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2016年08月16日

『グローバルヒストリーと東アジア史』羽田正編(東京大学出版会)

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 本書は、「東京大学東洋文化研究所が、復旦大学文史研究院、プリンストン大学東アジア研究学部と共催で、二〇一一年から一三年にかけて、三回開催した世界史/グローバルヒストリーに関する国際会議での報告と討論を基に編まれた」。

 「序章 新しい世界史/グローバルヒストリーとは何か」冒頭で、編著者の羽田正は、「本書の意義」について説明している。まず、「グローバルヒストリー」というカタカナ語を導入するにあたって、つぎの前提が必要であると述べている。「それは、英語圏の研究と日本語での研究に問題関心、枠組み、視点、方法などの点で違いがなく、異なるのは研究が発表される言語だけだと考えることである。英語のworld historyと日本語の世界史は、同じ問題関心、枠組み、視点、手法を持ち、同じような研究の系譜をたどり、現在相互に混じり合って存在する研究分野であると考えてはじめて、グローバルヒストリーが英語のglobal historyに対応することになる」。もちろん、そんなことはありえない。

 さらに編著者は、歴史研究と周辺領域の研究との関係について、つぎのように述べている。「歴史研究は単独では成り立たない。歴史学とその周辺に位置する人文学・社会科学系の諸学が生み出す総体としての人文社会知、とりわけ世界観が歴史研究を行う背景に存在し、新しく生み出された研究成果はその一部に組み込まれて、理解される。日本語による人文社会知を背景にした世界観は、他言語によるそれと複雑に重なり合い、絡み合い、微妙に異なって成立している」。

 以上から、編著者はつぎのようにまとめている。「英語によるworld historyと日本語の世界史は、異なる言語による人文社会知の蓄積と世界観を背景として、原則としては、別々に発展を遂げて今日に至ったと考えた方がよいということである。とするなら、global historyとグローバルヒストリーとが完全に対応し、意味が一致しているとはいえない」。そして、編著者は、「グローバルヒストリーは、日本語での新しい世界史の解釈と理解を生み出すための方法であり、両者は表裏一体の関係にある」と解している。

 だが、編著者の解釈を、「本書に論文を寄せたすべての研究者がこの点で完全に合意しているわけではない。言語間の相違は言うまでもなく、同じ言語におけるグローバルヒストリー(global history、全球史)の意味も完全に一致しているとはいえない。それが現状なのである」。

 つまり、本書の意義は、まずこの「現状」を理解することにある。さらに、英語圏も一枚岩でないことを、つぎのように説明している。「「西洋文明」の歴史を中心に置くアメリカ合衆国のworld history、大陸ヨーロッパとは一線を画したイギリス帝国(British Empire)史を意識するイギリスのworld history、イギリス植民地から独立したオセアニアという立ち位置から世界を眺めるオーストラリアのworld historyが、すべて同じ問題関心と視点、手法を持っているとは考えにくい」。

 ということは、言語、地域、人文社会知などによって、歴史の捉え方が違うということで、この「現状」を理解したうえで、つぎの段階を試みたのが本書の基となった国際会議であり、つぎのようにその意義を説明している。「グローバルヒストリー、あるいはglobal history、全球史といったカテゴリーにくくられる研究が、日本だけではなく、英語圏やフランス、ドイツ、中国などで盛んになっているとすれば、私たちがまず行うべきことは、よく似た枠組みの中でそれぞれの国や言語単位で別々に行われている議論を互いに参照しあい、相互の立場や研究の枠組みと背景、議論の文脈などをよく理解することである。それがある程度進んで、互いの研究の問題関心が十分に了解されるようになってはじめて、次の段階、すなわち、国や言語の壁を越えた世界史はあるのか、あるとすればそれはどのようなものか、またそのような世界史は必要かといったより大きなテーマについて、有意義な意見交換の場が設定できるようになるだろう」。

 本書は2部全15章からなる。第1部は「方法論との関係がより強い論文」、第2部は「具体的な史実の紹介や実証に重点を置いた論文」が並んでいる。「本書は、国際的な共同研究が次の段階に進むために用意された中間報告」であることから、批判することはそれほど難しいことではない。日本語、英語、中国語の3ヶ国語で東アジア史に限定したことの有効性と限界を語る必要があるだろうし、それぞれの言語による歴史教育および教育外での歴史イメージの形成による弊害など、あげだしたらきりがない。これらの批判を充分踏まえたうえで、国際会議が開催されたのであろうし、グローバルヒストリーの功罪についても議論されたことだろう。なによりも、だれのため、なんのためのグローバルヒストリーが問われたことだろう。

 言語の問題で言えば、人文社会知、とくに人文知では母国語を基本に議論することが重要になり、トリリンガルとは言わないまでも、バイリンガル研究者間での議論が基本となる。その点で、日本語で議論できる外国人研究者がすくなく、3ヶ国語で議論するときにもっとも弱い言語になっており、今後ますます弱くなることが予想されることが問題となる。日本語が学術・研究言語として生き延びることができるのかどうか、日本として深刻に考え、緊急に対処しなければならないだろう。

 かつて、政治と経済中心の制度史から脱却するために社会史や全体史の重要性が語られるいっぽう、批判も相次いだ。批判のひとつは、自分たちを主体的に語る史料が充分でなく書こうにも書けない歴史が無限大にあること、書くことによって紛争を煽ったり個人の尊厳を軽視したりする危険性があることなど書かないほうがいいと判断されることがあることなどであった。第1部と第2部は、その意味で、相矛盾することがある。第1部の方法論を説得的なものにするためには、その具体例を同じ執筆者が第2部で書くこともひとつの方法であろう。だが、視野を広げて語る方法論で、専門外の領域の具体例をあげると、必ず「間違っている」「正確ではない」という批判が出る。その批判に応えるのが、共同研究の役割だろう。個々の研究者にその克服を求めると、だれも視野を広げて書かなくなり、学問の発展はなくなる。

 「最終報告書」がどのようなものになるのか楽しみだが、決定的な結論が望めることではないため、つぎの段階に進むためのどのようなさらなる「中間報告」が示されるのか、期待したい。

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