、カンボジアはフランスの植民地を経て、内戦状態にあった。わたしたちは、近代という時代の先入観を通して歴史を見、誤ったイメージを抱きがちである。カンボジアの歴史は未知の部分も多く、それだけに新しい発見が著者の研究の原動力になったのだろう。

 本書本編のアンコール王朝興亡史は、著者の長年の研究成果をまとめたもので、その研究のプロセスを感じることもでき、楽しむことができた。さらに興味をもったのは、付章Ⅲ「すべての道はアンコールへ-ヒトとモノが動いた大幹線道」で、カンボジア史研究だけでなく、東南アジア大陸部の歴史研究にとって魅力にあふれていた。カンボジアの主要民族であるクメール人は、かつて現在のカンボジアの領土におさまらない活動範囲をもち、その文化はさらに広範囲に影響を与えた。そのヒトとモノの動きから、現在独自の国家をもたないモン人とともに、かつて東南アジア大陸部の歴史と文化を創造していたことを想像させるスケールの大きな記述となっていた。現在の国家にとらわれない歴史研究がすすむと、あの偉大なアンコール・ワットなどの遺跡を残した民族の実像が浮かび上がってくるだろう。

 それにしても、巻末の「参考文献」をみると寂しくなる。半世紀にわたって「孤軍奮闘」してきた著者の研究成果がほとんどである。おそらく著者は、新しい発見を誇らしげに自信をもって記述するいっぽうで、不安も覚えていたことだろう。将来新たな研究者の出現による「発見」で、自分の仮説が崩れるかもしれない、と。しかし、著者は、自分の研究が踏み台となって、新たな研究が出てくることを期待してきただろう。アンコールの研究だけではない。東南アジアには、たんなる個別研究としてだけでなく、学問一般に通用する新たな研究の可能性が満ち溢れている。ヒンドゥ教や仏教といったインドの影響を受けながらもインドにはない巨大な遺跡を数々残したクメール人の強大な権力、文化大国を思わせるような独自の優れた美術・建築技術、文化的共生を感じさせるいっぽうで排他性も感じさせる遺物、優しさと残酷さ、謎をあげだしたらきりがない。その謎解きに、その土地の人間がかかわることは必須条件だ。だが、それには、まだ時間がかかるかもしれない。その日まで、著者のように地道にそのたたき台をつくる作業をするのも、大きな国際貢献だろう。

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2005年09月20日

『インドネシアを齧る-知識の幅をひろげる試み』加納啓良(めこん)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 わたしの研究室の机の横の書棚には、事典・辞典類が置いてある。椅子に座ったままか立てば、事典・辞典類が取り出せるようにである。歩いて書棚から取り出したり、わざわざ図書館に行って調べなければならないと、結局は調べずじまいで、そのうち忘れてしまう。本書の副題「知識の幅をひろげる試み」のためには、疑問に思ったらいつでも調べることができるように、まずかたちから入る必要がある。

 本書を読むと、著者、加納啓良の研究室や書斎が見たくなった。このどん欲な知識欲を支えている源はなになのか、覗いてみたくなった。とにかく、著者は、事典・辞典類をよくひいている。そのひき方も、半端ではない。いちばんよくひいているのは言語辞典のようだが、各種事典・統計書などをいつも小脇に抱えているような様子が浮かんでくる。しかも、情報を得ると、それをまとめて分析してしまう。
 このような習癖は、著者が専門とする経済学から得たものだろう。それを、「知識の幅をひろげる」ために、おおいに活用している。奥付の略歴には、「インドネシアを中心に東南アジアの経済・社会・歴史を研究」とあるが、本書でもインドネシアを相対化するために、ほかの東南アジア諸国の例が頻繁に出てくる。経済学だけが専門ではなく、社会や歴史にも造詣が深いこともすぐにわかる。そして、その社会や歴史の知識が、専門の経済学にいかされていることは、本書唯一の「学者らしい論考」である最後の「第35話 貿易統計から見た日本・インドネシア関係」からわかる。社会学や歴史学を専門にしていようが、あるいは言語学などのほかの分野を専門にしていようが、本書を楽しんで読むことのできるのは、著者の探求心と事実確認の手法が、ほかの学者の共感を得るからだろう。かつて、同じく東南アジア経済学を専門とする末廣昭『タイ―開発と民主主義』(岩波新書、1993年)を読んだとき、政治・経済の本でありながら、歴史の本としても楽しめた。それは、著者が自分の専門性をいかすための基本として、歴史的、社会的知識を充分にもちあわせており、周辺国・地域との比較も充分におこなっていたからだろう。本書も、インドネシアを例にしながら、もっと広がりと奥行きのある内容だった。

 東南アジアのような流動性が激しく、制度化が必ずしも有効ではない社会では、事典・辞典類、統計資料は制度化の発達した定着農耕民社会のもののように正確ではない。したがって、著者は自分自身でもっと信頼のおけるものをつくろうとしている。そして、近代科学の理論が必ずしも役に立つわけではないことを、著者は知っている。にもかかわらず、著者は、近代科学を基本にインドネシアを理解しようとしている。ひとつの分析視座から理解できないインドネシアを、合わせ技で、あるいはほかの国・地域からの比較で把握しようとしている。理屈ではなく、肌で感じることも忘れてはいない。近代をリードした国ぐにの理論ではけっして理解できないインドネシアの研究には、「雑学」が必要なことを本書は教えてくれる。

 本書を読んで考えさせられたのは、学際・学融合的分野である地域研究を専門とする「新しい」研究者に、本書のような「齧る」ものが書けるだろうか、ということだ。著者は、この「齧る」の意味を、「いろいろな角度から眺めて、多様な味わいをそのままに表現してみようと思ったにすぎない」としている。しかし、それは著者の謙遜であって、この「齧る」をできる者は、そういないだろう。著者の経済学という専門性があって、それを基盤に「齧る」ことができたと、わたしには思えた。本書を超えるようなものが地域研究者から出たとき、新たな「齧る」切り口がみえてくるだろう。

 最後に、「外島」ということばが出てきたとき、すこし首を傾げたことを申し添えておく。これまでも「インドネシア」が語られるとき、実際は「ジャワ」のことしか語られないことがままあった。著者は、けっしてジャワだけのことを語っているわけではない。それどころか、広大なる国土・多様な民族を、いかに「インドネシア」というタイトルの下に語るかに苦心している。にもかかわらず、オランダ植民地時代に使われたジャワ以外の島じまをあらわす「外島」ということばが出てくると、「ジャワ中心史観」かと思ってしまう。いまのインドネシアに、まだ「外島」ということばが通用するのか、そのあたりも知りたかった。

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2005年08月23日

『インドネシア−イスラーム主義のゆくえ』(平凡社)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 オーストラリア政府は、今年になってからも新たなテロ攻撃の可能性があるとして、インドネシアへの渡航を避けるように国民に警告をしている。2002年10月12日、バリ島で大規模な爆弾テロ事件が起き、オーストラリア人88人を含む202人の死者が出た。この事件は、世界でもっともイスラーム教徒人口が多く、比較的「穏健」だと考えられていたインドネシアで起こっただけに、その衝撃も大きかった。とくに、人口が十数倍で仮想敵国のひとつである隣国で多数の犠牲者が出ただけに、オーストラリアでは動揺が広がった。

 著者、見市建は、「「10・12」後の地点からインドネシアにおけるイスラームを見直してみたい」ということから出発して、国家とイスラームの関係をインドネシアという国家を基本単位として考察している。「具体的には、(一)国民と国家の統一と統合の論理の中におけるイスラームの位置づけ(イデオロギーと規範)、(二)政府とイスラーム諸運動の関係(政治的実践)、(三)警察・軍や裁判所などの国家機構の機能とイスラームの関係(秩序と正義)、という三つの問題群を」含んでいる。

 著者は、「本書で最も主張したかったことは、イスラームないしはムスリムを動態的に把握する必要があるということである」とし、「独立後のインドネシア政治におけるイスラームをめぐる最大の変化は国民統合とイスラームとの関係であ」り、「イスラームは国民統合と対立し、脅威を与えるという考え方は後退し、「国民の一体性」と「イスラーム的市民社会」さらには「ウンマの一体性」が両立するものとして主張されるようになった」と結論している。本書でも、「左/右」や「イスラーム主義/ナショナリズム」という二項対立でとらえる近代の考え方の無意味さを明らかにしている。

 本書で注目されるのは、「フーコーの構造的分析とグラムシの闘争理論をベースにした文化的闘争の運動理論であるカルチュラル・スタディーズも読まれ、大衆文化擁護の理論的根拠になっている」という記述である。文化の重要性について唱えられて久しいが、本書で述べられているように「イスラームの土着化」に実践的に使われていることが明らかになると、新たな時代が到来したことを感じざるをえない。

 映画、テレビドラマ、アニメ、歌謡などが、国家プロジェクトとして重視されるようになった。その成功のひとつが「韓流」である。戦争になったとき、人びとが人気俳優の顔を思い浮かべ、戦争に反対するなら、文化政策もその役割を大いに果たすことになる。いっぽう、その文化にこだわりすぎて、戦争の原因になるなら考えものだ。多文化共生社会を、どう築いていくか、国際的にも国内的にもこれからの大きな課題だ。

 インドネシアでは、国家という枠組みの基本のうえに、さまざまな地域の特殊性を考えていかなければならない。それが、著者に「あとがき」で「私はこの本を書くにあたり、むしろ過去のインドネシアの歴史やインドネシアの地方政治の論理に引き戻された」と書かせたのであろう。本書のなかで繰り返し語られる「地域の論理」は、「海域イスラーム社会の歴史」を考察してきたわたしにとっても、なじみのあるものである。問題は、歴史的にそれを充分実証できていないことである。著者が、「多様性のなかの統一」ということばにしばられて、あの広いインドネシアを実際に見て歩き実感しようとしているのにたいして、その成果を裏付けるだけの歴史研究は充分とは言えない。これまでの歴史研究は、ジャワ島を中心としたものが多く、そのほかの島じまの研究は、まったく手つかずのものも少なくない。著者のように現代の事象を主題に研究を進めている若手が、歴史の重要性に気づいても、それに応えるだけの歴史研究者が少ないのが現実である。

 学際的研究とか学融合的研究と言うのはたやすいが、それを生産性あるものにしていくためには、歴史研究のような基礎研究と著者のような行動力のある若手が実際に体感しながら社会を把握していく研究とのバランスのとれた専門性が必要だ。

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2005年07月12日

『アフリカ「発見」−日本におけるアフリカ像の変遷』(岩波書店)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 本書は、世界歴史選書の1冊として出版された。しかし、このような優れた歴史書は、従来の日本の大学・大学院の歴史教育・歴史学研究からは生まれてこないだろう。

 本書は、4章からなり、最初の3章は信長・秀吉(「桃山」は江戸時代になって桃が植えられたための名称で、秀吉の時代には「桃山」ではなかった!)の「遭遇の時代」から江戸時代の「迷走する「黒坊」像」、さらに明治になって大日本帝国とアフリカとの関係を表象する「旭日と闇黒と」になっていくことを、時系列的に記述している。そして、最後の第四章「イメージの檻−大衆文化にみるアフリカ」で、近代日本におけるアフリカのイメージがどのように形成されていったのかを追っている。

 著者、藤田みどりの本書執筆の原点は、「アフリカ人作家の描き出す豊饒なアフリカ世界と、一般的なアフリカイメージとの懸隔にあった」という。そして、その日本人のアフリカ認識は、「英国におけるアフリカ像の変遷の影響抜きには語り得ない側面がある」と、紙幅の関係から割愛せざるを得なかった「英国でのアフリカ・イメージ」について、充分に語れなかったことを惜しんでいる。なにより、著者の言いたかったことは、資料の関係で充分に語ることができないアフリカ人のヨーロッパ人観などであったのではないだろうか。そのことは、「その昔、アフリカ大陸にヨーロッパ人が進出し、裸体に近いアフリカ人を見て笑った時、彼らもまたアフリカ人たちから笑われていたことを、ヨーロッパ人は長いこと知らなかった。笑うということは、笑われることでもある」という「あとがき」の文章からもわかる。著者は、交流史の相渉的視点の原則、第三者の影響といった多角的なアプローチから、歴史的事実を相対化したうえで、イメージの形成を考察・分析している。

 また、著者は、日本・アフリカ関係史を比較文化の視角から光をあてることによって、近代日本の矛盾にも気づいていく。ボーア戦争では、日本の知識人がオランダ系ボーア人に同情を寄せながらも、そのボーア人が人種差別者であったことに気づいていない、と指摘する。人種差別に憤慨しながらも、日本人だけが有色人種から抜け出し「名誉白人」たろうとした近代日本の知識人の限界を、はっきりととらえている。

 著者は、一貫して「アフリカ」について論じている。しかし、東南アジア史を専門とするわたしにとって、本書で使われた史料・文献にはなじみがある。このことは、いったいなにを意味するのだろうか。ヨーロッパと連動する日本のアフリカ観は、東南アジア観にも共通するものなのだろうか。じっくり考えてみたくなった。

 さて、冒頭で書いたことに立ち戻ろう。総合文化研究で博士号を取得している著者が書いた本書を、「日本史なのか、西洋史なのか」と訊くことはばかげている。しかし、そう訊かれるかもしれないし、図書分類されるときに困ることになるだろう。それは、現実に日本の多くの大学・大学院で、原史料の言語の違いから排他的に日本史、東洋史、西洋史と分かれて教育・研究され、教員もそれぞれの分野で研究・教育職を得ているのが現状だからである。

 国民国家の枠組みが以前ほど大きな意味をもたず、歴史を含めたナショナル・スタディーズが学問的に意味をもたなくなりつつあることは、もはや多くを語る必要はないだろう。かつて普遍性をもたない地方史が郷土史となって学問から切り離されたように、このままではナショナル・スタディーズも学問とは別次元で語られるようになっていくだろう。いっぽう、近代をリードした西洋の思想・価値観を日本に紹介する西洋史研究の役割は終わった。長年の研究蓄積があり、非ヨーロッパ人による業績を評価しない西洋史研究に、切り込めるだけの実力のある日本人研究者は、そう多くはいないだろう。中国史は、あの膨大な人口のなかのエリートが自国史研究に目覚め、排他的に史料を使いだしている。日本人研究者は、それにどう立ち向かえるのだろうか。「アカデミズムのための研究」としての歴史学は、もはや従来の日本史、西洋史、東洋史研究では、立ち行かなくなっている。

 事実、歴史が中心と考えられる講座でも、執筆陣のなかで歴史研究者は少数派になってきている。たとえば、今秋から刊行される『岩波講座 アジア・太平洋戦争』全8巻の延べ100人を超す執筆者のうち、歴史研究者を自認する者は数えるだけしかいない。  従来の歴史教育・研究は、学際的幅広い教養が求められている現代社会のニーズにも応えていない。高等学校の歴史教育でも、世界史は各国史の寄せ集めではなく、ヒトやモノ、思想や情報が交流する広域世界のマクロなダイナミズムと人びとの生活の営みを感じさせるミクロな社会を理解させることを目指し、日本史は世界とくに東アジア世界のなかでの日本の歴史を考えさせることを目指している。文献からだけでなく、絵画や建築など文字ではない史料から、歴史を理解させようともしている。このような歴史を生徒に教えることのできる人材も、従来の歴史教育・研究では育てられないだろう。「歴史学の危機」は、本来時代を敏感にとらえる学問であるはずの歴史学を研究している者が、現代という時代を的確に捉えて教育・研究していないことに大きな原因がある。

 学校教育で歴史が教えられ、入試科目にもあり、カルチャーセンターでも一定の受講生を得ていることから、社会的ニーズがあると勘違いしていることにも大きな問題がある。それは、学問とは別次元のことである。大学入試センター試験の日本史の出題が、時代ごとであるのもいかがなものだろうか。日本史研究者は、時代ごとにしか研究していないから、時代ごとにしか問題を作成できないのだろうか。世界史の問題でも、出題者は教科書や学習指導要領を読んだことがあるのだろうか、と首を傾げたくなることがある。

 本書のような時代も地域も超えた研究は、いま学際的研究分野からだけでなく、建築史のような理科系の分野からも、優れたものが出てきている。歴史学の「最大の武器」は、原史料を丹念に読むことだ。いまも、その重要性は変わらない。その「武器」を最大限に生かすためには、時代ごと、地域ごと、史料の言語ごと、といった閉鎖的な教育・研究方法を改め、学際的な広い視野の下で、原史料読解によって得た歴史学の知識を生かすことだろう。「文献史学を超えられるのは、文献史学だけだ」といえるだけの研究成果が出てくると、本書のような歴史研究と張りあい切磋琢磨することによって、歴史学も学際的研究も発展していくことだろう。

 このままだと、日本における学問としての歴史研究の未来は危うい。

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2005年07月05日

『イスラームの国家と王権』(岩波書店)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 現在アメリカ合衆国の主導の下に、アフガニスタンやイラクで「民主的」な国家づくりがおこなわれている。イスラームについて多少の知識がある者なら、イスラーム教徒が多数居住する地域での国家づくりに、疑念をもつ者も少なくないだろう。それが、アメリカの主導となると、その疑念はさらに深まる。

 イスラーム世界は、以前より国家より信者の共同体であるウンマや国家を超えた商業ネットワークを重視してきたという考えがある。また、定着より移動を重視することから、近代国家の中枢である首都機能が弱いと指摘されることもある。そのイスラーム世界に、アメリカを中心とするグローバル化が及んで、イスラームのネットワークの優位性が崩れ、さらにウンマの内部にまでアメリカ的価値観が浸食してきた。イスラームにとっての危機は、9.11以降「文明の衝突」として表現された。

 本書が、このような現代の問題を考えるにあたって、ひじょうに基本的で、きわめて重要な知識を提供していることは疑いのないことである。にもかかわらず、著者佐藤次高は、時事問題にまったく触れることなく、まず「いまイスラームの国家と王権について考えることに、どのような意味があるのだろうか」と問いかけている。出版社の編集者が書いたであろう帯にも、「世界化するイスラームにとって「国家」とは何なのか?」としか書かれていない。歴史研究者としてわたしは、この静かな問いかけに、著者の研究者としての真摯な姿勢と学問の奥深さを感じずにはいられなかった。

 著者は、「イスラームの国家や王権は、都市や農村社会の秩序を維持し、交易活動の安全を確保するうえで、それほど重要な役割を果たさなかったのだろうか」という「素朴な疑問から出発」し、「カリフやスルタンの権力論だけではなく、社会秩序を維持し、人びとの意識を糾合して国家を運営していく「しくみ」を明らかに」しようとした。そのために、多彩な史料を駆使し、最近の研究成果を取り入れて論を展開している。

 いま「近代科学の危機」のなかで、いろいろな新しい学問の試みがおこなわれている。また、「歴史学の危機」といわれて久しく、制度的色彩の濃い文献史料を基本とした実証主義的文献史学が、制度が以前ほど機能しなくなった現代社会にとって無用であるかのように考えられたりしている。本書は、このような「知の危機」にあって、目先の問題が複雑になればなるほど、いかに基本が大切であるかを教えてくれる。実証性を無視した「知の空論」が幅をきかす時代であるからこそ、原史料から事実をひとつひとつ確認していき、確認された事実を基に論を展開していくスタイルは、読者に安心感を与える。学問とは、歴史学とは、「かくありき」という見本のようにも感じられた。また、著者の現代社会へのメッセージが伝わってきて、歴史学が現実社会のために直接役に立たない「虚学」ではなく、確実に役に立つ「実学」であることを証明したかのように思えた。

 惜しむらくは、著者も気づいているように、16世紀で記述が終わり、イスラーム発生以来の「しくみ」と国家の役割はわかっても、それが現在とどう結びついているのかがわからないことだ。さらに、南アジア・東南アジア、アフリカ、旧ソビエト連邦などに拡大したイスラーム世界をどうとらえるかが、「エピローグ」でほんの付け足しに語られているだけで充分でないことだ。

 本書が、現代社会を理解し考えるうえで、多大の貢献をすることは間違いない。ただ、著者があまりにも謙虚で、そのメッセージを感じとってもらえないかもしれない。著者自身が直接語る必要はないが、著者のメッセージを時事問題と照らしあわせて考える必要があるだろう。本書で得たイスラーム世界の基本的知識をもとに、イスラームをとりまく問題が解決され、平和な社会が築かれていくことを祈りたい。

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2005年06月21日

『中村屋のボース−インド独立運動と近代日本のアジア主義』(白水社)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 本書の著者中島岳志は、「私の二〇代は、この本を書くためにあった」と「あとがき」の冒頭に書いている。若者の社会意識が希薄だといわれ、大学になんの目的もなく入学してくる学生が多くなっているのを年々実感として感じている者にとって、まずは著者が青春をかけてなにを言おうとしているのか、耳を傾けたくなった。

 「中村屋のボース」ことラース・ビハーリー・ボースは29歳のとき来日した。その同い年のときに、著者は本書を執筆した。そして、ボースが活動した場所を訪れ、追体験することに執着した。植民地政府の有能な事務員として平穏な生活を送ることができたはずのボースが、やがて独立運動に目覚め、総督爆殺未遂事件や兵営反乱事件の首謀者となって、日本へ亡命せざるをえなくなった。著者は、ボースが「日本のアジア主義者たちと共通する文明論的課題を背負い、超越論的観点から「近代の超克」を目指した人物であ」り、「近代を超克するためには戦争や武力闘争という近代的手法を用いざるを得ないというアポリアを常に背負い、それと懸命に格闘しながら行動し続けた人物であった」と結論している。しかし、ボースの叫びは「近代日本の時代精神と難問を引き受け」たにもかかわらず、1945年1月の死後、無視されつづけた。残ったのは、逃亡中のボースが匿われたのが縁で名物となった新宿中村屋の「インドカリー」(イギリス化した「カレー」ではない)だけだった。そのことが、著者には許せないようだ。

 近年、日本人若者にとって、アジアが身近になってきた。大学でもヨーロッパ言語の履修学生が減り、中国語が圧倒的な人気だ。朝鮮(韓国)語やタイ語などほかのアジアの言語も、学生にとって身近になってきている。東・東南アジアの芸能界は、もはや一体化していると言っていいだろう。インドも映画、IT産業、新たな投資先として注目されるようになってきている。そのいっぽうで、近代日本とアジアとの関係史について、日本の若者はほとんど知らない。戦前・戦中の日本の進出・侵略や占領の痕跡は、アジア各地の街角に歴史案内板が付されて残されており、通り行く人たちが日常的に目にしている。博物館でも、日本がもたらした戦争について大きくとりあげている。日本とほかのアジアの歴史認識の相違は、若者にとってアジアが身近になればなるほど拡大していくようにみえる。  テロリストであったボースは、日本のアジア主義者を利用することによって、インドの独立を目指そうとした。しかし、対英戦争になって逆に日本に利用され、同胞インド人からも見放されていった。それは、ナショナリストのボースにとっては、なんとも悲しいことだった。日本のアジア主義には、「アジア人のためのアジア」ではなく「日本のためのアジア」という限界があった。大東亜共栄圏という日本主導のグローバル化で、日本人にとってアジアは一気に身近になった。しかし、多くの日本人はアジアの人びとにも社会にも関心がなく、アジアを日本化を推し進める場所としてしかみていなかった。

 いま著者のような若い世代が、「近代を超克」した目でアジアを見はじめている。著者がボースにこだわりつづけたのは、ボースのインド独立にかける熱情・人柄だけではなく、ボースが生きた時代のアジアと自分が生きている時代のアジアがだぶって見えたからではないだろうか。テロという暴力でしか問題の解決を見いだせなかった20代のボースと、現代のさまざまな問題を意識しながらなにかしっくりとしない自分とを、重ねあわせていたのではないだろうか。だからこそ、ボースと同じ空間を味わいたくて、かれの足跡をたどり追体験したのではないだろうか。

 著者は、すでに『ヒンドゥー・ナショナリズム』(中公新書ラクレ、2002年)で、インド社会の現状を報告している。書き慣れた筆致は、読者を一気にボースの世界へと誘う。難をいえば、中盤で研究者としての著者が現れ、筆致が鈍ってわかりにくくなったことだろう。すこし欲張りすぎたかもしれない。ヒューマン・ドキュメントとは別に、学術的に論じたほうがよかったように思えた。今後が楽しみだ。

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2005年05月24日

『ナチス・ドイツの有機農業−「自然との共生」が生んだ「民族の絶滅」』
(柏書房)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 まず、古くて頭の悪い人は読まない方がいいかもしれない、ということを言っておく。著者藤原辰史は、1976年生まれの20代である。ものごころがついたときには、環境問題が騒がれており、「自然との共生」はいいものだと教えられた世代である。そして、単純化し合理的に考えてきた近代科学が、現実の社会に役に立たないことがわかってきて、複雑なものは複雑なものとして受け入れ、複合的にみんなで考えようという、新しい時代に育った世代である。「問題設定は明確だが、結論は曖昧」などと評価したら、とたんに古くて頭の悪い人だと思われてしまう。

 「自然との共生」はいいものであると信じていた著者は、ディープ・エコロジストとナチズムに類似性・親和性があることに気づき、驚いてしまう。「浅いエコロジスト」が「発展」優先概念から抜け出せず「人間中心主義」から脱することができないのに対して、ディープ・エコロジストは人間、動物、植物の平等、すなわち、「生物圏平等主義」を原則とし、人間は「生態系に組みこまれた生態的な存在者」にすぎないのだ、と考えている。いっぽう、ヒトラー政権下のドイツでは1935年に「帝国自然保護法」が公布され、その2年前には「動物保護法」も公布されていた。ナチスは、「人間中心主義」を批判し、「動物への権利」を主張して、人間も動物も植物も包括する「生命」を国家の軸に据えていたのである。そして、不用なものとして、ユダヤ人が抹殺されたのだった。

 本書は、「「人間中心主義」から「生物圏平等主義」へというナチス・エコロジーの実験を有機農業とのかかわり合いを軸に、「人間の存在形式」の問題として捉え」、「生命共同体国家はなぜホロコーストに行き着いたのか」、「エコロジーに潜む危険性をナチ農政に読む」思想史である。

 ナチスは「人間中心主義」からの脱却に挫折した、と結論づけることは簡単だろう。では、脱却に成功する方法はあるのか。楽観主義的エコロジストはともかく、すこし環境学を学んだ者なら、その困難さは充分にわかっているだろう。また、実際に有機農業にたずさわっている者からみた総論は、なんの役にも立たないようにみえてしまう。本書でとりあげられた地域は、ヨーロッパの乾燥農業中心で、キリスト教思想が支配的だ。有機農業は、生態環境だけでなく、その地域の住民がもつ自然思想にも大きく影響される。本書で投げかけられた数々の課題は、多くの実例を通して解決へと向かっていくだろう。そう信じたい。

 いま、結論など求めようのない難題に、若い研究者が取り組んでいる。すこし、明るい気分になった。

 本書のように、近年、若い研究者の博士論文を元にした単行本の発行が増えている。大学院生が増加し、大学側も積極的に博士号を出すようになった結果である。それはそれでいい傾向だと思うが、その博士論文を指導し、審査している教員が博士号をもっていなかったり、専門書を書いたことがなかったりするのは奇妙だ。これまで、400字詰め原稿用紙にして40~50枚の学術論文を書くことに精を出してきた世代は、単行本の出版にあまり関心がなかった。若い世代の新しいテーマやアプローチを正しく理解し、批判する世代がいないと、学問の発展はないだろう。世に出る前に新しい芽を摘んでしまうのではないか、若い世代を指導する世代のほうが心配だ。

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