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2014年08月26日

『日本は戦争をするのか-集団的自衛権と自衛隊』半田滋(岩波書店)

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 日本が戦争をすれば、まず最初に戦闘に参加するのは自衛隊である。その自衛隊の現場の声が聞こえてくるのが、最後の章である「第6章 逆シビリアンコントロール」である。その最後は、つぎのことばで締めくくられている。「自衛隊が暴走せず、むしろ自重しているように見えるのは、歴代の自民党政権が自衛隊の活動に憲法九条のタガをはめてきたからである。その結果、国内外の活動は「人助け」「国づくり」に限定され、高評価を積み上げてきた。政府見解が変われば,自衛隊も変わる。冷戦後、国内外の活動を通じて力を蓄えた自衛隊を活かすも殺すも政治次第である」。

 「終わりに」では、「人数を数えたわけではないが」とことわったうえで、つぎのように述べている。「海外で武力行使をすることによる自衛隊内部への影響を心配する声は多い。「良質な若者が集まらなくなるのでは」「自衛隊がどう変化するのか想像もつかない」との声は複数から出た。不安は「当事者」だからである」。

 「本書は、安倍政権が憲法九条を空文化して「戦争ができる国づくり」を進める様子を具体的に分析している。法律の素人を集めて懇談会を立ち上げ、提出される報告書をもとに内閣が憲法解釈を変えるという「立憲主義の破壊」も分かりやすく解説」している。著者、半田滋は1991年に新聞社に入社した翌年から防衛庁取材を担当し、93年に防衛庁防衛研究所特別課程を修了している。「長年日本の防衛を取材してきた」ジャーナリストであるだけに、具体的問題が本書で取り上げられている。

 現在、自衛隊幹部を養成する学校は、卒業後の高給、福祉の充実、退職後のことなどで優遇されていることから「隠れた難関校」のひとつといわれている。働いても年収二百万円以下の「ワーキングプア」が増えるなかで、自衛隊員への優遇は魅力だろう。アメリカ合衆国もこの賃金格差社会を利用して、リクルートしている。もうひとつアメリカが軍人を確保できる理由は、外国人だ。アメリカ軍で兵役を積めば、アメリカの市民権が与えられる。戦死しても、遺された家族が市民権を得ることができる。だが、国家予算の支出は、現役軍人だけではおさまらない。退役軍人への支出が膨大になる。負傷・病気になった者、墓地の管理まで、後々まで支出が続く。戦場を経験した人びととその家族、遺族らの心の傷は、お金で解決できない。戦争をすれば、勝ち負けで終わらない負の遺産が永遠に続く。

 したがって、戦争にかんして国家指導者は慎重にことばを選ばなければならない。2014年2月10日の衆院予算委員会で、安倍首相が「北朝鮮」を名指ししたことが、本書で紹介されている。ベトナムの博物館では、1979年の中越戦争のことを「北部国境の戦い」と表記していた。だれでもがわかることでも、名指しすることを避けて関係改善の糸口にしようとしているのである。一般論ではなく、仮想敵を名指しすることで具体的な戦争になりやすいことは、古今東西の戦争が教えてくれる。もっとも、安倍首相は侵略の定義など、すでに明らかになっていることでも、後世の歴史家の判断に委ね、過去の歴史から学ぼうとしないので、名指しすることの意味もわからないのだろう。憲法9条は、1928年の不戦条約から続く不戦・非戦の国際的世論のなかで成立したことも、歴史的感覚だけでなく国際的感覚にも乏しい者には想像すらできないだろう。

 自衛隊の存在について、賛否両論がある。しかし、現に自衛隊は存在し、活動している。その自衛隊が、自信と誇りをもって、国民にも国際的にも評価される活動をするには、どのような体制が望ましいのか。たんなる戦争をする「道具」として扱われるなら、自衛隊員にとってはたまらないはずだ!

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2014年08月19日

『集団的自衛権と安全保障』豊下楢彦・小関彰一(岩波書店)

集団的自衛権と安全保障 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 「「他国防衛」のための戦争が日本の安全を高める、という論理を根底から問い直す」と帯にある。本書の1節でも理解している国民が大多数を占めれば、本書は無用の長物になる。だが、現状は首相の「国民に分かりやすく」のことばを信じているのか、そもそも関心がないのか、とくに戦場にかり出されるかもしれない若者に、著書の悲痛な叫びは届いていないだろう。

 本書の「はしがき」だけでも読めば、帯の裏にあるつぎの文章の意味がわかるはずだ。「問題は、過去半世紀以上にわたり歴代自民党政権によっても憲法違反とされてきた集団的自衛権の行使を、解釈変更によって可能であると国民に広く訴える歴史的な記者会見において、安倍首相が全くの“架空のシナリオ”を持ちだし、しかも……“情感”に訴える手法をとったことである。これは「国民に分かりやすく」するためのレトリックどころか、人を欺くトリックそのものであり、これに政界、メディア、世論が翻弄されているならば、安倍首相の罪は限りなく重い」。

 「はしがき」の見出しを抜き出すと、つぎの通りになる。「〝架空のシナリオ〟を語る安倍首相」「ミサイルの脅威と原発「再稼働」」「「限定的かつ受動的」な機雷掃海」「「海外派兵はいたしません」」「「軍事オタク」の典型事例」「なぜ手段が自己目的と化すのか」である。このような「国民に分かりやすい」説明を許してきた野党の罪も限りなく重い。

 安倍首相が「国民に分かりやすく」「安全保障」の必要性を主張する背景に、「中国の脅威」がある。だが、大国化する中国が、大国アメリカが享受してきた「例外」の地位を利用する危険があるから「脅威」となることを、著者はつぎのふたつの例をあげて説明している。国連海洋法条約は「「海のルール」を象徴するものであるが、実は先進国のなかで唯一米国だけが批准していないのである。批准に反対する米上院の言い分は、米国の主権への「受け入れがたい侵害」であり、何よりも米海軍が「単独行動をとることが阻害される」から、というのである」。「こうした議論立てが、ルールを無視する中国の行動の正当化に利用されるであろうことは言を俟たない」。

 もうひとつは、「宇宙基本法」である。「宇宙の軍事利用でも、米国は「行動の自由」を享受するため長年にわたって国際的な規制に反対してきたのであるが、中国が本格的に「宇宙軍拡」に乗り出してくる状況において、何らかの対応に迫られざるを得ないのである。また、サイバー攻撃でもロボット兵器でも、米国が「例外」の地位を利して単独先行してきたのに対し、中国が急速に追い上げて米国に脅威を与えるという段階に迫りつつある」。日本がいま考えなければならないのは、大国の横暴をどう抑えるかであって、大国とともに「例外」を享受することではない。

 さらに日本は、これらの大国の軍拡競争に加わろうというのであろうか。少子高齢化で、巨大な財政赤字を抱える日本が、国家予算を軍事費にまわす余裕などないはずである。いま1国だけで解決し得ない多くの問題を抱えていることを、著者は本書の最後で強調している。地震に原発事故が重なる「複合災害」、PM2・5などの大気汚染、鳥インフルエンザなどの感染症、気候変動にともなう災害など、各国が軍事費をまわして解決しなければならない「複合的かつ長期的、ひょっとすると人間存在そのものの問題になりつつある」深刻な状況が迫っているのである。

 本書は、つぎのことばで締めくくられている。「地球の地唸(じうな)りが聞こえてくるのではないか。領土や島、しかも無人の島を争っている時代ではない。それはいまの脅威にとってあまりにも小さすぎるし、無意味だ。安全保障観の根本的転換が求められている。圧倒的多数の、国を超えた人類がいまだ経験したことのない「不安」、いわば底知れぬ「複合不安」から脱却しうる安全保障を求めているのである」。

 日本は、戦後、軍事費を経済発展のためにまわすことで、「奇跡の経済成長」を遂げた。軍事費を使わないことの意味を、充分に知っている国である。安倍首相のいう「安全保障」のために、消費税だけでなくいろいろなところで増税がはじまっている。それは、1機100億円以上するオスプレイだけでも、今後5年間に17機導入することが決められているからである。日本国民だけでなく、地球市民がいま地球が抱えている問題解決のために、軍事費をまわすことを考えれば、戦争への脅威もなくなる。その先頭に立てるのが、憲法9条の恩恵を長年享受してきた日本人であるはずだが、その恩恵に気づいていないのだろうか?

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2014年08月12日

『新興アジア経済論-キャッチアップを超えて』末廣昭(岩波書店)

新興アジア経済論-キャッチアップを超えて →紀伊國屋ウェブストアで購入

 本書は、著者末廣昭が、2000年に出版し、2008年に増補改訂版を英語で出した『キャッチアップ型工業化論-アジア経済の軌跡と展望』(名古屋大学出版会)の続編である。だが、副題「キャッチアップを超えて」に示されているように、たんなる続編ではない。「対象とする期間はもとより、視角も方法も前著と異なる」ことになったのは、「一九九〇年代以降の国際環境の変化や中国の台頭、そして、新たなリスクや社会問題の登場が」、著者に「課題設定の変更を迫ったからである」。

 具体的に、著者は「前著で出来なかったこと」をつぎのように述べている。「前著では意図的に、社会主義国で人口大国である中国を検討の対象から外した。しかし、中国を抜きに「新興アジア経済」を議論することは今や不可能であろう。本書では可能な限り中国経済の実態に触れるようにした。IT産業で起こっている技術革新も、前著では詳しく論じることができなかった。本書では、「キャッチアップの前倒し」という観点から「キャッチアップ型工業化論」の見直しを試みる」。

 ついで、「前著で宿題にしたこと」をつぎのように述べている。「経済発展ではなく社会発展にもっと注目すべきである。そのように私は前著の結論で述べた。この点については、本書の第七章以下でできるだけ触れるつもりである。従来の「躍動するアジア」というイメージとは異なるアジアの現実を読者に示すことは、この本の大きな課題であると同時に、特徴でもある」。

 つまり、著者は、本書で、「新興アジア諸国の現実を、「生産するアジア」「消費するアジア」という経済的側面と、「老いてゆくアジア」「疲弊するアジア」という社会的側面の双方に注目しながら、丸ごと理解すること」を目指した。丸ごと理解することに日本人である著者がこだわるのは、「「課題先進国」である日本の協力が大きく関わっている」からであり、これらのアジアに日本が「どのように真摯に向き合うのか」が、「とても大切だと考える」からである。

 「終章 経済と社会のバランス、そして日本の役割」では、「アジアで起きている経済と社会の大きな変動について、新興アジア諸国を中心に検討してきた」ことを踏まえて、「大きく変わるアジア経済の中で日本が果たすべき役割は何なのか」を考えている。著者は、小宮山宏が提言する「課題先進国」日本が「課題解決型先進国」に転換するための3つの力を、「新興アジア経済論のアプローチにひきつけて」、つぎのように著者なりのことばに置き換えている。①「混沌の中に本質を見出し、課題解決の具体的なビジョンを描く力」は、「アジア諸国・地域、あるいは特定の国を、政治、経済、社会、文化などに切り分けて分析するのではなく、「丸ごと理解する」努力を行うこと」に、②「このビジョンを描くために、独りではなく他者と生きているという認識、もしくは他者を感じる力」は、「統計や文献だけでなく、自分の目と足を使い、対話を通して相手の実態を理解すること。他者(アジア)を理解することは、結局は自分(日本)を理解することにつながる」に、③「世界は変わる、社会は変わるという信念のもと、先頭に立つ勇気」は、「既存のアジア経済論に満足せず、変動を続けるアジアの現実に密着し、これを理解するための新しい枠組みを提供する、そうしたチャレンジ精神を持つこと」に。

 そして、つぎの課題を述べて、終章を終えている。「新興アジア経済の動きを、経済と社会の両側面から捉えるという本書の目的は、一定程度果たしたと私は思っている。ただし、本書はあくまで現状分析にとどまっており、「社会発展を伴った成長」の具体的なシナリオを描いたわけではない。アジア各国・地域で展開されているさまざまな活動を、現地調査や共同研究を通じて丹念に追跡し、「新しい社会」の具体像を提示すること。これが私にとって次の課題となる」。

 タイを事例に新興アジア経済を扱った前著とは基本的に違う国際環境が、いまアジアを取り巻いている。著者は、「アジアは高い経済成長率の追求ではなく、「社会発展を伴った成長」を目指すべきではないのか」と主張する。それは、「高所得国に移行した韓国で、なぜかくも自殺率が高いのか。「マイペンライ」(物事を深刻に考えない、相手を追い詰めない)が当たり前だったタイ社会で、なぜかくもうつ病患者が増えているのか。こうした問いに回答しない限り、本当の意味でのアジア経済論を描くことは出来ないのではないだろうか」と考えたからである。本書は、前著の「キャッチアップを超えて」以上の刷新をもって取り組まねばならないアジアの現状を理解し、「現代経済の展望」を考えるための基本書ということができるだろう。もはや個人の研究者が近代の経済論で語ることができる単純な状況ではなく、複合的現象を協働で考察する地域研究が不可欠になったことが本書からも理解できた。

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2014年08月05日

『復興の文化空間学-ビッグデータと人道支援の時代』山本博之(京都大学学術出版会)

復興の文化空間学-ビッグデータと人道支援の時代 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 5.03, 5.69, 5.50, 6.35, 6.01, 4.63, 6.22, 6.49, 6.26, 5.78%。これらの数字は、2004年以降のインドネシアの経済成長率をあらわしている。2004年12月26日のスマトラ島沖地震・津波、2005年3月28日のニアス地震、2006年5月27日のジャワ地震、2007年9月12日のベンクル地震、2009年9月2日の西ジャワ地震、2009年9月30日の西スマトラ地震の影響は、これらの数字から2009年以外には感じられない。その2009年は、前年に経営破綻したリーマン・ブラザーズのショックで、世界的金融危機のなか日本の経済成長率がマイナス5.53%落ち込んだ年であるから、インドネシアのプラス4.63%は地震の影響がまったくなかったといってもいいだろう。因みに、日本は2010年に4.65%に回復したものの、2011年3月11日の東日本大震災の年はマイナス0.45%に下落し、その後2012年は1.45%、2013年は1.54%となっている。未曾有の大災害にもかかわらず、国家全体としてはあたかもなにもなかったかのように吸収し、数字には表れない。では、これらの大災害がなかったら、もっと大きな数字の経済成長を遂げたのか。どうもそうでもなさそうである。本書で繰り返し、「地域研究」の重要性が強調されるのは、そのあたりのなぞがあるからのようだ。

 著者、山本博之は、「はじめに」で本書の目的をつぎのように述べている。「本書は、地域研究を専門とする著者が、インドネシアで二〇〇四年以降に起こった災害の被災地について、被災直後の状況を観察し、そこからどのような地域のかたちが読み取れるかを考えるものである。被災直後に何を見聞きしたかを紹介し、それをもとに何をどう考えたかの道筋を示すことで、被災直後に地域のかたちがどのように表れるかを読み解いてみたい。なお、地域研究は、言語や歴史・文化に関する基礎研究から災害や紛争などの具体的な課題への取り組みを含む実践研究まで幅広い広がりを持ち、一口に地域研究といってもさまざまな研究が含まれる。本書では、地域研究を基礎とし、文化の空間性を意識して情報の意味を読み解くアプローチにより、防災・人道支援との連携を通じて災害対応と復興という課題に取り組むことを試みる」。

 また、つぎのことも目的とし、その理由を述べている。「本書では、検証した結果だけを記すのではなく、新聞・雑誌やコミュニティ・ペーパーの内容や聞き取り調査の内容をほぼそのまま引用して、調査研究の手の内を一部明かしながら、インターネットや現地調査を通じて被災地で得られる情報をどのように収集・分類し、内容を分析し、その結果を提示するかという過程を提示することも目的としている」。「このことは、本書が地域研究という学問分野に拠っていることと無関係ではない。現実世界で進行中の事態について限られた情報をもとに限られた時間で分析結果を示すことがときに期待される地域研究では、情報には広がりと重なりがあることを意識することに加えて、それぞれの情報はどの程度まで確からしいかを常に意識しながら発信するという妥当性の度合いも意識しなければならないためである。伝統的な学術研究の分野では、繰り返し調査や実験が可能であり、いつ誰が検証しても同じ結果が得られるものが理論や学説として積み重ねられ、その応用にあたって適用可能範囲が意識され、想定内の条件でのみ結果が保証されるのに対し、地域という現場に立脚して常に現実世界の課題を対象とする地域研究では、常に応用の性格を持つために得られた結論の適用可能範囲が意識されることに加え、想定外の事態が生じた場合でも学問上の免責にはなったとしても課題解決が進まなかったことの免責にはならないと考えるためである」。

 そして、著者は、結論として、社会学的想像力、人類学的想像力を発展させ、「自分が相手に働きかけ、また、相手が自分のことを観察しており、観察を通じて相手の態度が変わりうることを前提とする地域研究的想像力が求められている」とし、つぎのように説明している。「地域研究的想像力は、社会が均質であるという前提を捨て、異なる文化が並立していることを認めた上で、互いに関わりあうなかで作られる世界を思い描く。人道支援とビッグデータの時代をよりよく生きる上では、多様な世界をばらばらのままにするのでなく、相手と自分の色の違いを知ったうえで、互いを繋ぐ物語をうまく紡ぐ力が求められている。既存の物語をそのまま使うことはできず、新しい物語を作りだす必要がある。その意味で、今こそ地域研究的想像力が求められている」。

 本書から、地域研究のひとつのあるべき姿が読み取れる。著者は、それを「災害対応の地域研究」とよび、「研究対象の地域社会に対する深く広い知識と理解、異業種・異分野の専門家による協業と連携、専門性が異なる人に活用可能なかたちで提示される研究成果の三つが重なりあって進められる災害対応への取り組みである」としている。そのコーディネーターとして、著者が手腕を発揮してきた成果が本書だろう。だれもがそのような恵まれた環境にあるわけでないなかで、地域研究者の「土地勘」が著者を動かしたということができるかもしれない。地域研究とは無縁の基礎研究者や異業種・異分野の専門家にも、なにを想定して研究し、目の前の課題に対処すればいいのかを示したという意味で、本書の功績は実に大きい。

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