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2017年11月28日

『歴史を学ぶ人々のために-現在をどう生きるか』東京歴史科学研究会編(岩波書店)

歴史を学ぶ人々のために-現在をどう生きるか →紀伊國屋ウェブストアで購入

 関心のあるテーマであっても、すぐに執筆に結びつかない大部の研究書を読むことはなく、後まわしにして結局読まずじまいになることがよくある。「はじめに」と「あとがき」を読む「キセル読み」だけはしておきたいのだが、それもしないままのことがあり、内容の概略さえわからず、後でもっと早く読めばよかったと後悔することがある。そんなとき、本書のような本に巡りあうことによって、「いま」読んでおくべきテーマの本を優先的に読むきっかけになる。

 本書は、「現在をどう生きるか」を「現在の視点に立って、歴史から何を学ぶのかを考える学問」である歴史学から「読者のみなさんへの問いかけだけでなく、私たち自身[東京歴史科学研究会]への問いかけでもある」。もうすこし具体的に、「刊行にあたって」で、つぎのように説明している。「本書には、それぞれの執筆者が、歴史を学ぶとはどういうことか、歴史を学ぶことにどういう意味があるのか、という問いと正面から向き合った論考が収められています。現代社会はさまざまな困難や課題を抱えています。歴史を学ぶことを通して、どのように社会を変えていくためのヒントを得ることができるのでしょうか。また、歴史を学ぶ人々は、いかなる実践を行っていくことができるのでしょうか。本書では、歴史を学ぶことを通して、社会を批判的に考察する視点を鍛え、新しい社会を展望する方法について、各執筆者がそれぞれの問題意識や研究・実践を報告しています」。

 本書は、「刊行にあたって」「現在(いま)『歴史を学ぶ人々のために』を出版するということ」の後、3部全15章からなる。「現在(いま)『歴史を学ぶ人々のために』を出版するということ」は、つぎのパラグラフで終えている。「今回の『歴史を学ぶ人々のために』には、「戦後歴史学」を担ってきた東歴研の「現代社会におけるさまざまな問題に関心を払いつつ、歴史を学び考える」という伝統的スタンスが生きていると同時に、「現代歴史学」のまっただ中にいるわたしたちの新しい試みも盛り込んであります。各論の構成は時代別(時代順)ではなく、「Ⅰ〝今ここにある危機〟に切り込む」「Ⅱマイノリティ・地域からの視座」「Ⅲ社会史・文化史を問う」という、テーマ性を重視したものにしました。目次を見ていただければ、政治史・制度史中心ではなく、また旧態依然とした教科書的なテーマとも異なっていることが分かると思います。ぜひ、すべての論文を読んでいただき、〝歴史学の現在(いま)〟に触れていただければと思います」。

 本書は、1967年に創立した東京歴史科学研究会(東歴研)の50周年にあたって、1970年、77年、88年の3回にわたって刊行した『歴史を学ぶ人々のために』(三省堂、第1-3集)を復活させたものである。復活させた理由は、「あとがき」でつぎのように説明している。「一九九〇-二〇〇〇年代にかけての歴史学の「危機」をくぐり抜けた現在だからこそ、新鮮な印象をもって読者に受け入れられるのではないか、私たちはそう考えました。戦後の歴史学が積み重ねてきた貴重な功績の一つは、時代と向き合う研究者個々人の「熱量」であったように思います。そうした研究者それぞれの「熱量」を感じることができる入門書を目指したのが本書ですが、それが感じられたかどうかは、実際にこの本を手に取ったみなさんにご判断いただきたいと思います」。

 その読者ということでは、すこし心配がある。「刊行にあたって」で「社会を変えていく」、「社会を批判的に考察する視点を鍛え、新しい社会を展望する」とあるが、右傾化が著しくなってきたといわれる学生たちにとっては、変える必要のないいまの社会を批判的に見る必要がないということになる。まずは、「社会を変えていく」必要性を説くことからはじめなければならない。やさしく性格のいい学生に、現状に満足することなく「社会を変えていく」気概をもつことで、社会を活性化させ、自分自身を鍛え成長させることができることを、本書を通じてわかってもらうことができるのだが、本書執筆者それぞれの「熱量」を感じとってくれるかどうか、いささか心配である。

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2017年11月21日

『境域の人類学:八重山・対馬にみる「越境」』上水流久彦・村上和弘・西村一之編(風響社)

境域の人類学:八重山・対馬にみる「越境」 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 「本書は沖縄県先島(宮古島市、多良間村、石垣市、竹富町、与那国町からなる)と台湾東部、長崎県対馬と韓国(主に釜山)という境域で、国家と駆け引きをしながら生きる人々の姿と国家の力が境域に果たす意味を探るものである」。

 まず、キーワードの「境域」を理解しなければならない。「はじめに」で、つぎのように説明している。「「周辺」とはある単一の地理的、政治的、経済的、文化的領域の端でしかなく、その領域の「中心」との関係のみで位置づけられる。それに対して、境域は相互に隣接する存在があり、それとの接触によって、自ら属する領域の「中心」に対する「周辺」とは異なるありようが生まれることを意味している」。

 本書では、ふたつの問題意識をあげている。ひとつは、「「空間」と「場所」が緊張する境域」である。本書でとりあげたふたつの境域は、「前近代、植民地期、終戦直後とある程度自由な往来があった。特に植民地期の往来は境域を人々の生活の場にした。だが、その場は戦後の国境の再設定によって分断された。このようなあり方を分析するにあたり、空間(space)と場所(place)という枠組みから整理」した結果、つぎのようにまとめられた。「本書が扱う領域とは、異なる集団の人々が生活の場として共有しただけに、「空間と場所の緊張」という観点からみた場合、単一の国民国家内の論理には回収されない緊張が国民国家の内側に存在する地域よりも一層生まれやすい特殊な場である。本書では植民地主義のもと不均衡な関係に組み込まれた人々が、戦後国際政治のもと国家の論理で分断され、また関係を再び結び合う様相を描く。そこに生きる人々の視点からの描写は「空間と場所の緊張」の議論において、新たな貢献をなすだろう」。

 もうひとつの問題意識は、移動する人々に着目した「境域にみるトランスナショナリズム」で、本書では3つの点から論じている。「一つ目は国境などの境界を行き来する現象が実際に存在したことである」。「対馬では「島は島なりの」という国家の論理とは異なる生き方、考え方を生み、先島では特に石垣や与那国では、台湾を同じ生活圏にあった地域と認識する思考を生み出した。このように境界を越える試みや過去は境域の現在に息づいている。したがって当時の境界を越える試みの「その後」を考えることがこの境域では可能となる」。

 「二つ目は、越境していた過去こそが、二つの境域において現在の国境を越え、行き交う中心地としての自己のイメージを創造し、そのイメージを実現する行為や試みにつながっていることである。頻繁に国境を越えてビジネスを行う人々はこの境域に少ない。だが、本書が対象とする地域では、行き交う中心地(経由地)となることで、「周辺」からの脱却を試みている」。

 三つ目の理由は、つぎのように説明している。「東アジアという近接し、密接な間柄にある中で、日本、台湾、韓国間の関係は有機的な連関をもちながら変動する。その連動のなかで、長期的に二つの境域の境界を越える試みを分析することは、トランスナショナリズムの議論においても有益な事例研究となろう」。

 本書は、はじめに、3部(実践、自/他認識、歴史認識)、各部3章ずつの全9章、各部の最後にそれぞれひとつずつの「コラム」、あとがきと附録「韓国人観光客アンケート調査報告書」「クルーズ船台湾人観光客アンケート調査報告書」からなる。

 「はじめに」の最後に境域研究の4つの課題についてまとめている。一つ目は、「隣接の陥穽である。実は身近に存在することが相手を「知っている」という誤解を生み出している。釜山の対馬理解も、対馬の釜山理解も、さらには先島の台湾理解も、台湾東部の先島理解も、当然と言えば当然であるが、実は現地の状況を正しく反映してはいない。「中心」よりも相手のことがわかるという近接性と交流の歴史に基づく考えは単なる思いこみでしかなかった」。

 「二つ目は「周辺」の独自性の強みという陥穽である。台湾東部の漁民にしても、八重山の台湾理解にしても、地域独自の視点は大きく国民国家の制度やその「中心」に影響を受けていた。日本の「周辺」としての自己認識は、自らが国家体制の一部であることを自覚するが故に一層、国民国家の価値観を内面化するものでもあった」。

 「三点目は交流した経験が持つ陥穽である」。「少なくとも過去の交流は現在の互いの理解を十分にするものではなかった。相互に行き来するきっかけになるものの、むしろその過去は現在の交流の状況に応じて切り取られるものであった。時には交流している双方で取り上げられる過去さえ異なった」。

 「四点目が「地域で」思考する陥穽である。地域住民は自らが国家の一部であると認識しつつも、地域の価値観で相手先との交流や交易を行っていたと考えていた。だが、実際はそうではなく、国民国家の価値観のみならず、国家と国家との関係によって、地域の価値観そのものが左右されていた」。

 そして、つぎのパラグラフで、「はじめに」を終えている。「現在、グローバリゼーションの時代と言われ、人やモノ、資本が国境を越えて自由に行き来すると言われている。そのようななかで、本書が取り上げる地域のように、地域と地域が直接、国家の中央や主要な都市を経由することなく結びつく時代がきている。このことに鑑みれば、境域という場の問題は今後、ますます重要なものになってくると思われる。本書がそのような境域研究の基本的な問題提起や資料になれば幸いである」。

 近代の境域は、国民国家が成立し国境を明確にした19世紀後半に生まれたものが多い。それまではどこの国にも属さなかったり、複数の国に属したりしていた。本書で取りあげられたふたつの境域も、日本と朝鮮あるいは日本と清国に両属していた地域である。朝鮮は清国に属していたし、琉球は幕藩体制下の薩摩藩に属していたから、関係はより複雑だ。東南アジアの前近代の弱小王国のなかには、複数の国に朝貢し、朝貢先の王国がさらにより強力な王国に朝貢する場合もあった。近代国民国家として中央集権体制をとることによって、中央と周辺の関係ができ、周辺は中央によって「植民地化」されたりした。近代日本も、まず沖縄と北海道を「植民地」にした。だが、もともと国境などなかった境域を、国境線で縛ることはできず、中央の力がすこし緩めば、ヒトもモノも行き交った。本書で語られていることも、国家権力が充分に及ばなかった日本の敗戦後と、グローバル化のなかで閉鎖的な近代国民国家がボーダレス化を図り、周辺が外への窓口ゲートウエイになった近年のことである。ヒトもモノも最終目的地がはっきりしなくなったきた今日、いずれ境域もなくなるかもしれない。その意味で、ふたつの事例を並行して議論したことの意義は大きい。いつどのようなかたちでなくなるのか、興味深い。

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2017年11月14日

『平成の天皇制とは何か 制度と個人のはざまで』吉田裕・瀬畑源・河西秀哉編(岩波書店)

平成の天皇制とは何か 制度と個人のはざまで →紀伊國屋ウェブストアで購入

 2016年8月8日、天皇は「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」で退位の意思を国民に伝え、日本国憲法で「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とされていることから、「国民の理解を得られることを、切に願っています」と結んだ。天皇は、「憲法制定過程において明確な定義を与えられなかった「象徴」のあり方」を問いつづけ、たどりついた先が「平成流」だった。本書のキーワードは、「象徴」と「平成流」だ。

 本書は、はじめに「象徴天皇制とは何か-制度と個人のはざまで」、3部、全9章、<座談会>「「平成」の終焉と天皇制の行方」からなる。Ⅰ部「明仁天皇と美智子皇后-思想と行動」は、2章「明仁天皇論-近代君主制と「伝統」の融合」「美智子皇后論-そのイメージと思想・行動」からなる。Ⅰ部では、「皇太子・皇太子妃時代から「象徴」の内実を問い、そのあり方を自ら模索した。そして、「象徴」としての天皇像を作りあげようとする。彼らは何を思い、どのように行動した」かを述べる。

 Ⅱ部「「平成流」とは何か-新しい天皇制の模索と定着」は、4章「柔らかな「統合」の形-公的行為の拡大と弱者へのまなざし」「「皇室外交」とは何か-「象徴」と「元首」」「「平成流」平和主義の歴史的・政治的文脈」「宮中祭祀と「平成流」-「おことば」とそれに映る天皇像」からなる。「Ⅱ部の各論文では、それぞれのテーマにそって「平成流」を分析し、平成の天皇制を総体的に考える手がかりとする」ために、「即位後も明仁天皇・美智子皇后はそれまでの「象徴」としての模索を続け、それが「平成流」としてマスメディアで大きく取りあげられるようになり、人々にも印象づけられるようになった」過程を追った。そして、「天皇による「象徴」としての模索とは具体的にどのようなもの」か、「「平成流」と大枠でイメージされるものを詳細に分析」し、「それぞれのもつ意味を理解」していった。

 Ⅲ部「社会の中の天皇制 制度の中の天皇制」は、3章「メディア天皇制論-「物語」としての皇室報道」「近年の天皇論議の歪みと皇室典範の再検討」「「象徴」とは何か-憲法学の観点から」からなり、「戦後日本のなかでの象徴天皇制の意味を、マスメディアや憲法学・法律学から考える」。

 そして、本書の目的を、つぎのようにまとめている。「象徴天皇制がいかに制度として運用され現在に至っているのか、またその内実を模索し続けてきた天皇や皇后個人の思想や行動に注目し、平成の天皇制とは何かを明らかにしていく。それぞれの論文によって、象徴天皇制が現代の日本社会に持つ意味が浮かびあがるだろう」。

 そして、「はじめに」をつぎのパラグラフで終えている。「現在、明仁天皇と美智子皇后の人格と、「平成流」の天皇制が人々の支持を得ている。だからこそ、天皇の「お気持ち」表明後、退位を支持する声が大きいのだろう。しかし一方で、天皇や皇后、そして「平成流」への批判は表明しづらい空気が広がってはいないだろうか(マスメディアを見れば、むしろ称揚する雰囲気に満ちている)。それは、象徴天皇制に対して私たちが正面から向き合うことを避けていることに起因するようにも思われる。象徴天皇制を問うことについて、私たちは思考停止しているのではないだろうか。しかしそれでは、「象徴」について議論を重ねずに、退位を前提とした技術論に終始した政府の有識者会議と何ら変わりない。本書はそうした現状に対し、今後の象徴天皇制を考える手がかり、またそもそも日本社会にとっての天皇制とは何なのかを考える議論のたたき台となるような論考を収録している。それぞれの論文では見解の相違もあるが、その違いを越えて、本書をきっかけに、象徴天皇制に関する議論が進展することを期待したい」。

 天皇制を原発と似ていると言ったら、まずいだろうか。原発のいい点を述べれば、その必要性に納得するだろう。しかし、事故が起こるリスクを考えたら、すべてのいい点をいくらあげても、次元の違う話だということがわかるだろう。天皇制も、戦争を天皇の名においておこなったことを考えると、そのリスクもまた次元の違う話になる。だからこそ、戦争の後始末が天皇制の存続にとって最重要課題のひとつであるとの認識が、戦争の責任を背負って生まれた現天皇にはあるのだろう。国民は、そのリスクを感じながらも、原発事故と同様に自分が生きているあいだには起こらないことを自分自身に言い聞かせ納得させて、数々のいい点だけを享受しようとしている。天皇制や原発事故にたいするリスクは、大津波や火山の爆発のような自然災害ではなく、確実に人間の手で回避することができる。まずは、「思考停止」している原因を探り、「思考停止」から解放されなければならないだろう。

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2017年11月07日

『知られざる皇室外交』西川恵(角川新書)

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 2017年10月30日の「朝日新聞」朝刊1面に、数年前に天皇は1992年の中国訪問を「よかった」と振り返っていたことを明らかにした記事が掲載された。禁じられているはずの天皇の政治的利用のもっとも悪しき例として批判されることもあることを、天皇自身が「よかった」という感想をもっていたのである。

 本書で著者が何度も繰り返して述べてきたことを、「おわりに」の冒頭でつぎのように念押ししている。「皇室外交という言葉に、宮内庁は「皇室には外交はありません」と言うだろう。確かに天皇は政治には関わらない。しかし本文でも触れたが、日本の国益や、政治、外交の脈略からまったく遊離した両陛下の外国訪問はあり得ないし、外国の賓客を日本に迎えた場合も、皇室と政府は巧みな補完関係と役割分担でもって賓客をもてなす」。

 「はじめに」で、著者、西川恵は日本と外国の報道の違いを、つぎのように説明している。「日本では、天皇、皇后の外国訪問は政治や外交とは無関係の国際親善であると説明される。日本のメディアも、両陛下の誠実なお人柄がいかに訪問国の人びとを魅了したか、感銘を与えたか、という〝お人柄報道〟に多くを割く」。「日本では両陛下の外国訪問や、外国の賓客を迎えた宮中晩餐会の話は、新聞の社会面に掲載される。しかし外国では政治面で扱われる。この一事に、皇室外交をどういう文脈で見ているか、日本と外国の違いが如実に表れている」。

 本書の目的は、つぎのようにまとめられている。「断片的にしか伝えられない皇室外交だが、足を踏み入れるとそこには人間味溢れる感情の交流とやり取りがあり、彩り豊かな人間模様が広がっている。またそういうものが国と国の関係や、国際社会を動かしているのも、これまた事実なのである」。「皇室外交とは何なのか、またそれが果たしてきた役割を知ってもらうために、これからその深層に分け入って行きたいと思う」。

 本書は、はじめに、全7章、おわりに、からなる。第1章「宮中晩餐会では「だれに対しても最高のものを」がルール」で、「フランス料理にフランスワインを正餐と位置づける宮内庁」の「ルール」が語られた後、第2~5章でヨーロッパでの「国際親善」の逸話が語られている。第2章「昭和と平成、皇室2代にわたるミッテランとの友好」、第4章「美智子妃とヴァレリーさんの頬ずり フランス3代の大統領と皇室」でフランス大統領との「お人柄」交流が語られているが、第3章と第5章は第6章へと続く内容になっている。

 第3章「皇室外交の要としてのおことば オランダの反日感情を融和した両陛下」、第5章「英王室と皇室の長く深い縁 戦中、戦後の怨讐を超えて」で、戦後「皇室外交」の目的のひとつが、戦争で敵国となった国ぐにの反日感情を和らげることにあることがわかる。その延長線上として、第6章「終わりなき「慰霊の旅」 サイパン、パラオ、フィリピン」があると考えることができる。著者は、第6章の最後の見出し「慰霊の旅はなぜ続くのか」にたいして、つぎのように答えている。「天皇、皇后の慰霊が、往々にして政治や外交的な儀礼を超えた哲学や宗教の次元にあるように思えるのは、自らもその責めを生涯引き受けるというその姿勢からではないか」。また、別のところで、つぎのように説明している。「天皇は父・昭和天皇の名前で始められた戦争の責任の重荷を生まれながらに背負い、戦争によってこじれた関係を生涯かけて立て直そうと献身しておられる」。

 最後の章、第7章「国際政治に寄せる両陛下の関心 歌に込められたその思い」では、「なぜ国際政治への関心が高い?」にたいして、「そこには日本の国益への考慮、政治・外交的計算が入っている」からであると、著者は答えている。ということは、われわれ国民は、「お人柄報道」に惑わされることなく、皇室の言動に注意を払い、「国益」との関係を考えなければならないということになる。

 そして、「おわりに」には、つぎのような特徴があると述べている。「大統領や首相らの首脳外交はもちろん、欧州各国の王室が繰り広げる王室外交とも違う。パフォーマンスもハッタリもなく、あるのは天皇、皇后の人間力とでも言うべきものだが、その静かで、ジワリと影響力を浸透させる皇室外交に、日本では語られない新しい側面を見出した」。「パフォーマンスもハッタリもなく」と書かれているが、本書で充分天皇の「パフォーマンス」を楽しむことができたような気がした。

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