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2015年02月17日

『ナイチンゲールの末裔たち-<看護>から読みなおす第一次世界大戦』荒木映子(岩波書店)

ナイチンゲールの末裔たち-<看護>から読みなおす第一次世界大戦 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 「ナイチンゲール」のタイトルに惹かれて、本書を手にとった人がいるかもしれない。「看護師と雑役婦とが判別しにくかったこの時代に、下層階級から看護を取り戻し、看護師の社会的地位を高めた」ナイチンゲール(1820-1910)の伝記を、子どものときに読んだ人びとにとってナイチンゲールは大人になっても「憧れ」の存在であろう。だが、今日の研究者の世界では、「伝記作家がナイチンゲールの業績を過大に評価し、それ以前の看護師を貶めてしまったために、ナイチンゲールが劇的に看護を変えたかのように理解されてきたが、それは今修正されつつある」という。本書は、ナイチンゲールが看護師の社会的地位を高めた後の第一次世界大戦中の「看護」から、「大戦の記憶を書き換える」試みである。

 著者、荒木映子は「大戦と看護師」をとりあげる理由を、つぎのように「序」で説明している。「これに注目したのは、イギリスでは大戦時女性たちが多数看護師となって戦場にわたり、傷病兵の看護に奮闘しているからである。しかも、訓練看護師(トレインドナース)ではなく、速成の訓練を受けただけの篤志(ヴォランタリー)の看護師の活躍が目立ち、看護現場での壮絶な体験を文学作品に著した者も多い。彼女たちは、女性版志願兵に相当し、中流以上の階級に属する教育のある女性たちであった。若くて献身的で、糊のきいた白い帽子とエプロンを身に着けてかいがいしく働く彼女たちの評判は高く、労働者階級出身者が多い訓練看護師との間で軋轢が生じることもあったという。イギリスだけでなく、フランス、ロシア等でも、貴族階級や王室関係者、あるいは女優も看護に従事している。アメリカは一九一七年四月にドイツに宣戦布告するまで中立を保っていたが、自分で旅費の工面ができる女性たちは、看護資格の有無にかかわらず、参戦する前から海を渡って連合軍を助けた。その数は二万五〇〇〇人にのぼるとされている」。

 本書は、序、全6章、結語からなる。著者は、その概略をつぎのように述べている。「近代的な看護をうちたてたと言われるナイチンゲールの以前・以後の看護の歴史の中で、大戦の看護を位置づけるという身の程知らずの試みから本書は始まる。第2、4、5章に大戦の看護師たちの書いた作品の検討を配し、第3章では、訓練看護師と篤志看護師との比較を行い、イギリスの志願兵/篤志看護師の活動の源となった歴史的背景を考察する。第6章では、日本赤十字社が政府と陸軍のお墨付きで行った「救護看護婦」(当時の正式名称である)の海外派遣について述べる。戊辰戦争で銃を持って戦い、敗戦後は同志社の創立者となる新島襄と結婚した新島八重は、日清・日露両戦争で「篤志看護婦」(略)として内地の予備病院で傷病兵の看護にあたったが、日赤救護看護婦は、英仏露へと初めて海外へ派遣された訓練看護師であった。このあまり知られていない救護活動について、英米の看護師たちの活動と比較しながら検討する」。

 「文学、看護学、文化史、軍事史にまたがり、英米、日本と壮大すぎるスケール」を扱った本書は、これまで「英文学研究の世界に閉じこもって」いた著者にとって挑戦であった。そのことを著者は、「あとがき」で、つぎのように吐露している。「長年英文学の研究論文を書いてきて思うのは、テキストの内へ内へと入り込んでいく批評、「理論」によってやたら難しくなった文学批評は、専門家でなかったらわかってもらえないだろうなということだった。対象になっている作品を読んでいない読者、文学批評を知らない読者はまず読んでくれないだろうし、読んだとしてもわからないだろう。テキストの外へ向かって、文化や歴史に解き放ってみると面白いのではないか、大学で専門を異にした友人、小・中・高の同級生、研究者でない一般の人たちに読んでもらえるような本を書きたいと常々思ってきた。それで、文学作品をとりあげる時には、読んでいない人にもわかるよう、できるだけ作者の伝記や作品の内容を面白く取り上げるようにした。取り上げた作品はいずれも日本語訳が出ていないし、英文学研究や第一次世界大戦研究でもまだあまり考察の対象にはなっていない。トレンチ・マガジンやホスピタル・ガゼットの研究は英米でも始まったばかりで、これらを少しでも組みこむことができたのは、文学研究の枠をはみ出したおかげである。もちろん文学批評的言辞を一掃したわけではない。どこまで戻って説明していいかわからないことも多かった。文学研究者から見ると作品分析が不充分であろう。一般読者にも、英文学、看護学、西欧だけでなく日本の歴史や文化の専門家にも興味を持って読んでもらえることを目指して書いた」。

 この挑戦は、少なくとも本書の編集者とわたしには成功したように思える。それは、それぞれの分野で、なかなか文章にできなかったことを、文学を通して明らかにしたということを意味する。たとえば、軍事看護の歴史はこれまでほとんど研究されてこなかったし、ましてやそれに従事した看護師の日常生活はよくわからなかった。第一次世界大戦時にヨーロッパに派遣された日赤救護看護婦のこともわからないことだらけで、著者は「あとがき」で「手記があれば、教えていただきたい」と読者に協力を求めている。社会史家は、フィクションからでもそのイメージをつかみたいと思っている。その先が、たいへんなことを知っていても・・・。

 ひとつ気になったことがある。日赤救護看護婦の「手記」など書いたものが少ないのは、かの女らが訓練看護師だったからで、それは本書で指摘しているとおりである。それにたいして、篤志看護師は職業として生活の糧にしていないからこそ、客観的に看護の現場を書くことができた。それはそれで看護の「実態」の一側面を知るための貴重な記録となったが、「手記」などのすくない訓練看護師の側から見た「実態」より重要だろうかということである。平時にも戦時にも主力となったのは訓練看護師であって、その功績は大いに認めても篤志看護師はあくまでも臨時のものである。だからこそ、著者も日赤救護看護婦の書いたものがなければ充分でないと考えたのだろう。社会史の領域に入ると、書けないものの存在がだんだん大きくなってくる。

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