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2017年03月07日

『台湾疎開-「琉球難民」の1年11ヵ月』松田良孝(南山舎)

台湾疎開-「琉球難民」の1年11ヵ月 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 「本書を手にとってくださった皆さんには、ぜひ疎開地訪問をお勧めしたい」。著者、松田良孝は「あとがき」でそう勧め、第2部「疎開地を訪ねてみる」のそれぞれの疎開地の冒頭にある「アクセス」では、交通手段、時間、料金などを詳しく説明している。著者のいう「皆さん」とはだれのことだろうか。わたしも含まれているのだろうか。

 その疎開地で、1カ所だけ選ぶとすれば、南方澳だという。その理由を著者はつぎのように説明している。「台湾と八重山の間には、今は国境があるし、植民地支配が行われていた当時も言葉、生活習慣の違いといった隔てがあったはずである。深刻な緊張関係が生じることもあったが、それにもかかわらず、人々は往来し、パイプをつないでいった。その往来を象徴的に表す場が南方澳だったと思う。生まれ育った土地や、自らもメンバーとなっていた人的ネットワークから切り離され、そのうえ国家の支援も望めない状態に陥っていた疎開者たちが台湾から生還してくるプロセスは、南方澳の存在抜きに説明することはできない」。ということは、台湾は八重山の人びとにとって生活圏だったのである。

 たとえば、つぎのような記述がある。「与那国島久部良出身の金城静子(1924年生)は、姉のヨシが南方澳で暮らしており、久部良と南方澳の間を「1年に何10回」も行き来していた。漁民だった義兄(姉の夫)が船を出すときに乗せてもらい、「向こうで2、3週間遊んだら、また帰ってきて」という具合である」。

 「太平洋戦争末期の1944(昭和19)年後半から、石垣島や宮古島など「先島」と呼ばれる地域を中心とする沖縄の住民約1万人が台湾へ疎開した。生活費や食糧の確保など疎開者に対する公的な援助は、終戦が近付くにつれて機能しなくなり、戦後、疎開者たちは棄民化していく。台湾では、少なくとも、1945年12月から1946年9月までの間、中華民国の当局者が引き揚げを待つ疎開者たちのことを「琉球難民」と呼んでいた」。

 本書は、「石垣島から台湾へ疎開し、帰還した3人の体験をもとに、台湾疎開の全容を描こうとするもので」、3部からなる。第1部「疎開」は序章、全7章、終章からなり、第1章「出発」から第7章「引き揚げ」までを取りあげる。第2部「疎開地を訪ねてみる」では、疎開地となった龍潭、新営、南投、佳里、麻豆と引き揚げ港となった南方澳の6カ所での現地の様子を伝えている。そして、第3部「疎開者帰還船の運航と台湾沖縄同郷会連合会」では、「疎開者の引き揚げを支援する目的で終戦後に結成された台湾の沖縄出身者組織「台湾沖縄同郷会連合会」の活動や、中華民国側が公式の疎開者帰還船を運航するまでの経緯などを取り上げた」。

 では、なぜ疎開することになったのだろうか。著者は、つぎのように説明している。1944年「7月7日夜、日本政府の緊急閣議で、南西諸島の奄美大島、徳之島、沖縄本島、宮古、石垣の5島から老幼婦女子の疎開を決定させることが決まる。沖縄本島から8万人を九州以北のいわゆる「内地」へ、宮古島と石垣島からは合わせて2万人を台湾へという内訳であった。これが「台湾疎開」の始まりである」。「石垣島で発行されていた日刊紙『海南時報』は同年8月20日付で疎開対象者の範囲を示した記事を掲載しており、そこには①60歳以上の者、15歳未満の者、②妊産婦病弱者、③前記①②に掲げる者の保護に必要な婦女、④その他在住の必要なしと認められたる婦女子-という4つのカテゴリーが挙げられている。いずれも、体力が弱いなどの理由から軍事行動には不向きとみなされる人たちだ」。

 しかし、これだけではなぜ南西諸島の人びとが疎開の対象になったのか、よくわからない。本書で気になったのは、「琉球人」ということばである。著者は、「あいまいな〝琉球人〟」という見出しを設けている。まず、「日本人が台湾人より優位に立っていた植民地台湾の中で、沖縄からやってきた人たちは他府県の日本人と同じように「内地人」として扱われている。沖縄出身者は台湾人を支配する立場にいたことになるが、実際には日本人と台湾人の中間に位置していたと言ってよい」。実際、疎開した子どもたちのなかには、「通学先で台湾人の子どもたちから「リュウキュウラン」という言葉を浴びせられ、石やマンゴーの種を投げつけられたケースがある」。「「リュウキュウラン」は「琉球人」を意味する台湾語」であった。そのいっぽうで、敗戦後、「戦争に負けた後からは、『琉球人』といって(呼ばれて)ね、少しは、本土の方(内地人)より親しくしてもらったよ」と回想する者もいる。「台湾人は「自分(台湾人)なんかが一等国民、二等国民が琉球人、本土の人は三等国民」という意味のことを言っていたという」。あきらかに、本土出身者と沖縄出身者は、区別されていた。

 では、冒頭に戻って、著者が想定した読者とは、だれであったのか。著者は、1969年埼玉県大宮市生まれ、北海道大学農学部を卒業し91年に十勝毎日新聞社に入社し、93年から八重山毎日新聞の編集部記者である。2004年に『八重山の台湾人』を出版している。疎開地訪問を勧める著者は、琉球人なかでも石垣島の人びとを読者対象とし、今後の石垣島と台湾の交流を見据えている。それは、著者の台湾での取材経験からきていることを、つぎのように述べている。「台湾へ疎開の調査に行くと、しばしば熱心な協力者に出会う。資料を惜しみなく提供され、インタビューに積極的に応じてくださる」。「本書は、台湾側で私の調査に関心を寄せる大勢の人たちの助けがなければ、到底、出版し得なかった」。

 そして、本書の「あとがき」をつぎのパラグラフで結んでいる。「日本の植民地支配に対する評価も一様ではない。本書で述べた通り、終戦直後には台湾人が日本人に対して報復することもあったが、疎開者が台湾人に助けられることもあった。第6章で取り上げた栄丸事件はその顕著な例である。その意味で、台湾疎開は沖縄戦の一部であるとともに、沖縄と台湾の人々が織りなしてきた交渉史の一断面でもある」。

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