« 2014年04月 | メイン | 2014年06月 »

2014年05月27日

『サイバー・イスラーム-越境する公共圏』保坂修司(山川出版社)

サイバー・イスラーム-越境する公共圏 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 イスラームには、ウンマという共同体がある。それは、世界中のイスラーム教徒を包み込むボーダーレスでグローバルなものである。かつて、そしていまもマッカへの巡礼が、ヒトもモノも、もちろん思想も、イスラーム教徒を結びつけている。だが、こんにちは、インターネットを使って容易に越境し、人びとを結びつける。

 著者、保坂修司は、本書の目的をつぎのように述べている。「中東で生まれたイスラームという宗教と、欧米を起源とするインターネットなどの情報通信技術の関係について考えてみたい。イスラームという教えが、インターネットをどのように変質させていったか、そしてインターネットがイスラーム社会やイスラーム教徒(ムスリム)をどのように変質させていったか、その化学反応の過程をみていく」。

 そして、「その議論のなかで柱となる二つの概念をまず説明」している。「一つは「サイバー・イスラーム」という概念である。これは仮想空間(サイバースペース)上のイスラーム共同体全般を指す。すでにこの概念については欧米でも研究がおこなわれはじめており、デジタル・イスラーム、eイスラーム、あるいはiムスリムなどさまざま異なる名前でよばれている。この共同体は仮想的なものであるが、現実を濃密に反映したものであると同時に、現実社会にも影響を与えるようになっている」。  「もう一つは「公共圏」という概念である。「公共圏」とは本書ではごくざっくりと「不特定多数の人々が自由に集い、議論できる空間」という意味で用いている。重要なのは、この空間での議論が限定された場をこえて、しばしば政治や社会にまで影響をおよぼすことである」。本書の議論の焦点は、「サイバー・イスラーム上の公共圏がいかに現実の政治とからみ合い、それを変えていったかという点となる」。

 本章は、4章からなる。それぞれのタイトルは、つぎの通りである:第1章「インターネット黎明期のイスラーム世界」、第2章「多様化するサイバー・イスラーム」、第3章「仮想空間から現実社会へ」、第4章「インターネットで変わるイスラーム世界」。最後の第4章のつぎの5つの見出しから、結論がわかってくるような気がした:「伝統的メディアの役割」「手のひらのなかからの革命」「世界を変えた平手打ち」「情報通信技術がイスラーム的伝統・価値観を変容させる」「サイバー・イスラームをコントロールするアメリカのサイト」。

 本書で語られていることは、イスラーム社会だけでなく現代のインターネット社会共通のものと、イスラーム独特のものとにわけられる。著者は、「おわりに」でつぎのように述べている。「イスラーム諸国の多くは検閲によって、反イスラーム的な情報がイスラームの仮想空間に流入・浸透することを防いでいる。このなかには、ポルノやテロのように、多くの宗教で反道徳的・反社会的とみなされているものもあるが、イスラーム世界にはそれだけでなく、イスラーム以外の宗教に関する情報まで排除しようとする国もある。そこでは、多神教であるヒンドゥー教や仏教、神道などだけでなく、イスラームと同じ一神教のキリスト教やユダヤ教に関する情報までもがブロックされる」。

 問題は、インターネットによる情報の自由/規制が、治安の安定や経済発展に結びついていないことである。「アラブの春による革命で独裁体制が崩壊した国々では依然として不安定な状態が続いている。人々は革命後すぐにでも、自由や民主主義-たとえそれが世俗的なものであれ、イスラーム的なものであれ-が自分たちの国でも構築されるのではと期待したが、その可能性も今やあやしいものになりつつある」。

 「現在では、ツイッターなどのわずか一〇〇語足らずのつぶやきで、宗教間や宗派間の対立を煽ることだって可能なのである」。著者は、「これを自由の代償とみなすのか、それとも駆除の対象とするのかは、われわれ自由社会に住む者に突きつけられている深刻な問いかけでもある」と述べ、われわれにも問題を投げかけている。そして、最後はつぎのようなことばで本書を締め括っている。「宗教的、あるいは政治的な制約はあるものの、彼らはサイバースペース上に新しくできつつある公共圏をエンジョイしているようにもみえる」。それが、社会の安定と物心ともの豊かさに結びついていけばいいのだが・・・。外から見ているものには、まだよく見えない。

→紀伊國屋ウェブストアで購入

2014年05月20日

『現代日本人の中国像-日中国交正常化から天安門事件・天皇訪中まで』馬場公彦(新曜社)

現代日本人の中国像-日中国交正常化から天安門事件・天皇訪中まで →紀伊國屋ウェブストアで購入

 本書は、前著『戦後日本人の中国像-日本敗戦から文化大革命・日中復交まで』(新曜社、2010年)の続編である。前著を踏襲したものなどの共通点や扱った時代の違いからくる相異点などは、まず「本書を読まれる方へ」で、つぎのように著者、馬場公彦は述べている。「前著が一九四五年の敗戦から日中復交がなされた一九七二年までの二七年間を扱ったのに対し、本書は翌一九七三年より天皇訪中の九二年末までの二〇年を扱う。より現在に近い時期を扱うので、タイトルを「戦後日本人」から「現代日本人」に改めた。取り上げる素材、分析方法、叙述の仕方などは前著をおおむね踏襲している」。

 だが、本書から明らかになった「中国像」は、前著とはかなり違ったものになった。「この差異は、何よりも前著の二七年間が日中断交時期であった(いっぽう台湾の中華民国政府とは国交があった)のに対して、本書は国交がなされた(いっぽう台湾の中華民国政府とは断交した)後の時期であるという違いによるものである。人・物資・情報が直接往来可能な二国間関係と、それが不可能であるか極めて制限されている二国間関係とでは、交流のあり方が根本的に異なり、他者認識のありようも大きく異なってくる」。

 本書と前著のさらなる違いは、「戦後日本人の台湾に対する認識、モンゴルに対する認識についても専論した」ことで、著者には「日本人の中国像を、比較のなかで相対化させることで際立たせてみたいという意図」があった。また、つぎのような意図もあった。「草創期の日中関係には、今からは想像を絶するような蜜月時代があり、大平正芳・中曾根康弘、かたや鄧小平・胡耀邦と、良好な両国関係の樹立に尽力したトップリーダーがいた。その間に継起した出来事を日本人はどう認識し、歴史に刻んできたのか。新しい日中関係の嚆矢となる創世の歴史を、記録としてとどめておきたいという意図が、本書にはある」。

 さらに、著者は「序章 日本人の中国像の変遷-戦前、戦後、そして現代へ」で、前著で得た成果、本書で明らかになったことから、本書で扱ったつぎの時代を展望して、日本人の中国像を「市民外交」「国民世論」という視点から読み解き、また中国自身がどう変わったのかを理解したうえで、「本書のねらいと時期区分」を書いている。「本書のねらいは、前著の問題意識を引き継ぎ、一九七二年の中国国交正常化以降の日中関係を、日本で発行された総合雑誌に公表された中国関連記事の動向に着目することで「市民外交」の視点から明らかにすることにある。時期としては前著がカバーした七二年末を継いで、七三年から、八九年の天安門事件を経て、天皇訪中があった九二年末までの丸二〇年間を扱う。資料は前著同様、日本の総合雑誌に掲載された全一一誌、総計一六〇四篇の論文を分析の素材とする」。この20年間を時期区分とした理由として、つぎの3つをあげている。「第一に、日中二国関係においても、世界のなかの日中関係においても、この二〇年が一つの画期性を帯びた時期だからである」。「第二に、九〇年代以降、日中関係は不可逆的とも言いうる変化を見せるからである」。「第三に、日本人の中国像の析出する前著および本書での作業方法は、九〇年代以降、その有効性がますます限定的になっていくからである」。

 本書は、前著のアプローチを踏襲しているが、日中国交正常化はふたつの大きな構造的変化をもたらし、日中の相互認識のありようを探求するうえでふたつの注意が必要になった。ひとつは、容易に想像がつく「相互交流の拡大と深化にともなう認識のありようの構造的変化で」、「本書では、中国の日本認識については資料的制約もあって充分には考察されておらず、断片的な叙述にとどまっている」。もうひとつは、「日中国交は日台断交であり、中国像にもう一つの認識対象が加わったことである。日台断交は政府間の公式外交関係の遮断を意味したが、民間外交・非公式外交はむしろ大いに活発化した。そのことで、それまでは戦後日本人の視野にはなかなか入ってこなかった台湾および台湾人の存在感が高まり、「二つの中国」が現実味を帯び、あるいは中国認識のオルタナティブ経路あるいはサブ経路としての台湾認識経路が新たに加わっていった」。

 「終章 日本人の対中国認識経路を通して見た中国人像」では、前著および本章でえた日本人の中国像をまとめ、1990年代以降現在までのものを概観した後、「対中認識経路をめぐる一〇のアスペクト」を通して、その変遷を概術している。10のアスペクトとは、交流ルート、中国論の担い手、中国情報、輿論と世論、メディア、学知、世代、論題と知見、イメージ、パラダイムである。

 そして、終章最後の節「四 多彩な論者による豊かな中国像のために」では、「中国観察家による社会科学的アプローチ」と「人文知を取り戻す」にわけて論じている。まず、現代中国研究者は、「現代中国語を使いこなし、豊富なデータを比較的容易に入手しうるアドバンテージをもち、専門知識を駆使して現状分析を行なう技能を備え」ているが、「足場は地域研究にあり、地域研究は諸学理を総合的に動員するものではあるものの、諸学理は社会科学系統の学知に偏り、文学・歴史・哲学といった人文科学系統の学知は総じて手薄である」と指摘している。そのうえで、つぎのように終章を結んでいる。「新たなパラダイムの構築に向けて、社会科学系の学知だけでなく、文化的資産を尊重し、人文精神を認識の拠り所とする人文系の学知もまた取り込んでいく努力が求めされている。国交回復以降は、人文科学系は中国古典学として前近代を研究対象とし、社会科学系は現代中国論として現代を研究対象とするというような学術界の慣行によって、両者が学界内部で棲み分けられてきた。今や両者を融合する総合的・学際的学知が求められているのである」。

 本書は、だめ押しをするかのように、前著同様に「総解説 中国という巨大な客体を見すえて」で5人(若林正丈、西村成雄、濱下武志、船橋洋一、毛利和子)の長時間インタビューを採録している。

 2012年に日本で学ぶ中国人留学生は8万6324人、それにたいして中国で学ぶ日本人留学生は2万1126人にすぎない。この差が気にかかる。また、日本人留学生は、中国で何を学んでいるのだろうか。戦前にも、日本に来て学ぶ中国人留学生がいた。それにたいして、漢文読解などで圧倒的に劣る日本人は、敬意をもって中国学を学んだ。戦後は、共産主義を理想化する知識人を中心に、共産主義国家を建設した「清新な「新中国」」に憧れをもった日本人がいた。互いに尊重しあい、学ぶことがあった。そして、その「新中国」は論壇誌で紹介され、ノンポリの若者も読んで一定の知識をもっていた。前著で扱った時期と本書で扱った時期では、論壇誌の読者層にも変化があっただろう。ひと言でいうと、数も減り質も低下しただろう。本書で扱った時期以降では、もはや論壇誌を考察の対象とすることはできないかもしれない。こう考えると、今後の日中関係は悲観的になってくる。

 だが、本書には、日中関係を改善する多くのヒントが隠されている。まず、国交回復以降、「市民外交」といっても国家と国家との関係を中心に考えすぎてきたことがある。台湾の中華民国政府との断交後、むしろ交流が深まったように、市民同士の交流を主役にすれば、国家間の問題は後景に退くはずである。インターネットを使った若者の交流もさかんで、そこには二国間交流だけでなく、多国間のなかの日中交流がある。領土と国民の生命や財産を守るという近代国民国家の「使命」を尊重しながら、いかに地球市民として国家とつきあうかが鍵になる。けっして、国家を焚きつけて関係を悪化させる世論つくりをする偏狭な国民であってはならない。

 本書で扱ったつぎの時期を考察することで、ホップ、ステップ、ジャンプと、つぎへ飛躍できる気がするが、そのジャンプにあたる1992年以降を考察することがきわめて難しいことは、5人のインタビューからもよくわかる。

→紀伊國屋ウェブストアで購入

2014年05月13日

『ASEAN経済共同体と日本-巨大統合市場の誕生』石川幸一・清水一史・助川成也編著(文眞堂)

ASEAN経済共同体と日本-巨大統合市場の誕生 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 本書を読み終えて思ったのは、改めてASEAN(東南アジア諸国連合)の存在を評価したのと、ほんとうに共同体ができるのだろうかという懐疑の両方だった。たしかに高い目標を掲げ「遅遅として進む」ASEANをみていると、なんでも実現するのではないかと思ってしまう。いっぽうで、汚職を撲滅できるのか、人材の育成が追いつくのか、等々という懸念がつぎつぎに浮かんでくる。

 ASEANは、「2015年末にASEAN経済共同体(AEC)を創設する。構造変化を続ける世界経済の下で、ASEANは経済統合を進めている。従来東アジアで唯一の地域協力機構であり、1967年の設立以来、政治協力や経済協力など各種の協力を推進してきた。加盟国も設立当初の5カ国から、1999年には10カ国へと拡大した。1976年からは域内経済協力を進め、1992年からはASEAN自由貿易地域(AFTA)の実現を目指し、2010年1月1日には先行加盟6カ国により関税が撤廃された。そして現在の目標が、2年後のAECの創設である」。

 「ASEANが10カ国によってAECを確立すると、中国やインドにも対抗する規模の経済圏になる可能性がある。更に、ASEANを核として東アジア大の地域経済協力とFTAが構築されてきている」。  本書は、3部全13章からなる。部のタイトルはなく、第Ⅰ部は第1~2章、第Ⅱ部は第3~8章、第Ⅲ部は第9~13章で、それぞれの章で基本的な疑問にこたえてくれる。それぞれの章のタイトルは、つぎのとおりである。第1章「世界経済とASEAN経済統合-ASEAN経済共同体の実現とその意義」、第2章「ASEAN経済共同体はできるのか」、第3章「物品貿易の自由化・円滑化に向けたASEANの取り組み」、第4章「サービス貿易および投資、人の移動の自由化に向けた取り組み」、第5章「ASEAN連結性の強化と交通・運輸分野の改善-ASEAN経済共同体に向けた取り組みの柱として-」、第6章「ASEAN経済共同体とエネルギー協力-持続的成長を可能にするために-」、第7章「ASEAN経済共同体における金融サービス・資本市場の連携・統合」、第8章「ASEAN知的財産権協力の展開と現況」、第9章「格差是正」、第10章「東アジアFTAとASEAN」、第11章「2015年以後のASEAN経済統合の更なる深化に向けて」、第12章「日系企業とASEAN経済共同体」、第13章「ASEAN経済共同体と日本ASEAN協力-日本ASEAN友好協力40周年にあたって」。

 本書は、2009年に同編著者で刊行された『ASEAN経済共同体-東アジア経済統合の核となりうるか-』(ジェトロ)の続編である。本書のような本は、数年単位の改訂ではもはや追いつかない。常時書き換えと補遺が必要になる。このような状況に追いつくことができるテクノクラートが、ASEANだけでなく世界各国に充分存在するのだろうか。ASEAN経済共同体のメリットのひとつは、弱小国にとってそのような人材がいなくても、ほかのASEAN諸国と足並みをそろえることで、大国に対抗できることである。本書には、それぞれの国の面積や人口など、基本的情報の一覧や地図がない。あると、経済力にも大きな差があることがわかる。その差にもかかわらず経済共同体が実現しようとしているのは、内政不干渉と「遅遅として進む」という基本原則があるからである。ASEAN諸国は、中国、日本、インドといった大国に挟まれ、自律して存続する道として共同体を選んだ。中国も日本も、もはやASEANを対等なパートナーと考えざるをえなくなり、1国ずつの切り崩しは通用しにくくなるだろう。尖閣諸島をめぐる領有権や歴史認識問題などで争っている場合ではない。中国、日本、ASEANに加えて、インド、オーストラリア・ニュージーランドの5つの国・地域が、それぞれ東アジア共同体の核となるのかもしれない。そのとき、韓国はどうなるのか。北朝鮮と統合し、第6の核となるのか。前著に戻って、東アジア経済統合を視野に入れて、日本の立ち位置を考えるためにも、本書は実に有効な本だ。

→紀伊國屋ウェブストアで購入

2014年05月06日

『補給戦と合衆国』布施将夫(松籟社)

補給戦と合衆国 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 本書の目的は、「南北戦争から第一次大戦までのアメリカが近代国家としてどう統合・形成されてきたかについて、鉄道と軍事の相互関係というあまり脚光を浴びない側面から検討し、この期間のアメリカ史を可能な限り具体的に示すこと」にある。

 本書は、序論、5章、結論と補論からなる。第一章「南北戦争時の鉄道軍事利用と国家統合-戦争前期(一八六一-一八六三年)のヴァージニア戦線における北部を対象に-」では、「南北戦争中の北軍に新設されたUSMRR(略)という鉄道運営機関が、当時主戦場であった東部のヴァージニア戦線で鉄道をどう利用、管理したかを検討した」。そして、つぎのような結論を得た。「南北戦争期の鉄道軍事利用という局面では、従来のイメージと異なり、合衆国における国家の形成や統合が組織・運営の両面できわだって進捗したことはなかったと考えられる」。第二章「アメリカ大陸横断鉄道の建設構想-一九世紀中葉から立法化までの議会動向を中心に-」では、「一八六二年に初めて建設が立法化され、一八六九年に鉄道二社が連結して開通した大陸横断鉄道の建設構想を検討した」。第三章「USMRR(合衆国軍事鉄道局)のハーマン・ハウプトとゲティズバーグの戦い」では、「第一章で登場したUSMRRのハウプトに注目し、同局の責任者としての彼の動向を検証し」、「合衆国における国家の形成や統合が組織・運営面でさほど進まなかった、という第一章の結論を補足し、強調することとなった」。第四章「陸軍省参謀部の創設と鉄道-軍制改革期のレトリックと実態-」では、「南北戦争が終了してから第一次大戦が始まるまでの鉄道と軍の相互関係を概観しつつ、この期間のなかで特に革新的であったとされる軍制改革に焦点をあてて検討し」、「軍による鉄道利用の組織化は、当時の政府が進めていたトラスト規制ほど平時の社会にとって不可欠だったとは言いがたいが」、「合衆国の国家統合は、軍政改革による組織上の外見ほどには進まなかった」とした。最後の第五章「第一次大戦期アメリカの産業動員-鉄道庁創設の意義をめぐって-」では、「第一次大戦期における鉄道産業の動員を検討し」、「第一次大戦当時の合衆国は鉄道行政の点から見る限り、組織・運営の両面でかなり高い国家形成・統合を達成していたと考えられる」とした。

 本書の帯では、つぎのように書かれている。「「戦争」「補給」「鉄道」から読み解くアメリカ史」。「こんにちのアメリカ社会が形成される上で決定的な役割を果たしたのは「戦争」そして「鉄道」である。この二点ともに深くかかわる「補給線」に本書は焦点を当てる。南北戦争から第一次大戦までの時期を中心に、アメリカ陸軍の補給の実態を検証し、それがアメリカをどう変えてきたかを分析する」。「戦争」はこんにちまで続いているが、「鉄道」はこんにちのアメリカでは、すくなくとも「決定的な役割を果たし」ていない。あくまでも本書は、「国家形成・統合」期のアメリカと理解していいだろう。著者も、そのあたりを充分理解しており、つぎのように述べて「結論 国家形成過程の皮肉」を結んでいる。「今後、アメリカ現代史を通時的に検討する機会があれば」、「第二次大戦期以降のアメリカにおける産業と軍、および国家の関係をめぐる実証的な考察から始めてみたい。ただし当時の鉄道産業は、基幹産業の一つである輸送・流通業のなかで、かなり斜陽化していたと思われる。それゆえ今後は、その鉄道産業に取って代わる勢いを示して、軍産複合体の中核になったと最近見なされている航空機産業や自動車産業といった他産業にも目を配る必要があるだろう」。そうすることによって、本書のタイトルである「補給戦」の意味が、より具体的に、とくに総合戦のなかで理解できるようになるだろう。

 「鉄道」は斜陽化した。もうひとつの「戦争」も斜陽化してきている。「戦争」をしないアメリカは歓迎すべきことだが、「戦争」をすることで「国家形成・統合」を成し遂げたアメリカが、「国家形成・統合」を維持するために「戦争」をするなら、その「補給」を絶たなければならない。

→紀伊國屋ウェブストアで購入