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2014年12月30日

『兵士はどこへ行った-軍用墓地と国民国家』原田敬一(有志舎)

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 「靖国参拝の国会議員たち」も、「慰霊という、実は誉め讃える顕彰行為に没頭して、実際に埋葬されている人々や場に関心が薄い」。著者、原田敬一は、「「公」の名の下に国家が占有してきた「軍人の墓地」の歴史と実態を解明することをめざしている」。裏表紙には、つぎのような要約がある。「なぜ人は戦場に赴かねばならないのか。国家を維持するため、故郷と家族を守るため、という常套句では当事者たちは癒されない。そのために近代国家は、戦死者を追悼する空間を設定し、「愛国者」として記憶するよう国民に求めた。しかし、その方法は果たして世界共通なのか?日本ばかりでなく、韓国・台湾・アメリカ・ヨーロッパなど世界各地の軍用墓地や追悼施設を調査し、その来歴と現状を見つめながら、現代国家とそこに生きる人びとを今も拘束し続ける戦死者追悼の問題を考え直す」。

 本書は、プロローグ、3部全13章、エピローグ、あとがきからなる。各部の終わりには「小括」がある。第Ⅰ部「軍用墓地とは何か」は第一~四章からなり、「小括 戦争の終わらせ方と軍用墓地問題」では、国民にとっての大きな問題は「戦争をどう終わらせるのか」と、もうひとつ「戦争相手国との戦後をつくっていく、という課題がある」という文章ではじまり、つぎの文章で終わっている。「第四章では主に第一次世界大戦の終わらせ方に絞り、それも戦没軍人の「軍用墓地」というもののあり方という特殊な場面のみ検討した。当然戦没軍人を一途に賞賛する「記念碑」「追悼碑」についても検討はなされねばならない。本書は戦争を否定する立場ではあるが、「軍人文化」という新しい問題提起は、その延長上に考察するための補助線として提出しておきたい。このことから次の時代と社会が生み出されていくはずである」。

 第Ⅱ部「日本の軍用墓地」は第五~八章からなり、「小括 軍隊と戦争の記憶-軍用墓地の語るもの」では、「第一に、軍用墓地は、社会とともにその意味が変化した」と述べ、順を追ってつぎのように説明している。「最初は、兵役に従事した者が亡くなったという、公務死亡者の埋葬地で始まった」。「次に、日清戦争、日露戦争の戦没者が、個人または合葬の形で埋葬されることにより、「顕彰」の意味が強まった」。「そして、学校教育や新兵教育で、追悼の場となった軍用墓地が活用されるようになる」。「第二に、「軍用墓地」のありようによって、個人ごとの墓標、戦争による合葬塔の段階から、一九三九年からの忠霊塔建設運動による忠霊塔段階への相違が確認できる」。日中戦争全面化で激増した戦死者に対応するため、1938年に「陸軍墓地規則」が制定され、「個人がその輝かしい名とともに、階級・死因・死亡場所などをおおらかに披露していた「陸軍埋葬地」時代から、部隊名と戦争名しか見えない「陸軍墓地」時代へと劇的に変化した。勇敢に戦った忠なる部隊、という美称の下に、個人は見えなくなった。部隊が可視化され、個人が不可視化された」。「総力戦体制下の陸軍墓地は、戦没軍人・軍属を祀る靖国神社を絶対信仰とする臣民の感情への掃き清めの役割を果たすことになった。創設期や日清・日露戦争の時とは異なる、新しい陸軍墓地の様相が、靖国神社信仰を支える基盤を形成していた」。

 第Ⅲ部「欧米とアジアの軍用墓地」は第九~一三章からなり、「小括 国民にとっての軍用墓地・国立墓地」では、「日本の事例だけでは十分な検討が出来ないと考え」た著者が「アジアや欧米各国を調査して廻った結果」がまとめられている。「日本だけでは見えなかった問題が明らかになってきた」ことのひとつが、「「誰が埋葬者を決定できるのか」という大きなテーマ」であった。「国民国家が兵士の埋葬と顕彰に力を入れていたのは、「彼らに続く戦死者」を確保するためだった」とし、つぎのような文章で結んでいる。「国家は、自ら死者を造っておきながら、死者を覚えておきたくない。それが近代国家の性格であった。そのことに注意を向け、国家に死者を覚えさせておくこと、そのことによって、非業の死の国民を生み出さないための方策を考え続けること。それが残された私たちの仕事ではないだろうか」。

 ほかのアジアや欧米各国・地域と比較すると、日本の異常さがわかることが本書に書かれたこと以外にも多々ある。日本の戦前の記念碑銘は軍人によって書かれたが、戦後は政治家の名前が彫られている。靖国神社の宗教的問題にたいして、千鳥ヶ淵戦没者墓苑が取りあげられることがあるが、8月15日に行くと日蓮宗が陣取り、最前列に国会議員が座っている。日本の戦死者追悼から、宗教だけでなく政治を取り除かなければならない。また、イギリスでは第一次世界大戦休戦記念日の11月11日(Remembrance DayまたはPoppy Day)が近づくと、戦争の悲惨さを思い出すために、人びとは胸に深紅のポピーの花をつける。テレビキャスターもみなつけるので、その日が近づいたことが容易にわかる。インドネシアでは、1942~45年の日本占領期から解放された2日後の8月17日の独立記念日を祝うために、子どもたちが路上で行進の練習をはじめることによって、その日が近づいてきたことを知る。可視化されることによって、人びとは思いを共有し、次世代に伝えていく。そのようなことが、日本にあるだろうか。敗戦のことを語らない、伝えない戦後の歴史が日本にある。

 ご挨拶:

 4月20日に「書評空間」が終了してからも、引き続きアップしてきましたが、メインテナンスをしていないせいか、だんだん動きが遅くなってきました。いつアップできなくなるかわかりません。どこかいい場に移れるといいのですが・・・。

 今年も2週間以上空けることなく、もはや書評とはいえないたんなる覚え書きをアップし続けてきました。来年4月で丸10年になります。4月以降も、数は大幅に減りましたが、「いいね!」「ツイート」に数字が出るのに驚いています。今後もなんらかのかたちで、続けていきたいと考えていますので、よろしくお願いいたします。

 どうぞよいお年をお迎えください。



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2014年12月16日

『赤vs黄 第2部 政治に目覚めたタイ』ニック・ノスティック著、大野浩訳(めこん)

赤vs黄 第2部 政治に目覚めたタイ →紀伊國屋ウェブストアで購入

 本書は、同著者、訳者による2006年から2008年10月までをとりあげた『赤vs黄 タイのアイデンティティ・クライシス』(めこん、2012年)の続編で、2008年12月の民主党アピシット政権の誕生から2009年10月までを扱い、その後は第3巻でとりあげるという。この「赤vs黄」は、2014年5月23日の軍事クーデタで終わったのだろうか?

 ドイツ人の著者ニック・ノスティックは、「第1部」の「訳者あとがき」で、つぎのように紹介されている。「集会やデモ、暴動があると、直ちにカメラを携えて現場に走り、デモ参加者、警察官などに対して精力的にインタビューをした。彼の強みは、タイの日常感覚とタイ語が堪能なことだ。それを武器に彼は現場の真実の姿を伝えることに徹しようとする。読者は、PAD[黄シャツ派:民主主義のための国民連合]とUDD[赤シャツ派:反独裁民主戦線]のそれぞれの主張だけではなく、集会の参加者がどんな人たちであるのかを知ることができる。タイの政治の世界とデモや闘争の現場を写真で結びつけたことがニック氏の取材の大きな成果で、読者にこれまでのタイ政治関連の本では見られなかった視点を提供していると言えよう」。

 「この本は、比較的取材に協力的であったUDDの活動を軸に書かれている。著者のニック氏は、PADがUDDに対して一定の社会的譲歩をしない限り、現在の抗争を超えて新しいタイ社会を築くことは難しいと本文で述べており、タックシン問題があるものの、心情的にUDDの活動に期待をしている」。

 PADとUDD、著者は、それぞれどのように見ているのだろうか。最終章の「第14章 社会大衆運動」で、つぎのように説明している。「愛国主義で王党派のPADは、伝統的な右翼の定義からは逸脱した反グローバル的資本主義傾向の強い、さまざまなナショナリスト過激派の総称、サード・ポジショニズム(訳注:資本主義と共産主義の両方に反対する第3の位置に立つ政治思想。排外的・復古的国家主義の色彩が強く、欧米では極右ネオ・ファシストのうわべだけの理論だとする見方が強い)の反動的アジアバージョンと見ることもできる。サード・ポジショニズムの典型は、まさにPADに見られるように、極右と極左が同じ陣地を築くということである」。

 PADが「金で買われたタックシンの歩兵にすぎない」と主張する「赤シャツ派の思想は、貧困層への革新的な配慮と国際主義的なグローバリストの視点を併せ持つ社会自由主義的資本主義(訳注:社会自由主義は社会的公正を重視する自由主義。ヨーロッパでは中小規模の中道または中道左派の政党が多い)に基づくもので、PADの論理とは正反対である。しかし赤シャツの運動には、マルキシストから資本主義者まで数多くのグループがある。大多数の赤シャツの運動はいかなる過激なイデオロギーをも信奉するものではなく、単に平等な権利と機会、経済的発展、そして政策決定過程への参加を要求しているだけである」。

 そして、つぎのように結論している。「2つのイデオロギーに基づく大衆運動が、タイの政治と社会を作り変えようとしている。その両方の側で同じ1人の人物-タックシン・チンナワット-がほとんど正反対の立場でのシンボルとなっている。赤シャツにとってタックシンは、民主主義の発展と平等な社会を目指す運動の代表者であり、PADにとってのタックシンは、タイ社会の汚職と不公正の究極の見本なのである」。

 この2つのいっぽうは、2001年にタックシンが首相になった選挙以降、選挙で5戦5勝である。もういっぽうは、軍、司法、王室の助けを借りて、「路上の抗争から政治・社会を動かし」、タックシン派の政党をつぎつぎに解党に追い込んだ。「第1部」の最終章のタイトル「ゲームは終わらない」のゲームをひとまず終わらせたのは、2014年5月23日の軍事クーデタだった。だが、著者は、第2部の副題を「政治に目覚めたタイ」としている。著者は、「はじめに」の最後で、つぎのように述べている。「タイ社会を分析する上で、従来無視され続けた底辺からの視点がきわめて重要であると考えている。タイの政治は、もはや一部エリートだけが関与で(ママ)する領域ではなく、一般大衆の考え方や希望に強く影響を受けるものになっているのである」。赤vs黄を通して、一般大衆は、もはやエリートの道具ではなくなっているというのである。そうならば、この「ゲーム」を終わらせるのは、軍でも王室でもなく、一般大衆ということになる。

 上院に相当する元老院では、議員の条件に「大学卒以上」がある。PADの幹部のなかには、「タイにおいては、1人1票の原則は使えない」「バンコクの30万票は上質な票であるが、地方の1500万票は低質で、バンコクの票は少ないがより優れている」と発言する者がいる。このような「地方に対する差別意識、偏見、優越意識」が、5度の選挙結果を「無効」にした。「同じタイ人だ、たたかいはやめよう」という声は、「同じタイ人」を尊重しない人びとには届かない。

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2014年12月02日

『蘭印戦跡紀行-インドネシアに「日本」を見に行く』内藤陽介(彩流社)

蘭印戦跡紀行-インドネシアに「日本」を見に行く →紀伊國屋ウェブストアで購入

 近年まで、新発売の切手を買いつづけていた。切手からいろいろ学んできたからである。日本の国立公園や国定公園、動植物、歴史(○○周年記念)、国際学会の存在まで、切手に教えてもらった。いま保っているもののほとんどは額面未満でしか売れず、投資としては失敗している。だが、切手から多くのものを学んだことを考えれば、けっして損をした投資ではなかった。

 著者内藤陽介は、「切手などの郵便資料から、国家や地域のあり方を読み解く「郵便学」を提唱し、活発な研究・著作活動を続けている」。拙著『マンダラ国家から国民国家へ-東南アジア史のなかの第一次世界大戦』(人文書院、2012年)では、タイが第一次世界大戦の勝利を記念して、タイ語と英語で「勝利」を加刷した切手を教えてもらった(内藤陽介『タイ三都周郵記』彩流社、2007年)。

 本書は、「パレンバン、バンダ・アチェ、ジョグジャカルタ、ボロブドゥール、アンペナンの5ヶ所を題材に、切手や郵便物、絵葉書などを絡めた歴史紀行としてまとめたものである」。「首都のジャカルタや日本人にも人気のバリ島」ではなく、これらの5ヶ所にしたのは、「できるだけ類書のない地域を選ぶという切手紀行シリーズの基本方針」に従ったためである。

 「本書の旅では、日本占領時代の切手や郵便物、絵葉書などを入口として各地を歩いてみたが、結果的に、19世紀のオランダによる植民地化に対する抵抗や第2次大戦後のインドネシア独立戦争など、該当地域におけるさまざまな戦争の痕跡を辿ることになった。その意味では、タイトルの“戦跡”も、いわゆる太平洋戦争の時期にとどまらない、幅広いものとなった」。

 切手や郵便物、絵はがきだけでなく、著者が撮った多くの写真があり、そこで生活している人びとの活き活きした表情も読者に伝えている。「国家や地域のあり方を読み解く」「郵便学」にふさわしく、時空を超えて、訪れた地域の社会と人を読み解いている。

 だが、帯の「日本の兵隊さん、本当に良い仕事をしてくれたよ。彼女はしわくちゃの手で、給水塔の脚をペチャペチャ叩きながら、そんな風に説明してくれた」は、いただけない。本文には、「こういう話を聞くのは、日本人として単純にうれしい」とある。巻末にある「主要参考文献」でインドネシア研究者が書いたものを理解していれば、「単純にうれしい」とは書けなかっただろう。たしかに個々の事実を取りあげれば、「良い仕事」をした日本兵はいただろう。だが、インドネシアの教科書では、日本占領期は「激しく暗い嵐の時代」とか「暗黒の日々」として書かれている。日本が戦場とした「戦跡紀行」が、日本の良いところ探しであって、戦場とした国や地域の人びとのことを考えないのであれば、そこから教訓は得られないだろう。日本兵を、被災地に入った自衛隊と同じように、1967年生まれの著者は感じているのだろうか?

 表紙には、インドネシア人の子どもを抱き上げている日本兵と子どもの母親とおぼしき女性がみな笑顔で描かれた、軍事郵便用の絵葉書が使われている。画の右下に、「2602 SASEO」とある。2602年は皇紀で、昭和17年のことである。絵葉書のキャプションは、「アジア万歳 小野佐世男筆 土民は皇軍を心から迎えた。空にはHIDOEP ASIA RAJA(アジア万歳)のアドバルーンが悠々と浮んでゐた空は涯しなくひろかつた。」(旧字は新字に改めた)とある。出版社の姿勢もみえてくる。

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