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2015年04月28日

『ぶらりあるき シンガポールの博物館』中村浩(芙蓉書房出版)

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 本書は、同著者による「ヨーロッパシリーズ」(パリ、ウィーン、ロンドン、ミュンヘン、オランダ)につぐ「アジアシリーズ」の第4弾である。第1弾のマレーシアを出版して半年のあいだにバンコク、香港・マカオ、そして本書シンガポールが出版されている。

 「ユニークな博物館、ガイドブックにも載っていない博物館などシンガポールの63館」を、9つに分けて紹介している(「歴史・民族(民俗)に関する博物館」「産業・経済に関する博物館」「警察・消防・軍事に関する博物館」「美術・工芸・芸術に関する博物館」「科学・自然科学に関する博物館」「動物・植物に関する博物館」「人物の顕彰に関する博物館」「趣味・娯楽・その他の博物館」「ジョホールバル(マレーシア)への小さな旅」)。

 なかでも著者がもっとも注目するのは、「動物・植物に関する博物館」で、つぎのように「まえがき」で述べている。「動物園、ナイトサファリ、ジュロンド・バード・パークなどをはじめ、世界的にも珍しい亀の博物館もあります。また、パンダが見られるリバー・サファリやマリンタイム・ライフなどの施設も続々とオープンします」。「植物園関係では、近年オープンしたガーデンズ・バイ・ザ・ベイや大温室のクラウド・フォレスト・フラワー・ドームなどのほか、早くから公開されている植物園(ボタニック・ガーデン)、ジンジャー・ガーデン、国立蘭園(ナショナル・オーキッド・ガーデン)、広大な日本庭園、中国庭園など、見るべきところがたくさんあります」。

 著者は、「1947年大阪府生まれ」、「専攻は、日本考古学、博物館学、民族考古学、(東アジア窯業史)、日本仏教史」である。本書の記述は総花的で、読者の興味にあわせて、拾い読みをすればいいようだ。

 アジアシリーズは、その後、同著者による台北、ベトナム、マニラが出版されている。

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2015年04月21日

『20世紀アメリカ国民秩序の形成』中野耕太郎(名古屋大学出版会)

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 「序章 二〇世紀アメリカ国民秩序へのアプローチ-アメリカニズムと社会的なもの-」「1 二〇世紀ナショナリズムへ」「(1)新旧のナショナリズム」は、つぎの文章ではじまる。「本書の目的は、二〇世紀におけるアメリカ・ナショナリズムの歴史的展開を、社会史の視座から明らかにすることである。特に、一九二〇年代中葉に成立し、少なくとも六〇年代までひとつの社会秩序として持続する二〇世紀前期のナショナリズムに注目し、歴史的実態としてのアメリカ国民社会の形成過程を考察したい。そして、この「二〇世紀ナショナリズム」を生み出した一八九〇年代から一九二〇年代の「アメリカ」こそが、本書の主たる分析対象である」。

 本書の目的を、著者、中野耕太郎が確固たるものするには、長い年月がかかった。アメリカに留学して、その社会の基層に触れ、「ナショナリズムは過ぎ去った前時代の遺物なのか。それとも現代史の切っ先にある新しい現象なのか。それは歴史学の意味ある対象たりえるのか。その歴史を書くことは、それ自体、反動的な支配に加担することになりはしないか、等々」と自問し、アメリカ社会史研究の大家との問答のなかで、その目的意識は生まれ、成長した。

 近代国民国家は民族的起源を問うたひとつの帰結であり、近代をリードしたアメリカ合衆国は第一次世界大戦中に大統領が「民族自決権」を唱えた国のひとつである。ところが、「多様な西欧系の移民とその子孫を中心に建国」し、肌の色の違うアフリカ系、アジア系住民を多数抱えるアメリカは、「固有のナショナリズム」をもつほかの近代国民国家とは違う「統合」の資源を必要とした。

 その問題について、著者はつぎのように述べている。「多元性の原理を抱合した二〇世紀のアメリカ・ネイションは、実際には、ますますヨーロッパ出身の「白人の国」としての自画像に共同性の基盤を求め、それに従って人種的な階層構造を内的に発展させていったのである。エスノ・レイシャルな国民感情が高まり、国民としての同質性が求められれば求められるほど、これまで個人として市民社会に包摂されていたはずの人々が人種的な「他者」(=偽の同国人)として炙り出されてくる。そして、国民の純化を目指して、そうしたマイノリティを隔離し、排斥することで、ますますナショナリズムは強化され、さらなる他者が生み出されていく」。

 社会史として、本書が具体的に注目するのは、「「二〇世紀ナショナリズム」に先行する約三〇年間(一八九〇年代から一九二〇年代)の激烈な社会変化と、その中から勃興した革新主義の問題である。革新主義とは、二〇世紀転換期のアメリカに叢生した社会改革の思想・運動である。それは世紀末の急激な工業化・都市化に由来する。都市の貧困や劣悪な公衆衛生、売春などの悪徳、そして大企業の市場独占の弊害などに中産階級的な感性からメスを入れようとする広範な思潮であった。革新主義の改革者たちは、一九世紀を席巻した過度の個人主義と経済の自由放任が、本来のアメリカ的価値に根差した人々の共同的生活を棄損しているという危機意識を共有し、それぞれのやり方で、新しい絆を再生しようとしていた」。

 本書では、著者が注目する1890年代から1920年代中葉に至る「二〇世紀ナショナリズムの形成過程を三つの時期に区分し、それぞれ第Ⅰ部、第Ⅱ部、第Ⅲ部として論じていく。第Ⅰ部[「革新主義と国民国家」]の主要な課題は、革新主義期における「社会」の発見が、どのような文脈で国民統合を要請し、また国民内の境界を築いていったのかを検討することである。第Ⅱ部[「第一次大戦とアメリカの国民形成」]では、第一次大戦期の国民形成に関わる諸問題を分析し、二〇世紀初頭の言論人や社会活動家が論じた「国民」がどのように、権力政治の中に組み込まれていくかを考察する。さらに第Ⅲ部[「二〇世紀国民秩序へ-一九二〇年代の展開」]では、第一次大戦後の政治・思想動向に焦点を当て、第Ⅰ部、第Ⅱ部で見たアメリカ化や人種政策が長期にわたって継続し政治秩序化する過程を明らかにする」。

 「以上の構成による分析を通して」、著者はつぎのように本書の展望を述べて序章を締めくくっている。「二〇世紀国民秩序がなぜ、どのようにして形成されたのか、そしてこの秩序はどのような歴史的な特殊性をその前後の時代のナショナリズムと比して持っていたのかを明らかにする。すでに見たように、従来の研究の多くは「あるべきアメリカ」を追い求めた規範的な議論を内包していた。本書は、そうしたアメリカ・ナショナリズムの本質をめぐる諸論争の価値を十分にふまえたうえで、なお可能な限り中立的かつ俯瞰的に二〇世紀ナショナリズムの歴史ダイナミズムを明らかにしていきたい。そのことは、逆説的ではあるが、ここでいう二〇世紀秩序が生み出したもののうち、「何」が一九六〇年代、七〇年代の変革で乗り越えられ、「何」が今日なおアメリカの国民社会に残存し、その未来を束縛しているのかを明らかにすることでもある」。

 そして、「終章 現代史としての二〇世紀アメリカ国民秩序」では、まず本書の検討で明らかになったことを、つぎのように述べている。「歴史的にはこの新しいナショナリズムは、一九世紀的な市民ナショナリズムに対抗するものというよりは、むしろ「市民的なもの」-すなわち、市民的美徳や市民資格などを、エスノ・レイシャルな語彙で上書きし、再定義するかたちで表現されていったことである。その際、識字や貧困、あるいは生活水準をめぐる「社会的な」言説が、二〇世紀的な人種主義と市民性の語りとを媒介していたことは、繰り返し述べてきたとおりである。さらに、両者の間の往還は逆方向にも作用した。つまり、当時の政治エリートが、特定の民族や人種集団に劣者の烙印を押し、移民制限等の政策を推進しようとするとき、しばしばその劣等の根拠は、彼らの識字能力や生活水準から推認される、市民的資質の欠如という議論に帰着した。換言すれば、ここでは「市民」と人種は互い同士を定義し合う関係にあったのであり、この二つが分かちがたく結びつく中で、二〇世紀ナショナリズムの凝集的な共同性が生み出されていったのであった」。

 さらに現代まで射程においた著者は、つぎのように「その後」を見通している。「二〇世紀国民秩序の解体は、ひとつにはこれまで分かちがたく結合していた、市民ナショナリズムの伝統と「社会的なもの」、そして二〇世紀的な人種主義を、いま一度別々に引き離し、特に科学的な、あるいは、草の根の人種思想を非民主的な「因習」として拒絶することで可能になった。そして一九七〇年代までに、この「旧い」ナショナリズムの廃墟の上に、エスノ・カルチュラルな多元主義とカラーブラインドな市民的統合論という二つの理念が新しい民主的価値として屹立していた。大雑把に言えば前者は多文化主義の、後者は市民ナショナリズムの運動を正統化するものだろう。そして、両者の原理的対立が一九八〇年代以降のアメリカ知性界を分断し、そのこと自体が今日のアメリカ国民社会が何を共有し、何によって接合されているのかを全く見えにくくしている」。

 近代世界をリードしたアメリカのナショナリズムは、ほかの近代国民国家のような民族主義にもとづく国家形成問題とは違うものを内包した。アメリカの「国民秩序」の問題は、世界規模の「市民秩序」につながる。そこには、移民、貧困、人種などの問題がついてまわる。著者は、その縮図を「「社会的なもの」がせり上がっていく新時代のシカゴに焦点を合わせ」て考察している。それは、グローバル化時代に世界各国・地域で起こっている問題の先取りでもあった。第一次世界大戦後にアメリカの大衆文化が世界中に広まったアメリカ化とは、まったく別次元の問題として、いままた世界で「アメリカ化」が起こっている。アメリカ自身が解決し得なかった問題に、日本を含む世界各国の国民であると同時に地球市民である現代人が取り組まなければならなくなっている。そのために必要な数々の事例と示唆を、本書は与えてくれる。

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2015年04月07日

『外交ドキュメント 歴史認識』服部龍二(岩波新書)

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 「繰り返されてきた関係悪化と修復」と、帯にある。今回の「悪化」は長すぎる。いまの若者にとって、ものごころついたときから、ずっと「悪化」状態がつづいている。「いいとき」を知らないのである。この事実は、「悪化と修復」を繰り返してきたという「楽観論」ではすまされない深刻な問題である。

 著者、服部龍二は、本書の主たる目的をつぎのように「はじめに」で述べている。「批判や提言ではなく、日本外交の視点から政策過程を分析することにある。諸外国との関係悪化だけでなく、修復の局面にも紙幅を割く。筆者が断を下すというよりも、読者のために材料を整理して提供したい。何度でも再燃しうる歴史問題を論じるうえで、そのことは基礎的な作業となるだろう。『外交ドキュメント 歴史認識』と題したゆえんである」。

 いま、「批判や提言」が自由にできないような雰囲気がある。これだけ長期間「悪化」がつづいている責任を、歴代自民党、民主党、自民党政権に問い批判し、「修復」のための提言をするのが、研究者の本来の役割のひとつだろう。それを許さない原因のひとつは、「二分法」にある。著者は、「あとがき」でつぎのように述べている。「二〇一五年は戦後七〇年であるとともに、中国にとっては抗日戦争勝利七〇周年であり、韓国にとっては光復七〇周年、対日国交正常化五〇周年ともなる。歴史問題で最も回避すべきは、国の内外で感情の応酬になることであろう。ともすれば、歴史問題は「保守」対「反日」という二分法で解されるようである。国を憂い、威信を重んじる「保守」が「反日」を売国と批判し、「反日」は「保守」を右翼、御用学者と指弾するといった構図である」。「複雑な事象が単純化されると、国論が「保守」「反日」に二分されているかのような感覚に陥りやすい。そのような観念が定着すれば、慎重な者ほどレッテルを恐れ、社会的言説を控えるだろう」。「二分法は便利だが、不毛でもある。国を憂えることは、自国の歩みを問い直すことと矛盾するものではない。過去を顧みることは、関係国の一方的な主張に同化することとは異なる。あらゆる国の過去には、よき伝統とともに反省すべきところもある。国の将来を真剣に考えればこそ、過去に学びながら未来を見据えるのは自然なことであろう」。

 昨年開戦100周年を迎えた第一次世界大戦の記念行事が、ヨーロッパを中心につづいている。その式典などには、敵味方の別なく関係者が出席している。戦後70周年の記念行事にも、敵味方の別なく、東アジアの関係者が出席できるだろうか。「修復」できないのは、互いが尊重し合い、必要不可欠な存在であることを認識していないからだろう。記念式典に出席するというような具体的な目標を設定して、「修復」のための努力をする必要がある。そのためには、「悪化」の原因となった事実を確認することが重要となる。本書は、そのための基本的文献になる。表紙見返しには、つぎのように書かれている。「歴史教科書、靖国参拝、慰安婦問題と河野談話、村山談話……様々な思いが絡み合う歴史認識。そこには、関係悪化と修復を繰り返す日本外交の複雑な歩みが存在した。日本はこの問題といかに向かい合い、中国や韓国とどのように交渉してきたのか。その過程を丹念にたどり、日本の立脚点を模索する」。

 この複雑な事情を単純化した「二分法」を超えるためには、関係国の国民が偏狭なナショナリズムを超える知識と対話をもつ必要がある。「修復」が来るのを待つのでは、一時的に「修復」してもまた「悪化」が来る。この繰り返しを止め「悪化」が来ないようにするには、政府・政治家を抜きにした互いのナショナル・ヒストリーを学び・理解する国民の力が必要である。

 時間には、自然治癒力がある。これまで悪化と修復の繰り返してきたのも、時間が解決した面がある。ところが、今回の悪化の長期化は、修復に向かおうとしているときに、悪化の原因となるようなことを政府・政治家がおこなうことに原因がある。反日感情が強いといわれる中国や韓国から、多くの観光客が日本に来ている。中国も韓国も、日本も、国民は歴史が政治の道具にされることに飽き飽きし、歴史に関心をもたなくなってきている。政府・政治家は、そのことに気づいていないのだろうか。そして、歴史研究者としては、歴史から学ぶことが多々あり、われわれの生活を豊かにするために欠かせない歴史に無関心な人びとが増え、歴史がおろそかにされることがたまらない。

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