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2014年09月09日

『レイルウェイ 運命の旅路』エリック・ローマクス著、喜多迅鷹・喜多映介訳(角川文庫)

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 本書は、2014年4月19日に日本全国でロードショーされた同名の映画(コリン・ファース、ニコール・キッドマン、真田広之ほか)の原作である。帯には、「英国人捕虜と日本人通訳の奇跡の実話」とある。「レイルウェイ」とは、太平洋戦争中の1942年6月に測量開始、12月公式に建設着工し、翌43年10月末に「完成」したタイ(泰)とビルマ(緬甸)を繋ぐ単線鉄道などのことである。「訳者あとがき」には、作業人員、日本軍約1万、捕虜(俘虜)約5万5000人、アジア各地からの労務者約7万、犠牲者総数約4万2000人とある。

 本書の著者ローマクスは、イギリス軍中尉で1942年2月シンガポール陥落後捕虜となり、泰緬鉄道建設現場でラジオ操作にかかわったとして激しい拷問を受けた。「生き延びるが、帰国後、戦時の記憶に苦しみ続ける。そして40年以上が過ぎたある日、日本軍の憎き通訳が存命と知り、復讐心が抑えきれなくなる-」。本人のトラウマは、妻パッティをも苦しめることになる様子を、つぎのように述べている。「最愛の妻は、私と我慢して暮らすのが次第に辛くなっていった。元捕虜は、数十年過去を「忘れて」過ごした後でも、まだ周囲の人を悩ませ、怖がらせたりするのだった。過去が悲痛な思い出と腹立たしい屈辱で塗り固められ、将来も復讐(ふくしゆう)の念を育むだけでしかない者にとっては、周囲がなんと言おうと、過去と折り合いをつけることなどできないのだ。自分にも一応それなりにあると思っている良い資質も、突然爆発する怯(おび)えたような怒りで、ほとんど押しのけられてしまうことが多かった。ほんのちょっとでも対立的な口調で言われると、途端に身を貝にしてしまうこともしばしばだった。こうしたことが重なって、私は自らの傷を癒(いや)す手段が思い浮かばなくなっていった」。

 「私は、たとえ親しみが込められていようと、からかわれるのには耐えられなかったが、パッティは、そういう人間がいきなり静かに怒りだしたり、愛情を示さず自分の殻にこもったりするのを我慢しなければならなかった。私は決して故意にこんなひねくれた反応を示すわけではなかった。それは自分自身の中に身をやつす手段であり、感情を外に表さない犠牲者特有の怒りの表情だったのだ。つまり、私が自分を閉ざすのは、自己防衛のためだった。パッティはそのことに戸惑った。私は勝手にパッティの態度が無神経だと思い込んで、彼女と一週間近くも口を利かなかったこともあった」。

 苦しみは、捕虜を拷問した日本兵にもあった。拷問のときに通訳をした永瀬隆は、「体調を崩していて頻繁に心臓発作に見舞われ」た。「彼は心臓発作に襲われる度に、「カンチャナブリーの日本の憲兵たちが、鉄道地図を所有していたかどで、一人の捕虜に拷問を加える光景がまざまざと甦(よみがえ)る」のに苦しめられた。「拷問の一つは、捕虜兵の喉(のど)から大量の水を流し込むことだった。『元日本兵の一人として、私は今の自分の苦しみはわれわれが捕虜兵に行ったことに対する当然の報いだと受け止めている』と永瀬は」語っていた。その地図を所有していた捕虜が、本書の著者だった。

 これらのことから、戦争に勝者はいなく、だれもがその後遺症に苦しめられていることがわかる。そして、永瀬が「日本政府が外国旅行制限を撤廃した一九六三年以来」、「罪滅ぼしのためにカンチャナブリーを繰り返し訪れ、連合軍墓地に花輪を手向(たむ)け、大量に死んでいったアジア人労務者の遺族のために慈善基金を設立した」ことを知った著者の復讐心に、変化があらわれた。1991年から永瀬と文通するようになった著者は、93年にカンチャナブリーで再会し、その後日本を訪れた。

 カンチャナブリーでは、日本軍が1944年に捕虜につくらせた戦没者記念碑について、つぎのように記している。「日本軍戦没者記念碑は、寂しく打ち捨てられた場所になっていた。天候やひずみでシミだらけになった記念碑が、低い木々に取り囲まれた一画に立っていた。手入れもされず、ほったらかしの状態だった。その碑には、後から思いついたかのように、他の国々の犠牲者への銘板も付け加えられていた。過去を決して許せない元捕虜の中には、ここに来ると石碑めがけて石を投げつける者もおり、汚れたコンクリートにその傷跡が見て取れた」。終戦後、墓地の調査に同行した永瀬は、「日本軍がようやく捕虜の墓の一斉調査に乗り出そうとし始めたこの時になってもなお、アジア人労働者の墓には誰一人として目を向けようとしてはいなかった」と述べている。

 日本で、靖国神社を訪れた著者は、つぎのような感想を述べている。「靖国神社はある面では天皇に殉じた人々が祀(まつ)られている感動的な戦没者記念堂だろうが、別の面から見れば、それは軍国主義のあからさまな賛美でもある。桜の木々は、人それぞれのメッセージや願い事が書かれた小さな白いリボンで飾り立てられていた。庭園には憲兵隊の記念碑があった。まるでドイツの教会でゲシュタポ[秘密国家警察]の記念碑を見るようなものである。神社隣の記念館の前には、そこの大部分を占領して野戦砲がどっかりと置かれていた。ここが信仰の場であるということを除けば、さながらロンドンの帝国戦争博物館といった感じである。その大砲の近くに、傷一つないC五六型機関車があった。神社側の説明には、これが泰緬鉄道を通った最初の機関車だとある。念入りに磨かれたスモークデフレクター、砂利に食い込んだ巨大な車輪-誇らしげに立つその機関車の美しさは、実はあの蛮行のモニュメントでもあるのだ」。

 永瀬は、このC56が靖国神社に展示されることに猛反対した。「彼は神社当局に書簡を送り、また耳を傾ける人には誰にでも、鉄道建設着工直前にタイを訪れた東条が、線路の枕木(まくらぎ)一本につき捕虜一人ずつを犠牲にしてもこの鉄道を絶対完成させなければならぬ、と言っていたことを思い出させた。そしてこの特別な機関車には、一メートル毎に一本の枕木が必要だったと永瀬は指摘している。東条もまた皇軍兵士の一人として、この機関車とともに靖国神社に祀られている」。

 著者は、広島も訪れ、永瀬と歴史について語り合い、永瀬がつぎのような歴史観をもっていることを紹介している。「軍部が一九四五年まで天皇の名において行ってきた行為を何としても日本国民に知らせたいと、ほとんど執念と言えるほどの熱意を抱いていた。彼は、権力への絶対的な服従は徹底的に打破すべきであると信じる、精神的な人道主義の闘士であった。日本の教育が、学童たちに正しい歴史を伝えるという点では、つまり過去と正面から向き合い、それをありのまま受け入れる態度を育成することに関しては、いかにおろそかになっているかと永瀬は始終嘆いていた」。

 著者が、「日本軍の憎き通訳」と和解し、意気投合したのも、同じ戦争観、歴史観をもっていたからである。われわれが、歴史認識問題で和解するためになにが必要か、このふたりから学ぶことができる。まずは、他者の苦しみを聞き、理解することからはじめることである。著者にそれができる心のゆとりを与えたのは、妻だけでなく、厚生省、空軍病院、「虐待被害者保護(ケア)医療財団」などの専門医師やカウンセラーだった。

 原著The Railway Manは1995年に出版され、同年度「エクスクワイア」誌ノンフィクション賞を受賞し、ベストセラーになった。日本でも翌1996年に角川書店より翻訳が出版され、このたび日本での映画公開にあわせて文庫化された。原著が出版された1995年にBBCでテレビドラマ化され、2013年に映画化された。その前年の2012年に著者は亡くなっている。著者より1年早い1918年生まれの永瀬隆は、同じく1年早い2011年に亡くなった。

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