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2017年06月27日

『司法と憲法9条-自衛隊違憲判決と安全保障』永井靖二(日本評論社)

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 「ただ一度だけ、自衛隊を違憲とする判決が出された。」と帯にあり、つづけてつぎのように書かれていた。「長沼一審判決が出された1970年代の世相と法曹界、政界の動向を追えば、憲法や安全保障に絡むさまざまな事象はこの時代に端を発することに気づく。丹念な取材と証言から日本国憲法9条と安全保障政策のいまと未来がみえる。」「朝日新聞好評連載「新聞と9条」の単行本化!!」。

 デジタル大辞泉「長沼訴訟」では、つぎのように解説されている。「航空自衛隊のミサイル基地建設をめぐる行政訴訟。自衛隊の違憲性が問われた裁判。昭和44年(1969)、北海道夕張郡長沼町にナイキJ地対空ミサイルの発射基地を設置するため、農林大臣が建設予定地の保安林指定を解除。地元住民が国を相手取り、指定解除処分の停止・取り消しを求める訴訟を起こした。住民側は、自衛隊は違憲であり、基地建設は公益上の理由に該当せず、保安林の指定解除処分は違法と主張。第一審判決は原告の訴えを認め、自衛隊は違憲との判断を示し、注目された。しかし、第二審では自衛隊問題を統治行為として司法判断を避け、原告の請求を棄却。最高裁も違憲審査権の行使を控え、原告の上告を棄却した。長沼ナイキ事件。長沼ナイキ基地訴訟」。

 2015年4月1日から17年3月31日まで「朝日新聞」夕刊に連載された「新聞と九条」で、著者永井靖二は2016年2月15日から9月30日まで第196~349回「七〇年安保と革新自治体」「長沼裁判」「中曽根政権まで」の3章、合計154回を担当した。連載の構成を考えるにあたって、著者はつぎの3つの視点から組み立てることを思い立った。「まず一つは、「七〇年安保」で大学は騒然とし、各地に革新首長が相次いで誕生していた「異議申立ての時代」に、世間を揺るがせた数々の事件の渦中で憲法第九条はどう語られていたのかという点だ。二つ目は、戦後唯一、自衛隊の存在自体を「違憲」と断じた長沼裁判の経過と、同じ時期に起きた「司法の危機」について。そして三つ目は、当時の政権がどのように防衛政策を推し進め、長沼の違憲判決がどのように否定されていったかという点だ。同じ時代を別々の視点から計三回、スキャンする形になる」。

 本書に臨場感を持ちこんだのは、長沼裁判の一審で裁判長を務めた福島重雄の1969年から5年間の日記である。「四〇歳前後の若手判事だった福島さんが、未曽有の憲法訴訟と次から次へと起こる様々な事件に、その都度怒ったり悩んだりする等身大の姿が感じられ」、裁判がいかに個々の人びとに影響を与えたかが伝わってくる。

 「今も必ずと言っていいほど憲法学の教科書に登場」する「違憲判決」について、「福島さんは「「それじゃ、いかんのです」と語気を強め」て、つぎのように語っている。「私は憲法学の研究者たちが『多数派』とする意見に従っただけ。裁判官が本当に憲法と法律と良心のみに従ったら、私と同じ判断が全く出て来ないなんて、あり得ないこと。裁判官たちが違憲判決をいかに避けたがるようになったかということです」。

 そして、この「あとがき」をつぎのようにつづけている。「司法がただ一度だけ憲法第九条と自衛隊の問題に正面から向きあった長沼裁判の一審を中心に、当時の世相をはじめ、法曹界や政界の動向を追うと、憲法や安全保障に絡む分野でいま目にする事象の多くが、本書で取りあげた時期に端を発していることに気づく。もっと掘り下げるべき出来事が、この時期には多く残されていると痛感する」。

 さらに、つぎの頁をめくると、つぎのように書いてあった。「・・・・・・と、ここまで書いたちょうどその日、安倍晋三首相は衆院予算委で「GDPの一%以内に防衛費を抑えるという考え方はない」と発言した(一七年三月三日付朝日新聞)。今後の展開が七〇~八〇年代の推移とどのような異同を見せるか、批判的姿勢と視点を最大限にして注目したい」。

 新聞の特徴のひとつとして速報性がある。だが、そのときには情報が限られ、充分読者に伝えられなかったことも多々ある。本書のように、何年か経って検証し、それが現在起こっていることを考える情報になれば、新聞のもうひとつの読み方に繋がる。本書の成功のひとつは、日記を活用することで臨場感を再現しながら年月を経た冷静な目で捉えることができたことだろう。それだけに「新聞に初出時点の年齢を本文で最初に登場した際に表記」したのは興ざめだった。当時、かなりの高齢者が事にあたっていたような錯覚をおぼえた。生年を表記したほうがよかっただろう。

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2017年06月20日

『戦後日韓関係史』李鍾元・木宮正史・磯崎典世・浅羽祐樹(有斐閣)

戦後日韓関係史 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 「近くて遠い国」「古くて新しい関係」「実態と制度の乖離」「「過去の直視」と「未来志向」」、この4つが本書の序章「戦後日韓関係の歴史と構図」「1 日韓関係の重層性」の見出しである。この序章は、「2 戦後日韓関係の展開」「3 本書の視点」「4 本書の構成」とつづき、本書の全体像がよくわかる。本文は7章からなり、「4 本書の構成」で示されているとおり、1950年代から「10年単位の章立て」をおこなっている。

 「伝統的な外交史にとどまらず、関係史の記述をめざす」本書は、執筆者全員が「政治学分野の研究者であり、政治や外交の動きが主な内容になる」が、「日韓の外交関係に影響を与える経済や社会の変容にも目配りをし、広い文脈の中に日韓関係をいかに位置づけるかに重点を置く」。

 本書では、「一つの分析枠組みとして、国家・市場・市民社会の相互関係に着目する」。「国家、市場、市民社会という3本の柱は、それぞれ政治、経済、社会の分野に対応する。本書では、戦後の日韓関係の展開について、国家(政府)の動きに焦点を当てつつ、市場(経済)や市民社会(社会)との相互作用や相互関係をも視野に入れて、包括的な視点の提示をめざす」。

 また、分析レベルでは、個人、国家、国際関係の3つに着目する。「第1のレベルは人間、すなわち政治指導者など個人の役割に注目する。ここには2つの意味合いがある。一つは、人間の権力欲などの本性や認識の限界など、人間が共通してもつ特徴や制約である。もう一つは、政治指導者の思想や価値観、性格など、政策決定者の個別的な特徴である」。「第2のレベルは国家のあり方、すなわち政治体制や制度の違いが戦争の有無に与える影響を強調する。例えば、独裁体制と民主制のうち、どちらがより戦争に走りやすいか、という問いになる。「民主制の国家同士は戦争をしない」と主張する「民主制による平和」の議論は、その一例である」。「第1の人間(個人)と第2の国家はともに単位(unit)レベル、すなわちアクターの属性を重視する見方である。それに対して、第3のレベルは国際関係に注目する」。「例えば、二極構造と多極構造では、どちらがより不安定で戦争を誘発するのか。あるいは覇権安定論が説くように、一国支配の単極体制のほうがむしろ平和をもたらすのか。こうした議論が第3レベルの例である」。

 そして、終章「今後の日韓関係に向けて」では、「21世紀に入り、日韓関係には大きな構造的変容が起こっている」ことを踏まえ、「日韓の「民主的平和」」「国家・市場・市民社会の複合体」「東アジアの中の日韓」「グローバル化と日韓」「日韓関係はどこに向かうのか」の見出しの下に、「重層的な変化を概観し、日韓関係の今後について考える手がかりを提供」している。その概観は、つぎのようにまとめられている。「アクター・レベルでは、「民主化」が進み、日韓の政治はより多様化し、分散的になっている。はたして日韓の間に「民主的平和」は深化するのだろうか。地域主義やグローバル化の潮流に日韓はどう対応しているのか。非対称な状況から始まった戦後日韓関係は、「ナショナル・リージョナル・グローバル」の三層構造の変容に直面しつつ、新たな関係構築の課題に直面している」。

 終章は、つぎのパラグラフで終わっている。「戦後の日韓関係もこうした進化への模索の過程にあるといえよう。依然として、とりわけ認識の面では不信感に基づく対立の溝が深いが、多様な相互作用を通じて、協調の土台を築いてきた。21世紀に入り、日韓関係を取り巻く国際システムは流動性を高めている。非対称な関係から始まった戦後の日韓関係が、グローバル化や民主化といった潮流に対応しつつ、水平的な「パートナー」を経て、「友人」の関係に深化できるかは、東アジア地域の行方にも大きな影響を与えるであろう」。

 「東アジアの行方にも大きな影響を与える」というよりは、東南アジアを含む東アジアのなかで日韓関係の重要性はとくに経済において低下してきており、中国やASEANの動向が日韓関係に大きな影響を与えることになるだろう。その意味で、「東アジアの中の日韓」をJICAやKOICAといった経済援助する側のかつての目線ではなく、「「特殊」から「普通」へ」の関係で臨むことが大切になってくるだろう。東アジアのなかの「普通」の国同士になるためにはどうすればいいのか、近隣諸国との歴史的関係を踏まえてASEAN各国が教えてくれるかもしれない。

 日本との関係では、近年歴史博物館が充実してきていることが注目される。ソウルのメインストリート世宗大路の北端の光化門の前に2012年に大韓民国歴史博物館がオープン、近くのソウル歴史博物館も国立故宮博物館も同年にリニューアル・オープンした。近代史の展示では、「反日」が強調されたものになる。近代史だけではない。光化門広場には、李舜臣と世宗大王の像があるが、その地下には李舜臣記念館と世宗大王記念館があり、秀吉軍と勇敢に戦った様子が描かれている。ソウルの繁華街、東大門近くには2007年に80年余りの歴史の幕を閉じた東大門運動場跡地に東大門歴史観がオープンした。1925年にヒロヒト皇太子の結婚を祝して建設された運動場の歴史だけでなく、発掘された遺物から秀吉との戦いも描かれている。また、東大門城郭公園内に2014年にオープンした漢陽都城博物館では、日本の植民地時代や独立後の開発のために破損した都城を復元した様子が展示されている。これらの博物館は、入場無料で気軽に入ることができ、韓国の歴史教科書の半分を占める日本植民地時代をさまざまな角度から「深く」理解することができる。戦後の日韓関係史も、歴史教科書だけでなく、歴史博物館での展示なども踏まえて理解することが必要だろう。

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2017年06月13日

『歴史認識共有の地平-独仏共通教科書と日中韓の試み』剣持久木・小菅信子・リオネル バビッチ編著(明石書店)

歴史認識共有の地平-独仏共通教科書と日中韓の試み →紀伊國屋ウェブストアで購入

  2003年1月21-23日に、1963年に締結された仏独友好条約(通称エリゼ条約)40周年記念行事の一環として、仏独両国の高校生500人余りが集まった。この仏独青少年議会では、内政、財政、外交、環境など15の委員会に分かれて討議し、最終日の総会で各委員会で決議された提言が提出された。そのひとつについて、高校生の代表は、「互いの偏見をなくすために、共通の歴史教科書を導入するということについて、お二人はどうお考えですか」と尋ねた。「お二人」とは、ドイツ首相シュレーダーとフランス大統領シラクのことである。「お二人」はそれぞれ、「大変いい考えですね。ドイツでは、教育の権限は州に属していますが、各州教育相と協議して、実現のために全力を尽くしましょう」「フランスの教科書はすでに大いに改善され、他国への偏見は存在しません。しかしながら私も、(共通教科書導入に)異存ありません」と、肯定的に応えた。

 その結果、2006年に第3巻『1945年以後のヨーロッパと世界』、2008年に第2巻『ウイーン会議から1945年までのヨーロッパと世界』、2011年に第1巻『古代から1815年までのヨーロッパと世界』が出版され、第3巻と第2巻は日本語訳もそれぞれ明石書店から出版された。

 その意義を、編著者のひとり、剣持久木はつぎのように述べている。「仏独共通歴史教科書の意義ははかり知れない。これまで仏独はもちろん、ヨーロッパさらに世界各地で、国境を越えた共通の歴史教材を作るという試みは多かった。しかしながら、「教科書」となると次元が異なる。国定、検定など国によって教科書の位置づけはさまざまであるが、そもそも同一国内でもさまざまな事情で同一の教科書を使用することが困難な地域も多い。今回の仏独教科書のドイツがまさにそうである。連邦制のドイツでは16の州で共通に使える教科書は、科目を問わずこれまで存在しなかった。仏独共通教科書は、国境を越える以前に、16の州ではじめて共通に使うことが認められた教科書である」。

 本書は、「2007年10月19日および20日に、ドイツ文化センターおよび日仏会館において「仏独共同プロジェクト:共通の歴史、公的歴史:ヨーロッパと東アジアにおける現在の課題」の枠組みで行われたシンポジウムの成果」である。このようなシンポジウムがおこなわれた背景は、「あとがき」でつぎのように説明されている。「2006年秋に教育現場に導入された独仏共通歴史教科書の意義を考察するシンポジウムが、早くもその1年後に日本で実現した背景には、独仏両国の並々ならぬ意欲があったことはまちがいない。しかしながら、このシンポジウムは、単に画期的事業の意義を宣伝するためだけに開催されたわけではない。東アジアへの射程を検討することで、共通の歴史叙述を持つ意味を、時間と空間において、より大きな視野で考察することをめざしていた。つまり、独仏和解の過程、共通歴史教科書を可能にした前提、異国家間の公の共通歴史叙述、共通歴史叙述を実践するための哲学的基盤についての考察を第一の目的とし、独仏和解の過程を日韓和解・日中和解の過程に応用することが可能かどうかをめぐる議論の深化を第二の目的としていた」。

 日中、日韓の歴史問題について議論されるとき、よく「ドイツに学べ」とか「ヨーロッパに学べ」とか言われる。だが、「共通教科書は、すべてを解決する万能薬ではない」ことは、この共通教科書の使用状況を調査することで確認できた。まず、独仏共通歴史教科書の前の1992年に出版されたものについて、つぎのように評価している。「かつて『ヨーロッパの歴史』が刊行された時には、日本語版が直ちに出版され、改訂版まで日本語版が出版されている。おそらく、多くの日本人読者は「ヨーロッパ共通の歴史教科書」というそのサブタイトルを一時は信じたのではないだろうか。現実には、教科書はおろか副教材としてすら使用されることがほとんどない「参考図書」にとどまり、仏独共通教科書執筆者のル・カントレック氏などは、「理念はすばらしかったかもしれないが失敗だった」と指摘している」。  独仏共通歴史教科書の「現場の使用状況に関していえば、アビバック[フランスの高等卒業資格であるバカロレアとドイツのアビトゥーアを両方取得することをめざす学級]やヨーロッパ学級[バカロレア取得をめざすが、歴史を相手国の言語で履修する]など特殊な環境での使用に限定され、一般学級での使用は副教材としての位置にとどまっている」。「つまり現時点では、共通教科書は、その発端となった理念とはまだほど遠い形でしか現場で使用されていない。共通教科書は作成されたが、現場への浸透はまだまだ先の課題である」。

 内容的にも問題があった。「そもそも「西に偏った」ヨーロッパ史が、この構想によってさらに、東部中欧・東欧・南東欧地域の過去や記憶から離れていくことである。フランスと西ドイツをヨーロッパの中心と見なし、両国の歩みをヨーロッパ史の範例とするコンセプトの中では、東ドイツ史でさえ、歴史から姿を消した副次的なものとして扱われている」。「今後のヨーロッパ史は「端」からも語られるべきだとしている。そのような視点から歴史を語ることは「相互理解」にとって必要不可欠な要素、すなわち相手に関する知識、他者に対する思いやり、共感できる事柄に価値観を見出しつつ、それと同時に多様性と差異を受け入れること、へ視野を拡大することを可能にする」。

 東アジアの歴史問題に関心のある者は、ヨーロッパやドイツから学ぶことを期待するが、ドイツ文化センター所長のシュメルターは、つぎのように否定している。「わたしたちドイツ人が、世界のほかの場所に置き換え可能なモデルとして誰かの手本になることはできませんし、また教師のようにふるまうつもりもありません。それはわたしたちの手に余ります。そして教科書は「治療薬」でもありませんし、また人間による和解というプロセスの代替品にもなりえません。しかしこれは教育にとって、また政治的教養としての重要なステップであり、親やそのまた親の世代の犯した非人間的な過ちをくり返さないための予防措置でもあります。そして過去の過ちがこれら若い人たちのせいではないにしても、未来への責任は今後も、そしてどこまでも彼らが負ってゆくのです」。

 日本と中国、日本と韓国のそれぞれの歴史認識が問題とされるとき、よく「ドイツから学べ」とか「ヨーロッパから学べ」と言われるが、それが容易でないことが本書からわかる。わたしたち日中韓が学ぶべきことは、まずドイツもフランスも長年にわたって根気よく問題解決のために努力し、試行錯誤を重ねながら挑戦してきたことである。日中韓はまだ対話がスタートしたばかりである。これから根気よく、対話をつづけていくことがまずしなければならないことのようだ。今週、わたしはその対話のひとつのために韓国を訪問する。

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2017年06月06日

『アジアびとの風姿-環地方学の試み』山室信一(人文書院)

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 シリーズ「近現代アジアをめぐる思想連鎖」の2冊同時刊行の1冊である本書のキーワードは、「アジアびと」と「熊本びと」である。帯には、「人びとの夢のありかは、アジアだった!」「ここに知ってほしい人びとがいる・・・・・・」「アジアにおける思想空間と人びとの旅路」とある。本書はいささかバランスを欠いた2章、60頁弱の「第一章 アジアびとの風声-司馬遼太郎の足音」とその数倍の頁数の「第二章 熊本びとのアジア-ひとつの「環地方学(リーローカロジイ)」の試み」からなる。

 「アジア人」は、「アジア各地を旅され、アジアに友人や知人」が多く、「僕はアジア屋だからな」と言っていた司馬遼太郎が使っていた「アジア人」の「人」を、著者が「びと」と読んだものである。

 第1章で、著者はアジアの特質をつぎのように説明し、最後に「アジアびと」についてまとめている。「江戸時代の多様性は、二六〇近くあった藩の存在が生みだしたものです。そうした多様性をもちつつも、日本としては一つのまとまりを保っていました。私は、アジアの特質として、多様性と一体性とがバランスをもっていること、すなわち「多にして一」というあり方が、理念型としてではあれ、重要な意味をもってきたと考えています。そうであるとすれば、江戸時代にあったアジア的感性を、一極集中としての中央集権主義による一元化によって喪ってきたのが近現代日本の歩みであったと言えるのでしょう」。

 「アジアびと」は、「大きく括りますと、自民族中心主義に陥ることなく、周縁としての視線をもって、相手の側に身を置くことができる、しなやかで柔らかな振る舞いが自然とできる「ひと」であろうかと思います」。

 そういう「アジアびと」として、「熊本びと」をあげるのは、著者の出身というだけでなく、「環地方学」の事例として充分な人材が、数においても質においても存在したからであろう。「環地方学」の必要性について、つぎのように説明している。「何よりも東京や日本を介してしか構成されていない近現代史をアジアという地域空間(リージヨン)から逆照射するためには、「地方」がアジアというリージョンの一部として存在しているという厳然たる事実を、もっと明確に認識し、それに基づいた歴史像の創出が二二世紀の世界で生きていくためには必要ではないかと思料されるからです」。

 その前に、著者は「空間の捉え方を問い直しつつ、歴史を再構成する方途を考えるとき、二つの「期待の地平」が開かれてくる」とつぎのように説明している。「一つめは、グローバル空間とローカル空間とを直結して捉える「全地学(全球地方学)」という方向性でグローカロジイ(Glocalogy)とでも呼ばれるものです」。「二つめは、グローバル空間とローカル空間とを直結させるのではなく、ローカル空間とリージョナル空間の結びつきからグローバル空間との関係を考えようとするもので、「世界(環球=地球)と連環する地方学」であり、リージョナルなローカリズムとしてのリーローカリズム(relocalism)の学として構成するものです。私はこれを「環地方学(リーローカロジイ(Relocalogy))」と名付けたいと思います。ローカルがなければ、ナショナルもリージョナルもグローバルもありえません。また、ローカルという周縁こそ、もろもろのローカルに対する最前線(フロンティア)であり、連環のための結節環となるからです。そのため、ここでいうローカリズムというのは、地方偏重主義や地方的偏狭さを意味するものではありません。そうではなく、国境という壁を突き抜けて直接にリージョナルやグローバルな空間に向けて開かれているのが、ローカルな空間だという含意をもつものです」。

 そして、そのローカルな空間で生まれ育った著者自身を検証しなければならなくなった。「私個人がいかなる「精神風土」の中に生まれ育って、現在のようなアイデンティティをもつに至ったかを確認しておく必要があるはずです。その意味では本当に「私的な、あまりにも私的な」作業でしかなかったかと思っています。ただ、だからこそ、一度は自分の足下にあるものを確かめておかなければ、「次の新たな一歩」を踏み出せないように思えたのです。「熊本びとのアジア」を書きながら、自分が見知った場所で、それぞれの人が生い育っていったことを知り、その存在感や「たたずまい」そして息遣いといったものを、皮膚感覚として感じ取るような錯覚に陥ることが一切ならずありました。もちろん「精神風土」を同じくしたとしても個人の立ち位置は、当然に多様性を示します。私自身、ここに挙げた熊本びとに共感できる部分もあれば、強烈な違和感を禁じえない部分もありました。そして、自分の中にある、嫌な部分が暴きたてられるような思いをしながら読んだ史料も少なくはありません」。

 熊本とアジアとを結ぶ「環地方学」の試みは、国家の束縛から解きほぐされる一面のある時代、社会だからこそ、可能になったのだろう。それも、熊本だから可能になったのであろう。では、ほかの地方ではどうだろうか。「多にして一」の幕藩体制から明治になって、「肥後びと」はいつどのようにして「熊本びと」になったのか。あるいはここでいう「熊本」は県ではなく、藩のままなのか、それとも別の空間なのか。旧藩人から県人になかなかなれなかった地方、人びともいる。近代国民国家は制度によって創られる。では、ローカルやリージョナルな空間は、どのようにして創られるのか。国家と国家の集合体の国際社会を考える時代から、ローカルやリージョンも考えなければならなくなった。やっかいになったと考えるのか、それとも国家から自由になることを喜ぶべきなのか、著者が検証したように自分自身が「○○びと」なのかを考えなければならないようだ。

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