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2017年09月26日

『人民元の興亡-毛沢東・鄧小平・習近平が見た夢』吉岡桂子(小学館)

人民元の興亡-毛沢東・鄧小平・習近平が見た夢 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 I 通貨と権力
  私の肖像は使ってはならない。私に、その資格はない-毛沢東
 Ⅱ 「¥」をめぐって
  国内に外国の通貨が流通することくらい、通貨政策の邪魔になることはない-高橋是清
 Ⅲ 良貨か、悪貨か
  石をさわりながら川を渡ろう-鄧小平
 Ⅳ 危機と競争
  百の棺桶を用意しろ。一つは私のものだ-朱鎔基
 Ⅴ サークルズ、それは圓の仲間たち
  経済交渉は、安全保障のような二元論的な敵味方で割り切れない-黒田東彦
 Ⅵ 通貨の番人
  我々中国が実行するというのですから、どうかわたしを信じてください-周小川
 Ⅶ 覇権
  中国という獅子は目を覚ました-習近平
 エピローグ 顔のない通貨
  ビットコインは、国家を、文化を、言葉を超えていく-ボビー・リー

 本書は、「序 瓜を割られる恐怖」、全7章、エピローグからなる。各章とエピローグの扉には、上記のような「名言」が添えられている。「序」では、「中国の通貨の種類は一時、千を超えたとも言われている」ように「ばらばら」だった中国の通貨が、1948年に誕生した人民元に統一されるまでの「雑種幣制」と揶揄された中国の通貨制度の歴史がまとめられている。

 「各地に混在した貨幣や軍票を銃口で消し去った」後に残った人民元は、いまや「世界経済の主役に躍り出た」。本書の後半になると、日本の将来に危機感を懐く人がいるかもしれない、つぎのような記述がつづく。そのなかには、日本が「経済大国」と呼ばれた時代の「傲慢さ」がみえ、そこから「脇役」としてこれからどう演じなければならないかがみえてくる。

 「交渉を始めた当初は日本の半分弱だった中国の経済規模は、[二〇]〇八年でほぼ同額に並んだ。購買力平価でみると日本はいつのまにか中国の半分、外貨準備高も半分になった。時を追うにつれ、中国は強気になっていく。しかし、日本はIMFや世銀でも日本の出資額が大きいことやこれまで協力を主導してきた実績などから、[発言権が高まる拠出額比率を]譲らなかった」。

 「日本にとってアジアは日本のかわいい弟分である、という『上から目線』であり、対等には見えていなかった。中国は悠久の歴史を持つ大国ですが、通貨の世界では存在感に乏しかった。この意識は中国が力をつけた今、果たしてどこまで転換できているだろうか。欧米人の方がもっと自然に、かつ打算的に見ているように感じますね」。

 そんななかで、日本がやってはいけないこと、つまり国益を失うだけではすまないことが、つぎの文章からみえてくる。「中国は、日本を相手にした閣僚以上が向き合う会議は、尖閣諸島の領有権や歴史認識をめぐる対立が激化すると、ぶち切る。「日中ハイレベル経済対話」は二〇一〇年の夏を最後に途切れたままである」。「領土や歴史問題をめぐって日韓関係が悪化し、日韓のあいだの通貨スワップ協定は二〇一五年に期限切れで消滅したままである」。「さらに付け加えるなら、日本と中国の間でも関係の悪化で一三年秋に期限切れで終了している」。「資金繰りに行き詰まった国に対してドルを融通しあう「通貨スワップ協定」」を、財政赤字がいっこうに減らない日本こそ、いつ必要になるかわからない。

 「日本にも米国にも、そして中国にも助けてくれる力を持つ相手には『ありがとう』と言う」「かわいい弟分」だった「アジアの国々の外交」の「巧み」さを、日本は欧米人の「打算」とともに学ぶ時代になった。

 「エピローグ」は、つぎのことばで終わっている。「人民元の動きから目が離せない。それは、経済や政治、外交のみならず、中国の人々の生き様や社会のあり方、国家との距離、そして世界との接点の移ろいを解き明かすかぎになりうると思うからだ」。

 「経済大国」時代を知らない日本人が、このことばをどう受けとめ、アジアのなかの日本、そして世界のなかの日本をどう考えることができるようになるのか。「経済大国」時代を知る世代の責務が、そこにある。

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2017年09月19日

『靖国神社-「殉国」と「平和」をめぐる戦後史』赤澤史朗(岩波現代文庫)

靖国神社-「殉国」と「平和」をめぐる戦後史 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 「本書は二〇〇五年七月、岩波書店より刊行された」とあるが、主題の「靖国神社」は同じでも、副題は「せめぎあう<戦没者追悼>のゆくえ」から「「殉国」と「平和」をめぐる戦後史」に変わった。著者、赤澤史朗は「「旧版」と現代文庫版とが、その副題の違いで識別できるようになる」が、「一二年を経た今日でも」「靖国神社問題の根幹は変わらない」ことを、つぎのように述べている。「本書でも多様な目的・形態での「慰霊」追悼が競合する中に、靖国神社の「慰霊」追悼もその一つとしてある、という筆者の基本的認識の枠組みは変わらない。そして戦後初期には、「殉国」と「平和」の二つがともに戦没者「慰霊」追悼のシンボルとして機能していた時代もあったが、やがて「殉国」と「平和」が分離して対立的なシンボルへと変わっていったという、旧版で示した認識も変化していない」。

 しかし、この間、「重要な新資料が公開され、筆者自身の研究が進んでその考えも多少変わってきている点がある」こと、「現在靖国問題がますます硬直化した歴史認識の争いとなっている状況」から、「一部の改訂をおこなった」と記している。

 現代文庫版には、西村明の「解説 分断と二分法を超える構想力」が加わった。解説者は、「赤澤史朗の仕事に学ぶ」のなかで、「一〇年以上前に刊行された本書が全く色あせておらず、さらに情報が増補されることでますます今日的意義の大きな作品であると感じさせる」理由を、つぎのように説明している。「一つには『思想動員』[赤澤史朗『近代日本の思想動員と宗教統制』(校倉書房、1985年)]以来の近現代日本社会の問題点を見つめ続け応答してきた赤澤の思想史研究者としての真摯な姿勢によるのだろうが、同時にまた、昨今の右傾化が指摘される社会情勢と、戦前の治安維持法を容易に想起させる「組織的犯罪処罰法改正案」(いわゆる共謀罪法案)がテロとの戦いという大義名分のもとで十分な議論も尽くされずに国会を通過した現時点(二〇一七年六月)にただよう、生きづらさの実感や抑圧的社会が到来する予感からも来ているだろう」。

 ただし、読み直しの注意点を、つぎのように挙げている。「今回の右傾化が一見戦時期や戦後の靖国国家護持法案推進の流れに棹さしているように見えながら、ただそれだけではないということである。たとえば「ネトウヨ(インターネット空間上の右翼)という表現に端的に示されているように、それは二〇一〇年代の科学技術的・社会的文脈を踏まえたうえで生じたきわめて今日的な現象でもある。したがって、単純に従来の右翼・保守思想の延長でそれを理解するならば、事態をとらえそこなう可能性がある」。

 そして、つぎのような文章で「解説」を終えている。「戦後の靖国神社に「平和」へのベクトルも存在したように、右か左か、敵か味方かといった単純な二分法・先入観で状況を切り分けることがますます難しい段階に来ている。先入観でもって安易な二分法を適用せず、世代を超えた時間的射程で、明治期の創建から戦後の宗教法人化、そして日本国憲法の政教分離原則を踏まえた是非をめぐる状況を整理してみせる、赤澤の粘り強い資料の読みは、そうしたポスト世俗社会における靖国神社と社会の今後のあり方を考える上でも、たいへん示唆に富む構想力をわれわれにもたらしてくれるはずである」。

 時事問題を扱いながら、12年経っても色あせない本はすごいと思うと同時に、状況が好転していないことにやるせなさを感じる。本書を読めば、問題の所在ははっきりし、解決方法も見つけることができる。しかし、それを拒む数々の要因にも気づかせられる。政治問題化、国際問題化して後戻りができなくなったものには、正論が通用しなくなる。それでも研究者は、正論を吐きつづけなければならない。本書が大幅に改訂できなかったことで、事態の深刻さがより深まったということができるだろう。

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2017年09月12日

『入門 東南アジア近現代史』岩崎育夫(講談社現代新書)

入門 東南アジア近現代史 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 このような概説書を読むとき、まず著者の経歴をみる。概説だからといって、なんでもかんでも書いているわけではないし、紙幅の関係で書けるわけがなく、当然、著者が重要だと思うこと、関心が深いことに限定して書くことになる。学ぶ視点から著者目線で読むためには、著者自身を知ることからはじめなければならない。

 幸い、本書には著者略歴といった素っ気ないものだけでなく、著者が「あとがき」のはじめに、つぎのような自己紹介をしてくれている。「筆者のアジア研究はシンガポールからはじまり、その後、関心が東南アジアやアジアにも広がったものである。前の職場のアジア経済研究所で一九九〇年代に、先輩や同僚研究者と一緒に、東南アジア諸国やアジア諸国の政党政治、開発体制、官僚制、民主主義、市民社会、華人企業、ガバナンスなどをテーマにした研究会に参加する機会があり、東南アジアについて勉強するよい機会となった。その後も、ひきつづき自分なりに勉強したが、政治が中心だったし、断片的知識を得たにとどまり、東南アジアについて一つの全体的なイメージを持つには至らなかった」。本書の「執筆では、アジア経済研究所時代の共同研究の成果、それに、一九九九年からの新しい職場、拓殖大学の国際学部や大学院で担当した授業の一つ、東南アジア講義のために作成したレジュメを基礎にし、地域機構ASEANや東南アジアの最新の動きなどを調べて、何とか書き上げた」。

 著者は、序章「東南アジアの土着国家」で、東南アジア社会の特徴をつぎのようにまとめている。「東南アジアはいくつもの中・小規模社会に分節していることが特徴の一つであり」、「東南アジア各地で自生的、自律的に土着国家が誕生したとはいえ、外部世界の高度な思想体系を持った宗教文化や政治システムが伝わると、それを受容する受け手の地域だったのである。極端な言い方をすれば」、「ASEANを通じて東南アジアが自らの存在をアジアや世界に発信するようになるまで、これが、東南アジアと他の地域との関係の基調だったのである」。

 欧米の植民地となった東南アジアは、独立にさいしてつぎのような特徴があった。「重要なのは」、「マレーシアとミャンマーの独立指導者が、植民地化前の単一民族型社会ではなく、植民地時代にできあがった多民族型社会を現代国家の単位や領域にしたことである。これを一因に、多くの国で独立後、分離独立運動や民族紛争が発生する」。

 その東南アジア諸国が、ASEANとしてのまとまりをみせたのは、つぎのような理由があったからである。「一九七五年にアメリカがベトナムから撤退して、インドシナ三ヵ国で社会主義国が誕生すると、ASEAN加盟国、とりわけタイが安全保障が脅かされるとの危機意識を持った。しかし、ベトナムに軍事的に対抗するのではなく、経済開発を進めて経済社会を強化することが、共産主義勢力に対する最大の対抗策であると考え、五ヵ国が協力して経済開発を進めることにした」。

 しかし、政府資金にも民間資金にも欠けていた東南アジア諸国は、「先進国の政府開発援助(ODA)、世界銀行や商業銀行などからの借り入れ、それに、民間直接投資の三つを開発資金とした」。「一九六〇年代末になると、国内市場が小さく輸入代替型開発が適さないアジアの韓国、台湾、香港、シンガポールの四ヵ国・地域が、他の発展途上国に先駆けて輸出指向型に転換し、一九七〇年代末に目覚ましい経済成長を遂げた。これを受けて、それまで輸入代替型を採用していた東南アジアの自由主義国(インドネシア、タイ、マレーシア、フィリピン)も、一九八〇年代に輸出指向型に転換したのである」。そのようななかで、東南アジア諸国の経済開発に、大きな役割を果たしたのが日本で、「一九七〇年代にはじまった政府開発援助、一九八〇年代に本格化した民間直接投資」が増加した。

 そして、「東南アジア諸国が、アジアや世界のなかで生き残り発展するために」、つぎのことが大前提となる、と著者は述べている。「地域諸国が多様であることを認め、各国の固有性を維持しながら、結束することである。言ってみれば、東南アジアが多様性、ASEANが統一(協調)のシンボルなのである」。

 そして、最後に「東南アジアを学ぶということ」の意味を2つ指摘している。「一つは、世界の国々の政治や経済や社会が多様な有り様がわかることである。一例を挙げると、現在、世界の政治は民主主義がグローバル・スタンダードになっており」、「東南アジア諸国も民主主義体制の創出と安定化に苦闘している。しかし、民主主義と言ってもそれは、世界のすべての国で同じ内容のものとして理解されているのではなく、「タイ式民主主義」が語るように、東南アジア諸国は自国の歴史文化と整合する民主主義を唱えている。東南アジアをみると、民主主義の中味や有り様が国によって「多様」であることがわかるのである」。

 「もう一つは、世界の中規模国や小国の「こころ」がわかることである。現在、アジアを動かしている大国が中国、インド、日本であること、そして、世界を動かしている大国がアメリカやロシア、フランスやイギリスやドイツなどヨーロッパの国であることに異論はないと思われる」。しかし、「国の数でいえば、大国よりも、中規模国や小国のほうがはるかに多い。東南アジアもその一つの地域であることから、東南アジアをみることは、中規模国や小国が世界をどのようにみているのか、自国がどのようになりたいと考えているのか、その「こころ」を知るよい手掛かりを与えてくれるのである」。

 著者は、「あとがき」で、つぎのように述べている。「東南アジアが歴史文化、民族、宗教、政治や経済などの点できわめて多様な地域であることは、頭の中で理解していたつもりだったが、あらためて、東南アジアが多様な国からなる地域であることを再認識した。と同時に、このようなバラバラな地域諸国がまとまるために、地域機構ASEANを創ったこと、そして、しばしば機能不全に陥りながらも、それを大切にしていることの意味を理解できたような気がした」。

 東南アジアという地域概念が、ASEANという地域機構の活性化によって、より明確になったということができる。だが、本書でも東南アジアという枠組みだけで語るには、もはや窮屈になってきている。アジアの大国、中国、インド、日本とはもちろん、香港、台湾、韓国、モンゴルなどを加えて考えることも必要な場合があるし、あるいは太平洋諸国を加えて考えることも有効になる場合があるかもしれない。「東南アジア」と枠組みが自明となってきたいまだからこそ、「東南アジア」を考えることができるようになったことが本書からもわかったし、今後さらに考える必要に迫られることになるだろう。

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2017年09月05日

『海洋ガバナンスの国際法-普遍的管轄権を手掛かりとして』瀬田真(三省堂)

海洋ガバナンスの国際法-普遍的管轄権を手掛かりとして →紀伊國屋ウェブストアで購入

 著者、瀬田真の問題意識は、「はしがき」冒頭でつぎのようにまとめられている。「海洋は、科学技術の発展に伴いその利用形態を変え、そして、それに対応する形で海洋法も発展してきた。そして、海の憲法とも呼ばれるUNCLOSが採択されてから、既に30年以上が経過した。この間、UNCLOSを補填するために、複数の条約が締結されてきたものの、これらの条約も、現行海洋法の課題、つまり、規定された実体的規則の遵守が確保できていないことを根本的に解決するに至っていない。むしろ、科学技術の発展に対応した実体的規則の増加により、それらの規則を遵守すべき旗国・沿岸国の不遵守が、一層顕著となってきている。そのような状況においては、おそらく旗国・沿岸国以外の国家(第三国)による遵守の確保を期待するほかない」。

 まず、海洋法に不案内なものにとって、UNCLOSや旗国といった用語を知っておく必要がある。UNCLOSとは、1982年に採択された「海洋法に関する国際連合条約」である。「旗国」と関連する「旗国主義」は、『広辞苑』でつぎのように説明されている。「旗国」とは「船舶の掲げる国旗の属する国。船籍国。航空機の登録国についても用いる」。「旗国主義」とは「公海・公空での船舶・航空機は、乗員・乗客も含めて、旗国の排他的管轄に服するという原則」。

 「はしがき」ではつづけて、副題にある「普遍的管轄権に焦点をあてる」理由を、つぎのように説明している。「では、第三国が遵守を確保するとして、その際の課題はなにか。この問いへの国際法の観点からの答えは極めて明確である。それは、彼らが国際法上の権限を有さない点にある。旗国・沿岸国にのみ管轄権の行使が認められるのが一般的である現行海洋法においては、第三国が管轄権を行使できる場面、換言すれば、普遍的管轄権が認められる場面はさほど多くはない。しかし、多くはないながらも、そういった場面が存在するのが現状である。そこで、この例外的な普遍的管轄権はなぜ許容されるのか、その理論的根拠を考えていけば、何かが見えてくるのではないか」。

 このような議論をしなければならないのは、「海洋の自由とそれに対する国家主義という2つの概念の相互作用に基づいて」国際海洋法があるからで、「共有性(共有的利益、共有的主張)と「排他性(排他的利益、排他的主張)という「海洋の2つの性質に関しても、前者は深海底という例外を除き、概して旗国の権限を支えるものとされ、後者は沿岸国の権限の根拠として参照される」。

 また、本書では、海洋ガバナンスを「海洋を一体のものとして統合的に管理する」視点を含む概念として用い、さらにつぎの2つに細分している。「第1に、国家、すなわち陸からの視点に基づき、海洋ガバナンスを展開する考え方である。このような考え方に立てば、海洋ガバナンスは、沿岸国の権限の拡張を正当化する根拠となる。第2に、このような視点とは逆向き、すなわち、海からの視点に基づき、海洋ガバナンスを展開する考え方である」。

 本書は、序章「海洋の自由から海洋の管理へ」、全5章、終章「海から陸を視る」からなる。第1章「国際法における管轄権の法理と普遍的管轄権」では、「一般国際法における管轄権の法理について確認する。立法・執行・司法管轄権をどのように分類するか、その適用基準をどのように考察するかを確認する」。第2章「海賊行為に対する普遍的管轄権の形成と理論的根拠」では、「海賊行為に対する普遍的管轄権について検討する。海賊行為に関しては、司法管轄権と執行管轄権の2つの文脈において普遍的管轄権が認められているため、それぞれの理論的根拠について考察を深める」。第3章「改正SUA条約における普遍的管轄権の規定と理論的根拠」では、「海賊行為には含まれない海上暴力行為について規定したSUA条約の分析を行う。具体的にはまず、同条約が規定する「引渡しか訴追か」の義務と普遍的管轄権、さらには代理主義との関係を考察する」。SUA条約とは、「海洋航行の安全に対する不法な行為の防止に関する条約」のことである。第4章「船舶起因汚染に対する普遍的管轄権の形成と理論的根拠」では、「海上暴力行為を離れ、船舶起因汚染に対する普遍的管轄権について検討を加える」。第5章「UNCLOS体制における普遍的管轄権の展開:海洋ガバナンスの視点から」では、「まず、UNCLOS体制において、普遍的司法管轄権がどのように展開するか、その可能性と限界を考察する。その上で、UNCLOSを超えた海洋ガバナンスを模索する」。  そして、「終章では、本書で分析した国家による普遍的司法管轄権の行使についてまとめると同時に、その限界を受け、これを克服するための国際機関による海洋の管理について若干の考察を行う。その上で、本書における海洋ガバナンスの国際法が、一般国際法にもたらす示唆について検討し、結びに代える」。

 終章では、「本書で検討した3つの事案[海賊行為・SUA条約上の犯罪・船舶起因汚染]に対する普遍的司法管轄権は、いずれも海洋ガバナンスの視点から海洋を管理していく上で有用と言える」と結論し、「その一方で、これら3つの事案によって海上でのあらゆる事案が包含されるわけではないことから、これらのみでは海洋を統合的に管理することには限界がある」とし、つぎのように説明している。「海洋ガバナンスの国際法における普遍的管轄権として、現行制度が十全なものとは言い難いのが現状である。そのため、新たな条約や参照規則といった国家の合意を通して、普遍的司法管轄権の対象となる事案をさらに拡張し、同管轄権を発展させていく必要がある。とりわけ、限られたリソースを有効活用するために海洋の管理の効率化を経済学の観点から追求するとなれば、国家の軛を離れた「人のため」の海洋ガバナンスを志向する必要があり、普遍的管轄権の発展はその中で検討されなければならない」。

 終章のタイトルになっている「海から陸を視る」ということについて、つぎのような結果をもたらす可能性を述べている。「これまでの検討してきた海からの視点が、海洋ガバナンスのような「海から海を視る」視点だけでなく、陸に対しても影響を及ぼす、「海から陸を視る」視点として意義を有するようになるのである。かつて、北海大陸棚事件において、ICJ[国際司法裁判所]は「陸は海を支配する」の原則について触れ、この原則は現在でも境界に関する紛争においては頻繁に援用されている。しかしながらエヴァンズが、自身が編著する基本書において繰り返し指摘しているように、「海は陸を支配する」ようになっていくのかもしれない」。

 そして、つぎのように結論して、本書を閉じている。「本書は、海洋国際法観と言うべき海からの視点を導入し、海洋ガバナンスの国際法についての考察を行ってきた。しかしながら、このような海からの視点が、海洋法に留まらず、陸の国際法にまで影響を及ぼす可能性がある。本書で焦点をあてた海洋法の普遍的管轄権には、陸の国際法におけるそれとは異なる性質が確認された。しかしながら、海から陸を視ることで、本書での海洋法の普遍的管轄権についての研究が、陸の国際法における普遍的管轄権の研究に資することも考えられるのである。国家として欠くべからざる要素たる大地を離れ、周縁の海に光をあてることで、異なる景色が見えるようになる。海の国際法を豊かにし、海から陸を視ることで、陸の国際法も豊かなものとなっていくことが期待される。本書がその一端を担うことを願って、結びに代えたい」。

 著者が、「海から陸を視る」といっていることは、本書冒頭で述べた「海の憲法とされるUNCLOS」に異を唱えることになる。UNCLOSなど現行海洋法は、国家の平等を原則とする国家中心主義に根差し陸から海を視ている。それにたいして、著者は人間中心主義の重要性を述べている。たとえば、EEZ(排他的経済水域)は、「先祖伝来の海(patrimonial sea)という人の活動と密接なかかわりがある水域に由来するものであり、その水域の沿岸部に住む人間の利用がその水域の沿岸国への帰属を認める理由の一端であるとも言えよう。このような人と海との結びつきに鑑みれば、もしも仮に領海・EEZに対する非沿岸国の権限を強めたところで、沿岸部に居住する者や海運の恩恵を受ける者に対しての水域の平等な利用が確保されるのであれば、そのような権限の強化は認められやすくなると考えられよう」。

 「共有性」と「排他性」、「国家中心主義」と「人間中心主義」、どの時代でもどの社会でもどちらかに偏る傾向がある。そのバランスをとるために法がある。だが、その法も時代や社会によって偏る。国家中心主義で排他性に偏ると、領有権を主張して紛争が起こる。人間中心主義で共有性に偏ると、無秩序になって共有するのものが枯渇する「コモンズの悲劇」が起こる。本書で「普遍的管轄権に焦点をあてる」意味がわかってくる。しかし、そもそも国際法は、なぜ「遵守」されないのか。法でがんじがらめになる社会がいいとは思わないが、もうすこし「遵守」されるようになると紛争も減るのではないだろうか。いらだちを感じる。

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