« 2014年08月 | メイン | 2014年10月 »

2014年09月30日

『海に生きる-海人の民族学』秋道智彌(東京大学出版会)

海に生きる-海人の民族学 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 「未来をになう世代へのメッセージとすることをねらい」とした最後の章「第6章 海の未来論-これからの海と人間」で、著者秋道智彌は、「本書の結論を先取りすれば、海への総合的な取り組みの重要性を提案することにほかならない」と述べている。その「総合的な取り組み」のなかには、つぎのような陸との関係がある。「陸(=川上)を視野においたとき、海の問題(=川下)は往々にして検討外の問題として切り捨てられる。海からの視点からすると、陸の問題も当然、森から海に至る問題として位置づけることができる」。

 本書の主題「海に生きる」ということを、著者はどうとらえているのだろうか。「はじめに」の冒頭で、つぎのように述べている。「本書は人間と海とのかかわりを複眼的な視点から問いなおすことを大きなねらいとしている。陸上動物である人間は海に進出し、そこからさまざまな恩恵を享受してきた。人間は多様な種類の海の生き物を食料や生活道具、あるいは工業製品を生み出す原材料として利用してきたのである」。

 副題にある「海人」については、つぎのように説明している。「海人はたんに海の商品を生産し、交易網の末端で従属的な役割を演じてきただけではない。この点で本書が強調したいのは、海の世界史を担った名もなき海人の果たした役割を正当に評価し、今後の人間と海とのかかわりを考える重要な契機とすべき点である」。だが、海人が「海の資源を無制限に獲り尽くす乱獲の歴史が厳然とある」ことも事実である。そのいっぽうで、「資源を維持しながら持続的に利用する工夫を編みだしてきた」知識と技術ももっている。このような「海人の活動を資源の破壊者とみるか保全者と考えるのか」。著者は「二元的な区分ではけっしてとらえきれないと考え」、つぎのように述べている。「重要な論点は、時代や歴史の変化を通して、海の生き物と海人のかかわりが変化してきたことである。海人の活動の特質は第一に越境性にあるとすれば、第二にはその変容性を挙げたい。なかでも、外部社会の動向や国・地域、さらには世界全体の社会経済や政治的なレジーム・シフトに即応して、海人の活動は変容してきた。しかも、海洋生物の資源自体も一定ではなく、大気と海洋の大きな変動とともに、人間による漁獲の動向によっても変動してきた。自然と人間社会の影響がもろに海人の活動を直撃してきたわけであり、そうした変動にたいする応答が海人の特徴といえる」。

 本書は、「二〇一一年三月一一日に発生した東日本大震災によるカタストロフィ」が、「海が恩恵だけでなく重篤な損失と災禍をもたらすことをみせつけた」ことから、著者は、「日本にとり、いまこそ提示すべき問題がなにであるのか。その意味を海人の視点から問いなおしたいと考え」、本書の構成をつぎのようにした。「第1章を津波からの復興論としたのはそうしたおもいがあったからだ。第2章から第5章までは、生態系、魚食文化、海のネットワーク、資源管理の四つの課題をもとにこれまでの調査研究と先行研究の蓄積をふまえた論述を展開した。そして、第6章でそれまでの論考をふまえた海の未来論を提示する構成とした」。

 「海人の目線でというおもいを強調した」本書は、つぎの文章で締めくくられている。「原発事故による海洋生物の汚染に関する数字データと、世論調査による原発賛否論の数字は今後、時間とともに推移していくだろう。しかし、そのいずれにも真実があるということを誰が信じ、いつ魚介食品の安全性や原発廃止の決定を下すのであろうか。自然科学と社会科学の示す数字の虚構性を追求していくことこそが重要であり、そこに新しい科学の可能性がある。海をめぐる問題についてわれわれはつねに謙虚に対処すべきであり、それは今後の日本と世界を占う試金石となる。海の未来は地震津波にむきあうことから始まる。この点こそ、本書のもっとも重要なメッセージであることを指摘して本書を終える」。

 南太平洋、東南アジア、日本など、世界各海でフィールドワークをおこなってきた著者だけに、「紛争の海」の実態を充分に理解したうえで、海のコモンズ論を展開し、未来論へとつなげている。著者が問い続けてきた「海は誰のものか」については、「第5章 海のコモンズ論」で、つぎのように結論している。「マグロのような高度回遊性資源の場合、回遊海域ごとの漁業管理委員会がマグロ資源を共有財産として管理することがのぞましい。ナマコや貝類のようなベントス資源は熱帯海域に汎分布する。地域ブロックで管理することには無理があり、むしろ国レベルでの管理を徹底することがふさわしい。実際の管理主体はもっと小さな単位の村や島嶼単位による管理が有効である。ただし、村落基盤型の管理がよいのか、国や地方政府の水産行政との連携方式が適切であるのかは条件次第となる。コモンズ的な水産資源管理では、コモンズの発想を一元的ではなく進めることがもっとも重要な論点となることを指摘して本章のむすびとしたい」。

 本書の英文タイトルは、Living with the Ocean - People in a Changing Worldである。著者は、「海人の目線」で考える海洋教育の重要性をつぎのように指摘している。「子どもたちに柔軟な思考、創造的な発想を育んでもらうためには、海のもつ奥深い世界の魅力を伝え、あらゆる側面から海の問題を発見し、考えることがとても大切となる」。「農業中心主義とは異なる日本像」を理解することによって、海を陸の従属物とみるのではなく、海を主体的にみることができるようになる。そうすれば、排他的所有権ではなく、コモンズという考えがいかに重要であるかがわかってくる。近代になって3海里から12海里、200海里へと、国家を主体としたの海への侵出が激しい。著者のいうように、海の管理は、それぞれの状況によってまちまちである。それらすべてを国家の利害から離れて総合的に捉え、文字通りグローバルに考えることができる人材の育成が急務の課題である。

→紀伊國屋ウェブストアで購入

2014年09月16日

『フィリピンと日本の戦後関係-歴史認識・文化交流・国際結婚』リディア・N.ユー・ホセ編著、佐竹眞明・小川玲子・堀芳枝訳(明石書店)

フィリピンと日本の戦後関係-歴史認識・文化交流・国際結婚 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 本書の編著者、リディア・N.ユー・ホセ(1944-2014.8.3)は、2012年春「フィリピンにおける日本研究の発展及び日比間の相互理解促進に寄与」した功績で、日本政府から旭日中綬章を叙勲された。このフィリピンにおけるフィリピン・日本関係研究の第一人者を、アメリカにおける日本・フィリピン関係研究の第一人者であったグラント・K・グッドマン(1924-2014.4.6)につづいて失ったことは、実に残念なことである。ともに、二国関係を超える研究への礎を築いた「親日家」であった。とくに、ユー・ホセ氏は、東南アジアの研究者で日本語文献を使うことができた数少ないひとりで、住友財団2013年度「アジア諸国における日本関連研究助成」を得て、研究を深めようとしていた矢先だっただけに、本人も残念だったことだろう。

 その助成金申請題目は、「フィリピン協会:未完成の主権としての日本・フィリピン両国の関係」で、概要はつぎのようなものだった。「1935年に設立されたフィリピン協会は1990年代当初まで存続したが、現存する同協会に関する文献は、1950年代までのことしか論じていない。本研究は、1930年代から1990年代にかけて続いた同協会の歴史を掘り下げ、同協会が日比の友好関係に重要な役割を果たした事実を明らかにすることを目的とする。史料としては、研究者が同協会から寄贈されたものに加え、外交史料館所蔵文書などを参照し、また関係者へのインタビューも計画している」。

 「本書について」、編著者は「序章 フィリピンと日本-結局はそれほど不平等にあらず」で、つぎのように述べている。「我々は過去の主要な研究で記述された日本との関係の様相を繰り返し述べたり、再解釈するつもりはない。むしろ、残された空白を埋めたいと考える。すなわち、比日間における文化関係の推移を見つめたいと思う」。具体的には、「フィリピン人と日本人との異文化間結婚、フィリピンと日本との知識人による相互交流、フィリピンで活動する日本のNGOという枠組み、映画という大衆メディアにおいて展開・形成される文化交流、文化解釈、イメージを理解しようと努める。私たちはここではまず人々に焦点を合わせる。つまり、現実及び観念上の領域において交流するフィリピン人、日本人個々人に焦点を合わせる。日本政府の文化政策がつくり上げる領域も扱うが、政策よりもこうした領域における人間観の相互交流に焦点を当てる」。

 そして、つぎのように結論した。「序章で概念化したように、第二次世界大戦以降の日比関係において、歴史、愛情、お金が三つの主要要素として確認されよう。私たちは両国関係が第一義的に経済的なものであるという、繰り返し唱えられる見解を修正するものである。二国間関係において、人の移動が最も濃密で持続された活動であると述べたが、二国間関係が主に経済関係だとする見解に基づくならば、これらの人々は経済的商品に還元されてしまう。だから私たちは、日比関係は第一義的に過去と愛とお金に関するものであると主張したい。過去はしばしば眼に見えにくい形ではあるが、現在の関係に影を投げかける。愛情とお金の両者、もしくはそのいずれかが二国間関係に関わる人々に見て取ることができる」。「歴史と愛情とお金をトータルに考えると、フィリピンと日本との関係を単純に不平等であると指摘することはできない」。

 本書を読むと、フィリピン人が日本人をよく観察し、理解していることがわかる。編著者の四十数年に及ぶ研究の最後のことばのひとつとなった、つぎの文章で本書を閉じていることも頷ける。「日本人とフィリピン人の相互交流が文化的影響をもたらすとき、興味深い疑問はどちらがより強く相手に影響を与えるか、というものである。わかりやすくいうと、どちらの文化が存続し、どちらが妥協するのか。私たちは、異文化間結婚と日本のNGOに関する章において、文化変容の実際の事例を検証した。これらの章は、家族関係、くつろぎ、精神的落ち着き、ジェンダー平等といった事柄ではフィリピン人が日本人に影響を与え、清潔、規律、勤勉といった側面では日本人がフィリピン人に影響を与える傾向がある、ということを示していた。言い換えれば、両者ともに文化的により豊かになっているのである」。

 外国人が、自分の国の文化に興味をもってくれただけで、感謝したい気持ちになる。それを研究し、成果を本国に持ち帰り、研究を深めるだけでなく、教育者として学生たちに興味をもたせ、さらに研究する者を育てていく。日本政府が編著者を叙勲したことを、ごく自然なことに思えた。

→紀伊國屋ウェブストアで購入

2014年09月09日

『レイルウェイ 運命の旅路』エリック・ローマクス著、喜多迅鷹・喜多映介訳(角川文庫)

レイルウェイ 運命の旅路 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 本書は、2014年4月19日に日本全国でロードショーされた同名の映画(コリン・ファース、ニコール・キッドマン、真田広之ほか)の原作である。帯には、「英国人捕虜と日本人通訳の奇跡の実話」とある。「レイルウェイ」とは、太平洋戦争中の1942年6月に測量開始、12月公式に建設着工し、翌43年10月末に「完成」したタイ(泰)とビルマ(緬甸)を繋ぐ単線鉄道などのことである。「訳者あとがき」には、作業人員、日本軍約1万、捕虜(俘虜)約5万5000人、アジア各地からの労務者約7万、犠牲者総数約4万2000人とある。

 本書の著者ローマクスは、イギリス軍中尉で1942年2月シンガポール陥落後捕虜となり、泰緬鉄道建設現場でラジオ操作にかかわったとして激しい拷問を受けた。「生き延びるが、帰国後、戦時の記憶に苦しみ続ける。そして40年以上が過ぎたある日、日本軍の憎き通訳が存命と知り、復讐心が抑えきれなくなる-」。本人のトラウマは、妻パッティをも苦しめることになる様子を、つぎのように述べている。「最愛の妻は、私と我慢して暮らすのが次第に辛くなっていった。元捕虜は、数十年過去を「忘れて」過ごした後でも、まだ周囲の人を悩ませ、怖がらせたりするのだった。過去が悲痛な思い出と腹立たしい屈辱で塗り固められ、将来も復讐(ふくしゆう)の念を育むだけでしかない者にとっては、周囲がなんと言おうと、過去と折り合いをつけることなどできないのだ。自分にも一応それなりにあると思っている良い資質も、突然爆発する怯(おび)えたような怒りで、ほとんど押しのけられてしまうことが多かった。ほんのちょっとでも対立的な口調で言われると、途端に身を貝にしてしまうこともしばしばだった。こうしたことが重なって、私は自らの傷を癒(いや)す手段が思い浮かばなくなっていった」。

 「私は、たとえ親しみが込められていようと、からかわれるのには耐えられなかったが、パッティは、そういう人間がいきなり静かに怒りだしたり、愛情を示さず自分の殻にこもったりするのを我慢しなければならなかった。私は決して故意にこんなひねくれた反応を示すわけではなかった。それは自分自身の中に身をやつす手段であり、感情を外に表さない犠牲者特有の怒りの表情だったのだ。つまり、私が自分を閉ざすのは、自己防衛のためだった。パッティはそのことに戸惑った。私は勝手にパッティの態度が無神経だと思い込んで、彼女と一週間近くも口を利かなかったこともあった」。

 苦しみは、捕虜を拷問した日本兵にもあった。拷問のときに通訳をした永瀬隆は、「体調を崩していて頻繁に心臓発作に見舞われ」た。「彼は心臓発作に襲われる度に、「カンチャナブリーの日本の憲兵たちが、鉄道地図を所有していたかどで、一人の捕虜に拷問を加える光景がまざまざと甦(よみがえ)る」のに苦しめられた。「拷問の一つは、捕虜兵の喉(のど)から大量の水を流し込むことだった。『元日本兵の一人として、私は今の自分の苦しみはわれわれが捕虜兵に行ったことに対する当然の報いだと受け止めている』と永瀬は」語っていた。その地図を所有していた捕虜が、本書の著者だった。

 これらのことから、戦争に勝者はいなく、だれもがその後遺症に苦しめられていることがわかる。そして、永瀬が「日本政府が外国旅行制限を撤廃した一九六三年以来」、「罪滅ぼしのためにカンチャナブリーを繰り返し訪れ、連合軍墓地に花輪を手向(たむ)け、大量に死んでいったアジア人労務者の遺族のために慈善基金を設立した」ことを知った著者の復讐心に、変化があらわれた。1991年から永瀬と文通するようになった著者は、93年にカンチャナブリーで再会し、その後日本を訪れた。

 カンチャナブリーでは、日本軍が1944年に捕虜につくらせた戦没者記念碑について、つぎのように記している。「日本軍戦没者記念碑は、寂しく打ち捨てられた場所になっていた。天候やひずみでシミだらけになった記念碑が、低い木々に取り囲まれた一画に立っていた。手入れもされず、ほったらかしの状態だった。その碑には、後から思いついたかのように、他の国々の犠牲者への銘板も付け加えられていた。過去を決して許せない元捕虜の中には、ここに来ると石碑めがけて石を投げつける者もおり、汚れたコンクリートにその傷跡が見て取れた」。終戦後、墓地の調査に同行した永瀬は、「日本軍がようやく捕虜の墓の一斉調査に乗り出そうとし始めたこの時になってもなお、アジア人労働者の墓には誰一人として目を向けようとしてはいなかった」と述べている。

 日本で、靖国神社を訪れた著者は、つぎのような感想を述べている。「靖国神社はある面では天皇に殉じた人々が祀(まつ)られている感動的な戦没者記念堂だろうが、別の面から見れば、それは軍国主義のあからさまな賛美でもある。桜の木々は、人それぞれのメッセージや願い事が書かれた小さな白いリボンで飾り立てられていた。庭園には憲兵隊の記念碑があった。まるでドイツの教会でゲシュタポ[秘密国家警察]の記念碑を見るようなものである。神社隣の記念館の前には、そこの大部分を占領して野戦砲がどっかりと置かれていた。ここが信仰の場であるということを除けば、さながらロンドンの帝国戦争博物館といった感じである。その大砲の近くに、傷一つないC五六型機関車があった。神社側の説明には、これが泰緬鉄道を通った最初の機関車だとある。念入りに磨かれたスモークデフレクター、砂利に食い込んだ巨大な車輪-誇らしげに立つその機関車の美しさは、実はあの蛮行のモニュメントでもあるのだ」。

 永瀬は、このC56が靖国神社に展示されることに猛反対した。「彼は神社当局に書簡を送り、また耳を傾ける人には誰にでも、鉄道建設着工直前にタイを訪れた東条が、線路の枕木(まくらぎ)一本につき捕虜一人ずつを犠牲にしてもこの鉄道を絶対完成させなければならぬ、と言っていたことを思い出させた。そしてこの特別な機関車には、一メートル毎に一本の枕木が必要だったと永瀬は指摘している。東条もまた皇軍兵士の一人として、この機関車とともに靖国神社に祀られている」。

 著者は、広島も訪れ、永瀬と歴史について語り合い、永瀬がつぎのような歴史観をもっていることを紹介している。「軍部が一九四五年まで天皇の名において行ってきた行為を何としても日本国民に知らせたいと、ほとんど執念と言えるほどの熱意を抱いていた。彼は、権力への絶対的な服従は徹底的に打破すべきであると信じる、精神的な人道主義の闘士であった。日本の教育が、学童たちに正しい歴史を伝えるという点では、つまり過去と正面から向き合い、それをありのまま受け入れる態度を育成することに関しては、いかにおろそかになっているかと永瀬は始終嘆いていた」。

 著者が、「日本軍の憎き通訳」と和解し、意気投合したのも、同じ戦争観、歴史観をもっていたからである。われわれが、歴史認識問題で和解するためになにが必要か、このふたりから学ぶことができる。まずは、他者の苦しみを聞き、理解することからはじめることである。著者にそれができる心のゆとりを与えたのは、妻だけでなく、厚生省、空軍病院、「虐待被害者保護(ケア)医療財団」などの専門医師やカウンセラーだった。

 原著The Railway Manは1995年に出版され、同年度「エクスクワイア」誌ノンフィクション賞を受賞し、ベストセラーになった。日本でも翌1996年に角川書店より翻訳が出版され、このたび日本での映画公開にあわせて文庫化された。原著が出版された1995年にBBCでテレビドラマ化され、2013年に映画化された。その前年の2012年に著者は亡くなっている。著者より1年早い1918年生まれの永瀬隆は、同じく1年早い2011年に亡くなった。

→紀伊國屋ウェブストアで購入