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2015年11月10日

『ゾミア-脱国家の世界史』ジェームズ・C・スコット著、佐藤仁監訳(みすず書房)

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 本書は、2009年の出版以来、多くの学術雑誌の書評欄で取りあげられ、「米国アジア協会の二〇一〇年度バーナード・シュワルツ著作賞を受賞、日本では同年に、「隣接分野を刺激し、挑発し、生産的な議論を誘発した」貢献が認められて第二一回の福岡アジア文化賞を受賞している」。著者は、「出す本のほぼ全てがヒットし、広く引用される。誰もが羨む研究者の王道を歩んだ人である」。

 だが、著者自身は、「本書にオリジナルな要素はない。私自身の独創に由来するアイデアは皆無である」と述べている。評者であるわたし自身、本書で述べられていることと同じようなことを、「海域東南アジア東部」での実例をあげながら論じたことがある(早瀬晋三『海域イスラーム社会の歴史-ミンダナオ・エスノヒストリー』岩波書店、2003年;英語版:Mindanao Ethnohistory Beyond Nations: Maguindanao, Sangir, and Bagobo Societies in East Maritime Southeast Asia, Ateneo de Manila University Press, 2007)。にもかかわらず、本書はなにが卓越しているのか。ひと言で言うと、わたしがしたように事例をあげながら1冊の本にまとめることはできても、それらの事例研究をまとめて1冊の本にすることは不可能としか思えないからである。著者は、「はじめに」でつぎのように述べている。「私は、多くの研究史料を吟味し、そこに内在する法則を発見し、それをどの程度まで展開することができるかを試みたにすぎない。創造的側面があるとすれば、全体性をもったまとまりのある構造としてこの形態を見定め、数々の点と点を結んだところにある。私の議論は多くの研究者のアイデアに依拠しているが、本書におけるこれらの議論の展開はあまりにも極論すぎるという声がその方々からすでに挙がっていることは承知している」。

 著者自身、本書が「挑発的」であることは充分承知のうえで、冒頭でまず「ゾミア」という地域について、ついで本書の内容をつぎのように紹介している。「「ゾミア」とは、ベトナムの中央高原からインドの北東部にかけて広がり、東南アジア大陸部の五カ国(ベトナム、カンボジア、ラオス、タイ、ビルマ)と中国の四省(雲南、貴州、広西、四川)を含む広大な丘陵地帯を指す新名称である。およそ標高三〇〇メートル以上にあるこの地域全体は、面積にして二五〇万平方キロメートルにおよぶ。約一億の少数民族の人々が住み、言語的にも民族的にも目もくらむほど多様である。東南アジア大陸部の山塊(マシフ)とも呼ばれてきたこの地域は、いかなる国家の中心になることもなく、九つの国家の辺境に位置し、東南アジア、東アジア、南アジアといった通例の地域区分にも当てはまらない」。

 「私の主張は単純だが挑発的であり、賛否両論を引き起こすだろう。ゾミアは、国民国家に完全に統合されていない人々がいまだ残存する、世界で最も大きな地域である。このさきゾミアが非国家圏であり続けるのもそう長くはないだろう。しかし一昔前まで人類の大多数は、ゾミアの人々のように国家を持たず、政治的に独立して自治をしていた。今日ゾミアの人々について、平野国家の視点から「現存する我らの先祖」とか「稲作、仏教、文明が発見される以前、私たちはあのように暮らしていたのだ」などともっともらしく語られるが、これに対して私は本書で以下のような反論を展開する。山地民とは、これまで二〇〇〇年のあいだ、奴隷、徴兵、徴税、強制労働、伝染病、戦争といった平地での国家建設事業に伴う抑圧から逃れてきた逃亡者、避難民、〔奴隷制から逃れた〕マルーン共同体の人々である、と。こうした人々が暮らす地域の多くは、破片地帯もしくは避難地域とみなすのが適切である」。

 著者、スコットは、先に述べた「本書にオリジナルな要素はない」以外に、もうふたつ強調しておきたいことがあるという。二番目に強調したいのは、「本書で展開される議論は第二次世界大戦以後にはほぼまったく通用しないという点で」、つぎのように説明している。「一九四五年以降、場合によってはそれ以前にも、距離という障壁を取り除く技術-鉄道、舗装道路、航空機、電話、電報、デジタル通信-が国家によって大規模に使用されるようになった。これらの技術は、国家から離れて自治する人々と国民国家とのあいだの戦略的勢力均衡を根本的に変革し、距離という障壁をあまりにも縮小した。よって本書で展開される分析はこの時期に対してほとんど通用しない。それどころか、現代の国民国家は統治権を盾に、政治権力を国境まで最大限に投射できるよう、統治権が薄弱な外縁地帯をすべて統治下に編入することに躍起になっている。「部族地域」の天然資源確保、そして辺境地における防衛と生産の確立、この二つの目標に向けて、辺境の「包囲」政策が各地で用いられては、国家に忠実で土地に飢えた平地民が山地に移植されるようになった。というわけで、私の分析が二〇世紀後半の東南アジアには当てはまらないといわれても、それはきちんとお断りずみである」。これにたいして、監訳者の佐藤仁は「小さき民に学ぶ意味-あとがきに代えて」で、「議論の射程は彼が思っているよりも遠く、現在まで延びていると言えそうだ」と述べている。

 三番目に著者が強調したいのは、「民族生成についての本書の議論、つまり民族とは根本的に社会的な産物であるという急進的な主張が誤解されはしないかと私は危惧している」点である。続けて、つぎのように説明している。「民族のアイデンティティを守るために闘い、命を落とした勇敢な男女に対し、私の議論は彼らの理念をないがしろにしているという誤解が生じないかという危惧である。そのような誤解は全く本意ではない。すべてのアイデンティティは社会的に形成されている。それは、漢人だろうが、ビルマ人だろうが、アメリカ人であろうが、デンマーク人であろうが変わりない。そのようなアイデンティティは、とくに少数民族の場合、まず最初に強力な国家による想像を必要とする。苗(ミヤオ)を想像したのは中国の漢民族国家であり、またカレン、シャンはイギリス植民地政府に、そしてジャライはフランス植民地政府によって想像され、描き出された」。

 本書は、「はじめに」、I~VIIIと「IX 結論」からなる。最初の「I 山地、盆地、国家-ゾミア序論」「II 国家空間-統治と収奪の領域」で地理的な議論をした後、III以降はテーマごとに書かれ、これといった構成はなく、その流れで「IX 結論」になる。III以降のテーマは、つぎの通りである:「III 労働力と穀物の集積-奴隷制と灌漑稲作」「IV 文明とならず者」「V 国家との距離をとる-山地に移り住む」「VI 国家をかわし、国家を阻む-逃避の文化と農業」「VI+½ 口承、筆記、文書」「VII 民族創造-ラディカルな構築主義的見解」「VIII 再生の預言者たち」。

 著者は、本書でとりあげた世界は、「歴史を長い目でみればほとんどの人類が比較的最近まで暮らしていた」世界にほかならないといい、「思いきって単純化すれば、そこには四つの時代があった」とつぎのように述べている。「(1)国家がなかった時代」(これが圧倒的に長い)、(2)小規模国家が国家なき周辺地域に取り囲まれていた時代、(3)周辺地域が縮小し、拡張する国家権力に取り巻かれる時代、そして最後に、(4)事実上、地球上のすべてが「統治された空間」になり、周辺地域とは民間伝承の対象となるような残余にすぎない時代。ひとつの時代から次の時代への移行は、地理的にも時間的にもけっして均等に進んだわけではない。例えば、中国とヨーロッパは東南アジアやアフリカよりも早熟だったし、国家形勢の気まぐれによって周辺地域は広がったり縮んだりした。しかし、長期的な傾向が右のようであったことは疑う余地なくはっきりしている」。著者のいう「時代」は、「社会」に置き換えることができる。同じ「民族史」という言い方をしても、歴史学を専門としているものと、民族誌を専門としているものとでは、アプローチの仕方も方法も違う。本書で議論されていることは、明らかに後者であって、歴史学からみれば、それは「時代」ではなく「社会」である。

 そして、つぎのように結論している。「低地民は彼らこそが社会進化ピラミッドの頂点に居座り、山地民はその底辺、つまり原初段階に位置するものと勝手に想像している。山地の人々は、すべての事柄において「以前(プレ)の」、つまり初期段階におかれた人々であると考えられているのである。彼らは水稲耕作以前、都市以前、宗教以前、識字以前、低地国家以前の人々なのである。しかし、私たちがここまで長々とみてきたように、山の民に着せられた汚名の数々は、国家を避けようとする人々が自治を放棄しなくてすむように、積極的に身につけ、遂行してきた特徴なのである。低地民の想像は、間違った歴史認識に基づいている」。

 本書は、原題にも訳題にも「歴史」ということばを入れて、国家中心に語られてきた歴史を批判しているが、本書で議論しているのは、「社会」であって「歴史」ではない。近代の歴史は国民創造・教育のための意味合いが強く、国家の役割が相対的に低下してきている現在、本書のような見方が必要になってきている。その点で、本書はいまの時代に必要な歴史観のひとつということができる。だが、時代も社会も超えて語られる本書は、これまでの歴史観に馴染んできた人からみれば容認できないことだらけである。そのことは、著者も充分に承知していて、その予防線として3つのことを強調している。そもそも、本書では近代のディシプリンやセオリーにもとづいた研究では理解できないゾミアを語っていることから、これまでの常識に照らし合わせて本書を批判すること自体、著者は拒絶するだろう。本書は、あくまでも「隣接分野を刺激し、挑発し、生産的な議論を誘発した」点で評価できるものであって、これまでの歴史に代わるものではなく、これまでの歴史に代わるものを書くために示唆を与えているにすぎない。

 評者であるわたしは、これまで脱国家の東南アジア史を書こうとして2度失敗した。『戦争の記憶を歩く 東南アジアのいま』(岩波書店、2007年)と『マンダラ国家から国民国家へ-東南アジア史のなかの第一次世界大戦』(人文書院、2012年)である。結局、国家単位でしか書けなかったのは、わたしの能力がおもな原因だが、東南アジアのような基本的理解が一般に乏しい分野では、読むほうは国家単位のほうがわかりやすい。書くほうも書きやすい。それが基本的な間違いだといわれれば、返すことばがなく、Anthony Reidの新刊A History of Southeast Asia: Critical Crossroads (UK: Wiley Blackwell, 2015)が出版されて、よりはっきりした。全20章のうち国家を中心に書かれているのは、"12 Making States, 1824-1949"だけで、関連するその後の時代は"19 Making Nations, Making Minorities, 1945- "として語られ、最終章は"20 The Southeast Asian Region in the World"である。本書も参考文献の1冊にあげられている。オリジナリティはないが、監訳者が述べるように「既存の諸説をうまく再編集し、独自の味付けをしながら注目しやすいストーリーに仕立てた」本書と、本書で充分に論じることができなった「水のゾミア」を中心にSoutheast Asia in the Age of Commerce (2 volumes, New Haven: Yale University Press, 1988-93)を書いたリードの東南アジア通史の両方をあわせて読むと、東南アジアの理解が確実に深まる。新たな東南アジア研究に繋がる1冊であることは、だれもが認めるだろう。

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