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2015年06月30日

『阿姑とからゆきさん:シンガポールの買売春社会 1870-1940年』ジェームズ・フランシス・ワレン著、蔡史君・早瀬晋三監訳、藤沢邦子訳(法政大学出版局)

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 「娼婦の生活史から日本とアジアの近代を問いなおす」「イギリス植民都市シンガポールの形成過程のなかで、性を生業にする日本と中国の女性たちはいかに生き、死んでいったか。近代という時代に翻弄されながらも懸命に生きた人びとのすがたを多角的な視野のもとに浮かび上がらせる」と、帯にある。

 日本人売春婦を指す「からゆきさん」ということばは、1974年公開の映画『サンダカン八番娼館 望郷』(栗原小巻、高橋洋子、田中絹代ら出演)や1987年公開の映画『女衒ZEGEN』(緒形拳、倍賞美津子ら出演)で有名になり、その時代を知る者にとっては、なじみのないものではない。だが、本書の裏表紙の写真に写っているシンガポールのマライ街は、SEIYU(西友が2008年に撤退し、地元資本になっても、この名が残っている)が入っているショッピング・モールになり、もはやここで暮らした「からゆきさん」のことを想像することはできない。わずかに、よく見ると「MALAY STREET」の標識がかかっていることに気づいた老人が、開発前のことを思い出すだけだろう。

 本書には、4つの「まえがき」計15頁があり、なかなか本文に入っていけない。その理由は、2つある。ひとつは、著者のこだわりである。この社会史を執筆する機会となった資料を発見したことを、40年近くたっても、まだ興奮しているのである。当事者である「からゆきさん」自身が、「こういう人たちのことはけっして歴史には書かれません」と言った歴史を書いたことに、著者はまだ酔っている。もうひとつは、初版が出たのが1993年、出版社を変えて再版されたのが2003年、そして日本語訳が出たのが2015年、本訳書は20年近く出版の機会を待ち続けていたためである。

 この20年近くのあいだに、一時は東南アジア諸語を学ぶ女子学生の卒業論文の人気テーマだった「からゆきさん」は、もはやそのことばさえ知らない学生がほとんどになった。1970年代後半から急激に増えた東南アジアから日本に出稼ぎに来た女性を、「からゆきさん」との対比から「ジャパゆきさん」とよび、1983年には流行語になったことももう30年以上前の話である。「からゆきさん」は売春に従事していたが、「ジャパゆきさん」はエンターテイナーなど、売春とかかわりのない者も多かった。「ジャパゆきさん」はまだ日本各地にいるが、あまり目立たなくなった。ならば、いまなぜ「からゆきさん」なのかを考えなければならない。

 もはや自分が「からゆきさん」になるかもしれないと思う日本人はいないだろうし、日本にやってくる外国人を「からゆきさん」と対比してみる日本人もいないだろう。だが、「からゆきさん」を時代の転換期に現れた移住者の一団と考えれば、今日の移住者と対比して考えることができる。ヨーロッパには、アフリカから地中海を渡って人びとが押しかけている。東南アジアでは、ロヒンギャとよばれる人びとが、すし詰めの船に乗せられてアンダマン海をさまよっている。かつて「からゆきさん」も船倉に隠れて密航した。

 東アジアでも政変や自然災害が起こり、日本海などを渡って日本に来る人びとが大量に発生するかもしれない。自分自身が「難民」になることも、福島原発事故で避難を余儀なくさせられた人びとのことを考えると他人事ではない。そのような苦難に陥ったとき、人びとは自分自身の境遇を受け入れて、前向きに生きていくことができる力強さをもっているだろうか。また、そういった人びとを支え、支援することができるだろうか。本書に登場した「からゆきさん」や中国人売春婦を指す「阿姑」は、人びとが困難に出会ったとき、どのように生きていくか、なかには現実に押しつぶされて死を選んだ者もいるが、を考えるヒントを与えてくれる。この事実を知っただけで、あきらめないで生きる勇気を自然と身につけるかもしれない。

 森崎和江は、「からゆきさん」を特別な人びとではなく、身近な自分の友人として受け入れ、『からゆきさん』(朝日新聞社、1976年)を書いた。本書の著者、ワレンもこれらの女性を「屋根裏部屋の友だち」であるかのように「できるだけ自然にまた愛情をもって語った」。表紙の4人の女性のまなざしから、いまの日本人はなにを読みとることができるだろうか。日本人の知性が問われているのかもしれない。それは、今日の従軍慰安婦の問題にも通じるのかもしれない。

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2015年06月16日

『帝国日本のアジア研究-総力戦体制・経済リアリズム・民主社会主義』辛島理人(明石書店)

帝国日本のアジア研究-総力戦体制・経済リアリズム・民主社会主義 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 日本のアジア研究は、現在問題となっている歴史認識など近隣諸国との関係改善・強化に、あまり貢献していないようにみえる。それはなぜなのか、戦前・戦中からの連続性、非連続性をもって語らなければ、わからないのではないかと考えていた。その答えの一端がわかるのではないか、そんな期待を抱きながら、本書を開いた。

 本書は、「板垣與一(一九〇八-二〇〇三)の戦時期・戦後の歩みを追いながら、社会科学の戦時動員、植民地秩序と国民経済をめぐる問題、戦後における日本・アジア関係の再編とアジア研究の再建、冷戦下の文化政治と日米関係といった問題を議論」している。

 その目的を、著者、辛島理人は「第1章 帝国日本の貫戦史」の冒頭で、つぎのように述べている。「本書の目的は、社会変革を志向した経済学者たちの戦時・戦後の思想と行動を描くことである。彼らは、軍部に動員されながら戦時期に帝国日本の再編を試み、戦後に日本・アジア関係とアジア研究の再建に尽力した。そして、国家が国民経済を管理すべきであるとし、社会科学者は政策形成に貢献すべきであると考えていた。彼らは、政治的な敗北に見舞われたものの、政府のブレーントラストや研究プロジェクトへの参加を通じ、日本の対外関係や国内体制を変えようとした」。

 そして、つぎの3つの課題が、本書で取り扱われる。「日本とアジアの関係において、知識人はどのような役割を果たしたのか。彼らのアジア解放の思想は日本のアジア侵略とどのような関係にあるのか。戦時期にみられた彼らのアジア関与は、戦後の日本・アジア関係にどのような影響を与えたのか」。

 これらの問いに答えるため、「本書では、社会科学者・板垣與一の政治的・知的な歩みを検証し」、「彼の言説に焦点をあてることにより、日本の知識人、特に経済学者が、一九三〇年代から五〇年代に日本・アジア関係をめぐって軍部、政治家、実業家、そして官僚とどのような関係を切り結んだか、さらには戦後日本の文化政治に影響をあたえたアメリカの知識人や政府関係者といかなるやり取りをしたか、を検証する。また、戦後のアジア研究の制度化をもたらした社会科学者による政策形成への参加と国家による知識人の動員という問題も議論されることとなる。板垣が深く関わった、帝国日本再編をめぐる戦時期の議論、軍部が組織した研究活動、戦後の日本・(東南)アジア関係の再建に注意を払い、そして、日本・アジア関係にまつわる戦後の学知や視座が、制度的にも知的にも、戦時下にみられた政府の変革を志向する知識人との間にあった関係に立脚していることを明らかにする」。

 本書のキーワードのひとつに「貫戦史」がある。著者は、この時代区分を「日本・アジア関係や日本におけるアジアに関する知の歴史について議論する」ために採用した理由を、つぎのように述べている。「アンドリュー・ゴードンは、一九二〇年代から六〇年代、特に三〇、四〇、五〇年代をつなぐ「貫戦史」という時代区分を提唱している。ゴードンによれば、「貫戦期(transwar)」は一九六〇年代に「戦後」へと移行するが、一九六〇年代の「高度戦後」の主要素は、その前の恐慌、戦争、復興といった歴史を通じて形成されたものである」。

 本書を通じて、「板垣ら知識人が東南アジアの占領統治や帝国の再編をめぐる問題にも深く関与していたこと」が明らかになった。「板垣は海軍省の研究会の中で日本の帝国編成についての議論を主導した」が、「陸軍の南方調査団に参加することとなった板垣は、一九四二年半ばには海軍省の総合研究会から離れることとなる。東南アジアの占領地域のほとんどは、長らく南進を主張してきた海軍ではなく、陸軍の管轄となり、政府系機関、民間研究所、そして東京商科大学を動員して南方調査団が組織された。そこには三〇〇名以上の人々が参加し、戦時占領地において最大級の現地調査プロジェクトとなった」。

 このとき、「板垣は、日本の軍政当局と、戦後の東南アジアの歴史を切り開くアジアの民族主義者の関係を調整する役割を担った」。そして、「東南アジアにおける板垣の戦時経験は彼の戦後の活動、特に東南アジア研究の制度化やアジア政策の提言に影響を与えた。一九五〇年代に投資や賠償を通じて構築された政治経済的関係を基盤に、日本は東南アジアと知的文化的関係を作り上げた。スカルノら戦時期の「親日派」はこの過程に大きな役割を果たした」。

 「戦時期の知識人は戦後も集団的知性を重視した」。1950年代初頭に「アジア政経学会、アジア問題調査会といった団体が設立された」。「前者はアジア専門家が集う学会であり、後者は満洲国の官吏であった藤崎信幸が大物保守政治家の経済援助に依存して設立した小規模のシンクタンクであった」。そして、1958年「通産省と財界によりアジア経済研究所が設立された。アジ研の誕生は、日本の帝国的遺産から生まれた内発的な力によるものであった。知的原動力となった板垣ら経済学者は、戦時期に植民政策学を担い、学会活動を通じてネットワークを形成した。実務を担った藤崎と政治的後援者の岸信介は満州国政府に勤務した経験があった」。

 経済学者を中心とした(東南)アジア研究の「貫戦史」は、なるほどと理解できた。では、社会科学中心ではアジア研究、とくに東南アジア研究は理解できないと「歴史と文化」を重視した、歴史学や人類学といった人文科学者はどうか、東アジア、内陸アジア、イスラーム研究はどうか、これらの分野でも「貫戦史」が成り立つのか、などなど、知りたいことが増えた。これら全体像がわかったとき、日本の戦後のアジア研究の歩みから、今日の日本と中国、日本と韓国などの関係改善に、アジや研究者になにができるか、わかってくるだろう。

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2015年06月09日

『もうひとつの「王様と私」』石井米雄著、飯島明子解説(めこん)

もうひとつの「王様と私」 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 6月7日、アメリカ演劇界最高の栄誉とされる「トニー賞」の授賞式がおこなわれた。ミュージカル部門主演男優賞に「王様と私」の王様役で渡辺謙がノミネートされたことから、日本で大きく報道された。「私」役が主演女優賞を受賞するなど、同作は4冠を獲得したが、渡辺の受賞はならなかった。この「王様と私」、リバイバル作品賞を受賞したように、繰り返し上演される。だが、舞台のモデルとなったタイでは、史実と異なり不敬にあたるとして上演が禁止されている。

 「王様」とは本書表紙にあるとおり、1939年までシャムとよばれていたタイの「モンクット王(ラーマ4世)(1804~68)」で、「私」とは白人女性ではなく「パルゴア神父(1805~62)」である。本書の目的は、「小説やミュージカルによって誤解の広まったシャムの「王様」の実像に迫り、この「王様」の思想に決定的な影響を与えた「もうひとりの私」と「王様」との長い交友のあとをたどり、それが、どのようにして「王様」の世界観に革命的変化をもたらしたかをたずねることにある」。「国王が絶対権力を持つ仏教国」タイで、「王様」と「神父」とがどうして「長い交友」をもつことになったのか、その研究の断片は著者(石井米雄)から何度か聞いたことがある。まとまった1冊になることを期待していたが、著者は2010年2月に帰らぬ人となった。あきらめていたところに、本文のページ数(解説者による註を含む89頁)を超える解説者(飯島明子)による「解説 王様の国の内と外-一九世紀中葉のシャムをめぐる「世界」」(100頁)が付け加えられて出版された。まずは、著者と解説者、このふたりから学ぶことはひじょうに多いことを確信して読みはじめた。

 本書の「王様と私」ふたりについて、表紙に写真とともに短い紹介文が掲載されている。モンクット王は、つぎのように説明されている。「タイの現バンコク朝第4代の王、在位1851~68年。ミュージカル映画『王様と私』の‘王様’のモデルとして知られるが、王位に就くまで27年間、仏法修行者として僧院生活を送った。その間フランス人神父パルゴアとの交友を通じてキリスト教文明に触れ、アメリカ人宣教師から習得した英語を武器に、積極的に西洋の先進文明を学んだ。1851年に登位すると、西洋諸国に対する閉鎖的政策から開放策に転じ、イギリス、フランス、アメリカ等と次々に外交関係を結び、やがて子のチュラーロンコーン(ラーマ5世)王によって推進されるタイ近代化の基礎を築いた」。

 パルゴア神父は、つぎのように説明されている。「1830年から32年間タイ(シャム)に滞在。出家中の後の王モンクットとの交友を通じてタイ文化について、深く学び、Grammatica Linguae Thai (シャム語文法、1850年)、Dictionarium Linguae Thai (タイ語大辞典、1854年)、Description du royaume de Thai ou Siam (タイすなわちシャム王国誌、1854年)の大著を残した。一方、パルゴアがモンクットに与えた影響の大きさは、パルゴアの死に際し、王が外国人に対しては異例なほどの感謝の念を表明した事実に示される」。

 互いに戦略的に学ぶ必要があったとはいえ、ふたりが長い交友関係をもった理由を、著者はつぎのように述べている。「プロテスタントのアメリカ人宣教師に対しては厳しい批判の姿勢を崩さなかったモンクットが、パルゴアの説くキリスト教には耳を傾け謙虚にこれを学ぼうとした姿勢の背後には、タイ文化に対するパルゴアの謙虚な姿勢のあったことを忘れることはできない」。

 本書本文は、「おそらく先生[著者石井米雄]ご自身がまだこれから手を入れ、推敲されるおつもりであったに違いない御原稿だった」が、「御原稿に典拠が全く示されていなかった」。このことから、解説者、飯島明子の並大抵ではない苦労が推察できる。他人の原稿、しかも未完成で、遺品のなかから「典拠として参照しうる、まとまった資料はとうとう見つからないとわかった」ことから、普通は出版をあきらめただろう。しかし、解説者の力量が著者と同等、あるいはそれを超えるものであったために、本書の出版が可能になった。他人の未完成原稿のなかには、間違いや不明瞭な点が含まれている。とくに不明瞭な点は、数多くある。本文を損ねることなく、註や解説を書くことなど、できるはずがないと考えるのが普通だろう。それは成功か失敗かを問わず、それを経験したことのある者にしかわからないことである。

 未完成の本文より、完成度が高いだけに「解説」からのほうが学びやすかった。また、解説者のほうが周辺地域への目配りができていて、広い視野のなかで理解することができた。そのひとつの例が「チェントゥン戦争」で、つぎのような説明ではじまっている。「チェントゥンは現在ビルマ(ミャンマー)・シャン州東部の首邑であるが、元々はチェンマイなどと同じく、タイ系の首長を戴く小国家で、チェンマイを中心としたラーンナーとは一三世紀に遡ると伝えられる支配層間の血脈という歴史上のつながりと、きわめて近似した言語や文字など、文化や社会のさまざまな要素を共有していた。このチェントゥンやラーンナーのように、東南アジア大陸部北部にあって、無数の山間盆地ごとにタイ系の人々を中心に成立した小邑が連合して、国家的なまとまりを形成した例は、ほかに、ルアンパバーン(のちにウィエンチャン)を都としたラーンサーン、今日の中国・雲南省最南部を占めたシプソンパンナー(主邑はツェンフン)などがあった。これらの政体は、ビルマ、ベトナム、中国、そしてシャムという、周囲のより強大な国家との間に二重、三重あるいはそれ以上に複雑な従属的関係を適度に保ちながらも、それぞれが自立した勢力圏の維持を図っていた」。

 そして、日本とタイが「同盟」関係にあった第二次世界大戦中のことが、つぎの文章とともに理解できた。「「国家」は「チェントゥン戦争」の蹉跌を歴史の記憶として、この地域の領有への野心を、長い時間共に涵養することとなった。一九三二年の立憲革命を経て新生したはずのタイ国家が、「大タイ主義」を掲げた太平洋戦争中の一九四三年八月から終戦までの期間、チェントゥンは「原タイ連合国(saharat thai doem)」という名を与えられ、タイ国領土として統治される」。近代「国家」タイは、周辺諸国・地域との関係で、より理解できることがわかる。

 自分の研究が「いかなる組織においてもご一緒する機会はなかった」「弟子」によって継承されることは、どれほど研究者冥利に尽きることだろう。まずは、理解することができる者が現れたことに喜びを感じただろう。自然科学や社会科学と違い、人文学は共通の理解のうえでの研究がなかなか成り立たず、その成果は継承されにくい。そんななかにあって、研究者の数が少ない分野で、このような本が出版されることはまずない。「ゆっくり」学び熟考を重ね、その蓄積がひとつにまとまったときに「いそいで」成果を出すことが、どれほど大きな学知になるかを知っているふたりだからこそ、本書の出版が可能になったのだろう。期待に反しない、学ぶことの多い書である。

 「王様と私」は、史実とは異なる「お話」として楽しめばいい。そして、史実を理解することによって、この作品がなぜ繰り返し、欧米だけでなく日本でも上演されるのか、考えてみるのも、日本の近代を考えるいい機会になるかもしれない。

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