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2016年08月30日

『新・アジア経済論-中国とアジア・コンセンサスの模索』平川均・石川幸一・山本博史・矢野修一・小原篤次・小林尚朗編著(文眞堂)

新・アジア経済論-中国とアジア・コンセンサスの模索 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 本書のような現状を概括して理解できる本は、専門外の研究者にとってひじょうにありがたい。ということは、大学の教科書としても使えるということである。本書の概要は、帯につぎのようにまとめられている。「中国がアジアを変えるのか、アジアが中国を変えるのか!」「驚異的な経済成長に伴い、人民元の国際化から軍事費の増大、一帯一路戦略、AIIBなど、世界は中国の拡大に関心を高めている。「ワシントン・コンセンサス」と「北京コンセンサス」の限界を分析、「アジア・コンセンサス」と呼ぶ新たなアジアの開発協力モデルを気鋭の研究者が提示する」。

 キーワードは、副題にある「中国」と「アジア・コンセンサス」。本書の目的は、「はしがき」でつぎのようにまとめられている。「本書は、東アジアにおけるグローバリズムの実態と功罪、そして「ワシントン・コンセンサス」および「北京コンセンサス」の限界を実証的に分析しながら、われわれが「アジア・コンセンサス」と呼ぶ、新たな開発協力モデルを提示することを目的としている」。

 さらに、つぎのように説明している。「安価な労働力に依拠した高成長路線の減速や株式バブルの崩壊によって、中国のこれから「新常態(ニューノーマル)」のもとでの構造改革を進めていくことが求められている。そのような現実を直視し、東アジアが世界経済のなかでどのような位置づけにあるのか、中国の膨張と調整をどのように捉えれば良いのか、どのような地域協力体制を構築すれば共存共栄できるのか、考察している。東アジアは世紀を超えて「世界の成長センター」としての地位を保ってはいるが、そこには「変わるアジア」が存在している。そのなかで「アジア・コンセンサス」なるものを模索し、それを日本の羅針盤、日本経済の再生に結びつけることが必要不可欠であるとの認識も、本書の構想の根源にある」。

キーワードのひとつ、「アジア・コンセンサス」を理解するためには、「ワシントン・コンセンサス」と「北京コンセンサス」を理解しなければならない。本書は、3部全14章と第Ⅲ部に含まれながら別格とされた「終章 アジアの新たな開発協力モデル-「ワシントン・コンセンサス」と「北京コンセンサス」から「アジア・コンセンサス」へ-」からなる。

「ワシントン・コンセンサス」は「終章」の注9で、John Williamsonが2003年に発表した論文に基づいて、つぎのように説明されている。「もともと「ワシントン・コンセンサス」とは、1989年にJ.ウィリアムソンが提示したもので、当時累積債務危機に陥っていたラテン・アメリカで着手され始めた10項目の政策改革アジェンダである。正確には、米国の首都ワシントンDCにあるシンクタンク、国際経済研究所(現ピーターソン国際経済研究所)がラテン・アメリカ10カ国から研究者を招いて開催した国際会議においてウィリアムソンが提示したバックグラウンド・ペーパーに由来する。その中身は、①財政規律、②公共支出の優先順位の見直し、③税制改革、④金利の自由化、⑤競争的な為替レート、⑥貿易自由化、⑦対内直接投資の自由化、⑧民営化、⑨規制緩和、⑩財産権、で構成されている。1990年代になると、「ワシントン・コンセンサス」は新自由主義的な処方箋と同義とみなされるようになり、ワシントンDCにある米国政府機関、そしてIMF、世界銀行、および米州開発銀行などの国際機関が集団的に追求する政策パッケージとみなされるようになる」。

 「ワシントン・コンセンサス」にたいして、「「北京コンセンサス」は「教義としては分類できないほど柔軟で、すべての状況に対する均一の解決策を信じるものではない」という」。「前者が同意を要求するのに対して、後者は同意を求めるわけではなく、内政不干渉をその特徴としている。かつて冷戦下で「第1のアメリカ帝国」が政策選択の自由を認めたように、「北京コンセンサス」の台頭は世界各国に「選択する自由」をもたらすことも期待される」。

 では、「ワシントン・コンセンサス」でも「北京コンセンサス」でもない「アジア・コンセンサス」とはなにか。「終章」では、「漠然とした曖昧さや多様性を容認したうえで、確実に歩んでいくこと」が鍵で、「「話し合いをつうじてコンセンサスを成立させる」という意味があり、反対に「全会一致の状況ができあがるまで、決定を先延ばしにして、話し合いを続ける」という意味もある」1955年の「バンドン会議における「ムシャワラー」の精神」だと述べている。これは、なにも決めらず信用できないとアセアン以外の国ぐにに不評の「アセアンウェイ」ではないか。アジア的価値観を代表するものが、アセアン的というのも、今日のグローバル化社会では納得のいくことである。確固とした制度に縛られた近代国民国家にたいして、流動的な海域社会を基本とする東南アジアの価値観は、グローバル化社会にふさわしい。ということは、中国を変えるのは、アメリカでも日本でもなく、東南アジアということだろうか。すくなくとも、本書からも東南アジアの重要性が伝わってくる。

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2016年08月23日

『忘却された支配-日本のなかの植民地朝鮮』伊藤智永

忘却された支配-日本のなかの植民地朝鮮 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 表紙見返しに、本書の内容がつぎのようにまとめられている。「戦争体験と比べて、意識されることの少ない「植民地支配」の記憶。だがふとした日常に、その消えない記憶、忘れられない遺物が見え隠れする」。「宇部、北海道、筑豊、紀州、知覧、そして四国・・・・・・炭鉱や特攻で死んだ植民地出身の犠牲者を想起し、追悼しようとする人びとの営みをたどる」。「植民地支配の体験とはなにか、それは日本にどのような感情や記憶を刻み、当時と今になにをもたらしているのか。毎日新聞の連載「支配した国 強制の記憶」をもとに単行本化」。

 本書でとりあげている記念碑や博物館を列挙してみよう。
 1982年、宇部炭田長生炭鉱「殉難者之碑」建立
 2013年、宇部炭田長生炭鉱「追悼碑」建立
 1982年、筑豊麻生吉隈炭鉱「徳香追慕碑」再建
2000年、飯塚市国際交流広場「無窮花堂」建設
 2010年、紀州鉱山「朝鮮人追悼碑」建立
 2008年?、知覧特攻平和会館「アリランの鎮魂歌碑」建立
 1998年、東郷茂徳記念館オープン
 1972年、万世「慰霊碑」建立。1993年万世特攻平和祈念館オープン
 2009年、筑前町立大刀洗平和記念館オープン

 比較的最近建てられたものがあることに気づく。そのことについて、著者の伊藤智永は、つぎのように語っている。「特に冷戦後、世界中で人権意識が高まり、インターネットで民間のつながりが発達すると、国の枠を破って個人が前面に出てきた。国同士で「解決」した問題も、民間の力を借りて補う工夫と努力を、今や国家が必要としている」。

 そして、民間が声を上げるのに時間がかかったことを、つぎのように説明している。「一様にほぼ半世紀経って声を上げるのは、今さら蒸し返したり、ようやく勇気が出たからではない。恐らく個人の記憶を社会的な言葉にするには、さまざまな他者と向き合える十分な強さと粘りを熟成させるまでに、それだけの歳月を要するのだ。そうした声が、忘却されていた歴史を社会的記憶に変える。その手順を「思い出す」と呼んでもいい。歴史の、まして戦争という多面的で全体的な体験の社会的記憶は、忘却から引っ張り出すのにも手間と時間がかかる」。

 体験者がいなくなったから、できることもある。証拠となる文献などがなくても、体験者と体験者の周辺にいた人びとは「事実」を知っている。その「事実」を知る人がいなくなったとき、証拠がないとして「無きもの」にするのか、証拠がないからこそ「事実」を「事実」として受けとめるのかによって、人間性が問われる。植民地支配は、支配した側の論理で文献が残る。したがって、植民地支配にもいいことがあるという論理になる。支配を受けた側を主体とした歴史資料が乏しいがゆえに、支配された側は泣き寝入りを支配された側から要求される。植民地支配から解放され独立しても、政治的、経済的に劣勢であると旧植民地宗主国側の論理を受け入れざるをえない場合がある。1965年の日韓基本条約が結ばれたときの韓国は、朝鮮戦争の結果、軍事的にも経済的にもアメリカや日本に頼らざるをえなかった。そのときの状況を無視して、「国同士で解決済みの問題を今さら蒸し返すな」というのは、植民地支配の意味と実態を知らない宗主国側の一方的な見方だ。植民地支配は、支配が終わり、支配の意味を問おうとしたときに、よりその弊害が如実に表れ、支配された側の苦悩がはじまるが、支配した側は支配した事実さえ忘れようとする。それが歴史認識問題として表面化する。解決するためには、支配した側が支配された側のひきつづく苦悩を理解するしかない。

 著者は、「おわりに」でつぎのように述べている。「「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」(安部談話)という願望は、「支配され、強制された」側にすれば、虫がよすぎる上に、お門違いだろう」。強制か強制でないかを議論すること自体が、「強制」の意味がわかっていない。植民地支配下の住民が、支配している側から言われれば、すべて「強制」なのである。それが植民地支配で、その必要がないなら植民地支配する意味もない。

 著者は、「戦争の記憶の底に眠り、日本各所に埋もれる植民地支配と強制の記憶」を、つぎのようにまとめて、本書を終えている。「「民族」「国民」としては支配者の子孫に他ならない日本人でありながらも、そのような記憶にこだわる営みは、同情や憐憫や贖罪だけでは決して続かない。支配し強制した過去を認めたくない多くの人たちの心情と、あえて認めさせようとする少数の人たちの信条。植民地の歴史を持ち出せば、必ずと言ってよいくらい、対立とすれ違いも生まれる。それらの心情と信条が何に根ざし、どう受け継がれてきたのかを探ることも、植民地支配と向き合う上で避けては通れない。しかし、そうした難所を通って植民地支配にこだわる営みは、安部談話で満足するような戦争の思い出し方に、それとは違う思い出し方を差し出してみせていると思えた。そのこだわりを尋ね歩くことが、私の戦後七〇年取材になった」。

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2016年08月16日

『グローバルヒストリーと東アジア史』羽田正編(東京大学出版会)

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 本書は、「東京大学東洋文化研究所が、復旦大学文史研究院、プリンストン大学東アジア研究学部と共催で、二〇一一年から一三年にかけて、三回開催した世界史/グローバルヒストリーに関する国際会議での報告と討論を基に編まれた」。

 「序章 新しい世界史/グローバルヒストリーとは何か」冒頭で、編著者の羽田正は、「本書の意義」について説明している。まず、「グローバルヒストリー」というカタカナ語を導入するにあたって、つぎの前提が必要であると述べている。「それは、英語圏の研究と日本語での研究に問題関心、枠組み、視点、方法などの点で違いがなく、異なるのは研究が発表される言語だけだと考えることである。英語のworld historyと日本語の世界史は、同じ問題関心、枠組み、視点、手法を持ち、同じような研究の系譜をたどり、現在相互に混じり合って存在する研究分野であると考えてはじめて、グローバルヒストリーが英語のglobal historyに対応することになる」。もちろん、そんなことはありえない。

 さらに編著者は、歴史研究と周辺領域の研究との関係について、つぎのように述べている。「歴史研究は単独では成り立たない。歴史学とその周辺に位置する人文学・社会科学系の諸学が生み出す総体としての人文社会知、とりわけ世界観が歴史研究を行う背景に存在し、新しく生み出された研究成果はその一部に組み込まれて、理解される。日本語による人文社会知を背景にした世界観は、他言語によるそれと複雑に重なり合い、絡み合い、微妙に異なって成立している」。

 以上から、編著者はつぎのようにまとめている。「英語によるworld historyと日本語の世界史は、異なる言語による人文社会知の蓄積と世界観を背景として、原則としては、別々に発展を遂げて今日に至ったと考えた方がよいということである。とするなら、global historyとグローバルヒストリーとが完全に対応し、意味が一致しているとはいえない」。そして、編著者は、「グローバルヒストリーは、日本語での新しい世界史の解釈と理解を生み出すための方法であり、両者は表裏一体の関係にある」と解している。

 だが、編著者の解釈を、「本書に論文を寄せたすべての研究者がこの点で完全に合意しているわけではない。言語間の相違は言うまでもなく、同じ言語におけるグローバルヒストリー(global history、全球史)の意味も完全に一致しているとはいえない。それが現状なのである」。

 つまり、本書の意義は、まずこの「現状」を理解することにある。さらに、英語圏も一枚岩でないことを、つぎのように説明している。「「西洋文明」の歴史を中心に置くアメリカ合衆国のworld history、大陸ヨーロッパとは一線を画したイギリス帝国(British Empire)史を意識するイギリスのworld history、イギリス植民地から独立したオセアニアという立ち位置から世界を眺めるオーストラリアのworld historyが、すべて同じ問題関心と視点、手法を持っているとは考えにくい」。

 ということは、言語、地域、人文社会知などによって、歴史の捉え方が違うということで、この「現状」を理解したうえで、つぎの段階を試みたのが本書の基となった国際会議であり、つぎのようにその意義を説明している。「グローバルヒストリー、あるいはglobal history、全球史といったカテゴリーにくくられる研究が、日本だけではなく、英語圏やフランス、ドイツ、中国などで盛んになっているとすれば、私たちがまず行うべきことは、よく似た枠組みの中でそれぞれの国や言語単位で別々に行われている議論を互いに参照しあい、相互の立場や研究の枠組みと背景、議論の文脈などをよく理解することである。それがある程度進んで、互いの研究の問題関心が十分に了解されるようになってはじめて、次の段階、すなわち、国や言語の壁を越えた世界史はあるのか、あるとすればそれはどのようなものか、またそのような世界史は必要かといったより大きなテーマについて、有意義な意見交換の場が設定できるようになるだろう」。

 本書は2部全15章からなる。第1部は「方法論との関係がより強い論文」、第2部は「具体的な史実の紹介や実証に重点を置いた論文」が並んでいる。「本書は、国際的な共同研究が次の段階に進むために用意された中間報告」であることから、批判することはそれほど難しいことではない。日本語、英語、中国語の3ヶ国語で東アジア史に限定したことの有効性と限界を語る必要があるだろうし、それぞれの言語による歴史教育および教育外での歴史イメージの形成による弊害など、あげだしたらきりがない。これらの批判を充分踏まえたうえで、国際会議が開催されたのであろうし、グローバルヒストリーの功罪についても議論されたことだろう。なによりも、だれのため、なんのためのグローバルヒストリーが問われたことだろう。

 言語の問題で言えば、人文社会知、とくに人文知では母国語を基本に議論することが重要になり、トリリンガルとは言わないまでも、バイリンガル研究者間での議論が基本となる。その点で、日本語で議論できる外国人研究者がすくなく、3ヶ国語で議論するときにもっとも弱い言語になっており、今後ますます弱くなることが予想されることが問題となる。日本語が学術・研究言語として生き延びることができるのかどうか、日本として深刻に考え、緊急に対処しなければならないだろう。

 かつて、政治と経済中心の制度史から脱却するために社会史や全体史の重要性が語られるいっぽう、批判も相次いだ。批判のひとつは、自分たちを主体的に語る史料が充分でなく書こうにも書けない歴史が無限大にあること、書くことによって紛争を煽ったり個人の尊厳を軽視したりする危険性があることなど書かないほうがいいと判断されることがあることなどであった。第1部と第2部は、その意味で、相矛盾することがある。第1部の方法論を説得的なものにするためには、その具体例を同じ執筆者が第2部で書くこともひとつの方法であろう。だが、視野を広げて語る方法論で、専門外の領域の具体例をあげると、必ず「間違っている」「正確ではない」という批判が出る。その批判に応えるのが、共同研究の役割だろう。個々の研究者にその克服を求めると、だれも視野を広げて書かなくなり、学問の発展はなくなる。

 「最終報告書」がどのようなものになるのか楽しみだが、決定的な結論が望めることではないため、つぎの段階に進むためのどのようなさらなる「中間報告」が示されるのか、期待したい。

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2016年08月09日

『陸軍燃料廠-太平洋戦争を支えた石油技術者たちの戦い』石井正紀(光人社NF文庫)

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 「陸軍燃料廠は、海軍燃料廠ほど歴史は古くない。正式に創設されてから、わずか五年で終戦とともに霧散した。その間、資金的にも、人的にも、膨大な資源を投じたにもかかわらず、終戦のどさくさで、ほとんどの資料は火炎の中で灰燼と帰し、その全貌は、今日までほとんど明らかにされなかった。その意味では、幻の組織だった」。「本部隷下の研究所とは別に、陸軍大臣に直轄した技術研究機関として、二つの機関が存在していた。電波兵器などの研究をしていた多摩陸軍技術研究所と本書に記した陸軍燃料廠である。ともに大臣直轄にするほど重視されたわけで、これだけでも陸軍燃料廠の軍における存在価値が知れる。それに見合うだけの人材も、それこそ国中から集めた」。

 本書は、著者石井正紀による前著『石油技術者たちの太平洋戦争』の続編である。著者は、前著を書いた時点で気づかなかったことを2点、つぎのようにあげている。「一点は、戦前、石油資源を求めて南方へ派遣された石油関係者は、予想していた以上に多岐にわたっていたということである。しかも、彼らの多くは、自分たちがどのような位置付けで南方へ行かされたのか、よくわからないままに、ただひたすらにお国のために海を渡ったということである。そして、多くは無為のまま終戦を迎え、ただ抑留生活を送る苦難だけを味わった」。

 「もう一点は、パレンバンを中心に活躍した南方燃料廠(軍の組織上は寺内元帥率いた南方軍隷下)とは別に、中央に、陸軍燃料廠が存在していたことである。この組織については、陸軍大臣直轄の、しかも所属した廠員数は、雇人までいれれば一万数千人に及ぶ一大部隊でありながら、終戦とともに霧散してしまい、その実体は詳らかにされないままに、今日に至っている」。「とくに、組織の中核である東京府中にあった本部、燃料研究所で働いていた多くの技術者、研究者が、終戦とともに職を解かれて、貴重な資料共々、人材までが国内に霧散して、その後長いこと、陸軍燃料廠という組織について語られることはなかった。のちにノーベル化学賞を受賞した福井謙一博士も、その中の一人だった」。

 著者は、「本書をまとめる上でもっとも苦労したのは、やはり資料収集だった。この点では、前書のときより、さらに難しかった」と述べている。その原因は、敗戦時の焼却処分にあった。その様子を、つぎのように述べている。「燃料研究所をはじめとして、整備部、技術部などでは関係書類の焼却処分に忙しかった。当時、本部には南方方面から運び出された膨大な量の技術資料があった。一部は、後日の参考用にと東大へ疎開させていたが、まだ相当な量の資料が保存されていた。これらの資料は、戦時中は占領物として自由に入手していたが、ひとたび立場が変われば、戦勝国の資料を勝手に持ち出したことになるわけで、戦犯にもされかねないことをおそれて、運転中の資料も含めて徹底的に焼却することにした」。

 このことは、占領地にあった膨大な量の技術資料のなかに、それまで日本人技術者が知らなかったものが含まれていたことを意味している。つまり、石油に関する技術は、日本のほうがずいぶん劣っていたことになる。その技術を占領することによって「盗んだ」という罪の意識があったことから、戦犯から逃れるために焼却処分をしたのである。戦後、技術者が霧散したのは、まとまることで技術を「盗んだ」ことがばれることをおそれたためかもしれない。これらの技術資料をえることによって、戦後の日本にどのような影響があったのか。福井謙一のノーベル賞とは、まったく関係がなかったのか。資料がないだけでなく、語ることができないことがあったことが、本書の執筆を困難にしたのではないだろうか。

 本書執筆の貴重な資料となった『陸軍燃料廠史(技術編・満州編)』および『陸軍燃料廠史(岩国編)』が出版されたのは、ともに1979年である。出版されるまでに四半世紀かかったことが、「幻の組織」だった所以かもしれない。

 そして、この石油技術者が歩んだ道は、戦後「国策」となった原子力利用の技術と関係がないのだろうか。「国中から集めた」人材が、「よくわからないままに、ただひたすらにお国のために」技術力の発展だけを考えているということはまさかないだろうが、戦争という異常事態のなかでの倫理無視が、平常時にまかり通っているとすれば、それこそ技術者の「死」を意味する。

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