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2016年02月09日

『インドネシアのムスリムファッション-なぜイスラームの女性たちのヴェールはカラフルになったのか』野中葉(福村出版)

インドネシアのムスリムファッション-なぜイスラームの女性たちのヴェールはカラフルになったのか →紀伊國屋ウェブストアで購入

 1970年代末にフィリピンのミンダナオ島のマラウィを訪ねたとき、広々とした校庭で熱帯の強い日差しをあびて明るく戯れるピンクの制服を着た女子生徒たちがいた。文字通り、眩しかった。いっぽう、2003年に訪れたクアラ・ルンプルでは、深夜繁華街を黒ずくめでそぞろ歩きする若い女性たちになんともいえない違和感を感じた。そして、本書の表紙を飾る4人の女性のムスリムファッションの艶やかさに目を奪われた。たすきには「Finalist World Muslimah 2012」と書かれている。この違いは、時代なのか社会なのか、本書の長い副題「なぜイスラームの女性たちのヴェールはカラフルになったのか」が答えてくれそうだ。

 本書の目的を、著者野中葉は「はじめに」でつぎのようにまとめている。「本書は、インドネシアの女性たちのヴェール化を牽引してきた都市中間層の若い女性たちに焦点を当て、彼女たちがいかにイスラームと向き合い、ヴェール着用に至ったのか、女性たちのヴェール化は、インドネシア社会にいかに受け入れられ(あるいは拒絶され)、その受け止められ方はどのように変化してきたのか、また、女性たちのヴェール化の特徴と、そこから垣間見えるインドネシアのイスラームの特徴とはいかなるものかを論じるものである」。

 本書は、6章と終章からなる。終章のタイトル「クルドゥン、ジルバブ、そしてヒジャーブ」にあるように、また内表紙の次の頁にある3葉の写真にあるように(カラーでないのが残念)、ムスリムファッションを時系列的にその変遷を跡づけたものである。そして、最後にその過程で流行り、「第5章 女性向けイスラーム短編小説の広がり」でとりあげた代表的小説『ガガ兄さんが旅立つ時』を翻訳し、紹介している。

 著者は、終章でまず1980年代以降のインドネシアのムスリマたちのヴェール化現象に、つぎの大きくふたつの潮流があったことを示している。「一つは、1980年代以降、大学ダアワ運動に関わる女性たちが先導してきたジルバブの潮流であり、少なくとも2000年代初頭までは、社会に対する影響力は非常に大きかった。またもう一つは、2000年代に入って以降、ファッション業界の人々が火付け役になり、政府が積極的な支援に乗り出した、新しいヴェールとムスリムファッションの潮流であり、ヒジャーバーズという名のもとに集う若い女性たちが、その中心的担い手となった。ジルバブは、まだヴェール着用者が社会の中で圧倒的な少数だった時代、イスラームを学び実践し、広める活動に参加する中で、ムスリマにとってのヴェールの意味と必要性を知った女性たちによって、先駆的に着用されてきたものである。一方で、ヒジャーブと呼ばれるようになった新しいヴェールは、ファッション性がより重視され、経済成長が実感される社会の中で、より多くの女性たちを巻き込む大きな潮流となっていった」。

 つぎに、現代インドネシア社会におけるイスラームの特徴の一端を、つぎのようにまとめて結論としている。「現代のインドネシアは、政府がイスラームを一元管理したり、少数の宗教権威がイスラームの知を独占したりする状況ではない。特定の解釈に基づく「公定」のイスラームだけが「正しい」とされ、人々はそれに従うことを強要されたり、盲目的に従うだけ、という状況でもない。インドネシアでは、伝統的に、宗教権威は一枚岩でなく、様々な主張が受け入れられる土壌があった。現在も、その伝統は受け継がれ、ヴェールの解釈について見ても、宗教権威の多様性は、ますます広がっているように思える。また、スハルト時代には、イスラームを政府が監視し、政権の意向に沿った形のイスラームの信仰と実践を推奨されてきた。しかし、民主化後のインドネシアでは、政府がイスラームを一元的に管理することは叶わない。むしろ政府は、民間主導のムスリムファッションの発展の経済的な効果に期待し、女性たちが牽引する業界の活動を後押しする役割を担っている」。

 これらの現象を理解するキーワードとして、「商品化」や「保守化」がある。しかし、著者は、つぎのようにそれほど単純ではないと述べている。「ヴェールやムスリム服が「商品化」しているという見方は、女性たちのヴェール化のプロセスの中の一部を言い当てているに過ぎない。また、ヴェールやイスラームに対する女性たちの見方は、非常に多様かつダイナミックであり、「保守化」という言葉では、到底言い表し切ることはできない」。

 たしかにインドネシアのイスラームは、中東のイスラームとは違う印象を受けることがある。ムスリムファッションも、中東はおろか東南アジアを含むほかのイスラーム教徒の多い地域や国で受け入れられるとは限らない。だが、インドネシアにあっても、2012年のレディガガの公演中止や最近の酒販売の自粛など、政府や宗教権威とは無縁のところで、「イスラーム運動」が起こっているように思える。どこかで「社会的悪」と捉えられると、それを否定できない「社会」がある。また、聞き取り調査にもとづく本書で語られるもののなかには、ある特定の新興宗教の信者の発言であるかのようなものもある。どこまで広がりをもつものなのかという疑問は、著者も気づいており、終章の最後で今後の課題としてあげている。

 かつて社会主義圏が市場開放に動いたように、イスラーム圏でもそれが起こるのだろうか。その先鞭をつけるのは、世界でもっとも多くのイスラーム教徒人口を抱える国家であるインドネシアなのか。このイスラームの「商品化」にたいして、日本人など非イスラーム教徒はどのように向き合うのか。経済統合したアセアンは、その人口の約半数がイスラーム教徒である。本書のような見方からのインドネシア社会、イスラーム社会の考察がますます重要になってきている。

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