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2015年06月09日

『もうひとつの「王様と私」』石井米雄著、飯島明子解説(めこん)

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 6月7日、アメリカ演劇界最高の栄誉とされる「トニー賞」の授賞式がおこなわれた。ミュージカル部門主演男優賞に「王様と私」の王様役で渡辺謙がノミネートされたことから、日本で大きく報道された。「私」役が主演女優賞を受賞するなど、同作は4冠を獲得したが、渡辺の受賞はならなかった。この「王様と私」、リバイバル作品賞を受賞したように、繰り返し上演される。だが、舞台のモデルとなったタイでは、史実と異なり不敬にあたるとして上演が禁止されている。

 「王様」とは本書表紙にあるとおり、1939年までシャムとよばれていたタイの「モンクット王(ラーマ4世)(1804~68)」で、「私」とは白人女性ではなく「パルゴア神父(1805~62)」である。本書の目的は、「小説やミュージカルによって誤解の広まったシャムの「王様」の実像に迫り、この「王様」の思想に決定的な影響を与えた「もうひとりの私」と「王様」との長い交友のあとをたどり、それが、どのようにして「王様」の世界観に革命的変化をもたらしたかをたずねることにある」。「国王が絶対権力を持つ仏教国」タイで、「王様」と「神父」とがどうして「長い交友」をもつことになったのか、その研究の断片は著者(石井米雄)から何度か聞いたことがある。まとまった1冊になることを期待していたが、著者は2010年2月に帰らぬ人となった。あきらめていたところに、本文のページ数(解説者による註を含む89頁)を超える解説者(飯島明子)による「解説 王様の国の内と外-一九世紀中葉のシャムをめぐる「世界」」(100頁)が付け加えられて出版された。まずは、著者と解説者、このふたりから学ぶことはひじょうに多いことを確信して読みはじめた。

 本書の「王様と私」ふたりについて、表紙に写真とともに短い紹介文が掲載されている。モンクット王は、つぎのように説明されている。「タイの現バンコク朝第4代の王、在位1851~68年。ミュージカル映画『王様と私』の‘王様’のモデルとして知られるが、王位に就くまで27年間、仏法修行者として僧院生活を送った。その間フランス人神父パルゴアとの交友を通じてキリスト教文明に触れ、アメリカ人宣教師から習得した英語を武器に、積極的に西洋の先進文明を学んだ。1851年に登位すると、西洋諸国に対する閉鎖的政策から開放策に転じ、イギリス、フランス、アメリカ等と次々に外交関係を結び、やがて子のチュラーロンコーン(ラーマ5世)王によって推進されるタイ近代化の基礎を築いた」。

 パルゴア神父は、つぎのように説明されている。「1830年から32年間タイ(シャム)に滞在。出家中の後の王モンクットとの交友を通じてタイ文化について、深く学び、Grammatica Linguae Thai (シャム語文法、1850年)、Dictionarium Linguae Thai (タイ語大辞典、1854年)、Description du royaume de Thai ou Siam (タイすなわちシャム王国誌、1854年)の大著を残した。一方、パルゴアがモンクットに与えた影響の大きさは、パルゴアの死に際し、王が外国人に対しては異例なほどの感謝の念を表明した事実に示される」。

 互いに戦略的に学ぶ必要があったとはいえ、ふたりが長い交友関係をもった理由を、著者はつぎのように述べている。「プロテスタントのアメリカ人宣教師に対しては厳しい批判の姿勢を崩さなかったモンクットが、パルゴアの説くキリスト教には耳を傾け謙虚にこれを学ぼうとした姿勢の背後には、タイ文化に対するパルゴアの謙虚な姿勢のあったことを忘れることはできない」。

 本書本文は、「おそらく先生[著者石井米雄]ご自身がまだこれから手を入れ、推敲されるおつもりであったに違いない御原稿だった」が、「御原稿に典拠が全く示されていなかった」。このことから、解説者、飯島明子の並大抵ではない苦労が推察できる。他人の原稿、しかも未完成で、遺品のなかから「典拠として参照しうる、まとまった資料はとうとう見つからないとわかった」ことから、普通は出版をあきらめただろう。しかし、解説者の力量が著者と同等、あるいはそれを超えるものであったために、本書の出版が可能になった。他人の未完成原稿のなかには、間違いや不明瞭な点が含まれている。とくに不明瞭な点は、数多くある。本文を損ねることなく、註や解説を書くことなど、できるはずがないと考えるのが普通だろう。それは成功か失敗かを問わず、それを経験したことのある者にしかわからないことである。

 未完成の本文より、完成度が高いだけに「解説」からのほうが学びやすかった。また、解説者のほうが周辺地域への目配りができていて、広い視野のなかで理解することができた。そのひとつの例が「チェントゥン戦争」で、つぎのような説明ではじまっている。「チェントゥンは現在ビルマ(ミャンマー)・シャン州東部の首邑であるが、元々はチェンマイなどと同じく、タイ系の首長を戴く小国家で、チェンマイを中心としたラーンナーとは一三世紀に遡ると伝えられる支配層間の血脈という歴史上のつながりと、きわめて近似した言語や文字など、文化や社会のさまざまな要素を共有していた。このチェントゥンやラーンナーのように、東南アジア大陸部北部にあって、無数の山間盆地ごとにタイ系の人々を中心に成立した小邑が連合して、国家的なまとまりを形成した例は、ほかに、ルアンパバーン(のちにウィエンチャン)を都としたラーンサーン、今日の中国・雲南省最南部を占めたシプソンパンナー(主邑はツェンフン)などがあった。これらの政体は、ビルマ、ベトナム、中国、そしてシャムという、周囲のより強大な国家との間に二重、三重あるいはそれ以上に複雑な従属的関係を適度に保ちながらも、それぞれが自立した勢力圏の維持を図っていた」。

 そして、日本とタイが「同盟」関係にあった第二次世界大戦中のことが、つぎの文章とともに理解できた。「「国家」は「チェントゥン戦争」の蹉跌を歴史の記憶として、この地域の領有への野心を、長い時間共に涵養することとなった。一九三二年の立憲革命を経て新生したはずのタイ国家が、「大タイ主義」を掲げた太平洋戦争中の一九四三年八月から終戦までの期間、チェントゥンは「原タイ連合国(saharat thai doem)」という名を与えられ、タイ国領土として統治される」。近代「国家」タイは、周辺諸国・地域との関係で、より理解できることがわかる。

 自分の研究が「いかなる組織においてもご一緒する機会はなかった」「弟子」によって継承されることは、どれほど研究者冥利に尽きることだろう。まずは、理解することができる者が現れたことに喜びを感じただろう。自然科学や社会科学と違い、人文学は共通の理解のうえでの研究がなかなか成り立たず、その成果は継承されにくい。そんななかにあって、研究者の数が少ない分野で、このような本が出版されることはまずない。「ゆっくり」学び熟考を重ね、その蓄積がひとつにまとまったときに「いそいで」成果を出すことが、どれほど大きな学知になるかを知っているふたりだからこそ、本書の出版が可能になったのだろう。期待に反しない、学ぶことの多い書である。

 「王様と私」は、史実とは異なる「お話」として楽しめばいい。そして、史実を理解することによって、この作品がなぜ繰り返し、欧米だけでなく日本でも上演されるのか、考えてみるのも、日本の近代を考えるいい機会になるかもしれない。

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