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2018年04月19日

『21世紀東南アジアの強権政治-「ストロングマン」時代の到来』外山文子、日下渉、伊賀司、見市建編著(明石書店)

21世紀東南アジアの強権政治-「ストロングマン」時代の到来 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 だんだん東南アジア各国の大統領・首相の名前が覚えられなくなってきていた。だが、本書で取りあげられたドゥテルテ、タックシン、ナジブ、ジョコウィならわかる。なぜわかるのか、かれらは「強権的な指導者」で、しばしばメディアに取りあげられるからだということが、本書の帯からわかった。

 帯の裏側には、本書の内容が、つぎのように要約されている。「東南アジアでは戦後「開発独裁」とよばれた権威主義体制が支配してきたが、90年代以降民主化が進み、選挙による政権選択が行われるようになった。ところが近年、新しいタイプの「ストロングマン」たちが登場している。彼らは、ときに人権侵害をともなうほど強権的であり、汚職の噂さえつきまとうにもかかわらず、民衆に幅広く支持される。それはなぜなのか。詳細な現地調査をもとに東南アジア民主化の行方を占う」。

 その「なぜ」にたいして、「第1章 <総論>東南アジアにおける新しい強権政治の登場」で執筆者の外山文子は、「1つの鍵となるのは、既得権益層との戦いであろう」と延べ、つづけてつぎのように説明している。「列強による植民地支配などを経て、各国とも既得権益層が政治的経済的リソースを独占してきた。タイとインドネシアは、軍人や文官といった公務員勢力が政権を掌握してきた。また経済格差も大きく、特にタイは首都バンコクと地方との間の大きな格差が問題となってきた。フィリピンでは、富裕層による大土地所有と農民の没落が長年の問題となってきた。また地域主義が強く、有力一族によって政治権力が独占されてきた。マレーシアは、民族問題が政治を左右してきた。人口としてはマジョリティであるマレー人が経済的には劣位に立ってきた。これらの国々においては、有権者が求めるものは、必ずしも民主主義的な理想だけではない。時には強権的な方法であっても、早急に解決が求められる問題が存在するのも事実である」。「新しい強権的政治指導者、つまりストロングマンたちの多くは、既得権益層に対する有権者の不満を背景に政治権力を掌握し、「民主主義」や「正義」を唱えながら、強権的支配を有権者に受け入れさせている」。

 本書は、第1章<総論>の後、第2-5章で章ごとに4名の政治指導者を取りあげ、それぞれの章の終わりに「コラム」が添えられている。第1章「5 本書の構成」で、各章の課題が要約され、「あとがき」で章ごとの結論が、つぎのようにまとめられている。コラムの位置づけについては不明。

 第2章「<タイ>タックシンはなぜ恐れられ続けるのか-滅びないポピュリズムと政治対立構造の変化」(外山文子)では、「タイのタックシンについて扱った。タックシンは、2006年9月のクーデタにより政権を打倒されたが、10年以上も経過した現在でもその政治的影響力を恐れられ続けている。その理由の1つは、タックシンの「ポピュリズム」にあると論じた。本章では、ポピュリズムを動態的に捉え、タックシンのポピュリズムが、伝統的エリートによる攻撃に対する反発として登場し、次第に強化されていった経過を描いた。また2006年クーデタ後は、彼のポピュリズムが大衆デモに直接介入したことにより、反タックシン派のデモ隊や軍隊との衝突が起こり多数の死傷者を出してしまった。同時に政党とデモ隊との間の境界線も曖昧になった。これらにより、民主化を巡る対立軸が複雑化し、最終的に民主主義的統治の原則に対するコンセンサスが失われ、民主化を一時停止させてしまったと結論付けた」。

 第3章「<フィリピン>国家を盗った「義賊」-ドゥテルテの道徳政治」(日下渉)では、「フィリピンのドゥテルテを取り上げた。ドゥテルテは麻薬戦争による多数の死者を出したにもかかわらず、なぜ高い支持率を維持できるのかという問いについて分析を試みた。本章では、インターネットを通じて共有された「都市伝説」により、ドゥテルテが正義を実現する「義賊」として構築されたと論じた。そして実際には、麻薬戦争の犠牲者のほとんどが貧困層であるにもかかわらず、罰せられている者は「不道徳な他者」であり、「善き市民」である自分たちは救われていると考えているため、強権的な麻薬戦争を容認していると指摘した。しかし同時に、ドゥテルテの正統性は合法性に基盤をもたないため、義賊的道徳への信頼が失われれば深刻に損なわれることになるとして、強権的支配が孕む危うさについても指摘した」。

 第4章「<マレーシア>ナジブはなぜ失脚しないのか」(伊賀司)では、「マレーシアのナジブについて分析した。現在ナジブは、国際的な汚職スキャンダルにみまわれている。ナジブの個人口座に、財務省傘下の国営投資会社のワン・マレーシア開発公社(1MDB)の資金7億米ドルが流れたとされる疑惑である。汚職疑惑は国内問題に留まらず、アメリカ司法省を筆頭にシンガポールやスイスなど複数の海外捜査機関が1MDBの捜査を続けている。マレーシアは2018年8月までに次の総選挙が実施される予定である。しかし、大方の政治アナリストや研究者は、ナジブの率いる与党、統一マレー人国民組織(UMNO)およびUMNOを中核政党とする与党連合の国民戦線(BN)の勝利を予想している。なぜナジブの地盤は盤石なのだろうか。本章では、首相に強力な権限を付与する制度と、巧みな野党切り崩し工作から分析を行った」。

 第5章「<インドネシア>庶民派大統領ジョコ・ウィドドの「強権」」(見市建)では、「インドネシアのジョコ・ウィドドについて取り上げた。2014年に大統領に選出されたジョコ・ウィドドは、インドネシアで初めての庶民出身の大統領だといわれる。有権者はこれまでの政治指導者とは異なる「アウトサイダー」による改革に期待したためだと指摘した。しかし、ジョコウィの大統領としての課題は、「アウトサイダー」であるがゆえの脆弱な権力基盤、「強い」リーダーシップとイスラーム的イメージの欠如であった。したがって大統領就任後は、非エリートの「アウトサイダー」としてのリーダーシップを維持しつつ、権力基盤の強化や維持には強権的ともいえる手法も用いられた。その陰で、クリーンな政治や経済的な効率、人権問題の解決は犠牲となってきたという現実について明らかにした」。

 そして、つぎのように結論している。「独裁政権から民主化の時代に移行してもなお、麻薬、汚職、貧困などの問題が解決されなかった。従来の民主化論においては、選挙による政権の選択、人権保障、汚職撲滅は相互に関連して進むだろうと暗に想定されてきた。ところが現実には、選挙の実施は万能薬ではなかった。虐げられ続けてきた同地域の有権者が望んだものは、民主主義的な理想ではなく、強権による問題の解決であった」。

 本書で取りあげられた4カ国は、政治的に問題があるとしても、それぞれ順調に経済発展している。軍事政権下のタイでも年3%台、「中所得国の罠」に捕まったといわれるマレーシア、ともに人口ボーナスがあるとされるインドネシアとフィリピンは5~6%と好調に推移している。1国の政治だけみていたのではわからない時代になったのかもしれない。これら4カ国は1967年の創設のASEANの原加盟国であり、ASEAN域外のグローバルな経済連携にも参加している。地方自治が進んでいる国もある。国内政治をどうみるか、グローバル、リージョナル、ローカルの複眼的な見方が必要になっている。

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2018年04月14日

『紛争化させられる過去-アジアとヨーロッパにおける歴史の政治化』橋本伸也編(岩波書店)

紛争化させられる過去-アジアとヨーロッパにおける歴史の政治化 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 本書は、「現代の国際関係と政治の焦点としての過去の取り扱いのはらむ問題性を、記憶と歴史の政治化と紛争化という視点から多角的に論じようとするものである」。その背景にある時代を、編者の橋本伸也は、つぎのように帯の裏で説明している。「近年のグローバルな政治の場を彩るのは、世界の各所で過去が政治化され紛争化させられる実にさまざまな局面である。・・・・・・もちろん、大量殺戮や人権侵害を生んだ過去に正面から向き合おうとする真摯な努力も多くの国や地域に存在した。そして、先に述べた〔オバマ大統領と安倍首相の広島・真珠湾相互訪問と「慰安婦」をめぐる日韓合意という〕二つの事例はともに、和解と紛争という一見相反する事態が、実は同一次元上にあって複雑に絡み合っていることを、はしなくも明るみに出している。現代は、過去が政治化され紛争化させられる時代なのである」。

 本書のもとになったのは、国際共同研究「東中欧・ロシアにおける歴史と記憶の政治とその紛争」が主催した国際会議「記憶と歴史の政治とその紛争-東西ユーラシアの比較と対話」である。「この会議は、東中欧諸国とロシアを対象に取り組んできた「歴史と記憶の政治とその紛争」という主題をより広域的な文脈のうえに据え直して、東アジアにおける歴史認識をめぐる紛争と、ヨーロッパ東部におけるそれとの対比的、相互連関的に考察することを試みたもので、韓国・ロシア・エストニア・ポーランド・アメリカから招聘した六人の外国人共同研究者と日本の研究者とが二日間にわたって報告と討論を行った」。

 このような政治化・紛争化にたいして、編者はつぎのように歴史研究者の役割を強調する。「かかる状況を眼前にした歴史研究者の役割について思索を重ねることにも力を注いでいる。過去の紛争化はもっぱらポピュリズム政治の領分であって、高度に熟達した専門職者としての歴史研究者間では、専門職倫理に基づく資料に対する誠実な態度が維持されている限りは、そのような不毛な事態に無縁だとの立場もありうるだろう。だが、かりにそうだとしても、みずからの職業的な守備範囲が政治的な抗争の場とされて乱暴に踏み荒らされることは座視できないだろうし、そのこと自体が歴史的な解明を要する同時代史的なできごとでもある。過去との対峙をつうじて現在を批判する視座を獲得し未来を展望する仕事はすぐれて歴史学的なものであるが、過去が紛争化させられる現代世界のあり方は、歴史学の存立基盤とそれに期待される役割についても反省的思考を強く求めるものであろう。いったい歴史学は人びとの歴史意識や記憶のあり方にどのように関与し、いかなる責任を負うのかという問題である」。

 本書は、編者による「はじめに-紛争化させられる過去」、序章、全3部10章と終章からなる。「終章 歴史・記憶紛争の歴史化のために-東アジアとヨーロッパ」は、目次では第Ⅲ部に属しているが、全体のまとめとして捉えることができるだろう。編者同様、終章の執筆者、塩川伸明も、歴史家の役割を重視して、終章をつぎのように結んでいる。「本稿はあまりにも深刻かつ複雑な問題に取り組んでしまったため、明快な結論を出すことはできない。一つだけ言えそうなのは、過去の悲劇的出来事に関する記憶は強烈な感情的リアクションを伴うため、しばしば政治論争の性格を帯びやすいことである。そのこと自体はある意味で不可避なことだが、それが特定の思惑によって動員されるとき、往々にしてナショナリスティックな対抗構図に巻き込まれがちであることには注意を要する。あるネイションまるごと「加害者」だったり「被害者」だったりすることは本来ないはずだが、あたかもそうであるかの如き構図が描かれ、対抗図式が硬直したものになるという事情は、東アジアでも、ヨーロッパ-とりわけロシアとその諸隣国の間-でも共通している。現に悲劇的な過去があった以上、それを忘れ去るべきではないし、できる限り正確に近い像-もちろん完全な「客観的真実」などというものはありえないが、少しでもそれに近づこうと試みるという趣旨である-を復元し、記録していくことは歴史家の重要な課題である。そのような歴史家の作業自体が現実政治の磁場に引きずり込まれる度合いが高まっている今日、どのようにすれば歴史家の任務を果たすことができるのか-これは、この種の問題に関心を寄せるすべての人に共通の難問ではないだろうか」。

 「政治化」ということは、そこに政治家が登場することを意味し、本書はオバマ大統領の広島訪問からはじまる。「第10章 歴史戦争と歴史和解の間で-戦士と調停者の二重性をめぐって」では、執筆者の山室信一はつぎのように述べている。日中・日韓歴史問題のはじまりとされる1980年代に、「約一〇〇人の自民党国会議員による「教科書問題を考える議員連盟」が結成され、「左翼的自虐史観」を克服する教科書編纂運動を政権が支えるという構図が」生まれた。そして、「「元号法制化実現国民会議」を引き継いで一九八一年一〇月に発足した」「日本を守る国民会議」が、「一九九七年五月に神社本庁などの宗教団体が組織していた「日本を守る会」と統合する形で「日本会議」を発足させることになった。「日本会議」は以後、草の根の政治運動を展開して政権政党に浸透し」、「「教科書法」制定問題にも影響を与えている」。

 また、終章では、「責任論」の見出しのもと、つぎのように政治家の責任について追求している。「日本政府は朝鮮半島への植民地支配および関連する非道な行為について何度か遺憾の念を表明してきたが、その言葉があまり信頼されるものとなっていないのは、少なからぬ保守政治家たちがインフォーマルな発言で「あんな謝罪はする必要がなかった。外国からの圧力で不当にさせられたのだ」という「本音」を洩らしてきたからである。一部の政治家たちが繰り返し発してきたこの種の「本音」発言こそは、日韓関係改善の最大の障害となっている。日本の若い世代には、「自分たちが生まれるよりも前のことについて、しかも既に何度も謝罪してきたのに、どうしていつまでも謝罪を要求されるのか」という不満が広がっているが、そのことの最大の責任は、「本音」発言によって表向きの謝罪を台無しにしてきた保守政治家たちにあるというべきだろう」。

 ではなぜ、「洋の東西で、過去の被害の記憶が呼び起こされ、新たな紛争の火種になっている」のか。その答えは、容易に見いだせない。だが、編者の「本書が、現代世界の危機の様相を前にした反省的で批判的な思考を喚起するための一助となることを心から願っている」という思いは、編者が専門とするヨーロッパとは違う見方のできるアジアの「政治化・紛争化」を知ることによって、さらに一歩進めることができるだろう。

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2018年04月10日

『ASEAN共同体-政治安全保障・経済・社会文化-』鈴木早苗編(アジア経済研究所)

ASEAN共同体-政治安全保障・経済・社会文化- →紀伊國屋ウェブストアで購入

 本書は、「2003年にその構築をめざすことが合意され、当初の計画通り、2015年にその設立が宣言された」「「ASEAN共同体」とは何かを紹介し、ASEAN共同体の名のもとになされている協力の実態と課題を分析するものである」。しかし、宣言と同時に、「2025年までの行動計画が示されたことから、2015年は共同体構築に向けたひとつの「通過点」ととらえられる」。ASEAN加盟国は、構築に向けて「具体的にどのような協力を進めようとしてきたのか、またその協力はどの程度進み、残された課題は何なのか。2015年をひとつの節目として、本書の各章はこれらの問いに応えようとするものである」。

 本書は、「序章 ASEAN共同体とは何か?」と全6章からなる。全6章は、ASEAN共同体の3つの柱であるASEAN政治安全保障共同体(APSC)、ASEAN経済共同体(AEC)、ASEAN社会文化共同体(ASCC)において、「それぞれふたつの協力分野あるいは側面から分析を実施している」。各章の要約は、「まえがき」につぎのようにまとめられている。

 「第1章と第2章は、APSCにおいて注目されている分野として、域外国との安全保障協力と人権に関する協力を取り上げている」。「第3章と第4章は、AECでめざされる経済統合について、それぞれ制度面と実質面から分析している」。「第5章と第6章はASCCにおける協力を扱っている。ASCCでは多岐にわたる協力が展開されているが、協力が進展する一方、課題も多く残るとされる環境協力と移民労働者の権利の保護に関する協力を取り上げた」。

 ASEAN共同体の全体像については、「第4章 ASEAN経済共同体の効果」の冒頭で述べられている「三つの誤解」を理解することによって、早わかりできるかもしれない。第4章執筆者の磯野生茂は、つぎのように列挙している。「第一の誤解は、AECが欧州連合(EU)や前身の欧州経済共同体に匹敵する経済統合であるとみなすものである。第二は、2015年12月31日に抜本的な制度変更があったというものである。第三は、AECは自由化のレベルが非常に低く、企業にまったく役に立たない、と結論づけてしまう逆の誤解である」。

 磯野は、それぞれの誤解にたいして、まず第一にたいして、つぎのように説明している。「AECはEUよりも、広義のFTAないし経済連携協定(EPA)に近い。単一通貨、共通域外関税、政府調達、非熟練労働者の移動等、EUでは統合や自由化が行われていても、AECでは扱われていないものが多く存在する。扱われている分野においても、関税撤廃・消費者保護・域外FTAの締結の3項目はAECブループリント(以下、青写真2015)の想定どおりないし想定以上に達成したが、ほかの項目は例外が多く限定的で、EUと比較できるレベルにはない」。「AECを議論するにあたっては、なにがどこまで行われ、なにが行われなかったのかを正確に把握しなければならない」。

 第二については、「2016年以降重大な影響がASEANに及ぶだろう、という誤解も存在する」とし、つぎのように説明している。「AECは青写真2015で定められた施策を段階的に施行してきたものの積み重ねからなり、2015年末に劇的な変化をもって訪れたものではない」。「AECの創設は、継続的・段階的な経済統合プロセスの通過点にすぎない。また、後述する事例のように、AECにかかる効果は2016年以降を待つまでもなく、すでに現出している」。

 第三については、つぎのように説明している。「AECの施策と直接関係のない各国独自の国内措置改革、二国間協力やGMS[大メコン圏]のようなサブリージョンの協力による措置がAECの措置のレベルを上回っていることがあり、AECの各措置がどう実質的な変化につながっているかがみえにくい」。

 このような誤解を生む土壌がASEANにあるにもかかわらず、本書ではさまざまな試みがおこなわれていることが紹介されている。編者は、つぎのように「まえがき」で書いている。「互いの利害が対立する面があるにもかかわらず、また、国際社会全体から見れば小国であるASEAN諸国が協力しようとする姿を示すことができたならば、幸いである」。

 編者は、「序章 ASEAN共同体とは何か?」において、その評価と課題をつぎのようにまとめている。「全体的な評価としては、青写真2015で計画された措置の多くは実行に移されているといってよい。しかしながら、内政不干渉原則との相克や合意の履行・実施能力の低さから、ASEANで合意が成立してもその合意を国内でなかなか履行できないといったことや、新設された制度や締結された条約が形式的なものにとどまり実効性が低いといった問題が生じている」。

 このような問題に対処するためにASEANがなにをしようとしているのか、編者は青写真2015と青写真2025を比べ、つぎの4つの変化をみとめた。「第一に、APSCとAEC、ASCCがめざす世界についてやや後退あるいは抽象的とみられる表現が目立っている。こうした変化は、青写真2015で掲げた目標や計画が大胆すぎたことへの反省があるのかもしれない」。

 「第二に、事務局などの組織の強化が掲げられた。ASEANの合意の国内履行を着実に進めるためには、各国が履行能力を高めるだけでなく、ASEANの組織の履行監視機能などを強化する必要があるとの認識がその背景にあると考えられる」。

 「第三に、人々中心のASEANが強調されている。ただし、「人々」(people)といった場合にどのような人間集団を指すのかについては、青写真2025では具体的には明らかにされていない。ASEAN域内ではNGOやCSO[市民社会団体]がASEAN諸国政府に対して、さまざまな要求をするようになった。こうした要求に対して、政治体制などの国内諸制度が異なるASEAN諸国の政府がどのようにASEANの方針を策定するのか注目される」。

 「第四に、複数の共同体にまたがる協力が存在することがより明確に示された。青写真2015にもそうした分野はあった。移民労働者は、熟練労働者についてAECで、非熟練労働者についてASCCで扱われており、災害管理はASCCとAPSC(の非伝統的安全保障)の両方で扱われている。青写真2025では、人権や環境問題なども実質的にそうした分野の仲間入りをしている。人権は、APSCの組織であるAICHRを中心に取り扱われているが、ASCCでも協力項目として登場した。環境分野は、ASCCだけでなくAECでも重要な協力と位置づけられるようになった。共同体間にまたがるこうした分野において協力を進めるためには、各共同体の垣根を超えた省庁間の連携や調整が必要である」。

 このような変化を認めたうえで、編者はつぎのように「序章」を結んでいる。「青写真2025では、ASEANの組織能力を向上させることや分野間別の政策調整を強化することなどが謳われた。また、人々中心のASEANが強調され、CSOの参画を促すことや人々の生活や安全にとって重要な協力を進めることが謳われた。人々中心のASEANが「絵に描いた餅」に終わるかどうかは、加盟諸国がどの程度、国内制度や国内問題に密接に関わる協力を実質的に進められるかにかかっている」。

 青写真2025のほうが、「後退」「抽象的」になったということは、より現実的になったということだろう。できることとできないこと、したほうがいいこととしないでもいいこと、したほうがいいが無理にしないほうがいいことなど、具体的な事案を想定しながらまとめられたのが青写真2025であるといえるかもしれない。はっきりしていることは紛争を回避し、いまの経済発展に影響を及ぼすようなことは域内ではしない、ということだろう。戦争をしないことの恩恵を、ASEAN加盟国は充分に経験したということができるだろう。

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2018年04月03日

『アセアン統合の衝撃-EUの蹉跌をいかに乗り越えるのか』西村英俊・小林英夫・浦田秀次郎編(ビジネス社)

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 「まちがいなく急成長する巨大経済圏と、日本はどう付き合えばいいのか?」、「この大きな問題への回答を試みることが本書の課題であり、我々の本書執筆の意図でもある」。

 本書は、全5章と「エピローグ アセアンとTPP」からなる。「第1章 アセアンの現況」「第2章 アセアン共同体」で現況と歴史を概観した後、「第3章 アセアンを支える産業~電機産業~」「第4章 アセアンを支える産業~自動車産業~」で2つの具体例をあげて、「第5章 アセアンの将来と施策」で今後を展望する。そして、「エピローグ」でASEANの将来と日本との関係を問うている。残念ながら、アメリカがTPPから離脱したため、「エピローグ」に書かれたものは再考しなければならなくなった。

 現況については、つぎの第1章の14の見出しを列挙すれば、おおよその見当がつく。「GDPが急成長するアセアン」「若者が主力を占めるアセアン」「増加する都市中間層」「湧き上がる多様性」「シンガポールとバンコクの機能分化」「上昇する最低賃金」「アセアン各国・中国・インドの製造業賃金」「アセアンのショッピング・モール」「買いたいブランド製品は何か?」「アセアンのバイク売り場で」「ホンダのアセアンでの歩み」「アセアンの自動車売り場で<タイ、インドネシア、マレーシア>」「アセアンの自動車売り場で<フィリピン、ベトナム、ラオス、カンボジア、ミャンマー>」「交通渋滞とインフラの未整備」。

 アセアン経済共同体の成立で、なにがどう変わるのか、関税撤廃のようなこと以外、よくわからない。とくに生産がどうなるのか、まったくわからなかった。本書では、つぎのように説明している。「アセアン内で最適の工程間分業が完成した暁には、製品があたかも一つの工場で完成したかのようになる。つまりそれぞれの工程ブロックの連結のインターフェイスが透明化され、優れたインプットを受け入れそれに付加価値をつけ、優れたアウトプットを次の工程につなげていくことが当たり前になる。そして、その工程の存する場所における個々の比較優位を議論することは、あまり重要ではなくなる」。

 そのアセアン経済共同体の成功のためには、アセアン共同体を構成するほかの2つの共同体(「政治安全保障共同体」と「文化社会共同体」)が扱う「平和の維持とアセアン帰属意識の強化が大切である」。「特に、国内の伝統的な制度の根幹に触れるような改革を実現するためには、アセアンという地域の発展を自らの発展として認識し、共感する帰属意識のようなものが欠かせない」という。

 そして、「エピローグ」をつぎの文章で締めくくっている。「日本が、アジアの小国であったがゆえに「アジアはひとつ」という天心の言葉は力を持ったが、いまや大国である日本、中国、インドなどの国が、このような表現を使うことは難しい。唯一アセアンこそが、この半世紀の努力によりアセアンセントラリティという考えを主張することが、大国により認められている。それゆえに、天心の思いに対して「アジアはひとつ、Responsiveアセアンによって」と主張したい」。

 アセアンのどこの国の都市に行っても、冷房の効いたショッピングモールがあり、交通渋滞に悩まされる。ショッピングモールにやってくる車のための交通整備をしないから、ショッピングモールは新たな交通渋滞の原因になる。すでに「中所得国の罠」につかまっているマレーシアではバイクはあまりみられず、ベトナムやインドネシアのバイクはすさまじく恐怖さえ感じる。バイクは陸橋をも駆け上がる。交通渋滞によるロスは、「まちがいなく急成長する」アセアンの大きな不安材料だ。換言すれば、このロスを少なくする国が一歩抜け出し、「中所得国の罠」にもつかまらず急成長を持続できるかもしれない。香港や台湾のように、地下鉄に日本の半額以下で乗ることができ、殺人的なラッシュもなければ、ビジネスにも観光にも便利になるのだが・・・。

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