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2016年10月25日

『戦後補償裁判-民間人たちの終わらない「戦争」』栗原俊雄(NHK出版新書)

戦後補償裁判-民間人たちの終わらない「戦争」 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 「戦争被害受忍(じゆにん)論」(「受忍論」)、これが本書のキーワードである。著者、栗原俊雄は、つぎのように説明している。「補償を拒否する行政、あるいは補償の必要性を認めない司法が論拠としてきたものだ。要するに「戦争で国民みんながひどい目に遭(あ)った。だからみんなで我慢すべきだ」という「法理」である。筆者はこれを「一億総懺悔(ざんげ)の法理」と呼んでいる」。

 みんな平等に我慢すれば、この「法理」は納得いくものかもしれない。だが、本書を読むと、納得がいかず、長年補償を求めて国を相手に裁判を起こしている民間人たちがいることがわかる。不平等は、1952年に日本が独立を回復してからはじまった。戦時災害保護法に基づく民間人被害者への補償と援護は、43年に合計20万円、44年に1533万円、45年に7億8560万円と急速に増えていった。これにたいし、軍人・軍属への補償と援護は43年に1億84万円、44年に1億5558万円、45年に2億2771万円だった。45年の1件あたり民間人49円にたいして軍人・軍属76円で民間人のほうが低いが、総額では民間人のほうが多かった。

 敗戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、1945年11月に軍人恩給の停止を命じ、戦時災害保護法も廃止した。軍人であろうが民間人であろうが、「生活保護法」や「身体障害者福祉法」などで対応すべきというのが理由だった。この「平等」が、53年に軍人恩給が復活して崩れた。民間人を補償対象とした戦時災害保護法は、復活しなかった。

 その結果、「空襲によって左足の大腿(だいたい)部から下を失った女性(A)」が「障害者等級二級」で障害年金年間79万2100円の支給であったのにたいし、「同じ障害を負った軍歴12年以上の元軍人(B)」は113万2700円の軍人恩給に392万7000円のけがによる増加恩給を加えて505万9700円の支給であった。年間426万7600円、35年間で1億4936万6000円の差になる。

 本書で、著者は軍人・軍属と民間人の差が大きく、民間人も軍人・軍属並の援護が必要である、と繰り返し主張している。この軍人・軍属並の意味がよくわからない。「軍人軍属は、旧日本軍の直接の戦闘命令下に置かれ、実際に戦地に赴くなどし、戦闘行為を行った結果、負傷し、疾病に罹患し、又は死亡するなどしたものであるから、立法府において、そのような事実に着目して軍人軍属に対する戦後補償の立法措置を講じたことが不合理であるということはできない」という裁判の判決は、戦後日本国籍を失った旧植民地出身者を補償の対象から外したことを考えると理解できない。「不当な差別ではなく、理由のある区別」だと説明されても、軍人・軍属というものが敗戦後なくなったのだから、その理由は成り立たない。それどころか、戦時下で管理職にあった者は、責任をとって恩給の対象から外すべきだ。

 ここで問わなければならないのは、敗戦後、「受忍論」を受け入れたのなら、軍人・軍属と民間人の区別なく「生活保護」や「身体障害者福祉」という観点から援護していくというGHQの命令が、主権回復後なぜ引き継がれなかったのか、ということである。軍人・軍属に「恩給」が支給されたことで、遺族会などが圧力団体となって、「靖国問題」など戦後処理ができなかったことが、今日まで大きく尾を引いている。恩給の支給と靖国神社に祀られることが結びつかなければ、靖国神社の意味も違っていただろう。今日までおよそ50兆円が元軍人・軍属や遺族に支払われたことが、「民間人たちの終わらない「戦争」」の原因のように思える。

 著者は、この問題がやがて戦争被害者がいなくなって自然消滅する、とは考えていない。「あとがき」で、つぎのように述べている。「この「受忍論」は昔話ではない。これを放置していたら、この先、大規模な人災、新しい戦争や原発事故によっておびただしい人たちが被害に遭った場合も、「みんなひどい目に遭ったんだから……」「すべてに補償していたら国家財政がもたない」というような、本書でみてきた行政と司法の理屈がまかり通るだろう。立法の不作為も繰り返されるだろう」。「だから、現在の私たち、未来の人たちが冗談のような「受忍論」の被害者にならないためにも、この「法理」の欠陥性を伝え、警鐘をガンガンとけたたましく鳴らさなければならない。そう考えて筆を執った。本書が「受忍論」の不条理さを伝え、われらの日本国から、負の遺産が清算されることを祈る」。

 すくなくとも、責任の所在を明確にしなければ、冗談で済まされない「受忍論」を受け入れさせられてしまう。

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2016年10月18日

『海洋アジアvs.大陸アジア-日本の国家戦略を考える-』白石隆(ミネルヴァ書房)

海洋アジアvs.大陸アジア-日本の国家戦略を考える- →紀伊國屋ウェブストアで購入

 便利な本である。「日本の国家戦略を考える」ための基礎データに基づきながら、わかりやすく説明してある。本書は、2014年5~11月に出版社でおこなわれた4回のセミナーを大幅に加筆訂正したもので、2015年8月末を「現状」としている。基礎データをこれだけ集めて整理するだけでもたいへんであり、「現状」が刻々と変わるなかで「現状」分析することは並大抵ではない。出版できたのは、著者、白石隆の「歴史の重みをよくよく考慮しながら、国際政治・政治経済の分析をしてみたい」という基本姿勢があるからだろう。

 本書の概要は、表紙カバー見返しにつぎのように記されている。「経済規模がG7を上回り、アジアが「世界の中心」となりつつある今、アメリカは、アジア回帰へと舵を切った。巨大国家・中国を中心とする大陸連携の動きのなかで、現在の「力の均衡」を担保しつつ、通商・安全保障の新秩序を創ることはできるのか。アジアの地政学的な状況把握から、東南アジア・ASEAN諸国の現状を詳細に分析し、戦後七〇年を経た日本の国家戦略を探る」。そして、出版社のホームページには、2つの[ここがポイント]「◎ これを読めば今のニュースの見方・見え方が変わる。◎ 戦後70年を迎えた今、海洋アジア対大陸アジアの図式のなかで日本の国家戦略を探る」が掲げられている。

 本書は、序章と4回のセミナーを1回ずつ1章とした4章からなる。その内容は、つぎのようにまとめられて、セミナー参加者に話しかけている。「第一回目は長期、長期といっても一〇~一五年、せいぜい二〇三〇年くらいまでの時間の幅ですが、この幅で、東アジア/アジア太平洋/インド・太平洋地域の国際関係をどう考えているかをお話ししたいと思います。そのあと第二回からは、現状分析、あるいは現状と展望の話となります。ただし、長期の趨勢といい、現状と展望といっても、あくまでこの地域の歴史の文脈の中で考えるわけで、適時、過去に遡ります。しかし、そのときにも、あまり遠い過去まで遡ることはせず、せいぜい二五~三〇年、つまり、一九八〇年代半ば以降くらいのところで考えるようにします。また、「東アジア/アジア太平洋/インド・太平洋」という地域の枠組みについて、なぜこういう少々もって回った言い方をするかもふくめて、いずれ行論の中で説明しますが、基本的には、太平洋からインド洋に至るこの広大な地域の国際関係を理解する上で、地域の枠組みを固定的に考えない方がよい、その方がこの地域の国際関係のダイナミックスがよくわかるということです」。

 著者の「歴史の重みをよくよく考慮しながら」という姿勢は、「序章 なにが問題なのか」によく現れている。最初の3つの見出し「「一九世紀文明」」「米ソ二極体制という二〇世紀システム」「グローバル・ガバナンスと世界の趨勢」で、今日につづく趨勢が理解できる。そして、4つめの見出し「世界を理解するための社会科学とは」で、方法論が示されている。

 1970年代に留学先のアメリカで国際政治学を学んだ著者は、「パラダイムとして、リアリズム、リベラリズム、構築主義がある」という基本にたいして、「世の中、こんなパラダイムでそんなにきれいに分析できるわけがないという確信」をもつようになり、「序章」をつぎのようなことばで締めくくっている。「しかし、制度を動かすのは人です。したがって、構造と人、英語で言えば、structureとagencyの関係をどう考えるかという問題は、特に明示的に議論するわけではありませんが、特に現状分析においては、よくよく注意しておく必要があります」。

 帯には、「アメリカを中心とする海洋同盟と中国を中心とする大陸連携、その大きなうねりのなかで、日本が進むべき道とは何か」という宣伝文句があるが、本書で「海洋」「大陸」が対概念として詳しく論じられているわけではない。ここで使われる「海洋」も、人類学、社会学、歴史学とは違う戦略的な意味で使われている。著者のいう「制度を動かすのは人です」を考えると、「海洋」を動かすのはどのような人で、「大陸」を動かすのはどのような人であるのか、興味がわいてくる。

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2016年10月11日

『海のリテラシー-北大西洋海域の「海民」の世界史』田中きく代・阿河雄二郎・金澤周作編(創元社)

海のリテラシー-北大西洋海域の「海民」の世界史 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 前回扱った『越境するコモンズ』の「海」と本書の「海」は、はたして同じ土俵で議論できるのだろうか。まずは、本書のキーワードである「リテラシー」と「海民」を理解しなければならないだろう。

 「編者を代表して」田中きく代が執筆した「序章 海民の世界と海のリテラシー-一八・一九世紀の北大西洋海域から」で、「海のリテラシー」について、つぎのように説明している。「「海のリテラシー」あるいは「海民のリテラシー」とは、識字力に限定するものではなく、「海の情報」を取得し、理解し、発信し、活用する能力、換言すれば、海に張り巡らされた、人、モノ、情報を移動させる海のネットワークを成り立たせる情報へのアクセス権を行使できる能力である」。

 「海」と同一視された「海民」は、つぎのように説明している。「海民(seafaring people)という概念には、それを漁民や船乗りに限定して、狭義に定義するアラン・カバントゥなどの見解がある。しかし、より多様な海の世界を把握するには、陸と海に両足を置く、海と陸の境海域に生きる人々を射程におかなければならない。そこで本書では、フランスの卓越した海域史研究者G・ル・ブエデクが主張するように、また、秋道智彌・田和正孝編『海人の自然誌』でも提案されているように、海民を、そうした人々、つまり半農半漁の人たち、船主、貿易商人、海軍兵士、海賊など、広く「海に生きる人々」と捉えることにする」。

 本書は、「海民」が「立ち向かってくる海の脅威との狭間で、海をどのように理解し、表現していたのであろうか。また、いかにして海と折り合いをつけて生業を営んでいたのであろうか。そして、海という独特の環境と人間の生活空間がいかなる相互作用のうちに互いを形成していたのか」、「こうした素朴な疑問に答えるために、さまざまな海民の移動や経済活動、ライフスタイル、それに価値観・世界観や彼らのおかれた物質的・空間的な条件の諸相を取り上げる」。

 本書は、最近の海域史研究を踏まえて書かれていると、つぎのように説明している。「本書は、単に知られざる海の世界に生きる人々の実態を究明したいという社会史的な関心にのみ導かれているのではない。最近の多くの海域史研究が目指しているように、本書でも、海を陸の補助的な存在として捉える陸域中心の歴史叙述に対して、歴史学におけるパラダイムの転換を促すことが企図されている。海の世界は統合的なまとまりを欠き、周縁的に見えるかもしれない。だが、実はそれは陸域を補完する以上の意義を有する存在である。北大西洋海域を、海に生きる人々の世界に立脚した視点で取り上げることで、ある一定の陸の領域内に生きることを前提とされている人々、たとえば臣民・国民・市民といった人々のみを研究対象としていては、まったく見えてはこない世界、その存在を提示したい。それは、多様で複層的な世界であり、またそれらが海や陸を介して大西洋以外の諸海域とつながり、場合によっては普遍的と言ってもよいような共時性を持つものであったことも指摘したい」。

 つづけて、本書が海域史研究のなかで、「どの潮流に属するのか」、つぎのように明らかにしている。「世界システム論や環大西洋革命論に刺激された北大西洋海域の歴史研究は、社会経済史現象を重視する一方で、文化史的次元にまで踏み込むものは少なかった。それに対し、バーナード・ベイリンが先鞭をつけ、現在無数の研究成果を産み出しているアトランティック・ヒストリーは、大西洋を囲む四つの大陸の間の接触、交流、遭遇、分断とそのプロセスをさまざまなアプローチで析出し解釈している。他にも、たとえば、クラインとマケンサム編の論集『シー・チェンジズ』は文学理論を果敢に援用した分析を披露しているし、マーカス・レディカーは、マルクス主義的な視角から大西洋を横断する商船員や海賊や奴隷を位置づけなおしている。英米圏以外でも大胆かつ精緻な、海民の日常や心性に迫る研究がなされている。フランスのミシェル・モラ=デュ=ジュルダンやアラン・カバントゥはこの方面の開拓者である。本書は、こうした一連の研究に刺激を受けて、海民の世界に、文化的次元から切り込む試みである」。

 このように用意周到な背景のもとで、「「海を飼い慣らす」ための「海(民)のリテラシー」という中心コンセプトを根本に置いて」書かれた12本の論文は、「問いの性質に応じて三つの部に分けられ」、つぎのようにまとめられている。「まず、海民が「海をどのように理解し、どのように表現していたのであろうか」という問いに挑んでいる論考は、第Ⅰ部「海を読む/語る」に収められている。第1章は、ヨーロッパで最大規模の難破譚アンソロジーに含まれる語りを分析して、船乗りが海の危険を生き残るためのリテラシーの諸相や条件を論じ、第2章は、新聞に掲載された大西洋を渡る船乗りたちの航海譚を精査することによって、船乗りの情報伝達者としての資質や独特の心性に迫る。第3章は、カリブの島生まれの一八世紀末のある作家の作品を読み解いて、「海」に込めた独特の意味付けを浮かび上がらせる。そして第4章は、特殊な「海の文化共同体」ともいえる地中海の港湾都市トリエステで発行されていた商業新聞に注目して、大西洋のかなたの両アメリカ大陸への見果てぬ夢の語られ方を検討している」。

 「次に、海民が「いかにして海と折り合いをつけて生業を営んでいたのであろうか」という問いを共有した論考が、第Ⅱ部「海で/と生きる」にまとめられている。第5章は、フランスのある貿易商人に焦点を合わせ、彼がいかにしてリスクの大きな奴隷貿易に乗り出し、海のリテラシーを駆使して利潤を上げようとしたかを活写しており、第6章は、アメリカ合衆国の港湾都市で成功した自由黒人の商人兼船長の生きた「海の文化共同体」を、その経済活動のみならず、アボリショニズム(アメリカにおける奴隷制度廃止運動)への関わりとともに描きだす。そして第7章は、非合法の裏ネットワークを利用して違法な奴隷貿易に邁進した特異な奴隷商人兼船長の軌跡をたどり、第8章は、製靴業の栄えたアメリカ東海岸の港湾都市リンのとある靴職人の日記を手掛かりに、副業としての漁業のありさまと、人的なネットワークを再構成している」。

 「そして、「海という独特の環境と海民の生活空間がいかなる相互作用のうちに互いを形成していたのか」という問いに挑む論考群は、第Ⅲ部「海が/を創り出す」に配されている。第9章は、ヨーロッパの大西洋沿岸部に点在する、潮の満ち引きを利用して沿岸で魚群を獲る(=「海を飼い慣らす」)、石干見(いしひび)と呼ばれる人工の構築物(漁具)、すなわち物質的な「テクスト」を、「文化誌」的に記述している。続く二つの章はともに近世フランスの港湾都市群(中位の「海の文化共同体」)に取材したもので、第10章は、港どうしを結びつけていた多重的なネットワーク-商品・労働力・資本の供給-の存在を理路整然と説明し、第11章は、従来の研究では見落とされがちな、「小さな港」たちが作り上げたミクロな資本主義圏を浮かび上がらせている。そして第12章は、やはり注目されることのあまりないデンマーク領のカリブの島に光を当てて、奴隷として連れてこられた黒人たちの心性、暮らし、労働、そして奴隷制廃止後の紆余曲折を、島の変容とともに、デンマーク領であったという特性を意識して論じている」。

 近代をリードし、自然を克服しようとした人間中心史観のヨーロッパに基盤を置いた研究だけに、「海を飼い慣らす」ということが中心コンセプトにある。海と人との共存を目指すコモンズという考え方とは基本的に違う。このふたつの考え方を二律背反と捉えるのか、議論の余地はあると捉えるのかによって、本書の読み方はずいぶん違ってくる。現実にいま起こっている海をめぐる領域紛争や海賊の問題は、両方の考えが交錯しながら問題をより複雑にしているといってもいいかもしれない。そのもつれた糸を解すためにも、両方の考えを取りいれながら、解決への道を模索することが必要だろう。

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2016年10月04日

『越境するコモンズ-資源共有の思想をまなぶ』秋道智彌(臨川書店)

越境するコモンズ-資源共有の思想をまなぶ →紀伊國屋ウェブストアで購入

 「コモンズを通して地球史を見つめつづけてきた著者の最新成果にして集大成!」と帯にある。著者、秋道智彌は、本書を「既刊の『なわばりの文化史』や、わたし自身が中心的にかかわった『日本の環境思想』、『日本のコモンズ思想』に依拠して、コモンズとなわばりに関する思想を論じる総合的研究」と位置づけ、「先行研究と実地調査を踏まえ、コモンズとなわばりについての現代的な意義をあきらかにする学際的な試みでもある」と述べている。

 本書の特徴のひとつは、序章「コモンズとなわばりの思想」で、5節にわたって「先行研究を踏まえてその研究の意義をあきらかにして」いることである。60頁を超える「序章」は第Ⅰ部として論ずるだけの質と量があり、「コモンズとなわばりをキー概念として自然と人間、自然と文化のかかわりを包括的に分析するためにはどのような方法があるのか」、その前提となる基本が「遺伝学、分類学、生態学、地理学、民族学、地質学、社会学などを組み合わせた統合的な視野からの分析」にあるとして整理している。

 第Ⅱ部にあたる第1~6章は、著者の長年にわたる実地調査に基づいている。各章はきれいに5節づつに整理されている。「序章」最後で、それぞれの章をつぎのようにまとめている。第1章「資源とコモンズ」では、「自然と文化を二元的にとらえる近代主義的な発想を超えて、資源利用におけるコモンズ的な枠組について位置づける」。第2章「保有となわばり」では、「資源へのアクセス権の検討から、保有に関するさまざまな事例を提示し、資源の特性に応じたコモンズとなわばりの存在を提示する」。第3章「自然とカミの世界」は、「超自然的な側面と人間との関係性を、山の神、アイヌの送り儀礼、生き物の霊性、森と海のカミ論として検討する」。第4章「震災復興とコモンズ」では、「東日本大震災を事例として、復興におけるコモンズ思想の重要性を指摘し、新しい復興論として提案する」。第5章「コモンズと循環」では、「生態系に着目して、循環と越境の視点からコモンズとなわばりの問題を検討する」。最終章の第6章「コモンズと歴史」では、「コモンズ論を人類史、あるいは文明の枠組で検討し、文明の生態史観をレビューする。さらに王権が土地や海面の保有に果たした役割について検討する」。

 そして、結論「地球時代のコモンズ」では、「本論で議論したもろもろの点をひとまず整理したうえで結論」を導くために、論点を5点にまとめている。「1.存在論と主体性論」「2.共有と私有の二元論」「3.分配をめぐる進化論」「4.アクセス権の三極モデルとその動態」は、「理論面での帰結であり、歴史を踏まえたコモンズとなわばり論である」。「5.共食とグローバル・コモンズ」は、「現代の食と水に関する応用問題」であるとし、「結論では、第4章と第5章をふまえた未来への提言とした」と述べ、「本論を地域や歴史を超えて、この分野に取り組む諸学の人びとのみならず広くコモンズと境界論を学びたい人びとへのメッセージとしたい」と、本書を結んでいる。

 36頁の及ぶ巻末の「文献」一覧から、日本語、英語、中国語で書かれた先行研究を中心に網羅的に把握したうえで「序章」が書かれ、実地調査の成果も古今東西を扱った文献に裏づけされたものであることがわかる。

 副題に「まなぶ」とあるとおり、本書は自己満足的な「集大成」ではなく、著者が読者とともに「まなび」、「コモンズを通して地球史」を発展させるための「覚書」である。しかし、それはたんなる「覚書」ではなく、2011年に発生した東日本大震災や本年4月の熊本地震などにたいして、自身の研究で培ったものを、どう実際に応用し役立てるか、提起することをも想定したものである。「自然と文化を包摂した観点から地域ごとに育まれ、地域で共有されてきた歴史と経験をローカル・コモンズ」として、「復興に資する思想的な基盤」とすることを考えたものである。

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