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2016年06月14日

『帝国日本の拡張と崩壊-「大東亜共栄圏」への歴史的展開』河西晃祐(法政大学出版局)

帝国日本の拡張と崩壊-「大東亜共栄圏」への歴史的展開 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 研究書である限り、先行研究を整理して自身の研究のオリジナリティを示さなければならないのが基本中の基本であるが、近代のディシプリンの基礎教育がない大学院生のなかには、その意味がわからない者がいる。その前に、「ディシプリン」ということばさえを知らない者がいる。そんな大学院生に、本書のように先行研究をまとめた、つぎのような記述があると説明しやすい。「明治以降から「大東亜共栄圏」期にいたる南方進出史の研究は、一九七〇年代以降に着実な進展をみせてきたことは確かである。だが経済進出の実態から、言説上の南進「論」の展開、文学作品に現われた南方表象といった展開の多面性とそこに関わったアクターの多様性、そして何よりも幾度かのブームというべき「南方進出熱」とそれへの反動といった、南方進出自体の非連続性のために、近代日本の南方進出史を通史的に捉え直すという試みは、矢野[暢]の研究以後に行なわれてこなかった」。

 本書は、序章「「大東亜共栄圏」という視点」、3部全9章、終章「「大東亜共栄圏」とは何だったのか」からなる。著者の河西晃祐は、まず第Ⅰ部「一九一〇~一九三〇年代の南方進出の展開」において、「主に南洋協会と外務省との連携を通して、一九一〇年代から一九三〇年代後半までの南方進出と対外政策の展開を分析する」。つづく第Ⅱ部「帝国秩序の再編と「大東亜共栄圏」構想」では、「一九二〇年代から一九四一年までを扱い、世界規模で進行していた帝国秩序の再編に関する情報の蓄積が、「大東亜共栄圏」構想を導いていった過程を考察」する。そして、1941年から45年を対象とする第Ⅲ部「「大東亜共栄圏」問題の諸相」では、「「大東亜共栄圏」について分析していく」。

 著者は、「本書で重視したいのは、史料のなかにみられる「声」の存在である」といい、1943年7月に「日本が許与したビルマおよびフィリピンへの「独立」」にたいして」、つぎのような問題を指摘している。「満州に居住していた「内地人」や「朝鮮族」」が、「「南方未開ノ原住民」という差別意識をもにじませながら、帝国日本に対して怨嗟に満ちた声をあげる主体の存在にほかならなかった。抑圧され、表面には出てこないはずの「抗う声」が収集され、政策決定過程上部に届いていたとすれば、フィリピン・ビルマの「独立」は帝国日本に何をもたらしていたのか、その点を分析する必要があるのではないか。本書ではこのような課題を検討していきたい」。

 終章では、各部ごとに対応した3つの課題にたいして、まとめをおこなっている。第Ⅰ部の課題については、従来「大正期南方進出は「民」が主導したと捉えられてきた」が、「官民一体というあり方が、大正期の南方進出の特徴だったのであり、その体制を踏襲したのが、「半官半民」の南洋協会だったということができる」と結論した。つぎに「「官民一体」という南方進出のあり方が一九三〇年代にどのように変容したのか」という点については、「南方進出の「官」主導体制への移行は、南方をめぐる状況の変化ではなく、総力戦体制に対応するための省庁再編をめぐる権益争いの結果であったことを明らかにした」。3つ目の課題の「大東亜共栄圏」については、つぎのような新たな課題を示している。「日本の近代史上、数十万人に及ぶ軍人・軍属らが東南アジアを体験したのは「大東亜共栄圏」が初めてのことであり、首相をはじめとした政策決定者が、直接東南アジアの政治指導者たちと会談を行なったのも、このときが初めてである。そのような体験が、東南アジアを見る「まなざし」をどのように変えていったのか。この点は、今後さらに検討しなくてはならない」。

 そして、つぎのようにまとめて、終章を終えている。「「大東亜共栄圏」とは、統治される地域や対象、あるいはその統治技術だけではなく、その統治をも覆そうとする、いわば「ものを言う政策主体」をふくめた、脱植民地化という潮流そのものを継承することを迫られた構想にほかならなかった。解放の成果でもなく、帝国日本の植民地支配の延長でもないものとして「大東亜共栄圏」を理解するためには、日本の指導に抗い、その建て前を逆用しながら自己の要求を提示する「亜細亜各民族」にとっての脱植民地化闘争の場として、それを理解する必要があるのである」。

 「南方」は、タイを除いて欧米の植民地支配下にあった。国際関係は当然植民地宗主国との関係になり、現地との関係は「民」でおこなわざるをえない。「官」が出ていけるのは、「民」の既得権益を守るときになる。「官民一体」への移行は、国際関係を無視したことを意味する。

 さらに、著者は「あとがき」において、「南方進出の全体像を描くためには、さらなる分析が必要である」とし、いくつかの課題をあげている。たとえば、「南洋協会関連の史料からは十分に抽出できなかった北部・南部仏印進駐については、ほとんど論じることができなかった。すでに研究の蓄積も厚い事例ではあるが、本書で明らかにした内容と、陸軍・海軍の南方進出の関わりを統合していくことで初めて、一九三〇年代の南方進出の全体像を描くことが可能になる」。また、「同時に、南方進出に関わった一個人や、「大東亜共栄圏」に動員された一兵士の南方認識といった視点についても考察していきたい」と述べている。

 著者が「序章」で整理したとおり、近代日本の南方進出史研究は、1970年代に先鞭をつけた矢野暢の研究以来、国・地域別におこなわれ、「南方」全体を通史的に捉え直すという試みをおこなってこなかった。それは、著者が「あとがき」で課題としてあげたように仏印進駐など東南アジア大陸部を、島嶼部との関連でどのように捉えるかが難しいからである。植民宗主国が自由貿易体制をとり、在留邦人が国・地域ごとに数千から数万を数えたアメリカ領フィリピン、オランダ領東インド、イギリス領マラヤと違い、保護貿易体制をとったフランス領インドシナには1940年の統計で76人、その内10年以上居住している者は28人しかいなかった。タイには566人、10年以上の居住者は154人で、島嶼部に比べ桁違いに少なかった。そのうえ、「大東亜戦争」勃発後、タイとは同盟関係になり、インドシナでは本国がドイツに占領されたフランスの植民地政府との共同統治が1945年3月までつづいた。「南方」とひと言で括れない状況をふまえて、「南方進出史」を捉え直すことは容易ではない。本書のような試みが、日本史や中国史を専門とする研究者のなかからも出てくると、「南方」の本格的な研究ができるようになるのかもしれない。

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