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2016年11月29日

『地方からの国づくり-自治体間協力にかけた日本とタイの15年間の挑戦』平山修一・永井史男・木全洋一郎

地方からの国づくり-自治体間協力にかけた日本とタイの15年間の挑戦 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 本書は、JICA(国際協力機構)による国際協力プロジェクトの成功例のひとつを紹介したものである。1999年から2013年まで15年間つづいたタイ地方行政能力向上プログラム(日タイ共同研究会および自治体間協力プロジェクトフェーズ1~3)の成果は、つぎのようにまとめられた。「プロジェクトが終了した2013年、タイの県自治体が主体となって行われる自治体間協力は、全国の約30%にあたる21県で行われるようになり、県以下のレベルで行われる自治体間協力の事例を含めた場合、実に全国の約半分の県で活動が行われるようになった」。タイではもともと自治体間協力はみられなかったが、「防災や廃棄物処理や、インフラ整備などの行政サービスの提供で、複数の自治体が協力するようになった」のである。

 このプロジェクトがいかに成功したかを示すためには、同様のプロジェクトをおこなっているフィリピンとインドネシアと比較するとよくわかる。フィリピンではカナダとEUがおこなっているが、基礎自治体約1700ヶ所のうち、自治体間協力が充分に機能しているところは100ヶ所に満たない。ドイツがおこなっているインドネシアでは、自治体約500ヶ所のうちわずか22例しかない。その原因はよくわからない。「JICAは、共同研究会という独特の方法でこの問題を突破したが、他の国でもこの方法が通用するのかどうかわからない」。

 「あとがき」では、記録に残すことの意義を、つぎのようにまとめている。「ガバナンス分野での国際協力の事例は決して少なくない。しかし、本書でも指摘したように、相手国の内政に関わる分野だけに政治状況に大きく左右されること、インフラ整備などと違って政治や行政の制度設計に関する内容がわかりづらいこと、さらにはそうしたプロジェクトの成果を評価すること自体難しいことから、社会への還元や発信が難しいことも否定しがたい。そのうえ、本プログラムのように15年近い長期にわたると、関係者が多岐にわたり全体を見渡すこと自体大きな困難を伴う。資料の散逸は避けられず、鮮明な記憶もプログラム終了とともに急速に風化を免れない。共同執筆するにしても分担の割り振りや執筆時間の捻出など、さまざまのハードルが立ちはだかる。日本による技術協力事業の中には国際的に評価されるものがたくさんあるにもかかわらず、十分に国民に知られていないのも、こうした問題があるからだと思われる」。

 本書は、「15年間に及ぶ協力の全体像を振り返ることをとおして、その成功の要因や教訓を検討することを目指し」、3人の執筆者はつぎの3つの共通のメッセージを込めて、本書のタイトルを「地方からの国づくり」とした。「1つは、「自治体間協力」は国づくりを進めていくうえで大きな土台をつくるに違いない、というメッセージである」。「2つめは、国づくりの支援において「地方」に着目した点が、日本の特長を生かした国際協力だというメッセージである」。「そして3つめは、「ガバナンス」分野の国際協力は立派な「国づくり」であるというメッセージである」。

 3人の執筆者は、この意義ある国際協力プロジェクトの成功の記録を残さなければいけないと思ったのは、同じことをしてもつぎにうまくいくとは限らないからだろう。成功と失敗は紙一重で、どこかで原因不明で歯車が狂ったり、政変や自然災害が起こったりすれば、その場その場で臨機応変に対応しなければならない。この3つのメッセージは、その対応にたいする基本姿勢を示しているのだろう。

 ひとつ気になったのは、協力してくれた日本の自治体の人びとのことである。一方的に「教える」だけで、自分たちにはなんのメリットもなかったのだろうか。「成功」したのであれば、日本の自治体へもなんらかのいい影響があったのではないだろうか。日本の自治体がモデルとなるパーフェクトな存在とは思えないのだが・・・。

 インフラなどハードなODAは、すでに中国に主導権を奪われている。日本のODA政策も大幅に見直され、2015年に開発協力大綱が策定された。持続可能な開発目標(SDGs)のひとつとして、中央集権的国民国家の形成で「疲弊」した地方の再生がある。「質の高い成長」のためにも、国の基盤となる地方自治体の行政能力向上がひとつの鍵になる。

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2016年11月22日

『沖縄の神社』加治順人(ひるぎ社)

沖縄の神社 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 「沖縄の神社」とは、なにを指すのだろう。だれがなにを目的に建てたのだろう。そんな基本的なことも知らないで、沖縄のことは考えられない。

 本書の概要は、表紙見返しにある。「沖縄の神社は、身近な存在でありながら、発祥の由来や役割については案外知られていない。著者は伝統的な信仰についても造詣が深く、本書では、神職としての経験と研究者の視点から、沖縄の神社の歴史を分かり易く述べている」。「沖縄の神社の神は、ほとんど熊野三神であるが、神社発祥の由来と歴史について考えると同時に、御嶽信仰との関わりについても解明している。本書によって、沖縄の神社に対する理解が深まり、研究が進展することを願っている」。

 著者、加治順人は「沖縄にも神社、お宮と呼ばれる場所が存在し、正月などには多くの人々が参拝に訪れている。だが、それら沖縄にある神社と本土の神社とを比べると、何か違う雰囲気がある」。「それは神社だけでなく、一般に生活様式、慣習、風俗、信仰等においても同様なことがいえ、沖縄と本土には、今なお何か隔たりのようなものがあるように感じられる」と述べ、本書の目的をつぎのように記している。「本書は、本土から新しく入ってきた「神社」にテーマをしぼり、歴史的、文化的に本土とは異なる社会環境のなかで、神社という新しい信仰が、どのようにして受容され、どのように展開し現在の姿へとなっていったのかを明らかにすることを主眼に記述したものである」。「そして沖縄の神社の変遷をたどることによって、現在の沖縄が何を失って、なにを得てきたのかを探り、今後の沖縄の進むべき方向性の一環を考えていきたい」。

 琉球王朝時代の「神社は自然発生的に起こった」が、明治12年(1879年)「琉球処分」後、「神社を取り巻く環境は一変した」。「いわゆる国家神道の時代」になった。とりわけ徴兵制導入後の変化について、つぎのように説明している。「旧慣温存措置により実施されていなかった徴兵制度が本土から二五年遅れて(明治三一年より実施)施行されることとなり、県内からも日露戦争へ三、八六〇名が召集され、その内二〇五名が戦死、一四九名が負傷した」。「それらの戦死者を祀る為の招魂祭が県内各地で行なわれ、それぞれの地域でその地域出身の戦没者が祀られるようになっていった」。「県主催の招魂祭は、毎年秋に奥武山公園の広場(現在の護国神社裏手)で行なわれ神式と仏式とに分けて祭典が行なわれていた。また各市町村では、大正の始め頃から昭和初期にかけて、戦没者の慰霊のために建立された忠魂碑の前で毎年秋に祭典が執り行われ、そこで日清、日露戦争を始めとする種々の戦争で戦死及び戦病死した地元出身の戦没者が祀られた」。

 そのようななか、県は1936年に沖縄県招魂社を創建し、39年に内務省令で全国にある招魂社を護国神社と改称することとなったため沖縄県護国神社となった。そして、戦況の悪化にともない「戦没者の慰霊」から出征軍人の「必勝祈願」「武運長久」の場へと変わっていった。県が「国家神道」の観点から、本土主導で神社を整備していったのは当然の成りゆきであろうが、問題は地域の信仰とのかかわりであろう。それについて、つぎのように述べている。「その流れは地域の信仰の篤い普天間宮をはじめ、他の旧琉球八社や古来から信仰されてきた御嶽にも及び、武運長久を祈る姿が散見されるようになり、御嶽の前にも鳥居が建てられるようになっていった。このように当時の沖縄の神社は「本土の象徴」としての機能が強化されていったものと考えられる」。「昭和一九年御嶽が正規の神社に認定され、県町村に神社を一社建立することが決定されたが、戦況が逼迫し沖縄戦が始まったため計画が立ち消えとなった」。

 戦後、「護国神社は、戦没者慰霊という観点からその復興に対し県内外からの関心も高く、早期の復興が望まれ、これも全県的な募金により再建がなされている」。気になったのは、「近年御嶽を改修する際に神社様式の社殿が建立される事例も報告されており、御嶽・拝所の神社化という傾向が観られる」ことである。「現在の沖縄が何を失って、なにを得てきたのか」、「御嶽の神社化」からもすこしわかるような気がする。日本が植民地化したり占領したりした朝鮮、台湾、樺太、南洋群島、中国、シンガポールなどで建立した神社は、戦後悉く破壊された。御嶽の前に立てられた鳥居は、ひとつも壊されなかったのであろうか。現在でも、御嶽の前で熱心に祈る人びとの姿を見ることがある。その人びとにとって、鳥居はどういう位置づけなのだろうか。知りたくなった。

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2016年11月15日

『日本を愛した植民地-南洋パラオの真実』荒井利子(新潮新書)

日本を愛した植民地-南洋パラオの真実 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 「同じように日本が支配していた韓国や中国から、戦後、日本はさんざん悪者扱いされている。それなのになぜパラオの人々は日本を憎んでいないのだろう」、著者、荒井利子の本書執筆の原点である。

 本書の内容は、表紙見返しに、つぎのようにまとめられている。「大日本帝国の統治下にあったパラオ諸島を含む南洋の島々は、戦争で甚大な被害を受けた。それでも「日本の時代が一番良かった」と島民は言う。その前のドイツ支配下、あるいは戦後のアメリカの影響下とはどこが違うのか。古老の話から浮かび上がるのは、教育、経済、インフラ、文化がもたらした日本からの移民と島民との穏やかで豊かな日々だった-数多くの貴重な証言から、植民地支配に新たな視点を提示する一冊」。

 著者は原点となった疑問にたいして、「その鍵となるのが、現地の日本人にあった階層ではないか」と考え、「そこで重要な意味を持つのが沖縄の人たちの存在だ」と気づいた。そして、つぎのような答えを見いだした。「権力を行使し、偉そうにしている役人の前で、本土出身の民間人も沖縄県出身の民間人も、同じ日本人なのに小さくなっている。萎縮する彼ら民間の日本人の姿をパラオ人が見れば、自分たちパラオ人と同様に「差別されている仲間」として映ったのではないだろうか。だから、自分たちパラオ人が上中下の三層の中間に位置し、日本の民間人とも沖縄の民間人とも、より一層仲間意識が強化され、仲良くできたのだろう」。

 それにたいして、「アメリカ人はみなランクが上だと感じているから」、「アメリカ人とは冗談を言い合うようなことはない」。「日本統治時代を経験した老人たちは」、「公学校で教育を受け、日本人と共に働き、多くを学ぶ機会に恵まれていた。しかし、若者たちは戦後アメリカに放置され、充分な教育も受けられず、貧しい惨めな時代を過ごしてきた」。1994年にパラオは独立したが、「アメリカの経済援助抜きでは考えられない独立だった。援助の見返りとして、軍事目的でアメリカはパラオを使用できる」。「みんなアメリカの補助金で暮らしている。その補助金はほとんど公務員の給料で消える。公務員とは名ばかりで仕事なんかしていない」。

 植民地にもいろいろある。植民地化される以前の状況によって、人びとの植民地統治への反発は違ってくる。中国のように帝国であった国、韓国のように属国であった国、東南アジアの国ぐにのように中央集権化されていない大小さまざまな国ぐにがあったところ、「南洋群島」のように首長制社会が基本であったところなど、植民地化されて失ったもの得たものが、それぞれ違っていた。だが、たとえ得たものがあったとしても、植民地支配を正当化することはできない。自分たちが自分たちで決めて納得して得たものではないから、補助金漬けにされるようなことになる。

 「日本時代は良かった」という者もいれば、「戦争の頃は子どもで、自分の親を戦争でなくしたり、戦争になって家が壊されたり」して「日本人のことを恨んで」いる者もいる。「仕方がない」ことではなく、日本に植民地化された結果である。「アメリカは幸せをもたらさなかった」のも、日本が植民地にした結果でもある。

 近代をリードした欧米諸国が世界各地に植民地をもっていたため、「植民地支配とは何だったのか」ということが充分に検証されていない。支配した側が充分に過去を清算しないために、「植民支配下でもいいことがあった」という支配者側の発言に、された側が反発するのは、日本の植民統治にたいする韓国だけではない。韓国にたいして、台湾は親日であるとしばしば言われる。台湾が戦後発展したのは、日本の植民地支配のおかげではなく、台湾の人びとが努力したからである。韓国の人びとが努力しなかったわけではなく、南北に分断され朝鮮戦争になったことが今日まで大きく影響している。パラオの人びとの「親日」も、戦後のアメリカとの比較から印象的に述べているだけで、パラオ人の視点から日本統治時代をまだ充分に検証していない。台湾ですでにはじまっている日本統治時代の検証が、パラオでもおこなわれると「親日」の見方も変わってくるかもしれない。

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2016年11月08日

『東アジア 和解への道-歴史問題から地域安全保障へ』天児慧・李鐘元編(岩波書店)

東アジア 和解への道-歴史問題から地域安全保障へ →紀伊國屋ウェブストアで購入

 本書は2つのシンポジウムの報告のなかから、「本書のテーマに沿ってとくに重要だと思われる報告を文章にし、選択し、改めて修正・加筆、編集し、さらに必要と思われるイシューに関しては新たに執筆を依頼するなどし、全体の構成を行った」ものである。

 本書は、「はじめに」、2部5章20報告、「おわりに」からなる。全体の概要は、表紙見返しにつぎのようにまとめられている。「なぜ東アジア諸国は対立と不信と憎悪のスパイラルから抜け出せないのか。信頼と協力の枠組みはどうすれば構築できるのか」。「第一部では「歴史和解」問題をめぐり、ヨーロッパの戦後和解の事例を参照しながら、克服すべき課題や解決に向けての論点や筋道を明確化し、いかに過去と向きあうかを考える」。「第二部では東アジアの現在と未来に目を向けて、何が起こっているのか、共生に向けてどのような枠組みを構築すればいいのか、協調的安全保障のありかたを考える。そのさい、国家よりも人間の安全に焦点を合わせて、国家間対立を超えた「人間の安全保障」を地域共通のビジョンとする」。「日中韓の知識人たちによる共同討議の記録」。

 本書の2つのキーワード、「歴史和解」と「地域安全保障」について、本書で展開された20の報告に基づいて、編者のひとり李鐘元は、「おわりに」で、それぞれつぎのようにまとめている。「「和解」という概念は、新しい国づくりの要請に応じて誕生し、広い意味で用いられている。学問的な議論や分析は始まったばかりで、明確な定義に基づく理論化はこれからの課題である。まだ曖昧さが残る概念だが、以上のような世界的な取り組みから、「国際的和解」、すなわち国家間における過去の問題への取り組みとして三つの点である種の新しさを含んでいるといえよう。第一に、双方向性の強調である。和解という概念自体に「互いに近寄る」という意味が含まれている。加害者への一方的な断罪ではなく、その謝罪を踏まえ、被害者が許しを与え、受け入れる行為が強調される。第二に、抑圧構造の重層性への注目である。加害者と被害者という単純な二分法を超えて、加害集団(国)の中にも被害者があり、被害集団(国)の中にも中間的な加害者が存在する構造の複雑さに対する、より現実的な認識が強調される。第三に、未来志向、すなわち過去の問題を克服し、社会共同体として未来を築くことが重視される。上の二つの特徴も共同体の再建という実際的な目標から生まれたものといってよいだろう」。

 この一般的な「国際的和解」の考えを、日中韓の現状からどう考えればいいのだろうか、つづけてつぎのように述べている。「日中韓の間には過去の克服をめぐって、それぞれ異なるアプローチが対立しているのも事実である。水平的な関係性が背景にあり、「ヨーロッパ統合」という未来の共有をめざしてきた独仏関係では「和解」がキーワードとして定着している。しかし、東アジアの日中韓関係では、水平性、双方向性、重層性を主眼とする「和解」をめぐって様々な議論が存在する。日中韓の間の歴史問題は、その多くが垂直的な権力関係の構図の下で生じ、国家によって行われた行為が中心をなしている。その克服のプロセスは、水平的かつ双方向的な「和解」に一足飛びに進められるものではなく、垂直的で国家に由来する問題から始め、段階的に取り組むことが必要かも知れない」。  つぎに、「地域安全保障」については、つぎのようにまず現状を述べ、つぎに今後の課題をまとめている。「冷戦終結後には、国家間の戦争より、国境を越える地球的問題への共同対応が課題となり、「協調的安全保障」が提唱された。その延長線上で、国家より人間、すなわち一人ひとりの人間の安全に焦点をあわせるべきという「人間の安全保障」が国連によって提示され、日本外交の柱にもなっている」。

 今後の課題は、「地域協力のモデルをさらに発展させ、いかに軍事的争点をめぐる伝統的な安全保障分野の協力に結び付けるかであろう。社会や経済分野の機能的協力が安全保障を含めた政治協力を促進する「スピルオーバー」(「溢れ出し」)効果は容易に実現するものではない。しかし、政治・外交的な摩擦とは裏腹に、相互依存がますます深化している東アジア、とりわけ日中韓関係においては、具体的な課題と、国家以外の主体、様々な市民社会の働きに注目する「人間の安全保障」の枠組みが地域共通のビジョンになりうる。すくなくとも安全保障が軍事と同義語ではないことを認識し、国家間の対立をこえた協調のイメージを具体化することにつながるであろう。本書は、以上のような視点から東アジア、とりわけ日中韓関係のあり方を捉え直し、未来を展望しようとした議論の産物である」。

 本書の20の報告から、今すぐにでも起こりそうなことへの対処から、かなりの年月が必要だが一度関係が築かれると安定的な基盤になるものまで、さまざまなレベルで東アジア諸国間の信頼と協力のための試みがされていることがわかる。それがうまくいっていないのは、軍事力をともなう近代的国家間の安全保障が前面に出て、グローバルな「人間の安全保障」が充分に機能していないからだろう。国家間の問題が生じても、それに影響されない「人間の安全保障」を確立するためには、日中韓を中心とする東アジアだけでなく、さらに大きな地域的枠組みや人のつながりが重要になってくる。本書は、2つのシンポジウムでの報告が基になっている。ここまでこじれた関係を修復するには、本書のように論点を整理し、筋道を探るという地道な作業を積み重ねていくしかないだろう。

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