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2014年07月22日

『災害復興で内戦を乗り越える-スマトラ島沖地震・津波とアチェ紛争』西芳実(京都大学学術出版会)

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 「津波で何もかも失ったのに、アチェの人たちはなぜみんな笑顔なんですか。」著者、西芳実は、この問いに答えるために、本書で「二〇〇四年一二月二六日に発生したスマトラ島沖地震・津波で甚大な被害を受けたインドネシア共和国のアチェ州を対象に、災害を契機に社会がどのように変革を経験し、復興を経験しているかを地域研究の立場から明らかにする」。

 「災害大国」日本には、災害を乗り越える知識と経験がある。それは「途上国」インドネシアの被災者の役に立つはずだ、と多くの日本人が善意から考えるかもしれない。著者が「地域研究の立場から」と言っているのは、その善意だけでは被災者の役に立つどころか、逆に迷惑になることもあるということを地域研究者が知っているからである。本書が、「地域研究を基盤とし、災害対応研究とアチェの紛争・現代史研究の二つの研究の流れを背景」に書かれたことを、著者はつぎのように説明している。

 「地域研究では、災害を日常生活から切り離された特殊な出来事であるとは捉えず、日常生活の延長上にあると捉える。社会は潜在的にさまざまな課題を抱えており、日ごろはそれに目を向けずにやり過ごしていることが多いが、災害はそのような潜在的な課題があるところに大きな被害をもたらし、人々の目に明らかにする。したがって、もし災害への対応を、壊れたものを直し、失われたものの代用品を与えるだけで、災害が起こる前の状態に戻すだけにするとしたら、その社会が潜在的に抱えていた課題も元通りにしてしまうことになる。災害は多くの人命や財産を奪う不幸な出来事であるが、災害を契機に明らかになった社会の課題に取り組み、災害を契機によりよい社会を作ることが、次に災害が起こったときに被害を少なくすることにつながり、災害の犠牲を無駄にしないことにもなる。社会が抱える課題には大きいものも小さいものもあるが、武力紛争が続いていたアチェで津波後に和平合意が結ばれて紛争が終結したことは、被災を契機に社会の課題が解決された例の一つである」。

 さらに、著者は、被災地アチェから学ぼうとしていることが、つぎの文章からわかる。「アチェの被災者の顔に現れる笑顔の意味や背景を考えることによって、アチェが経験している復興とはどのようなものなのかを考えてみたい。未曾有の大災害を経験してもなおアチェの被災者たちが外国から来た客人たちに微笑みかけようとすることの意味を、民族性の違いや宗教心の強さといった異文化性によって捉えようとするのではなく、同じ時代に同じ地球に住む人間どうしであることを前提にして考えることは、アチェの文脈を離れて、この世に生を受けた私たちは結局のところ何のために生まれてきて、生涯を通じて何を成し遂げてこの世を去るのかを考えることにも繋がるだろう。また、被災と復興を経てアチェにどのような新しい社会が生まれつつあるのかを考えることを通じて、アチェの経験が他の地域、とりわけ日本にどのような意味で適用可能かについて考える助けにもなるものと期待している」。

 本書は、「はじめに」、3部9章、「おわりに」からなり、「二〇〇四年一二月の被災直後から二〇一三年一二月までの九年間を扱う。この間のアチェは、大きく三つの時期に分けられる。被災直後の救援・緊急対応の時期、被災によって失われた住宅や社会インフラの回復・再建に取り組んだ復興再建期、そして被災と復興の経験を経て新しい社会秩序や意識があらわれた時期である。緊急時から災害対応が進む過程でどのような課題が見られ、それにどのように取り組んできたかを明らかにするため、三つの時期についてそれぞれ三つの章によって検討する」。

 「第一部では、内戦下にあったアチェが津波の最大の被災地となり、大規模な救援復興活動が展開する中で内戦状態が解消していった様子を見る」。「第二部では、さまざまな復興再建事業が進行する中で、被災者や支援者のあいだでの立場や考え方の違いがどのような形で表面化し、それを人々がどのように吸収し、受け止めたかを考える」。「第三部では、アチェの被災と復興の経験を経て、アチェや他のインドネシアの人々がどのような新しい価値観や認識を得るに至ったのかを考える」。

 そして、それぞれの章は、冒頭で挙げた問いを細分化したつぎの9つの問いに対応している。「アチェの沿岸部に住む人々は津波の危険性について知らなかったのか」「インドネシア国軍はなぜ外国による支援活動を妨害しようとしたのか」「日本のNGOの緊急・復興支援はアチェにとって本当に意味があったのか」「被災者たちが外国からの支援者を楽しそうに迎えていたのはなぜか」「津波の犠牲者はどのように埋葬され、どのように弔われたのか」「支援団体が建てた復興住宅に空き家が多く見られたのはなぜか」「インドネシアの他の地域の人はアチェの被災をどのように受け止めたのか」「外国にいる私たちはアチェの経験をどのように知ることができるのか」「津波と復興を経てアチェの人々や社会はどのように変わったのか」。

 この9つの問いに答えながら、著者は「おわりに」で「アチェの被災と復興の九年間を振り返り、アチェの被災者に見られた「思いのほか明るい表情」の意味について」考えている。考えたことは、「あとがき」でつぎのようにまとめられた。「アチェでは、人が出会った時の一番のもてなしは話をすることだ。ためになる話をすることは、とりわけよそから来た者にとっては責務といえるほどだ」。「津波以降、日本でも多くの人がアチェに関わりを持つようになった。それぞれの人がそれぞれの持ち場でアチェの人々と交流し、それぞれのアチェの姿と物語が形づくられてきたことと思う。それらの姿や物語が多様になるほど、アチェの物語は豊かになる。本書がアチェに関わる人々が持つそれぞれのアチェの物語を豊かにするための土台の一つになればと願っている」。

 本書では、被災から時系列に9つの問いに向かい合いながら、「物語が豊か」になっていく過程が語られている。そこにはアチェの人びとが、外部世界からモノや知識・情報を得ることによって被災を乗り越え、自分たちの社会をつくっていく姿が描かれている。アチェは、「メッカのベランダ」と呼ばれたように、インド洋の向こうのイスラーム世界からもたらされる知識や情報で、社会を活性化させてきた歴史をもつ。さらに海域東南アジア世界の流動性をうまくいかして、繁栄した時代があった。このような歴史的背景を充分に理解している著者だからこそ、つぎのような結論にいたったことがわかる。「津波を契機に世界に開かれ紛争を終結させ、物理的な復興を遂げたアチェは、何度目かの岐路を迎えている。社会の凝集力を高めることで外部世界との結びつきをより強固なものにする方向に向かうのではなく、遊びや逸脱を許しながら外部世界との多様な関係性を維持してアチェがさらに発展していくことを願っている」。

 アチェの人びとが、「災害を契機に明らかになった社会の課題に取り組み、災害を契機によりよい社会をつくること」めざしたように、著者も「内戦が続き、人々の間で互いに異なる歴史観が並存しているアチェの歴史をどのようにまとめればよいのか迷っている」状況から抜け出し、よりよい1書をつくることをめざした成果が本書だろう。アチェの人びとと「互いの話を交換し共有して」、「物語を豊かにした」成果ともいえる。

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2014年07月15日

『近代東アジア史のなかの琉球併合-中華世界秩序から植民地帝国日本へ』波平恒男(岩波書店)

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 本書の要約は、カバー見返しに、つぎのように要領よくまとめられている。「従来「琉球処分」は日本史の狭い枠内で、近代的な国家形成・民族統一・国民形成などの一環として解釈されてきた。「琉球藩」設置は、琉球人遭難事件を口実になされた一八七四年の台湾出兵を可能にするための準備措置だったとされ、日本の大陸への膨張志向の初期的発現と見なされてきた」。「本書は広範な史料・文献を渉猟し、「琉球藩設置」の歴史的真意を解明し、台湾出兵との因果関係に関する従来の謬説を糺す。併合する側の視点と併合される側の視点を往還する複眼的考察に立ち、琉球および朝鮮の併合という「二つの併合」の類比性と関連性に着目する。東アジアの伝統的中華世界秩序の衰退から植民地帝国日本の擡頭への新旧交替という大きな脈絡から、中国・朝鮮・台湾・日本を見渡す視野のなかに「琉球併合」の史実を据えた画期的研究」。

 本書は、5章と補論からなる。その補論「喜舎場朝賢と『琉球見聞録』」では、本書で「最も重要な準拠史料の一つとなっている喜舎場朝賢(きしやばちようけん)著『琉球見聞録』の成立事情を中心に、その著者である喜舎場の前半生と彼が生きた時代環境について考察」している。補論の重要さから、「序章 問題意識と本書の構成」では、本論の5章に先んじて、つぎのように説明している。「私見によれば、従来の「琉球処分」研究の多くに見られる本質的な問題点は、それが日本史研究の一環をなすにせよ、琉球・沖縄史の一部として研究され論述されるにせよ、もっぱら明治国家の側を主体とし、「処分する側」の論理や行動を中心に歴史を描き、解釈してきた点にある。そのため、史料としては松田の『琉球処分』に収められた、またはそれらと同類の明治政府の側の文書が主たる準拠史料とされてきた。もちろん、歴史学や政治史の研究が、時代を動かし、歴史を推し進めたように見える主動者たちの意思や行動にまず着目していくのは、ある意味では当然のことだとも言える。しかし、それらの主動者たちに引き摺られるように歴史を生きた者たちもまた人間であり、主体であったことに変わりはない。だとすると、「処分する側」の立場や視点から書かれた公文書の類を史料批判的な眼で読み、そのような史料に無批判的に依拠しがちであった従来の日本近代史を適切に相対化するためには、処分・併合を「される側」の思想や行動についても均衡のとれた目配りをすべきであり、それらを内在的に理解していく必要があるだろう。近代日本による琉球併合の研究に要請されているのは、こうした複眼的考察の上に立ったより客観的で、より正確な歴史像を再構築していくことではなかろうか」。

 本論全5章は、序章第二節「本書の構成」で、各章それぞれつぎのように要約された。第一章「近世東アジアのなかの琉球王国」では、「上記のような問題意識と歴史の大きな見通しの下に、琉球併合の歴史的与件を明らかにするため、近世琉球王国の歴史や内的特質とともに、前近代の東アジア国際秩序に目を向け、近世から近代への移行期における琉球と朝鮮との類比性・関連性について論じている」。第二章「琉球藩王冊封とその歴史的意味」では、「「琉球処分」=琉球併合過程の起点をなす一八七二(明治五)年の「琉球藩王冊封」について考察し、その歴史的意味について詳しく論じている」。第三章「征韓論政変と台湾出兵」では、「七二年の藩王冊封と七五(明治八)年の松田道之の琉球出張との間に生起した征韓論政変(明治六年政変)と台湾出兵という二つの出来事について考察する。いずれも七五年以降、「琉球藩処分」が本格化する背景を明らかにすることに目的がある」。第四章「「琉球藩処分」の本格化から強制併合へ」では、「一八七五(明治八)年の対琉球政策の転換と松田道之の最初の琉球出張から七九年の「廃藩置県」=琉球併合までの歴史過程を考察する」。第五章「近代東アジア史のなかの二つの併合」では、「琉球併合から韓国併合に至る時期における東アジアの国際関係に再び視野を広げ、近代東アジア史の脈略のなかで二つの併合とその意味について考察する」。

 そして、つぎのような文章で「序章」を結んでいる。「戦後の研究では、「琉球処分」を「民族統一」という視点から論じるというのが研究者に共有されたパラダイムとなった。しかしながら、今日では沖縄や日本を取り巻く問題状況も大きく変わり、そのパラダイムは崩壊ないし雲散霧消したといってよい。だが、個々の史実解釈では、その時代に確立され、しかも往々にして学問外的動機によって歪められた解釈が、今なお通説として無批判的に流通している場合が多いように思われる。本書の論述は、それらに対する根底的な批判を企図している」。

 「序章」のこれらの提起を受けて、「終章」では各章で考察したことを、つぎのように整理し、不充分な点を補っている。第一章では、「琉球の士の性格やいわゆる士族率の問題などを中心に、近世琉球の特質を指摘するとともに、琉球の中華世界および徳川日本への「両属」の問題や近世東アジア世界における琉球と朝鮮の類比性について考察した。まず、前者について言えば、同じ近世とはいっても日本と琉球とでは相当に異なった政治社会であったことを指摘し、安易な類推が通用しないこと、その点では明治維新と「琉球処分」の関係についても同様であることを論じた」。

 第二章では、「「琉球処分」の起点をなす一八七二年の「琉球藩王の冊封」について」、従来「主に「琉球藩の設置」と記述され、明治政府による琉球の「両属」解消に向けた最初の措置として解釈されてきたが、本書ではそれを「(琉球)藩王冊封」と呼ぶべきことを主張し、従来の歴史記述の見直しを提起した」。そして、「従来、この藩王冊封(≒琉球藩設置)を前年末の台湾での琉球人遭難事件と関連させ、それが台湾出兵のための準備措置だったとの説が唱えられてきたが、そのような解釈は誤りであり、実証的検証には耐え得ないことの積極的論証を初めて体系的に試みたことも、本書の大きな独自性をなしている」。

 第三章では、「日本政府には朝鮮についてもこれを皇国日本に「藩属」させようという考えがあったこと、まさに朝鮮(韓国)を力ずくでも藩属させようという思想こそが当時の「征韓論」の思想だったことを」指摘した。また、「「琉球処分」の諸段階やその起伏にも留意し、七五年以降「琉球藩処分」が本格化した背景を征韓論政変や台湾出兵という事件、およびその過程で生じた明治政府による冊封の論理からの離反(万国公法の原理への転換)という方針転換に関連させて体系的に説明することを試み」、「藩王冊封(≒琉球藩設置)と台湾出兵問題とは切り離して考えなければならない」と結論した。

 第四章では、「日琉交渉の様子を、喜舎場朝賢を援用しながら琉球側の視点からも描き出し、従来の歴史像の相対化とその大幅な訂正を試み」、「従来の多くの研究や歴史書でもいわば日本派と清国派に分裂していたという類いのことが書かれて」きたが、「喜舎場の記録と併せ読めば、それも明治天皇政府の優秀な官僚としての単なる作文にすぎないと言っても過言ではないほどである」ことを明らかにした。「琉球の士分層はおしなべて琉球の社稷(しやしよく)の保存、その国家的存在と自己統治の存続を願う琉球派だったいうのが正確なところで、清国との関係を絶たれては琉球という国家的存在を保つことは不可能であろうと考えたがゆえに、清国を頼りにし、明治政府の命令に最後まで抗ったのである」。

 第五章では、「一八七九年の琉球併合から一九一〇年の「韓国併合」に至る時期の東アジアの国際秩序に視野を広げ、この二つの併合の意味や類比性について考察し」、「併合後の「同化」と「皇民化」の政策や、その反面としての差別と排除など、多くの共通性や類比性」を指摘し、「特に本書で取上げたのが、併合やその事実の正当化説としての「日琉同祖論」と「日鮮同祖論」である」とした。いっぽう、重要な相異点として、「アジア・太平洋戦争での日本帝国の敗戦によって、朝鮮半島は当然ながら独立を果たし、「日鮮同祖論」も一夜にして説得性を失って放棄されることになるが、「日琉同祖論」のほうは戦後にまで生き延びた。というより、むしろ戦後においてこそより熱心に唱えられ、より広く人口に膾炙した」と論じた。

 本書は、従来の日本から見た「琉球処分」ではなく、琉球から見た琉球併合の実態を明らかにした。そして、韓国併合とあわせて考えることで、「東アジアの伝統的中華世界秩序の衰退から植民地帝国日本の擡頭への新旧交替」の過程を鮮やかに描いた。近代日本中心史観から解放され、琉球を中心に据えたことで、中国から見た「琉球廃滅」を考察することも可能になっただろう。そうすると、琉球と同時期に、中華世界秩序から離脱した国や地域のことを考える必要がある。本書には、つぎのような記述がある。「琉球併合の後には日清間の対立・交渉の焦点は朝鮮に移り、八二年に壬午(じんご)軍乱、八四年には甲申(こうしん)政変と事件が続いた。同じく八四年には、インドシナ侵略を本格化させていたフランスと、ベトナムの救援を目的として戦争に踏み切ったが(清仏戦争)、福建海軍は壊滅してすぐに敗れ、八五年天津条約を結んでベトナムに対する宗主権を放棄させられた。同じく八五年末には第三次ビルマ戦争があり、翌年一月には朝貢国のビルマがイギリスの実質的植民地となっている」。

 東南アジア大陸部には、両属どころか、清国のほかベトナム、ビルマ、タイ、カンボジアに二重、三重に朝貢する大小さまざまな国が存在した。朝鮮よりむしろ琉球に近い国ぐにであった。これらの国ぐにをめぐって、清国はフランスやイギリスにどのように対応したのだろうか。それがわかって、東南アジアを含めて「近代東アジアのなかの琉球併合」がより明らかになってくる。中国研究だけでなく、東南アジア研究、西欧の植民地研究からの視点で見ることによって、世界史と結びついた地域史が見えてくる。そのとき、本書の成果が重要な役割を果たすことになる。

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2014年07月08日

『インドネシア 九・三〇事件と民衆の記憶』ジョン・ローサ、アユ・ラティ、ヒルマン・ファリド編、亀山恵理子訳(明石書店)

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 「訳者あとがき」の冒頭で、本書について、つぎのように説明されている。「本書は、インドネシアの民間団体である「市民による調査とアドボカシー研究所」「人道のためのボランティアチーム」「インドネシア社会史協会」の三団体によって二〇〇四年に出版された『インドネシア 九・三〇事件と民衆の記憶』(原題Tahun Yang Tak Pernah Berakhir: Memahami Pengalaman Korban 65〔終わることにない年-六五年被害者の経験を理解する〕のうち、聞き取りの様子を再現した第Ⅲ部「インタビューの記録」を除く全訳である」。

 1965年10月1日未明、「右派陸軍によるスカルノ打倒の動きを未然に防ぐためとして、大統領の近衛部隊が陸軍の首脳ら七人を誘拐、うち六人を殺害した。九・三〇事件と呼ばれる出来事である。その後陸軍は、事件はPKI[インドネシア共産党]が起こしたクーデターであると発表して、鎮圧後にはPKIに対する徹底的な掃討作戦を展開した。当時陸軍戦略予備軍司令官であったスハルト少将は、一九六六年にスカルノから全権委譲を受け、一九六八年には大統領に就任した」。「事件後にジャワ全土、およびバリで行われた虐殺については、実行命令の指揮系統や犠牲になった人びとの状況など、その全容はこれまで明らかになっていない。だがイスラム系青年組織などが動員され、少なくとも二〇万人、多ければ一〇〇万人の人が殺されたといわれている。また一五〇万人が逮捕、投獄され、多くの人びとは裁判もないまま、十数年の長きにわたって収容所での暮らしを余儀なくされた。釈放後も、「元政治囚」としての烙印を押されるなど社会的差別を受け、本書で描かれているようにインドネシア社会のなかでさまざまな市民的権利を奪われた状態で生活を送ってきた」。

 「強権的なスハルトの新秩序体制下では、それらの人びとが自らの経験を語ることは、非常に困難を伴うことであった。九・三〇事件後に成立した体制は、九・三〇事件はPKIによるクーデター未遂事件であったとする公式見解に基づく歴史を、学校教育や記念碑の建設、映画製作などを通じてインドネシア社会に広めた。たとえばスハルト政権時代には、毎年一〇月一日に「九月三〇日運動/PKIの裏切り」という宣伝映画が国営放送で放映されていた。そして「共産党の裏切り」と「国軍の救済者としての役割」が喧伝されてきたのだった」。「そのような状況に変化がみられるのは」、1998年5月にスハルト政権が退陣し、「三〇年以上に及ぶ独裁体制が終わりを告げてからである」。

 この機会を捉えて、編者らは2000年にオーラル・ヒストリーの収集をはじめた。その過程や結果は、「日本語版のための序章」(15-69頁)に詳しい。編者らは、「次のようなシンプルな確信に基づいてこれを始めることにした。すなわち、一九六五年から六六年にかけてインドネシアではなにがしかの人道上深刻な惨事が発生したということ、そしてそのときの出来事とその意味をインドネシア人自身が議論しはじめるべきときがすでに来たということ、である。はじめにテロ行為の被害者に関する調査を行うこととし、殺害された人びとの親類、政治囚として投獄されていた人びととその家族たちに聞き取りを行った。なぜならこうした人びとが最も固く沈黙をまもってきたからである。それまでインドネシアに存在したテロの時代に関するほんのわずかな議論といえば、加害者の側からのものばかりであった。私たちは被害者の側からの証言によって、これまでインドネシア人が語ることのできなかったインドネシア史上の事件について、新しく、より正確で詳細かつ広範囲にわたる検証が始まっていくことを期待していた」。

 「本書を支えるオーラル・ヒストリー調査は、集団的に行われた。二〇〇〇年の冒頭から、「人道のためのボランティアチーム」からの一〇名のグループが会議をもち」、「聞き取りの対象を元政治囚とその家族とすることにした。人生のなかで同じような経過(つまり一九六五年以前、そして逮捕、取り調べ、投獄、解放、その後の人生)を経てきた人びとの個人史を集めて、まとめ上げることをその目的とした」。260人の聞き取り調査を行った成果は、6名のボランティアによって書かれた論文として、本書に収録されている。6人のうち3人は、巻末の略歴から1989年、1996年、1999年に大学を卒業したことがわかる。調査をはじめるまで、九・三〇事件のことには関心もなく、知識もなかったことが、各章の冒頭からよくわかる。

 第一章は、つぎのような文章ではじまる。「私が学校で学んだ歴史では、九・三〇事件は突如として発生した混乱であり、後にスハルト少将が鎮圧に成功した転覆活動であった。九・三〇事件の背後勢力を壊滅する過程は、治安と秩序を回復する措置として描かれていた。そして確かに一九六五年一〇月の後、スハルトは治安秩序回復作戦本部の司令官に任用された。ルバン・ブアヤにある聖なるパンチャシラ塔のレリーフを見れば、スハルトは混乱から民族を救う救世主としての役割を果たしたのだと人は思うだろう。スハルトは九・三〇事件を鎮圧するための支配者として現れたと一般に説明されている」。「何年もの間、私は彼らが伝える歴史の解説に疑問を投げかけたことはなかった。また、一九六五-六六年事件をじっくり考えたこともなかった。私には、すべては古い過去の話であるかのように感じられた。スハルト退陣後になってようやく、それらの出来事は本当は論争に満ちているのだと私は認識するようになった。マスメディアの報告も、政府によってつくられた歴史を問いはじめた」。

 「共産主義者」被害者家族について考えた第二章は、つぎの文章ではじまる。「僕は「インドネシア共産党(PKI)の人たち」というものが、実は普通の人間だったとは思いもしなかった。PKIとみなされた人びとと会って話をする前に知っていたことは、PKIは何か恐ろしいものと同じだということだった。中学生の頃、「PKIの裏切り」という映画を僕はいつも同じクラスの友人と一緒に大勢で見ていた。僕らにとって、その映画はアクション映画のようだった。善玉に対抗する悪玉がいて、将軍らを誘拐して殺害したPKIの人びとが明らかに悪玉だった。でも不思議なことに、僕らはスハルトが英雄だとは思わなかった。ただ、あれほどまでに残忍な虐待を受けて殺された将軍らの家族にとても同情した。僕らのなかでは誰一人としてクーデターの問題、ましてや国家と民族の安寧について話す者はいなかった。要は、「PKIの人びと」は根絶されてしかるべき、つまり彼らは身の毛もよだつような悪事を犯したので生きるに値しない。先生でさえ、言うことを聞かない生徒を叱るときには「PKIめが!」と叫んでいた」。

 第五章「ロームシャと開発-スハルト体制における政治囚の強制労働」は、つぎの文章ではじまる。「インドネシアの学校で使用されている歴史の教科書には、一九四二年から四五年にいたる日本占領期の強制労働が残忍であったことについての記述が見られる。道路や要塞、飛行機の滑走路、港などを建設するために、日本軍によって多くのインドネシア人が強制的に徴用された。日本軍が彼らに与えた呼び名はロームシャ(労務者)であり、賃金を支払われない労働者を意味した」。「多くの人びとはまた、オランダ植民地時代における強制労働についてもさまざまな話を知っている」。だが、「インドネシアにおいて長く続いた悲しむべき強制労働の歴史のなかで、最近の事例は最も知られていない。スハルト体制は何十万人の政治囚、すなわち共産主義者やそのシンパであると非難された人びとを動員した」。「政治囚らの強制労働は、橋や道路、記念塔の建設に限られず、彼らは大工や家事使用人として軍人の家で働いてもいた」。

 「日本語版のための序章」は、つぎのことばで終わっている。「抑圧され周縁化された社会集団からの声がさらに加えられることで、この数年のうちにもインドネシアの歴史叙述がスハルト時代のそれとは大きく変わっていくことを、私たちは強く期待している」。だが、歴史教科書で語られる/語られない状況は変わらず、編者が出版した本が発禁になるなど、本書のインドネシア語版が出版されて10年、日本語訳が出版されて5年、編者らが期待したようには動いていない。1998年以降、たしかに多くのことが変わったが、変わらないものも多くある。このまま、真実は闇のまま事件の体験者は姿を消していくのだろうか。

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2014年07月01日

『東南アジア大陸部 山地民の歴史と文化』クリスチャン・ダニエルス編(言叢社)

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 本書は、2009年に発行された「ジェームズ・スコットの山地民の歴史に対する専著The Art of Not Being Governed: An Anarchist History of Upland Southeast Asia」への異議申し立ての書である。「東南アジア大陸部山地社会と国家との関わりを詳論したスコットは、山地民の社会と文化、生業さえもが国家による支配を回避して、その治下に入ることを予防する目的で編み出されたと主張」した。それにたいして、編者ダニエルスら本書執筆者は、史料の利用に「方法上の課題が多く、仮説の域を脱していないと言わざるを得ない」とし、この仮説を覆す具体例をあげて検証している。

 本書で議論されている歴史は、近代歴史学で正当に扱われてこなかった。そのことを編者は、「序章」冒頭でつぎのように説明している。「これまで東南アジア大陸部の歴史は、国民国家を中心に書かれてきた傾向が強い。古代から現代まで、ビルマ人、シャム人やキン人(ベト人とも呼ばれる)などの多数を占める民族が、どのように現在のミャンマー連邦[2010年からミャンマー連邦共和国]、タイ王国やベトナム社会主義共和国などを作り上げたのか、その道筋を明確にすることが主たる目的である。しかし、前近代において、さまざまな民族集団が歴史の舞台で活躍しており、国民国家の前身は現在ほど面積が広くなく、数多くの大小王朝などの政治体が興亡を繰り返してきたのにもかかわらず、東南アジア史の概説書は彼らの歴史的役割について、多くを語らず、軽視する向きさえある。タイ王国ではその傾向が特に強い」。

 続けてその理由を、つぎのように説明している。「程度に違いこそあれ、山地民は盆地平野に政治中心を設置する前近代の小政権に隷属していた。大王朝の周辺に存続した小政権が現代の国民国家の形成との関与が無視されてきた向きがあると同様に、山地民が前近代の小政権や国民国家の形成にとって役割を果たしていないとみる傾向が強い。これまで、このような分析枠組みの中にあって、山地民が東南アジアで果たした歴史的役割が学問探究の対象になりにくかった。また、山地民の多くが自己の文字を持たず、いわば無文字社会であるが故に、自らの政治・社会的経験を伝える史料がほとんどなく、さらに彼の居住地へのアクセスも不便などの負の条件が加わり、研究の行く手を阻んできたことも事実である」。加えて、文字は、「読み書きする目的ではなく、所有することによって儀礼・秘儀的な意味がある」場合もある。

 中国西南から東南アジア大陸部にかけての山地民の多くは、「前近代においては隣接する盆地国家権力への(少なくとも名目的な)服属を行っていた」。「これらの盆地国家の支配者たちは、自らは王として君臨する一方、清朝からは土司、ビルマ王朝からはソーブワ(土侯)に任じられ、それぞれの間接統治網の末端を構成してもいた」。その「国際関係や民族間関係は、一八世紀より流動化し始める」。「まずはシャン系盆地国家の国力失墜により、次いで西欧植民地主義の到来に触発された辺境山地の近代国家への囲い込みにより瓦解していく。それが山地にもたらしたものは、山地諸民族の自立的空間の消滅(あるいはその大幅な周縁化)であった」。

 その失われた国家を、「宗教的運動によって回復しようという傾向が顕著」になった。だが、ムミとかジョモとか呼ばれる国家や王に相当するものは、近代の国家観や王権観で理解できるものではなかった。「ムミというのは一定の地理的まとまりを無差別に称する語であり、主権の有無を問わない。ムミは主権国家から村落にいたるあらゆるレベルで入れ子状に存在する」。「ジョモという語は王、国家元首、行政首長、主君、支配者、神に対して用いられるかなり幅の広い概念であり、そこでは主権の有無が問われず、また政治単位と宗教団体との違いも区別されていないということである。この広大な領域がひっくるめてジョモと呼ばれているということは、地方村落の長や宗教団体のリーダー、あるいは私的盟約集団の頭目さらには架空の救済者などに対しても、王に対する同じ呼称が用いられるということを意味する」。つまり、かれらの描く疑似国家は、「国民国家とは別次元で成立する「想像上の超国家的共同体」」ととらえることができる。

 さて、冒頭のスコット批判については、編者が自身の章「雲南西南部タイ人政権における山地民の役割-一七九二年~一八三六年、ムン・コーンにおける国内紛争から読み取れる史像」で論証している。編者は、「年代記」に描写される山地民をつぎのように理解した。「タイ人政権の運営は山地民との交渉に大きく依拠している点が明らかである。また、この事例はタイ人政権の多くは実際に多民族政権であり、さらに政治・社会の安定性は国主が盆地住民だけではなく、山地民をも首尾よく統治することによって確保されるものであることを窺わせている」。そして、つぎのように結論した。「スコットが提唱する、山地民が抑圧された低地民の避難場所であった仮説を傍証する史実が得られない。長期にわたる山地を巻き込んだ紛争のなかで重要な概念としてみえてくるのが共生関係である。盆地政権の内紛の分析から低地の政治・社会の安定性が山地住民との協力によって成り立っていた側面が浮き彫りになった。また、山地民は低地の政治闘争に深く関与していたことが明らかである」。紛争を記録し、日常的な共生を記録しないために、紛争を強調する文献史学の欠陥が、ここにもある。

 本書で扱う山地民は、同じ民族名であっても居住する土地の高低差で生活様式が変わり、しばしば移動してその土地に同化してもとの生活様式を失うこともある。東南アジア大陸部の地理的環境と、それを包み込むような中国、ビルマ、シャム、ベトナムといった帝国の影響が、多様で可変的な山地民の歴史と文化をつくってきた。近代になって商品化と土地利用への圧力に直面し、「政治・経済の激変が山地と盆地の間の紛争を激化させた」。このような社会にあって、事例研究から一般化させることは困難である。ましてや、歴史概説書のなかに組み込むことは不可能に近い。それなら、これまでの近代国民国家中心の歴史観でいいのか。いいわけがない。国民国家の役割が相対的に低下している現在、山地民の存在をないがしろにすることは、紛争の原因になる。まずは、本書のように具体的な事例を積み重ねていくことだろう。そして、つぎに「国境なき山地民」の特性をいかして、「地域」の歴史と文化を描くことだろう。それを実現するためにも、共同研究の継続による成果を期待したい。

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