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2016年07月19日

『大本営報道部-言論統制と戦意昂揚の実際』平櫛孝(光人社NF文庫)

大本営報道部-言論統制と戦意昂揚の実際 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 本書の単行本が出版されたのが、1980年。敗戦後35年間がたっている。著者平櫛孝は、「1908年、広島市に生まれる。広島陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学校卒、陸軍野戦砲兵学校、陸軍砲工(科学)学校教官、陸軍省軍務局付、陸軍省(大本営)報道部員、留守第3師団参謀、第43師団参謀兼第31軍参謀兼中部太平洋艦隊参謀を経てサイパン戦に参加。陸軍中佐。1980年2月、没」。

 本書は、まず陸軍士官学校予科の教育への、つぎのような疑問からはじまる。「十八歳から十九歳の少年期を、政治的な指導も、政治的関心もなく、全員校内で起居をともにし、新聞も雑誌も、上司の許可のないものはいっさい読む機会もなく、許された新聞でさえ世論、政治の記事は切り抜かれてあり、「世論に惑わず」とか「政治にかかわらず」の金科玉条のもと、一般の世界から遠く隔絶された別世界で暮らさせられ、「世論」とはそもそもどんなものかさえ知るべくもなく、ただ、食欲のみに生甲斐を感じる世界だった。しかし、「惑わず」とか「かかわらず」ということと、それを「知らせない」「教えない」ということは違うと思う。戦争のような総合的な判断力を必要とする事件にたずさわるものの教育方法が、はたしてこれでよかったか、という疑問は、当然のこととして残る」。

 そのような教育を受けた者が報道部員になり、「大本営報道部員と陸軍省報道部員の二つの肩書きを持っていた」。部長以下12名の部員は、新聞、情報、一般軍隊の下士官兵向き旬刊新聞「つわもの」編集、月刊誌・週刊誌・単行本、内閣情報局員・用紙統制委員、音楽、絵画、演劇・映画、庶務の分担にしたがって仕事をした。

 その仕事の仕方について、つぎのように述べている。「陸軍省、参謀本部の重要会議に出席できるのは報道部長だけで、一般部員は報道部長を通じて、その重要なものについて必要な部分を聞かされるだけで、他の分野については完全に蚊帳の外におかれていて、しかもそれぞれの仕事はあまりにも多く、報道部員相互間のディスカッションの機会さえなかった。仕事の関係から退庁時間も各人まちまちで、帰りに一杯やるチャンスもなかった。こんな環境で、いわば、拡声機的存在としてしか世に認められないままに、その裏では誰に教えられるわけでもなく、同僚の助言を請うわけでもなく、ただ黙々と与えられたテーマの研究を続けた。他の部課では、その部課内で議論百出の会議を持つこともあろうが、報道部では二人以上で共通の問題を担当するということがないから、その専任事項について意見を求めるには、直接報道部長にあたるよりほかにない。大佐対少佐では勝負にならない。こうして、ひとりよがりの意見がまかり通ることになってしまう。もっとも、私なども、相当ひとりよがりの意見をのべて、報道関係者をおびやかした。言論統制に加担して、功をきそっていたのだから、国を誤った者の一人といわれてもしかたがない」。

 報道部を悪名高いものにした理由のひとつは、検閲にあった。その検閲について、つぎのように述べている。「検閲には、決まった担当者がいたわけではなかった。新聞社の前線特派員からの電報または写真は、いつ本社へ入ると決まっているわけではない。その中には明日の朝刊にすぐにも組み込みたい原稿がある。報道部の検閲は、午後五時までというわけにはいかぬ。少なくも朝刊の締め切り時刻まではつきあうため、若い者が順番でこれにあたった。昼間は報道部の部屋で、午後五時以降は報道部員の更衣室の片隅に机を運びこんで、検閲にあたった。新聞社に着いた写真フィルムは、ただちに現像され、印画紙の乾くのも待ち切れずに、オートバイで大本営報道部の検閲係に持ち込まれてくる。検閲はまず写真説明を読み、まだ発表してはいけない兵器(例えば戦車砲、大型発動艇の舳先の部分)が写っていないかをみて、何もなければ「検閲済」の判を、修正をすれば使ってよいものには、砲身の口径をぼかすとか、この部分を削るとか、指示をして、「検閲済」の判を捺して、「ご苦労さん」とつけ加えてかえす。このご苦労さんには、使いのオートバイの人と、この原稿を送ってきた前線特派員に対する感謝の意味をふくめているつもりであった。やむをえず保留不許可の判をおすのは未発表の新作戦の前線よりのもので、担当者個人だけでは判断できない新しい作戦や兵器について、明日その専門家の出勤を待ってから決定にいたるまでの「保留」だった」。「「保留」「不許可」の多かった日は、勤務を終わって市ヶ谷の坂をおりるとき、生死の巷で身の危険もかえりみずに写した写真を没にしてしまったことが、どこか心の奥にひっかかって、足が重かった」。

 検閲が厳しかったことは、よく知られている。しかし、実態は検閲係が一々検閲していたのではないようだ。「関係者をおびやかした」結果、自己の事前検閲が過剰に厳しくなったことが想像される。本書に書かれているように、検閲係は新しい作戦や兵器のような軍にしかわからないようなことを中心におこなっていた。この実際より、過剰に対応せざるをえないような状況に追い込まれていたこそが、問題といえよう。

 著者は、「あとがき」で、報道部員としての仕事を、つぎのように総括している。「軍人以外の社会を知らぬ者が、社会の第一線であるジャーナリズムと接触することになったのだから、うまく行くはずがなかった。ずいぶん無理なことをいって、世間の人々を困らせたのではないかと思う。若いうちに権力の座にすわると、自分でも知らぬうちに、思い上がった言動をする。おそらく、鼻もちならない軍人であったのではないか。いわば、言論統制と戦意昂揚(考えようによってはこれはデマ宣伝)の旗ふりをやっていて、罪の意識を持たなかったのだから、単純といえば単純、愚かといえば愚かの骨頂であって、慚愧にたえない。当時の軍人というものは、だいたいこの程度に頭のわるいものであったということである。頭のわるいものが一国を支配したのだから、日本が破産してしまったのもむりはない」。

 本書から「情報操作と言論弾圧の現場」はわかった。著者自身は、「自分の前半生は罪万死に値すると責めながら、敗戦後、一人でできることといえば、何かを書き残すしかないと考えてきた」。では、それを読んだ者は、なにをすればいいのか。士官学校予科も報道部も、いまはない。こういう歴史事実を検証することもなく、「秘密保護法」が成立する。われわれは、同じ過ちを繰り返すのだろうか。

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