« 『新・アジア経済論-中国とアジア・コンセンサスの模索』平川均・石川幸一・山本博史・矢野修一・小原篤次・小林尚朗編著(文眞堂) | メイン | 『南シナ海でなにが起きているのか-米中対立とアジア・日本』山本秀也(岩波ブックレット) »

2016年09月06日

『華人のインドネシア現代史-はるかな国民統合への道』貞好康志(木犀社)

華人のインドネシア現代史-はるかな国民統合への道 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 領域、人民、権力という国家の三要素と照らしあわせれば、日本という国家は説明しやすい。日本列島という地理的に孤立した空間をもち、理解しやすい共通した言語・文化的環境のなかで、天皇という主権者を長年にわたっていただいてきた。だが、現在インドネシアとして知られる国家は、人びとが「自由」と「平等」を求め、理想的な社会を建設すべく努力した結果生まれたものである。その100年余の奇跡を「華人」を通して描き出そうというのが、著者、貞好康志の試みである。

 「華人」を主人公にした理由について、著者は「はじめに」でつぎのように説明している。「本書が描こうとするのは、直接的には、インドネシアの国民統合への歩みの中で周辺者や部外者、ときに国民の敵とさえ扱われがちだった華人の苦闘の歴史である。その際、誰より当事者である華人が、国家や民族への帰属をどのように構想・表現してきたか、その声に耳を傾けたい。特にPTI[1932年に設立されたインドネシア華人党]以来、「インドネシアこそ、われわれの祖国だ」と唱えた華人たちはなぜそのような主張を行なったのか、彼らの言動は現実の情勢をどう反映しいかなる影響を及ぼしたか、その過程にどのような摩擦や葛藤がみられたか、という視点を軸に考えたい。「インドネシア志向」の華人たちの言動を軸に捉えるのは、何よりそれが芽生えた植民地期にはきわめて微々たる動きだったにもかかわらず、独立後から現在にかけて数多の試練を経つつも着実に成長し、いまや華人社会の主流の位置を占めるに至っている、と思われるからである」。

 本書は、序章と4部全10章からなる。時系列的に、「「華僑から華人へ」を歴史的必然、少なくとも予定調和的な変化とは捉えず、その過程で各国社会、特に華人たちが直面してきた葛藤や苦難ともども、二〇世紀を中心とするインドネシアで具体的に何がどのように展開したのか検証しつつ描くことを主眼とする」本書の全体的特徴を、著者はつぎのように3つあげている。「①ほぼ一世紀の時間的スパンでたどること、その際、②国民統合思想としてのナショナリズムにおける「血統主義」と「属地主義」の現れ方に留意すること、また、③オランダ領東インド・中国・インドネシアの歴代政府の政策やインドネシア情勢との相互作用に目を配りつつ、誰より当事者である華人自身の声に耳を傾けること、特に祖国選択において「インドネシア志向」に立脚した華人指導者の言説を追うこと、である」。

 各部で扱う年代と内容は、つぎの通りである。Ⅰ部「華人問題の原型-植民地期」では、「オランダ植民地期のうち、現代に直接つながる一九世紀末以降を扱う」、Ⅱ部「「インドネシア志向」への試練-激動期」では、「一九四〇年代から一九六〇年代前半までの四半世紀を扱う。ナショナリズム運動、あるいはインドネシア国家の最高指導者としてスカルノが君臨した時代とほぼ重なる」。Ⅲ部「華人政策と矛盾の拡大-スハルト体制期」では、「一九六〇年代後半から三〇年以上にわたって続き、華人の国民統合の上でも正・負両面から大きな影響を及ぼしたスハルト体制期について考察する」。Ⅳ部「新たな「インドネシア民族」へ-改革期」では、「前時代までの旧弊の刷新を目指し急速な民主化が進んだ、いわゆる改革(略)期を扱う。一方で知識人を中心とする華人自身の動向を追うと同時に、他方では国家を代表する政府の対応をみる」。

 「単一民族多種族国家」を目指してきたインドネシア・ナショナリズムのなかで、華人がインドネシア民族のなかの1種族となっていく過程を、時代や社会のなかで理解しようとする本書の試みは、「おわりに」でつぎのように結論づけられた。「インドネシアの人々が「指導される民主主義」を脱し、自らの手で民主化を進めようとしたとき、政治単位となるネイションを実態に即して作り直す必要が生じた。そのとき、新生のネイションに改めて参入し、かつ正式に迎えられる準備が華人にはできていた。それは一朝一夕で生じたものではなく、本書で描いてきた植民地期以来の華人の苦闘の歴史、また非華人や政府指導者も含めた「国民的」経験の積み重ねを基礎とすればこそ可能になった、同時に中国の動向をはじめとする国際環境の変化も重要であった、というのが筆者の結論である。より一般的にいえば、インドネシアのように移民国家ではない国においても、移民出自の人々を含めたネイションの作り直しは可能である。ただし、インドネシアの華人の例のように、それには一〇〇年単位の時間と関係各者の絶えざる努力を必要とする、ということになろうか」。

 「国民統合」ということばの意味合いもずいぶん変わってきた。著者がこの研究テーマに着手した四半世紀前ころから、「国民統合」されても「国民」の自由度が増してきた。本書のⅣ部にあたる時期は、流動的な傾向が強い人びとが動きやすくなり、国家もそれを認め、「国民」であることの窮屈さが薄らいできた時期でもある。また、東南アジアから戦争の危険性が消え、アセアン10ヶ国へと向かう時期でもある。そんななかで、インドネシア「民族」にとって、華人という「種族」の役割が大きくなってきた。著者が強調する100年という時間と国際環境の変化の意味が、アセアンや東南アジアを含む東アジアという地域のなかのインドネシア華人を考えることで、よりいっそう理解できる。近年、華人に注目する研究者が多くなってきているのも納得がいくことである。

 だが、インドネシアの華人研究ができ、その研究に意義があること自体が、インドネシアの華人研究の終わりのはじまりを示しているのかもしれない。インドネシアで「種族」の意味がなくなれば、華人が「種族」であることの意味もなくなる。「単一民族多種族国家」は、ほかの東南アジア諸国にもいえることだが、それぞれ「種族」の意味も違い、華人の位置づけも違う。アセアン共同体の3本柱のなかでは経済が先行し、政治安全保障が話題になっているが、もうひとつの柱である社会文化でも活発な議論がおこなわれている。そのなかでアセアンのなかの華人がどう考えられているのか、注視したい。

→紀伊國屋ウェブストアで購入

トラックバックURL

このエントリーのトラックバックURL:
http://booklog.kinokuniya.co.jp/mt-tb.cgi/5861