« 2014年05月 | メイン | 2014年07月 »

2014年06月24日

『海外戦没者の戦後史-遺骨帰還と慰霊』浜井和史(吉川弘文館)

海外戦没者の戦後史-遺骨帰還と慰霊 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 アジア・太平洋戦争に負けた日本の海外戦没者の遺骨収集と現地での慰霊の問題は、当然、日本が戦場とした国・地域との関係の下にある。だが、戦場となった国・地域が欧米豪の植民支配下にあったり、委任統治領にあったりしたため、現地社会を無視したなかでおこなわれることになった。

 本書冒頭で取り上げられた小説『ビルマの竪琴』にかんしては、僧侶が竪琴で奏でることは破壊行為であること、日本とは違う上座仏教では墓葬・墓参に執着しないことなど、ビルマ文化にたいする著者の無知と無理解が、ビルマ研究者によって指摘されている。終戦直後に評価された想像の物語は、もはや現代では通用しない。

 本書では、さらに1956年にビルマ方面で遺骨収集をおこなった団長美山要蔵が、昭和天皇に拝謁し「美談」報告をおこなったことを、つぎのように紹介している。「美山は「収集団」の活動を簡潔に述べたうえで、ビルマの大衆が終戦後においてもなお旧日本軍に対して「綱紀厳正であり、勇敢であり、正直で、勤勉であり、且つよく子供を可愛がった」との印象を抱いていたと奏答した。これに対して昭和天皇は「誠に大変御苦労であった」と声をかけ、美山は「恐れながら陛下にはいたく御感動になった」ように拝察したとの感想を記している」。

 こうした見方は、外務省の事務官でさえ違和感を感じ、「如何にも旧軍人の我田引水的所見」であると厳しい言葉で断じた。それにたいし、著者は、「「陸軍葬儀委員」を自認し、戦没者の靖国神社への合祀や千鳥ヶ淵戦没者墓苑の創設に尽力した美山には、どうしても「美談」を国内に伝える必要があった」と述べ、つぎの美山の文章を引用している。「ビルマ人の派遣団に対する友好的協力を認め、日本軍隊に対する親近感を見聞するに及び、ビルマ人の対日本軍隊観を明らかにしてこれを御遺族等に伝達することは、短時間の追悼行事を行なう以上の功徳がある」。こうして、終戦直後の『ビルマの竪琴』から引き継がれて、「事実と離れていたり、一方的な見方に過ぎない」ビルマの対日感情が伝えられた。

 いっぽう、引き取り手のない戦没者の遺骨を納める施設として、1952年に発足した「全日本無名戦没者合葬墓建設会」は、つぎのようなものをめざしていた。「「宗教的色彩を払拭し、諸外国に見らるる例にならって、外国使臣等も必ず参拝するようなもの」であり、米国のアーリントン墓地やフランスの凱旋門にある「無名戦士の墓」に匹敵するような「大霊園」であった。ただし、「建設会」としては「この事業は、元来、国の当然の責任として国が主体となって、実施されてしかるべきもの」であるとも考えていた」。この考えは、第一次世界大戦後の国民を戦争に駆り立てるような施設ではなく、あらゆる戦争を否定する第二次世界大戦後の世界的な「大霊園」の考えと一致していた。だが、このような国際的な議論を踏まえて世界各国で建設された施設は、日本には建設されなかった。このことが、今日のいわゆる「靖国問題」に通ずることになる。

 本書は、「アジア太平洋戦争の海外戦没者約二四〇万人のうち、日本に戻った遺骨は約半数しかない」事実を直視し、「「空の遺骨箱」が届き戸惑う遺族に政府はどう向き合い、遺骨収容や現地慰霊を行ってきたのか」、「終戦から一九六五年頃までの約二〇年間にわたり、戦後日本が海外戦没者にどのように向き合ってきたのかについてその歴史的経緯を浮き彫りにすることで、「終わらぬ戦後」の原点を見つめ直すことを課題」としている。

 その歴史的経緯は、つぎのようにまとめられた。「アジア太平洋戦争における二四〇万人にのぼる海外戦没者の処理は、占領期中にGHQのイニシアチブにより日本政府の検討が開始されたものの、さしたる進展はなく、それが国民的関心を集めて本格化したのは一九五一年の講和を迎えてからのことであった。硫黄島と沖縄への遺骨調査団の派遣を経て、米国との交渉の過程で固まった一九五〇年代における海外戦没者処理の体系は、「遺骨収集団」の派遣、「象徴遺骨」の収容、「戦没日本人之碑」の建立に特徴づけられるものであった。そしてこの体系は、一九五九年三月の千鳥ヶ淵戦没者墓苑の設立によって一応の完結をみることとなった」。

 そして、つぎのように「終わらぬ戦後」を述べて、著者は本書を締めくくっている。「海外戦没者の遺骨収集をめぐる問題は、日本にとって「終わらぬ戦後」の象徴ともいえる。しかし、だからといって「戦後」がいつまでも終わらないと嘆く必要はない。現実から目を逸らし、終わらせることを強いられるよりは、終わらないことの意味を問い続けること、それが許されている時代の方がずっと幸福なのだということを、われわれは銘記すべきであろう」。

 本書を通して、いかに日本は戦後も自己中心的な考えで、海外での遺骨収集・慰霊をし、戦後処理に失敗したかがわかった。だが、その原因は、戦場とした国・地域の知識のなさ・無理解にあり、また徴兵制で戦争をおこなった近代国家の共通の戦没者にたいする問題を国際的感覚で考えなかったことにある。日本の海外戦没者の戦後史の問題を、国内問題と考えている限り、日本の「終わらぬ戦後」を終わらせる提言はできない。

→紀伊國屋ウェブストアで購入

2014年06月17日

『少数民族教育と学校選択-ベトナム-「民族」資源化のポリティクス』伊藤未帆(京都大学学術出版会)

少数民族教育と学校選択-ベトナム-「民族」資源化のポリティクス →紀伊國屋ウェブストアで購入

 タイトルをみて、まず本書を読みこなすためには「資源化」の意味を理解しなければならないと思った。つぎに副題の「ベトナム」の後の半角ハイフンが怪しく、気になった。そして、巻頭の4頁にわたるカラー写真の各頁のタイトル「教育に織り込まれた「伝統」と近代」「国民国家建設と近代化:より良いベトナム「国民」となること」「自己実現のための大学進学」「民族寄宿学校の寄宿生活」とともに、学生たちの笑顔と真剣な表情の意味がわかれば、著者、伊藤未帆と同じ目線で本書を読むことができると思った。

 本書の目的は、「はじめに」でつぎのように語られている。「公的な枠組みとして制度化された「民族」をめぐる、さまざまな主体性のあり方について、ベトナムの「民族寄宿学校」という学校制度を事例に考えてみることである」。そのために、著者は、「北部ベトナム地域を中心としたフィールドワークで得られたデータとその実証分析によって、「民族寄宿学校」をめぐるさまざまな主体の動きに着目しながら、「民族」を枠組みとした国民国家建設のプロセスを跡付けるとともに、なぜ社会主義国家ベトナムが、冷戦終結以降、大きく変容しつつある世界的、国内的な環境の中で、今日もなおその姿を大きく変容させることなく54の公定民族を擁する多民族国家としてのまとまりを維持し続けているのかという問いを、資格としての「民族」、資源としての「民族」という視座から解き明かそう」としている。

 「資源化」ということばについて、著者はその二重性について、つぎのように整理している。「そもそも資源の形成とは、欲求と能力という人間側の契機と、さまざまな「もの」からなる環境側の契機の機能的な相関であるとされてきた」。「すなわち、それ自体では単なる「もの」や「ヒト」に過ぎないものが、何らかの目的において、新しい価値や意味を付与されるという契機を経由することによって「資源」になるのである。そこで、「もの」や「ヒト」が資源になるという動的な契機を資源化という言葉で表してみると、そこには「資源にする」主体と、「資源にされる」客体とが同時に存在していることに気がつく。また同時に、その「資源」がそもそも誰のものであり、さらには、誰に対して、誰をめがけて行われた資源化なのか、という資源化の志向対象の問題も登場する」。

 ベトナムでは、「地方政府が「少数民族」を資源化し、それによって得られる資源を確保しようとする動きがみられる。とくに1990年代半ば以降、地方分権化が積極的に推進されるようになったことによって、資源をめぐる地方政府の存在感はさまざまな場面ではっきりと観察されるようになっている」。そこで、著者は、本書で、「国家、人々、そして地方政府という三つの主体に着目したうえで、「民族」を単位として分配される教育機会の資源化と、分配をめぐるダイナミズムを明らかにしていきたい」という。そして、もうひとつの主体として、「資源としての「民族」を利用しようとする「部外者」の存在」を取り上げる。

 終章「「民族」資源をめぐるポリティクス」では、この4つのそれぞれの主体からみた「民族」の資源化を、「①誰が、②誰の「民族」を、③誰のために、④誰にめがけて資源化するのかという四重の問いによって整理する」。

 「自前の国民国家建設を担ったベトナムの国家エリートたちにとって、「民族」とは「ベトナム国民」を構成する不可分の要素で」、「①国家が、②(植民地支配から独立した時点で偶然にも)領域内に居住していた多様な出自からなる人々を、③国民の構成要素となる「民族」として、④国民国家創設のために動員したのである。そしてこの過程では、「民族」集団に対する教育機会の提供が、「民族」の資源化の目的として想定されていた」。

 これにたいして、「ベトナム全国各地に建設されていった「民族青年学校」とは、①国家による「民族」を軸とした国民化政策の限界に直面した各地の地方エリートたちが、②公教育制度の外側に、私的な教育制度を作り上げることによって、③「民族」を単位としないオルタナティブな教育機会の提供を行う試みであった」。

 「民族寄宿学校という学校制度の存在を通じて、少数民族自身が、自らの社会経済的地位達成をもたらす手段として「民族」という属性を再認識し、それを少数民族優遇政策の恩恵を得るためのツールとして積極的に、あるいは戦略的に利用しようとしている」。「①少数民族たちは、②自らの持つ「民族」資源を、③自分たちがよりよい教育機会を獲得するための資源として、④地方政府そして国家をめがけて資源化した」。

 ところが、「そもそも資源としての「民族」という要素を持たなかった」「部外者」の「キン族の中から、少数民族に対する優遇措置の恩恵を、自らのよりよい教育機会の獲得に利用しようとする人々が現れた」。「①キン族が、②本来であれば自分たちのものではないはずの「民族」を、③自分たち自身のために、④地方政府や国家をめがけて疑似資源化した」のである。

 そして、「悲劇」は起こった。「キン族による民族籍の変更という現象とは、少数民族優遇政策という稀少な資源をめぐる競争の空間に、キン族といういわば「部外者」が参入したことを意味していた」。その結果、「2012年7月に行われた大学統一入学試験より、それまで少数民族に対して一斉に行われていた優遇加点措置が廃止され、居住地域に基づく加点措置のみになったのである。もはや「民族」という境界が、大学進学という教育機会の獲得をめぐって何の資源的価値をもたらさないという新たな状況が生み出された」。

 著者は、本書をつぎのことばで締めくくっている。「本書で論じてきた、「民族」の資源化という動的な契機をめぐる多様な主体のせめぎあいは、「民族」という境界を設けることで国家としてのまとまりを形成、維持してきた国民国家モデルが一つの終焉を迎えつつあるなかで直面した必然の帰結であり、ベトナムをはじめとする、世界中の多「民族」国家に与えられた、大きな試練なのである」。

 「社会主義建設から市場経済へ」と移行するなかで、「失敗すれば即刻亀裂に直結する教育の公平性を多民族国家ベトナムはどう追求したか」は、巻頭のカラー写真のなかの笑顔と真剣な表情とともに理解できた。国家と地方政府とのあいだの緊張関係、ときに国境を越えて自己主張する民族、多数派民族さえも国家によって創設された「民族」を利用する、そんな中央集権的な近代国家ともイデオロギーに支配された社会主義国家とも違う東南アジアの一国としてのベトナムの姿が、「教育」を通して見えてきた。だが、副題の半角ハイフンの意味は依然としてわからないままである。

→紀伊國屋ウェブストアで購入

2014年06月03日

『【図説】地中海文明史の考古学-エジプト・物質文化研究の試み』長谷川奏(彩流社)

【図説】地中海文明史の考古学-エジプト・物質文化研究の試み →紀伊國屋ウェブストアで購入

 本書は、「文明と文明の関わりに焦点を当て、ひいては古代と現代社会とのつながりをどう理解したらよいのかを考え、知の系譜を捉えるための試みの書」である。現在の中東イスラーム世界をみていると、西欧的な価値観とは異なる個性的な側面が目立つ。だが、中東の文明堆積層と西欧社会とのあいだには、歴史的・文化的に密接な関係がある。その関係を解明するために、著者、長谷川奏は「中東と現代の西欧社会を結んだ分析軸で堆積層を切ってみて、断面に現れる文明層の絵模様を観察する」。「中東と西欧を結んだ断面のラインは、地中海を通る」。「本書ではその地中海をざっくりと切ってみた絵模様を、物質文化研究の観点から考察する。いわば地中海・文明史探訪の考古学である」。

 「西欧文明は、長い歴史の中で、さまざまな文明と関わってきた。したがって、たとえば大西洋をわたってつながるアメリカ大陸や、広大なユーラシア大陸を通じてつながるロシア、あるいはアフリカとも深い関わりを有してきたので、西欧文明は多角的な角度から分析が可能である」。そのようななかで、著者が中東の古代文明との関わりに注目したのは、物質文化研究という視点からと「地中海」の存在であった。

 地中海の重要性について、著者はつぎのように説明している。「地中海とは、3千万年ほど前に、アフリカ大陸とユーラシア大陸がぶつかってできたものであり、その意味では、両大陸を「隔てる」海として始まったのが成り立ちであった。しかし一方で、地中海はジブラルタル海峡では大西洋と繋がり、小アジアとユーラシア大陸の境では、ダーダネルス~ボスフォラスという狭い海峡を通ると黒海に至り、遥か先には広大なロシアの地が広がっている。そして、地中海と紅海・インド洋は一見すると陸地で遮られているように見えるが、19世紀後半にはスエズ運河ができて、アフリカ大陸を通らないでもヨーロッパとインド洋を結ぶ航路が開かれた。このように、地中海はまたアフリカとユーラシアの大地、大西洋とインド洋を「結ぶ」海としての性格を持っており、本書ではこの後者の見方を大事にして捉えてみたい」。

 この地中海世界で、物質文化の展開のひとつの大きな鍵となる地域が、エジプトである。著者が、エジプトを事例とした理由は、つぎのように説明されている。「エジプトは、同じく初期文明の類型の一つであり、民族による文化の移相が激しく移り変わったメソポタミヤ文明と比較しても、二~三千年という極めて長い間、ファラオ的な文化の均質性が古代の時間軸の多くを占めた稀な地域であった。さらに、その均質性はイスラーム時代にも受け継がれ、現代社会にまで残された。エジプトの著名な地理学者であるガマール・ヒムダーンは、エジプトの特質として、ナイルを中心とした独特の地理環境がもたらす同質性に着目している。この同質性には、自然の同質性だけではなく、灌漑環境の同質性や農作物の同質性があり、豊かな河川がもつ吸引性と砂漠による周囲からの隔絶が、「進入はあれど流出はない」メカニズムを作り出してきたとする。そして、灌漑が組織化される社会において、集権的な組織化が促進され、土地と労働を支配する政府の権力が社会の内部にまで浸透する社会を形成してきたとする論である。しかし、前身伝統が極めて強く残されるエジプト社会も、あるきっかけを境に、その内部から変質していき、あるときどっさりと前身伝統が切り倒されていく姿は、エジプトの文明史の中でも最もダイナミックな一瞬でもある。特に考古学で扱う変化の少ない生活文化では、変貌の画期は驚きでもある。本書は、この変動の姿を捉える手がかりを、<知>の構造に求め、物質文化研究の観点から探ったのであった。今後も、エジプト文明を、継続される「同質」と引き起こされる「異質」の双方の視点から、この問題を掘り下げていきたいと思っている」。

 本書は、「イスラーム文明が初期文明やギリシア・ローマ文明という前身の文明の知を受け継いだ姿を描いたところまでで論を止め」ている。「豊富な写真・地図・図版とともに文明継承の生き生きとしたダイナミズム」が伝わってくる。だが、残念なことに、すべてモノクロである。紙媒体の本とともに、カラーの写真や図版、さらには立体的に見えるようなものがデジタル媒体を通して見えるようになると、さらに理解が深まるだろう。

 そして、著者は「あとがき」をつぎのようなことばで締めくくっている。「偉大な知をはぐくんできたエジプト人に、現代社会の難問が解決できないはずはない、という思い入れが毎日心をよぎってしまう。今はいち早く安定的な社会のしくみができ上がることを願ってやまない」。「偉大な文明」を長年直に見てきただけに、著者の思い入れに期待してしまう。

→紀伊國屋ウェブストアで購入