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2017年03月28日

『現代中国茶文化考』王静(思文閣出版)

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 社団法人日本茶業中央会「平成23年版 茶関係資料」によると、1人あたりのお茶の消費量が最も多い国はクウェートで2.46kg、2位はアイルランドで2.23kg、3位はイギリスで2.07kg、アジアでは台湾が9位で1.54kg、日本が17位で1.05kg、インドが23位で0.69kg、中国が24位で0.66kgである。世界的にみて東アジアの人びとがとくに多く消費しているわけではなく、この統計を意外に感じた人が多いのではないだろうか。東アジアの人びとにとって、茶は消費量以上のなにかがある。そのひとつに、本書で語られる文化にある。だが、その茶文化もなんの変遷もなく人びとに受け入れられてきたわけではない。

 「三、四十年前にはまだ多くの国民のテーブルに欠けていた茶が、今日では国家最大の祭典で演出されるまでになり、現実社会においても幅広い分野で大々的に使われるまでに繁栄を遂げている」。「いったい今日のような茶文化はどのようにして生まれてきたのであろうか」。本書の目的は、この問いに答えるとともに、「政治的・経済的な文脈には収まりきらない茶文化、ひいては茶そのものがもつ可能性について論じることにある」。

 「本書は、大きく二つの視点をもとに構成されている。一つは本書全体の枠組みともいうべきもので、文化を構築主義的な立場からとらえようとする視点である。いま一つは主に、中国および日本において積み重ねられてきた、中国茶文化を歴史的・実証的に研究することで明らかにしようとする視点であり、本研究もその流れのひとつに位置づけられる」。

 著者は、本書の意義を「序章」でつぎのようにまとめている。「中国茶文化研究がこれまで注目してこなかった新中国誕生からの三〇年ほどの時代(一般的に「新中国」と呼ばれる)こそが実は現在の茶文化の隆盛へといたる出発点であったことを指摘し、茶文化がいまだ存在していなかった時代からいかに創造され、さらには操作され、利用されてきたか、そしてその結果、茶文化がますます実体化していくことになった過程を、詳細に跡づけた点にあるといえるだろう。いまや中国のアイデンティティといってもよい茶文化の構築過程を、現代中国の政治的・経済的な文脈の中で明らかにすることによって、中国という国家が、政治や経済と並んで文化によっても形づくられていることが理解されるはずである」。

 本書は、序章「茶文化研究への視座」、全6章と終章「中国茶文化の可能性」からなり、「時系列にそって、三つの段階に分けて茶文化が創造、再構築されたプロセスを分析する」。第一章「茶葉生産と新中国の社会主義建設」では、「一九四九年の新中国の誕生から文化大革命が終焉し、改革開放政策が始まる一九七〇年代末までを、第一段階として扱う」。「ここでは、建国当初ほぼ崩壊状態にあった茶葉を、なぜ国家が建国とともにいち早く国をあげて恢復(かいふく)に取り組んできたのか、そして実際どのように生産恢復を進めてきたのか、を中心に考察していく」。

 第二章「「茶文化」の出現と経済建設」では、「第二段階として改革開放初期から一九八〇年代にかけての時代について検討する。これは経済発展を最重要とした国策が実行され、茶葉生産量も急増した時代である。同時に「茶文化」という概念が登場する時期でもある。この章では、まず、それまで生産と輸出のみにしか向けられなかった茶葉への関心が文化という側面に移った理由を、生産量の急増にたいして茶葉が出荷できないという「茶葉問題」に求める」。

 第三章「台湾茶芸の創出と中国大陸への伝播」では、「一九七〇~八〇年代における台湾での茶文化の創出および中国への影響について検討する。優雅で芸術的な茶の形式である「台湾茶芸」の誕生を、経済発展や都市化ならびに中華伝統文化の復興運動といった社会的な変革を背景とし、一九七〇年代に生じた茶葉輸出の激減による「茶葉危機」を直接な要因として論じていく」。この「台湾茶芸の伝来から今日まで、茶文化は第三段階に入っていく」。

 第四章「茶文化ナショナリズム」では、「ナショナリズムとして機能する茶文化に焦点を当てる。「台湾茶芸」の影響を受けて、茶を飲むことを儀礼化・高級化した茶芸が中国の茶文化の中心的な部分として作り上げられる」。第五章「茶文化産業」では、「産業としての茶文化という側面を主題にする。第二章で論じた茶文化が茶葉経済の一翼を担っていた状況が大きく進展し、茶文化は茶葉経済をリードして、茶文化産業を成立させる主体となっていく」。第六章「中国茶のソフトパワー」では、「ソフトパワーや文化力が重要な国力とされるようになった時代背景の中で、文化外交の領域における茶文化の力を検討する」。

 この本文全6章で、「茶を飲むという行為が文化となり、さらにナショナリズムや経済という文脈の中で「茶文化化」されてきた過程が検討される」が、著者が語りたかったことはその先にあることを、つぎのように述べている。「しかし、本書で主として用いられるような構築主義的な文化分析の手法にあっては、「茶文化化」される以前の文化的行為としての茶を飲むことや、さらにそれに先んじるであろう「茶を飲む」という行為そのものがもつ力を見落としてしまうかもしれない」。そこで、「終章では、日常生活において人と人との関係をつなぐ力を、贈り物としての茶、人と共有する茶の時間、茶を介した記憶から考察したうえで、茶を飲むことの原点に返るとともに、茶文化がもつ可能性を示す」。  そして、著者は、つぎのような結論を導きだした。「茶を飲むことは自己の内心に向き合い、自己の向上を通して社会を良くしていくことである。その行為の中で、自己と自己、自己と他者、自己と社会との間で結ばれる対話から様々な形のつながりが生まれ、反復されていく」。さらに、「「茶文化」と異なる文脈で動く「茶」をとらえ、近代的な原理がはたらく社会とは別の形の社会が切り開かれる道を、探ってみたい」と「次の研究課題」を述べて終章を結んでいる。

 著者は、「あとがき」で「そもそも、子供の頃の記憶の中にある両親にとっての茶と、いま授業の合間に口にしている私にとっての茶は、果たして同じものなのだろうか。このようなごくごく私的な出発点から、本書の研究は始まっている」と書いている。「近代的な原理がはたらく社会」のなかでの茶の位置づけを明確にした本書の出発点が、本書を書き終えてもなお「次の研究課題」の出発点になっている。「論理的・学問的」に説明するためには、それを理解・納得し、否定することからはじめなければならない。その意味で、著者はいま「次の研究課題」の出発点にようやく立ったということできるだろう。「茶文化」から「茶」へを考えるためには、「文化」を受け入れ、同時に否定しなければならない。「文化」という重い課題が、著者に乗っかかることになる。

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2017年03月21日

『カロライン・フート号が来た!-ペリーとハリスのはざまで-』山本有造(風媒社)

カロライン・フート号が来た!-ペリーとハリスのはざまで- →紀伊國屋ウェブストアで購入

 伊豆半島の南端近くの下田には、「下田開国博物館 (黒船来航の記念館)」がある。ホームページには、「下田から世界へ発信した 幕末開港の歴史」の見出しのもと、つぎのような説明がある。「下田は古くから風待ち港として栄えてきましたが、嘉永7年3月(1854年4月)アメリカのペリー提督率いる黒船艦隊来航によりわが国最初の開港場となりました。ペリーが去るとロシアの使節プチャーチンが訪れ、北方の国境画定を含む日露和親条約を結びました。翌年にはアメリカ総領事タウンゼント・ハリスによるアメリカ領事館の開設があり、イギリス、フランス、オランダ等の船も下田港に姿をみせました。日米修好通商条約の締結により開港場の役割は横浜、神戸などに移りましたが、ペリー来航から明治維新まで僅か15年、その最初の数年間、下田は日本が世界に飛び出す役割を果たした地でした。下田開国博物館は、日本開国に係る約2000点の資料・遺品の中から約1000点を入れ替え展示しています」。

 このような教科書的説明から、日本人はペリーやハリスが幕末の日本、日本人にどのような影響を与えたかに思いを馳せる。だが、ペリーが1854年に締結した日米和親条約に影響されて日本にやってきたアメリカ人がいたことや、そのアメリカ人がハリスが58年に締結した日米修好通商条約に影響を与えたことに、思いをめぐらす日本人はいない。

 本書「はしがき」は、つぎの文章ではじまる。「一八五五年三月一五日(安政二年一月二七日)、終日、輝く富士を目指して進んだスクーナー型のアメリカ商船カロライン・E・フート号が、夕暮れになって下田港に入った」。「ペリー艦隊やプチャーチン使節団などの来訪でいろいろな外国人を見慣れてきた下田の人々にとっても、六人の平服の紳士が三人の妙齢の婦人と二人の幼い子供を連れて上陸し、「夫婦手をひきあふてあゆむ」様子は、誠にセンセーショナルであった。彼らは結局二ヶ月半の余にわたって下田に留まり、その後箱館を経て六月二七日(五月一四日)帰国の途に就いた。六人の紳士がホノルルでフート号をチャーターして出帆したのが二月一三日(安政元年一二月二七日)、サンフランシスコに帰着したのが九月一七日(安政二年八月七日)のことであった」。

 本書の目的は、「彼らはどこから来たのか。何を求めて日本を訪れ、何を得たのか。彼らは日本に何を見、日本人は彼らに何を見たのか」を明らかにし、「ペリー条約の締結を聞くや否や直ちに、友を誘い家族を引き連れて「ジャパン・パイオニア」を目指したフート号乗客たちの商人魂こそ、この時代の西漸運動の市民精神を代表する具体的一例と見做すこと」である。

 本書は、「はしがき」、全3章、「あとがき」からなる。「第一章「カロライン・フート号婦人図をめぐる若干の考察」では、フート号日本行の概要を見た後、現在下田開国博物館に所蔵される絵図「豆州下田港入津之亜米利加婦人之図」を出発点とし、当時に残されたいくつかの絵図・巻物類の探索を通して、日本人の眼に映ったフート号乗客の有様と印象を描いてみる」。「第二章「ロジャーズ司令官の下田と箱館-カロライン・フート号「居留問題」を中心に-」では、たまたま下田と箱館でフート号に遭遇し、日本側とのトラブルに巻き込まれることになったアメリカ海軍・北太平洋測量艦隊の司令官ロジャーズ大尉の行動を通じて、フート号の居留問題の展開を考察する」。「第三章「下田「欠乏品交易」とその周辺-カロライン・フート号「貨幣問題」を中心に-」では、安政「開国」以前のいわゆる「欠乏品交易」にかかわる通貨・貨幣問題を、フート号乗客の場合に即して考える」。

 そして、「はしがき」は、つぎの文章で結ばれている。「こうしたアメリカ市民の居住権の獲得、内外貨幣交換率をふくむ官営交易の是正といった問題、広くいえばペリー艦隊による「日米和親条約」の不備・不足を正し、一歩進んで自由な「通商関係」を確立することが、初代総領事(ならびに外交代表)に任命されたタウンゼント・ハリスに与えられた基本的な使命であった。「下田協約」の締結から「日米修好通商条約」にいたる彼の奮闘努力については、すでに多くの幕末開港史に詳しい。小著でのハリスは、カロライン・フート号乗客が残した問題に彼がどのように対応・対処したかという視点から観察される」。

 本書の3章は、同じ事象を別の角度から見たという側面があり、繰り返し表現が散見される。それは、著者が、「本格的な「開国」に先立つアメリカ人と日本人のはじめての出会いを、「大きな歴史」としてではなく、社会史的、政治史的、経済史的なエピソードを重ねる「小さな物語」として描いてみようとした」ことによる。

 その結果、つぎのように「彼らは日本に何を見、日本人は彼らに何を見たのか」が著者には想像できた。「カロライン・E・フート号の乗客たちは、パイオニア精神にあふれたまさにアメリカン・デモクラシーの子であった。彼らは、新たなフロンティアの開拓を自らの使命であり、かつ権利であると信じていた。同時に彼らは、市民の権利を日本人に知らしめることもまた自らの任務であり、かつ責任であると信じていたに違いない」。「このやかましいアメリカ人のやかましい要求には、江戸の幕閣から現場の小役人まで、さぞ手を焼いたことであろう。しかし、このやかましさの一部が彼らの少々お節介な啓蒙精神の発露であることが分かってみれば、むしろロシア人よりもフランス人よりも金離れが良く、闊達で楽しい人々であると思ったことであろう。ましてや、容顔美麗な婦人や綺麗な児共(こども)らの姿は、町の人々の心を和ませた」。

 「またアメリカ人からすれば、つねに付き纏ってスパイ行為をつづける役人にしても、こずるく立ち回る欠乏会所の商人にしても、また物見高くて遠慮の無い庶民にしても、すこし付き合ってみれば、日本人が清潔で賢い人々であることにすぐに気がついたことであろう」。

 本書から、教科書からはみえない「小さな物語」がみえた。それは近代史のなかでは「小さな物語」であったかもしれないが、「小さな物語」の積み重ねで歴史がつくられていくグローバル化社会にあっては「大きな歴史」となっていく。近代の「小さな物語」を、現代のグローバル史のなかに位置づけ直すことによって、現代の問題がみえてくるかもしれない。

 3月から下田開国博物館の入館料が1200円に値上がりした。高すぎる! 多くの観光客は入館をためらうだろう。こういった文化施設、とくに地方の文化施設は無料で入館できるようにすべきだ。すくなくとも、特定の曜日や日を無料にして、地元の人びと、とくに子どもたちが身近な歴史や文化に接することができるようにすべきだ。本書の「小さな物語」を「大きな歴史」に結びつけることができるようになるには、まず地元の理解が必要になる。

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2017年03月14日

『胎動する国境-英領ビルマの移民問題と都市統治』長田紀之(山川出版社)

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 著者は、本書の目的をつぎのように述べている。「都市住民の階級的な差異や都市内諸地区の地域性にも留意しながら、移民統制にまつわる植民地行政の日常的実践が都市の人びとの暮らしにおよぼした影響について考察する。そうすることで、都市にコスモポリタンな社会状況が存在していたにもかかわらず、大規模な人種主義的暴力の発生を導くことになった都市社会内部の構造的要因を動態的に描き出すことを試みたい」。そして、その事例として、「植民地期ラングーンにおけるビルマ州政庁の移民統制策」を検討した。

 具体的な目的として、時間的には「一九世紀末から一九二〇年代にかけての時期を主たる対象として、ラングーンに生起した社会問題と植民地権力の対応を描くことで、一九三〇年五月の出来事を準備した都市社会構造の仮説的提示を試み」、空間的にはつぎのように考えた。「本書の対象時期、ビルマ州と英領インドの残りの部分とのあいだには国境が存在しなかったが、ラングーンにおけるビルマ州政庁の移民統制は、そこに国境にも似たある種の境界を生み出すことになったと考えられる。移民統制の進展過程を地方行政体による国家形成の一環として捉え、当該時期にラングーンに生み出された特殊な境界の性質を考察する」。

 歴史圏としては、「ビルマを、南アジア、東アジア、東南アジアの三つの圏域がその周縁において薄まりながら重なり合っているような融通無碍なフロンティア空間として捉え、現在みられる国家領域は、この柔らかな空間のうえに固い境界線をともなって出現したと考える」。

 本書は、序章「境界をうむ都市」、全5章と終章「居座る境界」からなる。著者は、つぎのように全5章をまとめている。「まず、舞台となるラングーン都市社会の概要を説明する。その社会は、コスモポリタンと形容できる多様性を有しつつも、移民労働者の圧倒的な流動性に規定されていた(第一章)」。「続いて、そうした流動性の高さが都市にどのような問題をもたらし、地方的な植民地権力であるビルマ州政庁が、それにどのように対応したかを検討する。第二章と第三章、第四章と第五章は、それぞれまとまりをなしており、前者は治安維持の、後者は公衆衛生と都市計画の問題を扱う。対象時期は章ごとに少しずつ異なるが、おおむね世紀転換期から一九三〇年頃までを、各章で繰り返したどることになる」。

 そして、終章冒頭で、検討した結果、明らかになったことを、つぎのようにまとめている。「管轄区域の内と外を区別し、内側に統治を確立しようとする地方的な植民地権力の制度構築と日々の行政実践を通じて、地図上に引かれた線にすぎなかった行政区画の境界が、徐々に実体化する様である。かつて、東アジア、南アジア、東南アジアのフロンティアに位置していたこの地域は、英領インドへの組み込みを経由して、固い国境線を有する国家へと変貌してゆく」。

 だが、そこには実態とはかけ離れた現実があったことを、つぎのように記している。「面的支配と境界管理は近代的統治の両輪をなし、相補的に国家的政体としてのビルマ州の領域性を高めていった。しかしながら、面的な支配は平野部に限られ、境界管理もほとんどラングーンの一点に集中していたということは留意しておく必要がある。植民地行政は、ビルマ州を取り囲む山地部において、またその地図上の外縁をなす地続きの国境・州境において、統治を徹底させる実際的な動機も能力も持ち合わせていなかった。むしろ、イギリスの導入した平野部と山地部との分割統治は、フロンティア空間のマンダラ諸政体を平野部から切り離して固化(ママ)[固定化]させるものであったといえる。そのような行政的配置に加え、平野部における民族別議員選出制度の導入もあいまって、かつての諸王に代わる主権的存在として想像された諸民族が、それぞれに政治的主張を掲げる状況が現出した。ビルマにおける植民地近代の特殊性は、ひとつには、このようなマンダラ的状況の固定化に見出せよう。国家的な行政空間としてのビルマ州は、ラングーンに座す植民地地方権力によって措定された理念的な枠組みであり、実態として、領域の一円的支配が貫徹されたわけではない」。

 終章では、「ここまでの議論を要約してラングーンに生まれた境界の性質について考察し、独立をへて現在にいたるビルマの近現代史を理解するうえで、本書が示唆するところ」を述べている。著者には、「現在のビルマ国家のかかえる問題を考えるうえでなにがしかの貢献」をしたいという思いがあり、問題の所在をつぎのようにまとめ、今後の展望を試みている。「ビルマ国家の形成過程において、植民地主義の行政実践が国家的な領域性を醸し出したという側面に光を当て、ビルマ・ナショナリズムを相対化する視座を設けたところであろう。その視座からは、考察の対象時期を独立後にまで延長して、植民地主義とナショナリズムとの相互作用のなかで、ビルマの国民国家形成を考えるという新たな研究の展望が開けてくる。植民地主義が都市社会に刻み込んだ境界は、植民地の行政空間がビルマ・ナショナリズムに引き継がれることによって、以後も居座り続けることになるからである」。

 今日のビルマの問題として、西部のバングラデシュ国境付近のイスラーム教徒であるロヒンギャがあるが、著者は「植民地期都市社会の言論のなかから生まれてきた「土着人種」に注目し、つぎのように説明している。「土着人種の概念は、独立後のビルマ国家を規定する基本的な枠組みをなし、当地に住む人びとに多大な影響をおよぼし続けている。そもそも独立ビルマ国家はその領域に土着であるとされる主要な諸人種による連邦国家として成立した。またその憲法や市民権法では、つねに、土着人種のいずれかに属していることが国民としての成員資格を得るためのもっとも根本的な条件であるとされた。現在のところ、この土着人種は、多数派のビルマ人を含めて一三五の人種(民族)から構成されるというのが公式の見解である。インドや中国、あるいはヨーロッパなどビルマの外側に起源をもつと考えられる人びとは、原則として、この一三五の土着人種のリストには含まれない外来人種、すなわち外国人[略]の範疇に属するものとみなされる。彼らは、無条件で生得的に国民成員資格を付与される土着人種の人びととは一線を画した存在である。外来人種の人びとを選択的・段階的にビルマ国民国家へと包摂していく法的な仕組みもつくられてはきたものの、依然、外来人種とみなされる人びとはこの国で生活していくうえでさまざまな不利をこうむっている」。

 そして、著者はつぎのように結論している。「ビルマ政府は一九四八年の独立以来、土着人種を緩やかに包摂し、外来人種を厳しく排除することにより、国民統合をはかってきたようにみえる。植民地期ラングーン社会に胚胎された境界は、なぜこれほど粘り強く居座り続けるのであろうか。差し当たり、植民地期を通じた植民地主義とナショナリズムの相互作用によって、「領域に基づく国家」の像と「人種・民族に基づく国民」の像がずれを含み込みながら重なり合い、土着人種と外来人種を区別する独立ビルマの国家枠組みを形作ったと考えておきたい」。

 この境界からうまれるアイデンティティとコスモポリタニズムの問題は、グローバル化が進む今日の問題として注目されるようになってきている。ビルマで100年先取りして起こったのは、重層する空間に位置していたからだろう。本書で著者が今後検討すべき課題としたものは、今日の移民政策に通ずるものを含んでいる。

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2017年03月07日

『台湾疎開-「琉球難民」の1年11ヵ月』松田良孝(南山舎)

台湾疎開-「琉球難民」の1年11ヵ月 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 「本書を手にとってくださった皆さんには、ぜひ疎開地訪問をお勧めしたい」。著者、松田良孝は「あとがき」でそう勧め、第2部「疎開地を訪ねてみる」のそれぞれの疎開地の冒頭にある「アクセス」では、交通手段、時間、料金などを詳しく説明している。著者のいう「皆さん」とはだれのことだろうか。わたしも含まれているのだろうか。

 その疎開地で、1カ所だけ選ぶとすれば、南方澳だという。その理由を著者はつぎのように説明している。「台湾と八重山の間には、今は国境があるし、植民地支配が行われていた当時も言葉、生活習慣の違いといった隔てがあったはずである。深刻な緊張関係が生じることもあったが、それにもかかわらず、人々は往来し、パイプをつないでいった。その往来を象徴的に表す場が南方澳だったと思う。生まれ育った土地や、自らもメンバーとなっていた人的ネットワークから切り離され、そのうえ国家の支援も望めない状態に陥っていた疎開者たちが台湾から生還してくるプロセスは、南方澳の存在抜きに説明することはできない」。ということは、台湾は八重山の人びとにとって生活圏だったのである。

 たとえば、つぎのような記述がある。「与那国島久部良出身の金城静子(1924年生)は、姉のヨシが南方澳で暮らしており、久部良と南方澳の間を「1年に何10回」も行き来していた。漁民だった義兄(姉の夫)が船を出すときに乗せてもらい、「向こうで2、3週間遊んだら、また帰ってきて」という具合である」。

 「太平洋戦争末期の1944(昭和19)年後半から、石垣島や宮古島など「先島」と呼ばれる地域を中心とする沖縄の住民約1万人が台湾へ疎開した。生活費や食糧の確保など疎開者に対する公的な援助は、終戦が近付くにつれて機能しなくなり、戦後、疎開者たちは棄民化していく。台湾では、少なくとも、1945年12月から1946年9月までの間、中華民国の当局者が引き揚げを待つ疎開者たちのことを「琉球難民」と呼んでいた」。

 本書は、「石垣島から台湾へ疎開し、帰還した3人の体験をもとに、台湾疎開の全容を描こうとするもので」、3部からなる。第1部「疎開」は序章、全7章、終章からなり、第1章「出発」から第7章「引き揚げ」までを取りあげる。第2部「疎開地を訪ねてみる」では、疎開地となった龍潭、新営、南投、佳里、麻豆と引き揚げ港となった南方澳の6カ所での現地の様子を伝えている。そして、第3部「疎開者帰還船の運航と台湾沖縄同郷会連合会」では、「疎開者の引き揚げを支援する目的で終戦後に結成された台湾の沖縄出身者組織「台湾沖縄同郷会連合会」の活動や、中華民国側が公式の疎開者帰還船を運航するまでの経緯などを取り上げた」。

 では、なぜ疎開することになったのだろうか。著者は、つぎのように説明している。1944年「7月7日夜、日本政府の緊急閣議で、南西諸島の奄美大島、徳之島、沖縄本島、宮古、石垣の5島から老幼婦女子の疎開を決定させることが決まる。沖縄本島から8万人を九州以北のいわゆる「内地」へ、宮古島と石垣島からは合わせて2万人を台湾へという内訳であった。これが「台湾疎開」の始まりである」。「石垣島で発行されていた日刊紙『海南時報』は同年8月20日付で疎開対象者の範囲を示した記事を掲載しており、そこには①60歳以上の者、15歳未満の者、②妊産婦病弱者、③前記①②に掲げる者の保護に必要な婦女、④その他在住の必要なしと認められたる婦女子-という4つのカテゴリーが挙げられている。いずれも、体力が弱いなどの理由から軍事行動には不向きとみなされる人たちだ」。

 しかし、これだけではなぜ南西諸島の人びとが疎開の対象になったのか、よくわからない。本書で気になったのは、「琉球人」ということばである。著者は、「あいまいな〝琉球人〟」という見出しを設けている。まず、「日本人が台湾人より優位に立っていた植民地台湾の中で、沖縄からやってきた人たちは他府県の日本人と同じように「内地人」として扱われている。沖縄出身者は台湾人を支配する立場にいたことになるが、実際には日本人と台湾人の中間に位置していたと言ってよい」。実際、疎開した子どもたちのなかには、「通学先で台湾人の子どもたちから「リュウキュウラン」という言葉を浴びせられ、石やマンゴーの種を投げつけられたケースがある」。「「リュウキュウラン」は「琉球人」を意味する台湾語」であった。そのいっぽうで、敗戦後、「戦争に負けた後からは、『琉球人』といって(呼ばれて)ね、少しは、本土の方(内地人)より親しくしてもらったよ」と回想する者もいる。「台湾人は「自分(台湾人)なんかが一等国民、二等国民が琉球人、本土の人は三等国民」という意味のことを言っていたという」。あきらかに、本土出身者と沖縄出身者は、区別されていた。

 では、冒頭に戻って、著者が想定した読者とは、だれであったのか。著者は、1969年埼玉県大宮市生まれ、北海道大学農学部を卒業し91年に十勝毎日新聞社に入社し、93年から八重山毎日新聞の編集部記者である。2004年に『八重山の台湾人』を出版している。疎開地訪問を勧める著者は、琉球人なかでも石垣島の人びとを読者対象とし、今後の石垣島と台湾の交流を見据えている。それは、著者の台湾での取材経験からきていることを、つぎのように述べている。「台湾へ疎開の調査に行くと、しばしば熱心な協力者に出会う。資料を惜しみなく提供され、インタビューに積極的に応じてくださる」。「本書は、台湾側で私の調査に関心を寄せる大勢の人たちの助けがなければ、到底、出版し得なかった」。

 そして、本書の「あとがき」をつぎのパラグラフで結んでいる。「日本の植民地支配に対する評価も一様ではない。本書で述べた通り、終戦直後には台湾人が日本人に対して報復することもあったが、疎開者が台湾人に助けられることもあった。第6章で取り上げた栄丸事件はその顕著な例である。その意味で、台湾疎開は沖縄戦の一部であるとともに、沖縄と台湾の人々が織りなしてきた交渉史の一断面でもある」。

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