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2014年04月19日

『現代の起点 第一次世界大戦』山室信一・岡田暁生・小関隆・藤原辰史編(岩波書店)

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 2014年は、第一次世界大戦開戦100年目にあたる。ヨーロッパを中心に、それにちなんだ企画が、つぎつぎにおこなわれはじめている。日本でも、いくつもの出版が出はじめている。本シリーズ全4巻は、7年間に100を超える研究会の成果を凝縮したものであり、「日本初の本格的論集」にふさわしい内容になっている。各執筆者は、個々の専門領域を背景にしているとはいえ、研究会で議論されてきたことを踏まえて、それぞれの役割を果たしている。

 2007年にはじまった京都大学人文科学研究所における共同研究班「第一次世界大戦の総合的研究」では、「第一次世界大戦のもった歴史的な意義とその現在性を二一世紀の日本という時空間から探って」いった。編者を代表して、山室信一は巻頭の<シリーズ総説>で、つぎのように説明している。「しかしながら、それは議論を「日本とアジアにおける第一次世界大戦」という問題に限定するということを意味するものではない。ましてや、ユーロセントリズム史観を日本中心主義史観やアジア中心史観に置き換えようとするものではない。私たちが志向しているのは、第一次世界大戦を日本とアジア、ヨーロッパ、アメリカそしてイスラーム世界やアフリカといった空間範域間の相互交渉過程のなかで捉えたいということなのである」。

 さらに、「欧米の学界においても第一次世界大戦をヨーロッパ戦争とだけ捉える見方に対して異論が唱えられ、グローバルな、あるいはトランスナショナルな戦争としての側面に着目する必要があるとして、世界的な研究交流体制を組織する動きに拍車がかかってきている」状況を踏まえて、「第一次世界大戦前後の世界を共通の分析対象としながら、それぞれのテーマに即して仮説と結論を結ぶ論証のプロセスを示すことが、本論集の課題」であるとしている。その前に、つぎのような説明がある。「こうした国際的な研究交流が進むなかで、私たちは第一次世界大戦を経験した日本において、戦争と平和に対するスタンスという問題だけではなく、政治や経済をはじめとして文学・芸術・学知さらには生活世界などのありようが総体としてどのような衝撃をうけ、それが現在に至るまでいかに持続しているのか、を明らかにすることを期してきた。総力戦という様相を時間の経過とともに強めていった第一次世界大戦は、それが総力戦化という、まさにその途上のプロセスにおいて人間のあらゆる活動に影響をあたえざるをえなかったからである。だがしかし、あらゆる問題を第一次世界大戦の衝撃に還元して捉えることは、また違った新たな偏見を生むことになる。第一次世界大戦以前に既に生じ、それが第一次世界大戦を経ることによって加速されただけの変化もあったかもしれないし、あるいは大戦の時期に単なる並行現象として起きたにすぎない変化があったかもしれないからである。そうした因果関係や影響関係を見きわめるために、私たちは「世界性」とともに、「総体性」と「持続性(現代性)」という基軸をもって、それぞれの研究対象に迫ることを自らに課してきた。もちろん、「世界性」「総体性」「持続性(現代性)」という三つの基軸をもって対象に向き合うということは、すべてをそれに当てはめるという意味ではない。第一次世界大戦には、未だ世界性がない、総体性に欠ける、現代性は大戦以前に始まっていた、といった結論に導かれる対象や分野もあるかもしれない。その意味で三つの基軸は、リトマス試験紙ないしは分光器といった機能をもつ印照基準(フレーム・オブ・レファランス)として設定されるのであって、結論そのものを拘束するものでは決してない」。

 「編集にあたって」では、つぎのように別の表現で、本論集の目的が述べられている。「第一次世界大戦はヨーロッパ内戦でもなければ、第二次世界大戦への前哨戦でもない。それは人類史上最初の世界を巻き込んだ戦争であり、社会のすべてを動員せんとした戦争であり、人の精神のありようを根底から変えてしまった戦争でもあった。そして二一世紀に至って、私たちは様々な位相において、第一次世界大戦が残した負の遺産に呪縛され続けている。このシリーズは、現代世界の幕開けを告げる出来事としての第一次世界大戦を、「世界性」「総体性」「感性」「持続性」という四つの視点から、勃発より百後の今日、改めて問い直そうとするものである」。

 そして、「群集心理のなかで、戦争は避け難い宿命と観念され、「ものすごい数の無意味な死」が積み重ねられていった」にもかかわらず、「現代」も戦争は絶えることはない。なぜかを問いながら、つぎのように述べて<シリーズ総説>を締め括っている。「第一次世界大戦において「戦争宣伝」が利用され、繰り返し幻滅を味わったにもかかわらず、人々はそれを信じ続けるように仕向けられた。それは「個人の一人一人においてであれ、民族においてであれ、強烈な感情は無限に引き延ばされるものではない」ことを知悉している軍隊によって、人工的な煽動が持続的な「投薬(ドーピング)」として施し続けられたからである。そして、数カ月で終わるはずの戦争が長期化するにつれ、前線の兵士も銃後の国民も人工的な煽動と刺激を受け入れ、それを娯楽の糧に転ずることによって苦難から逃避しようとしたからでもあった」。「もちろん、四年三カ月に及んだ第一次世界大戦において、人々は何百回も「戦争宣伝」に幻滅したはずである。しかし、そうであったからこそ、第一次世界大戦の教訓を得て「戦争宣伝」は総力戦を遂行するために、絶対不可欠なものとして洗練されていった。それは宣伝戦・思想戦として第二次世界大戦へと人々を誘っただけでなく、現在ではさらに巧妙に練り上げられ、安全保障と自由の名の下で戦争の絶えない世界を奇異とも思わない心性を育み続けている。そうした「現代の起点」となった第一次世界大戦の諸相を、全四巻の本論集で明らかにしていきたい」。

 第一次世界大戦を欧米の学界がグローバル/トランスナショナルにとらえようとしていることは、歓迎すべきことだが、実際の研究/教育の現場でナショナル/リージョナルな歴史観から脱することは、それほどたやすいことではない。主戦場とならなかった日本などのほうが、グローバル/トランスナショナルに考察することがたやすいかもしれない。100年が経って、欧米と日本などとの研究の交流を通して、いま第一次世界大戦研究は、「世界大戦」としての研究がはじまったといえるだろう。

 第二次世界大戦が日本の敗戦をもって終了してから、70年が経とうとしている。その間、日本人は「巧妙に練り上げられた戦争宣伝」に惑わされることなく、平和を維持してきた。いまわたしたちは、国家安全保障会議(日本版NSC)設置法や特定秘密保護法の成立、国家安全保障戦略と防衛大綱の閣議決定の問題などに直面し、第一次世界大戦から学ぶことによって、改めて「巧妙に練り上げられた戦争宣伝」に惑わされない知恵と術を身につけなければならない状況になっている。なんともむなしい。


【読者のみなさんにご挨拶】

 丸9年間続いたこの「書評空間」も、システムの老朽化などで、4月20日をもって更新作業が停止されることになりました。この9年間、いろいろと支えてくださった読者のみなさんに感謝申しあげます。

 「書評空間」に参加することを勧められて、お引き受けしたのは、昨今まったく本を読まない文学部の学生の存在があったからです。文学部の学生が社会に出て戦力になるのは「読み書き」ができることで、最低、週に1冊を読むのは当たり前だ、と学生に常々言っていたからです。もう何年も言っても無駄だとむなしさを感じていたときだったので、自ら実践して示そうと思いました。最初の1年間、毎週更新をしたのは、そのためです。しかし、それまでの蓄積がある1年目はなんとかなりましたが、2年目には息切れがし隔週にしました。4年目になって、ようやく力が抜け、書けるときに書けばいいと思うようになりましたが、9年間、2週間以上空けることはまったくありませんでした。片道2時間の通勤時間を利用して、読書を重ねました。

 学生に「週1冊」のほかに言っていたのは、いまの時代に必要なのはスペシャリストであってジェネラリストでなければならない、ということです。文学部の歴史学教室に所属していた関係で、読書習慣が身についている学生のなかに、自分の専門分野の本しか読まない者がいることを知っていたからです。したがって、それも実践して示そうと思いました。なかには、最後まで読んでも理解できない本がありましたが、投げ出さずに最後まで読んだことで多少理解できたものもありました。もうひとつ、学生に伝えたかったことは、学ぶ姿勢です。本から学んだことを主体に書くようにし、批判はおさえることにしました。はじめは、著者目線で理解した後、本の内容を自分のことばで要約し、コメントを書くようにしました。草稿を書いてから2~3週間かけて改稿しアップしていましたが、だんだん引用文だらけで、書いてすぐにアップするという状況になってしまいました。引用文は1字1句照合して、原文通りにするよう努めていたのですが、それも2008年秋に右眼が硝子体剥離し、満足に校正ができなくなりました。充分なものを読者にお届けできない後ろめたさがありましたが、若い人たちが初めて書いた本を送ってくれると、紹介せずにはおられませんでした。励ますつもりだったのですが、逆にわたしが励まされていたようです。

 お蔭さまで、初対面の人になんども「書評ブログ読んでます」と言われ、自宅の前で撮った琵琶湖と比叡山を背景にした写真から、すぐにわたしに気づいてくれました。1年前に、職場が「都の西北」に変わり、自宅も池袋の繁華街の一郭に移って、通勤時間を利用した読書もできなくなりました。学生も大学院生だけ、7~8割が留学生で、国際関係学や地域研究を専攻、と激変しました。それでも、毎週または隔週にアップし、引きつづき生活の一部になっていました。更新停止にともない、今後どうするかについては、まだはっきりしません。もはや書評とよべないものですが、本の紹介は続けていきたいと考えています。書くことを前提に読むことと、ただの読みっぱなしだけとでは、理解力がまったく違うということを学んだからです。この体験から、学生に伝えたいことがもうひとつ増えました。「本を読んだら、ひと言でもいいから、なにか書く習慣を身につけてください。そうすれば、読み方がまったく違ってきます!」。

 長いあいだ、どうもありがとうございました。また、いつかどこかでコミュニケーションできることを願っています。

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