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2016年10月11日

『海のリテラシー-北大西洋海域の「海民」の世界史』田中きく代・阿河雄二郎・金澤周作編(創元社)

海のリテラシー-北大西洋海域の「海民」の世界史 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 前回扱った『越境するコモンズ』の「海」と本書の「海」は、はたして同じ土俵で議論できるのだろうか。まずは、本書のキーワードである「リテラシー」と「海民」を理解しなければならないだろう。

 「編者を代表して」田中きく代が執筆した「序章 海民の世界と海のリテラシー-一八・一九世紀の北大西洋海域から」で、「海のリテラシー」について、つぎのように説明している。「「海のリテラシー」あるいは「海民のリテラシー」とは、識字力に限定するものではなく、「海の情報」を取得し、理解し、発信し、活用する能力、換言すれば、海に張り巡らされた、人、モノ、情報を移動させる海のネットワークを成り立たせる情報へのアクセス権を行使できる能力である」。

 「海」と同一視された「海民」は、つぎのように説明している。「海民(seafaring people)という概念には、それを漁民や船乗りに限定して、狭義に定義するアラン・カバントゥなどの見解がある。しかし、より多様な海の世界を把握するには、陸と海に両足を置く、海と陸の境海域に生きる人々を射程におかなければならない。そこで本書では、フランスの卓越した海域史研究者G・ル・ブエデクが主張するように、また、秋道智彌・田和正孝編『海人の自然誌』でも提案されているように、海民を、そうした人々、つまり半農半漁の人たち、船主、貿易商人、海軍兵士、海賊など、広く「海に生きる人々」と捉えることにする」。

 本書は、「海民」が「立ち向かってくる海の脅威との狭間で、海をどのように理解し、表現していたのであろうか。また、いかにして海と折り合いをつけて生業を営んでいたのであろうか。そして、海という独特の環境と人間の生活空間がいかなる相互作用のうちに互いを形成していたのか」、「こうした素朴な疑問に答えるために、さまざまな海民の移動や経済活動、ライフスタイル、それに価値観・世界観や彼らのおかれた物質的・空間的な条件の諸相を取り上げる」。

 本書は、最近の海域史研究を踏まえて書かれていると、つぎのように説明している。「本書は、単に知られざる海の世界に生きる人々の実態を究明したいという社会史的な関心にのみ導かれているのではない。最近の多くの海域史研究が目指しているように、本書でも、海を陸の補助的な存在として捉える陸域中心の歴史叙述に対して、歴史学におけるパラダイムの転換を促すことが企図されている。海の世界は統合的なまとまりを欠き、周縁的に見えるかもしれない。だが、実はそれは陸域を補完する以上の意義を有する存在である。北大西洋海域を、海に生きる人々の世界に立脚した視点で取り上げることで、ある一定の陸の領域内に生きることを前提とされている人々、たとえば臣民・国民・市民といった人々のみを研究対象としていては、まったく見えてはこない世界、その存在を提示したい。それは、多様で複層的な世界であり、またそれらが海や陸を介して大西洋以外の諸海域とつながり、場合によっては普遍的と言ってもよいような共時性を持つものであったことも指摘したい」。

 つづけて、本書が海域史研究のなかで、「どの潮流に属するのか」、つぎのように明らかにしている。「世界システム論や環大西洋革命論に刺激された北大西洋海域の歴史研究は、社会経済史現象を重視する一方で、文化史的次元にまで踏み込むものは少なかった。それに対し、バーナード・ベイリンが先鞭をつけ、現在無数の研究成果を産み出しているアトランティック・ヒストリーは、大西洋を囲む四つの大陸の間の接触、交流、遭遇、分断とそのプロセスをさまざまなアプローチで析出し解釈している。他にも、たとえば、クラインとマケンサム編の論集『シー・チェンジズ』は文学理論を果敢に援用した分析を披露しているし、マーカス・レディカーは、マルクス主義的な視角から大西洋を横断する商船員や海賊や奴隷を位置づけなおしている。英米圏以外でも大胆かつ精緻な、海民の日常や心性に迫る研究がなされている。フランスのミシェル・モラ=デュ=ジュルダンやアラン・カバントゥはこの方面の開拓者である。本書は、こうした一連の研究に刺激を受けて、海民の世界に、文化的次元から切り込む試みである」。

 このように用意周到な背景のもとで、「「海を飼い慣らす」ための「海(民)のリテラシー」という中心コンセプトを根本に置いて」書かれた12本の論文は、「問いの性質に応じて三つの部に分けられ」、つぎのようにまとめられている。「まず、海民が「海をどのように理解し、どのように表現していたのであろうか」という問いに挑んでいる論考は、第Ⅰ部「海を読む/語る」に収められている。第1章は、ヨーロッパで最大規模の難破譚アンソロジーに含まれる語りを分析して、船乗りが海の危険を生き残るためのリテラシーの諸相や条件を論じ、第2章は、新聞に掲載された大西洋を渡る船乗りたちの航海譚を精査することによって、船乗りの情報伝達者としての資質や独特の心性に迫る。第3章は、カリブの島生まれの一八世紀末のある作家の作品を読み解いて、「海」に込めた独特の意味付けを浮かび上がらせる。そして第4章は、特殊な「海の文化共同体」ともいえる地中海の港湾都市トリエステで発行されていた商業新聞に注目して、大西洋のかなたの両アメリカ大陸への見果てぬ夢の語られ方を検討している」。

 「次に、海民が「いかにして海と折り合いをつけて生業を営んでいたのであろうか」という問いを共有した論考が、第Ⅱ部「海で/と生きる」にまとめられている。第5章は、フランスのある貿易商人に焦点を合わせ、彼がいかにしてリスクの大きな奴隷貿易に乗り出し、海のリテラシーを駆使して利潤を上げようとしたかを活写しており、第6章は、アメリカ合衆国の港湾都市で成功した自由黒人の商人兼船長の生きた「海の文化共同体」を、その経済活動のみならず、アボリショニズム(アメリカにおける奴隷制度廃止運動)への関わりとともに描きだす。そして第7章は、非合法の裏ネットワークを利用して違法な奴隷貿易に邁進した特異な奴隷商人兼船長の軌跡をたどり、第8章は、製靴業の栄えたアメリカ東海岸の港湾都市リンのとある靴職人の日記を手掛かりに、副業としての漁業のありさまと、人的なネットワークを再構成している」。

 「そして、「海という独特の環境と海民の生活空間がいかなる相互作用のうちに互いを形成していたのか」という問いに挑む論考群は、第Ⅲ部「海が/を創り出す」に配されている。第9章は、ヨーロッパの大西洋沿岸部に点在する、潮の満ち引きを利用して沿岸で魚群を獲る(=「海を飼い慣らす」)、石干見(いしひび)と呼ばれる人工の構築物(漁具)、すなわち物質的な「テクスト」を、「文化誌」的に記述している。続く二つの章はともに近世フランスの港湾都市群(中位の「海の文化共同体」)に取材したもので、第10章は、港どうしを結びつけていた多重的なネットワーク-商品・労働力・資本の供給-の存在を理路整然と説明し、第11章は、従来の研究では見落とされがちな、「小さな港」たちが作り上げたミクロな資本主義圏を浮かび上がらせている。そして第12章は、やはり注目されることのあまりないデンマーク領のカリブの島に光を当てて、奴隷として連れてこられた黒人たちの心性、暮らし、労働、そして奴隷制廃止後の紆余曲折を、島の変容とともに、デンマーク領であったという特性を意識して論じている」。

 近代をリードし、自然を克服しようとした人間中心史観のヨーロッパに基盤を置いた研究だけに、「海を飼い慣らす」ということが中心コンセプトにある。海と人との共存を目指すコモンズという考え方とは基本的に違う。このふたつの考え方を二律背反と捉えるのか、議論の余地はあると捉えるのかによって、本書の読み方はずいぶん違ってくる。現実にいま起こっている海をめぐる領域紛争や海賊の問題は、両方の考えが交錯しながら問題をより複雑にしているといってもいいかもしれない。そのもつれた糸を解すためにも、両方の考えを取りいれながら、解決への道を模索することが必要だろう。

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