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2015年10月20日

『紛争と国家形成-アフリカ・中東からの視角-』佐藤章編(アジア経済研究所)

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 本書は、「「国家形成」という視座のもとで、綿密な実証的記述という地域研究の方法論を最大限に活かしつつ、社会学、政治学、国際関係論などの理論研究と歴史研究の成果も取り入れながら、紛争という現象の持つ意義を国家との関係において具体的に解明することを試みている」。「まえがき」に書かれたこの文章は、本書を読み終えてからでないと理解できないだろう。そして、このような学際的視点をもってしても、個々の紛争を解決する糸口さえ見つからない、と途方に暮れるかもしれない。

 この「まえがき」では、編者、佐藤章が考える2つの意義が、つぎのように述べられている。「第1に、重要な紛争事例に関する最新の情勢を盛り込みながら、単なる一国事例研究にとどまらず、理論的な知見を導き出そうとしている点である。アジア経済研究所が強みとする厚みのある記述に則る地域研究の手法と理論的な考察を融合したこのアプローチは、紛争研究に大きな寄与をなすことが期待される。第2に、海外の紛争研究で登場しはじめている「国家形成」という新しい視座を、日本でいち早く、具体的な事例研究とともに提示している点である。この視座は、実践的・規範的な関心に立つ従来の紛争研究の成果を継承しつつ、さらに発展させることが期待されるものであり、現代世界で頻発する紛争の理解を深め、解決に向けた方途を模索するのに寄与すると考えられる」。

 本書で扱うレバノン、イラク、南アフリカ、ケニア、ソマリア、コートジボワールは、かつて欧米帝国主義国家の植民地であったり、介入を受けてきた国ぐにである。つまり、冷戦構造の崩壊とともに、これら帝国主義国家の影響力が薄れ、独自で国家運営をしなければならなくなった国ぐにである。国家はあるが、・・・。本書で「国家形成」に注目する理由は、同じく「まえがき」でつぎのように述べられている。「国家が形成されていくありようを、さまざまな領域に注目しながら、かつ歴史的な側面も加味してとらえる概念である「国家形成」は、従来は欧米諸国の歴史的形成過程に関して使われてきた政治学上の用語であるが、近年、これを紛争勃発後の国家の変容のあり方に適用しようとする動きが出てきている。そこには政策上の、ないし規範的な意味合いを強く持つ「国家建設」という概念を批判的に乗り越え、紛争勃発後の国家の動態をより広い視野でとらえようという狙いがある」。

 その「国家形成という研究視点には大きく3つの特徴がある」という。「第1に、国家建設という視点では行政機構やガバナンスなどの側面に主たる焦点が絞られがちなのに対して、国家形成という視点は、社会や経済の側面も含めた、より包括的な領域を念頭に置きながら使われてきた。第2に、第1の点から論理的に導き出されることだが、国家形成は、国家建設という視点で語られてきた領域を包含する上位概念として位置づけられうる。このため、国家形成という研究視点を導入しても、国家建設という研究視点に立って進められてきた研究を排除する必要がない。第3は、国家建設が明示的に設定された目標、政策立案、履行という政策的プロジェクトのパラダイムに依拠しているのに対して、国家形成は、偶発的あるいは予想に反して起こった帰結をも重視する歴史的アプローチとの親和性が高い点である」。

 一見近代国家の機構、行政的機能をもっているようにみえながら、それがまったく意味をなさないのは、国連など外部が介入したときに顕著になる。「第3章 イラク覚醒評議会と国家形成」では、つぎのように結論している。「本章で明らかにしたのは、紛争が激化した段階において、明確な治安管理政策を持たないまま行われた外部介入の遺産である。すなわち、暴力の一元的管理を進めるのか(略)、内在的秩序を維持するメカニズムを構築するのか(略)、という明示的な方針を欠いたままの外部介入が、紛争を逆に助長し、その後の国家形成により長期的な混乱をもたらしたのである」。

 「第5章 機能する「崩壊国家」と国家形成の問題系」では、「崩壊国家」の現実がつぎのように語られている。「ヒト、モノ、カネが国境を越えて常に移動する現代世界では、領域統治を行う「政府」が不在であっても、それに代替する勢力が国際機関の人道(緊急)支援活動をも利用して紛争経済を担っていく形態が現象化しているだけではなく、その勢力がより複雑な紛争の図式を作りかえていくのである。まさにこの点に「崩壊国家」が「政府」不在のままでも機能している状況が映し出されているのである」。

 ということは、「アフリカが「国際システム」とかかわった場合、「政府」だけがその主体ではないという事実によっている。つまり、「政府」を回避する、あるいは「政府」を代替する主体(たとえば、反政府組織、ゲリラ、NGOなど)が、とくに紛争地域では「政府」を直接には介さない「外交」「交易」活動を展開していることを念頭に」置かなければならないということである。これは、「ソマリアで生起していることは特殊事例というよりも、アフリカをはじめとした弱い国家や「脆弱国家」が存在していると考えられている地域でも現実に生起してきた国際関係のあり方との連続性を有していると見ることができる」。

 さらに、踏み込んで考えると、「強い国家」にも同じような現象が現れているのではないか。国家が介入できない「内政」が、スコットランドの独立や沖縄の自治の問題にも現れているのではないか。国際関係論ではもはや理解できない問題が存在し、近代のディシプリンで理解できないものを考察しようと試みる地域研究でもどうにもならない現象が、いま起こっているのではないか。それが紛争の原因のひとつであるなら、近代的価値観をもって介入することは論外で、当事者同士で話し合う環境をつくることが第一歩になる。だが、そのためには話し合うことができる人材を育てることがまず必要で、その人材が代表となる民主主義的なしくみが必要となる。そして、そのしくみを理解できる義務教育も必要となる。本書を読むと、なにから手をつけていいかわからなくなってしまう。まずは、現状把握から、というのが本書だろう。

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2015年10月13日

『戦後史の解放Ⅰ 歴史認識とは何か 日露戦争からアジア太平洋戦争まで』細谷雄一(新潮選書)

戦後史の解放Ⅰ 歴史認識とは何か 日露戦争からアジア太平洋戦争まで →紀伊國屋ウェブストアで購入

 本書は、サザンオールスターの「桑田佳祐の嘆き」からはじまる。「ピースとハイライト」のなかの歌詞、「教科書は現代史を やる前に時間切れ そこが一番知りたいのに 何でそうなっちゃうの?」が紹介されているが、現代史云々の前に、歴史そのものが敬遠され、無関心になってきている。政治化してウソっぽく、ややこしいからである。

 本書の目的は、長い序章「束縛された戦後史」の最後のほうで、「「イデオロギー的な束縛」、「時間的な束縛」、そして「空間的な束縛」という三つの束縛から戦後史を解放して、よりひろい器の中に「戦後史」を位置づけし直すこと」にあると述べ、「はじめに」の最後でつぎのように説明されている。

 「いま、あまりにも歴史を学ぶことが窮屈になってしまった。圧迫感を受け、正義を強要され、歴史を学ぶことに嫌悪感を抱く人が増えているのではないか。むしろ、本来は、歴史を学ぶことでわれわれは、自らを狭窄(きようさく)した視野から解放し、固定観念を打ち壊すことができるはずだ。それは大きな喜びである。知らないうちにわれわれは、色々な束縛に囚われてしまっていた。歴史を学ぶことで、そのような束縛から自らを解放するためには、思考の柔軟性、視点の多様性、価値の開放性が求められる。それらによって、何重にも束縛されていた現代史を解放できるはずだ」。「その結果としてわれわれは、現代史を学ぶ喜びや心地よさを深く感じることができるのではないか。そのような喜びや心地よさによってはじめて、われわれは、自ら主体的に歴史を学ぶ意義を感じることができると思う。ぜひとも本書を通じて、束縛から解放されて、広い視野のなかで、現代史を学ぶ意義を感じて頂ければこれほど嬉しいことはない」。

 本書は、「あとがき」に著者が書いているように、「政治外交史分野の優れた先行研究に大きく依拠しており、私自身が何か新しい学問的貢献をするものではない。ほぼすべて先行研究に書かれていることである」。また、本書の結論である「通常は切り分けて考えている「世界史」と「日本史」を統合させる必要がある」というのも、目新しいことではない。ナショナル・ヒストリーにこだわり、優先して考える人びとがいることから、なかなか世界のなかの日本の重要性が理解されないのである。

 本書の重要性は、著者の経歴から「日本人の歴史認識」が他国に通用しないことを充分理解したうえで、広い視野の下、比較的長い時間的幅でわかりやすく書かれていることである。その経歴は、つぎのように説明されている。「私はこれまでオランダ、イギリス、アメリカ、フランスと四つの国の大学で、国際政治学や外交史を学んできた。これまた、国際政治学者の世界でも、歴史学者の世界でも、稀なことであろう。それぞれの国で、歴史の見方に大きな違いがあることに驚いた。他方で、それらの諸国である程度共通した歴史認識が存在することにも気がついた。このように、複眼的に歴史を眺めると同時に、国際社会での一般的な二〇世紀史に関する理解についても意識することになった。このような独特な学問的な遍歴を辿ってきた私が描く戦後史は、おそらく多くの方が理解するそれとは異なるのではないだろうか。そのように考えたことが、私が本書を刊行したいと感じた大きな理由だった」。

 著者が国際主義にこだわるのも、以上のような理由からで、本書裏表紙にはつぎのように書かれている。「「軍国主義」より致命的だった「国際主義」の欠如とは?」。「なぜ今も昔も日本の「正義」は世界で通用しないのか-世界史と日本史を融合させた視点から、日本と国際社会の「ずれ」の根源に迫る歴史シリーズ第一弾。日露戦争、第一次世界大戦の勝利によって、世界の五大国となった日本。しかし、国際社会に生じた新たな潮流を読み違え、敗戦国へと転落していく。日本人の歴史認識を書き換える、タブーなき現代史」。

 その「ずれ」の例として、満洲事変がつぎのように取りあげられている。「非戦闘員を対象とした無差別の戦略爆撃は、一九三〇年代に日本が率先して実行し、その破壊力と人的被害を知らしめる結果となった。そして、同時に、このことが戦間期に育まれていた戦争放棄への動きや、平和主義思想の浮上、そして戦争違法化への取り組みを葬り去る結果となる」。また、「一九二九年七月二七日に四七カ国がジュネーヴに集まって締結した「俘虜の待遇に関する条約」に日本は調印しながらも、その後に軍部の反対により批准が実現しなかった」。「軍部は軍事作戦上の観点のみからこのジュネーヴ条約への対応を検討しており、国際法や人道的な観点からの考慮は皆無に等しかった」。

 もうひとつ、日本に欠けているのは、地域主義である。その例として、本書で取りあげている村山談話をあげることができる。「「植民地支配や侵略的行為」に言及し、また「深い反省」が示され」た談話は、「誠実な態度で歴史に向き合おうとしながらも、結果として困難な問題の解決を図ろうとして、外交問題化させてしまった」。その理由は、つぎのように説明されている。「歴史認識がそれぞれの国のアイデンティティと深く結びついている以上、そもそも国境を越えた歴史認識の共有がいかに難しいのかという意識が、おそらく村山首相には欠けていたのだろう。国家間の問題においても、十分な誠意を示せば決着がつくと感じていたのかもしれない。ところが歴史認識問題という「パンドラの箱」を開けた結果、むしろ中国でも韓国でも歴史認識問題を封印して、凍結しておくことがもはや不可能になってしまった」。同じことは、尖閣諸島の国有化についてもいえる。だが、短期的にはマイナスでも、いつまでも凍結しているわけにはいかない。村山談話を「英断」と評価できる状況にもっていくことこそが、東アジア地域の課題だろう。

 東アジアの安定と発展が、個々の国家、人びとにとってどれほど重要であるかが認識されれば、それぞれの国益より優先され、国家間で争うことを回避することができるだろう。このことは、近代に形成された欧米中心の国際秩序とは違う、東アジアの共同体を意味することになる。すでにASEAN(東南アジア諸国連合)は、近代法などに基づく欧米とは違う独自の価値観で経済共同体へと向かっている。日本は、国際社会との「ずれ」だけでなく、近隣東アジア社会との「ずれ」がより深刻であるといえる。世界史と日本史の融合のなかで、東アジア史が埋没すると、事態はより深刻になる。東アジアで、日本の「正義」が通用していない理由を、東アジアの人びととともに考える必要がある。

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2015年10月06日

『右傾化する日本政治』中野晃一(岩波新書)

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 本書のねらいは、「自由主義的な国際協調主義の高まりで幕を開けた新右派転換の動きが、いかにして偏狭な歴史修正主義を振りかざす寡頭支配へと帰着してしまったのか」、その政治プロセスを解き明かすことである。

 「序章 自由化の果てに」では、過去30年ほどのそのプロセスが、3つの特徴を帯びつつ展開したと、つぎのように説明している。「一つには、現代日本における右傾化は政治主導(より正確にいえば、政治エリート主導)であって、社会主導ではないということである」。「二つには、右傾化のプロセスは単線的に一気に成し遂げられたのではなく、寄せては返す波のように逆方向への限定的な揺り戻しを挟みながら、時間を掛けて進展したのである」。「三つには、こうした右傾化の本質は「新右派転換」と呼ぶべきものである。つまり、旧来の右派がそのまま強大化したのではなく、新しい右派へと変質していくなかで起きたものなのである」。

 そして、著者、中野晃一は、このような日本における新右派転換と右傾化は、世界的な動きとの連動のなかで理解する必要がある、という。また、日本の新右派連合は、「新自由主義(ネオリベラリズム)」と「国家主義(ナショナリズム)」の組み合わせによって形成されたという。だが、この両者は、「一方が自由主義の一種で、もう一方が反自由主義なのだとしたら、その連合はいかにして可能なのか。また一方がグローバル化を推進し、もう一方がナショナリズムを喚起することに矛盾はないのだろうか」と問い、その結節点を「相互に連関する三つの視角から解明できる」と、つぎのように説明している。

 「一つめは、理念的親和性である」。「新自由主義と国家主義がともにその世界観の基盤とするのは、それぞれが自己利益や自己保全を追求するアクターの取引や闘争によって、誰が何を得るのか、誰が誰を支配するのかが決まる、またそうしかるべきである、という「リアリズム」である」。

 「二つめには、利害上の適合性ないしは一致である」。「新自由主義的改革の最大の受益者であり、それゆえに最も強力な推進者であるのは、グローバル企業エリートたちである。他方、国家主義的アジェンダの進展により、その権力の掌握をさらに強固なものにするのは、いうまでもなく保守統治エリートたち、すなわち世襲政治家や高級官僚たちである」。

 「三つめは、政治的な補完性である」。「「自由経済」が既存のものではなく、社会の抵抗を排して新たに創出しなくては存在しないものである以上、それを可能とするために「強い国家」が要請されることは前に述べた。「世界で一番企業が活躍しやすい国(二〇一三年、第一八三回国会における安倍総理施政方針演説)というのは、まず保守統治エリートが権力を集中させたうえで「改革」を実行しなければできないのである」。

 「こうして共通の敵を有するグローバル企業エリートと保守統治エリートの間には、利害の合致だけでなく、階級利益を追求する権力闘争におけるダイナミックな相互補完性が見られる。ダイナミックというのは、新右派転換が一気に成し遂げられるのではなく、寄せては返す波のように相互が補完しあい連携を強める動的なプロセスのなかで、やがて貫徹されていくからである」。

 こうした動きが、日本国民の支持を得、国際的にも理解されるなら、その問いは時代や社会といった基層的なものへと向かうはずである。だが、本書には、そうではないことが書かれている。まず、自公連立与党が圧勝するからくりである。「民主党への支持がメルトダウンを起こし、多党乱立、低投票率となった結果、自民党は二〇一二年の政権復帰の際に二〇〇九年に惨敗・下野したときよりも二〇〇万票以上(比例代表制)減らしたにもかかわらず、小選挙区制の「マジック」によって議席数上での圧勝を得たのであった」。「実際のところ、棄権者も母数に入れた全有権者のうちどれだけの人が比例区で自民党ないし自民党の候補者に入れたかを計算すると(絶対得票率)、二〇一二、二〇一三、二〇一四年の三回の国政選挙で一六%から一七・七%の間でほとんど動いておらず、これは森政権での二〇〇〇年衆議院選挙での一六・九%、小泉が民主党に後れをとった二〇〇四年参議院選挙の一六・四%」などとほとんど変わらない。

 もうひとつは、「官民挙げてのプロパガンダ」が、つぎのような国際摩擦を起こしていることである。「在京海外メディアや海外の日本研究者への圧力を強めはじめたが、アメリカの教科書会社マグローヒルと執筆者の歴史研究者らへの在米領事館スタッフによる働きかけが反発を招き、アメリカ歴史学会のそうそうたる会員の連名で「いかなる政府も歴史を検閲する権利はない」と批判する公開書簡が発表される事態にまで進展した」。「また二〇一〇年から五年間ドイツの保守高級紙フランクフルター・アルゲマイネの東京特派員であったジャーナリストが明らかにしたところによると、安倍政権の歴史修正主義に批判的な記事掲載後、在フランクフルト日本総領事が編集局を訪問し、記事が中国の「反日プロパガンダ」に使われたと苦情を述べたうえ「(中国から記者への)金が絡んでいると疑わざるを得ない」などと誹謗(ひぼう)中傷を繰り返したという」。「今やこうした事例は枚挙にいとまがない」。

 著者は、つぎのように憂いている。「日本における歴史修正主義の高まりは今や国際的な関心を集めており、復古的な国家主義傾向が日本だけのことではないにしても、靖国史観への共感や賛同が海外で得られる見通しは皆無であり、今後日本が孤立してしまう懸念材料となってきていることを否定するのは難しい」。

 さらに、3章からなる本書の「第3章 「自由」と「民主」の危機」を、つぎのことばで終えている。「新右派連合に対抗するどころか、抑制する政治勢力を欠き、立憲主義をはじめとした自由民主主義の根本ルールや制度さえ大きく歪められだしたという点で、日本政治の右傾化は国際比較の観点からも深刻である。日本がまだ戦争に直接参加していないのは事実だが、その準備は権威主義的な政治手法で憲法を壊すようにして進められており、ひとたび日本が戦争をするようになったとき、果たして自由民主主義国家としての体裁を保っていられるのか、強い疑念を抱かざるを得ない」。

 このような現状分析の下で、著者は、「終章 オルタナティブは可能か」で、「「リベラル左派連合」再生の条件」として、つぎの3つをあげて、展望を見出そうとしている。「第一の条件は、選挙制度の見直し、すなわち小選挙区制の廃止を中心とした選挙制度改革である。そもそも日本で小選挙区制を導入した経緯では、意図的に死票の多い制度をつくり、政党制の寡占化を「二大政党制化」の美名の下に進めようとしたわけで、それはいわばわざと寡占市場をつくっているわけであった」。「二つめは、リベラル勢力が新自由主義と訣別することである。企業主義や利己的な欲望や情念の追求を正当化するドグマに堕した新自由主義は、実は自由主義でも何でもないのであり、むしろ新自由主義改革がもたらした政治経済の寡頭支配は、暴力や貧困、格差など、こんにち個人の自由や尊厳を脅かす最大の要因となっている」。「第三の条件として、旧来型の同一性(アイデンティティ)に依拠した団結から、相互の他者性を受け入れてなお連帯を求めあうかたちへと、左派運動のあり方、言い換えれば集合文化(エトス)の転換を進めていかなくてはならない」。

 そして、つぎのことばで終えている。「新右派転換が時間をかけて壊してきた自由民主主義の諸制度を立て直すとともに、リベラル勢力が新自由主義ドグマと訣別し、左派勢力が自由化・多様化をいっそう進めることによって民衆的基盤を広げたとき、はじめてリベラル左派連合による反転攻勢が成果を挙げることになるだろう」。「道は険しく、時間は限られているが、負けられない闘いはすでに始まっている」。

 安全保障関連法案が成立したからといって、すぐに日本が戦争するわけではないだろう。すぐにすることになれば、それこそたいへんである。日本は、戦争にたいする準備が充分にできていないからである。だが、法案が成立したことで、法案に見あった準備をすることになる。準備ができたとき、戦争にいつでも参加できることになる。だからこそ、準備が整う前に廃止しなければならない。本書で指摘されたとおり、現選挙制度では、充分に民意が反映されない。重要法案は、より慎重に審議すべきだ。法案によって、人を殺すことを強いられるようになることだけは避けたい。

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